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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

[戦争の責任は名もない一般の人たちにもある]

2009-01-11 06:58:17 | こどもたち 学校 教育
「戦争の責任」にかかわるアンネの考えに対してこれを読んでくださった皆さんからの意見は残念ながら届いていません。
 「川越だより」を覗いてくださる方は一日に百数十人はおられます。短い感想でも結構です。よせてくだされば張り合いがあります。
 
 かつてぼくの生徒だった人たちの意見を紹介します。受講者にはプリントして配布し意見交換の資料としたものの一部です。

 Aくん 
 北朝鮮や昔の日本のように国民に全く政治・外交に関して何も出来ない状況の国、時代もあるので、一般の人たちにも責任があるというのはどうかと思います。たとえばヒトラーのように社会情勢を利用し、国民の関心をユダヤ人迫害・世界大戦へ向けていったのだって、仕方がないと思います。個人個人で固い意識を持ち、他人や世間に流されない、というのは発達した脳を持つ人間にとって大変に難しいことだと思うからです。
 自分の意見としては 全人類が心を入れ替えるのではなく、すべての人が戦争に対しての知識を持ち、過去の反省を学び、国家を戦争をしないようなつくりにしていき、絶対、国民の手により政治をしていけば、戦争がなくなるような気がします。

 Bさん
 70%は共感出来ました。でも納得できないこともあります。
 戦争の責任はもちろん私たち一般人にもあると思うし、自分たちでも政治家が下す結果をただ待つだけではなく何か行動を起こすべきだと思う。でも、政治家と私たちとの責任の重さは違うと思う。上の人たちにはそれなりの責任と、国の代表という立場での正しい結論を出す「義務」がある。
 人間にはもともと破壊本能や殺戮本能があるということにも反論はしません。私にはすべての人間にあてはまる本質なんてものは難しくてわからないので。しかし、人間には死への恐怖というものがたいていの人にあるだろうし、自分が死ぬかもという考え以上に殺戮本能などというものは強いものだとは思いません。ただ一つ、私が思うのは、戦争はこどもを除く全てのひとびとと世界の政治家の責任で、戦争に正しいものはないということです。


 Cさん
 私も、戦争の責任が政治家たちだけにあるとは思わない。しかし、アンネは一般の人たちがどのようにかかわっていると考えたのか。
 戦争を正当化するような政治家を選んでしまったこと?
 戦争を事前に止めるような動きがたりなかったこと?
 戦争が始まってしまったら助長するような人のこと?

どれも考えられる。確かに、武器をつくっているのは一般の人たちだし、戦場で実際戦う兵士も元は一般の人であった。これらの人たちが一斉に動きを止めれば戦争はおわるのだろうか。やはり、アンネの言うとおり、世界中の人たちが戦争の無意味さを理解し、気づかなければ戦争を地球上から消すことなど出来ないのだろうか。


 Dさん
 確かに全ての人に責任があるのだろうと思います。ですが、誰もが戦争をしたくて仕方がなかったわけではありません。でも、心の中で反対と思っていたり、安全な場所で戦争反対と叫んでいるだけでは何にもならないのです。しかし、目に見えた行動をすれば命が危険になります。そんなとき、いったいどうすればいいのでしょうか?
 安全な立場に逃げ込み、騒動が収まるのをまてばいいのか、それとも、戦争に反対し、政府に反対し、殺されればいいのか?
 私はある本で、「誇りは命より重い」という文を読んだことがあります。これは犬死にしろ、ということではありません。全ての人が命よりも誇りを尊重するようになれば、戦争は無くなるかも知れません。戦争に反対する人の方が、賛成する人よりも多いはずなのに、戦争がなくならないのはどうしてか。それは全てに人に保身の心があるからではないかと思います。戦争に賛成していなくとも、命に危険が及ぶとなると、強い側に廻ってしまうという人間の行動にこそ、原因があるのではないでしょうか。(略)
 しかし、自分の意見を言えば殺されるとわかっていて、それでも誇りを守るというのは並大抵の勇気でできるものではありません。たとえば、私には、そんなこと出来るだろうか?自分から痛い目に向かっていくようなことが?せめて闘っているのは自分だけではないという救いがほしくなります。
 しかし、誇りをなくしていく痛みのほうが、命をなくす痛みよりも大きいのかも知れません。実際に痛んだりはしませんが、心の中の明かりが一つずつ消えていくような、そんな悲しいものかもしれないと私は思います。(略)


 Eさん
 私もアンネが語るように、破壊本能とまでは言いませんが、相手を支配したい、うち負かしたい、誰よりも優位に立ちたいという気持ちを人間は誰でも少なからず、持っていると思います。同時に、誰かに頼って生きたい、状況に流されていたいという気持ちも、人間にはあると思います。どちらも人間として当たり前なような気がします。でも、だから仕方がないじゃないかと思うことは次の戦争を生むことになると思います。
 自分の弱さに目を向けて生きることは、もしかしたら、、自分を守ることと、人を守ることにつながるのではないでしょうか。
 

アンネの言葉(3)「なぜ絶望することがあるでしょうか?」

2009-01-10 06:19:14 | 政治・社会
 「アンネの日記」の続きです。今回はここまでとします。例によってぼくが書き写しますので、どうぞ、声に出して読んでみてください。


 1944年5月3日(水)
 (続き)

 これまで私はちょくちょく意気消沈することもありましたけど、決して絶望はしませんでした。この隠れ家生活を危険な冒険ではあっても、同時にロマンティックな、おもしろいものとさえみなしてきました。この日記の中でも、すべての不自由をユーモア混じりに描いてきたつもりです。今こそ私は、ほかの少女たちとは異なった生涯を送ってみせると心に決めました。ほかの少女とは異なる生き方をし、さらに大人になったなら、普通の主婦たちとは異なる生き方をしてみせる、と。スタートはこれまでのところ、じゅうぶん波瀾に満ちていましたし、どんなに危険なときにもそのなかに滑稽な一面をみつけ、それを笑わずにはいられないというのも、もっぱらそれだからなのです。

 私は若く、いまはまだ埋もれている多くの資質を備えています。若く、強く、そしていままさにおおいなる冒険を生きています。いまはまだその冒険のただなかにいるからには、一人で楽しむ以外に何もすることがないからといって、一日中愚痴ばかりこぼしているわけにはゆきません。
 私は多くのものを与えられています。明るい性質と、あふれるばかりの明朗さ、強さを持っています。日ごとに私は自分が精神的に成長してゆくのを感じます。解放が近づいているのを、自然がいかに美しいかを、周囲のひとたちがどんなに善良な人たちであるかを、この冒険がいかにおもしろく、興味の尽きないものであるかを感じています。だったら、なぜ絶望することがあるでしょうか?

 じゃあまた、アンネ・M・フランクより


 きらきらする豊かな個性の発露、自分の人生の主人公になろうとする強い意志……ぼくはこうゆう少女が好きです。実際のアンネは外面に現れるアンネと「ほんとうのアンネ」の分裂に悩みます。悩む少女の姿は愛おしく他人事ではないような気がします。

  1944年8月1日 (火曜日)の日記が最後です。こう結ばれています。
 
 (略)
 そしてなおも模索し続けるのです、わたしがこれほどまでにかくありたいと願っている、そういう人間にはどうしたらなれるかを。きっとそうなれるはずなんです、もしも……この世に生きているのが私一人であったならば。
                じゃあまた、アンネ・M・フランクより

 

 ぼくは悔しくてなりません。可能性に満ちた魅力的な少女の人生の営みをナチは永遠に奪ったのです。
 今も世界のあちこちで「自分でありたい」と願い、悪戦苦闘する青春があります。その悪戦苦闘こそが人類の希望です。私たちはどんなことがあってもアンネと同じ運命を彼らに辿らせてはなりません。


 今朝もこんなニュースがあります。イスラエル軍のやることは「ユダヤ人絶滅」を計ったナチとどこが違うのでしょうか。昨日の国会では社民党の阿部知子さんがこの問題を提起していました。何とか国を挙げての取り組みに出来ないでしょうか。

 

 <イスラエル軍>住民を住宅に集め砲撃…30人死亡 ガザ
                 1月9日21時2分配信 毎日新聞


【エルサレム高橋宗男】国連人道問題調整事務所(OCHA)は9日、パレスチナ自治区ガザ地区のガザ市近郊のザイトゥン地区で、イスラエル軍によって誘導される形でパレスチナ人市民約110人が集まっていた1軒の住宅に、同軍が複数回砲撃を加え、子供を含む約30人が死亡したと発表した。負傷者が運び込まれた同市のシーファ病院は死者数を32人としている。

【関連】種子島より少し小さい土地に約150万人が住むパレスチナ自治区のガザ

 OCHAは住宅内にいた半数は子供だったとし砲撃を非難、同病院の救急医療部長も「虐殺だ」と非難している。イスラエル軍は毎日新聞の取材に対し「情報を持っておらず、調査する」とコメントしている。

 OCHAによると、イスラエル軍は地上侵攻を開始した3日夜から7日にかけてザイトゥン地区全域で集中的な砲撃を行っていた。その間、救急隊の同地区入りを妨げた。

 砲撃から生き残った主婦、オーラさん(29)が、ガザ市在住の毎日新聞助手に語った話によると、数十人の武装イスラエル兵が4日朝、ザイトゥン地区の一角に固まって住む市民100人以上を、銃を突きつけて1軒の建設中の平屋建て住宅に集め、「動くな。何もするんじゃない」と言い残し、立ち去った。

 ところが5日朝、戦車が住宅を砲撃、1発は住宅を直撃し、もう1発は敷地内に着弾した。オーラさんの子供6人のうち2人は死亡。オーラさんと夫は、負傷した他の子供たちを抱きかかえ外へ避難したという。

 オーラさんは「半分屋根のないような狭い住宅で、私たちは羊のように押し込められていた」と語った。

 OCHAによると、一部の生存者は主要道路まで2キロ歩き、通りかかった車で病院に運ばれた。5カ月の乳児を含む子供3人が病院到着直後に死亡したという。

 赤十字国際委員会は7日、3時間の攻撃停止時間中に初めて同地区に入り、砲撃された住宅を含む3軒の住宅で15体の遺体を発見、負傷者18人を含む生存者計30人を救出した。しかし、同地区内では大掛かりな軍事作戦が行われ、依然として相当数の死傷者が取り残されたままとみられる。



 

 

アンネの言葉(2)絶望的な自問自答

2009-01-09 04:44:48 | 政治・社会
 7日(水)午後カツヨシさんが様子を見に来てくれました。夕方まで3人で新年会。
 秋田県に住む卒業生から「パソコンもケイタイもやらないからメールアドレスは有りません。従来通りの年賀状でいいですか」という電話。いいんです。ほんの2・3年前までぼくにもメールアドレスなどなかったのです。ケイタイは今もありません。
 今年はメールでの賀状への移行の試行と言うことでアドレスのわかる方には電子メールで賀状を送りました。郵便はがきの年賀状をいただいて、アドレスがわからない(またはない)方々(150人ぐらい)には1月3日に遅巻きながら郵便はがきの賀状を出しました。 
 実情に即して改善していきたいと思います。はがきに書いたようにアドレスがある方は教えてくれると有りがたいということです。宜しくお願いします。

 8日(木)新年になって初めて市街地を散歩。帰って衆議院の予算委員会の質疑を聞きました。法律を作らないで給付金とやらを強行しようとする自公政権を糾弾する仙石由人さんの健在ぶりに大いに励まされました。かつて癌との闘いを公表された方で、ぼくも一度会って貰ったことがあります。


 さて
「アンネの言葉」の続きです。
 前回と同様にぼくが授業で紹介してきた部分を書き写してみます。宜しかったら声に出して読んでみてください。アンネはまだ14歳です。


  1944年5月3日 水曜日

(略)

 <隠れ家>の私たちはしばしば絶望的にこう自問自答します。
「いったい、そう、いったい全体、戦争がなにになるのだろう。なぜ人間はお互い仲良く暮らせないのだろう。なんのためにこれだけの破壊がつづけられるのだろう。」

 こういう疑問を持つことは至極当然のことですけど、これまでのところ、だれもこれにたいする納得のゆく答えを見出していません。そもそもなぜ人間は、ますます大きな飛行機、ますます大型の爆弾を一方では作り出しながら、一方では復興のためのプレハブ住宅をつくったりするのでしょう?
 いったいどうして、毎日何百万という戦費を費やしながら、その一方では、医療施設とか芸術家とか、貧しい人たちとかのために使うお金がぜんぜんない、などということが起こりうるのでしょう?
 世界のどこかでは、食べ物が有り余って、腐らせているところさえあるというのに、どうして一方には、飢え死にしなくちゃならない人たちがいるのでしょう?
 いったいどうして人間は、こんなにも愚かなのでしょう?

 私は思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家だけにあるのではありません。そうなんです。責任は名もない一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら、世界中のひとびとはとうに立ち上がって、革命を起こしていたでしょうから。
 もともと人間には破壊本能が、殺戮の本能があります。殺したい、暴力を振るいたいという本能があります。ですから、全人類が一人の例外もなく心を入れ替えるまでは、決して戦争の絶えることはなく、それまでに築かれ、培われ、育まれてきたものは、ことごとくうち倒され、傷つけられ、破壊されて、すべては一から新規まき直しに始めなくちゃならないでしょう。


 アンネの自問自答は今も私たちに問いかけるものがあります。
 アンネはこう書いています。


 私は思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家だけにあるのではありません。そうなんです。責任は名もない一般の人たちにもあるのです。

 そして「全人類が一人の例外もなく心を入れ替えるまでは、決して戦争の絶えることはな」いとまでいっています。

 これを読まれた皆さんはどうおもわれますか?是非、御意見を聞かせてください。

 

 ぼくはおおむねアンネの考えに賛成です。ですから私たちの一人残らず全員が「戦争」や「差別 に向き合い「心を入れ替える」努力や闘いをしなければならないと考え、それを授業や日常活動の中心にすえてきたのです。

 第二次大戦による破壊と殺戮が極限にまで達したにもかかわらず、世界は再び三度、戦争の惨禍に見舞われています。パレスチナ・アフガン・イラク……。アンネの問いかけは無視され、人類は愚行のはてに滅んでいくのでしょうか。
 
 ぼくが今、もし、14・5歳だったら生きていく希望と勇気をもつことができるだろうか? そんなことを考えさせる年の初めです。

アンネの言葉(1)理想と希望

2009-01-07 07:20:15 | 政治・社会
「In spite of everything,

I still believe that people are really good at heart」

 いまでも信じています、
  たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。



1960年の1月、高校の卒業間近に高知の映画館で見た『アンネの日記』のラストに映し出されるアンネの言葉です。ミリー・パーキンス(アンネ役の女優)の声が被(かぶ)さります。

 ぼくはこの映画で受けた衝撃と感銘を忘れたことはありません。ですから、教室で映画を見ることが容易に出来るようになってからはぼくの生徒のすべてがこの映画を見ているはずです。もう30年にはなるでしょう。

 この言葉は1944年7月15日(土曜日)の日記の終わりの部分にでてきます。これからぼくが書き写しますので、宜しかったら皆さんも声を出して読んでみてください。15歳のアンネの言葉が聞こえてきます。


 私たちのなかに芽生えた理想も、夢も、大事に育んできた希望も、恐るべき現実に直面すると、あえなくうち砕かれてしまうのです。じっさい自分でも不思議なのは、私が未だに理想のすべてを捨て去っていないという事実です。
だってどれもあまりに現実離れしていて、とうてい実現しない理想ですから。にもかかわらず、私はそれをもちつづけています。なぜならいまでも信じているからです……
  たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。

 私には、混乱と、惨禍(さんか)と、死という土台の上に、希望を築くことはできません。この世界が徐々に荒廃した原野と化していくのを、私はまのあたりに見ています。つねに雷鳴が近づいてくるのを、私たちを滅ぼし去るだろういかづちの接近を耳にしています。いく百万のひとびとの苦しみをも感じることが出来ます。でも、それでいてなお、顔を上げて天を仰ぎ見るとき、わたしは思うのです……

 いつかはすべてが正常に復し、いまのこういう非道な出来事にも終止符が打たれて、平和な、静かな世界が戻ってくるだろう、と。

 それまでは何とか理想を持ち続けなければなりません。だってひょっとすると、ほんとにそれらを実現できる日がやってくるかもしれないんのですから。

 じゃあまた、アンネ・M・フランクより
     
    (『アンネの日記』深町真理子訳 文春文庫 P567)

 
 今朝のニュースです。

  イスラエル軍がガザ・難民キャンプの学校攻撃、死者42人
                 
                 1月7日1時6分配信 読売新聞


 【エルサレム=久保健一】パレスチナ自治区ガザからの情報によると、ガザ北部ジャバリヤ難民キャンプにある国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)運営の学校が6日午後(日本時間同日夜)、イスラエル軍の戦車部隊による砲撃を受け、少なくとも42人が死亡した。攻撃が、空爆だったとする報道もある。

 学校は、先月27日のイスラエル軍の空爆開始以来、住民の避難場所になっており、女性や子どもなど民間人数百人が避難していたという。建物のがれきの下には、まだ多くの人が埋まっており、犠牲者がさらに増える恐れがある。

 6日午前にも、最大都市ガザ市と南部ハンユニスのUNRWA運営の学校2校が空爆を受け、AFP通信によると両校でパレスチナ人計5人が死亡した。

 地上作戦を続けるイスラエル軍は6日、5日夜の最大都市ガザ市への侵攻に続き、ハンユニスにも地上部隊が進軍。ガザ全域で、イスラム原理主義組織ハマスとの市街戦に突入する形となった。同通信によると、先月27日の空爆開始以来の死者は635人に達し、負傷者は2900人を超えた。


 パレスチナのこの学校には「アンネ・フランク」はいないというのでしょうか。

 「この世界が徐々に荒廃した原野と化していくのを、私はまのあたりに見ています。つねに雷鳴が近づいてくるのを、私たちを滅ぼし去るだろういかづちの接近を耳にしています。」

 ぼくには何人ものアンネの姿が見えます。それでもなお理想と希望を持ち続けている子どもたちが。

 未曾有の経済危機で大変ではあります。しかし、イスラエルの政府と軍がやっている無差別虐殺を止めさせるために我が政府と国民は力を合わせて立ち上がらなければならないとおもいます。生きる意欲と希望が世界中の子どもたちから消え去ってしまうからです。

 「イスラエルとパレスチナに停戦を求める日本国民集会」を開きましょう。呼びかけは国会に議席のある政党の党首にお願いします。場所は皇居前広場。集会決議を両院議長と首相がイスラエルとパレスチナに赴いて届けます。
 


いただいた年賀メールから

2009-01-06 12:14:09 | 友人たち
 今年は年賀はがきから年賀メールへと移行する試行をさせて貰いました。昔のぼくだったら考えもつかないことです。失礼かなとも思ったのですがどうだったでしょうか。返信などの形で皆さんからいただいたメールの一部を紹介します。ご本人の了解は得ていませんのでぼくが一部編集(カットなど)しました。ごめんなさい。

 闘病、転職などお互い厳しい年明けですが「気持ちで負けないように」(Dさん)いきたいですね。今年、定年を迎えられる方々、長い間のご尽力お疲れさまでした。
 

 Aさん(中国から)
 
 あけましておめでとうございます。
昨日は担当クラスの学生たちを招き、「火鍋」(とても辛い)をつつきました。
今日も学生たちが来る予定になってます。
 今年もまた「川越だより」を楽しみにあと半年の中国生活を続けます。皆様方にもよろしくお伝えくださいませ。
    

 Bさん
 新年のご挨拶ありがとうございました。
 メールでの年賀状、いいですね。私も来年から真似をしようかとも思いました。
 お二人ともお元気な様子で何よりです。とくに啓介さんは抗ガン剤治療中でし
たので、陰ながら心配していました。わたしの抗ガン剤は軽いものでしたので
あまり影響はありませんでしたが、啓介さんは肺ガンの転移でしたね。
 しかし、ガン治療には免疫療法があるくらいですから、倫子さんの明るさとた
くましさに支えられての免疫療法が効を奏しているのではないかとも思います。
 前向きなお二人、今年もその免疫力で乗り切られるとおもいます。それでも、
くれぐれも用心してください。
 時には臆病に、時には慎重にしながら、活動を続けてください。
 わたしも似たような状況ですので、不義理を重ねながらのんびりやっています
ので、どうぞ、よろしくお願いします。
       
 Cさん
 
 ご無沙汰しております。
大病を患われてからも、精力的にがんばっておられるのですね。感服いたしております。どうぞ、お身体ご自愛ください。
私は、今年で教職25年になり、卒業生も5回目になります。
つくづく、健康が大事だと痛感しております。
どうぞ、ことしも良い一年でありますことを祈っております。
                  
 Dさん(前主治医)
 
 あけましておめでとうございます。
本年も変わらずよろしくお願い申し上げます。
まだまだ闘病が続くと申し上げざるを得ないのは残念ですが、
気持ちで負けないようにお願いします。


 Eさん
 
 喪中につき挨拶が遅くなりました。
 昨年は祖母が天国に召されました。祖母はやっと辛い日々から解放されたのかと感じています。
 子供達もだいぶ大きくなり、要求は多いですが育児は楽になりつつあります。
 Mが3歳、Yが1歳となりました。
 昨年は私が育児休暇より職場復帰したのと入れ替わるように、夫が転職にて求
職期間がありやや不安な時期もありましたが、なんとか再就職も決まり、順調にスタートをきることもできました。
 母の肺がんは順調な経過をたどっており、定期健診も1年ごとに切り替わりまし
た。しかし、年々体力の衰えは感じ、めまいや倦怠感を訴えるようになりました。
育児が落ち着いたら介護かなあと考えるこの頃です。

 子供達中心の生活ですが、充実した日々を送っています。
 先生の闘病生活を心より応援しております。

 
 Fさん

 写真見れるか分かりませんが、パソコンに送りました。我が子は今二歳半になり
、まだまだ上手く話すことが出来ませんが、中国語、日本語は大体理解出来るようになりました。
 私の近況は、一昨年体調壊し、会社を辞め、今アルバイトしながら、次の転職先
を探しています。
 また、啓介先生の体調いかがですか?
                 

 Gさん

 その節は大変お世話になりました。
年賀メールを有り難うございます。
私の年賀状は、未だ、届いていないかもしれませんね。
文化祭の折に、卒業生が幾人か来校しました。
この3月で私は定年です、○○高校を去ります。
お大事になさって、でも、なさりたいこと、楽しいことを沢山して下さい。


 Hさん(中国から)

 あけましておめでとうございます。

08年はいろいろとありましたが 09年がよい年でありますように。 ご家族の皆様のご健康を祈ります。

P.S 09年の旧春節で日本に一時帰国しますので そのとき また 先生にご挨拶をいたします。

 
 Iさん
                            
転移の後も薬効により快復傾向で社会活動の再開を果たされたとのこと、お喜び申し上げます。
私の方は、4月に○○へ異動して新1年40人の担任をしています。ワンフロア6教室に240人の15~16歳が犇く○○とは異次元の別世界でして、最初は慣れるのに苦労しましたが、今では「此処が自分の居場所」と感じられるまでに順応しました。

 現在の職業的目標は
1.クラスの全員が居心地の良い環境をプロデュースする。
2.英語を教えている5クラス200人の生徒たちの英語力を個別に最大限に伸ばす。
です。

 またイツか何処かでお目にかかれますよう。
良い丑年をお過ごし下さい(因みに私は4回目の歳男です…)。


 Jさん

 啓介先生病気に負けずに、頑張ってください

 
 Kさん
 
 新年おめでとうございます

昨年、1月2日付きで○○学園を退職して、いろいろ悩みの多い年でした
ヘルニアの手術後の腹部不良、前立腺癌の前状態とのこと
孫の病気、カミさんの腰痛の悪化などなど・・・
でも、今年は
人生、割り切り
明るく進もうと思ってます

長い人生を振り返れば、もっともっと大変で苦しい時もあったのだから
互いに少しでも長生きし、
民主主義の成熟度を確かめましょう
どの程度日本は達成できるかを

では、また
お会いできる日を楽しみにしてます


Lさん

 新年あけましておめでとうございます。
お年賀ありがとうございました。
今年もよろしくお願いします。

 電子メールでの年賀状は最近多いですね。
 近況報告が目的ですので、葉書であれ、
電子メールであれ同等であると思います。

 鈴木様の体調が回復され、徐々に社会
復帰されているようで何よりです。

 (中略)

 またうちには無関係であると思っていました
世界的な不況も昨年11月から実感しています。
 なんとか年は越し、お正月は迎えましたが、
まだまだ厳しい状況は続きます。

 鈴木様のブログは見ています。
ご無理のない範囲で記述してください。

 今年もよろしくお願いします。


 コニヤン
 
 
年賀メールありがとうございました。昨夜は新年会で酔うていました。
でも、今日はいつもどおり早朝四時起き。
今日のブログのテーマが下記です。今年もよろしくお願いします。

 「自分自身の心のホームページにアクセスせよ!」

元旦の早朝に読んだ本。

塩見直紀さんの「綾部発 半農半Xな人生の歩き方88 自分探しの時代を生きるためのメッセージ」(遊タイム出版・2007.10.20初版発行)

(著者のホームページhttp://plaza.rakuten.co.jp/simpleandmission/

半農半Xの講演記録http://www.ayabe-vc.org/playback.php

#2006.4リーダー研修「好きなことで社会を変える」【講演録】の部分)という本である。

大晦日に駅前のブックオフでたまたま見つけたものである。塩見さんは、 京都府綾部市 に住み、半農半X研究所を設立。自身ももちろん半農生活である。
このXとは、自分の天職を探してやることだと。
「半農半NGO」、「半農半歌手」、「半農半小説家」など農業(この農業は規模によらない。家庭菜園でもプランターでもよし)をやりながら、やりたい仕事を探して、自分が天職と思う仕事を遂行するのだそうだ。

 綾部市 に住んでいるさまざまな半農半Xで活躍している方々がその本には紹介されている。

 その本の122ページに、「自分自身の心のホームページにアクセスせよ!」と
いう作家の中谷彰宏さんの言葉が紹介されている。

その前に、
『「いま、世界の大部分の人は自分の内面に向かう時間がない。そのことが現在の混乱を起こしている原因だ」というメッセージに出合ってはっとした』というくだりがある。

私も同じくこの文を読んではっとした。
そうなのだ。私たちは、ややもすると日々テレビやマスコミやネットなどなど、外に向かってアクセスは積極的にやっている。
そして情報過多ともいえる、いや情報洪水のなかで生活している。
他の人のホームページは訪問するが、「自分自身の心のホームページにアクセスする」のを忘れているのではないか・・・と。

内なる自分からの声が聴こえていないのだ。自分自身の大事なメッセージが聴こえていないのだ。「自分というすばらしい感性」が枯れかかっているのに気づいていない。今や、この内なる自分の声が塞がれる、いや見えなくさせられている時代なのである。

自分という「羅針盤」が確立もされていない。周りに流されている。
どうして生きたらいいのかわからない。
そんな子どもたちだけでなくて、青年、いや大人も多くなってきているのではないか。

そこで、塩見さんは、「天職問題」という提起をしている。
人はなぜ生まれ、生きていくのかという意味や自分探しを意味する言葉だという。
この時代をどのように生きていくのかは「半農半X」という生き方はひとつのヒントになるだろう・・・と。



私自身は、というと、不登校の子どもたちに出会って以来、いつも学んだことは、
不登校ゆえに希望がわかない、出てこないというのではなくて、
その渦中、過程を通じて子どもたち自身が自分探しのなかからいかにして生きていくのか、そして「自分づくり」が成長と共にどのように形成されていくのかということではなかったのかと思う。

中学の時代に不登校を経験した子どもたちが高校で学校復帰をした後、卒業の頃となると、同じ世代の者に比べてはるかに「自分づくり」が確立されていることに気づくのだ。自分の「羅針盤」が多くの場合できているのである。

それは、なぜかというと、不登校の時代にたっぷりと自分と向き合う時間があった
からだということである。内なる自分の声を聴けたからである。

そういう意味では不登校という時間は、子どもにとってはとっても貴重な必要な時間であったと言える。

それから、今の私なりの生き方がこの歳になってやっと確立してきたのは、不登校の子どもたちとの協同の営みを通して学んだことで、日々自分の内なる声を聴く時間を毎朝確保してきたからではないかと思ったりしている。



今こそ、「自分自身の心のホームページにアクセスする」ことがどうしても必要な時代なのであると思う。

元旦の朝に、その大切さを感じさせてくれた、たまたま出合った本の一節。
今年一年の私自身の「座右の銘」として刻んでおこうと思った。

             ああ有情
 コニヤンブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/gogokoniyan/46350429.html

私たちの交流センター・馥苑

2009-01-05 18:24:33 | 友人たち
 穏やかな晴天に恵まれたので今年初めて入間川の岸辺の林を歩いてきました。クヌギなどの落葉樹がほとんどですから冬は100%陽差しのある明るい遊歩道です。落ち葉の道を歩くと感触もザクザクという音も気持ちがいい。イヌノフグリが小さな花をつけています。どういうわけか花を咲かせているタンポポもありました。
 帰りに氷川神社に寄ってみましたが5日だというのに参拝者が多く、社前で頭を下げて早々に帰ってきました。

 昨日(4日)は午後から夜まで東大前の馥苑(ふーえん)で過ごしました。卒業生の輝子さんの家族全員が協力して営業する中国料理店です。シェフは弟の峯男さん、残留孤児のお父さんも料理人です。弟さんのお連れ合いと輝子さんがウェイトレス。お母さんもときどき手伝いに来ます。
 この一家とのつきあいはもう20年以上になります。黒竜江省牡丹江(ぼたんこう)から来日して輝子さんが北高校に入学した時からです。この店が出来てからは何かと利用させて貰っています。働き者のお父さんは無口ですが調理室から笑顔をみせてくれます。全身で愛嬌を振りまくお母さんとは対照的です。一児の母でもある輝子さんは近所に住んでいて手伝いに来ます。聞かれると25だと答えるそうです。それでも通じるかも知れない器量です。
 この日は中国残留孤児支援相談員をやっている卒業生などとの交流会です。忠幸さんのほか、見守っていてくれる自治体の職員の方も来てくれました。
 会が一段落したときのことです。お母さんと宏美さんが喜びの声を挙げてぼくを呼んでくれました。両家族は帰国したとき所沢の定着センターで一緒だったと言います。20余年ぶりの再会です。宏美さんは今二児の母となり、新しい仕事に意欲を燃やしています。当時はどんなこどもだったのでしょう。(ゆっくり聞いておけば良かったなあ)
 輝ちゃんと久しぶりにあって久闊を叙している姿も見られます。
このお店が出来て何年になるのか。次第に僕らの交流センターになりつつあります。
 この日が新年の営業開始でした。昼も夜もお客さんが多くスッカリ地域に根付いていることがわかります。味はもちろんのことですが輝ちゃんたちの作り上げる率直で明るい雰囲気もひとびとに愛されているのではないかと思われます。
 魅力的な女性たちや心を許しあう友人たちと遅くまで交流して嬉しい一日でした。

 馥苑(ふーえん)http://r.tabelog.com/tokyo/A1310/A131004/13018627/

新米教師と生徒たち  室戸岬水高1959

2009-01-04 10:01:57 | ふるさと 土佐・室戸
 12月のうちに南国市の松村先輩から手紙をいただきました。先生が大卒後初めて赴任した室戸岬水産高校の生徒だった幸智(ゆきさと)くんと50年ぶりに交信した喜びが書かれています。

 ご紹介いただきました室戸岬水産高校で初めて教えたO幸智さんより電話を頂戴し、その後、クラス写真も送ってくださいました。貴兄からも私が懐かしがっていたことを宜しく宜しくお伝えください。
 送ってもらった50年前のクラス写真のコピーを同封します。実に50年前、丁度半世紀も昔の自分の写真に出会って、なつかしいと言うよりも、たまげました。大切にします。やはり、22歳は若いものだと、あらためて感じております。

 幸智くんはぼくの小学校の同級生です。偶然にも彼が先生の最初の生徒の一人だったのです。それがわかったミニ同級会の記事(「川越だより」)を11月に先生と幸智くんに届けました。それがきっかけになってお二人の交信になったのです。

「川越だより」11月10日 海の男たちhttp://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20081110

 ぼくの家の近所に住む中野摂次郎さんの隣りに写っているめがねの先生が松村さんだといいます。若々しい背広姿です。長髪の生徒たちの中にぼくの友人たちもいるはずですがコピーのせいか誰と特定できません。真ん中の安原校長は足袋に下駄履きです。59年から60年にかけて、卒業間近の冬に撮られたクラス写真です。
 松村さんは「なつかしいと言うよりも、たまげました。」と書いてあります。わかるような気がします。ぼくも43年前の最初の生徒と撮った写真を見るとこんな風だったのかと我ながら驚いたりするのです。ぼくはその後も彼らと会う機会が多いので「たまげ」たりはしませんが…。

 妻が30年ほど前になくなった松村さんの弟・徹さんを思い出して訪ねることにしたところから思わぬ展開になりました。人のつながりの不思議さと再び出会う喜びと。幸智くんに電話して先生のメッセージをぼくからも伝えました。

 松村さんは妻にといって『飢えを喰らう いまは嘆きの大地、エチオピア』(情報センター出版局 1985年刊)という写真集を送ってくれました。野町和嘉さんの作品です。10月に松村さんとお会いする直前に私たちは高知県立美術館で野町さんの写真展を見て深く心を動かされました。松村さんは昔から彼の活動を注視してこられたのでしょう。手紙に「彼の人間の生きざまを写し続ける態度に偉大さを感じます」とあります。

野町和嘉写真展http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/m/200810 
 

 弟の徹さんも世界中を廻って写真をたくさん残してあったと聞きました。彼は何を見ていたのか、生きているうちに聞きたかったものです。松村さんを訪ねたときお土産にいただいた南国市名物「GOMEN あめ」を一つか二つ持ってぼくは散歩に出かけます。昼食後の口直しに最適です。 

新年会

2009-01-03 15:04:01 | 父・家族・自分
 元旦 
 10時半ごろ妻の母がきてくれたので4人でお屠蘇を祝う。御馳走は息子夫婦が届けてくれたお重が中心。妻の手作りは土佐風昆布巻き。妻の友人の栗きんとん。ここ数年こんな風で大晦日の妻の作業は大幅に軽減された。義母は栗の渋皮煮をつくってもってきてくれた。私もまだまだだよと自己主張しているようだ。ありがたいことである。
 昨夜に続いて酒がおいしい。Tくん夫妻が届けてくれた金粉入りの「松竹梅」。長生きせよと励ましてくれているのだろう。彼らは大晦日まで休むことなく働き、社員とその家族がそろって富士山近くの温泉で年越しだという。中国食品の工場は旧正月までフル操業らしい。若い社長が3が日だけはゆっくりしようと計画したのだろうか。

 夕方になって息子夫婦が来て二回目の新年会。紹平は大島出身の省吾くんがお裾分けしてくれたムロのくさやに大満足の様子。昨年、無性にくさやが食べたくなって大島に行こうとしたが船賃が高くてあきらめたことがあった。妻の弘子さんは川崎大師の近くで育ったがこどもの頃にはくさやを焼く匂いが漂っていたことを記憶している。町の「近代化」で今は考えられないと言う。
 息子夫婦とゆっくり交流するのは一年に一度である。それぞれの家族が抱える難題についても情報交換・意見交流をする。何の解決にも成らないかも知れないが大切な時間である。
 妻が手作りのストラップをたくさん弘子さんに贈る。彼らのバーの常連客への年賀のプレゼント。これで3年目だ。頼まれたわけではないが妻はこういうことをするのが生きがいなのであろう。

bar招福堂http://r.tabelog.com/kanagawa/A1401/A140102/14007702/


 2日
 昼過ぎ、デンちゃん・実花子ちゃん夫妻が来てくれて新年会。彼らに4月には女の子が誕生する。結婚して数年が経つ。僕たちにもほんとうに嬉しい春である。どういうわけか実花子ちゃんは我が家の「嫁」になってしまった。この嫁はほんとうに人を大切に出来る人で働き者である。デンちゃんのためだけではなくぼくのためにもお菓子を焼いたりしてくれる。安産を願う妻は、25年も昔に編みかけのまましまいこんであったセーターを押入から引っ張り出してきた。ほどいてスカートを編み始めている。冬の丸木美術館の受付の仕事は労働環境としては最悪の部類なのである。

 夜は隣家のMさんからの招待で恒例の新年会。奥さんが故郷・岩手の山里料理を御馳走してくれるが、今年は川越に近い越生の山で採ってきたというワラビの煮付けが加わった。大ぶりのワラビの育つ秘密の山を発見したという。いつもとは逆にこのワラビを各地に送ったということだ
 Mさんは老人ホームのバスの運転手を始めた。建築現場でのパワーシャベルの運転の仕事も結構ある。ぼくよりは一つ上だが現役の労働者である。長年身につけた職人技術が重宝されている様子がわかる。公共事業関係の仕事では65歳以上ははずされるということで憤慨されている。
 帰ってから娘が私たちの年賀状を印刷してくれるのを手伝った。夕方に一眠りしていたので遅くまで頑張る?ことができた。今年は年内に年賀状を出すことが出来なかった。こんな事情なので自力で無理なく出来る電子メールでの新年祝賀に切り替えていこうと思っている。

年賀状

2009-01-01 06:53:29 | 父・家族・自分
 大晦日。妻が珍しく寝込んでしまったので久しぶりに洗濯や家の片づけをしました。息切れがし、休み休みですがおせちを置くところはきれいになりました。その妻も夕方には少し元気になったので手記をよせて貰いました。

 11月末、最近はやりだした「ハロウィン」とやらのセールが終わると、日本中どこへ行っても「クリスマス」色になる。毎日のように行くスーパーもそう。そして25日、「クリスマスの売れ残りセール」が終わると、今度は「おせち」。いくら保存料でフォローされているからって、今からきんとんだの酢蛸だの買わせてどうしろってのよ。
「おせち」洪水の中から日常の食材を発掘しながら、毎年思うこと。一日刻みで増殖する「おせち」商品に呼応するようにして、野菜、とりわけ葉物の値段がじりじり上がっていく。何とかして維持したい日常性と正月準備のはざまで苦悩するアタシ。これが「歳末気鬱症」の原因だと気づいたが、何の足しにもならない。例年通り風邪をひいて気鬱に拍車がかかり、掃除もろくにやらないまま、達成感ゼロの大晦をこれまた例年通り迎えたのでありました。(倫)

 夜は二人で「年忘れ にっぽんの歌」を見ながらいっぱいやりました。水俣の宿で賀明さんご夫婦と楽しんで以来です。おいしい酒です。双葉百合子さんが「岸壁の母」を絶唱しています。むかしは好きになれなかったのですが深い敬意を感じながら聞きました。青木洸一・大津美子・八代亜紀…たゆみなく芸を磨いて生きてきた人たちです。気分のいい夜です。
 入院中で卒業生の佐野さん一党の民謡発表会に行けなかったことが悔やまれます。夫君と一緒の津軽三味線を聞いてみたかったなあ。

 

 09年元旦

 これが私たちの年賀状です。今年もよろしくお願いします。
 今年から年賀はがきに代えて電子メールで年賀の挨拶をお届けするよう試行することにしました。失礼かと思いますがご海容ください。よろしかったらあなたのメールアドレスを教えてくれませんか。

   初日の出 室戸岬http://pics.livedoor.com/u/kai_kuboi/3197855
 


  頌春 
 
 己丑の年頭にあたり、変わらぬご厚誼に感謝し、皆様のいっそうの健康とご活躍を祈念します。 2009・1・1

 ≪08年の報告≫
 啓介は左肺摘出から2年後の秋、右肺への転移が確認されたため4月から5ヶ月に亘って抗ガン剤治療を受けました。幸いにも薬効があり、9月から徐々に社会復帰をしています。10月4・5日のきいちご移動教室のガイドを務めたのをきっかけに中国残留日本人孤児の支援相談員として活躍している卒業生たちと交流出来たことは大きな喜びです。
 ぼくの闘病は旧友旧知の皆さんの励ましはもとより、新しい友人との出会いによって支えられています。お陰で落ち込むこともなく元気に日々を送ることが出来ました。ほんとうにありがとうございます。
 日々の生活の様子や考えたことなどを一年間「川越だより」というブログにつづってきました。毎日文章を書くのは中高生時代以来です。パソコンはもちろんケイタイからもアクセスできますので覗いてくだされば幸いです。時には授業をしているつもりになって一日に2~3時間パソコンに向かっています。(啓介)
 
旅行や家事の合間に古着利用の「手縫い洋裁」という手すさびを新たに始めました。作品はブラウス3、もんぺ1、啓介のジャケット(刺し子入り)1、Y子の防寒スカート(丸木美術館事務所の冬の寒さは明らかな憲法違反だ)1。(倫子)

 〔主な出来ごと〕
クラス会(池商71年卒 大島67年卒 69年卒) きいちご移動教室(⑦茨城自然博物館⑧足尾・奥日光 花見・大房岬) 家族旅行(2月・奄美大島 12月・不知火海) 結婚40周年夫婦旅行(7月・富士見高原 9月・下北・二戸 10月・高知) 国籍取得特例法の制定を求める緊急集会(3月)