川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

佐藤一さん逝去 松川事件

2009-06-19 22:03:35 | 政治・社会
 今朝、松川事件の元被告・佐藤一さんの訃報がありました。

 訃報:佐藤一さん87歳=「松川事件」死刑判決後に無罪

                        (「毎日」)
 
 福島県松川町(当時)の旧国鉄東北線で1949年8月、列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡した「松川事件」の被告として死刑判決を受け、最高裁で無罪が確定した佐藤一(さとう・はじめ)さんが17日、心筋梗塞(こうそく)のため死去した。87歳だった。葬儀は近親者のみで行い、お別れの会を後日開く。日取りは未定。自宅は東京都千代田区神田小川町1の7の804。喪主は妻三宅菊子(みやけ・きくこ)さん。

 松川事件では、国労の組合員ら20人が起訴され、佐藤さんは1、2審の福島地裁と仙台高裁で死刑を言い渡されたが、アリバイを示すメモを検事が保管している事実を毎日新聞が報道。63年、最高裁で無罪が確定した。
  
 諏訪メモ・毎日新聞http://www.asahi-net.or.jp/~JF9T-TJ/16-05.htm

 この事件のことを初めて知った(?)のは1952年春か53年春のことです。父に高知市に連れて行って貰ったとき、宿近くの電柱に「松川事件」という文字の入ったステッカーが貼ってありました。父に質問したのですがほとんど黙殺されたような感じでした。5年生になる直前か、その一年後かです。
 ぼくが父にどこかへ連れて行って貰ったのはこの2回きりです。なぜ丁寧に説明してくれなかったのか、ずうっと疑問のままです。
 (父は公立学校の教員でしたがぼくが父から直接何かを教えて貰ったことはほとんど記憶がありません。政治的な問題についても同じなのかも知れません)。

 大学に入った年に印象的なことがありました。1961年8月8日、仙台高裁の門田(もんでん)裁判長が差し戻し審で被告らに全員無罪判決を出したのです。この直後にぼくは「教育大学新聞」の編集長の命にしたがって鈴木信(まこと)被告の原稿を受け取りに新橋?辺りの事務所を訪ねました。
 鈴木さんは国鉄労働組合の福島分会長の時29歳で逮捕され、被告団長をされていました。一審二審と「死刑」判決を受けた方です。広津和郎(かずお)さんの丁寧な裁判批判などに支えられたとはいえ、獄中での13年間は想像に絶するものだったはずです。ぼくに言葉が無く、原稿のお礼を言うのが関の山だったのではないかと思います。精悍な方ではあっても苦闘を思わせるお顔を今も何となく思い起こすことが出来ます。(鈴木さんの文章は9月10日号に家永三郎先生の文章とともに掲載されています)。

 佐藤さんにもお目にかかったような気もするのですが定かではありません。門田判決からでも48年です。お二人はその後どんな歩みをされてきたのでしょうか。佐藤さんの訃報に接して遅まきながらそのかけがえのない人生に興味が湧いてきました。佐藤さん、どうぞ安らかに。(合掌)

 佐藤一さんに『下山・三鷹・松川事件と日本共産党』という著作があるようです。http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/sato.htm
 

 松川事件にかかわる逮捕、起訴、裁判が政治的でっち上げであったことに異論は無いと思います。でっち上げで人を死刑にしようとした警察官・検察官やそれに荷担した裁判官がいたということです。これらの人が謝罪したことも罰せられたこともありません。ほんのちょっと考えてみれば恐ろしいことです。
 こういう土壌が温存されてきたため、警察官・検察官のやりたい放題と裁判官の荷担は是正されず、社会が落ち着いてきた60年代以後もえん罪事件は繰り返されてきました。足利事件もその一つです。

 民主党は政権交代によって霞ヶ関の官僚支配に挑戦するといいます。その言やよし。その際、警察、検察のやりたい放題にもしっかりメスを入れてほしいものです。ほとんど意味のない最高裁判所裁判官の国民審査制度の再検討など裁判官についても同様です。一度も問われることのなかった司法官僚たちのおごりと頽廃はこの国の民主主義にとって獅子身中の虫というべきです。
 

 

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