川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

高社郷(こうしゃごう)開拓団の悲劇

2009-03-07 09:38:41 | 中国残留日本人孤児
6日(金) 午後、本格的な雨の中を歩いて街に出ました。郵便局で貯金証書の再発行を申請し、文房具店で宛名ラベルを買ってきました。何年ぶりかではいた長靴は劣化して水が滲みてくるは、傘の効果がないのか下着まで濡れるは、で、散々ですが「雨中の行軍」は結構壮快でした。3年前の手術以来、こんな体験は初めてです。
 滑稽なのはこのラベルが使い物にならなかったことです。娘が帰ってきて指南を受けながらいざ印刷と言うときにぼくのパソコンには適していないと言うことがわかったのです。基礎的な知識がないために起きたことです。こういうこともあろうかとレシートだけはとってあります。明日またやり直しです。

 夜遅くなってから信州北部にあるはずの満蒙開拓団の慰霊碑などの所在を調べました。5月の「きいちご移動教室」の学びの場にするためです。

 目的地の木島平村に高山すみ子さんという方がおられ高社郷開拓団の悲劇を語り続けていることを知りました。

    95年10月13日の「毎日新聞」(長野県版)

 高山すみ子さん(72)=木島平村=ら高社郷開拓団の避難民は一九四五年八月二十三日、やっとの思いで佐渡開拓団跡にたどり着いた。しかし、ソ連軍に囲まれ脱出は不可能、と団では自決することを決めた。翌日、団の解散式で副団長が涙を流して訴えた。「生きて辱めを受けるより、死して護国の礎となろう」。その晩から、順次自決していった。

 「あるお母さんは小さな子供を井戸に投げ込んだのさ。そしたら、中は死体でいっぱいで、その上に落ちたから、まだ生きてる。それで、『お母さん、言うこと聞くから助けて、お母さん』って泣き声が井戸から聞こえてな。お母さんの方はたまげたけど、石を投げつけて殺してしまった」。高山さんは目を赤くしながらも話し続ける。

 高山さんも三歳の長男と一歳の長女に、最後まで隠し持っていたキャラメルを食べさせ、言い聞かせた。「『ノノさん(仏様)になって、内地へ帰るんだ。ノノさんになったらな、じいちゃんとこ行くんで、白いまんま(ご飯)がたくさん食べれるよ』ってな。すると、まんまと聞いてうれしかったのか、ニッコリ笑ってな『早く連れてって』て言うんさ。それで、『東の方へ手を合わせれば行けるんだ』っておれが手を合わせたら、まねして一生懸命手を合わせて……。そこを男衆に頼んで銃で撃ってもらった」

 ここまで話したところで、あふれる涙でしゃべれなくなった。それでも、とぎれとぎれに口を開く。「あの時のことは、絶対忘れられねえ」

 二人の死を見届けて、いよいよ高山さんの番になった時。「さあ、かあちゃんも今いくぞって目をつぶったら、ソ連の戦車が来て、おれを撃とうとした人が戦車に撃たれちまった」。高山さんはそのまま数日気を失った。気付いた時は、天井までぎっしりと積まれた死体の中にいた。「ああ、生きてるんだ。ここで死んじゃならねえってことなんだ。そう思って逃げ出した」

 妊娠中だった高山さんは逃げる途中に流産した。そんな体では帰国は無理だと自決を勧められたこともあった。けれども「どんなことがあっても生きて帰って、ここで何があったか日本に伝えなければと、それだけを考えてたんだ」。歴史の、そして戦争の証人になろうという意地が、五百キロ近い逃避行を支えてくれた。

 帰国後、高山さんは出征から帰った夫との間で子供を産み、今では孫もいる平和な家庭を築いた。しかし、満州で失った子供たちを忘れられるわけがない。佐渡開拓団跡に来たのは八四年に続いて二回目。「子供をここに置いてきたんだよ。どんなことしたって、何年たったって、子供に謝りに来ないとならねえ」

 悲惨さ、無念さ、残酷さ……。どんな言葉でも表現しきれない現実が、腹を痛めた子供との別離をも生んだ。それが「戦争」だった。

 佐渡開拓団跡に着いた団員たちは、酒やお菓子を供えて、犠牲者の慰霊をはじめた。高山さんは少し離れたところで、目をつぶり、じっと祈っていた。五十年前、なすすべもなく死んでいった子供と生き残ったという重荷を背負ってきた母親。悲劇の地に再び立ち、いったい、何を語り合っていたのだろうか。涙を浮かべたその姿には近寄りがたい厳しさがあり、それ以上話しかけることができなかった。
  出典      http://blogs.yahoo.co.jp/mainichi_shibanu/18986387.html

 高社山(こうしゃざん)はこの辺りの代表的な山です。山の北側は日本有数の豪雪地帯です。この山のお陰で雪が少ないのですと南側の小布施町に住む友人が語っていました。
 その山の名を冠した開拓団の悲劇です。85になられたはずの高山さんは今も元気に活動しておられるでしょうか。07年に上田市の集会でお話しされています。移動教室の参加者は残留孤児とその家族が大半です。高山さんとお会いできるようにしたいものです。
 高山さんの証言が載っている立派な体験記が発行されています。

 『福寿草』 私たちの戦争体験記
       
       発行   木島平公民館
        〒389-2302
        長野県下高井郡木島平村大字往郷914-6
        TEL0269-82-2350
       編集    木島平村戦争体験記編集委員会
         木島平村教育委員会内
 出典http://m-take-web.hp.infoseek.co.jp/tihou40.html

 10年前の発行です。ぼくが暫く前、宿舎になる村営のホテルの方に調べて貰ったときにはこのような手がかりは何も得られなかったのです。歴史を伝えていくことはほんとうに難しいことなんですね。
 
 犠牲者の慰霊行事について報じた記事があります。中野市東山の満州開拓者殉難慰霊塔で少なくとも05年までは高社郷開拓団の慰霊祭が行われていたことがわかります。こんどの旅でここは是非訪ねようと思います。

  満州開拓団「高社郷同志会」http://www.shinshu.co.jp/local/2005/050902/n05.html

最新の画像もっと見る

コメントを投稿