川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

ギャラリーハン・関貞子さん 秋葉街道の旅⑤

2011-12-10 04:48:09 | 在日コリアン

11月12日(土)☼

 浜松からの帰りに富士川をさかのぼり山梨県富士川町を訪ねることにした。『楽園の夢やぶれて』の著者・関貴星さんの長男・勇さん夫妻がこの町の平林というところでギャラリーを開いていると聞いたからだ。

 川越だより『楽園の夢やぶれて』●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/08a5feabc4936862749c88a83c4b460a

  国道52号から県道413号をどこまでも走る。櫛形山の麓に「ギャラリー・ハン(ハングル表記)」はあった。

 聞いてはいたが目前に見える富士の姿は見事だ。

 

  大きな古民家がそのままギャラリーで「衣類・陶・漆・雑貨」が展示してある。その様子は次のHPでゆっくりご覧になってください。東日本大震災以来訪れる人がめっきり減ったとか。ちょっと遠いけれど別天地にある静寂そのもののギャラリーで過ごすひとときは贅沢そのものだ。

 ギャラリー ●http://galleryhan.moo.jp/gyararihan/Photos.html#35

 

 勇さんのお連れ合い・貞子さんがもてなしてくれた。義姉にあたる呉文子さんがいつになるかわからない私たちの訪問を予告しておいてくれたらしい。

 

 勇さんは一族の祭祀でお父さんの故郷(韓国)を訪問して今日帰る予定だという。初めてお会いするにもかかわらず、午後の時間をたっぷりとって義父にあたる貴星さんに関わる話をあれこれと聞かせてもらった。

 同居して「長男の嫁」を務めていた時期もあるのでその苦労は並大抵なものではなかったろうと思われるが、貞子さんの話は義父への尊敬の念と愛情が伝わってくるものだった。

 メモ① 『楽園の夢破れて』が出版(1962年)されて以来、関さんを訪ねてくれる友人・同胞は一人もいなくなり、「よくやってくれた」と言われたことは皆無だ。それでも関さんは同胞あての年賀状を出し続けた。宛名書きは貞子さんの仕事だった。

 貴星さんは86年に死去した。近年(97年)、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」が『楽園の夢やぶれて』(亜紀書房)を復刻・再出版してくれ、多くの人に読まれるようになったことを草葉の陰で喜んでいることだろう。

 メモ②貞子さんはあるとき姑に呼ばれ「(関さんは)金庫に青酸カリを保管してある。このことは誰にも言ってはならない」と告げられた。朝鮮総連から「反動」「民族反逆者」などと攻撃を受け、友人は離れ実の娘を義絶していた頃のことである。酒量が増えていただけではなかった。どういう事態に備えていたのか?

 孤立無援のただ中でも筆をおることができなかった人の「組織」との壮絶な戦いの姿を想像して尊敬の念を新たにした。

 来年は『楽園の夢破れて』が出版されて50年になる。あの時「北」にわたった多くのコリアンや日本人妻はどうなっているというのか。問われているのは私たち一人ひとりだ。

 ギャラリーを開いて様々な人との交流を重ねるようになって貞子さんの精神世界にも大きな変化があったようだ。まるで娘のように生き生きと「在日コリアンの生き方」についても語り始めた。

 今度は友人たちを誘って訪ねようと思った。4月の下旬頃か、花の頃はさぞ見事だろう。

 

関連記事「呉文子さんと『楽園の夢破れて』」●http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/67e362063adafefcbc825d41149888aa

 

 

 

 

 


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