川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

洪大杓「親として、在日として、一人の人間として」

2012-12-11 10:25:16 | 在日コリアン

 今日は9時から洪さんの葬式である。妻は朝早くでかけた。僕は川越ではるかに見送る。寒さに弱いためでもあるが「葬式」には消極的な僕の考えにも基づく。生きている間が大事、そう思うのである。

 久しぶりに洪さんが書いた文章に目を通した。「民族共生教育をめざす東京保護者の会」のニュース(2001年)に掲載された。

お経代わりに声に出して読んでみます。よかったら皆さんも僕と一緒にどうぞ。

 

親として、在日として、一人の人間として

 洪 大 杓(東京江戸川区在住)

  

子育ての喜びと苦しみ

 親として、子どもを育て上げるということは簡単といえば簡単、難しいといえばこれほど難しいことはない。子どもが生まれたからにはこれを扶育し、一定の教育を受けさせることは親として当然のことなのでそのこと自体には何の負担感や義務感といったこともない。

 子育ての過程にはいろいろと手間暇はかかるし、実際問題として経済負担などは大きいし、その他何くれとなく面倒なことが多いのであるが、それはそれ、子育ては苦労でもあり、喜びでもあって、子の成長を見守りつつ日々の生活を生きていくのは親業ならではの楽しみともいえるだろう。

 ところが子どもが小さく、かわいいかわいいといって育てていたうちはいいのだが、だんだん大きくなって理屈を言うようになってくるとなかなかそれまでのにこやかな親子関係とばかり言っていられない場面が出てくる。

 わが家には三人の娘がいるのだが、つい先日も何かのことで下の子(小学生)を叱ったところ、上の子(中学生)が「アッパ、そんな頭ごなしの叱り方はおかしいよ。ちゃんと普通に言えばわかるんだから」と文句を言うではないか。な、何を言うか。私は瞬間的に逆上した。今風にいえばブチキレそうになったわけだ。「お、親に向かって何を言う。黙れ、黙れ、黙れ」。なおも何か言おうとする長女を、とにかく黙れ、黙らんかで口を封じさせた。全身がわなわなするほどの激情を抑えるのがやっとだった。

  これが男の子であればその場ではり倒すところだが、女の子ではそうもいかず、腹立ち紛れにテーブルをひっくり返そうにも、つい後先考えて思いとどまってしまう在日二世の情けなさ。その点だけをとっても一世たちは偉かった!

  私は憤懣やるかたない思いを抱いたまま、それ以上だれにあたることもできず一人パソコンに向かったのである。現在、世の中にこれほどにパソコンが普及しているのは、家の内や外で発散する場所、もしくは居場所のないお父さんたちがいかに多いかを物語っているのではないかと私は自分の経験に照らして愚考するのである。

家族がすべて

 閑話休題、実は子どもたちに常日頃、「自分の意見を持て」と言い聞かせてきたのはかくいう私である。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分で判断できる人間になれと教え諭してきた。最近の韓国・朝鮮、そして日本の有様を見れば自分自身で判断することの大切さはいうまでもないことだ。だがしかし、自分の意見を持てとは言ったが親に意見をしろとは言ってない。親の思うように子は育たないという苦いサンプルがここにある。

 さて、「自分の意見を持たなければならない」。これは私の信念でもある。私は中学校を終えた十五の歳から世間の波にもまれて一人で生きてこざるを得なかったため、自分で己の生き方を決めるということが習慣のようになっている。同世代の少年が親の庇護を受けて楽しい青春時代を送っているときに、私は地の底を這うような生活をして、なおかつ祖母へ仕送りをしなければならなかったのだ。

 私がそのような生活を強いられたのは、いうまでもなく貧困のせいだ。父が小学校一年のときに死亡し、翌年母親が死ぬと、家はたちまち行き詰まり、当時まだ十代だった兄二人が自分たちの青春や夢や希望、そういったものをすべて投げ捨てて残された家族を生き延びさせるために働いてくれた。少年だった私に何がわかるというのではなかったが、兄たちが必死に働く姿を見て、次は自分の番だ。働ける年齢になったらすぐに働いて兄たちの負担を軽くしてやらねばと心に刻んでいた。

 現在は祖母もなく、杖とも頼んだ兄二人も積年の無理がたたってか相次いで早死にし、残された私は自棄と失意、そして孤独と将来の見えない絶望の中ですさんだ生活に陥るしかなかった。そうした生活の中で、ふと考えることがある。いったいなんで俺はこんな苦労をしなければならないんだ。貧乏だからか? なぜ貧乏なんだ。在日だからか? 在日だとなぜ貧乏しなければならないんだ。そもそもなぜ俺は在日なんだ? 在日とはなんなんだ?

 堂々巡りの自問だったが、とかく在日というものを否定的にとらえがちだった当時の私がなぜ決定的に足を踏み外さず(これは比喩的表現で、実際はかなり踏み外して今でも向こうずねは傷痕だらけ)、在日を肯定的に受け止められるようになったかというと、祖母と兄二人の存在によるところが大きい。世間の無視と無理解、そして貧困により傷つきもだえる少年の私を無私の愛で包んでくれた祖母と(それは今から思えば朝鮮そのもののような存在だった)、そうした私たちを守ろうと敢然と世間に挑戦し、力のおよぶ限り闘ってくれた兄二人。在日を否定することはこのかけがえのない家族を否定することになってしまう。そしてこの家族を否定することは自分自身をも否定することになってしまう。今思えば、すでに世にはない私の家族が私のすべてだったのだ。

  さて、そういう地を這うようなすさんだ生活をしていた私だが、ところがある日、人並みに結婚というものをすることになった。相手はなんと日本のしっかりした中流家庭の娘さんで、どう考えても不釣り合いな取り合わせで、これを世間では逆玉などという。この不釣り合いな二人が結婚にまでこぎつけ、新家庭を営むに至るには当人たちにすれば涙ぐましい努力、当時を知る友人たちに言わせれば抱腹絶倒の物語があるのだが、それは別の機会に譲ることにしよう。

  私がここで言いたいことは、とうとう私にも新しい、守るべき家族ができたということである。家族というものに対する思いは当然それぞれにあるものではあろうが、私が「家族」に寄せる格別な思いというのはそのようなところからくるものなのである。

 ということで次はいよいよ子どもの教育問題に入ろう。

洪姓を継がせることの意味

 在日と日本人という少ないようで実際は実に多い私たちのようなケースでは、当然のことながら互いに「在日」というものをそれぞれがどう受け止め、認識していくかということが問題になる。そしてそれは子どもが生まれるとより顕著に具体的問題として突きつけられることになる。

 すなわち名前の問題である。戸籍の問題である。長じては就学の問題である。先々には就職、結婚とさまざまあろうが、私たち夫婦は、夫婦としてはお互いの個性と生きてきた歴史を互いに尊重しあおうと決めた。そしてその考え方の延長線上として、生まれてくる子どもは在日と日本人の子どもとして豊かに育てていこうと話し合った。

  結果、子どもたちには洪(ホン)姓を継がせ(このことでは法務局を相手に裁判で争うことになった)、国籍については長じて自分たちが主体的に判断できるようになったらそれぞれが判断すればいいということになった。

  もちろん三人の子どもが幼稚園、小学校、中学校と進学するたびに校長先生や担任の先生に会いに行き、洪(ホン)姓で通わせたいこと、卒業証書も含めあらゆる文書も洪(ホン)姓で記入してもらいたいことなどを確認しにいくなどの手間はあったが、それは子どもを学校に預ける親として当然なすべきことなので面倒というほどのことでもない。

  ここで大事なのは親が揺るがないことであろうと思っている。親が在日として生きる信念がなくて、どうして子に在日として生きよなどといえるだろうか。親が洪姓で生きる覚悟なくしてどうして子に洪として生きよなどといえるだろう。だが、揺るがないためには揺るがないだけの「認識」が必要となる。

  私の場合は破天荒な生活の中で、いわば体験的、直感的にそれを会得してきたのであるが、本来はその認識にいたるプロセスを合理的に構築したものが学問というものであろう。教育というものはだから非常に大事なものだと思っている。

国籍と「クニ」

 国籍についでだが、前述のごとく国籍は子どもたちがいずれそれぞれ判断すればいいと思っている。国籍があるがゆえに己があるのではない。何国人であっても己自身として生きてゆく生き方をつかむのが先であって、国籍などはそのときそのとき便利なものを選択していけばいいだけのことだ。まして国籍と民族を結びつけて考えようとするなど愚の骨頂である。そういう発想がどれほど在日を貧しいものにしてしまったか、歴史を見れば明白ではないか。

 そもそも、祖国と恃んだ国から棄民され、日本にあっては三流外国人と蔑まれて生きてこざるを得なかった在日がどのような「クニ」を頼ろうとするのか。在日の不幸は、在日としての方向性や将来へのビジョンをきちんと指し示せるリーダーを持てなかったことにあると思っている。さらにいえばそういうリーダーを持てなかったことも含めてそのような状況に押し込められてしまった政治状況で踏みつけられてきたのが在日であったといってもいい。

 親として子の幸せを願わないものはない。私も非力ではあるが、それでも力のおよぶ限り子の成長を見守ってやりたいと思っている。そして、子どもたちの将来のためにも私たちが今住んでいるこのクニの状況を少しでも、ほんのわずかでも改善していかなければならない。それは結果としてこのクニへの「貢献」につながるものであろう。それが在日の将来展望へつながるのではないか。

 在日として、また親として現在私はそのようなことを考えている。■(2001.3.7)

 

 


 洪さんの思いが無理なくつづられているように思う。この思いのようにこの10年を生きてきたのだろう。三人の娘さんたちはそれぞれ自立した。10月に会ったときに末嬢が今春、就職したことをことのほか喜んでいた。

 洪さんの最期の日に、三人の娘さんに会うことができた。それぞれが立派に成人して僕は心から喜んだ。「アッパに花嫁姿を見せてやりたかった」。二番目の娘さん。近く彼氏を父親に会わせることになっていたらしい。

 末の娘さんは「洪(ホン)」と名乗って就職した。このことで就職時期がやや遅れたと「アッパ」は言っていた。

 洪さんのような国際結婚の場合、韓国領事館に届ければ子は二重国籍となり、22歳までに国籍選択をすることになっている。日本の戸籍上は日本人の親の戸籍に登載されるので姓は母の姓になる。(やや面倒だが、生後、法的手続きをすれば外国人の親の姓を名乗って子どもだけの独立戸籍を作ることはできる)。

 上の娘さんたちはそれぞれの考えで母の姓で世の中に出、末嬢は「洪」。一人ひとりが考えて決めたことだからその生き方を尊重したいといっていた。法務局と争って戸籍上も「洪」を名乗らせようとしたぐらいの歴史のある人だから、内心はとてもうれしかったのではないか。

 洪さんの「クニ」「国籍」への思いは僕の考えと重なる。そのせいで「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」の世話人として一緒に歩くことになった。在日コリアンは三世・四世の時代になったが国籍の「選択権」は今なお認められていない。

 在日コリアン組織の大半のリーダーたちの次世代に対する責任感の欠如が根底にあると僕は思っている。今なお「外国人」として生きる道をよしとし、コリア系日本人として生きる道を切り拓こうとはしないのである。

 病のため僕は任を離れ、洪さんは逝った。残念至極というほかはない。

 洪さんとは渡来系の人々がこの列島を制圧する前の縄文文化期についてもよく語りあった。有史以前の遠い遠い昔からの歴史の中に「在日コリアン」をおいて、どう生きるかを考えることができる人だった。

 大事な話し相手、大事な友人を喪ってさびしい。「洪大杓さん、さよなら」。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿