川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

「福島の奇跡」 中島紀一さん

2012-10-01 08:51:52 | 自然と人間(震災・津波・原発事故)

 9月30日(日)晴れのち暴風雨

 午後一時半から小川町の町民会館で開かれた講演会「原発に依存しない暮らしを考える」に出席してきました。「昴」という社会福祉法人の主催です。550人定員の座席はほぼ満員です。僕らが最後の客で一番奥の席です。隣の席が空席のままだったので足を乗せられたのは何よりです。

 小出裕章さんのお話は読んだり聞いたりしてきたことと変わりません。日本が法治国家であるなら東日本のかなりの部分が「放射能管理区域」に指定されなくてはならない、と強調されていました。原発事故はそれほどの大被害をもたらしているのに政府も国会もその事実に目を覆って、再稼動・原発建設工事再開なのですからあきれ果てます。

 中島紀一さんのお話はあまり耳にしない事実に満ちていて、放射能地獄で生きていくしかない3・11以後のわたしたちに考える材料を与えてくれるもののようでした。僕もどう咀嚼したものか、あれこれと考えをめぐらしています。

主催者が配布した「講演要旨」を書き写しておきます。

 

農を通じた暮らしの再生

  茨城大学名誉教授 中島紀一

 

nakajimasennsei 1.jpg  3・11大震災と福島第一原発事故から一年半が経過しました。この間に「南海トラフ」の巨大地震予測など、一年半前の災害が過去のことではなく、これからも起こるだろう、現実的な恐怖として、今もあることが知らされています。

 長い歴史のなかで、わたしたちの暮らしの中で「自然」は「神」としてあり続けてきました。「神」としての「自然」に畏敬の気持ちをもって手を合わせ、自らを振り返り、豊かな明日があることをお祈りする、そうしたあり方がわたしたちの暮らしを支える精神でした。

一年半前の悲惨な災害と大事故はわたしたちの社会からそうした精神がほぼ消えてしまっていた現代という時点で発生したとも言えるかと思います。自然への畏敬を忘れ、傲然として自然を痛めつけるような社会と暮らしのあり方を見直し、自然の恵みに支えられる社会と暮らしを作っていくことが痛切な課題になっているとつくづく思います。

 原発事故では食べ物の放射能汚染が心配されました。事故の時に畑にあった作物は強く汚染されましたが、その後田畑を耕し種を播いて育てた作物からは放射能はほとんど検出されないという驚くべき状態が作られてきました。田畑の土には事故によって放出された放射能が含まれているのに、その放射能が作物にはほとんど移行しないのです。作物は「土の力」に守られたのです。私たちはこれを「福島の奇跡」と呼んでいます。

 「福島の奇跡」を生み出したのは「土の力」であり、その力を引き出したのは、被災の最中も耕し、種を播くことを止めなかった福島の農家の農の営みでした。私たちはいま、このことを感謝をこめてしっかりと受け止め、自分たちの暮らしの問題として深く考えていくことが必要だと思います。

被災の最中も耕し種を播くことを止めなかったのは、阿武隈山村のお年寄りの農人たちでした。福島では強制避難とならなかった地域の農村でも、若い世代の方々を中心にたくさんの住民が他地域に避難しました。今も避難は続いています。しかし、多くのお年寄りたちは地域を守り、家を守るためにその地にとどまり、自然とともにある暮らしを続け、田畑を耕し続けました。

お年寄りたちの農は家族と地域の自給のための農でした。事故後、阿武隈の山村をつぶさに歩いてみて、この地にはこれほど自給的農が息づき続けていたのかと驚かされました。そして作物には放射能はわずかしか移行していなかったという事実は、お年寄りたちにとっては、まずはこの野菜は孫たちにも食べてもらえる野菜として育ったのだということを意味しており、検査結果を手にしたお年寄りたちは、その喜びのなかで涙したのです。


 事前に配布された「要旨」なので講演内容そのものではありません。

お年寄りたちが収穫した農産物が高速道路のSAに山積みにされていたという話もありました。お土産にもらった農産物をそのまま持って帰るわけにはいかないと子や孫が「ゴメンね」といいながらおいていったといいます。たとえ微量で「安全」だといわれても汚染農産物には違いないと思ったのです。

質問用紙に「中島さんは安全だから食べようと推奨しているのか」と書いた人が多かったようです。

中島さんにゆっくりとお話をしてもらうのがよかったのですが時間がないためかなわなかったのは残念です。

嵐の接近でわたしたちも閉会とともに急いで帰途につきました。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿