川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

桔梗ヶ原女子拓務訓練所跡を訪ねて

2011-04-06 12:58:05 | 中国残留日本人孤児

 昨日、7時過ぎに無事川越に帰着しました。今回の故郷訪問の旅はほとんど計画性のない行き当たりばったりの日々で、結果としてみれば14泊15日の長い旅になりました。突然の訪問にもかかわらず、旧友・知己・親族が都合をつけて歓待してくれました。感謝あるのみです。

 3月22日(オーシャン東九フェリー) 23・24・25(コンフォートホテル高知駅前)26・27(室戸岬・実家)28(馬路温泉)29・30(実家)31(愛媛県四国中央市・蔦廼屋)4月1日(東横イン・松山)2(東横イン・岡山)3(東横イン・敦賀)4(安曇野市・ごほーでん)

 宿泊先の一覧です。安くて便利な都市型ホテルを利用することが多くなりました。パソコンも自由に使えるので何よりです。でも、圧巻は「農家民宿・ごほーでん」です。景観も設備も料理も最高で低廉ときています。(長期滞在者は一泊二食で5500円)。自由に使えるパソコンも数台常備されています。

 地震・津波に原発事故という未曾有の困難のただ中におかれている人々には申し訳ないことですが、関東を脱出して、のんびり、ゆっくり、春を迎える列島を楽しませてもらいました。

 忘れないうちに昨日のメモ。

4月5日(火)快晴

 朝からこれ以上はないという青空。正面の常念岳は言うに及ばず、白馬方面のアルプスの雪山の景観は形容しがたい。

 今日は5月の「きいちご移動教室」の下見。「ごほーでん」の目と鼻の先にある「大王ワサビ園」「穂高観光協会」に寄った。

 

 午後は塩尻市の「長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所」跡を訪ねることにした。「大陸の花嫁」を養成するための施設だった。

 ●http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300433_00000&seg_number=003

妻が20数年来愛飲している「井筒ワイン」のワイナリーが「桔梗ヶ原」(ききょうがはら)の交差点近くにあるので訪ねてみたが、どなたも聞いたことがないとのこと。次に市役所へ。市民課、庶務課と回されて調べてくれたがわからず、広丘支所に行くように指示される。

 支所長の林さんが『野村区史』をひもといて心当たりの民家に電話を入れてくれる。その結果、教えてくれたのは「塩尻市大字広丘野村」。塩尻から松本に向かう国道19号をすすみ、九里巾交差点先の「SEIYU」手前で右折し、四つ角を直進したら、二つめのT字路を左折、さらに突き当たりを右折した先の小さな分かれ道の畑の隅にその「木柱」はあった。細い木柱に刻まれている文字の全文。

 

長野県桔梗ヶ原女子拓務訓練所跡

 戦時中、中国東北区(旧満州)への開拓移民の配偶者(花嫁)を養成する施設として、長野県が全国にさきがけて昭和15年9月に開所した。「大陸の花嫁学校」として全国に紹介された。

 

 これが訓練所跡を示すすべてである。高ボッチ高原に続く畑作地帯に見えるが、このあたりは宅地化が進んでいる。注意深くこの木柱を読んだとしても「訓練所」を想像することは難しい。

 失礼を省みず、近所のお宅を訪ねたら小沢洋さんが出てきて相手をしてくれた。

 小沢さんは昭和18(1943)年生まれというから当時のことを知るわけではないが、小学生時代までは「日輪兵舎」などの施設が残っていて、いくつかの寮(宿舎)は関係者に払い下げられたという。

 お父さんは県の職員として八ヶ岳の訓練所(今の農業大学校)で働いており、「満州」にも行ったことがあるらしい。戦後、同じく県の施設であるここに転勤してきたが、結核のため早世された。倉庫を探せば古い写真が見つかるかもしれないといっておられた。

 木柱を立てたのは「SEIYU」に近い所に住んでいた清水幸人さん(当時の野村区長)だが故人である。清水さんは戦後この地に入植した人らしい。

 小沢さんにお会いできてほんとうによかった。幽かではあっても「桔梗ヶ原訓練所」のイメージが浮かび上がってきた。

それにしてもと思わないわけにはいかなかった。跡地がキレイさっぱりなくなっているばかりではなく、かつて塩尻にこのような歴史があったことを市役所の職員の誰もが知らない様子なのである。

 小学校や中学校の「郷土史」はどうなっているのだろう?

 長野県は満蒙開拓団の送出にもっとも熱心な県であった。信濃教育会が果たした役割は計り知れない。かれらの後裔である「民主主義教育」を担ってきた人々は何をしてきたのだろう。歴史の証拠を闇に葬ることだけに熱心だったのか。

 歴史の事実に学ぶことが出来ない人間は現実をありのままに認識することも出来ない。ただただ時代に流されていくだけである。それが『教育県・長野』の実態なのか。

 塩尻市にはせめて跡地に説明板を作るなりのことはしてもらいたい。旧広丘村野村区の区史(平成9年刊)にはこの地域の戦後開拓の記事があるが訓練所については「あった」というだけである。

 <付け足し>

 小沢さんが読んだ記憶があるという『信濃毎日新聞』の記事「足元をみつめて」を書き起こしたブログがある。日付が分からないが(戦後60年)とあるから2005年の記事と思われる。

 ●http://www.justmystage.com/home/yagisan/asimoto.html

 

 


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