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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

隼人塚  九州路に友人たちを訪ねて(2)

2011-05-11 11:32:11 | 出会いの旅

昨日は午前中に妻の車で狭山・智光山公園。前日見たハンカチの木とユリの木を案内した。ハンカチの木は2本だがユリの木は街路樹のように並んでいる。(花は今が盛り。みなさんもどうぞ)。

 昼寝の後、九州の旅で世話になった友人たちに手紙を書く。できあがってきたばかりの写真を同封する。心余って言葉めちゃくちゃ。

夕刻、相撲協会のHPで終わりの数番を見る。これで一日が終わった。

 

4月21日(木)晴れ

 鹿児島神宮(大楠)~隼人塚・隼人塚史跡館~宮浦神社(大銀杏)~黒酢の里・福山「かくいだ」(昼食)~上野原縄文の森~霧島

観光ホテル(泊)

 K子夫人とお別れした後、田上くんに終日霧島市と周辺を案内してもらう。

 ●隼人塚

 (出典http://washimo-web.jp/Trip/Hayato/hayato.htm

 道路脇に立つ塔はたびたび反乱を起こして鎮圧された隼人の供養塔で平安時代のものとか。史跡館でパンフ『隼人族の抵抗と服従』を買った。それによれば『続日本紀』には隼人族の大和政権への抵抗と虐殺の記録がたびたび出てくるという。

 ●702年(大宝2年) 隼人族が大和政権の命令に背いたので武力でやっつけた。そこでようやく戸籍を作り、役人をおくことが出来た(「薩摩」の建国)。

 ●720年(養老4年) 隼人族が大隅の国司を殺す。征隼人持節将軍・大伴旅人が一万人の兵隊を引き連れて鎮圧に来る。(隼人の乱)

 ●721年(養老5年) 1年数ヶ月の闘いの末に首を切られたり捕虜になった者1400人あまり。

隼人族の怨霊は長く朝廷を悩ませたらしく、その霊を慰める「放生会(ほうじょうえ)」が宇佐八幡宮(豊後・大分県)で始まり、やがて鹿児島神宮(八幡宮)でも行われるようになったという。「塚」はこのような行事との関わりの中で作られたらしい。

 東北の蝦夷(えみし)に関わる遺跡はあちこち訪ねたが隼人に関わる遺跡はここが初めてだ。『続日本紀』の反乱の記述を目にするのも初めてだ。不勉強者はこうやって初めて目を開かれる。近年になって作られたという「史跡館」は小規模なものだが「隼人」を名乗るこの町の心意気を示している。

 近畿地方の各地に移住させられた隼人族も多く、京田辺市などに「隼人舞」が伝わっているらしい。逆に豊後などからこちらに送り込まれた人たちもいるという。異端者を抹殺、分散、同化して支配する権力者のやり方はいつの時代も変わらない。それでも怨霊の「祟(たた)り」にことあるごとにおびえ、時には都を移すことさえした。

 2004年にはこの町で「隼人サミット」が開かれ、森浩一さんの講演「隼人と日本文化」、シンポジウム「日本神話の中の隼人」「畿内に移住した隼人」が行われた。その記録集が隼人町教育委員会から出ている。ぱらぱらと見ただけだが面白そうだ。

 「地域が面白い(地域学ことはじめ)」「考古学は地域に勇気を与える」「隼人、エミシ」「古代の国内移住、日本文化を強めた力」「日本の地域の力」… 森さんの講演の中見出しになっていることば。「本当の日本の歴史」を書きたいという人の熱意が伝わってくる。ゆっくり読んでみようと思う。

 ●宮浦宮http://www.genbu.net/data/oosumi/miyaura_title.htm

 大銀杏があるというので連れて行ってもらった。錦江湾近くに簡素な作りの新しい社が完成したばかり。若い宮司さんの説明が面白かった。

 「神武天皇はここから東征の船出をなさった。2600数十年前のことです。戦勝を祈念して植えられたのがこの銀杏です。もっともこの木は2代目ですが…」

 まじめな顔であたかも歴史的事実のように話すのが「面白かった」。この方は神武東征は2回あって、宮崎からのは2回目に当たるという。ヤマトでの国の基礎作りが整ってから再度出発したのだという。

●黒酢の里・福山https://iiiro.jp/blog/dance/170839.html

 桜島の見える明るいレストランで昼食、黒酢の壺畑がみごと。

午後は「縄文の森」を散策した後、夕刻霧島観光ホテルまで送ってもらった。遠くに桜島が見える。田上くん、本当に有り難う。