傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 第三編之一
曲亭馬琴著 歌川国安画 仙鶴堂嗣梓 ▼:改頁
さてもその後、虎尾(とらのお)の桜戸は大雪に住処(すみか)を押し潰され、五六町離れた観音堂に退(しりぞ)いて、陸船(くがふね)夫婦が目論んだ災いを逃れたのみならず、図らずも舳太夫(へたいふ)、陸船、奈落婆らを討ち留めて、日頃の恨みを返せば、御堂の縁に尻掛けて、買い持て来た瓢(ひさご)の酒を飲み尽くして寒さをしのぎ、仕込み杖を引き下げて、道を三町ほど走るとあちこちの百姓どもが倉の火を消そうと雪道を走り集うのに会えば、 桜戸は声を掛け、
「人々、早く彼処(かしこ)の火を消したまえかし。私(わらわ)は御館(みたち)におもむいて、四伝次殿に訴え申さん、やよさぁさぁ」と云い捨てて、やり過ごして走った。
桜戸は雪を明かりに一里か二里か行方も定めず走ると真夜中になり、身体はひどく飢え疲れ、寒さも耐え難く、見れば向かいの森のほとりに一構えの生垣あって、冠木門(かぶきもん)は閉めてあれども、垣の隙より点(とも)し火の影ちらちらと見えれば、門のほとりに立ち寄って、扉を押せば開いた内から「誰ぞ」と声が掛かった。桜戸は進み寄り、
「私(わらわ)は今宵、山苧倉(やまそくら)の火事で住処(すみか)を出て、道に迷って来た者なり。かたの如くの大雪で難儀(なんぎ)に及びぬ。しばし囲炉裏に当らせて、濡れた衣を干させたまえ」と云いつつ、やおら戸を開ければ、ここは一棟の長屋で内には五七人の賤(しず)の女(め)らが糸を繰り、麻を紡いで、夜なべをしていた。
その時、その賤の女らは桜戸をつらつら見て、
「それはいと難義にこそあらめ。こなたへ寄って当りたまえ」と云うと桜戸は喜んで、「許したまえ」と云いながら、にじり上がって囲炉裏のほとりに近いて、身を温めて濡れた衣を干すと酒の香がふんとして、火の明かりであたりを見ると一升徳利が囲炉裏の隅の灰に埋ずめて置いてあった。その時、桜戸は賤の女らに向かって、
「私(わらわ)は身の内冷え凍(こご)え、その上に飢え疲れたり。願うはこの酒を少し分け与えて飲ませたまえ。酒の値は払うべし」と云うを皆々聞きながら、
「これは我々が飲むにもなお多からず、足りない物をいかにして、和女郎(わにょろ)に飲ません。モウ良い加減に出て行きね。贅沢にほちゃけて物強請(ものねだ)りせば、男衆を呼び寄せて、酷い目に会わせるや」と云いつつ、どっと笑えば桜戸は腹に据えかね、
「これは奇怪な過言(かごん)かな。否(いな)と云われるこの酒を無理に飲もうと云うにはあらぬに、酷い目に合わせんとは今一言云うて見よ。さぁ云わずや」と息巻いて、囲炉裏をはたと打ち叩き矢庭(やにわ)に茶釜を打ち倒し、はっと立った▼灰諸共に火もまた四方に散乱し、あたりに集(つど)いし女どもは目口に灰の入るもあり、小鬢(こびん)を焼かれ裳裾(もすそ)を焦して、したたか火傷(やけど)をするもあり。等しく「あっ」と叫びつつ、驚き恐れて、皆諸共に表の方へ逃げ失せた。
桜戸はそれを見て、からからと笑い、その徳利を引き出して茶椀に注いで飲むと思わず一徳利の酒を残り無く飲み尽くして、仕込み杖(つえ)を突き立てて、身を起しつつ立ち出て、不知案内の雪道をそことも分かず進んだ。飢えて飲んだ酒ならば幾程もなく酔いは昇って、足元しどろに定らず、一歩は高く一歩は低く、只よろよろとよろめいて、たちまちつまづき倒れた。ひどく酔った者が伏し転んでは遂に起き得ず。桜戸は降り積もる雪に半身掘り埋ずめても寒さも知らぬ高いびき。日頃にも似ずに哀れなり。
さる程に賤の女らは慌て惑って逃げ出して、桜戸の事を斯様(かよう)斯様とかしましく男共に告げれば、皆々これを聞きながら、
「さては盗人(ぬすびと)御座(ござ)んなれ。遠くは行かじ追っかけよ」と麻縄、棍棒(こんぼう)、松明(たいまつ)を手に手にひ下げて走り出れば、小鬢(こびん)を焼かれた女子(おなご)らも遅れじと追うと、行くこと今だ四五町に過(す)ぎず、見れば、降り積もった雪の中に酔い伏した女あり。
小鬢を焼かれた賤の女は先に進んで松明(たいまつ)を照らし見て、「盗人(ぬすびと)女はこれなり」と云うと皆々折り重なって、袋の物を取る如く、衿髪(えりかみ)つかんで引き起こし、ひしひしと縛(いまし)めて、もとの長屋へ引き連れ帰って、厳しく柱へ繋ぎ留め、「明日の朝、御前様のお目覚めあれば訴え申さん。それまで誰彼守れ」と皆で夜の明けるを待った。
かかりし程に桜戸はようやく酒の酔い覚めて、驚き呆れて声を振り立て、
「これは何故(なにゆえ)理不尽に、我を縛(いまし)める。この縄早く解かずや」と云わせも果てず、女子(おなご)共はからからと笑い、
「盗人(ぬすびと)女の猛々(たけだけ)しさよ。おのれは酒を盗み飲み、その上に火傷をさせ、小鬢(こびん)も布子(ぬのこ)も焦がしたを早忘れたか。不敵の曲者(くせもの)。なお、辛き目を見せん」と罵(ののし)る他は無かりけり。
かくて、その夜も明け御前様のお目覚めぞと知らせによって、その男女は桜戸を引き立てて、母屋へ参って縁側のほとりに居並び、
「昨夜(ゆうべ)、図らず盗人(ぬすびと)女をからめ捕って候なり。いかが計らい申さんや」と聞こえ上げれば、しばらくして主の婦人が奥の間より出て、
「そはいかなる盗人(ぬすびと)ぞ」と問いつつ近く立ち寄って、桜戸を見て大いに驚き、
「そは虎尾の刀自(とじ)ならずや。いかなる故(ゆえ)にここへ来て、百姓どもにおめおめとからめ捕られたか。思い掛けなや浅ましや」と云われて驚く桜戸も眼(まなこ)を定めて見上げるとこの婦人は別人ならず、折瀧の節柴なり。
「此(こ)は此はいかに」とばかりにただ喜び、ただ恥じる桜戸は声を振り立て、
「私(わらわ)がいかでか盗みをすべき。只、一徳利の酒ゆえに酔い伏した間に絡められたり。私(わらわ)が上には様々な物語があれども、一朝(いっちょう)には説き尽くし難い。願うは私(わらわ)を救いたまえ」と叫ぶと節柴は「さこそ」とうなずき、忙わしく桜戸の縄を解き捨てて、その男女を叱り退け、腰元らに云い付けて、衣(きぬ)一重ねを取り出させ、桜戸を上より下まで着替えさせ、奥座敷へ伴って、酒をすすめ、朝飯をすすめてもてなせば、桜戸はその身の災い、富安舳太夫、陸船らの事、又、剣山(つるぎさん)四伝次、奈落婆の事など、図らずも恨みを返した始め終りを囁き示せば、節柴は聞いて感涙を押し拭(ぬぐ)いつつ、あたりを見返り、
「重ねた不仕合せもなお頼もしいあなたの命運。今、計らずして私(わらわ)が方へ来られたことこそ嬉しけれ。ここは私(わらわ)の別荘で、昨夜思い違えてあなたを縛(いまし)め引き連れ来た男女共は屋敷守の百姓なれば、必ず心を置きたまうな。私(わらわ)は昨日、ここへ来て、思わず雪に降り込められて、母屋へ帰れぬのも只、あなたの為に大方ならぬ幸いなり。しかしここは浅間で人目を忍ぶによろしからず、母屋へ伴いはべらん」とその夕暮れに桜戸を乗物に乗せて、折瀧の庄へ帰りつつ、内外の者に心得さして、頼もしく桜戸を深く匿(かくま)った。
されば又、その夜分、陸船、舳太夫、奈落らは皆、桜戸に討たれたが、四伝次は浅手で未だ死なずに在るにより、彼は偽(いつわ)り領主に訴え、
「桜戸は悪心止まずに山苧倉(やまそくら)を焼き失い、その上、舳太夫、陸船、奈落らを斬り殺して逃走したり」と申すと佐渡の領主本間(ほんま)の太郎は訳を聞いて驚き怒り、にわかに手下を手分けして、八方へ差し向けて、村里毎に下知を伝えて、
「罪人桜戸を絡め捕り、引き連れまいる者あれば、三十貫の褒美銭を賜うべし」と▼触れた。
既にして、これらの事を桜戸はほのかに伝え聞いて、節柴に囁く、
「斯様(かよう)斯様の噂あり。かかればあなたが今更に私(わらわ)をかくまいたまうにあらず。私(わらわ)は今更ここに居難し。速(すみ)やかに他郷へ逃げて、災いを避けんと思うに、身の暇(いとま)をたまえかし」と云うのを節柴聞いて、
「しからば、私(わらわ)が手引きして、あなたをやるべき所あり。近江の国の伊香(いか)郡の賤(しず)の砦(とりで)に三人の女武者あり。第一の大将は大歳麻巨綸(おおとしまおおいと)と呼ばれ、第二の大将は女仁王杣木(おんなにおうそまき)と呼ばれ、第三の大将を天津雁真弓(あまつかりまゆみ)と云う。彼女らは先に滅んだ柴田の残党の梶原弥三郎(やさぶろう)の余類(よるい)で、女に似合わぬ武芸あり。先にその三人の勇婦らが流浪して諸国をめぐり、或る年、この地に来た時に私(わらわ)の屋敷に留(とど)め置き、養うこと一年余り。又、立ち去る時に、路銀を多く取らせたり。かかれば、私(わらわ)が手紙であなたの事を頼めば、留めんこと疑い無し。さればその巨綸(おおいと)らは四五百人の手下を集めて、賤ヶ岳(しずがたけ)に砦構え、余呉(よご)と琵琶(びわ)の湖を前と後ろの城塞に余呉川、飯浦の大川を境として、をさをさ猛威を振るうと聞く。あなたが彼処(かしこ)に身を寄せれば、生涯後ろ安かるかるべし。さりながら、当国(とうごく)の港々には新たに関を据えられて、人の出入を検(あらた)めると伝え聞けば、旅立ちに難義あり。いかにせまし」と頭を傾け、しばし案じてうなずきつつ、
「良い手立てがはべるなり。謀(はか)り事は斯様(かよう)斯様」と膝すり寄せて囁き示せば、桜戸は斜めならず喜んで、やがてその儀に任せた。
かくてその次の日に節柴は磯遊びに出ると偽り、多く召し連れた腰元の中に桜戸を共に立たせて、小木(おぎ)の港におもむくとここにも関を据えられて、本間の家臣、沢足(さわたり)江番太(えばんた)が手下を大勢従えて、この所を守っていたが、兼ねてより相知る折瀧の節柴が磯遊びに行くと聞いて、忙わしく出迎えて、
「珍らしや折瀧殿。このいと寒き時に、何処(いずこ)へおもむきたまうぞ」と問われて、節柴は微笑んで、
「私(わらわ)は鬱気(うつき)の病があり、閉じこもっているよりも磯辺に出て貝を拾えば少しは保養にならんかと日和(ひより)も良く磯遊びに出たなり。あなたは何故(なにゆえ)にここらで勤役(きんやく)したまうやらん」と云うと江番太は
「さればとよ。都の流人の桜戸と呼ばれる者が倉を焼き、人を殺して逃走したにより、領主の仰せを承り、人の出入りを検(あらた)める臨時の役に候」と云うと節柴はうなずいて、
「そは御大義にこそはべれ。私(わらわ)が具した供の内にその桜戸とやらが在るべきに。いざ検めて見たまわずや」と云いつつ笑えば、江番太もからからと笑い、
「実(げ)に、御供の女中の群れにはその桜戸も在るべけれど、節柴殿の事なれば検めるには及ばぬ事なり。さぁさぁ通りたまえかし」と戯れて、下部らに下知して木戸を開かせれば、節柴は▼心密(ひそ)かに喜んで、皆諸共に港へおもむき、さて桜戸には忍びやかに旅装いを整えさせて、兼ねて用意の船に乗せ、越後の方へ落とし遣(つか)わし、節柴は去らぬ体(てい)で、終日(ひねもす)貝を拾いつつ、帰り道に江番太に物を贈って喜びを述べ、暮れて自宅へ帰って行った。
○さる程に桜戸は節柴の情けで難なく港を逃(のが)れ出て、越後の国へ渡り、越前を経て、近江の賤(しず)が砦(とりで)を指して、日に歩み夜に宿り、急がぬ旅に日数経て、暮れ行く年に近江の菅野(すげの)浦に着いた。
折から昨日の雪晴れて、山白妙(しろたえ)に風寒く、一軒の腰掛酒屋があれば桜戸は進み入り、長椅子に尻を掛ければ酒屋の杜氏(とうじ)が出迎えて、
「いかに酒を参らすべき、強飯(こわいい)も候」と云うと桜戸はうなずいて、
「否(いな)、強飯は欲しからず。今日の寒さが耐え難く、さぁさぁ酒を飲ませよ」と云うと杜氏は心得て、酒二三合を温めつつ、一椀の湯豆腐に鮒の煮浸(にびた)し取り揃え、早置き並べて勧めた。その時、桜戸は杜氏に向かって、
「私(わらわ)は急ぐ用あって、賤が砦へ行く者なり。渡し舟があれば雇(やと)うてたべ」と頼むと杜氏は眉をひそめて、
「ここは船着きならざれば、渡し舟も候(そうら)わず」と云うを桜戸は押し返し、
「渡しの舟があらずとも雇えば舟を貸す者あらん。船賃は望みに任せん。ともかくもして雇うてたべ」と再び頼めば頭を振りつつ、
「稀(まれ)には舟が無いにはあらねど、この頃の大雪で舟稼ぎする者は絶えてここらに一人も無し。もちろん飯浦、浜村の山間(やまあい)は陸続きで候(そうら)えども近頃難所を切り塞がれて、鳥も通わず、船ならずしてなかなかにおもむくことは叶い難し」と云われて桜戸は仕方無く、ほとほと困り果てた時に一人の女がしづしづと進み入り、桜戸に向かい、
「あなたは今、賤の砦へおもむきたしと云われたが彼処(かしこ)に知る人候か。或るいは人の手引きによって、初めておもむきたまうにや。あなたは何と云う人ぞ」と問われて、桜戸は隠すに由なく、
「私(わらわ)は桜戸と呼ばれる者で、この度、折瀧の節柴殿の勧めによって、遙々(はるばる)佐渡より来たなり」と云うと驚くその女はほとりに寄って尻を掛け、
「さては世の噂に隠れなき女武者所の教え頭と聞こえたあの虎尾の桜戸殿か」と再び問われて、桜戸はにっこと笑み
「云われる如く、虎尾の桜戸は私(わらわ)にこそ」と告げると「さては」と喜び、
「しからば、ここは道近で心の内を述べ難し。まず此方(こなた)へ」と奥の座敷へ誘(いざな)って、又、更に肴(さかな)を添え、酒をすすめて、さて云う、
「我は賤の砦の巨綸(おおいと)の手下で、暴磯神(ありそかみ)の朱西(あかにし)と呼ばれる者なり。この酒店を出しつつ、世の噂を聞きさだめ、こなたに憩(いこ)う旅人で味方にすべき者あれば説きすすめて砦(とりで)へ遣(つか)わし、▼又、身の仇(あだ)となる者は密(ひそ)かに痺(しび)れ薬で殺して、憂(うれ)いを除くなり。これによりあなたも鎌倉方の者ならば痺れ薬を酒に加えて片付けんと思ったが、三大将が大恩受けた折瀧殿の引き付けなる虎尾殿であるを知れば事を誤(あやま)つべし。真(まこと)に危うい事なり。我が同道すべけれども、既に早黄昏なり。今宵はここに泊りたまえ。明日はつとめて伴うべし」と云い慰めて、もてなせば、桜戸深く喜んで、あの亀菊の邪(よこし)まで、無実の罪に落とされたその事の始めより、舳太夫、陸船を討ち取って恨みを返した事の一部始終を物語れば、朱西(あかにし)は耳を傾けて膝(ひざ)の進むを知らざりけり。
さて、その明け方に朱西は桜戸を起し仕度を整え、弓をたばさみ出て、水際(みぎわ)に茂る枯れ葦(あし)へ鏑矢(かぶらや)射込むと、たちまち葦の茂みより早船一艘が漕ぎ出して、こなたの岸へ着けば朱西は桜戸と共にその舟に乗って、山梨の磯へ渡り、ここより陸に登り、船を返して、程なく砦におもむいて、桜戸の事を巨綸(おおいと)らに告げれば、巨綸聞いて二人の勇婦の杣木(そまき)、真弓ら諸共に書院に出て、桜戸を呼び入れさせて対面した。
その時、巨綸(おおいと)は桜戸に向かって、「あなたの事は暴磯神(ありそかみ)の物語でつぶさに聞いた。折瀧殿はつつが無きや」と問えば、桜戸「さん候。書状を預かったり。これ御覧ぜよ」と懐より取り出して渡すと巨綸は開き見て、手下の者に云い付けて、酒肴(さけさかな)を出させ、桜戸をもてなしつつ、腹の内に思う、
「・・・・桜戸はその始め女武者の頭で十八番の武芸に長(たけ)たり。しかるに我は青表紙(あおびょうし)の唐文字をよく読むのみで武芸は二の町(二流)なり。又、杣木(そまき)、真弓、朱西らも十二分の武芸ならぬに、▼桜戸を留めて我らの群れに入れれば、遂に山を奪われるべし」と思案をしつつ、金二十両を取り出して、桜戸に贈って云う、
「折瀧殿の引き付けで遙々(はるばる)と来たまえども、いかにせんこの砦は領分狭く兵糧も多からねば、長くあなたを留め難し。これはいささかの品ながら路銀として参らせる。何処(いずこ)へなりともおもむいて、良き人を頼みたまえ」と云うと桜戸は押し返して
「私(わらわ)は路銀が乏(とぼ)しい故(ゆえ)に遙々とここへ来たにあらず。節柴殿の勧めにより、長くこの所で身を寄せんとのみ思いしに、この賜物(たまもの)は本意(ほい)にあらず。まげて仲間に入れさせたまえ」と云うと杣木も朱西、真弓も巨綸(おおいと)を諌(いさ)めて云う、
「兵糧が豊かならずと云えども、今この女中(じょちゅう)を留めずば、引き付けられた節柴殿に受けた恩を忘れるに似たり。よくよく思案したまえ」と云うと巨綸(おおいと)は頭を振って、
「節柴殿にはいささか不実なれども、未だこの桜戸の心の底を知らず。只一封(いっぷう)の状で心も得知らぬ人を留めて、身の災いとなる事あれば後悔そこにたち難し。気の毒な事ながら、その金を受け収めて、何処(いずこ)へなりともおもむきたまえ。我らが心に如才は無けれど、あなたを養う余力は無し。明日は努(つと)めて発ちたまえ」と苦々しげに答えつつ、留める気色(けしき)は無かった。
桜戸が賊(しず)の砦を離れて、投名状(なのりぶみ)を求めるところ、これらの事はつぶさにこの次の巻に見えたり。
<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 第三編の貳
馬琴著 国安画 本町筋油町鶴屋喜右衛門
文政丁亥嗣●全稿八巻合本
その時、桜戸は膝(ひざ)を進めて、
「巨綸(おおいと)殿、何故にさのみ疑いたまうぞ。私(わらわ)は先に亀菊の謀(はか)り事に落とされて、無実の罪を得てより、災い再びこの身に迫って、進退既に極まったり。さればこの所に身を寄せんと願う事の他は無いものを」と云えば、杣木(そまき)らも言葉を添えて諌(いさ)めると巨綸(おおいと)しばし案じて、
「しからんには義とした投名状(なのりぶみ)を我らに見せて、赤き心を表したまえ」と云うのを桜戸は聞きながら、
「それは易い事にこそ。硯(すずり)と筆を貸したまえ。望みのままに書きはべらん」と云えば朱西は方辺(かたへ)より、
「否(いな)、投名状というのは物書く事にはあらず。初めてこの砦(とりで)に来た者は越前街道に出て、一人の旅人を討ち取って、その首を携さえ来て、二心(ふたごころ)無きを示すのを投名状(なのりぶみ)と名付けたり」と諭(さと)すと桜戸はうなずいて、
「それも又、易かるべし。心得はべり」と請け引くと巨綸(おおいと)は重ねて
「しからんには明日より三日以内に投名状を持参したまえ。三日の内にその儀無くば、決してここには留め難し。縁なきものとあきらめて、何処(いずこ)へなりとも行きたまえ」と念を押せば、桜戸は「仰(おお)せには及ぶべき」と答えた。
その明けの朝、桜戸は早く起き、一人の小者(こもの)を案内役とし短刀を腰に横たえ、仕込み杖(つえ)を突き立てて、飯浦の山あいの浜村の方に出て、旅人遅しと待つけれど、頃しも年の終わりで降り積もる雪深く、山々は只白金を伸べた如くに冴(さ)え渡り、寒さ耐えがたく、夕暮れになるまで人が一人も通らねば、桜戸は望みを失って、空しく砦に帰れば、巨綸は「さこそ」とあざ笑い、
「いかに投名状を持て来ざるや。明日も明後日もむなしく帰れば、ここには決して留め難し。ずいぶん精を出されよ」といと憎々(にくにく)しげに▼桜戸を懲(こ)らした。
かくて又、桜戸は次の日も小者を従え、昨日の山路におもむいて、終日そこに立ち暮らせども、この日も人に会わざれば、いよいよ望みを失って、
「いかなれば、かくまでに我は運の無きや。とてもかくても止められぬ、宿世(すくせ)ならん」と嘆くを小者が慰めて、
「されども、明日又、一日あり。心を痛めたまうな」と諌(いさ)めて砦へ帰れば、巨綸はますますあざ笑い、
「明日も又、獲物無くば、再び此方(こなた)へ帰るに及ばず。何処(いずこ)へなりとも行きたまえ」と云うと桜戸は答えもせず、その夜は早く臥所(ふしど)に入って、又、次の日の暁より砦を出るとあの小者が「今日はいささか所を替えん」と云うと、その儀に任せて、羽振山(はぶりやま)の麓に行き、東の人を待つけれど、未(ひつじ)の下刻になるまでに、この日も人に会わなければ、桜戸は遂にあきらめて、
「かくては砦へ帰り難し。日の暮れぬ間に里へ行き、今宵(こよい)の宿を求めん」と木陰を出る折しもあれ、見れば一人の旅人が野坂の方より来れば、「天の与え」と桜戸は腰刀を振って、進むを見返るその旅人は「あっ」とばかりに驚き恐れて、荷物を捨てて一目散に逃げて行方(ゆくえ)は知らざりけり。
桜戸は偶然に来た旅人を追い失い、しきりに後悔するのを供(とも)の小者が慰めて、
「投名状は得たまわねども、この度、荷物を獲っては一つの功になるべきなり。それがし砦へ持来して、事の由を告げ申さん」と云いつつ、その荷を担ぎ、砦を指して急いだ。
さる程に桜戸はしばらく残り留まって、なお旅人を待つと遥か向かいの麓路(ふもとじ)より旅人とおぼしき女がこなたを指して来た。およそこの時代の風俗で、女と云えども旅路は腰に刀を横たえたり。桜戸これを見るより「我、物得たり」と喜んで、仕込み杖(つえ)を引き側(そば)め、まっしぐらに突いてかかれば、その女は怒って、
「盗人女めが飽くこと知らず、我が供人に持たせた荷物を奪って、その上に、私(わらわ)に敵対う不敵さよ。さぁさぁ荷物を返さずば、目にもの見せん」と氷の刃(やいば)をひらりと抜いて、面(おもて)も振らず丁々発止と戦った。互いの手練、虚々実々(きょきょじつじつ)、一往一来(いちおういちらい)、鎬(しのぎ)を削る雪の山路を踏みしだき、既に早五十余太刀(たち)に及べども未だ勝負は無かりけり。
かかる所に巨綸(おおいと)らは小者の知らせで、杣木(そまき)、真弓ら諸共に多くの手下を従えて、砦を出て山を下り、▼早やここへ来てその有り様に驚き、しきりに感じて声を振り立て、
「御両人、しばらく止まりたまえ。刃(やいば)をおさめたまえ」と呼び掛け呼び掛け近づいて、両人を隔(へだ)てさせ、その女に向かい、
「驚き入ったあなたの武芸は感ずるになお余りあり。我々は賤の砦(しずのとりで)の頭領の賽博士巨綸(えせはかせおおいと)、女仁王杣木(おんなにおうそまき)、天津雁真弓(あまつかりまゆみ)なり。又、この女中は虎尾の桜戸殿で斯様(かよう)斯様の事により、佐渡の配所を逃れ出て、我らを頼んで来る故(ゆえ)に投名状を求めて、事がここに及べるのみ。そもそもあなたはいかなる人ぞ、名乗りたまえ」と問いかけると女はにっこと微笑み
「私(わらわ)は元大内(おおうち)の采女(うねめ)で、女武者所の頭の青柳(あおやぎ)という者なり。私(わらわ)の色が青白ければ、人あだ名して青嵐(あおあらし)の青柳と云えり。しかるに先年、私(わらわ)が預かった弓場殿(ゆばどの)の御弓懸(おんゆがけ)を紛失した咎(とが)により、都を追放され、武蔵の方におもむいて、三年を過ごし、この度、御赦免(ごしゃめん)あるにより、再び都へ立ち帰り、縁(ゆかり)を求めて、元の采女(うねめ)になる願いあり。そなたに言い分無きならば、速(すみ)やかに荷物を返して、放ちやりたまえ」と云うとますます感ずる巨綸(おおいと)は
「さては予ねて伝え聞いた青柳殿にてありしか。誤って砦に持て来た荷物はもちろん返すべし。なれどもたまたま名乗り合ったに、このままに別れんや。今宵は砦に泊りたまえ。酒一献(いっこん)参らせん」と云うと青柳も否(いな)みかね、遂にその意に任せつつ、先に逃げた供人が立ち帰ったのを従えて、いざとてやがて身を起こせば、巨綸(おおいと)は斜めならず喜んで、桜戸諸共に連れだって、賤の砦へ帰って行った。
かくて巨綸(おおいと)はその夜酒盛りの席を開いて、青柳を丁寧にもてなしつつ云うは
「今、都では白拍子(しらびょうし)の亀菊が院の御寵愛に誇って、人を損(そこ)なう事、これ多し。例え帰京したまうともはかばかしき事があるべからず。さればこの砦に留まって、大将となりたまえ。要害(ようがい)も堅固(けんご)なれば、誰にはばかる事もなし。まげてこの儀に従いたまえ」といとまめやかに留めた。
さても巨綸(おおいと)が今、青柳を留めんと思う訳は彼女を愛する故(ゆえ)にはあらず。この者は武芸に長けた者なれば、桜戸を止め置くとも十分彼女の相手になるべし。しからばこの後、桜戸が砦を奪おうと思うとも、青柳にはばかって、その事は叶うべからずと腹の内に思えばなり。
青柳はかくとも知らねど、留まる気色(けしき)無く、巨綸(おおいと)に答えて云う、
「御志(おこころざし)は喜ばしくはべれども、私(わらわ)の親は由緒正しき北面(ほくめん)の武士なりしが男子(おのこ)が無く私(わらわ)を武者所へ召されたなり。しかるに罪を被(こうむ)り、たまたま赦免にあいながら、ここに留まるは不孝なり。悪く聞きなしたまうな」と固く否(いな)んで従わず。その明けの朝、元の如くに供人連れて、砦を立ち、都を指して急いだ。
これよりして、▼桜戸は賤の砦に留まって、真弓の次の頭となった。又、朱西(あかにし)は元の如く菅の浦に帰り、あの酒店を守った。
さる程に青柳は日ならず都に帰り着き、洛中に宿を求め、いかにもして元の如く女武者所の采女(うねめ)にならばやと、所縁(しょえん)に付き、その筋を求め、官人らに賄賂を渡せば、ようやく手引きを得て、願い文を捧(ささ)げた。されば亀菊が女武者所の別当(べっとう)なれば、青柳の願い文を見て、大いに怒り
「彼奴(かやつ)は落ち度で都を追放させられて、罪許されたのは多く得難き幸いであるべきに、元の如くに武者所の采女になりたいなどと申すは片腹痛き願いなり。とても叶わぬ事なるに、重ねて取次ぎすべからず」とあくまで罵(ののし)り、願い文をずたずたに引き裂き捨てて返した。青柳はこの事を伝え聞いて、望みを失い、
「いかなれば亀菊は心様(こころざま)の毒悪なる。かくては弥勒(みろく)の世まで、この身の願いは叶うべからず。再び武蔵へ帰らばや」と思いながらもこれかれへ物を贈った事なれば、路銀も既に尽き果てた。只、先祖相伝(そうでん)の三つ具足(ぐそく)と名付けた短刀が一振りあれば、仕方無くこれを売り、路銀にせんと思いつつ、或る日その短刀を携さえて、あちこちと歩くと、三条小橋のほとりにて、にわかに人々どよめいて
「ソレ、牛鬼(うしおに)が来るぞよ。逃げよ、走れ」と罵(ののし)り騒げば、青柳は人に由を問うとその人答えて、
「近頃、このあたりにあばずれの牛鬼婆(うしおにばば)と云うあぶれ者あり。酒を好んで飽く事なく、ややもすれば人を捕らえて物を強請(ねだ)り、非道を云い掛け、或るいは暴れ、或るいはねじ込み、町の害になる事多し。されども女の事なれば、誰とて相手になる者無く、避けて通れば良い事にして、日毎に暴れ歩くなり。今、諸人(もろびと)が騒ぐのはその牛鬼を恐れるのみ」と告げると青柳は興醒(きょうさ)めて、立ち去ろうとする時に、はやくも牛鬼が近づくのを見れば、面(つら)は落蹲(らくそん)の面の如く、色は赤黒く陳(ひ)ねた南瓜(かぼちゃ)にも似たり。眼(まなこ)はつぶらにして蝸牛(かたつむり)を並べた如く、鼻は横に開いて、三つ栗を伏せた如く、右の袖を押し肌脱いで萎(しな)びた乳をぶら下げて、左の裾を片端折りして、晒(さら)し木綿の湯巻を露(あらわ)に、ひどく酔うたとおぼしくて、よろめきよろめき、わざと青柳に突き当たり、矢庭(やにわ)に捕らえ、ちっとも離さず、眼(まなこ)を怒らし、きっと見て、
「この女(あま)め、何をする。邪魔な物を手に持って、つっ立ったるは何の為ぞ」とよろけかかれど青柳はいささかも騒ぐ気色(けしき)無く、
「私(わらわ)が持つは名剣なり。これを売らんと思い、買う人を待つのみなり」と云えば牛鬼はあざ笑い、
「その短刀に銘(めい)はあるか」と問われて青柳は
「然(さ)ればとよ、これは三つ具足丸と名付けしなり」と云うと牛鬼は眉をひそめて、
「三つ具足と云うその訳いかに」と再び問われて青柳は手に取り直し、
「そもそもこの短刀を▼三つ具足という訳は、第一に鉄をよく切り、その音をせず、第二に髪の毛を刃(やいば)へ載せて吹けばたちまち粉々(ふんふん)と切れて四方へ散乱す、第三に人を切るに骨を余さず、又、速(すみ)やかにして血潮(ちしお)を見ず。この三つの不思議あるをもて、三つ具足と名付けたり」と云うと牛鬼はうなずいて、
「我、その刃を買うべきに、値(あたい)はいかばかりで売るものぞ」と問うと青柳は、
「今、要用(ようよう)の事あれば、三十金で手離すべし」と云えば牛鬼は笑いかけ、
「それは甚(はなは)だ高価なり。三百文にて我買わん。まけよ、まけよ」と急がせども、青柳は騒ぐ気色(けしき)なく、
「そなたは真(まこと)に買うにはあらじ」と云い果てぬ間に牛鬼婆はまなこを怒らし、
「さばかりの物を買わざらんや。只今、云うた三つの不思議を目の当たりに試して見せよ。まず壱番に鉄じゃ鉄じゃ」と云いつつ、帯の間を探って、銭五六文を取り出して、「切って見せよ」と手に渡せば、青柳はその銭を橋の欄干(らんかん)に押し重ね、刃を抜いてこれを切ると、さながら豆腐を切るに等しく、ちっとも音はせざりけり。
牛鬼婆はこれを見て、又、忙わしく盆の窪の毛を幾筋か抜き取って、
「さぁ、その次は髪の毛、髪の毛。吹いて見せよ」と手に渡せば、青柳これを受け取って、刃の上に乗せて、ひと吹きふっと吹くと毛は粉々(ふんふん)と切れ散った。
牛鬼婆は又、これを見て、からからと笑い、
「さて、その次は人じゃ人じゃ。さぁさぁ人を斬って見せよ」と云えば青柳は頭を振って
「太平の世に、いかに故(ゆえ)無く人を斬られるべき。そなたがなお疑えば犬を捕らえて引き持て来よ。その犬を斬って見すべきぞ」と云わせもあえず、声を振り立て、
「おのれは先に何と云った。人を斬るに骨を余さず、速(すみ)やかで血潮(ちしお)を見ずと、まさしく云ったにいかにぞや。犬を斬るとは聞かざりき」としきりにわめくと折から行き来の老若男女は何事かと集って、取り巻きつつこれを見るが、なお牛鬼を恐れて、誰も近くは寄らざりけり。
青柳はかかれども臆した気色無く、牛鬼に向かって、
「そなた、まことに買うならば、由なき事を云わずもあれ。実に切るべき人は無し」と云えば、牛鬼はわめいて
「人が無くば、我を斬れ。我はその刃を欲(ほり)するなり」と云うと青柳は微笑んで、
「そなた、まことに買うならば、さぁさぁ金を持て来たまえ」と云うを聞かずに声を振り立てて、
「我はちっとも金は無し。只今掛けで売られずば、さあ我を斬れ、斬らずや」と小突き廻して争う弾(はず)みに、その短刀に手を掛けて奪い取ろうとすれば、青柳も堪忍(かんにん)の二字も甲斐無く怒りに任して、短刀ひらりと振り上げて、水もたまらず牛鬼の細首、丁(ちょう)と打ち落とせば、躯(むくろ)もだうと倒れた。
その時、青柳は声高やかに、
「なう、見物の人々よ。見たまう如き仕合せで、女に似合わぬ事ながら、止むを得ず彼女を斬った。願うは人々、私(わらわ)の為に証人になり、公(おおやけ)へ共に訴えたまえかし」と云うと諸人は皆立ち寄って、青柳を誉め慰めて、
「この牛鬼は大方ならぬ町の害。討ち果たされたは幸いなり。我々、諸共訴え申して、事の証人たるべし」と皆、青柳を先に立て、六波羅の検断所(けんだんじょ)へ行き、事しかじかと▼訴えれば、六波羅の総司(そうつかさ)伊賀の判官(はんがん)光季(みつすえ)はこの訴えを聞き定め、三人の手下を青柳と共に三条小橋へ使わして、牛鬼婆の死骸を検(あらた)め、その後に青柳をしばらく牢屋に留め置き、なおこれかれと問い質(ただ)すと牛鬼婆はこの年頃、人の害となる者で、自宅も無く子もあらず、その凶悪も少なからねば、光季は青柳の人殺しの罪をなだめて、筑前の国太宰府(だざいふ)へ流し使わす由を云い渡し、ちん五ちん六と云う二人の下使いを差し添えて、遂にその地へ遣(つか)わした。
これにより三つ具足丸の短刀は公(おおやけ)へ召し上げられて、長く御蔵(みくら)に置かれた。されば青柳の証人に立った里人らはこの度、あの女の働きで町の憂いを除いたと喜び且つ憐れみ、銭を集めて路銀を贈り、涙を流して別れた。
かくて青柳は再び罪人となり、首枷(くびかせ)を掛けられて、遠く筑紫(つくし)へ流されることになった。さて、幾ばくの日数を経て、船が太宰府に着けばちん五、ちん六は青柳を守り、宰府の城におもむいて、六波羅からの送り状を探題(たんだい)の信種(のぶたね)に参らせて、事の由を述べれば、信種は家臣らに青柳を受け取らせ、答え文を渡せば、その次の日にちん五らは都を指して帰って行った。
そもそもこの頃、筑紫の探題小武信種は北条義時の娘婿で、内室(ないしつ)の十時(ととき)御前は義時の愛女(あいじょ)なり。されば筑紫は都に次いで西国(さいごく)第一番の大港で繁盛類(たぐい)無いのみならず、探題は六波羅の総司(そうつかさ)にもをさをさ劣らず、西九ケ国を管領(かんれい)して、勢いある大任で、しかも信種は今飛ぶ鳥も落とすと云う鎌倉の執権の義時の内縁なれば、その家は富み栄え、家臣も多く、文武の道に長けた者もその内に少なくなかった。しかも信種の奥方の十時御前は女に稀(まれ)なる武芸を好んで、召し使う女房に武芸を習わせれば、その筋にもまた武術を良くする者も多くあり。これにより都の沙汰(さた)に習わんと、ここにも女武者所を置かれたが、未だその教え頭に致すべき相応の者が無ければ、なお物足らぬ心地して、折々夫の信種に語らうと、▼この度六波羅より送られた都の流人の青柳は元大内の采女(うねめ)で、武芸に秀でた者なると申す者があれば、十時御前はこの事を又、しかじかと告げると、信種は聞いてうなずきつつ、
「実(げ)に、その青柳は物の用に立つべき者なり。しばらく使用人にして立ち振る舞いを見るのは、何か苦しかるべき」と、まず青柳の首枷を解き許し、炊事婦として使われると、心利いた女で男に勝る事多かれば、目通りをさえ差し許し、ほとり近くはべらしたが、ある日、十時御前は青柳を招き寄せ、
「そちが武芸に優れる事、人の噂に伝え聞いた。されば今より取り立てて、女武者の教え頭に成そうと思えど、人のそねみは事の妨げなるべしと思い返して思いとどまった。この宰府の女武者で野森(のもり)と呼ばれる者は二三と下がらぬ武芸あり。されば野森と試合をさせて、そちが十分勝てば、その時にこそ取り立てて、教え頭にしたらば諸人すべて従わん。いかにそなたはその野森と立ち会う心はあらずや」と忍びやかに云われるのを青柳聞いて一議に及ばず、
「それは此上(こよ)無き御恩なり。私(わらわ)は始め都にて女武者所に召された教え頭ではべりしに、弓場殿(ゆばどの)の御弓懸(おんゆがけ)を紛失の落ち度により、先には都を追われたなり。さればこそ十八番の武芸の数々、大方ならず諳(そら)んじたり。相手は嫌いはべること無し。誰にても試合の事を仰せ付けられくだされば、世にありがたき事にこそ」と、はばかる気色も無く申せば、十時御前は喜んで、青柳が申したままに、探題に告げれば、信種聞いてうなずきつつ、
「さらば、野森と青柳の試合の勝負を見るべし」と武芸係の家臣立波兵衛、女武者所の老女字野江(あざのえ)らにしかじかと心得させて、日は明日と定められた。
これにより七十五間(けん)の大馬場を試合の場所と定め、東の馬見所(ばけんしょ)を信種の桟敷(さじき)とし、西の馬見所を十時御前の桟敷として、紫の幕を張り、紅の毛氈(もうせん)を掛け渡し、東西の桟敷には武芸に長けた諸侍、女武者らも集めて、所狭きまで居並んだ。
さる程に警護の足軽百人ばかりが整々(せいせい)として控えつつ、合図の太鼓を打ち鳴らせば、東の方より女武者野森、西の方より青柳がはや静々(しずしず)と立いでた。
手鉾(てぼこ)の試合と予(かね)て定められれば、野森、青柳諸共に肌には小鎖(こくさり)の着込みを着て、小手(こて)脛(すね)当てに身を固め、上にはおのおの黒い衣(きぬ)を着て、玉襷(たまたすき)を背高に結び、九尺の槍を引き下げたが、槍の穂先を抜き取って、麻の布に石灰(いしばい)を包み、丸く鞠の如くにしたものを蛭巻(ひるまき)の上に付けた。
これらの事は予てよりの信種の指図で、真(まこと)の槍(やり)をもってすれば、命を落とす事もあるべし。互いに黒い衣を着せ、穂先に石灰を包んだ槍で立ち会わせれば、突かれた数の多い者はその石灰が衣に付いて黒きも白くなるべし。しからば勝負も自(おの)ずから分明(ふんみょう)に知られんと、かく仕度(したく)をせられた。
既にして、野森、青柳は又、打ち出す太鼓の音と共に各々(おのおの)立ち上がり、手に手に槍を引きそばめ、まず隆々(りゅうりゅう)と素突きして、掛け声を合図に野森は槍をひらめかし、青柳の眉間をのぞんで突き倒さんとする所を青柳はすかさず受け流す、手練の早業、踏み込み、踏み込み、秘術を尽くす互いの身構え、ここを晴れとぞ闘った。
かかりし程に激しい穂先に野森は既に負け色見えて後退するのみなれば、立波兵衛は下知を伝えて、引き太鼓を打たせると警護の足軽が押し隔(へだ)て、東西に引き分けさせた。
その時、人々それを見ると野森の上衣(うわぎ)は真白になって、幾十ケ所か突かれていた。その数は限り知らず、青柳は袖の下に二ケ所石灰が着いたのみで、事既に十二分の勝ちなりと、人皆罵(ののし)り、信種夫婦はことさらに喜び面(おもて)に表した。
その時、兵衛、字野江(あざのえ)らは主君夫婦に申す、
「野森は弓をよくすれども槍はもとより得手にあらず。次は弓矢の試合を御覧ぜよ」と両人等しく申すと信種夫婦は仕方なく青柳を呼び寄せて、
「いかに汝(なんじ)は今一度、野森と弓矢の試合をせんや」と問われて、青柳一議に及ばず、
「いかでかそれを背(そむ)くべき。ともかくも」と答え申せば、信種夫婦は喜んで、更に衣服を着替えさせ、最上の弓と矢に馬二疋(ひき)を引き出させ、野森、青柳に貸した。
その時、兵衛が申す、
「弓矢の試合は互いに危うし。各々(おのおの)に盾(たて)を持たせ、矢を防がせ候わん」さはとて、両人に事の心を得させつつ、小盾二枚を渡せば、これを肘(ひじ)につないで、馬に乗りつつ、又、打ち出す太鼓と共に東西より馳せ寄せて、青柳は野森に向かい、
「あなたがまず、私(わらわ)を射たまえ。三度で当たらずば、私(わらわ)又、あなたを射ん。いざ、さぁさぁ」と急がせば、野森は密(ひそ)かに喜んで、
「・・・・・槍の試合に負けたども、この度、弓矢の試合に至って、私(わらわ)に先を譲る事はこれ得難き幸いなり。▼射殺してくれん」と思えばにっこと微笑み、
「そは心得てはべるなり。さらば、私(わらわ)が射掛ける矢を受け止めたまえ」と答えつつ、東西に引き別れて、乗り巡らし巡らして、野森は弓に矢つがい、矢ごろを張って切って放せば青柳早く身を沈ませて、鞍(くら)隠れをすれば、矢はいたずらに行き抜けて、安土(盛り土)の方に落ちた。野森は既に第一の矢を射損じて、心いら立ち、再び弓に矢つがい、乗り巡らして、追い巡らし、狙いすまして丁と射る。青柳は後ろの方に弦音すれば、身を反らしつつ、小盾を持って、すかさず丁と受け止めるとその矢は発止と折れ飛んだ。野森は二度も射損じて、残るは一矢なれば、心いよいよせき上(のぼ)し、乗り回し隙をうかがい、弓に矢つがい、矢頃を計る虚々実々、よつ引きひょうと放つ矢を青柳は右手に受け留め、掴んで投げ捨てた。
さて約束なれば、今度は青柳が野森を射る番と再び馬を走らせて、その時青柳は思う、
「・・・・今、野森を只一矢で射殺すは易けれども、恨みも無い者をいかでむごく殺せるべきか。只、かすり手を負わせるのみで、我が弓勢(ゆんぜい)を思い知らせん」と追い回し追い回し、弓を満月の如く引き絞り、矢声を掛けて切って放せば、野森は右の肘を射ぬかれて、馬よりだうと落ちれば、諸人どっとどよめいて、「ああ、射たり、射たり」と褒める声がしばし鳴りも止まなかった。
信種夫婦は喜んで、青柳を呼び近づけ、女武者の教え頭に取り立てようとする時に、一人の女武者がたちまちそこに進み出て、
「殿様、奥様、待たせたまえ。野森は私(わらわ)の教え子なれども近頃、熱病を患って、病み上がりなれば、青柳の相手には足らず。願うは私(わらわ)と青柳で真剣の試合をさせたまえ。私(わらわ)も彼女に負ければ、弟子とならん。さ無くばよしや仰(おお)せでも従い奉(たてまつ)らじ」と声振り立てて叫んだ。
人々は驚いてそれを見ると、これは第一の女武者の索城(なわしろ)と呼ばれる者なり。いと短気な女なれば、人あだ名して向不看(むこうみず)の索城(なわしろ)と呼んだ。
信種夫婦は青柳を取り立てる為に試合を催したが、諸人(もろびと)はとにかく従わず、今また索城が試合を望む事、心に危ぶみ思えども流石に否(いな)とも云いかねて、又、青柳にしかじかと云い含め、心得させて、名馬一疋(ひき)を引き出させて、あれに乗れと貸したまえば、十時御前も業物(わざもの)の薙刀(なぎなた)一振りを取り寄せて、青柳にたまわったり。
されば又、立波兵衛も秘蔵の名馬一疋(ひき)を索城に貸し与え、主君夫婦に申す、
「索城、青柳の立会いに▼真剣をもてされると、いずれ一人は手を負うか、さらずば命を落とすべし。この儀を止めさせたまえかし」と云うを信種は聞きながら、
「よしや命を落とすとも彼女らの望みに任せぬも、武士には似合わぬ業(わざ)なるべし。さぁさぁ」と急がせば、兵衛は是非なく下知を伝えて、知らせの太鼓を打たせた。
さる程に索城は腹巻に小手(こて)脛(すね)当てして、腰に一振りの太刀を横たえ、立波栗毛と呼ばれた駿馬(しゅんめ)にゆらりと打ち乗って、手には大きな鉞(まさかり)を引き下げ、東の方より乗り出せば、青柳も同じ装束で、駿馬(ときうま)に打ち跨(またが)り、十時御前よりたまわりし薙刀(なぎなた)を脇挟み、西の方より馬を寄せると、なおも早まる太鼓と共に双方等しく声を掛け、打つをひらりと受け流す。一往(いちおう)一来(いちらい)、劣らず優(まさ)ず、行き巡り巡り、索城が獅子の怒りをなせば、青柳は龍蛇の勢いあり。振り閃(ひらめ)かす薙刀は雲間を漏れる月の如く、又、打ち掛かる鉞(まさかり)は岩根を走る稲妻に似て、人は人と闘い馬は馬と挑み争う。蹄(ひづめ)の音も刃(やいば)の響きも拍子を揃えて目覚しく、既に戦うこと六十余太刀に及べども勝負も果てず見えれば、信種夫婦は云えば更なり、席に並ぶ男女の輩(ともがら)、呆然(ぼうぜん)として酔うが如く、呆(あき)れ且つ感じて、手に汗握るばかりなり。
その時、兵衛、字野江(あざのえ)は主君夫婦のほとりに参って、
「索城、青柳の武芸は比類なく、劣(おと)り勝(まさ)りは候(そうら)わず。今日よりあの者どもを女武者の教え頭に仰せつけられるべし」と言葉等しく申すと信種も十時御前もその喜びは大方ならず、やがて索城、青柳を東西へ引き分けさせて、ほとり近く呼び寄せて、
「両人共に女武者の教え頭を務むべし」と云い渡させると、二人の女子(おなご)は喜びの言受(ことう)けを申しつつ、退いた。
さればその夜、索城の仲間は皆々彼女の部屋に集って、喜びを述べ、酒盛り遊んで、賑わしく見えれども、青柳は馴染みも無ければ、己(おの)が部屋に帰り、一人寂しくその夜を明かした。
しかれども是より人の頭と▼うやまわれ、我に疎(うと)からず立ち振る舞う女武者も多くなるままに、萬(よろず)の務めに暇(いとま)無くて、その年は暮れた。
かくて、その次の年、春は過ぎ夏来て、五月初めの頃に難波津(なにわづ)を預かり守る天野の判官(はんがん)遠光(とおみつ)の女武者に直鳶(ひたとび)の稲妻、篠芒(しのすすき)の朱良井(あからい)と、ことに武芸に優れたこの二人の女らはある夜、遠光の下知を受け、五六人の手下を従え、あちこちを巡った。
これらの由は詳(つまび)らかに五の巻きに記すべし。
<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
曲亭馬琴著 歌川国安画 仙鶴堂嗣梓 ▼:改頁
さてもその後、虎尾(とらのお)の桜戸は大雪に住処(すみか)を押し潰され、五六町離れた観音堂に退(しりぞ)いて、陸船(くがふね)夫婦が目論んだ災いを逃れたのみならず、図らずも舳太夫(へたいふ)、陸船、奈落婆らを討ち留めて、日頃の恨みを返せば、御堂の縁に尻掛けて、買い持て来た瓢(ひさご)の酒を飲み尽くして寒さをしのぎ、仕込み杖を引き下げて、道を三町ほど走るとあちこちの百姓どもが倉の火を消そうと雪道を走り集うのに会えば、 桜戸は声を掛け、
「人々、早く彼処(かしこ)の火を消したまえかし。私(わらわ)は御館(みたち)におもむいて、四伝次殿に訴え申さん、やよさぁさぁ」と云い捨てて、やり過ごして走った。
桜戸は雪を明かりに一里か二里か行方も定めず走ると真夜中になり、身体はひどく飢え疲れ、寒さも耐え難く、見れば向かいの森のほとりに一構えの生垣あって、冠木門(かぶきもん)は閉めてあれども、垣の隙より点(とも)し火の影ちらちらと見えれば、門のほとりに立ち寄って、扉を押せば開いた内から「誰ぞ」と声が掛かった。桜戸は進み寄り、
「私(わらわ)は今宵、山苧倉(やまそくら)の火事で住処(すみか)を出て、道に迷って来た者なり。かたの如くの大雪で難儀(なんぎ)に及びぬ。しばし囲炉裏に当らせて、濡れた衣を干させたまえ」と云いつつ、やおら戸を開ければ、ここは一棟の長屋で内には五七人の賤(しず)の女(め)らが糸を繰り、麻を紡いで、夜なべをしていた。
その時、その賤の女らは桜戸をつらつら見て、
「それはいと難義にこそあらめ。こなたへ寄って当りたまえ」と云うと桜戸は喜んで、「許したまえ」と云いながら、にじり上がって囲炉裏のほとりに近いて、身を温めて濡れた衣を干すと酒の香がふんとして、火の明かりであたりを見ると一升徳利が囲炉裏の隅の灰に埋ずめて置いてあった。その時、桜戸は賤の女らに向かって、
「私(わらわ)は身の内冷え凍(こご)え、その上に飢え疲れたり。願うはこの酒を少し分け与えて飲ませたまえ。酒の値は払うべし」と云うを皆々聞きながら、
「これは我々が飲むにもなお多からず、足りない物をいかにして、和女郎(わにょろ)に飲ません。モウ良い加減に出て行きね。贅沢にほちゃけて物強請(ものねだ)りせば、男衆を呼び寄せて、酷い目に会わせるや」と云いつつ、どっと笑えば桜戸は腹に据えかね、
「これは奇怪な過言(かごん)かな。否(いな)と云われるこの酒を無理に飲もうと云うにはあらぬに、酷い目に合わせんとは今一言云うて見よ。さぁ云わずや」と息巻いて、囲炉裏をはたと打ち叩き矢庭(やにわ)に茶釜を打ち倒し、はっと立った▼灰諸共に火もまた四方に散乱し、あたりに集(つど)いし女どもは目口に灰の入るもあり、小鬢(こびん)を焼かれ裳裾(もすそ)を焦して、したたか火傷(やけど)をするもあり。等しく「あっ」と叫びつつ、驚き恐れて、皆諸共に表の方へ逃げ失せた。
桜戸はそれを見て、からからと笑い、その徳利を引き出して茶椀に注いで飲むと思わず一徳利の酒を残り無く飲み尽くして、仕込み杖(つえ)を突き立てて、身を起しつつ立ち出て、不知案内の雪道をそことも分かず進んだ。飢えて飲んだ酒ならば幾程もなく酔いは昇って、足元しどろに定らず、一歩は高く一歩は低く、只よろよろとよろめいて、たちまちつまづき倒れた。ひどく酔った者が伏し転んでは遂に起き得ず。桜戸は降り積もる雪に半身掘り埋ずめても寒さも知らぬ高いびき。日頃にも似ずに哀れなり。
さる程に賤の女らは慌て惑って逃げ出して、桜戸の事を斯様(かよう)斯様とかしましく男共に告げれば、皆々これを聞きながら、
「さては盗人(ぬすびと)御座(ござ)んなれ。遠くは行かじ追っかけよ」と麻縄、棍棒(こんぼう)、松明(たいまつ)を手に手にひ下げて走り出れば、小鬢(こびん)を焼かれた女子(おなご)らも遅れじと追うと、行くこと今だ四五町に過(す)ぎず、見れば、降り積もった雪の中に酔い伏した女あり。
小鬢を焼かれた賤の女は先に進んで松明(たいまつ)を照らし見て、「盗人(ぬすびと)女はこれなり」と云うと皆々折り重なって、袋の物を取る如く、衿髪(えりかみ)つかんで引き起こし、ひしひしと縛(いまし)めて、もとの長屋へ引き連れ帰って、厳しく柱へ繋ぎ留め、「明日の朝、御前様のお目覚めあれば訴え申さん。それまで誰彼守れ」と皆で夜の明けるを待った。
かかりし程に桜戸はようやく酒の酔い覚めて、驚き呆れて声を振り立て、
「これは何故(なにゆえ)理不尽に、我を縛(いまし)める。この縄早く解かずや」と云わせも果てず、女子(おなご)共はからからと笑い、
「盗人(ぬすびと)女の猛々(たけだけ)しさよ。おのれは酒を盗み飲み、その上に火傷をさせ、小鬢(こびん)も布子(ぬのこ)も焦がしたを早忘れたか。不敵の曲者(くせもの)。なお、辛き目を見せん」と罵(ののし)る他は無かりけり。
かくて、その夜も明け御前様のお目覚めぞと知らせによって、その男女は桜戸を引き立てて、母屋へ参って縁側のほとりに居並び、
「昨夜(ゆうべ)、図らず盗人(ぬすびと)女をからめ捕って候なり。いかが計らい申さんや」と聞こえ上げれば、しばらくして主の婦人が奥の間より出て、
「そはいかなる盗人(ぬすびと)ぞ」と問いつつ近く立ち寄って、桜戸を見て大いに驚き、
「そは虎尾の刀自(とじ)ならずや。いかなる故(ゆえ)にここへ来て、百姓どもにおめおめとからめ捕られたか。思い掛けなや浅ましや」と云われて驚く桜戸も眼(まなこ)を定めて見上げるとこの婦人は別人ならず、折瀧の節柴なり。
「此(こ)は此はいかに」とばかりにただ喜び、ただ恥じる桜戸は声を振り立て、
「私(わらわ)がいかでか盗みをすべき。只、一徳利の酒ゆえに酔い伏した間に絡められたり。私(わらわ)が上には様々な物語があれども、一朝(いっちょう)には説き尽くし難い。願うは私(わらわ)を救いたまえ」と叫ぶと節柴は「さこそ」とうなずき、忙わしく桜戸の縄を解き捨てて、その男女を叱り退け、腰元らに云い付けて、衣(きぬ)一重ねを取り出させ、桜戸を上より下まで着替えさせ、奥座敷へ伴って、酒をすすめ、朝飯をすすめてもてなせば、桜戸はその身の災い、富安舳太夫、陸船らの事、又、剣山(つるぎさん)四伝次、奈落婆の事など、図らずも恨みを返した始め終りを囁き示せば、節柴は聞いて感涙を押し拭(ぬぐ)いつつ、あたりを見返り、
「重ねた不仕合せもなお頼もしいあなたの命運。今、計らずして私(わらわ)が方へ来られたことこそ嬉しけれ。ここは私(わらわ)の別荘で、昨夜思い違えてあなたを縛(いまし)め引き連れ来た男女共は屋敷守の百姓なれば、必ず心を置きたまうな。私(わらわ)は昨日、ここへ来て、思わず雪に降り込められて、母屋へ帰れぬのも只、あなたの為に大方ならぬ幸いなり。しかしここは浅間で人目を忍ぶによろしからず、母屋へ伴いはべらん」とその夕暮れに桜戸を乗物に乗せて、折瀧の庄へ帰りつつ、内外の者に心得さして、頼もしく桜戸を深く匿(かくま)った。
されば又、その夜分、陸船、舳太夫、奈落らは皆、桜戸に討たれたが、四伝次は浅手で未だ死なずに在るにより、彼は偽(いつわ)り領主に訴え、
「桜戸は悪心止まずに山苧倉(やまそくら)を焼き失い、その上、舳太夫、陸船、奈落らを斬り殺して逃走したり」と申すと佐渡の領主本間(ほんま)の太郎は訳を聞いて驚き怒り、にわかに手下を手分けして、八方へ差し向けて、村里毎に下知を伝えて、
「罪人桜戸を絡め捕り、引き連れまいる者あれば、三十貫の褒美銭を賜うべし」と▼触れた。
既にして、これらの事を桜戸はほのかに伝え聞いて、節柴に囁く、
「斯様(かよう)斯様の噂あり。かかればあなたが今更に私(わらわ)をかくまいたまうにあらず。私(わらわ)は今更ここに居難し。速(すみ)やかに他郷へ逃げて、災いを避けんと思うに、身の暇(いとま)をたまえかし」と云うのを節柴聞いて、
「しからば、私(わらわ)が手引きして、あなたをやるべき所あり。近江の国の伊香(いか)郡の賤(しず)の砦(とりで)に三人の女武者あり。第一の大将は大歳麻巨綸(おおとしまおおいと)と呼ばれ、第二の大将は女仁王杣木(おんなにおうそまき)と呼ばれ、第三の大将を天津雁真弓(あまつかりまゆみ)と云う。彼女らは先に滅んだ柴田の残党の梶原弥三郎(やさぶろう)の余類(よるい)で、女に似合わぬ武芸あり。先にその三人の勇婦らが流浪して諸国をめぐり、或る年、この地に来た時に私(わらわ)の屋敷に留(とど)め置き、養うこと一年余り。又、立ち去る時に、路銀を多く取らせたり。かかれば、私(わらわ)が手紙であなたの事を頼めば、留めんこと疑い無し。さればその巨綸(おおいと)らは四五百人の手下を集めて、賤ヶ岳(しずがたけ)に砦構え、余呉(よご)と琵琶(びわ)の湖を前と後ろの城塞に余呉川、飯浦の大川を境として、をさをさ猛威を振るうと聞く。あなたが彼処(かしこ)に身を寄せれば、生涯後ろ安かるかるべし。さりながら、当国(とうごく)の港々には新たに関を据えられて、人の出入を検(あらた)めると伝え聞けば、旅立ちに難義あり。いかにせまし」と頭を傾け、しばし案じてうなずきつつ、
「良い手立てがはべるなり。謀(はか)り事は斯様(かよう)斯様」と膝すり寄せて囁き示せば、桜戸は斜めならず喜んで、やがてその儀に任せた。
かくてその次の日に節柴は磯遊びに出ると偽り、多く召し連れた腰元の中に桜戸を共に立たせて、小木(おぎ)の港におもむくとここにも関を据えられて、本間の家臣、沢足(さわたり)江番太(えばんた)が手下を大勢従えて、この所を守っていたが、兼ねてより相知る折瀧の節柴が磯遊びに行くと聞いて、忙わしく出迎えて、
「珍らしや折瀧殿。このいと寒き時に、何処(いずこ)へおもむきたまうぞ」と問われて、節柴は微笑んで、
「私(わらわ)は鬱気(うつき)の病があり、閉じこもっているよりも磯辺に出て貝を拾えば少しは保養にならんかと日和(ひより)も良く磯遊びに出たなり。あなたは何故(なにゆえ)にここらで勤役(きんやく)したまうやらん」と云うと江番太は
「さればとよ。都の流人の桜戸と呼ばれる者が倉を焼き、人を殺して逃走したにより、領主の仰せを承り、人の出入りを検(あらた)める臨時の役に候」と云うと節柴はうなずいて、
「そは御大義にこそはべれ。私(わらわ)が具した供の内にその桜戸とやらが在るべきに。いざ検めて見たまわずや」と云いつつ笑えば、江番太もからからと笑い、
「実(げ)に、御供の女中の群れにはその桜戸も在るべけれど、節柴殿の事なれば検めるには及ばぬ事なり。さぁさぁ通りたまえかし」と戯れて、下部らに下知して木戸を開かせれば、節柴は▼心密(ひそ)かに喜んで、皆諸共に港へおもむき、さて桜戸には忍びやかに旅装いを整えさせて、兼ねて用意の船に乗せ、越後の方へ落とし遣(つか)わし、節柴は去らぬ体(てい)で、終日(ひねもす)貝を拾いつつ、帰り道に江番太に物を贈って喜びを述べ、暮れて自宅へ帰って行った。
○さる程に桜戸は節柴の情けで難なく港を逃(のが)れ出て、越後の国へ渡り、越前を経て、近江の賤(しず)が砦(とりで)を指して、日に歩み夜に宿り、急がぬ旅に日数経て、暮れ行く年に近江の菅野(すげの)浦に着いた。
折から昨日の雪晴れて、山白妙(しろたえ)に風寒く、一軒の腰掛酒屋があれば桜戸は進み入り、長椅子に尻を掛ければ酒屋の杜氏(とうじ)が出迎えて、
「いかに酒を参らすべき、強飯(こわいい)も候」と云うと桜戸はうなずいて、
「否(いな)、強飯は欲しからず。今日の寒さが耐え難く、さぁさぁ酒を飲ませよ」と云うと杜氏は心得て、酒二三合を温めつつ、一椀の湯豆腐に鮒の煮浸(にびた)し取り揃え、早置き並べて勧めた。その時、桜戸は杜氏に向かって、
「私(わらわ)は急ぐ用あって、賤が砦へ行く者なり。渡し舟があれば雇(やと)うてたべ」と頼むと杜氏は眉をひそめて、
「ここは船着きならざれば、渡し舟も候(そうら)わず」と云うを桜戸は押し返し、
「渡しの舟があらずとも雇えば舟を貸す者あらん。船賃は望みに任せん。ともかくもして雇うてたべ」と再び頼めば頭を振りつつ、
「稀(まれ)には舟が無いにはあらねど、この頃の大雪で舟稼ぎする者は絶えてここらに一人も無し。もちろん飯浦、浜村の山間(やまあい)は陸続きで候(そうら)えども近頃難所を切り塞がれて、鳥も通わず、船ならずしてなかなかにおもむくことは叶い難し」と云われて桜戸は仕方無く、ほとほと困り果てた時に一人の女がしづしづと進み入り、桜戸に向かい、
「あなたは今、賤の砦へおもむきたしと云われたが彼処(かしこ)に知る人候か。或るいは人の手引きによって、初めておもむきたまうにや。あなたは何と云う人ぞ」と問われて、桜戸は隠すに由なく、
「私(わらわ)は桜戸と呼ばれる者で、この度、折瀧の節柴殿の勧めによって、遙々(はるばる)佐渡より来たなり」と云うと驚くその女はほとりに寄って尻を掛け、
「さては世の噂に隠れなき女武者所の教え頭と聞こえたあの虎尾の桜戸殿か」と再び問われて、桜戸はにっこと笑み
「云われる如く、虎尾の桜戸は私(わらわ)にこそ」と告げると「さては」と喜び、
「しからば、ここは道近で心の内を述べ難し。まず此方(こなた)へ」と奥の座敷へ誘(いざな)って、又、更に肴(さかな)を添え、酒をすすめて、さて云う、
「我は賤の砦の巨綸(おおいと)の手下で、暴磯神(ありそかみ)の朱西(あかにし)と呼ばれる者なり。この酒店を出しつつ、世の噂を聞きさだめ、こなたに憩(いこ)う旅人で味方にすべき者あれば説きすすめて砦(とりで)へ遣(つか)わし、▼又、身の仇(あだ)となる者は密(ひそ)かに痺(しび)れ薬で殺して、憂(うれ)いを除くなり。これによりあなたも鎌倉方の者ならば痺れ薬を酒に加えて片付けんと思ったが、三大将が大恩受けた折瀧殿の引き付けなる虎尾殿であるを知れば事を誤(あやま)つべし。真(まこと)に危うい事なり。我が同道すべけれども、既に早黄昏なり。今宵はここに泊りたまえ。明日はつとめて伴うべし」と云い慰めて、もてなせば、桜戸深く喜んで、あの亀菊の邪(よこし)まで、無実の罪に落とされたその事の始めより、舳太夫、陸船を討ち取って恨みを返した事の一部始終を物語れば、朱西(あかにし)は耳を傾けて膝(ひざ)の進むを知らざりけり。
さて、その明け方に朱西は桜戸を起し仕度を整え、弓をたばさみ出て、水際(みぎわ)に茂る枯れ葦(あし)へ鏑矢(かぶらや)射込むと、たちまち葦の茂みより早船一艘が漕ぎ出して、こなたの岸へ着けば朱西は桜戸と共にその舟に乗って、山梨の磯へ渡り、ここより陸に登り、船を返して、程なく砦におもむいて、桜戸の事を巨綸(おおいと)らに告げれば、巨綸聞いて二人の勇婦の杣木(そまき)、真弓ら諸共に書院に出て、桜戸を呼び入れさせて対面した。
その時、巨綸(おおいと)は桜戸に向かって、「あなたの事は暴磯神(ありそかみ)の物語でつぶさに聞いた。折瀧殿はつつが無きや」と問えば、桜戸「さん候。書状を預かったり。これ御覧ぜよ」と懐より取り出して渡すと巨綸は開き見て、手下の者に云い付けて、酒肴(さけさかな)を出させ、桜戸をもてなしつつ、腹の内に思う、
「・・・・桜戸はその始め女武者の頭で十八番の武芸に長(たけ)たり。しかるに我は青表紙(あおびょうし)の唐文字をよく読むのみで武芸は二の町(二流)なり。又、杣木(そまき)、真弓、朱西らも十二分の武芸ならぬに、▼桜戸を留めて我らの群れに入れれば、遂に山を奪われるべし」と思案をしつつ、金二十両を取り出して、桜戸に贈って云う、
「折瀧殿の引き付けで遙々(はるばる)と来たまえども、いかにせんこの砦は領分狭く兵糧も多からねば、長くあなたを留め難し。これはいささかの品ながら路銀として参らせる。何処(いずこ)へなりともおもむいて、良き人を頼みたまえ」と云うと桜戸は押し返して
「私(わらわ)は路銀が乏(とぼ)しい故(ゆえ)に遙々とここへ来たにあらず。節柴殿の勧めにより、長くこの所で身を寄せんとのみ思いしに、この賜物(たまもの)は本意(ほい)にあらず。まげて仲間に入れさせたまえ」と云うと杣木も朱西、真弓も巨綸(おおいと)を諌(いさ)めて云う、
「兵糧が豊かならずと云えども、今この女中(じょちゅう)を留めずば、引き付けられた節柴殿に受けた恩を忘れるに似たり。よくよく思案したまえ」と云うと巨綸(おおいと)は頭を振って、
「節柴殿にはいささか不実なれども、未だこの桜戸の心の底を知らず。只一封(いっぷう)の状で心も得知らぬ人を留めて、身の災いとなる事あれば後悔そこにたち難し。気の毒な事ながら、その金を受け収めて、何処(いずこ)へなりともおもむきたまえ。我らが心に如才は無けれど、あなたを養う余力は無し。明日は努(つと)めて発ちたまえ」と苦々しげに答えつつ、留める気色(けしき)は無かった。
桜戸が賊(しず)の砦を離れて、投名状(なのりぶみ)を求めるところ、これらの事はつぶさにこの次の巻に見えたり。
<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 第三編の貳
馬琴著 国安画 本町筋油町鶴屋喜右衛門
文政丁亥嗣●全稿八巻合本
その時、桜戸は膝(ひざ)を進めて、
「巨綸(おおいと)殿、何故にさのみ疑いたまうぞ。私(わらわ)は先に亀菊の謀(はか)り事に落とされて、無実の罪を得てより、災い再びこの身に迫って、進退既に極まったり。さればこの所に身を寄せんと願う事の他は無いものを」と云えば、杣木(そまき)らも言葉を添えて諌(いさ)めると巨綸(おおいと)しばし案じて、
「しからんには義とした投名状(なのりぶみ)を我らに見せて、赤き心を表したまえ」と云うのを桜戸は聞きながら、
「それは易い事にこそ。硯(すずり)と筆を貸したまえ。望みのままに書きはべらん」と云えば朱西は方辺(かたへ)より、
「否(いな)、投名状というのは物書く事にはあらず。初めてこの砦(とりで)に来た者は越前街道に出て、一人の旅人を討ち取って、その首を携さえ来て、二心(ふたごころ)無きを示すのを投名状(なのりぶみ)と名付けたり」と諭(さと)すと桜戸はうなずいて、
「それも又、易かるべし。心得はべり」と請け引くと巨綸(おおいと)は重ねて
「しからんには明日より三日以内に投名状を持参したまえ。三日の内にその儀無くば、決してここには留め難し。縁なきものとあきらめて、何処(いずこ)へなりとも行きたまえ」と念を押せば、桜戸は「仰(おお)せには及ぶべき」と答えた。
その明けの朝、桜戸は早く起き、一人の小者(こもの)を案内役とし短刀を腰に横たえ、仕込み杖(つえ)を突き立てて、飯浦の山あいの浜村の方に出て、旅人遅しと待つけれど、頃しも年の終わりで降り積もる雪深く、山々は只白金を伸べた如くに冴(さ)え渡り、寒さ耐えがたく、夕暮れになるまで人が一人も通らねば、桜戸は望みを失って、空しく砦に帰れば、巨綸は「さこそ」とあざ笑い、
「いかに投名状を持て来ざるや。明日も明後日もむなしく帰れば、ここには決して留め難し。ずいぶん精を出されよ」といと憎々(にくにく)しげに▼桜戸を懲(こ)らした。
かくて又、桜戸は次の日も小者を従え、昨日の山路におもむいて、終日そこに立ち暮らせども、この日も人に会わざれば、いよいよ望みを失って、
「いかなれば、かくまでに我は運の無きや。とてもかくても止められぬ、宿世(すくせ)ならん」と嘆くを小者が慰めて、
「されども、明日又、一日あり。心を痛めたまうな」と諌(いさ)めて砦へ帰れば、巨綸はますますあざ笑い、
「明日も又、獲物無くば、再び此方(こなた)へ帰るに及ばず。何処(いずこ)へなりとも行きたまえ」と云うと桜戸は答えもせず、その夜は早く臥所(ふしど)に入って、又、次の日の暁より砦を出るとあの小者が「今日はいささか所を替えん」と云うと、その儀に任せて、羽振山(はぶりやま)の麓に行き、東の人を待つけれど、未(ひつじ)の下刻になるまでに、この日も人に会わなければ、桜戸は遂にあきらめて、
「かくては砦へ帰り難し。日の暮れぬ間に里へ行き、今宵(こよい)の宿を求めん」と木陰を出る折しもあれ、見れば一人の旅人が野坂の方より来れば、「天の与え」と桜戸は腰刀を振って、進むを見返るその旅人は「あっ」とばかりに驚き恐れて、荷物を捨てて一目散に逃げて行方(ゆくえ)は知らざりけり。
桜戸は偶然に来た旅人を追い失い、しきりに後悔するのを供(とも)の小者が慰めて、
「投名状は得たまわねども、この度、荷物を獲っては一つの功になるべきなり。それがし砦へ持来して、事の由を告げ申さん」と云いつつ、その荷を担ぎ、砦を指して急いだ。
さる程に桜戸はしばらく残り留まって、なお旅人を待つと遥か向かいの麓路(ふもとじ)より旅人とおぼしき女がこなたを指して来た。およそこの時代の風俗で、女と云えども旅路は腰に刀を横たえたり。桜戸これを見るより「我、物得たり」と喜んで、仕込み杖(つえ)を引き側(そば)め、まっしぐらに突いてかかれば、その女は怒って、
「盗人女めが飽くこと知らず、我が供人に持たせた荷物を奪って、その上に、私(わらわ)に敵対う不敵さよ。さぁさぁ荷物を返さずば、目にもの見せん」と氷の刃(やいば)をひらりと抜いて、面(おもて)も振らず丁々発止と戦った。互いの手練、虚々実々(きょきょじつじつ)、一往一来(いちおういちらい)、鎬(しのぎ)を削る雪の山路を踏みしだき、既に早五十余太刀(たち)に及べども未だ勝負は無かりけり。
かかる所に巨綸(おおいと)らは小者の知らせで、杣木(そまき)、真弓ら諸共に多くの手下を従えて、砦を出て山を下り、▼早やここへ来てその有り様に驚き、しきりに感じて声を振り立て、
「御両人、しばらく止まりたまえ。刃(やいば)をおさめたまえ」と呼び掛け呼び掛け近づいて、両人を隔(へだ)てさせ、その女に向かい、
「驚き入ったあなたの武芸は感ずるになお余りあり。我々は賤の砦(しずのとりで)の頭領の賽博士巨綸(えせはかせおおいと)、女仁王杣木(おんなにおうそまき)、天津雁真弓(あまつかりまゆみ)なり。又、この女中は虎尾の桜戸殿で斯様(かよう)斯様の事により、佐渡の配所を逃れ出て、我らを頼んで来る故(ゆえ)に投名状を求めて、事がここに及べるのみ。そもそもあなたはいかなる人ぞ、名乗りたまえ」と問いかけると女はにっこと微笑み
「私(わらわ)は元大内(おおうち)の采女(うねめ)で、女武者所の頭の青柳(あおやぎ)という者なり。私(わらわ)の色が青白ければ、人あだ名して青嵐(あおあらし)の青柳と云えり。しかるに先年、私(わらわ)が預かった弓場殿(ゆばどの)の御弓懸(おんゆがけ)を紛失した咎(とが)により、都を追放され、武蔵の方におもむいて、三年を過ごし、この度、御赦免(ごしゃめん)あるにより、再び都へ立ち帰り、縁(ゆかり)を求めて、元の采女(うねめ)になる願いあり。そなたに言い分無きならば、速(すみ)やかに荷物を返して、放ちやりたまえ」と云うとますます感ずる巨綸(おおいと)は
「さては予ねて伝え聞いた青柳殿にてありしか。誤って砦に持て来た荷物はもちろん返すべし。なれどもたまたま名乗り合ったに、このままに別れんや。今宵は砦に泊りたまえ。酒一献(いっこん)参らせん」と云うと青柳も否(いな)みかね、遂にその意に任せつつ、先に逃げた供人が立ち帰ったのを従えて、いざとてやがて身を起こせば、巨綸(おおいと)は斜めならず喜んで、桜戸諸共に連れだって、賤の砦へ帰って行った。
かくて巨綸(おおいと)はその夜酒盛りの席を開いて、青柳を丁寧にもてなしつつ云うは
「今、都では白拍子(しらびょうし)の亀菊が院の御寵愛に誇って、人を損(そこ)なう事、これ多し。例え帰京したまうともはかばかしき事があるべからず。さればこの砦に留まって、大将となりたまえ。要害(ようがい)も堅固(けんご)なれば、誰にはばかる事もなし。まげてこの儀に従いたまえ」といとまめやかに留めた。
さても巨綸(おおいと)が今、青柳を留めんと思う訳は彼女を愛する故(ゆえ)にはあらず。この者は武芸に長けた者なれば、桜戸を止め置くとも十分彼女の相手になるべし。しからばこの後、桜戸が砦を奪おうと思うとも、青柳にはばかって、その事は叶うべからずと腹の内に思えばなり。
青柳はかくとも知らねど、留まる気色(けしき)無く、巨綸(おおいと)に答えて云う、
「御志(おこころざし)は喜ばしくはべれども、私(わらわ)の親は由緒正しき北面(ほくめん)の武士なりしが男子(おのこ)が無く私(わらわ)を武者所へ召されたなり。しかるに罪を被(こうむ)り、たまたま赦免にあいながら、ここに留まるは不孝なり。悪く聞きなしたまうな」と固く否(いな)んで従わず。その明けの朝、元の如くに供人連れて、砦を立ち、都を指して急いだ。
これよりして、▼桜戸は賤の砦に留まって、真弓の次の頭となった。又、朱西(あかにし)は元の如く菅の浦に帰り、あの酒店を守った。
さる程に青柳は日ならず都に帰り着き、洛中に宿を求め、いかにもして元の如く女武者所の采女(うねめ)にならばやと、所縁(しょえん)に付き、その筋を求め、官人らに賄賂を渡せば、ようやく手引きを得て、願い文を捧(ささ)げた。されば亀菊が女武者所の別当(べっとう)なれば、青柳の願い文を見て、大いに怒り
「彼奴(かやつ)は落ち度で都を追放させられて、罪許されたのは多く得難き幸いであるべきに、元の如くに武者所の采女になりたいなどと申すは片腹痛き願いなり。とても叶わぬ事なるに、重ねて取次ぎすべからず」とあくまで罵(ののし)り、願い文をずたずたに引き裂き捨てて返した。青柳はこの事を伝え聞いて、望みを失い、
「いかなれば亀菊は心様(こころざま)の毒悪なる。かくては弥勒(みろく)の世まで、この身の願いは叶うべからず。再び武蔵へ帰らばや」と思いながらもこれかれへ物を贈った事なれば、路銀も既に尽き果てた。只、先祖相伝(そうでん)の三つ具足(ぐそく)と名付けた短刀が一振りあれば、仕方無くこれを売り、路銀にせんと思いつつ、或る日その短刀を携さえて、あちこちと歩くと、三条小橋のほとりにて、にわかに人々どよめいて
「ソレ、牛鬼(うしおに)が来るぞよ。逃げよ、走れ」と罵(ののし)り騒げば、青柳は人に由を問うとその人答えて、
「近頃、このあたりにあばずれの牛鬼婆(うしおにばば)と云うあぶれ者あり。酒を好んで飽く事なく、ややもすれば人を捕らえて物を強請(ねだ)り、非道を云い掛け、或るいは暴れ、或るいはねじ込み、町の害になる事多し。されども女の事なれば、誰とて相手になる者無く、避けて通れば良い事にして、日毎に暴れ歩くなり。今、諸人(もろびと)が騒ぐのはその牛鬼を恐れるのみ」と告げると青柳は興醒(きょうさ)めて、立ち去ろうとする時に、はやくも牛鬼が近づくのを見れば、面(つら)は落蹲(らくそん)の面の如く、色は赤黒く陳(ひ)ねた南瓜(かぼちゃ)にも似たり。眼(まなこ)はつぶらにして蝸牛(かたつむり)を並べた如く、鼻は横に開いて、三つ栗を伏せた如く、右の袖を押し肌脱いで萎(しな)びた乳をぶら下げて、左の裾を片端折りして、晒(さら)し木綿の湯巻を露(あらわ)に、ひどく酔うたとおぼしくて、よろめきよろめき、わざと青柳に突き当たり、矢庭(やにわ)に捕らえ、ちっとも離さず、眼(まなこ)を怒らし、きっと見て、
「この女(あま)め、何をする。邪魔な物を手に持って、つっ立ったるは何の為ぞ」とよろけかかれど青柳はいささかも騒ぐ気色(けしき)無く、
「私(わらわ)が持つは名剣なり。これを売らんと思い、買う人を待つのみなり」と云えば牛鬼はあざ笑い、
「その短刀に銘(めい)はあるか」と問われて青柳は
「然(さ)ればとよ、これは三つ具足丸と名付けしなり」と云うと牛鬼は眉をひそめて、
「三つ具足と云うその訳いかに」と再び問われて青柳は手に取り直し、
「そもそもこの短刀を▼三つ具足という訳は、第一に鉄をよく切り、その音をせず、第二に髪の毛を刃(やいば)へ載せて吹けばたちまち粉々(ふんふん)と切れて四方へ散乱す、第三に人を切るに骨を余さず、又、速(すみ)やかにして血潮(ちしお)を見ず。この三つの不思議あるをもて、三つ具足と名付けたり」と云うと牛鬼はうなずいて、
「我、その刃を買うべきに、値(あたい)はいかばかりで売るものぞ」と問うと青柳は、
「今、要用(ようよう)の事あれば、三十金で手離すべし」と云えば牛鬼は笑いかけ、
「それは甚(はなは)だ高価なり。三百文にて我買わん。まけよ、まけよ」と急がせども、青柳は騒ぐ気色(けしき)なく、
「そなたは真(まこと)に買うにはあらじ」と云い果てぬ間に牛鬼婆はまなこを怒らし、
「さばかりの物を買わざらんや。只今、云うた三つの不思議を目の当たりに試して見せよ。まず壱番に鉄じゃ鉄じゃ」と云いつつ、帯の間を探って、銭五六文を取り出して、「切って見せよ」と手に渡せば、青柳はその銭を橋の欄干(らんかん)に押し重ね、刃を抜いてこれを切ると、さながら豆腐を切るに等しく、ちっとも音はせざりけり。
牛鬼婆はこれを見て、又、忙わしく盆の窪の毛を幾筋か抜き取って、
「さぁ、その次は髪の毛、髪の毛。吹いて見せよ」と手に渡せば、青柳これを受け取って、刃の上に乗せて、ひと吹きふっと吹くと毛は粉々(ふんふん)と切れ散った。
牛鬼婆は又、これを見て、からからと笑い、
「さて、その次は人じゃ人じゃ。さぁさぁ人を斬って見せよ」と云えば青柳は頭を振って
「太平の世に、いかに故(ゆえ)無く人を斬られるべき。そなたがなお疑えば犬を捕らえて引き持て来よ。その犬を斬って見すべきぞ」と云わせもあえず、声を振り立て、
「おのれは先に何と云った。人を斬るに骨を余さず、速(すみ)やかで血潮(ちしお)を見ずと、まさしく云ったにいかにぞや。犬を斬るとは聞かざりき」としきりにわめくと折から行き来の老若男女は何事かと集って、取り巻きつつこれを見るが、なお牛鬼を恐れて、誰も近くは寄らざりけり。
青柳はかかれども臆した気色無く、牛鬼に向かって、
「そなた、まことに買うならば、由なき事を云わずもあれ。実に切るべき人は無し」と云えば、牛鬼はわめいて
「人が無くば、我を斬れ。我はその刃を欲(ほり)するなり」と云うと青柳は微笑んで、
「そなた、まことに買うならば、さぁさぁ金を持て来たまえ」と云うを聞かずに声を振り立てて、
「我はちっとも金は無し。只今掛けで売られずば、さあ我を斬れ、斬らずや」と小突き廻して争う弾(はず)みに、その短刀に手を掛けて奪い取ろうとすれば、青柳も堪忍(かんにん)の二字も甲斐無く怒りに任して、短刀ひらりと振り上げて、水もたまらず牛鬼の細首、丁(ちょう)と打ち落とせば、躯(むくろ)もだうと倒れた。
その時、青柳は声高やかに、
「なう、見物の人々よ。見たまう如き仕合せで、女に似合わぬ事ながら、止むを得ず彼女を斬った。願うは人々、私(わらわ)の為に証人になり、公(おおやけ)へ共に訴えたまえかし」と云うと諸人は皆立ち寄って、青柳を誉め慰めて、
「この牛鬼は大方ならぬ町の害。討ち果たされたは幸いなり。我々、諸共訴え申して、事の証人たるべし」と皆、青柳を先に立て、六波羅の検断所(けんだんじょ)へ行き、事しかじかと▼訴えれば、六波羅の総司(そうつかさ)伊賀の判官(はんがん)光季(みつすえ)はこの訴えを聞き定め、三人の手下を青柳と共に三条小橋へ使わして、牛鬼婆の死骸を検(あらた)め、その後に青柳をしばらく牢屋に留め置き、なおこれかれと問い質(ただ)すと牛鬼婆はこの年頃、人の害となる者で、自宅も無く子もあらず、その凶悪も少なからねば、光季は青柳の人殺しの罪をなだめて、筑前の国太宰府(だざいふ)へ流し使わす由を云い渡し、ちん五ちん六と云う二人の下使いを差し添えて、遂にその地へ遣(つか)わした。
これにより三つ具足丸の短刀は公(おおやけ)へ召し上げられて、長く御蔵(みくら)に置かれた。されば青柳の証人に立った里人らはこの度、あの女の働きで町の憂いを除いたと喜び且つ憐れみ、銭を集めて路銀を贈り、涙を流して別れた。
かくて青柳は再び罪人となり、首枷(くびかせ)を掛けられて、遠く筑紫(つくし)へ流されることになった。さて、幾ばくの日数を経て、船が太宰府に着けばちん五、ちん六は青柳を守り、宰府の城におもむいて、六波羅からの送り状を探題(たんだい)の信種(のぶたね)に参らせて、事の由を述べれば、信種は家臣らに青柳を受け取らせ、答え文を渡せば、その次の日にちん五らは都を指して帰って行った。
そもそもこの頃、筑紫の探題小武信種は北条義時の娘婿で、内室(ないしつ)の十時(ととき)御前は義時の愛女(あいじょ)なり。されば筑紫は都に次いで西国(さいごく)第一番の大港で繁盛類(たぐい)無いのみならず、探題は六波羅の総司(そうつかさ)にもをさをさ劣らず、西九ケ国を管領(かんれい)して、勢いある大任で、しかも信種は今飛ぶ鳥も落とすと云う鎌倉の執権の義時の内縁なれば、その家は富み栄え、家臣も多く、文武の道に長けた者もその内に少なくなかった。しかも信種の奥方の十時御前は女に稀(まれ)なる武芸を好んで、召し使う女房に武芸を習わせれば、その筋にもまた武術を良くする者も多くあり。これにより都の沙汰(さた)に習わんと、ここにも女武者所を置かれたが、未だその教え頭に致すべき相応の者が無ければ、なお物足らぬ心地して、折々夫の信種に語らうと、▼この度六波羅より送られた都の流人の青柳は元大内の采女(うねめ)で、武芸に秀でた者なると申す者があれば、十時御前はこの事を又、しかじかと告げると、信種は聞いてうなずきつつ、
「実(げ)に、その青柳は物の用に立つべき者なり。しばらく使用人にして立ち振る舞いを見るのは、何か苦しかるべき」と、まず青柳の首枷を解き許し、炊事婦として使われると、心利いた女で男に勝る事多かれば、目通りをさえ差し許し、ほとり近くはべらしたが、ある日、十時御前は青柳を招き寄せ、
「そちが武芸に優れる事、人の噂に伝え聞いた。されば今より取り立てて、女武者の教え頭に成そうと思えど、人のそねみは事の妨げなるべしと思い返して思いとどまった。この宰府の女武者で野森(のもり)と呼ばれる者は二三と下がらぬ武芸あり。されば野森と試合をさせて、そちが十分勝てば、その時にこそ取り立てて、教え頭にしたらば諸人すべて従わん。いかにそなたはその野森と立ち会う心はあらずや」と忍びやかに云われるのを青柳聞いて一議に及ばず、
「それは此上(こよ)無き御恩なり。私(わらわ)は始め都にて女武者所に召された教え頭ではべりしに、弓場殿(ゆばどの)の御弓懸(おんゆがけ)を紛失の落ち度により、先には都を追われたなり。さればこそ十八番の武芸の数々、大方ならず諳(そら)んじたり。相手は嫌いはべること無し。誰にても試合の事を仰せ付けられくだされば、世にありがたき事にこそ」と、はばかる気色も無く申せば、十時御前は喜んで、青柳が申したままに、探題に告げれば、信種聞いてうなずきつつ、
「さらば、野森と青柳の試合の勝負を見るべし」と武芸係の家臣立波兵衛、女武者所の老女字野江(あざのえ)らにしかじかと心得させて、日は明日と定められた。
これにより七十五間(けん)の大馬場を試合の場所と定め、東の馬見所(ばけんしょ)を信種の桟敷(さじき)とし、西の馬見所を十時御前の桟敷として、紫の幕を張り、紅の毛氈(もうせん)を掛け渡し、東西の桟敷には武芸に長けた諸侍、女武者らも集めて、所狭きまで居並んだ。
さる程に警護の足軽百人ばかりが整々(せいせい)として控えつつ、合図の太鼓を打ち鳴らせば、東の方より女武者野森、西の方より青柳がはや静々(しずしず)と立いでた。
手鉾(てぼこ)の試合と予(かね)て定められれば、野森、青柳諸共に肌には小鎖(こくさり)の着込みを着て、小手(こて)脛(すね)当てに身を固め、上にはおのおの黒い衣(きぬ)を着て、玉襷(たまたすき)を背高に結び、九尺の槍を引き下げたが、槍の穂先を抜き取って、麻の布に石灰(いしばい)を包み、丸く鞠の如くにしたものを蛭巻(ひるまき)の上に付けた。
これらの事は予てよりの信種の指図で、真(まこと)の槍(やり)をもってすれば、命を落とす事もあるべし。互いに黒い衣を着せ、穂先に石灰を包んだ槍で立ち会わせれば、突かれた数の多い者はその石灰が衣に付いて黒きも白くなるべし。しからば勝負も自(おの)ずから分明(ふんみょう)に知られんと、かく仕度(したく)をせられた。
既にして、野森、青柳は又、打ち出す太鼓の音と共に各々(おのおの)立ち上がり、手に手に槍を引きそばめ、まず隆々(りゅうりゅう)と素突きして、掛け声を合図に野森は槍をひらめかし、青柳の眉間をのぞんで突き倒さんとする所を青柳はすかさず受け流す、手練の早業、踏み込み、踏み込み、秘術を尽くす互いの身構え、ここを晴れとぞ闘った。
かかりし程に激しい穂先に野森は既に負け色見えて後退するのみなれば、立波兵衛は下知を伝えて、引き太鼓を打たせると警護の足軽が押し隔(へだ)て、東西に引き分けさせた。
その時、人々それを見ると野森の上衣(うわぎ)は真白になって、幾十ケ所か突かれていた。その数は限り知らず、青柳は袖の下に二ケ所石灰が着いたのみで、事既に十二分の勝ちなりと、人皆罵(ののし)り、信種夫婦はことさらに喜び面(おもて)に表した。
その時、兵衛、字野江(あざのえ)らは主君夫婦に申す、
「野森は弓をよくすれども槍はもとより得手にあらず。次は弓矢の試合を御覧ぜよ」と両人等しく申すと信種夫婦は仕方なく青柳を呼び寄せて、
「いかに汝(なんじ)は今一度、野森と弓矢の試合をせんや」と問われて、青柳一議に及ばず、
「いかでかそれを背(そむ)くべき。ともかくも」と答え申せば、信種夫婦は喜んで、更に衣服を着替えさせ、最上の弓と矢に馬二疋(ひき)を引き出させ、野森、青柳に貸した。
その時、兵衛が申す、
「弓矢の試合は互いに危うし。各々(おのおの)に盾(たて)を持たせ、矢を防がせ候わん」さはとて、両人に事の心を得させつつ、小盾二枚を渡せば、これを肘(ひじ)につないで、馬に乗りつつ、又、打ち出す太鼓と共に東西より馳せ寄せて、青柳は野森に向かい、
「あなたがまず、私(わらわ)を射たまえ。三度で当たらずば、私(わらわ)又、あなたを射ん。いざ、さぁさぁ」と急がせば、野森は密(ひそ)かに喜んで、
「・・・・・槍の試合に負けたども、この度、弓矢の試合に至って、私(わらわ)に先を譲る事はこれ得難き幸いなり。▼射殺してくれん」と思えばにっこと微笑み、
「そは心得てはべるなり。さらば、私(わらわ)が射掛ける矢を受け止めたまえ」と答えつつ、東西に引き別れて、乗り巡らし巡らして、野森は弓に矢つがい、矢ごろを張って切って放せば青柳早く身を沈ませて、鞍(くら)隠れをすれば、矢はいたずらに行き抜けて、安土(盛り土)の方に落ちた。野森は既に第一の矢を射損じて、心いら立ち、再び弓に矢つがい、乗り巡らして、追い巡らし、狙いすまして丁と射る。青柳は後ろの方に弦音すれば、身を反らしつつ、小盾を持って、すかさず丁と受け止めるとその矢は発止と折れ飛んだ。野森は二度も射損じて、残るは一矢なれば、心いよいよせき上(のぼ)し、乗り回し隙をうかがい、弓に矢つがい、矢頃を計る虚々実々、よつ引きひょうと放つ矢を青柳は右手に受け留め、掴んで投げ捨てた。
さて約束なれば、今度は青柳が野森を射る番と再び馬を走らせて、その時青柳は思う、
「・・・・今、野森を只一矢で射殺すは易けれども、恨みも無い者をいかでむごく殺せるべきか。只、かすり手を負わせるのみで、我が弓勢(ゆんぜい)を思い知らせん」と追い回し追い回し、弓を満月の如く引き絞り、矢声を掛けて切って放せば、野森は右の肘を射ぬかれて、馬よりだうと落ちれば、諸人どっとどよめいて、「ああ、射たり、射たり」と褒める声がしばし鳴りも止まなかった。
信種夫婦は喜んで、青柳を呼び近づけ、女武者の教え頭に取り立てようとする時に、一人の女武者がたちまちそこに進み出て、
「殿様、奥様、待たせたまえ。野森は私(わらわ)の教え子なれども近頃、熱病を患って、病み上がりなれば、青柳の相手には足らず。願うは私(わらわ)と青柳で真剣の試合をさせたまえ。私(わらわ)も彼女に負ければ、弟子とならん。さ無くばよしや仰(おお)せでも従い奉(たてまつ)らじ」と声振り立てて叫んだ。
人々は驚いてそれを見ると、これは第一の女武者の索城(なわしろ)と呼ばれる者なり。いと短気な女なれば、人あだ名して向不看(むこうみず)の索城(なわしろ)と呼んだ。
信種夫婦は青柳を取り立てる為に試合を催したが、諸人(もろびと)はとにかく従わず、今また索城が試合を望む事、心に危ぶみ思えども流石に否(いな)とも云いかねて、又、青柳にしかじかと云い含め、心得させて、名馬一疋(ひき)を引き出させて、あれに乗れと貸したまえば、十時御前も業物(わざもの)の薙刀(なぎなた)一振りを取り寄せて、青柳にたまわったり。
されば又、立波兵衛も秘蔵の名馬一疋(ひき)を索城に貸し与え、主君夫婦に申す、
「索城、青柳の立会いに▼真剣をもてされると、いずれ一人は手を負うか、さらずば命を落とすべし。この儀を止めさせたまえかし」と云うを信種は聞きながら、
「よしや命を落とすとも彼女らの望みに任せぬも、武士には似合わぬ業(わざ)なるべし。さぁさぁ」と急がせば、兵衛は是非なく下知を伝えて、知らせの太鼓を打たせた。
さる程に索城は腹巻に小手(こて)脛(すね)当てして、腰に一振りの太刀を横たえ、立波栗毛と呼ばれた駿馬(しゅんめ)にゆらりと打ち乗って、手には大きな鉞(まさかり)を引き下げ、東の方より乗り出せば、青柳も同じ装束で、駿馬(ときうま)に打ち跨(またが)り、十時御前よりたまわりし薙刀(なぎなた)を脇挟み、西の方より馬を寄せると、なおも早まる太鼓と共に双方等しく声を掛け、打つをひらりと受け流す。一往(いちおう)一来(いちらい)、劣らず優(まさ)ず、行き巡り巡り、索城が獅子の怒りをなせば、青柳は龍蛇の勢いあり。振り閃(ひらめ)かす薙刀は雲間を漏れる月の如く、又、打ち掛かる鉞(まさかり)は岩根を走る稲妻に似て、人は人と闘い馬は馬と挑み争う。蹄(ひづめ)の音も刃(やいば)の響きも拍子を揃えて目覚しく、既に戦うこと六十余太刀に及べども勝負も果てず見えれば、信種夫婦は云えば更なり、席に並ぶ男女の輩(ともがら)、呆然(ぼうぜん)として酔うが如く、呆(あき)れ且つ感じて、手に汗握るばかりなり。
その時、兵衛、字野江(あざのえ)は主君夫婦のほとりに参って、
「索城、青柳の武芸は比類なく、劣(おと)り勝(まさ)りは候(そうら)わず。今日よりあの者どもを女武者の教え頭に仰せつけられるべし」と言葉等しく申すと信種も十時御前もその喜びは大方ならず、やがて索城、青柳を東西へ引き分けさせて、ほとり近く呼び寄せて、
「両人共に女武者の教え頭を務むべし」と云い渡させると、二人の女子(おなご)は喜びの言受(ことう)けを申しつつ、退いた。
さればその夜、索城の仲間は皆々彼女の部屋に集って、喜びを述べ、酒盛り遊んで、賑わしく見えれども、青柳は馴染みも無ければ、己(おの)が部屋に帰り、一人寂しくその夜を明かした。
しかれども是より人の頭と▼うやまわれ、我に疎(うと)からず立ち振る舞う女武者も多くなるままに、萬(よろず)の務めに暇(いとま)無くて、その年は暮れた。
かくて、その次の年、春は過ぎ夏来て、五月初めの頃に難波津(なにわづ)を預かり守る天野の判官(はんがん)遠光(とおみつ)の女武者に直鳶(ひたとび)の稲妻、篠芒(しのすすき)の朱良井(あからい)と、ことに武芸に優れたこの二人の女らはある夜、遠光の下知を受け、五六人の手下を従え、あちこちを巡った。
これらの由は詳(つまび)らかに五の巻きに記すべし。
<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>