傾城水滸伝 初編第三
曲亭馬琴作 式陽齋豊国画 仙鶴堂綉梓
その時、黒姫は女鬼(しこめ)がはやるのを押しとどめ、
「川中島へ向かうのは利があるに思えども、女郎花(おみなえし)村をよぎらねばあそこへは行き難し。あの村には音に聞こえた浮潜龍(ふせんりゅう)衣手(ころもで)あり。彼女がおめおめと我々を通すべきか。かかれば越後へ行くに増す事あらじ」といさめると今板額も「実(げ)にも」と悟って、
「姉御の意見は極めて良し。衣手はその力並々ならぬのみならず、武芸も又、たぐいまれなり。近き世の巴、板額(はんがく)にも劣らずと聞くに、なまじにあそをよぎれば毛を吹き傷を求める(やぶ蛇)なり。思案をすべき」と共にいさめるのを女鬼は聞かず腹立てて、
「何故に二人は他人の武勇のみを誉め、自分らの勢いを落としたまうぞ。我々は女子なりと云えども、ここらに名立たる武士(もののふ)すら誰とて向かう者無し。云わんや、一人の小娘の衣手が何とかすべき。よしよし、その儀ならば姉御たちには頼まん。我れが衣手を殺し、川中島へ向かうのを高嶺(たかね)で見物したまえ」と勢い猛(たけ)く立ち上がるのを今板額、黒姫は左右より引き止めて、なお様々にいさめても女鬼はいよいよ怒り狂って袖振り放ち、忙わしく表の方へ走り出た。鬼女はにわかに下知を伝え、ひしひしと身を固め、馬にひらりと乗れば、手下の山賊七八十人が前後左右に従って、鐘(かね)、太鼓を打ち鳴らし、麓を指して馳せ下る。
さる程に女郎花の村人は戸隠山の山賊らがここを目指して寄せ来る事に恐れて、男は急を告げんと▼水内(みのうち)の目代(もくだい)の屋敷へと奔走す。しかれどもこの村の女らは予ねて衣手が示し合わせた合図を違(たが)えず、家毎に拍子木を持って群を集め、手に手に殻棹を引き下げて、またたく間に衣手の自宅へ集まれば、衣手は深く喜び、小手、脛(すね)当てに身を固め、父の時より飼い置いた馬にゆらりとうち跨がって、小薙刀(こなぎなた)を脇挟み、数十人の賤の女を馬の前後に従えた。
村外れまで寄せ来る敵を待つ間程無く、早くも近づく賊の大将女鬼のそのいでたちは、顔に鬼女(きじょ)の面を掛け、身には白き綸子(りんず)の内着に金糸で鱗形(うろこがた)を隙無く縫わせた物を装って、緋色の袴(はかま)のそば高くとり、萌黄縅(もえぎおどし)の腹巻して、髪を後ろに振り乱し、樫の木を撞木(しゅもく)に磨き白の薄金を掛けた物を左手にかい込み、栗毛の馬に馬具足掛けて辺りも狭しと歩ませる。
それに従う山賊どももおのおの鬼女の面を付け、突棒(つくぼう)よりもいかめしい撞木を手に手に引き下げた。実(げ)にこの有り様は、大江山の童子ならずば、鈴鹿の山に籠もった千方(ちかた/藤原千方)のたぐいと思うばかりに怪しくも恐るべきいでたちなり。
その時、女鬼は馬を進めて衣手を差し招き、
「我らは元よりこの村の人を喰う心無し。川中島へおもむいて糧(かて)を借りんと思うのみ。道を開いて通せ。妨げすれば、皆、肉醤(ししひしほ)にならんず」と声高やかに呼び張れば、衣手も又、静々と馬を陣頭に乗り出して、
「愚かな賊婦(ぞくふ)ども。汝(なんじ)ら鬼女のいでたちし、愚民を脅し、あまつさえ謀反(むほん)を起こすと聞こえれば、からめ捕って公(おおやけ)へ引きもて行かんと思っていたが、ここへ来るのは夏の虫、自ら飛んで火に入るなり。我は女子と云えども、家は代々村長(むらおさ)なり。いかでかおめおめここを通さんや。川中島へ行くならば、頭(こうべ)を置いて行け」とあくまでもあざわらいつつ、騒ぐ気色は無かりけり。
女鬼(しこめ)はそれを聞きながら、
「憎き女の大口かな。その儀ならば思い知らせん。そこ動くな」と息巻いて、撞木形の金尖棒(かなさいぼう)を水車の如く振り回し、▼衣手目掛けて討って掛かれば、衣手は薙刀(なぎなた)で受け止めて、人混ぜもせず只二人、しばらく挑み戦うと女鬼がいら立ち打ち込む棒を衣手はかわして左へ身を引けば、女鬼は空をはたと打つ、勢い留め難くして衣手の右へ馬を乗り付ければ、衣手は得たりと拳を固めて女鬼の棒を打ち落とし、ひるむ所を付け入って高紐むづとかいつかみ、目上(まなうえ)高く差し上げて矢声を掛けて投げ飛ばせば、味方の女が折り重なって鬼女を押えて縄を掛けた。
賊の大将が既に生け捕られれば手下の大勢は驚き恐れ、立つ足も無く逃げ走るのを味方の賤の女がどっと叫んで殻棹で短兵急(たんぺいきゅう)に打ち込んで、殴り立て立て、息をも付かせず追い払った。
衣手は既に十分に勝てば、揚げ貝を吹き鳴らさせて味方の女子(おなご)を一つに集め、生け捕った女鬼を引き立たて自宅を指して練り帰った。
この時、戸隠山の砦(とりで)では野干玉の黒姫、越路の今板額が鬼女の戦いを危ぶんで、噂をしている時に討ち散らされた賊婦どもが命からがら逃げ帰り、女鬼があえ無く衣手に生け捕られた事をしかじかなりと告げれば、今板額は驚き騒いで、
「今は早や、是非に及ばず。なおも手下の数を尽くして、我々二人が馳せ向かい、衣手と勝負を決して女鬼を救い取らんのみ。さぁさぁ用意をせよ」と急がせば、黒姫は押し止めて、
「その事決して無用なり。我が初めより云った事よ。女鬼は衣手の相手にあらず、我々とてもあの女子に力をもって勝つ事難し。斯様(かよう)斯様に謀(はか)れれば、万に一つも謀りおおせて女鬼を救える事もあらん。これより他に手立てはあらじ」と囁くと今板額はその儀に従い、誰をも供せず只二人で女郎花村へおもむいた。
さる程に衣手は女鬼を自宅へ引かせ帰って、書院の柱へ厳しく縛り、
「今に二人の賊婦らも生け捕って、諸共に公へ訴えん。おのおのは休息したまえ」とにわかに粥(かゆ)を炊かせ、酒を温めさせて、女らをねぎらうと先より遠見(とおみ)に出して置いた螻蛄平が走り来て、
「戸隠山の今板額が黒姫と共に来たれり」とあわただしく告げると、衣手は又、勢揃いして打ち出んとする程に、その賊婦は只二人ですごすごと背戸口より書院の庭へ進み入り、大地にはたとひれ伏してしきりに涙を流しはじめた。
衣手は思うに違って、その故(ゆえ)を尋ねれば、二人の賊婦は頭をもたげて、
「先には女鬼が我々のいさめを聞かず、虜(とりこ)になりぬ。これはこれ、あの者の自業自得なれば、いかがはせん。▼只、嘆くべきは我々は謀反(むほん)の残党(ざんとう)、上に夫と頼む者無く、下には頼る子とて無し。身の置き所無きままに戸隠山に籠もりし日より三人で固く義を結び、姉ととなえ妹と呼び、例え同じ日には生まれ得ずとも、只同じ日に死なんと誓った。しかるに女鬼は遠からず、頭をはねられるべけれ。さればとて君に向かって恨みを返すに力は及ばず、救う事はいよいよ難し。ならば三人諸共に御手に掛かって死ぬのみ。よって推参(すいさん)しはべりぬ。さぁさぁ頭をはねたまえ」と云いつつも、降り注ぐ涙に暇(いとま)は無かりけり。
衣手はつくづくと聞きながら心の内に思う、
「・・・・・この者どもは女にふさわしからぬ謀反人の骨頂なれども、義を思う事、かくの如きは益荒男(ますらお)にも勝れる事あり。しかるを我が罪し殺せば世の人にさげすまれん。ひそかに放ち帰さねば」と腹の内に思案をしつつ、黒姫、今板額に向って、
「お前らが云う所、我が心に感ずる由あり。「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふとこ)ろに入る時は狩り人も捕らず」と云う。私(わらわ)がいかでかお前らを絡め捕って目代に渡すべき。よって女鬼を放し許して返さんと思う」と云われて二人の賊婦はようやく涙を止めて、
「御志はありがたく喜ばしく思えども、さすれば嬢様を巻き添えにする咎(とが)あらん。只、諸共に縛って目代へ引き出したまえ」と言葉ひとしく覚悟の気色に衣手もいよいよ感嘆し、遂に女鬼の縄を解き、黒姫と今板額を近づけて、
「我が心は巌(いわお)の如し。今さら転ばすべからず。我が言葉は矢の如し。放って再び返すべからず。既に女鬼を許したり。さぁ伴って行け」と云うと三人はひれ伏して、
「再び生きる大恩をいつの時にも我らは忘れん」とまた感涙にむせびけり。
衣手(ころもで)はこれを喜び、「運良く酒もここに有り。お前らは酒を飲むか」と問えば、三人は等しく言葉を揃えて、
「死ぬ事も厭(いと)わぬものをましてや君の賜る物を否(いな)み申さんや」と答えれば、衣手は彼女らに酒を飲ませて、山へ帰す時にねんごろに戒(いまし)めて、
「お前らは謀反の残党なりとても、友を思い義を知る事は賢妻烈女(けんさいれつじょ)に恥じぬ者なり。今より不義の心を捨てて真(まこと)の道を守れかし」と教訓を加えれば、三人はしばしば伏し拝み、戸隠山へ帰りけり。
かくて今板額、女鬼らは黒姫と共に戸隠山の砦へ帰って、二人がひたすら黒姫の謀(はか)り事を誉めれば、黒姫は
「しかしながら、我の苦肉の謀り事で辛くも女鬼を救えども、衣手が義に勇んで、真(まこと)を感ずる心無くば、何で放って帰さんや。実(げ)に衣手は有難き勇婦ならずや」と諭(さと)せば、今板額は女鬼と共に大方ならず感服して「真(まこと)にさなり」と答えける。
その後、十日ばかりを経て、黒姫は女鬼、今板額と相談して、衣手の大恩に報(むく)いをすべけれと、手下の山賊に砂金三十両を持たせて女郎花村へ使わすと、衣手はこれを受けずにそのまま返した。黒姫はその心を悟って、更に一斗の椎茸と雉子(きじ)五番(つがい)を贈りつかわし、
「これは山で得た物なり。かすめ盗った物にあらねば、願わくば収めたまえ」と懇(ねんご)ろに云えば、衣手もようやく▼これを受け、使いに来た山賊に豆銀一包みを取らせつつ、「姉御達によく云えよ」とねぎらって帰した。
既にして秋も早や八月十日余りになれば、衣手は心に思う、
「・・・・・先には戸隠山の黒姫らから贈り物を受けたが未だその報いをせず、この十五夜に彼女らを招いて杯をすすめ、共にその夜の月を見ん」と十三日の昼過ぎに手紙を書いて、螻蛄平(けらへい)によくその意を含ませて、戸隠山へ使わせば、黒姫らの三人は衣手の手紙を見て喜ぶ事限り無く、使いの螻蛄平をもてなして思いのままに酒を飲ませ、返事を螻蛄平に渡す時、金三両を取らせれば、螻蛄平は大きに喜んで女郎花村へ急いだが、道にて既に日は暮れた。
十三夜の月に送られ、山風に吹かれるままに山路を下ると酒の酔いがひどく昇って足元も定まらず、一人よろよろひょろひょろと麓の裾野をよぎる時、松の切り株につまづいてたちまちはたと転びけり。 酔った者の癖なれば、既に一度転んでは再び起きる事叶わず、そのままそこに眠りこけ、前後も知らず伏したりける。
かかる所に木樵(きこり)の横七が麓の小柴を刈り集め、家路を指して帰る途中に、道の草むらに倒れ伏した者あるのを近寄ってその顔をよく見れば、かねて相知る螻蛄平なり。酒の香りが鼻をつき、酔い伏したその懐(ふところ)より銭財布が半(なか)ば顕れ出ているのを横七が密かに引き出すと、あの黒姫らの返事の文も財布と共に出てきた。その時、横七はこれかれ共に取り上げて、まず銭財布を探り見ると内には金三両と銭二百余りあり。又、その文を開いて見るとひらがなすらもよくは知らねど、黒姫、女鬼、今板額らの名のみ定かに読むことできれば、驚き且つ喜んで、腹の内に思う、
「・・・・・この前、衣手は我を疑い、足元を覗くなんどと口さがなく咎(とが)めたが、彼女はかえって謀反人の戸隠山の黒姫らと忍びやかに交われり。今、この事を訴え申せば、かねては褒美(ほうび)の定めもあり。これは思い掛け無く、金の蔓(つる)にあり付いた。運が良し」とうなずいて、文も財布もそのままに奪い盗りつつ足早に見返り見返り立ち去った。
さる程に、螻蛄平はその夜、亥中(いなか)の頃にようやく酒の酔い醒めて、あわてふためき身を起し、懐を探ると銭財布も文も無し。「此(こ)はそもいかに」と驚き憂いて独りつらつら思う、
「・・・・・金は失っても惜しむに由無し。返事の文を落としては帰って言い訳あらず。いかにすべき」と胸を痛めてようやくに思案を定め、飛ぶが如くに道を急いで、村の自宅へ帰れば、▼衣手はねぎらって、「いかに、返事は来ずや」と問うと螻蛄平は答えて、
「さん候。あの三人の姉御たちは斜めならず喜んで、返事をまいらせんと云われたども、それがしがそれを押し止め、只今返事をたまわって路で不慮の事あれば、後悔そこに絶ち難し。この十五夜に来られる事の相違が無くば、口上(こうじょう)にてこそしかるべけれと、このように申せば、しからばそなた、良き様に伝えてくれよと云われたり」とまことしやかに云いくるめれば、衣手はしきりにうなずいて、
「そちは我が父の時より家の事を任せられしが、果たしてかかる才覚(さいかく)あり。いみじく計らえる者かな」とひたすら誉めて止まざりけり。
とかくする程に十五日になれば、黒姫、今板額、女鬼らはその夕暮れより山を下り、共に衣手の自宅に来れば、衣手は東面(ひがしおもて)の奥座敷に迎え入れ、用意の酒肴を置き並べ、様々にもてなして隈(くま)無き月を賞する時に、水内(みのうち)の目代の縄梨氏内(なわなしうじない)が兵を大勢引き連れて、衣手の自宅を取り巻いて、
「戸隠山の謀反人の女鬼、黒姫らの三人が今宵、ここにいる事を訴人(そにん)あって確かに知れり。早く絡め捕って引き渡せば良し。異議に及べば家内の者まで、一人も残さず縛(いまし)めん。いかに、いかに」と呼びはった。
黒姫、今板額、女鬼らはその声を遙かに聞いて、
「事既にここに及べり。早く我々に縄を掛け、目代に渡したまえ。巻き添えさせられたまうな」と云うを衣手は聞きながら、
「いかでさる事をせん。逃るべくは共に逃げ、逃げ難くば共に死なん。しばらくここで待ちたまえ」と云いつつ物見の窓を押し開き、
「人々、無礼したまうな。私(わらわ)の家に黒姫らをかくまった覚え無し」と云わせもあえず、氏内はからからと笑いつつ、
「おのれ、衣手。陳ずるな。証人はそこに在り」と指さすあたりに木樵の横七がしたり顔に進み出て、
「あの夜、黒姫らが汝(なんじ)に送る返事の文を斯様斯様の事により図らず我が手に入れたれば、逃れる道は無し。覚悟をせよ」とののしった。
衣手はこれを聞きながら、そのまま内に走り入り、螻蛄平を呼び近づけて、
「汝は掛かる事や有りか。さぁさぁ云え」と責められて、螻蛄平も今は隠すに由無く、
「その夜、道に酔い伏して、返事の文を失いし事はしかじか」と初めて白状すれば、衣手は怒りに耐えず、
「主を欺く不忠の痴(し)れ者。観念せよ」と息巻きながら懐剣ひらりと引き抜いて、只一討ちに螻蛄平をばらりずんと斬り倒し、再び物見の窓に立ち、氏内に向かい、
「事、既に顕れれば、今は早、是非に及ばず黒姫らの三人を絡め捕って出しはべらん。囲みを少し退けたまえ」と呼び張りながら身を固め、太刀を横たえ薙刀を脇挟み、家の四方へ火を掛けさせて煙の内より斬って出れば、黒姫、今板額、女鬼らも太刀(たち)抜きかざして皆遅れじと多勢の中へ割って入り、縦横無碍(じゅうおうむげ)に斬って回れば、寄せ手の大勢は辟易(へきえき)して討たれる者ぞ多かりける。
その勢いにかなうべくも見えざれば、氏内は馬を飛ばして命の限りに落ち失せた。激しき四人の働きに横七は驚き恐れて引き返し、逃げんとしつつも衣手に斬り伏せられて二つになって死んでけり。衣手は思い掛けなく、水内の討っ手に取り囲まれ、難に臨んでかりそめにも逃れる事を望まぬ男魂(おとこだましい)あるために、止むを得ず、先に進んで討っ手の多勢を斬り散らし、黒姫、女鬼、今板額ら諸共に家内の(ぬひ)を引き連れて戸隠山へ落ちて行った。
かかりし程に黒姫らは恩に応えて義を思い、▼衣手をうやまって、日毎のもてなし浅からず。されども衣手はこれを喜ばず、つくづくと思う、
「・・・・我は元村長の娘にして犯した罪は無いけれど、人に真(まこと)を失わじと思うばかりに罪人となりにけり。さればとて今更に謀反人の群れに入って、世に汚れた業をできんや。しかしながら帰るべき家も無し。我が師の綾梭殿は甲斐の武田に身を寄せると、かねて云われた事あれば、あの地に在るべけれ。尋ねて行って身の成り行きを頼まばや」とようやく思い定めれば、遂に黒姫らに別れを告げて旅の用意をする時に、黒姫、女鬼、今半額らは等しくこれを押し止めて、
「姉御、何故にあわただしく甲斐へ行かんとしたまうぞ。願うはここに留まり、浮世を安く送りたまえ。我々は今よりあなたに砦を譲りまいらすべし。もし又、不義の行ないを嫌う事あれば、木を樵り、衣を織りつむいでも、諸共に世を渡るべし。まげてこの儀に従いたまえ」と言葉を尽くして止めれども、衣手は既に思い定めた事なればとて、いささかも聞き入れず、
「ここまで従い来た(ぬひ)らは寄る辺無き身となった。彼らの事はともかくも宜しく頼みまいらせる」とねんごろにその意を述べて、早や発ちでんとすれば、黒姫らは別れを惜しんで、その日は様々にもてなしつつ、金一包みを贈りけり。
かくて衣手はその明けの朝未(まだ)きより砦を出て忍んで甲斐へおもむくに、らは名残を惜しみ、黒姫、女鬼、今板額ら諸共に麓の野辺まで送りつつ、涙を流して別れけり。
あぁ、衣手は心映え、男もまれな世にいさぎよい勇婦なりしが、図らずも罪をおかして万里の旅路にさまよう事、そもそも何かの業因(ごういん)ぞや。
これしかしながら、その昔、あの古塚を暴かれた代々に名だたる傾城のその亡き魂(たましい)の性(さが)を引き、女と生まれ、これとなりたる因果をここに果たすなるべし。
さる程に衣手は夜に宿り日に歩み、長月のなかば頃、武田家の城下の甲斐の府中に着いた。
ここは国主の城下で市町が賑わしく、繁華の地なれば、軒を並べた商人の種々なるその中に、見れば道の巷の方辺に尻掛けの長椅子を二つ三つ置き並べ、御休憩所としるした行灯(あんどん)を柱に掛けて煎じ茶を売る家あり。衣手はそこに立ち寄って椅子に尻を掛けて、汲み出す茶を飲みながら茶店の母(かか)に向かい、
「この城中に去年の頃、都より来た▼綾梭と云う婦人は在らずや。剣術、柔術を良くすれば隠れてはあらじ。いかにぞや」と問われて母(かか)は頭を傾け、
「この城内の女中たちに剣術、柔術の良いもあり、力の強いも少なからねど、さる名の女中は知らず」と事なれ顔に答える折から肥え太り色黒い大女で年は三十路ばかりで八丈絹の格子縞の小袖を二つ三つ重ねた上に同じ縞柄(しまがら)の羽織を着て、繻子(しゅす)の帯を脇のあたりに結び下げ、髪の結びは何くれとなく異風の扮装した者がこの茶店に立ち寄って椅子に腰を掛ければ、茶店のかかは会釈して茶を出しつつ、衣手を見返って、
「この女中は城内で斯様斯様の方様なり。只今、問われた事をも良く知って御座(おわ)すべし」と云うと衣手はうなずいて、椅子を離れて小腰をかがめ、
「いと失礼にははべれども。私(わらわ)ははるばる信濃路より人を尋ねて来た者なり。都より来た綾梭と云う女中は城中には御座(おわ)さずや」と問われて、その大女も椅子に片手を付きながら会釈して、
「その綾梭と云う女中は私(わらわ)もかねてその名を聞きぬ。そは筑井氏の娘で女武者所に召されたが、亀菊に憎まれて遂に都を逃(のが)れた綾梭殿の事なるべし。近頃、人が噂するには、その綾梭は若狭の武田殿に在りと云えり。武田は一つ家なれども甲斐と若狭に分かれて在り。あなたは若狭へ行かずしてこの地を尋ねては絶えて逢瀬のあるべからず」と云うと衣手は
「さては思い違えしなり。武田と聞きしを心あてに若狭か甲斐かと問わざりしはいと浅はかにはべりにき」としきりに後悔すれば、大女は微笑んで、
「そは今更に悔やんで詮無し。今つらつらと見るに、あなたも又、世の常の女中には在らず。苦しからずば名乗りたまえ」と問われて衣手は辞する由なく、
「今は何をか隠しはべらん。私(わらわ)は戸隠山の麓の女郎花村の長の娘で衣手と呼ばれはべり」と名乗るを聞いて大女は思わず横手をはたと打ち、
「さては近頃ここらまで世の噂に聞こえた浮潜龍衣手殿にて御座(おわ)せしよな。私(わらわ)は国主の母君様に仕(つか)えた端(はし)た者ではべりしが、母君が亡くなられし後は宮仕えを辞して、城の長屋に一人おり、見られる如き武骨者。十六七の時だにも、色も香も無き者なれば、人はあだ名して花殻(はながら)のお達(たつ)と呼ぶ。縁(ゆかり)無くばいかにしてあなたとここで面(おもて)を合わせん。なお語らうべき事あるのにこの場所は道ばたなり。いざ諸共に立ちたまえ。行って一献(いっこん)くむべきに」と割なく袖を引き立てれば、衣手も又、喜んで立ち出んとする時に、お達は後ろを見返って、
「茶代は明日又来る時に、我が一緒に置くべきぞ」と云うを女房は聞きながら、
「何かは茶代を求むべき。戻りにも又、寄りたまえ」と答えてやがて見送った。
かかりしかば衣手は花殻のお達に誘われ、行く事▼五六町にしていと広い巷(ちまた)のほとりに力持ちの技をして、大太刀(おおたち)を抜き、薙刀を回すなどして香具(こうぐ)を商う女あり。
立ち混んだ人の後ろより何ごころ無く覗いてみれば、初め衣手の居合の師だった人寄せの友代(ひとよせのともよ)と云う者なり。衣手はその名を呼び掛け、ほとり近く立ち寄りつつ、別れた後の恙(つつが)無きを互いにことぶき祝うのをお達は見ながら声を掛け、
「友代、私(わらわ)はこの姉御を伴って青善(あおぜん)へ行くなり。お前も共に行かずや」と云われて友代は小腰をかがめ、
「そはしかるべき事にこそ。私(わらわ)は楊枝、歯磨きを今少し商って後よりまいらん」と答えて再び諸人(もろびと)に物を売らんとすると、お達は待ちわびいら立って、
「友代、行くなら早く行け。この人々も何事ぞ。物をば買わず、いつまでも立ちすくんでいるやらん。日の短きを知らずや」と大声上げてにらみ散らすと群集は肝を潰して皆散り散りになれば、友代は是非無く片付けて物を茶店に預け置き、お達、衣手と連れだって青善楼へおもむきけり。
そもそもお達はその始め、国主の母君に仕えた時、安達(あだち)と呼ばれた端た者なり。彼女はあくまで力あって、三斗(さんと)の米を張った臼(うす)をあちこちと持ち運ぶのが自在なり。それのみならず、朝夕に棕櫚(しゅろ)の箒(ほうき)を持ち、棒の手を練習して一家中の武士にも及ぶ者無きに至れり。国主はこの事を聞いて、
「今、都には院の御所に女武者を召されると承る。云わんや武家に於いてをや。取り立ててほとり近く召し使わん」と宣うを安達は固く辞し申して、なお、そのままでありけると母君が亡くなられた時、武田殿は惜しんで安達に身の暇(いとま)をたまわらず、
「しかるべき武士に婚姻させるべし」と仰されたけれども、安達はこれさえ辞し申して、
「かく我ままな気質で顔形が人並みならねば、生涯人の妻となるとは思わず、御側近く召し使われる女中たちにはべれば、仕えた母君の菩提(ぼだい)の為に尼法師ともならんに、私(わらは)はいと末々(すえずえ)の者なれば、それさえ許されぬべし。所詮、御館(みたち)の外にいて一期(いちご)を送りはべらまし」と願えば武田殿は感じたまいて
「真(まこと)に奇特(きとく)の者なれば、彼女の願いに任せよ」と城の内に自宅をたまわり、
「宮仕えする女子で武芸を心掛けんと思う者には手鎌、寄棒、居合(いあい)の技を教えよ」と仰せられ、月毎の扶持米(ふちまい)、衣服の料まであてがわれた。
安達は達と名をあらためて、城外に出歩くが異風の装束(いでたち)なれば、人皆これを知らぬ者無く、市町(いちまち)の悪戯者も全てお達に恐れはばかって喧嘩口論もまれになりけり。武田殿はそれを喜び、彼女が漫(そぞ)ろに出歩くのをいささかも咎(とが)めたまわず、全てその意に任せたまうと、お達はその性(さが)騒がしくて一日も籠もりいる事得ならず、又、只、酒を好めば、酔う事は常なれども、さりとて過(あやま)ち無ければ、男勝りの大女とてその名は高く聞こえけり。
これはさて置き、お達はその日、衣手、友代を伴って青柳町の青善と云う酒楼に行き、多くの酒肴を出させて、相手に勧め我も飲み食いなどするとお達はその身の上を物語り、衣手も又、戸隠山の黒姫、女鬼、今板額らの事、▼我は義により真を感じて、討っ手の大勢を斬り散らし、戸隠山にも留まらず、遙々(はるばる)ここまで来た由を少しも隠さず告げれば、お達はひたすら衣手が人の為に難を思わず、その家をさえ失った心栄えを感じた。
かかる所に隣座敷に人在って、泣く声しきりに聞こえれば、お達はたちまち興(きょう)を醒まして手を鳴らし、この仕出し屋の小者(こもの)を呼んで、
「我が客人を伴い来て盃(さかずき)をすすめるのに、汝らは何の為に隣座敷に人を泣かせて酒宴の興を醒まさせる。我を女と侮(あなど)るか。その訳聞かん」と息巻けば小者は手を擦り頭を掻いて、
「御腹立ちは道理なれども、彼は日毎にここに来てお客の招(まね)きに応じる色子(いろこ)にて候が、心に悲しむ事あれば泣いているにやあらんずらん。童(わらべ)に等しき者なれば、無礼は許させたまえかし」とひたすら詫びれば、お達はうなずきながら、
「その色子は何かの故(ゆえ)に深く悲しむ事のあるやらん。さぁここへ呼び、私(わらわ)に見せよ」と急がすと小者は一議に及ばずに心を得て退(しりぞ)いた。
かくて、しばらく待つと年(よわい)十四五の美少年と六十路(むそじ)余りの老女がしとやかに来て、お達らに向かい、
「お客様方、お揃いにて、よくこそ居らっしゃいませ」と云いつつ頭を下げれば、お達は近くに呼び寄せて、
「お前らはいかなる悲しみあって、声立てて泣きたるぞ。その訳を隠さず告げよ」と云われて婆は目を押しぬぐい、
「私(わらわ)は鎌倉の者にはべるが、これなるは一人子で優之介(やさのすけ)と申す者。幼い頃より田楽(でんがく)の芸能を習わせて世渡りしたが、いささか障(さわ)る事あって鎌倉を出て、この地の縁(ゆかり)をあてにして親子で遙々(はるばる)来たけれども、縁の人は去年の冬に世を去ったと聞かされて、又、鎌倉へ帰らんと思う折から図らずも私(わらわ)がにわかに病み患(わずら)って長き旅寝(たびね)に多くもない路銀を使い果たしたり。
しかるにここより遠からぬ海老根橋のほとりの塩物問屋の貝那(かいな)と云うは後家持ちの商人で、その後見をする男を代野介兵衛(だいのすけべえ)と云う。さてその貝那は先頃、童田楽(わらべでんがく)の興業主をしたが、一人の太夫(たゆう)が不足なりと優之介を抱えんとその談合に及べども、その事は遂に成就せず、しかしながら貝那は優之介の給金百両の手形を書かせて、金を未だ渡さぬのに既に金は渡したと責める事大方(おおかた)ならず。
口惜しく思えども優之介は年まだゆかず、私(わらわ)は女、元よりこの地は旅にして相談相手となる者無ければ、今更、真空言(まことそらごと)を明らかにする事叶わず、只その負い目を償(つぐな)う為に日毎にここの座敷を借りて、優之介の和楽器の調べを当座の便宜(よすが)にて来た客を慰めつつ、いささかなる銭をたまわり、その半分を旅籠(はたご)の料とし、その半分を百両の利息に貝那に渡せども、もし一日でも遅れれば、責め徴(はた)られて耐え難し。しかるにこの三日はさせるお客の無きにより貝那にひどく徴(はた)られて、いかなる辛き目をや見んと思う苦労が胸に満ち、嘆いておりました」と云えば、又、優之介も
「只今、母が申した如く、由無き嘆きに声を漏らして御機嫌を損ねたは大方ならぬ過(あやま)ちなり。許したまえ」と諸共に詫びつつ涙にかきくれた。
お達はこれを聞き憤(いきどお)りに耐えず、
「お前ら、心を安くせよ。我が全て引き受けてこころざすす方へ発たせん。何処(いずこ)を宿にしているぞ」と尋ねれば親子は喜びひれ伏して、
「もししからんには再び生きる御恵みなれ。ここより五丁目の寝倉屋(ねぐらや)宿六(やどろく)という旅籠屋を宿にしてはべる」と云う。
その時、お達は懐(ふところ)より金三両を出し、衣手を見返って、
「我は今日、ちとばかりの呉服物を買おうと思って持ち合わせはこれのみなり。あなたの路銀を貸したまえ。明日には必ず返すべし」と云うと▼衣手はうなずいて、
「それはいと易き事なり」と小判十両を取り出して、脇取り盆の上に置いた。
お達は又、友代に向かって、「そなたも少し貸せ」と云えば友代は渋い顔で、わずかに金弐分を渡せば、お達はこれを投げ返し、十三両を一つにしつつ優之介親子に取らせ、
「これを路銀に明日には親子でこの地を立ち去れ。夜も明ければ旅籠へ行き、私(わらわ)が見立てて出発させん。今より心構えをして私(わらわ)を待ちね」とねんごろに諭(さと)せば、親子は伏し拝んで、人々に暇乞(いとまご)いして忙わしく旅籠へと戻っていった。
お達はしきりにその事の腹立たしさに耐えざれば、再び小者を呼び寄せて、わずかに残った小粒二つを紙にひねって投げ与え、
「今日の持ち合わせはこれのみなり。足らずば自宅へ取りに来よ」と云うと小者は受け戴いて、「これでは余り候(そうら)わん」と云うをもよくも聞かずして、「いざ」とやがて立ち上がれば、衣手、友代も諸共に続いて下屋へ降り立って、門(かど)よりおのおの引き別れ、衣手は旅籠へ行き、友代は己(おの)が出張(でば)りする元の巷(ちまた)へ急ぎけり。
かくてお達は明けの朝、優之介らが宿する寝倉屋へ行って見ると、その親子は既に旅立ちの用意をして、宿銭(しゅくせん)なども宵の間に残り無く主人に渡してひそかにお達を待っていれば、忙わしく出迎えて、その厚恩(こうおん)の喜びを述べるのをお達は聞きながら「それは無用の口義(こうぎ)なり。さぁさぁ行きね」と急がすと、優之介は母親諸共に草鞋(わらじ)の紐(ひも)を引き結び、暇乞(いとまご)いして出ようとすると主人の宿六が驚いて押し止め、
「お前ら親子はなまよみ屋に百両の借金あり。しかるを他国へ逃げさせては我がその祟(たた)りをのがれ難し。その金が済むまでは何処へかやるべき」と言葉せわしく息巻いて引き戻さんとすれば、お達はまなこを怒らして、
「その百両は私(わらわ)が返さん。かくても聞かずとどめるか」とにらみ付けた勢いに宿六が思わずも後ずさりをするその間に優之介らは走り去り相模路指して急ぎけり。
お達は心にあの親子を遠く逃がすために、店先に尻を掛け、いつまでも出て行かねば、宿六はその事を貝那に告げようと思えども、お達がここにいては、その事も叶わねば、気をのみ揉んで時を移すと正午(まひる)の頃になれば、お達はそろそろ良き程なるべしと、思えばここを立ち出て又、なまよみ屋へ向かいけり。
折から貝那は店におり、今、お達が来るのを見て忙わしく小腰をかがめ、
「お達様、珍しく何の御用で来ませしか」と問えばお達は
「然(さ)ればとよ、奥方様の御用あり。塩鮪(しおまぐろ)の血合い無い所を一升(ひとます)ばかり賽(さい)の目に刻んでまいらせよ」と云うと貝那は心得て、男妾(おとこめかけ)の介兵衛に切らせようとするのをお達は急に押し止めて、
「否(いな)、他の者が切るのは御用には立ち難し。そなたが刻んでまいらせよ」と云うと貝那は止むを得ず、自ら鮪を細かく刻んで、大きな竹の皮、三つばかりに包み重ねて渡すのをお達は下げて、
「これのみにてはなお足らず。塩鮪の血合いばかりをよく刻んでまいらせよ」と云うと貝那は呆れ果て、
「鮪の血合いを何にせん」と一言返せば、又一言、言葉の争いついつのり貝那はお達に顔を背けた。
<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
けいせいすいこ伝 初編第四
馬琴作 豊国画 仙鶴堂梓
貝那が無視して鮪の血合いを切ろうとせねば、お達は眼(まなこ)をいからして、
「何故に刻んでまいらせぬ。上の御用を知らずや」と声荒立てて、「さぁさぁ」と催促すると、仕方無くも貝那は血合いを細かく刻み、「いざ」と渡せば、お達はこれをも手に下げて、
「また、この他に望みあり。塩鮪の骨だけを一升刻んでまいらせよ」と云うと貝那はむっとして、
「何故に戯(たわむ)れたまうぞ。上の御用を権にきて強請(ゆす)りに来たか」とつぶやけば、お達はこれを聞きながら、
「強請りに来たとは誰が事ぞ。おのれら如き衒妻(げんさい/卑しい女)に戯れ云うとも誰がとがめん。今一言返してみよ。返事をせずや」とののしった怒りでお達は下げた鮪をはたと投げれば、貝那は顔面痛く打たれて包みは解けてあちこちへ散り乱れ飛ぶ塩鮪の血合い。
才覚あれども、貝那も今はこらえかね、
「おのれ、尼めが何するぞ」と息巻きながら脅しの包丁ひらめかし、打たんと進むをお達は得たりと身をかわし、刃(やいば)を丁と打ち落とし、ひるむ所を胸倉つかんで塩物台の片隅へ早や押し付けて動かせねば、介兵衛は「あなや」と驚き騒ぎ引き離さんと立ち寄るところをお達は右の足を出し、はたと蹴れば、介兵衛は金玉を蹴られて「あっ」と叫んで後ろざまに倒れた。
これより先に宿六は優之介親子の事を早く貝那に告げんとて、この店先まで来たれども、お達がここに来ていれば、入りかねて塩物俵(たわら)を楯(たて)にして、この有り様に驚き恐れて立ちも得去らず息もせず、▼なおも様子をうかがった。
その時、お達は声振り立てて、
「貝那、お前の手並みは知っている。汝に罪咎(つみとが)多くあり。貧しき者に銭を貸し、利を貪(むさぼ)ることはなはだしく、催促もひどければ、遂に子を売り家を失い、路頭に立つ者少なからずと世の噂に聞こえたり。それのみならず近い頃、優之介親子をだまして、貸しもせぬ百両の借金を負わせて利息を取り、彼ら親子に難儀(なんぎ)を掛け、親子の身の油を絞り取ったはこれ上も無き非道ならずや。且つ、汝は数にも足らぬ商人の後家にして、甲斐の城下に在りながら、なまよみ屋と家名(かめい)するは身の程を知らぬなり。 かくまで犯せる罪咎の天罰を思い知らせん」と罵(ののし)り攻める拳(こぶし)を固めて眉間(みけん)をはたと打ち込めば、鼻血たくたくと流れ伝って、蘇芳(すおう/赤紫)の徳利を倒した如く、目の玉高く飛び出して壁より落ちる蝸牛(かたつむり)に似たり。
貝那は既に大力に胸倉を取られて、息も絶え入るばかりなのに、今、又、眉間(みけん)を痛く打たれて、いかでかはたまるべき。たちまち「うん」とのけぞるところをお達はなおも怒りに任して、続けて三つ四つ打てちば、もろくも息は絶えにけり。
お達もこれに驚いて、
「此の衒妻(げんさい)めが、術(じゅつ)なき空死(そらじ)にをしたとて、誰がそれを真(まこと)にすべき。この事を訴え申して明(あか)さ暗さを立つべきぞ。覚えていよ」とののしりながらひるまぬ様に歩み出て、やがて自宅に帰れども心の内は安からず、独りつらつら思う様、
「・・・・一時の怒りに任せて、貝那を殺したのは女に似合わぬ過ちなり。さればとて彼女らの為に下手人(げしゅにん)となるは口惜(くちお)しい。只、すみやかに難を逃れて又、ともかくもせばや」と心ひとつに思案をしつつ、少しの路銀を腰に付け、早くも逃走したりけり。
さる程に、寝倉屋の宿六はお達が出て行くのを遅しと、その事をあたりの人に告げ知らせ、諸共に店に入ると、既に貝那は眉間(みけん)を破られ、目の玉さえも飛び出して、死に絶えたれば術(すべ)も無し。介兵衛はようやく息を吹き返し、お達の事を人々に説き示し、さて宿六を証人にて国守へ訴えた。
されば又、甲斐の国主の武田殿はこの訴えを聞いて密かに思いたまう、
「・・・・その達は力強くて男魂ある者なのに酒を貪(むさぼ)る癖あれば、さる過(あやま)ちをしだしたならん。真(まこと)に不慮の事なり」と心に哀れみたまえども、何ともできねば、「まず早や、喧嘩の相手の達を捕らえよ」と仰せける。
これにより市の司の跡部今之進(あとべいまのしん)は承って、組子(くみこ)をお達の自宅へ使わし、絡め捕らんとすれども、お達は既に逃走して行方知れずと聞こえれば、この詮索に長き日を送り、事果てる様子もあらざれば介兵衛は恨みいきどおり、
「相手が身内の女なれば、行方の知れぬを幸いに贔屓(ひいき)の沙汰(さた)をせられるならん。ならば鎌倉へおもむいて愁訴(しゅうそ)をせん」と息巻いた。
こと今更に私(わたくし)の加減するべき事でも無ければ、武田殿もしかじかと鎌倉へ聞こえ上げて、公沙汰(おおやけざた)に任せられ、鎌倉の執権北条義時の下知として▼早や国々に触れ流し、お達の行方の詮索が厳重になりにける。
かかりし程に花殻のお達は甲府を出てより、さして行方は定めずに足に任せて走りつつ、近江の大津をよぎる時、札の辻と云うほとりで新たに掛けた高札あって見る人多くたたずめり。
「此(こ)は何か」と思うとお達もそこに立ち寄り、笠押し上げて仰(あお)ぎ見るが、元より無筆なれば、何の故(ゆえ)とも知る由無きを人に問うのはさすがにて、なおつくづくと見る折からたちまち後ろに人あって、
「お花女郎、うかうかと何してござる」と呼び掛けながら背中を叩く者ありけり。
お達はこれに驚き見返れば、この人はこれ、思い掛け無き優之介の母親の葉山(はやま)なり。こはいかにと問おうとするを葉山は目配せで押し止めて、人無き所へ伴いつつ、あたりを見返り、声をひそまし、
「お達様、いかなれば身をも思わず大胆な。あの高札はあなたの行方を尋ね求める人相書きで、絡め捕って引き出せば、百貫文の褒美銭をたまわらんとある下知文なり。さても危うい事なり」と云うとお達は初めて悟って、
「さては我が身の上の事なりけり。私(わらわ)はあの日、そなたらを発たせし後も怒りに耐えず、斯様斯様の事により貝那を殺し、罪を逃れるためにその日甲府を立ち去って、行方定めずここらを過ぎるなり。さてもそなたは何故に鎌倉へ帰らずしてこの地におるやらん」といぶかり問えば、
「然(さ)ればとよ。私ら親子はそなた様の大恩で鰐(わに)のあごを逃(のが)れしより、鎌倉へ行く折に、道にて同郷人に行き会うたり。さてその人が云われるは遊芸で世を渡るには鎌倉へ帰るより都の方こそ良かめり。我も商いの為に遙々(はるばる)と都へ行こうとする折、いざ伴わんと云われれば、遂にその意に任しつつ、この大津まで来て杖(つえ)を留め、都の便宜(びんぎ)を求めるとここより一二里上方(かみがた)の山科(やましな)に百倉(ももくら)長者と呼ばれ家富み栄える郷士あり。その長者は近い頃、顔形良い少年で小鼓(こつづみ)に技ある者を童小姓(わらべこしょう)に求めたまうと仲立ちする者があるにより、幾程もなく優之介は百倉殿にまいり仕(つか)えて寵愛の者にせられたり。しかるに大津と山科の間で近江と山城の国境を追分の里と云う。その追分に百倉殿の別荘はある。されば長者は優之介を寵愛のあまり、私(わらわ)の事さえ世に頼もしく思われて、母親が世に在らんには豊かに養えんとて、追分の別荘を私(わらわ)親子に守らせて折々通いたまうのみ。優之介はもちろん、母さえ豊かに暮らす事は百倉殿の恵みなれども始めを云えばあなたの大恩、いつの世にも忘れはべらん。追分へは程近し、優之介にも対面して長旅の疲れを休らえたまえ」と涙ながらの身の上話に他事(たじ)無く袖(そで)を引き立ててその別荘へ伴った。
お達は思い掛け無くも由ある人に巡り会い、その有り様を再び見て、物語りを聞くにつけ、実(げ)にも葉山の身の回りは甲斐の旅籠に在りし日のやつれし体(てい)に似るべくも無く、
「・・・・さてしも人の行く末は予ねて知られぬものなりき」と心の内に感嘆しつつ、伴われつつ行くと早や追分の里に来にけり。
巷(ちまた)より南に一町ばかり入りたる冠木門(かぶきもん)の一構えはこれ百倉の別荘なり。
葉山は先に進み入り、
「優之介は御座(おわ)さずや。大恩人が来ませしに、さぁ出迎えたまえ。もしもし」と呼び立てれば、優之介は忙わしく玄関の小障子(こしょうじ)を押し開き、お達を見て驚き、且つ喜んで走り寄り、
「これはそも神の導きにて。よくこそ遙々(はるばる)来ましたれ。いざ」と奥へ伴って親子右より左よりそのもてなしは浅からず、
「我々親子がかくまで世を安らかに送る事はそなた様の御恩によれり。しかるにあなたが人殺しの罪人となりし事はこの里までも隠れ無く、百貫文の褒美をかけて、今、公(おおやけ)より尋ねたまうを聞くに付けても、胸苦しさは短き言葉に尽くし難し。主にて御座(おわ)する百倉殿にもかねてあなたの心栄(ば)え、我々親子が大恩を受けた事を忍びやかに告げ申せしが、富んだ人には御座(おわ)すれども男気のある性なれば、しきりに感じ哀れんで、「そのお達とやらが、ここらへ来る事あれば、ともかくもして匿(かくま)うべし」と世に頼もしく宣った。
かかれば密(ひそ)かにあの方様にあなたに巡り会った事を告げれば、大恩を返す縁(よすが)となりもやせん。まずはくつろいで語らいたまえ」と代わる代わるに慰めて肴を整え、酒を温め、二階座敷へ席を設けて、もてなし大方ならざれば、お達は憂(う)かりしこの頃の旅の疲れを忘れるまでに盃を傾けて、あの日は胸のもやもやと憤(いきどお)りが治まらねば、なまよみ屋へ行って思わず貝那を殺したその体(てい)たらくは斯様斯様と始め終わりを物語れば、優之介も母親も肝を潰してその勇力をしきりに驚嘆(きょうたん)した。
かかる時に表の方では多くの人音がして「盗人(ぬすびと)女を逃がすな」と下知する声と諸共に、捕り手か勢子(せこ)か六七人が「承りぬ」と答えつつ、二階を目掛けてむらむらと昇らんとひしめいた。
お達は早くこれを見て、
「さては我が身の上の事なり。打ち散らして逃げ去らん。物々しや」と云いながら、方辺(かたへ)の銚子をつかみ取り、礫(つぶて)に打たんと立ち上がるのを葉山は急に押し止め、
「逸(はや)って過ちしたまうな。あれは主の人々なり。定めて事の訳あらん。まず待ちたまえ」と云いかけて走り下りつつ表に出て、捕り手の大将に、「何事やらん」と囁けば、又、あの人も囁いて笑うほどまで心ほどけて、手の者どもを退かせ、葉山と共に内に入った。
その時、葉山は忙わしく、元の二階へ上り来て、
「お達様、心安かれ。来たのは別人ならず、優之介の主の百倉の君なり。小鳥狩りの帰る途中にこの別荘へ立ち寄る折で、供の人々があなたと優之介が酒盛りするのを仰ぎ見て告げれば、百倉殿はいぶかって、さては優之介が鎌倉に在りし時の馴染みの客の後家などが都上りの折を得て立ち寄ったにあらんずらん。そはともあれ、かくもあれ、人の秘蔵の美少年を我が者顔に遊び戯れ、我が別荘を踏み荒らすのは憎むべき痴れ者(しれもの)なり。詮索せよと下知すれば、若き供人が勇みたち、ひしめいたにはべるとよ。しかるに私(わらわ)がしかじかと主に囁き申せば、笑い且つ喜んで、供人らを押し止め、彼らをこと如く、山科へ帰し、百倉殿が只一人、あなたに対面すべしと下座敷に御座(おわ)すなり。気使いたまう事ならず」と言葉せわしく▼説きさとせば、お達は聞きつつ微笑んで、
「さては間違いなりか。由なかりき」と襟(えり)かき合わせて元の座席に着くと、百倉長者は静々と箱梯子(はこばしご)を昇り来て、お達に向って慇懃(いんぎん)に、
「かねてその名は隠れ無き、優之介らの恩人の花殻殿にて候よな。それがしは百倉なり。あなたが武芸に優れた男魂ある事はこれなる親子の物語りで伝え聞いて候。しかるにあなたが彼らの為に罪人となりし事は心苦しき限りなり。それがし一重に優之介の男色にひかれる故(ゆえ)にかくの如く云うにはあらず。身不肖(みぶしょう)には候(そうら)えども義の為には財を惜しまず、多く得難き義女(ぎじょ)と知りつつ、ちとの助けにならんや。ともかくもして匿(かくま)わん。この地に留まりたまえ」と云う人の真(まこと)の大方ならぬにお達は喜び感激して、計らず葉山に巡り逢ったこの日の事を物語る。
かくて又、百倉長者は葉山親子に心を得させて肴を添え盃を改めて、さらにお達をもてなす程に早や黄昏になりにけり。その時、長者はお達に向かって、
「ここは大津へ近く街道へも程遠からねば、隠れ家にはよろしからず。されば今宵、山科の我が母屋へ伴うべし。あなたの心はいかにぞや」と問えばお達は一議に及ばず、
「我が身は網を漏れた魚なり。いかで住処(すみか)を嫌うべき。ともかくも」と答えれば、百倉はその夕暮れに密かにお達を伴って山科の自宅へ帰った。
しかれどもお達は★姿むくつけき、よしや義勇の女なりとても、身近く置くのはさすがにて、女子部屋のほとりの一間を起き伏しの所と定めて、朝夕は妻に預け、百倉は昼に酒肴を用意させ、日毎に自らお達をもてなし、武芸勇力の物語にをさをさ興(きょう)をもよおす折から優之介は母親諸共に追分の里より来て、主の百倉に囁く様、
「あの日、君が別荘へ立ち寄られた時、女を絡めて詮索せよと供人らに下知されながら、又、故(ゆえ)も無く止めてあの人々をそのまま主屋(おもや)へ帰したのを▼あたりの者が垣間見て疑わしく思いけん。さしたる用も無き者が問い訪ねる事もあり、ある日は背戸よりうそうそと奥を覗く事もあり、油断のならぬ人心、この所さえ嗅ぎ付けられれば、事の災い図り難し」と告げるをお達も聞きながら、
「さては早や人が知りつらん。しかるをここに忍びいて、長者一家を巻き添えすれば、後悔そこに立ち難(かた)し。この日頃の恵みは忘れる時無し。再会は只、天に任せてすみやかに立ち去るべし」と云いつつ帯を結び直し、早や発ち出んとした。
お達は人を巻き添えさせじと思えば、急に身拵(みごしら)えして暇乞(いとまご)いして出んとするのを百倉長者は押し止めて、
「さのみは先を急ぎたまうな。甲斐一国の沙汰(さた)にはあらず、今鎌倉より国々へ残る隈無く触れ示されたあなたの行方の詮索は何処(いずこ)の浦とて安穏なるべき。さるを知りつつ放ちやれば、優之介親子は更なりそれがしとても義に背(そむ)く、心にこころ良しとせん。それがし一つの謀(はか)り事あり。あなたを遠くやらずして追捕(ついほ)の沙汰を逃(のが)れるべし。なれどもあなたの気質にて得心(とくしん)無くば仕方無し」と云うのをお達は聞いて、
「我が身は死すべき罪人なのに、幸いにして事無くは何をか否(いな)み嫌うべき。まず、試みに説き示したまいね」と答えて元の座に返れば、百倉長者は喜んで、
「その一議は別事にあらず。ここより程遠からぬ白川の山中に龍女山(りゅうにょさん)無二法寺(むにほうじ)と云う尼寺あり。これは鳥羽院の御時に待賢門院(たいけんもんいん)の御願所(ぎょがんどころ)として建立された七堂伽藍(しちどうがらん)の大寺なり。
保元、平治の乱れより、坊領なども修行を怠り、すこぶる衰えたが故(ゆえ)あって我が祖父の百倉太夫(だゆう)が伽藍を再興したにより、今それがしに至っても第一の檀家なり。しかるに我が母が世に在りし時、祖先の菩提(ぼだい)の為に一人の女子を剃髪(ていはつ)させて、その無二法寺の尼に成さんと思い起こせし事ありながら、その女子を得ざれば宿願(しゅくがん)もむなしくなった。あなたが今、その寺に赴(おもむ)いて剃髪して尼となれば、追捕の沙汰を逃れるべく、我も又、亡き世の宿願を果たす喜びあり。かかれば、萬(よろず)の料足(りょうそく)はそれがし全てまかなうべし。この儀に従いたまわんや」と問われてお達は一議に及ばず、
「それは我が予ねての願いなり。初め武田殿の母君に仕えしが、母君が亡くなりし時に菩提をも▼訪(とは)ざりしは身のいやしきによってなり。されども一生不犯(ふぼん)にして人の妻とはなるまじけれと思い定めし事なれば、真(まこと)に勿怪(もっけ)の幸いなり。ともかくも計らいたまえ」と云うに百倉は喜んで、にわかに度牒(どちょう/出家証明)、袈裟(けさ)、衣(ころも)、布施物までも用意しつつ、次の日、お達を一挺(いってい)の乗り物に乗せ、供人多くに用意の品々、布施物などを担(にな)わせて無二法寺に赴(おもむ)いた。
かくて早や、山門(さんもん)近くになり、無二法寺の接待役の尼が三人の比丘尼(びくに)達を引き連れて門まで出迎えて、まず時候(じこう)を述べ、安否を尋ねて、客殿へいざなった。
その時、お達はあちこちとその境内を見ると、十六間(けん)の本堂には丈六(じょうろく)の観世音を安置して、七間の経堂あり、六角の輪蔵(りんぞう)あり、五重の塔は雲を貫き、一滸(いっこう)の池水(ちすい)は影さえ見えていと清し。いわんや、又、霞み込めた学寮には無明(むみょう)の酔いを醒ますべく、蓮の糸繰(く)る織殿(おりどの)には当麻寺(たいまでら)の昔も偲ばれる。時知り顔に咲く花は松、檜(ひのき)の間を彩り、友呼び交わし鳴く鳥は迦陵頻伽(かりょうびんが)もありやと思われる。とうとうたる滝の糸、爛漫(らんまん)たる藤葛(ふじかずら)。かれは白妙(しろたえ)これは紫、いずれか糸を乱さざらん。まことにこれ奇麗、壮観、目を驚かす大寺なり。
されば住職の尼法師は齢(よわい)六十余りにして、妙真(みょうしん)大禅尼(だいぜんに)と称せらる道徳無双の名僧なり。今日は当山第一の檀家の百倉長者が参詣の聞こえあれば、方丈(ほうじょう)に招き入れ、茶や菓子をすすめ、いと懇(ねんご)ろにもてなした。その時、百倉は膝(ひざ)を進めて、
「それがし、今日の参詣は別(べつ)儀(ぎ)にあらず。召し連れたのは従姉妹(いとこめ)で初めの名を安達(あだち)と云い、二親(ふたおや)ともに世を去って兄弟も短命なり。親同胞(はらから)の菩提の為に尼になる事を願えり。それがしが施主となって万事をまかない候(そうら)わん。御弟子と成し下されて御寺(みてら)に留め置かれれば、此の上も無き幸いなり。この儀、御許容あれば今日でも吉日なり。剃髪の儀を仰せ付けらるべし」と述べ終わり、多くの布施物を取り出して、うやうやしく参(まい)らせれば、妙真禅尼はうなずいて、
「大檀家の所望と云い、年若き身が世を厭(いと)うて尼になろうと願われるはまことに殊勝(しゅしょう)の事なり。さらばまず、その用意をせん。小座敷に赴(おもむ)いて齋(とき/食事)を参って休息あれ」とたやすく引き受ければ、百倉長者はお達と共に小座敷に退きつつ、人無き折を見合わせて、お達の耳に口を差し寄せ、
「今、この寺の弟子となって教えを受ける立場ながら、我等と同じく押し並んで、住職の禅尼に向かっても頭も下げず横柄なのは片腹痛き事なり。今より萬(よろず)に慎んで、同宿の比丘尼達に笑われたまうな」と囁けば、お達は「実(げ)にも」とうなずいて、これより後は百倉の後に付いて居たりける。
これはさておき、その夜、年老いた比丘尼五六人が密かに住職のほとりに参って、
「今日、剃髪の願いを許されたお達と云う女を見るに、身の丈高く色黒く、眼(まなこ)つぶらに肥え太り、▼世の常ならぬ面魂に立ち振る舞いさえ無骨なり。斯様な女子を出家させて当山に留めれば、遂にいかなる災いを引き起こさんも計り難し。御思案あらま欲(ほし)けれ」と言葉ひとしく申すのを妙真禅尼は聞きながら、
「人は形によるものならず。よしや醜き女子なりとても、その剃髪を許さずば第一の檀家の百倉長者が恨みやせん。さる時は寺の為によろしき事にはあらず。我はまず彼女が行く末を見ん」と宣いつつ、香をたき、秘文を唱(とな)え、しばらく瞑想し、又、比丘尼達に示したまう、
「彼女は古(いにしえ)の世に名だたる傾城の再誕なり。前世の業因(ごういん)で今は仕合せ悪けれど、行く末で必ず仏果(ぶっか)を得るべし。後に気づくのを待つこそ良けれ」と示したまう。
かくて早や時刻になれば、鐘を突かせ、太鼓を鳴らして多くの尼を整々(せいせい)と本堂に集め、百倉長者も衣服を改め、お達を引き連れ、本堂に進み入り、香をたき、仏を拝み、更に住職を敬礼して席に着けば、一百余人の比丘尼達は二側(ふたがわ)に並び立ち、合掌、礼拝、規律を守って鉦鼓(しょうこ)を鳴らし、整々(せいせい)と経読む声ぞ澄み渡る。
かくて二人の稚児(ちご)が進み出て、お達を高座のほとりに誘い、膝まつかせれば、介添えの尼が立ち寄って、お達の練りの帽子を脱がせ、髻(たぶさ)を解いて、あちこちと分けて九つに束ねれば、剃り手の比丘尼は後ろより剃刀を手合わせして、お達の黒髪を剃り落とした。
その時、妙真禅尼は高座に在って偈(げ)をとなえ、お達に法名を妙達(みょうたつ)と授け、まず三帰(さんき)を示したまう。
「三帰は帰依僧(きえそう)、帰依仏(きえぶつ)、帰依法(きえほう)、これなり。又、五戒(ごかい)を授けたまう。いわゆる五戒は一に殺生(せっしょう)する事なかれ、二に盗みをする事なかれ、三に色欲邪淫をしずめ、四に酒を飲む事なかれ、五に虚言(そらごと)を云う事なかれ」といとおごそかに示したまうが、お達は剃られた黒髪が今更に惜しければ、ひたすら頭を撫で回し、云われる事が耳に入らねば、介添えの尼が方辺より、「よくするや、否(いな)や、申さずや。これなうなう」と教えるとお達はようやく気づいて、「呑み込みました」と答えれば、皆々思わず吹き出してしばし笑いが絶えざりけり。
かくて法縁こと果てれば、百倉長者は比丘尼達に布施を出し、喜びを述べ、住職住持に別れを告げて山科へと帰るに、新尼(にいあま)の妙達は接待役の尼達と共に山門のほとりまで▼送りけり。その時、百倉は妙達を方辺(かたへ)に招(まね)いて、
「既に頭を剃って仏の道へ入りたれば、昨日までのお達にあらず。万事わがままを慎んで、姉弟子たちにうとまれたまうな。我は又、折々食物と衣服を送り使わすべし。堅固に修行したまえ」とねんごろに教訓して別れて山を下りける。
かくて同宿の比丘尼達は妙達を学寮に伴い、朝夕の勤めを指南し、ひとつひとつを教えれども妙達はよく聞かず、只うろうろと立ち歩き、ある日は欲しいまに昼寝してわがままにのみ振る舞えば、同宿の尼は気疎(けうと)く思って妙達を呼び覚まし、
「全て女子は起き伏しに行儀を慎むものぞ。まして尼法師たらん者は智慧を磨いて、彼(か)の岸へ至るべき工夫にのみで暇(いとま)無き者なるに、昼寝する事やある。いと漫(そぞろ)なり」と恥しめると妙達は聞いて頭をもたげ、
「我もそこらの工夫をせんと心を鎮めておるものを妨げすな」と腹立てば、同宿の尼はうなずいて、「良きかな、良きかな」と讃えしを妙達はなおつぶやいて、
「我等は薪を割りには来ず。斧を尋ねて何にかせん。知らず知らず」と答えれば、皆々どっと笑いけり。これのみならず妙達は学寮の後ろに出て小便を垂れ散らし、無礼大方ならざれば、監主(かんす)の尼達はこらえかね、住職に訴え申せども、妙真禅尼は取り上げず。とどのつまりで比丘尼どもをなだめたまえば、さては禅尼の片押しで彼女のみを引きたまうといきどおりに耐えねども、又、仕方も無かりけり。
かくて早や、五六か月を経る程に神無月の初めとなって小春の空は暖かなれば、或る日、妙達は山門の向こうに出て独り風景を眺めると、冬の日は影が短く、七つ下がりになりにけり。かかる所に麓の方より
「燗酒(かんざけ)、燗酒、黒麦(くろむぎ/蕎麦)」と二声三声呼びながら、荷桶と箱蒸篭(はこせいろ)をになう一人の商人が石坂を昇り来て、山門のほとりに休みぬ。妙達はこれを見て、
「・・・・我が甲斐の府中に在りし頃は日毎に巷(ちまた)を出歩いて、酒を飲まざる事は無かりしに、百倉長者が我をすすめて尼法師と成せしより一滴も酒を飲まず、生臭物(なまぐさもの)は目にも見ず、気力衰え骨離れし口中(こうちゅう)空しく糞水(くそみず)を流すのみ。云わんや又、近頃は百倉長者が疎(うと)くて煮染(にしめ)一重も贈らねば、喉(のど)を潤す手段も無し。良き物来たり」と喜んで、その商人をまねき近づけ、
「お前が売るのは酒なりか。二合半ばかり温めて蕎麦切りも、さぁ持て来よ」と云うと商人は呆れ果て、
「あなたは未だ知らずにおわする。この寺の尼達は酒を飲む事を許されず、それがしは只、門番の下男、飯炊き掃除の男たちにこれらの酒を売れるのみ。もし尼達に売る時は寺より咎(とが)めを受けて世渡りを成し難し。それがしはこの麓の寺領の内の借家におり、商いの元手まで、この寺より貸りて妻子を養う者なるに、今この酒をあなたに売られようや。なぶりたまうな」と呟けば、妙達は、
「それらのいわれ在りとてもこの所には人も無し。誰が見咎(みとが)め、誰に告ぐべき。さぁさぁ酒を飲ませよ」と云うを商人は聞かぬ振りして早や立ち去らんとする時に、妙達はこらえられずにつと寄って腕をしかと取れば、商人は大力に二の腕を取り詰められて、「痛し、痛し」と叫びながら引き離さんともがくと妙達は「左(さ)もこそ」と突き放せば、三間余りも消し飛んで、しばしは起き得ざりけり。
その間に妙達は荷桶に在った三つ四つの徳利を手早く取り出して、手酌で茶碗へ傾け傾け、幾杯となく飲めば、片荷の酒を一と雫も残さぬまでに飲み干したり。
その時に燗酒売りは顔をしかめ、膝をさすって、ようやく身を起こすのを妙達は見返って、「酒の値(あたい)は明日取らせん。寮まで取りに来よかし」と云うのを聞かず、商人は忙わしく荷をにない、
「いかでか酒の値を取るべき。くれぐれもこの事は人に云いたまうな」と云いつつ、やがて石坂道を麓路指して馳せ下りた。その時、妙達は後ろ姿を見送って、からからと笑いつつ、なおあちこちと徘徊(はいかい)し、半刻(はんとき)ばかり過ごすと、酒の気、次第に湧き上り、ひどく酔った癖なれば、よろよろひょろひょろと足の踏む所を覚えず。既にして入相(いりあい)の鐘がかうかうと鳴る頃に、▼裳裾(もすそ)をかかげ腕まくりして、門内へ入らんとするのを門番が見て大きに驚き、あわてふためき、三人が走り出て押し止め、
「汝もこの寺におれば、寮毎に掛けられた法度(はっと)書きは読んでおらんや。五戒を破り、酒を飲む尼法師があるならば、袈裟衣を剥ぎ取って、追い出すべしとなり。しかるに今、食らい酔って帰り来る汝を許して内へ入れれば、我々の落ち度となる。後日の咎めを逃れ難し。さぁさぁ足の向く方へ立ち去れ」と息巻いて追い出さんとすれば、妙達は猛(たけ)って眼を怒らし、
「小賢(こざか)しい破戒(はかい)呼ばわり。我が酔うに、汝らに何の落ち度があらん。妨げすな」と罵(ののし)って、掻き分けしりぞけ、よろめき進む。勢い当たり難ければ、一人は走って監主の尼にかくと告げ、二人は棒を突き立てて、なおも入れじと支えれば、妙達はますます怒ってやにわに棒を引きたぐり、滅多打ちに打ち散らす。さる程に監主の尼は門番の知らせによって驚き騒いで、あちこちより下部どもを呼び集め、「破戒比丘尼の妙達を捕り鎮めよ」と下知すると妙達は早や門番を東西へ走らせた勢いに任せつつ、学寮指してよろめき来れば、同宿の比丘尼達はあわやとばかりに押し合いへし合い逃げ迷い、蔵の内へと閉じ篭るのを妙達はなお逃がさじと、蔵の網戸を打ち破り進み入らんとする程に、下部どもは妙達が武芸力量あるのを知らず、酔って狂うと思うのみで追っとり込めて押さえんと、皆むらむらと立ち寄る所を妙達はおっとおめいてつかんでははたと投げ、或るいは蹴散らし張り飛ばす。女に似合わぬ勇力、早技、叶うべくもあらざれば、只蜘蛛(くも)の子を散らすが如く、皆八方へ逃げた。
この時、妙真大禅尼は二人の小比丘尼を従えて、渡殿(わたどの)のほとりに立ちいで、
「妙達、何故に騒ぎ狂える。無礼すな」と制したまうと妙達は酔えども禅尼なりと見れば、たちまちにひざまずき、
「私(わらわ)は退屈の余りに門外へ出て、ちとの酒を飲みたれども、無礼とてはせざりしに、監主、同宿が理由無く、下部どもをかりもよおして絡め捕らんとするにより、事がここに及べるなり。よくよく察したまえかし」と陳ずる舌も回らねば、禅尼はにっこと微笑んで、
「例え言い分ありとても我に免じて堪忍せよ。さぁさぁ帰って休みよ」と寄らず障らずなだめると妙達はなおくどくどと繰り返しつつつぶやくと、禅尼は侍者(じしゃ)の尼を呼び、彼女を臥所(ふしど)へ伴わせ、ようやく無事に静まった。
監主の尼は同宿の比丘尼と共に多くの禅尼のほとりに行って、妙達の無礼を訴え、
「始めよりあの者を寺に置く事はよろしからぬと申せども、禅尼が聞き入れたまわずに、遂にこの騒ぎに及べり。今、追い出したまわずばまたいかなる災いを引き出さんも計り難し」と言葉ひとしく申しけり。禅尼はこれを聞きながら、
「我、先にも云う如く、彼女は前世の業因でとかくに言い争いありと云えども、遂には仏果(ぶっか)を得るべき者なり。何事も大檀家の百倉長者の顔に免じて、まずこの度は許せかし」と答えて取り上げねば、監主、同宿は目を見合わせて、只これ禅尼の片贔屓(かたひいき)と思えども仕方も無くて、あざ笑いつつ退(しりぞ)きけり。
かくて翌朝、食事も既に果てし頃、禅尼は侍者の尼に妙達を呼ばせるが、妙達は未だ起きず、しばらく覚めるを待つと、妙達はようやく目を覚まし、むっくと起きて学寮の後ろへ走り行けば、侍者の尼らは驚いて後ろに付いてうかがうと妙達は後ろ向きに立ち、着物の尻をつまみ上げ、長小便を垂れにけり。
侍者は笑いを忍びつつ、元の所へ帰るを待ってしかじかと告げれば、妙達は衣を着て、方丈へ参(まい)るに、禅尼は近く▼まねき寄せ、
「先に我はお前の為に五戒を授けて、酒を飲む事なかれと云いしが、お前は昨夜、酔い狂い、蔵の網戸をうち破り、下部どもに怪我をさせたは尼法師の所業にあらず。我はもし百倉氏の面(おもて)に愛でずば、追い出すものを」と苦々しげに叱れば、妙達は謝り入って、
「以後を慎みはべるべし。許させたまえ」と侘びれば、禅尼は彼女の愚直を哀れんで、しばらく方丈にはべらせて食事をさせ、なお此の後を戒(いまし)めて、学寮へ返した。
これより後の物語りは第二編に著(あらわ)すべし。又来る春を待ちたまえ。
そもそもこの草紙は水滸伝を取り直して、女の上に綴(つづ)り成せば、差しつかえる事多くて、いと為し難き戯作(げさく)なり。水滸伝をそらんじる人々がこれはあの小説に等しくて珍し気無しと云われるのは作者の苦心を知らぬべし。唐土(もろこし)ぶりの物語りをここの女に書き換えた細工は流々(りゅうりゅう)仕上げまで見て、御評判を願うのみ。目出度し、目出度し。
<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
曲亭馬琴作 式陽齋豊国画 仙鶴堂綉梓
その時、黒姫は女鬼(しこめ)がはやるのを押しとどめ、
「川中島へ向かうのは利があるに思えども、女郎花(おみなえし)村をよぎらねばあそこへは行き難し。あの村には音に聞こえた浮潜龍(ふせんりゅう)衣手(ころもで)あり。彼女がおめおめと我々を通すべきか。かかれば越後へ行くに増す事あらじ」といさめると今板額も「実(げ)にも」と悟って、
「姉御の意見は極めて良し。衣手はその力並々ならぬのみならず、武芸も又、たぐいまれなり。近き世の巴、板額(はんがく)にも劣らずと聞くに、なまじにあそをよぎれば毛を吹き傷を求める(やぶ蛇)なり。思案をすべき」と共にいさめるのを女鬼は聞かず腹立てて、
「何故に二人は他人の武勇のみを誉め、自分らの勢いを落としたまうぞ。我々は女子なりと云えども、ここらに名立たる武士(もののふ)すら誰とて向かう者無し。云わんや、一人の小娘の衣手が何とかすべき。よしよし、その儀ならば姉御たちには頼まん。我れが衣手を殺し、川中島へ向かうのを高嶺(たかね)で見物したまえ」と勢い猛(たけ)く立ち上がるのを今板額、黒姫は左右より引き止めて、なお様々にいさめても女鬼はいよいよ怒り狂って袖振り放ち、忙わしく表の方へ走り出た。鬼女はにわかに下知を伝え、ひしひしと身を固め、馬にひらりと乗れば、手下の山賊七八十人が前後左右に従って、鐘(かね)、太鼓を打ち鳴らし、麓を指して馳せ下る。
さる程に女郎花の村人は戸隠山の山賊らがここを目指して寄せ来る事に恐れて、男は急を告げんと▼水内(みのうち)の目代(もくだい)の屋敷へと奔走す。しかれどもこの村の女らは予ねて衣手が示し合わせた合図を違(たが)えず、家毎に拍子木を持って群を集め、手に手に殻棹を引き下げて、またたく間に衣手の自宅へ集まれば、衣手は深く喜び、小手、脛(すね)当てに身を固め、父の時より飼い置いた馬にゆらりとうち跨がって、小薙刀(こなぎなた)を脇挟み、数十人の賤の女を馬の前後に従えた。
村外れまで寄せ来る敵を待つ間程無く、早くも近づく賊の大将女鬼のそのいでたちは、顔に鬼女(きじょ)の面を掛け、身には白き綸子(りんず)の内着に金糸で鱗形(うろこがた)を隙無く縫わせた物を装って、緋色の袴(はかま)のそば高くとり、萌黄縅(もえぎおどし)の腹巻して、髪を後ろに振り乱し、樫の木を撞木(しゅもく)に磨き白の薄金を掛けた物を左手にかい込み、栗毛の馬に馬具足掛けて辺りも狭しと歩ませる。
それに従う山賊どももおのおの鬼女の面を付け、突棒(つくぼう)よりもいかめしい撞木を手に手に引き下げた。実(げ)にこの有り様は、大江山の童子ならずば、鈴鹿の山に籠もった千方(ちかた/藤原千方)のたぐいと思うばかりに怪しくも恐るべきいでたちなり。
その時、女鬼は馬を進めて衣手を差し招き、
「我らは元よりこの村の人を喰う心無し。川中島へおもむいて糧(かて)を借りんと思うのみ。道を開いて通せ。妨げすれば、皆、肉醤(ししひしほ)にならんず」と声高やかに呼び張れば、衣手も又、静々と馬を陣頭に乗り出して、
「愚かな賊婦(ぞくふ)ども。汝(なんじ)ら鬼女のいでたちし、愚民を脅し、あまつさえ謀反(むほん)を起こすと聞こえれば、からめ捕って公(おおやけ)へ引きもて行かんと思っていたが、ここへ来るのは夏の虫、自ら飛んで火に入るなり。我は女子と云えども、家は代々村長(むらおさ)なり。いかでかおめおめここを通さんや。川中島へ行くならば、頭(こうべ)を置いて行け」とあくまでもあざわらいつつ、騒ぐ気色は無かりけり。
女鬼(しこめ)はそれを聞きながら、
「憎き女の大口かな。その儀ならば思い知らせん。そこ動くな」と息巻いて、撞木形の金尖棒(かなさいぼう)を水車の如く振り回し、▼衣手目掛けて討って掛かれば、衣手は薙刀(なぎなた)で受け止めて、人混ぜもせず只二人、しばらく挑み戦うと女鬼がいら立ち打ち込む棒を衣手はかわして左へ身を引けば、女鬼は空をはたと打つ、勢い留め難くして衣手の右へ馬を乗り付ければ、衣手は得たりと拳を固めて女鬼の棒を打ち落とし、ひるむ所を付け入って高紐むづとかいつかみ、目上(まなうえ)高く差し上げて矢声を掛けて投げ飛ばせば、味方の女が折り重なって鬼女を押えて縄を掛けた。
賊の大将が既に生け捕られれば手下の大勢は驚き恐れ、立つ足も無く逃げ走るのを味方の賤の女がどっと叫んで殻棹で短兵急(たんぺいきゅう)に打ち込んで、殴り立て立て、息をも付かせず追い払った。
衣手は既に十分に勝てば、揚げ貝を吹き鳴らさせて味方の女子(おなご)を一つに集め、生け捕った女鬼を引き立たて自宅を指して練り帰った。
この時、戸隠山の砦(とりで)では野干玉の黒姫、越路の今板額が鬼女の戦いを危ぶんで、噂をしている時に討ち散らされた賊婦どもが命からがら逃げ帰り、女鬼があえ無く衣手に生け捕られた事をしかじかなりと告げれば、今板額は驚き騒いで、
「今は早や、是非に及ばず。なおも手下の数を尽くして、我々二人が馳せ向かい、衣手と勝負を決して女鬼を救い取らんのみ。さぁさぁ用意をせよ」と急がせば、黒姫は押し止めて、
「その事決して無用なり。我が初めより云った事よ。女鬼は衣手の相手にあらず、我々とてもあの女子に力をもって勝つ事難し。斯様(かよう)斯様に謀(はか)れれば、万に一つも謀りおおせて女鬼を救える事もあらん。これより他に手立てはあらじ」と囁くと今板額はその儀に従い、誰をも供せず只二人で女郎花村へおもむいた。
さる程に衣手は女鬼を自宅へ引かせ帰って、書院の柱へ厳しく縛り、
「今に二人の賊婦らも生け捕って、諸共に公へ訴えん。おのおのは休息したまえ」とにわかに粥(かゆ)を炊かせ、酒を温めさせて、女らをねぎらうと先より遠見(とおみ)に出して置いた螻蛄平が走り来て、
「戸隠山の今板額が黒姫と共に来たれり」とあわただしく告げると、衣手は又、勢揃いして打ち出んとする程に、その賊婦は只二人ですごすごと背戸口より書院の庭へ進み入り、大地にはたとひれ伏してしきりに涙を流しはじめた。
衣手は思うに違って、その故(ゆえ)を尋ねれば、二人の賊婦は頭をもたげて、
「先には女鬼が我々のいさめを聞かず、虜(とりこ)になりぬ。これはこれ、あの者の自業自得なれば、いかがはせん。▼只、嘆くべきは我々は謀反(むほん)の残党(ざんとう)、上に夫と頼む者無く、下には頼る子とて無し。身の置き所無きままに戸隠山に籠もりし日より三人で固く義を結び、姉ととなえ妹と呼び、例え同じ日には生まれ得ずとも、只同じ日に死なんと誓った。しかるに女鬼は遠からず、頭をはねられるべけれ。さればとて君に向かって恨みを返すに力は及ばず、救う事はいよいよ難し。ならば三人諸共に御手に掛かって死ぬのみ。よって推参(すいさん)しはべりぬ。さぁさぁ頭をはねたまえ」と云いつつも、降り注ぐ涙に暇(いとま)は無かりけり。
衣手はつくづくと聞きながら心の内に思う、
「・・・・・この者どもは女にふさわしからぬ謀反人の骨頂なれども、義を思う事、かくの如きは益荒男(ますらお)にも勝れる事あり。しかるを我が罪し殺せば世の人にさげすまれん。ひそかに放ち帰さねば」と腹の内に思案をしつつ、黒姫、今板額に向って、
「お前らが云う所、我が心に感ずる由あり。「窮鳥(きゅうちょう)懐(ふとこ)ろに入る時は狩り人も捕らず」と云う。私(わらわ)がいかでかお前らを絡め捕って目代に渡すべき。よって女鬼を放し許して返さんと思う」と云われて二人の賊婦はようやく涙を止めて、
「御志はありがたく喜ばしく思えども、さすれば嬢様を巻き添えにする咎(とが)あらん。只、諸共に縛って目代へ引き出したまえ」と言葉ひとしく覚悟の気色に衣手もいよいよ感嘆し、遂に女鬼の縄を解き、黒姫と今板額を近づけて、
「我が心は巌(いわお)の如し。今さら転ばすべからず。我が言葉は矢の如し。放って再び返すべからず。既に女鬼を許したり。さぁ伴って行け」と云うと三人はひれ伏して、
「再び生きる大恩をいつの時にも我らは忘れん」とまた感涙にむせびけり。
衣手(ころもで)はこれを喜び、「運良く酒もここに有り。お前らは酒を飲むか」と問えば、三人は等しく言葉を揃えて、
「死ぬ事も厭(いと)わぬものをましてや君の賜る物を否(いな)み申さんや」と答えれば、衣手は彼女らに酒を飲ませて、山へ帰す時にねんごろに戒(いまし)めて、
「お前らは謀反の残党なりとても、友を思い義を知る事は賢妻烈女(けんさいれつじょ)に恥じぬ者なり。今より不義の心を捨てて真(まこと)の道を守れかし」と教訓を加えれば、三人はしばしば伏し拝み、戸隠山へ帰りけり。
かくて今板額、女鬼らは黒姫と共に戸隠山の砦へ帰って、二人がひたすら黒姫の謀(はか)り事を誉めれば、黒姫は
「しかしながら、我の苦肉の謀り事で辛くも女鬼を救えども、衣手が義に勇んで、真(まこと)を感ずる心無くば、何で放って帰さんや。実(げ)に衣手は有難き勇婦ならずや」と諭(さと)せば、今板額は女鬼と共に大方ならず感服して「真(まこと)にさなり」と答えける。
その後、十日ばかりを経て、黒姫は女鬼、今板額と相談して、衣手の大恩に報(むく)いをすべけれと、手下の山賊に砂金三十両を持たせて女郎花村へ使わすと、衣手はこれを受けずにそのまま返した。黒姫はその心を悟って、更に一斗の椎茸と雉子(きじ)五番(つがい)を贈りつかわし、
「これは山で得た物なり。かすめ盗った物にあらねば、願わくば収めたまえ」と懇(ねんご)ろに云えば、衣手もようやく▼これを受け、使いに来た山賊に豆銀一包みを取らせつつ、「姉御達によく云えよ」とねぎらって帰した。
既にして秋も早や八月十日余りになれば、衣手は心に思う、
「・・・・・先には戸隠山の黒姫らから贈り物を受けたが未だその報いをせず、この十五夜に彼女らを招いて杯をすすめ、共にその夜の月を見ん」と十三日の昼過ぎに手紙を書いて、螻蛄平(けらへい)によくその意を含ませて、戸隠山へ使わせば、黒姫らの三人は衣手の手紙を見て喜ぶ事限り無く、使いの螻蛄平をもてなして思いのままに酒を飲ませ、返事を螻蛄平に渡す時、金三両を取らせれば、螻蛄平は大きに喜んで女郎花村へ急いだが、道にて既に日は暮れた。
十三夜の月に送られ、山風に吹かれるままに山路を下ると酒の酔いがひどく昇って足元も定まらず、一人よろよろひょろひょろと麓の裾野をよぎる時、松の切り株につまづいてたちまちはたと転びけり。 酔った者の癖なれば、既に一度転んでは再び起きる事叶わず、そのままそこに眠りこけ、前後も知らず伏したりける。
かかる所に木樵(きこり)の横七が麓の小柴を刈り集め、家路を指して帰る途中に、道の草むらに倒れ伏した者あるのを近寄ってその顔をよく見れば、かねて相知る螻蛄平なり。酒の香りが鼻をつき、酔い伏したその懐(ふところ)より銭財布が半(なか)ば顕れ出ているのを横七が密かに引き出すと、あの黒姫らの返事の文も財布と共に出てきた。その時、横七はこれかれ共に取り上げて、まず銭財布を探り見ると内には金三両と銭二百余りあり。又、その文を開いて見るとひらがなすらもよくは知らねど、黒姫、女鬼、今板額らの名のみ定かに読むことできれば、驚き且つ喜んで、腹の内に思う、
「・・・・・この前、衣手は我を疑い、足元を覗くなんどと口さがなく咎(とが)めたが、彼女はかえって謀反人の戸隠山の黒姫らと忍びやかに交われり。今、この事を訴え申せば、かねては褒美(ほうび)の定めもあり。これは思い掛け無く、金の蔓(つる)にあり付いた。運が良し」とうなずいて、文も財布もそのままに奪い盗りつつ足早に見返り見返り立ち去った。
さる程に、螻蛄平はその夜、亥中(いなか)の頃にようやく酒の酔い醒めて、あわてふためき身を起し、懐を探ると銭財布も文も無し。「此(こ)はそもいかに」と驚き憂いて独りつらつら思う、
「・・・・・金は失っても惜しむに由無し。返事の文を落としては帰って言い訳あらず。いかにすべき」と胸を痛めてようやくに思案を定め、飛ぶが如くに道を急いで、村の自宅へ帰れば、▼衣手はねぎらって、「いかに、返事は来ずや」と問うと螻蛄平は答えて、
「さん候。あの三人の姉御たちは斜めならず喜んで、返事をまいらせんと云われたども、それがしがそれを押し止め、只今返事をたまわって路で不慮の事あれば、後悔そこに絶ち難し。この十五夜に来られる事の相違が無くば、口上(こうじょう)にてこそしかるべけれと、このように申せば、しからばそなた、良き様に伝えてくれよと云われたり」とまことしやかに云いくるめれば、衣手はしきりにうなずいて、
「そちは我が父の時より家の事を任せられしが、果たしてかかる才覚(さいかく)あり。いみじく計らえる者かな」とひたすら誉めて止まざりけり。
とかくする程に十五日になれば、黒姫、今板額、女鬼らはその夕暮れより山を下り、共に衣手の自宅に来れば、衣手は東面(ひがしおもて)の奥座敷に迎え入れ、用意の酒肴を置き並べ、様々にもてなして隈(くま)無き月を賞する時に、水内(みのうち)の目代の縄梨氏内(なわなしうじない)が兵を大勢引き連れて、衣手の自宅を取り巻いて、
「戸隠山の謀反人の女鬼、黒姫らの三人が今宵、ここにいる事を訴人(そにん)あって確かに知れり。早く絡め捕って引き渡せば良し。異議に及べば家内の者まで、一人も残さず縛(いまし)めん。いかに、いかに」と呼びはった。
黒姫、今板額、女鬼らはその声を遙かに聞いて、
「事既にここに及べり。早く我々に縄を掛け、目代に渡したまえ。巻き添えさせられたまうな」と云うを衣手は聞きながら、
「いかでさる事をせん。逃るべくは共に逃げ、逃げ難くば共に死なん。しばらくここで待ちたまえ」と云いつつ物見の窓を押し開き、
「人々、無礼したまうな。私(わらわ)の家に黒姫らをかくまった覚え無し」と云わせもあえず、氏内はからからと笑いつつ、
「おのれ、衣手。陳ずるな。証人はそこに在り」と指さすあたりに木樵の横七がしたり顔に進み出て、
「あの夜、黒姫らが汝(なんじ)に送る返事の文を斯様斯様の事により図らず我が手に入れたれば、逃れる道は無し。覚悟をせよ」とののしった。
衣手はこれを聞きながら、そのまま内に走り入り、螻蛄平を呼び近づけて、
「汝は掛かる事や有りか。さぁさぁ云え」と責められて、螻蛄平も今は隠すに由無く、
「その夜、道に酔い伏して、返事の文を失いし事はしかじか」と初めて白状すれば、衣手は怒りに耐えず、
「主を欺く不忠の痴(し)れ者。観念せよ」と息巻きながら懐剣ひらりと引き抜いて、只一討ちに螻蛄平をばらりずんと斬り倒し、再び物見の窓に立ち、氏内に向かい、
「事、既に顕れれば、今は早、是非に及ばず黒姫らの三人を絡め捕って出しはべらん。囲みを少し退けたまえ」と呼び張りながら身を固め、太刀を横たえ薙刀を脇挟み、家の四方へ火を掛けさせて煙の内より斬って出れば、黒姫、今板額、女鬼らも太刀(たち)抜きかざして皆遅れじと多勢の中へ割って入り、縦横無碍(じゅうおうむげ)に斬って回れば、寄せ手の大勢は辟易(へきえき)して討たれる者ぞ多かりける。
その勢いにかなうべくも見えざれば、氏内は馬を飛ばして命の限りに落ち失せた。激しき四人の働きに横七は驚き恐れて引き返し、逃げんとしつつも衣手に斬り伏せられて二つになって死んでけり。衣手は思い掛けなく、水内の討っ手に取り囲まれ、難に臨んでかりそめにも逃れる事を望まぬ男魂(おとこだましい)あるために、止むを得ず、先に進んで討っ手の多勢を斬り散らし、黒姫、女鬼、今板額ら諸共に家内の(ぬひ)を引き連れて戸隠山へ落ちて行った。
かかりし程に黒姫らは恩に応えて義を思い、▼衣手をうやまって、日毎のもてなし浅からず。されども衣手はこれを喜ばず、つくづくと思う、
「・・・・我は元村長の娘にして犯した罪は無いけれど、人に真(まこと)を失わじと思うばかりに罪人となりにけり。さればとて今更に謀反人の群れに入って、世に汚れた業をできんや。しかしながら帰るべき家も無し。我が師の綾梭殿は甲斐の武田に身を寄せると、かねて云われた事あれば、あの地に在るべけれ。尋ねて行って身の成り行きを頼まばや」とようやく思い定めれば、遂に黒姫らに別れを告げて旅の用意をする時に、黒姫、女鬼、今半額らは等しくこれを押し止めて、
「姉御、何故にあわただしく甲斐へ行かんとしたまうぞ。願うはここに留まり、浮世を安く送りたまえ。我々は今よりあなたに砦を譲りまいらすべし。もし又、不義の行ないを嫌う事あれば、木を樵り、衣を織りつむいでも、諸共に世を渡るべし。まげてこの儀に従いたまえ」と言葉を尽くして止めれども、衣手は既に思い定めた事なればとて、いささかも聞き入れず、
「ここまで従い来た(ぬひ)らは寄る辺無き身となった。彼らの事はともかくも宜しく頼みまいらせる」とねんごろにその意を述べて、早や発ちでんとすれば、黒姫らは別れを惜しんで、その日は様々にもてなしつつ、金一包みを贈りけり。
かくて衣手はその明けの朝未(まだ)きより砦を出て忍んで甲斐へおもむくに、らは名残を惜しみ、黒姫、女鬼、今板額ら諸共に麓の野辺まで送りつつ、涙を流して別れけり。
あぁ、衣手は心映え、男もまれな世にいさぎよい勇婦なりしが、図らずも罪をおかして万里の旅路にさまよう事、そもそも何かの業因(ごういん)ぞや。
これしかしながら、その昔、あの古塚を暴かれた代々に名だたる傾城のその亡き魂(たましい)の性(さが)を引き、女と生まれ、これとなりたる因果をここに果たすなるべし。
さる程に衣手は夜に宿り日に歩み、長月のなかば頃、武田家の城下の甲斐の府中に着いた。
ここは国主の城下で市町が賑わしく、繁華の地なれば、軒を並べた商人の種々なるその中に、見れば道の巷の方辺に尻掛けの長椅子を二つ三つ置き並べ、御休憩所としるした行灯(あんどん)を柱に掛けて煎じ茶を売る家あり。衣手はそこに立ち寄って椅子に尻を掛けて、汲み出す茶を飲みながら茶店の母(かか)に向かい、
「この城中に去年の頃、都より来た▼綾梭と云う婦人は在らずや。剣術、柔術を良くすれば隠れてはあらじ。いかにぞや」と問われて母(かか)は頭を傾け、
「この城内の女中たちに剣術、柔術の良いもあり、力の強いも少なからねど、さる名の女中は知らず」と事なれ顔に答える折から肥え太り色黒い大女で年は三十路ばかりで八丈絹の格子縞の小袖を二つ三つ重ねた上に同じ縞柄(しまがら)の羽織を着て、繻子(しゅす)の帯を脇のあたりに結び下げ、髪の結びは何くれとなく異風の扮装した者がこの茶店に立ち寄って椅子に腰を掛ければ、茶店のかかは会釈して茶を出しつつ、衣手を見返って、
「この女中は城内で斯様斯様の方様なり。只今、問われた事をも良く知って御座(おわ)すべし」と云うと衣手はうなずいて、椅子を離れて小腰をかがめ、
「いと失礼にははべれども。私(わらわ)ははるばる信濃路より人を尋ねて来た者なり。都より来た綾梭と云う女中は城中には御座(おわ)さずや」と問われて、その大女も椅子に片手を付きながら会釈して、
「その綾梭と云う女中は私(わらわ)もかねてその名を聞きぬ。そは筑井氏の娘で女武者所に召されたが、亀菊に憎まれて遂に都を逃(のが)れた綾梭殿の事なるべし。近頃、人が噂するには、その綾梭は若狭の武田殿に在りと云えり。武田は一つ家なれども甲斐と若狭に分かれて在り。あなたは若狭へ行かずしてこの地を尋ねては絶えて逢瀬のあるべからず」と云うと衣手は
「さては思い違えしなり。武田と聞きしを心あてに若狭か甲斐かと問わざりしはいと浅はかにはべりにき」としきりに後悔すれば、大女は微笑んで、
「そは今更に悔やんで詮無し。今つらつらと見るに、あなたも又、世の常の女中には在らず。苦しからずば名乗りたまえ」と問われて衣手は辞する由なく、
「今は何をか隠しはべらん。私(わらわ)は戸隠山の麓の女郎花村の長の娘で衣手と呼ばれはべり」と名乗るを聞いて大女は思わず横手をはたと打ち、
「さては近頃ここらまで世の噂に聞こえた浮潜龍衣手殿にて御座(おわ)せしよな。私(わらわ)は国主の母君様に仕(つか)えた端(はし)た者ではべりしが、母君が亡くなられし後は宮仕えを辞して、城の長屋に一人おり、見られる如き武骨者。十六七の時だにも、色も香も無き者なれば、人はあだ名して花殻(はながら)のお達(たつ)と呼ぶ。縁(ゆかり)無くばいかにしてあなたとここで面(おもて)を合わせん。なお語らうべき事あるのにこの場所は道ばたなり。いざ諸共に立ちたまえ。行って一献(いっこん)くむべきに」と割なく袖を引き立てれば、衣手も又、喜んで立ち出んとする時に、お達は後ろを見返って、
「茶代は明日又来る時に、我が一緒に置くべきぞ」と云うを女房は聞きながら、
「何かは茶代を求むべき。戻りにも又、寄りたまえ」と答えてやがて見送った。
かかりしかば衣手は花殻のお達に誘われ、行く事▼五六町にしていと広い巷(ちまた)のほとりに力持ちの技をして、大太刀(おおたち)を抜き、薙刀を回すなどして香具(こうぐ)を商う女あり。
立ち混んだ人の後ろより何ごころ無く覗いてみれば、初め衣手の居合の師だった人寄せの友代(ひとよせのともよ)と云う者なり。衣手はその名を呼び掛け、ほとり近く立ち寄りつつ、別れた後の恙(つつが)無きを互いにことぶき祝うのをお達は見ながら声を掛け、
「友代、私(わらわ)はこの姉御を伴って青善(あおぜん)へ行くなり。お前も共に行かずや」と云われて友代は小腰をかがめ、
「そはしかるべき事にこそ。私(わらわ)は楊枝、歯磨きを今少し商って後よりまいらん」と答えて再び諸人(もろびと)に物を売らんとすると、お達は待ちわびいら立って、
「友代、行くなら早く行け。この人々も何事ぞ。物をば買わず、いつまでも立ちすくんでいるやらん。日の短きを知らずや」と大声上げてにらみ散らすと群集は肝を潰して皆散り散りになれば、友代は是非無く片付けて物を茶店に預け置き、お達、衣手と連れだって青善楼へおもむきけり。
そもそもお達はその始め、国主の母君に仕えた時、安達(あだち)と呼ばれた端た者なり。彼女はあくまで力あって、三斗(さんと)の米を張った臼(うす)をあちこちと持ち運ぶのが自在なり。それのみならず、朝夕に棕櫚(しゅろ)の箒(ほうき)を持ち、棒の手を練習して一家中の武士にも及ぶ者無きに至れり。国主はこの事を聞いて、
「今、都には院の御所に女武者を召されると承る。云わんや武家に於いてをや。取り立ててほとり近く召し使わん」と宣うを安達は固く辞し申して、なお、そのままでありけると母君が亡くなられた時、武田殿は惜しんで安達に身の暇(いとま)をたまわらず、
「しかるべき武士に婚姻させるべし」と仰されたけれども、安達はこれさえ辞し申して、
「かく我ままな気質で顔形が人並みならねば、生涯人の妻となるとは思わず、御側近く召し使われる女中たちにはべれば、仕えた母君の菩提(ぼだい)の為に尼法師ともならんに、私(わらは)はいと末々(すえずえ)の者なれば、それさえ許されぬべし。所詮、御館(みたち)の外にいて一期(いちご)を送りはべらまし」と願えば武田殿は感じたまいて
「真(まこと)に奇特(きとく)の者なれば、彼女の願いに任せよ」と城の内に自宅をたまわり、
「宮仕えする女子で武芸を心掛けんと思う者には手鎌、寄棒、居合(いあい)の技を教えよ」と仰せられ、月毎の扶持米(ふちまい)、衣服の料まであてがわれた。
安達は達と名をあらためて、城外に出歩くが異風の装束(いでたち)なれば、人皆これを知らぬ者無く、市町(いちまち)の悪戯者も全てお達に恐れはばかって喧嘩口論もまれになりけり。武田殿はそれを喜び、彼女が漫(そぞ)ろに出歩くのをいささかも咎(とが)めたまわず、全てその意に任せたまうと、お達はその性(さが)騒がしくて一日も籠もりいる事得ならず、又、只、酒を好めば、酔う事は常なれども、さりとて過(あやま)ち無ければ、男勝りの大女とてその名は高く聞こえけり。
これはさて置き、お達はその日、衣手、友代を伴って青柳町の青善と云う酒楼に行き、多くの酒肴を出させて、相手に勧め我も飲み食いなどするとお達はその身の上を物語り、衣手も又、戸隠山の黒姫、女鬼、今板額らの事、▼我は義により真を感じて、討っ手の大勢を斬り散らし、戸隠山にも留まらず、遙々(はるばる)ここまで来た由を少しも隠さず告げれば、お達はひたすら衣手が人の為に難を思わず、その家をさえ失った心栄えを感じた。
かかる所に隣座敷に人在って、泣く声しきりに聞こえれば、お達はたちまち興(きょう)を醒まして手を鳴らし、この仕出し屋の小者(こもの)を呼んで、
「我が客人を伴い来て盃(さかずき)をすすめるのに、汝らは何の為に隣座敷に人を泣かせて酒宴の興を醒まさせる。我を女と侮(あなど)るか。その訳聞かん」と息巻けば小者は手を擦り頭を掻いて、
「御腹立ちは道理なれども、彼は日毎にここに来てお客の招(まね)きに応じる色子(いろこ)にて候が、心に悲しむ事あれば泣いているにやあらんずらん。童(わらべ)に等しき者なれば、無礼は許させたまえかし」とひたすら詫びれば、お達はうなずきながら、
「その色子は何かの故(ゆえ)に深く悲しむ事のあるやらん。さぁここへ呼び、私(わらわ)に見せよ」と急がすと小者は一議に及ばずに心を得て退(しりぞ)いた。
かくて、しばらく待つと年(よわい)十四五の美少年と六十路(むそじ)余りの老女がしとやかに来て、お達らに向かい、
「お客様方、お揃いにて、よくこそ居らっしゃいませ」と云いつつ頭を下げれば、お達は近くに呼び寄せて、
「お前らはいかなる悲しみあって、声立てて泣きたるぞ。その訳を隠さず告げよ」と云われて婆は目を押しぬぐい、
「私(わらわ)は鎌倉の者にはべるが、これなるは一人子で優之介(やさのすけ)と申す者。幼い頃より田楽(でんがく)の芸能を習わせて世渡りしたが、いささか障(さわ)る事あって鎌倉を出て、この地の縁(ゆかり)をあてにして親子で遙々(はるばる)来たけれども、縁の人は去年の冬に世を去ったと聞かされて、又、鎌倉へ帰らんと思う折から図らずも私(わらわ)がにわかに病み患(わずら)って長き旅寝(たびね)に多くもない路銀を使い果たしたり。
しかるにここより遠からぬ海老根橋のほとりの塩物問屋の貝那(かいな)と云うは後家持ちの商人で、その後見をする男を代野介兵衛(だいのすけべえ)と云う。さてその貝那は先頃、童田楽(わらべでんがく)の興業主をしたが、一人の太夫(たゆう)が不足なりと優之介を抱えんとその談合に及べども、その事は遂に成就せず、しかしながら貝那は優之介の給金百両の手形を書かせて、金を未だ渡さぬのに既に金は渡したと責める事大方(おおかた)ならず。
口惜しく思えども優之介は年まだゆかず、私(わらわ)は女、元よりこの地は旅にして相談相手となる者無ければ、今更、真空言(まことそらごと)を明らかにする事叶わず、只その負い目を償(つぐな)う為に日毎にここの座敷を借りて、優之介の和楽器の調べを当座の便宜(よすが)にて来た客を慰めつつ、いささかなる銭をたまわり、その半分を旅籠(はたご)の料とし、その半分を百両の利息に貝那に渡せども、もし一日でも遅れれば、責め徴(はた)られて耐え難し。しかるにこの三日はさせるお客の無きにより貝那にひどく徴(はた)られて、いかなる辛き目をや見んと思う苦労が胸に満ち、嘆いておりました」と云えば、又、優之介も
「只今、母が申した如く、由無き嘆きに声を漏らして御機嫌を損ねたは大方ならぬ過(あやま)ちなり。許したまえ」と諸共に詫びつつ涙にかきくれた。
お達はこれを聞き憤(いきどお)りに耐えず、
「お前ら、心を安くせよ。我が全て引き受けてこころざすす方へ発たせん。何処(いずこ)を宿にしているぞ」と尋ねれば親子は喜びひれ伏して、
「もししからんには再び生きる御恵みなれ。ここより五丁目の寝倉屋(ねぐらや)宿六(やどろく)という旅籠屋を宿にしてはべる」と云う。
その時、お達は懐(ふところ)より金三両を出し、衣手を見返って、
「我は今日、ちとばかりの呉服物を買おうと思って持ち合わせはこれのみなり。あなたの路銀を貸したまえ。明日には必ず返すべし」と云うと▼衣手はうなずいて、
「それはいと易き事なり」と小判十両を取り出して、脇取り盆の上に置いた。
お達は又、友代に向かって、「そなたも少し貸せ」と云えば友代は渋い顔で、わずかに金弐分を渡せば、お達はこれを投げ返し、十三両を一つにしつつ優之介親子に取らせ、
「これを路銀に明日には親子でこの地を立ち去れ。夜も明ければ旅籠へ行き、私(わらわ)が見立てて出発させん。今より心構えをして私(わらわ)を待ちね」とねんごろに諭(さと)せば、親子は伏し拝んで、人々に暇乞(いとまご)いして忙わしく旅籠へと戻っていった。
お達はしきりにその事の腹立たしさに耐えざれば、再び小者を呼び寄せて、わずかに残った小粒二つを紙にひねって投げ与え、
「今日の持ち合わせはこれのみなり。足らずば自宅へ取りに来よ」と云うと小者は受け戴いて、「これでは余り候(そうら)わん」と云うをもよくも聞かずして、「いざ」とやがて立ち上がれば、衣手、友代も諸共に続いて下屋へ降り立って、門(かど)よりおのおの引き別れ、衣手は旅籠へ行き、友代は己(おの)が出張(でば)りする元の巷(ちまた)へ急ぎけり。
かくてお達は明けの朝、優之介らが宿する寝倉屋へ行って見ると、その親子は既に旅立ちの用意をして、宿銭(しゅくせん)なども宵の間に残り無く主人に渡してひそかにお達を待っていれば、忙わしく出迎えて、その厚恩(こうおん)の喜びを述べるのをお達は聞きながら「それは無用の口義(こうぎ)なり。さぁさぁ行きね」と急がすと、優之介は母親諸共に草鞋(わらじ)の紐(ひも)を引き結び、暇乞(いとまご)いして出ようとすると主人の宿六が驚いて押し止め、
「お前ら親子はなまよみ屋に百両の借金あり。しかるを他国へ逃げさせては我がその祟(たた)りをのがれ難し。その金が済むまでは何処へかやるべき」と言葉せわしく息巻いて引き戻さんとすれば、お達はまなこを怒らして、
「その百両は私(わらわ)が返さん。かくても聞かずとどめるか」とにらみ付けた勢いに宿六が思わずも後ずさりをするその間に優之介らは走り去り相模路指して急ぎけり。
お達は心にあの親子を遠く逃がすために、店先に尻を掛け、いつまでも出て行かねば、宿六はその事を貝那に告げようと思えども、お達がここにいては、その事も叶わねば、気をのみ揉んで時を移すと正午(まひる)の頃になれば、お達はそろそろ良き程なるべしと、思えばここを立ち出て又、なまよみ屋へ向かいけり。
折から貝那は店におり、今、お達が来るのを見て忙わしく小腰をかがめ、
「お達様、珍しく何の御用で来ませしか」と問えばお達は
「然(さ)ればとよ、奥方様の御用あり。塩鮪(しおまぐろ)の血合い無い所を一升(ひとます)ばかり賽(さい)の目に刻んでまいらせよ」と云うと貝那は心得て、男妾(おとこめかけ)の介兵衛に切らせようとするのをお達は急に押し止めて、
「否(いな)、他の者が切るのは御用には立ち難し。そなたが刻んでまいらせよ」と云うと貝那は止むを得ず、自ら鮪を細かく刻んで、大きな竹の皮、三つばかりに包み重ねて渡すのをお達は下げて、
「これのみにてはなお足らず。塩鮪の血合いばかりをよく刻んでまいらせよ」と云うと貝那は呆れ果て、
「鮪の血合いを何にせん」と一言返せば、又一言、言葉の争いついつのり貝那はお達に顔を背けた。
<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
けいせいすいこ伝 初編第四
馬琴作 豊国画 仙鶴堂梓
貝那が無視して鮪の血合いを切ろうとせねば、お達は眼(まなこ)をいからして、
「何故に刻んでまいらせぬ。上の御用を知らずや」と声荒立てて、「さぁさぁ」と催促すると、仕方無くも貝那は血合いを細かく刻み、「いざ」と渡せば、お達はこれをも手に下げて、
「また、この他に望みあり。塩鮪の骨だけを一升刻んでまいらせよ」と云うと貝那はむっとして、
「何故に戯(たわむ)れたまうぞ。上の御用を権にきて強請(ゆす)りに来たか」とつぶやけば、お達はこれを聞きながら、
「強請りに来たとは誰が事ぞ。おのれら如き衒妻(げんさい/卑しい女)に戯れ云うとも誰がとがめん。今一言返してみよ。返事をせずや」とののしった怒りでお達は下げた鮪をはたと投げれば、貝那は顔面痛く打たれて包みは解けてあちこちへ散り乱れ飛ぶ塩鮪の血合い。
才覚あれども、貝那も今はこらえかね、
「おのれ、尼めが何するぞ」と息巻きながら脅しの包丁ひらめかし、打たんと進むをお達は得たりと身をかわし、刃(やいば)を丁と打ち落とし、ひるむ所を胸倉つかんで塩物台の片隅へ早や押し付けて動かせねば、介兵衛は「あなや」と驚き騒ぎ引き離さんと立ち寄るところをお達は右の足を出し、はたと蹴れば、介兵衛は金玉を蹴られて「あっ」と叫んで後ろざまに倒れた。
これより先に宿六は優之介親子の事を早く貝那に告げんとて、この店先まで来たれども、お達がここに来ていれば、入りかねて塩物俵(たわら)を楯(たて)にして、この有り様に驚き恐れて立ちも得去らず息もせず、▼なおも様子をうかがった。
その時、お達は声振り立てて、
「貝那、お前の手並みは知っている。汝に罪咎(つみとが)多くあり。貧しき者に銭を貸し、利を貪(むさぼ)ることはなはだしく、催促もひどければ、遂に子を売り家を失い、路頭に立つ者少なからずと世の噂に聞こえたり。それのみならず近い頃、優之介親子をだまして、貸しもせぬ百両の借金を負わせて利息を取り、彼ら親子に難儀(なんぎ)を掛け、親子の身の油を絞り取ったはこれ上も無き非道ならずや。且つ、汝は数にも足らぬ商人の後家にして、甲斐の城下に在りながら、なまよみ屋と家名(かめい)するは身の程を知らぬなり。 かくまで犯せる罪咎の天罰を思い知らせん」と罵(ののし)り攻める拳(こぶし)を固めて眉間(みけん)をはたと打ち込めば、鼻血たくたくと流れ伝って、蘇芳(すおう/赤紫)の徳利を倒した如く、目の玉高く飛び出して壁より落ちる蝸牛(かたつむり)に似たり。
貝那は既に大力に胸倉を取られて、息も絶え入るばかりなのに、今、又、眉間(みけん)を痛く打たれて、いかでかはたまるべき。たちまち「うん」とのけぞるところをお達はなおも怒りに任して、続けて三つ四つ打てちば、もろくも息は絶えにけり。
お達もこれに驚いて、
「此の衒妻(げんさい)めが、術(じゅつ)なき空死(そらじ)にをしたとて、誰がそれを真(まこと)にすべき。この事を訴え申して明(あか)さ暗さを立つべきぞ。覚えていよ」とののしりながらひるまぬ様に歩み出て、やがて自宅に帰れども心の内は安からず、独りつらつら思う様、
「・・・・一時の怒りに任せて、貝那を殺したのは女に似合わぬ過ちなり。さればとて彼女らの為に下手人(げしゅにん)となるは口惜(くちお)しい。只、すみやかに難を逃れて又、ともかくもせばや」と心ひとつに思案をしつつ、少しの路銀を腰に付け、早くも逃走したりけり。
さる程に、寝倉屋の宿六はお達が出て行くのを遅しと、その事をあたりの人に告げ知らせ、諸共に店に入ると、既に貝那は眉間(みけん)を破られ、目の玉さえも飛び出して、死に絶えたれば術(すべ)も無し。介兵衛はようやく息を吹き返し、お達の事を人々に説き示し、さて宿六を証人にて国守へ訴えた。
されば又、甲斐の国主の武田殿はこの訴えを聞いて密かに思いたまう、
「・・・・その達は力強くて男魂ある者なのに酒を貪(むさぼ)る癖あれば、さる過(あやま)ちをしだしたならん。真(まこと)に不慮の事なり」と心に哀れみたまえども、何ともできねば、「まず早や、喧嘩の相手の達を捕らえよ」と仰せける。
これにより市の司の跡部今之進(あとべいまのしん)は承って、組子(くみこ)をお達の自宅へ使わし、絡め捕らんとすれども、お達は既に逃走して行方知れずと聞こえれば、この詮索に長き日を送り、事果てる様子もあらざれば介兵衛は恨みいきどおり、
「相手が身内の女なれば、行方の知れぬを幸いに贔屓(ひいき)の沙汰(さた)をせられるならん。ならば鎌倉へおもむいて愁訴(しゅうそ)をせん」と息巻いた。
こと今更に私(わたくし)の加減するべき事でも無ければ、武田殿もしかじかと鎌倉へ聞こえ上げて、公沙汰(おおやけざた)に任せられ、鎌倉の執権北条義時の下知として▼早や国々に触れ流し、お達の行方の詮索が厳重になりにける。
かかりし程に花殻のお達は甲府を出てより、さして行方は定めずに足に任せて走りつつ、近江の大津をよぎる時、札の辻と云うほとりで新たに掛けた高札あって見る人多くたたずめり。
「此(こ)は何か」と思うとお達もそこに立ち寄り、笠押し上げて仰(あお)ぎ見るが、元より無筆なれば、何の故(ゆえ)とも知る由無きを人に問うのはさすがにて、なおつくづくと見る折からたちまち後ろに人あって、
「お花女郎、うかうかと何してござる」と呼び掛けながら背中を叩く者ありけり。
お達はこれに驚き見返れば、この人はこれ、思い掛け無き優之介の母親の葉山(はやま)なり。こはいかにと問おうとするを葉山は目配せで押し止めて、人無き所へ伴いつつ、あたりを見返り、声をひそまし、
「お達様、いかなれば身をも思わず大胆な。あの高札はあなたの行方を尋ね求める人相書きで、絡め捕って引き出せば、百貫文の褒美銭をたまわらんとある下知文なり。さても危うい事なり」と云うとお達は初めて悟って、
「さては我が身の上の事なりけり。私(わらわ)はあの日、そなたらを発たせし後も怒りに耐えず、斯様斯様の事により貝那を殺し、罪を逃れるためにその日甲府を立ち去って、行方定めずここらを過ぎるなり。さてもそなたは何故に鎌倉へ帰らずしてこの地におるやらん」といぶかり問えば、
「然(さ)ればとよ。私ら親子はそなた様の大恩で鰐(わに)のあごを逃(のが)れしより、鎌倉へ行く折に、道にて同郷人に行き会うたり。さてその人が云われるは遊芸で世を渡るには鎌倉へ帰るより都の方こそ良かめり。我も商いの為に遙々(はるばる)と都へ行こうとする折、いざ伴わんと云われれば、遂にその意に任しつつ、この大津まで来て杖(つえ)を留め、都の便宜(びんぎ)を求めるとここより一二里上方(かみがた)の山科(やましな)に百倉(ももくら)長者と呼ばれ家富み栄える郷士あり。その長者は近い頃、顔形良い少年で小鼓(こつづみ)に技ある者を童小姓(わらべこしょう)に求めたまうと仲立ちする者があるにより、幾程もなく優之介は百倉殿にまいり仕(つか)えて寵愛の者にせられたり。しかるに大津と山科の間で近江と山城の国境を追分の里と云う。その追分に百倉殿の別荘はある。されば長者は優之介を寵愛のあまり、私(わらわ)の事さえ世に頼もしく思われて、母親が世に在らんには豊かに養えんとて、追分の別荘を私(わらわ)親子に守らせて折々通いたまうのみ。優之介はもちろん、母さえ豊かに暮らす事は百倉殿の恵みなれども始めを云えばあなたの大恩、いつの世にも忘れはべらん。追分へは程近し、優之介にも対面して長旅の疲れを休らえたまえ」と涙ながらの身の上話に他事(たじ)無く袖(そで)を引き立ててその別荘へ伴った。
お達は思い掛け無くも由ある人に巡り会い、その有り様を再び見て、物語りを聞くにつけ、実(げ)にも葉山の身の回りは甲斐の旅籠に在りし日のやつれし体(てい)に似るべくも無く、
「・・・・さてしも人の行く末は予ねて知られぬものなりき」と心の内に感嘆しつつ、伴われつつ行くと早や追分の里に来にけり。
巷(ちまた)より南に一町ばかり入りたる冠木門(かぶきもん)の一構えはこれ百倉の別荘なり。
葉山は先に進み入り、
「優之介は御座(おわ)さずや。大恩人が来ませしに、さぁ出迎えたまえ。もしもし」と呼び立てれば、優之介は忙わしく玄関の小障子(こしょうじ)を押し開き、お達を見て驚き、且つ喜んで走り寄り、
「これはそも神の導きにて。よくこそ遙々(はるばる)来ましたれ。いざ」と奥へ伴って親子右より左よりそのもてなしは浅からず、
「我々親子がかくまで世を安らかに送る事はそなた様の御恩によれり。しかるにあなたが人殺しの罪人となりし事はこの里までも隠れ無く、百貫文の褒美をかけて、今、公(おおやけ)より尋ねたまうを聞くに付けても、胸苦しさは短き言葉に尽くし難し。主にて御座(おわ)する百倉殿にもかねてあなたの心栄(ば)え、我々親子が大恩を受けた事を忍びやかに告げ申せしが、富んだ人には御座(おわ)すれども男気のある性なれば、しきりに感じ哀れんで、「そのお達とやらが、ここらへ来る事あれば、ともかくもして匿(かくま)うべし」と世に頼もしく宣った。
かかれば密(ひそ)かにあの方様にあなたに巡り会った事を告げれば、大恩を返す縁(よすが)となりもやせん。まずはくつろいで語らいたまえ」と代わる代わるに慰めて肴を整え、酒を温め、二階座敷へ席を設けて、もてなし大方ならざれば、お達は憂(う)かりしこの頃の旅の疲れを忘れるまでに盃を傾けて、あの日は胸のもやもやと憤(いきどお)りが治まらねば、なまよみ屋へ行って思わず貝那を殺したその体(てい)たらくは斯様斯様と始め終わりを物語れば、優之介も母親も肝を潰してその勇力をしきりに驚嘆(きょうたん)した。
かかる時に表の方では多くの人音がして「盗人(ぬすびと)女を逃がすな」と下知する声と諸共に、捕り手か勢子(せこ)か六七人が「承りぬ」と答えつつ、二階を目掛けてむらむらと昇らんとひしめいた。
お達は早くこれを見て、
「さては我が身の上の事なり。打ち散らして逃げ去らん。物々しや」と云いながら、方辺(かたへ)の銚子をつかみ取り、礫(つぶて)に打たんと立ち上がるのを葉山は急に押し止め、
「逸(はや)って過ちしたまうな。あれは主の人々なり。定めて事の訳あらん。まず待ちたまえ」と云いかけて走り下りつつ表に出て、捕り手の大将に、「何事やらん」と囁けば、又、あの人も囁いて笑うほどまで心ほどけて、手の者どもを退かせ、葉山と共に内に入った。
その時、葉山は忙わしく、元の二階へ上り来て、
「お達様、心安かれ。来たのは別人ならず、優之介の主の百倉の君なり。小鳥狩りの帰る途中にこの別荘へ立ち寄る折で、供の人々があなたと優之介が酒盛りするのを仰ぎ見て告げれば、百倉殿はいぶかって、さては優之介が鎌倉に在りし時の馴染みの客の後家などが都上りの折を得て立ち寄ったにあらんずらん。そはともあれ、かくもあれ、人の秘蔵の美少年を我が者顔に遊び戯れ、我が別荘を踏み荒らすのは憎むべき痴れ者(しれもの)なり。詮索せよと下知すれば、若き供人が勇みたち、ひしめいたにはべるとよ。しかるに私(わらわ)がしかじかと主に囁き申せば、笑い且つ喜んで、供人らを押し止め、彼らをこと如く、山科へ帰し、百倉殿が只一人、あなたに対面すべしと下座敷に御座(おわ)すなり。気使いたまう事ならず」と言葉せわしく▼説きさとせば、お達は聞きつつ微笑んで、
「さては間違いなりか。由なかりき」と襟(えり)かき合わせて元の座席に着くと、百倉長者は静々と箱梯子(はこばしご)を昇り来て、お達に向って慇懃(いんぎん)に、
「かねてその名は隠れ無き、優之介らの恩人の花殻殿にて候よな。それがしは百倉なり。あなたが武芸に優れた男魂ある事はこれなる親子の物語りで伝え聞いて候。しかるにあなたが彼らの為に罪人となりし事は心苦しき限りなり。それがし一重に優之介の男色にひかれる故(ゆえ)にかくの如く云うにはあらず。身不肖(みぶしょう)には候(そうら)えども義の為には財を惜しまず、多く得難き義女(ぎじょ)と知りつつ、ちとの助けにならんや。ともかくもして匿(かくま)わん。この地に留まりたまえ」と云う人の真(まこと)の大方ならぬにお達は喜び感激して、計らず葉山に巡り逢ったこの日の事を物語る。
かくて又、百倉長者は葉山親子に心を得させて肴を添え盃を改めて、さらにお達をもてなす程に早や黄昏になりにけり。その時、長者はお達に向かって、
「ここは大津へ近く街道へも程遠からねば、隠れ家にはよろしからず。されば今宵、山科の我が母屋へ伴うべし。あなたの心はいかにぞや」と問えばお達は一議に及ばず、
「我が身は網を漏れた魚なり。いかで住処(すみか)を嫌うべき。ともかくも」と答えれば、百倉はその夕暮れに密かにお達を伴って山科の自宅へ帰った。
しかれどもお達は★姿むくつけき、よしや義勇の女なりとても、身近く置くのはさすがにて、女子部屋のほとりの一間を起き伏しの所と定めて、朝夕は妻に預け、百倉は昼に酒肴を用意させ、日毎に自らお達をもてなし、武芸勇力の物語にをさをさ興(きょう)をもよおす折から優之介は母親諸共に追分の里より来て、主の百倉に囁く様、
「あの日、君が別荘へ立ち寄られた時、女を絡めて詮索せよと供人らに下知されながら、又、故(ゆえ)も無く止めてあの人々をそのまま主屋(おもや)へ帰したのを▼あたりの者が垣間見て疑わしく思いけん。さしたる用も無き者が問い訪ねる事もあり、ある日は背戸よりうそうそと奥を覗く事もあり、油断のならぬ人心、この所さえ嗅ぎ付けられれば、事の災い図り難し」と告げるをお達も聞きながら、
「さては早や人が知りつらん。しかるをここに忍びいて、長者一家を巻き添えすれば、後悔そこに立ち難(かた)し。この日頃の恵みは忘れる時無し。再会は只、天に任せてすみやかに立ち去るべし」と云いつつ帯を結び直し、早や発ち出んとした。
お達は人を巻き添えさせじと思えば、急に身拵(みごしら)えして暇乞(いとまご)いして出んとするのを百倉長者は押し止めて、
「さのみは先を急ぎたまうな。甲斐一国の沙汰(さた)にはあらず、今鎌倉より国々へ残る隈無く触れ示されたあなたの行方の詮索は何処(いずこ)の浦とて安穏なるべき。さるを知りつつ放ちやれば、優之介親子は更なりそれがしとても義に背(そむ)く、心にこころ良しとせん。それがし一つの謀(はか)り事あり。あなたを遠くやらずして追捕(ついほ)の沙汰を逃(のが)れるべし。なれどもあなたの気質にて得心(とくしん)無くば仕方無し」と云うのをお達は聞いて、
「我が身は死すべき罪人なのに、幸いにして事無くは何をか否(いな)み嫌うべき。まず、試みに説き示したまいね」と答えて元の座に返れば、百倉長者は喜んで、
「その一議は別事にあらず。ここより程遠からぬ白川の山中に龍女山(りゅうにょさん)無二法寺(むにほうじ)と云う尼寺あり。これは鳥羽院の御時に待賢門院(たいけんもんいん)の御願所(ぎょがんどころ)として建立された七堂伽藍(しちどうがらん)の大寺なり。
保元、平治の乱れより、坊領なども修行を怠り、すこぶる衰えたが故(ゆえ)あって我が祖父の百倉太夫(だゆう)が伽藍を再興したにより、今それがしに至っても第一の檀家なり。しかるに我が母が世に在りし時、祖先の菩提(ぼだい)の為に一人の女子を剃髪(ていはつ)させて、その無二法寺の尼に成さんと思い起こせし事ありながら、その女子を得ざれば宿願(しゅくがん)もむなしくなった。あなたが今、その寺に赴(おもむ)いて剃髪して尼となれば、追捕の沙汰を逃れるべく、我も又、亡き世の宿願を果たす喜びあり。かかれば、萬(よろず)の料足(りょうそく)はそれがし全てまかなうべし。この儀に従いたまわんや」と問われてお達は一議に及ばず、
「それは我が予ねての願いなり。初め武田殿の母君に仕えしが、母君が亡くなりし時に菩提をも▼訪(とは)ざりしは身のいやしきによってなり。されども一生不犯(ふぼん)にして人の妻とはなるまじけれと思い定めし事なれば、真(まこと)に勿怪(もっけ)の幸いなり。ともかくも計らいたまえ」と云うに百倉は喜んで、にわかに度牒(どちょう/出家証明)、袈裟(けさ)、衣(ころも)、布施物までも用意しつつ、次の日、お達を一挺(いってい)の乗り物に乗せ、供人多くに用意の品々、布施物などを担(にな)わせて無二法寺に赴(おもむ)いた。
かくて早や、山門(さんもん)近くになり、無二法寺の接待役の尼が三人の比丘尼(びくに)達を引き連れて門まで出迎えて、まず時候(じこう)を述べ、安否を尋ねて、客殿へいざなった。
その時、お達はあちこちとその境内を見ると、十六間(けん)の本堂には丈六(じょうろく)の観世音を安置して、七間の経堂あり、六角の輪蔵(りんぞう)あり、五重の塔は雲を貫き、一滸(いっこう)の池水(ちすい)は影さえ見えていと清し。いわんや、又、霞み込めた学寮には無明(むみょう)の酔いを醒ますべく、蓮の糸繰(く)る織殿(おりどの)には当麻寺(たいまでら)の昔も偲ばれる。時知り顔に咲く花は松、檜(ひのき)の間を彩り、友呼び交わし鳴く鳥は迦陵頻伽(かりょうびんが)もありやと思われる。とうとうたる滝の糸、爛漫(らんまん)たる藤葛(ふじかずら)。かれは白妙(しろたえ)これは紫、いずれか糸を乱さざらん。まことにこれ奇麗、壮観、目を驚かす大寺なり。
されば住職の尼法師は齢(よわい)六十余りにして、妙真(みょうしん)大禅尼(だいぜんに)と称せらる道徳無双の名僧なり。今日は当山第一の檀家の百倉長者が参詣の聞こえあれば、方丈(ほうじょう)に招き入れ、茶や菓子をすすめ、いと懇(ねんご)ろにもてなした。その時、百倉は膝(ひざ)を進めて、
「それがし、今日の参詣は別(べつ)儀(ぎ)にあらず。召し連れたのは従姉妹(いとこめ)で初めの名を安達(あだち)と云い、二親(ふたおや)ともに世を去って兄弟も短命なり。親同胞(はらから)の菩提の為に尼になる事を願えり。それがしが施主となって万事をまかない候(そうら)わん。御弟子と成し下されて御寺(みてら)に留め置かれれば、此の上も無き幸いなり。この儀、御許容あれば今日でも吉日なり。剃髪の儀を仰せ付けらるべし」と述べ終わり、多くの布施物を取り出して、うやうやしく参(まい)らせれば、妙真禅尼はうなずいて、
「大檀家の所望と云い、年若き身が世を厭(いと)うて尼になろうと願われるはまことに殊勝(しゅしょう)の事なり。さらばまず、その用意をせん。小座敷に赴(おもむ)いて齋(とき/食事)を参って休息あれ」とたやすく引き受ければ、百倉長者はお達と共に小座敷に退きつつ、人無き折を見合わせて、お達の耳に口を差し寄せ、
「今、この寺の弟子となって教えを受ける立場ながら、我等と同じく押し並んで、住職の禅尼に向かっても頭も下げず横柄なのは片腹痛き事なり。今より萬(よろず)に慎んで、同宿の比丘尼達に笑われたまうな」と囁けば、お達は「実(げ)にも」とうなずいて、これより後は百倉の後に付いて居たりける。
これはさておき、その夜、年老いた比丘尼五六人が密かに住職のほとりに参って、
「今日、剃髪の願いを許されたお達と云う女を見るに、身の丈高く色黒く、眼(まなこ)つぶらに肥え太り、▼世の常ならぬ面魂に立ち振る舞いさえ無骨なり。斯様な女子を出家させて当山に留めれば、遂にいかなる災いを引き起こさんも計り難し。御思案あらま欲(ほし)けれ」と言葉ひとしく申すのを妙真禅尼は聞きながら、
「人は形によるものならず。よしや醜き女子なりとても、その剃髪を許さずば第一の檀家の百倉長者が恨みやせん。さる時は寺の為によろしき事にはあらず。我はまず彼女が行く末を見ん」と宣いつつ、香をたき、秘文を唱(とな)え、しばらく瞑想し、又、比丘尼達に示したまう、
「彼女は古(いにしえ)の世に名だたる傾城の再誕なり。前世の業因(ごういん)で今は仕合せ悪けれど、行く末で必ず仏果(ぶっか)を得るべし。後に気づくのを待つこそ良けれ」と示したまう。
かくて早や時刻になれば、鐘を突かせ、太鼓を鳴らして多くの尼を整々(せいせい)と本堂に集め、百倉長者も衣服を改め、お達を引き連れ、本堂に進み入り、香をたき、仏を拝み、更に住職を敬礼して席に着けば、一百余人の比丘尼達は二側(ふたがわ)に並び立ち、合掌、礼拝、規律を守って鉦鼓(しょうこ)を鳴らし、整々(せいせい)と経読む声ぞ澄み渡る。
かくて二人の稚児(ちご)が進み出て、お達を高座のほとりに誘い、膝まつかせれば、介添えの尼が立ち寄って、お達の練りの帽子を脱がせ、髻(たぶさ)を解いて、あちこちと分けて九つに束ねれば、剃り手の比丘尼は後ろより剃刀を手合わせして、お達の黒髪を剃り落とした。
その時、妙真禅尼は高座に在って偈(げ)をとなえ、お達に法名を妙達(みょうたつ)と授け、まず三帰(さんき)を示したまう。
「三帰は帰依僧(きえそう)、帰依仏(きえぶつ)、帰依法(きえほう)、これなり。又、五戒(ごかい)を授けたまう。いわゆる五戒は一に殺生(せっしょう)する事なかれ、二に盗みをする事なかれ、三に色欲邪淫をしずめ、四に酒を飲む事なかれ、五に虚言(そらごと)を云う事なかれ」といとおごそかに示したまうが、お達は剃られた黒髪が今更に惜しければ、ひたすら頭を撫で回し、云われる事が耳に入らねば、介添えの尼が方辺より、「よくするや、否(いな)や、申さずや。これなうなう」と教えるとお達はようやく気づいて、「呑み込みました」と答えれば、皆々思わず吹き出してしばし笑いが絶えざりけり。
かくて法縁こと果てれば、百倉長者は比丘尼達に布施を出し、喜びを述べ、住職住持に別れを告げて山科へと帰るに、新尼(にいあま)の妙達は接待役の尼達と共に山門のほとりまで▼送りけり。その時、百倉は妙達を方辺(かたへ)に招(まね)いて、
「既に頭を剃って仏の道へ入りたれば、昨日までのお達にあらず。万事わがままを慎んで、姉弟子たちにうとまれたまうな。我は又、折々食物と衣服を送り使わすべし。堅固に修行したまえ」とねんごろに教訓して別れて山を下りける。
かくて同宿の比丘尼達は妙達を学寮に伴い、朝夕の勤めを指南し、ひとつひとつを教えれども妙達はよく聞かず、只うろうろと立ち歩き、ある日は欲しいまに昼寝してわがままにのみ振る舞えば、同宿の尼は気疎(けうと)く思って妙達を呼び覚まし、
「全て女子は起き伏しに行儀を慎むものぞ。まして尼法師たらん者は智慧を磨いて、彼(か)の岸へ至るべき工夫にのみで暇(いとま)無き者なるに、昼寝する事やある。いと漫(そぞろ)なり」と恥しめると妙達は聞いて頭をもたげ、
「我もそこらの工夫をせんと心を鎮めておるものを妨げすな」と腹立てば、同宿の尼はうなずいて、「良きかな、良きかな」と讃えしを妙達はなおつぶやいて、
「我等は薪を割りには来ず。斧を尋ねて何にかせん。知らず知らず」と答えれば、皆々どっと笑いけり。これのみならず妙達は学寮の後ろに出て小便を垂れ散らし、無礼大方ならざれば、監主(かんす)の尼達はこらえかね、住職に訴え申せども、妙真禅尼は取り上げず。とどのつまりで比丘尼どもをなだめたまえば、さては禅尼の片押しで彼女のみを引きたまうといきどおりに耐えねども、又、仕方も無かりけり。
かくて早や、五六か月を経る程に神無月の初めとなって小春の空は暖かなれば、或る日、妙達は山門の向こうに出て独り風景を眺めると、冬の日は影が短く、七つ下がりになりにけり。かかる所に麓の方より
「燗酒(かんざけ)、燗酒、黒麦(くろむぎ/蕎麦)」と二声三声呼びながら、荷桶と箱蒸篭(はこせいろ)をになう一人の商人が石坂を昇り来て、山門のほとりに休みぬ。妙達はこれを見て、
「・・・・我が甲斐の府中に在りし頃は日毎に巷(ちまた)を出歩いて、酒を飲まざる事は無かりしに、百倉長者が我をすすめて尼法師と成せしより一滴も酒を飲まず、生臭物(なまぐさもの)は目にも見ず、気力衰え骨離れし口中(こうちゅう)空しく糞水(くそみず)を流すのみ。云わんや又、近頃は百倉長者が疎(うと)くて煮染(にしめ)一重も贈らねば、喉(のど)を潤す手段も無し。良き物来たり」と喜んで、その商人をまねき近づけ、
「お前が売るのは酒なりか。二合半ばかり温めて蕎麦切りも、さぁ持て来よ」と云うと商人は呆れ果て、
「あなたは未だ知らずにおわする。この寺の尼達は酒を飲む事を許されず、それがしは只、門番の下男、飯炊き掃除の男たちにこれらの酒を売れるのみ。もし尼達に売る時は寺より咎(とが)めを受けて世渡りを成し難し。それがしはこの麓の寺領の内の借家におり、商いの元手まで、この寺より貸りて妻子を養う者なるに、今この酒をあなたに売られようや。なぶりたまうな」と呟けば、妙達は、
「それらのいわれ在りとてもこの所には人も無し。誰が見咎(みとが)め、誰に告ぐべき。さぁさぁ酒を飲ませよ」と云うを商人は聞かぬ振りして早や立ち去らんとする時に、妙達はこらえられずにつと寄って腕をしかと取れば、商人は大力に二の腕を取り詰められて、「痛し、痛し」と叫びながら引き離さんともがくと妙達は「左(さ)もこそ」と突き放せば、三間余りも消し飛んで、しばしは起き得ざりけり。
その間に妙達は荷桶に在った三つ四つの徳利を手早く取り出して、手酌で茶碗へ傾け傾け、幾杯となく飲めば、片荷の酒を一と雫も残さぬまでに飲み干したり。
その時に燗酒売りは顔をしかめ、膝をさすって、ようやく身を起こすのを妙達は見返って、「酒の値(あたい)は明日取らせん。寮まで取りに来よかし」と云うのを聞かず、商人は忙わしく荷をにない、
「いかでか酒の値を取るべき。くれぐれもこの事は人に云いたまうな」と云いつつ、やがて石坂道を麓路指して馳せ下りた。その時、妙達は後ろ姿を見送って、からからと笑いつつ、なおあちこちと徘徊(はいかい)し、半刻(はんとき)ばかり過ごすと、酒の気、次第に湧き上り、ひどく酔った癖なれば、よろよろひょろひょろと足の踏む所を覚えず。既にして入相(いりあい)の鐘がかうかうと鳴る頃に、▼裳裾(もすそ)をかかげ腕まくりして、門内へ入らんとするのを門番が見て大きに驚き、あわてふためき、三人が走り出て押し止め、
「汝もこの寺におれば、寮毎に掛けられた法度(はっと)書きは読んでおらんや。五戒を破り、酒を飲む尼法師があるならば、袈裟衣を剥ぎ取って、追い出すべしとなり。しかるに今、食らい酔って帰り来る汝を許して内へ入れれば、我々の落ち度となる。後日の咎めを逃れ難し。さぁさぁ足の向く方へ立ち去れ」と息巻いて追い出さんとすれば、妙達は猛(たけ)って眼を怒らし、
「小賢(こざか)しい破戒(はかい)呼ばわり。我が酔うに、汝らに何の落ち度があらん。妨げすな」と罵(ののし)って、掻き分けしりぞけ、よろめき進む。勢い当たり難ければ、一人は走って監主の尼にかくと告げ、二人は棒を突き立てて、なおも入れじと支えれば、妙達はますます怒ってやにわに棒を引きたぐり、滅多打ちに打ち散らす。さる程に監主の尼は門番の知らせによって驚き騒いで、あちこちより下部どもを呼び集め、「破戒比丘尼の妙達を捕り鎮めよ」と下知すると妙達は早や門番を東西へ走らせた勢いに任せつつ、学寮指してよろめき来れば、同宿の比丘尼達はあわやとばかりに押し合いへし合い逃げ迷い、蔵の内へと閉じ篭るのを妙達はなお逃がさじと、蔵の網戸を打ち破り進み入らんとする程に、下部どもは妙達が武芸力量あるのを知らず、酔って狂うと思うのみで追っとり込めて押さえんと、皆むらむらと立ち寄る所を妙達はおっとおめいてつかんでははたと投げ、或るいは蹴散らし張り飛ばす。女に似合わぬ勇力、早技、叶うべくもあらざれば、只蜘蛛(くも)の子を散らすが如く、皆八方へ逃げた。
この時、妙真大禅尼は二人の小比丘尼を従えて、渡殿(わたどの)のほとりに立ちいで、
「妙達、何故に騒ぎ狂える。無礼すな」と制したまうと妙達は酔えども禅尼なりと見れば、たちまちにひざまずき、
「私(わらわ)は退屈の余りに門外へ出て、ちとの酒を飲みたれども、無礼とてはせざりしに、監主、同宿が理由無く、下部どもをかりもよおして絡め捕らんとするにより、事がここに及べるなり。よくよく察したまえかし」と陳ずる舌も回らねば、禅尼はにっこと微笑んで、
「例え言い分ありとても我に免じて堪忍せよ。さぁさぁ帰って休みよ」と寄らず障らずなだめると妙達はなおくどくどと繰り返しつつつぶやくと、禅尼は侍者(じしゃ)の尼を呼び、彼女を臥所(ふしど)へ伴わせ、ようやく無事に静まった。
監主の尼は同宿の比丘尼と共に多くの禅尼のほとりに行って、妙達の無礼を訴え、
「始めよりあの者を寺に置く事はよろしからぬと申せども、禅尼が聞き入れたまわずに、遂にこの騒ぎに及べり。今、追い出したまわずばまたいかなる災いを引き出さんも計り難し」と言葉ひとしく申しけり。禅尼はこれを聞きながら、
「我、先にも云う如く、彼女は前世の業因でとかくに言い争いありと云えども、遂には仏果(ぶっか)を得るべき者なり。何事も大檀家の百倉長者の顔に免じて、まずこの度は許せかし」と答えて取り上げねば、監主、同宿は目を見合わせて、只これ禅尼の片贔屓(かたひいき)と思えども仕方も無くて、あざ笑いつつ退(しりぞ)きけり。
かくて翌朝、食事も既に果てし頃、禅尼は侍者の尼に妙達を呼ばせるが、妙達は未だ起きず、しばらく覚めるを待つと、妙達はようやく目を覚まし、むっくと起きて学寮の後ろへ走り行けば、侍者の尼らは驚いて後ろに付いてうかがうと妙達は後ろ向きに立ち、着物の尻をつまみ上げ、長小便を垂れにけり。
侍者は笑いを忍びつつ、元の所へ帰るを待ってしかじかと告げれば、妙達は衣を着て、方丈へ参(まい)るに、禅尼は近く▼まねき寄せ、
「先に我はお前の為に五戒を授けて、酒を飲む事なかれと云いしが、お前は昨夜、酔い狂い、蔵の網戸をうち破り、下部どもに怪我をさせたは尼法師の所業にあらず。我はもし百倉氏の面(おもて)に愛でずば、追い出すものを」と苦々しげに叱れば、妙達は謝り入って、
「以後を慎みはべるべし。許させたまえ」と侘びれば、禅尼は彼女の愚直を哀れんで、しばらく方丈にはべらせて食事をさせ、なお此の後を戒(いまし)めて、学寮へ返した。
これより後の物語りは第二編に著(あらわ)すべし。又来る春を待ちたまえ。
そもそもこの草紙は水滸伝を取り直して、女の上に綴(つづ)り成せば、差しつかえる事多くて、いと為し難き戯作(げさく)なり。水滸伝をそらんじる人々がこれはあの小説に等しくて珍し気無しと云われるのは作者の苦心を知らぬべし。唐土(もろこし)ぶりの物語りをここの女に書き換えた細工は流々(りゅうりゅう)仕上げまで見て、御評判を願うのみ。目出度し、目出度し。
<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>