[現代訳]傾城水滸伝 初編ノ壱
曲亭馬琴著 歌川豊国画
文政八年(1825年)乙酉(きのととり) 春正月吉日新版
江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓 ▼:改頁
「実相無漏の大海に 五塵六欲の風は吹かずと云えども 随縁真如の波立たぬ時無し」
(能「江口」より)
行脚の僧が京から摂津の天王寺への途中で遊里で有名な江口の里に来て、遊女江口の君の旧跡を弔い、西行法師が昔ここで宿を断られた時に詠んだ歌「世の中を厭うまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」を口ずさんでいると、そこへ女が現れて、「それは一夜の宿を惜しんだのではなくて、この世も仮の宿であるから、それに執着しないようにと忠告したまでのこと」と弁解し、「実は、私はその江口の君の幽霊です」と言って消えた。その後、旅僧が奇妙な思いで弔っていると、江口の君が他の遊女達と舟に乗って現れて、遊女の境遇を謡ったり、舞を見せたりしていたが、やがて江口の君の姿は普賢菩薩に変わり、舟は白象となり、雲に乗って西の空へ去って行った。
(ここから本文)
世は平安の黄昏頃、鳥羽院の御后(おきさき)の美福門院は容姿麗しく才知の高さは男にも勝った。されば帝(みかど)の御寵愛は比べる者もなく、折に触れて政治(まつりごと)さえ任せれば、位を上げ、司を授ける事、民の訴えを聞き上げる事までも御后への口入れで全て定まるに至り、仕える女官達は自ずから権威を振るい、公卿衆、殿上人をも者の数とせず、我がままに振る舞えば、卑しき者の諺(ことわざ)の「女、賢 (さか)しうして牛売り損なう」と云うに似た事も多かった。
時は永久元年(1113 年)弥生の頃、帝は病気によってしばらく政治を行えず、可及の事を御后の決断に任せる程になり、例え摂政、関白でもその役に男が就くのは憚(はばか)りあると皆その妻がその役に就くにいたった。この頃、山城、大和、河内、和泉、摂津の五畿内に疫病が流行し、名僧らに勅(みことのり)して加持祈祷を尽くさせたが目立つ効果も無く、この事をいかがすべきと詮議が重ねられた。
その詮議の場で関白藤原忠道公の北の方の井手の政所(まんどころ)が進み出て、
「今、この疫病を払うには比叡山、三井寺の名僧でもその効果無く、 二十二社の神々でも霊験無い上は、熊野へ勅使を立て、那智の室長寺(むろおさでら)の住職の無漏海(むろかい)を都へ招き、祈り祓わせれば何か効果があるべき。熊野の山聖女(やまひじりめ)の無漏海は、昔、一条院の御時(980-1011年)に周防(山口県)の国の室積の絶世の美女の長(おさ)だった。書写山(しょしゃさん)の性空(しょうくう)上人が、ある時、夢のお告げによって室積に赴いて、その長に会うと、長は酒をすすめ、 宿をとり、「室積のみたらいに風は吹かねどもささら波立つあら面白や」と歌った。その時、性空上人が目を閉じれば、不思議にも長の姿は普賢菩薩となり、「実相無漏の大海に五塵六欲の風は吹かずと云えども随縁真如の波立たぬ時無し」と聞こえた。そして上人が又、目を開けば長は元の姿となり、歌う事は始めの如く。さすればこの長は普賢菩薩の化身なりと上人は随喜の涙を流して書写山へ帰って行った。その後、長は世を厭って熊野の山へ分け入ったと風の便りに聞き、▼性空上人は急いで都に上り、事の趣(おもむき)をしかじかと申し上げれば、帝は深く感心され、那智の麓に一座の尼寺を建立され、長を開基(かいき)に仰せ付けられ、無漏海仙尼と云う道号を授けしより既に早や百二十余年の時を経れども、無漏海仙尼の容姿はいささかも衰えず、健やかに御座( おわ)すると熊野の者は申すなり。その尼寺を室長寺(しつちょうじ)と号するのは室積の長と云う文字から取らせたと伝え聞いた。このような権化の寺であれば、都へ招き寄せて疫病を払わせれば何か効果があるべき」と故事さえ引き出して申し上げれば、美福門院は感心して「さらば、使いを遣わせ」と立木(たつ き)の局(つぼね)を勅使として熊野の山へ遣わされた。
さる程に立木の局は多くの供人にかしずかれ、次の日に都を出発し、夜に宿り日に歩み、道を急いで熊野の那智の麓の室長寺(むろおさでら)に着けば、当代住職の尼法師は多くの比丘尼 (び くに)を引き連れて鐘を鳴らし香を焚き、山門の外で勅使を迎え、先に立って案内しつつ、客殿に座を設けてもてなした。立木の局は住職に向かい、
「私 わらわが此の度、都より遙々(はるばる)と来た由は后の仰せを受けて無漏海仙尼を迎える為なり。その故(ゆえ)は斯様斯様(かようかよう)」と事情を述べ、「尼聖(あまひじり)は何処におわするか。何故に自ら対面されぬか」といぶかり問えば住職は
「無漏海聖は昔、この山に隠れしより麓へは下りたまわず。元より五穀を絶ち、霞を飲み、露を舐め、或る時は西に在り、又、或る時は東にあれば、この山の中ながらもその住所も定かならぬに后の御使いなりとても、いかで自らここまで出て対面できようや。もし聖に請いて都へ伴わんと思われるなら、ただ一筋に信心して独りで熊野山に登り、尼聖を訪ねたまえ。もし、いささかでも不信心の心を起こされれば、対面は叶うべからず。御慎みこそ肝要なれ」と ねんごろに説けば、局は「実(げ)にも」とうなずき、その夜は一夜断食し、次の日の明け方より只一人で熊野の奥へ分け入らんと虫の垂れ衣(ぎぬ)垂れ込めし、笠よ、杖よと忙わしく野装束(のしょうぞく)に裾壷(すそつぼ)折って勅書(ちょくしょ)の箱を襟(えり)に掛け、おぼつか無くも山路を指して出発すれば、住職の尼は八九人の尼法師を伴って五六町ほど送りつつ、別れる時に又、ねんごろに戒めて、「御局、尼聖に訪ね会わんと思われるなら、おごり高ぶる心を持たず、信心を怠りたまうな。一心真(まこと)にかないたまえば、遠からずして尼聖に目(ま)見えたまうべきに」と返すがえすも戒めて、やがて寺へと帰っていった。
かかりしかば、立木の局は心細くも只一人、右手には▼手香炉(てごうろ)をくゆらせて、左手に水晶の数珠(じゅず)を爪繰(つまぐ)り、口に六字の名号(みょうごう/南無阿弥陀仏)を間無く時無く念じつつ、つづら折りの山路を辿り辿るとわずかに十町余りで早くも疲れて心はしきりにいら立って、
「さても、いかなる報(むく)いでかく辛き目に会うやらん。私(わらわ)が宮中に在りし時は仮初(かりそ)めの物詣でにも車に乗らぬ事は無いのに、云わんや后の御使いとして、はしたなくも只一人で山路を辿るは何事ぞ」と独り言していると、巌(いわお)の裾の熊笹がさやさやさやと鳴ると見えると、牛に等しき大狼がこつぜんと走り出て飛び掛からんとすれば、立木の局は「あっ」と叫んで倒れ込んだ。 その時、その狼は紅(くれない)の舌を長く垂れ、星より輝く眼を怒らせて、しばし局を睨んで前に立ち後に巡り、山彦 (やまびこ)に響くばかりの声すさまじく遠吠えして何処ともなくいなくなった。
立木の局は倒れてからおよそ半刻(はんとき)ばかりでようやく我に返れば、頭をもたげ身を起し、又、手香炉を取り上げて、恐る恐る行く程にいよいよ疲れて立ち休らい、深く住職を恨みつつ、「あの熊野比丘尼めが。あくまで私(わらわ)を欺いて、猛獣の多い山に送りの者をも添えずして、一人使わせし憎さよ。都に帰れば、事の由を聞こえ上げ、遂には思い知らせんものを」と口にくどくど恨みの数々、 呟き呟く折しもあれ、山中にわかに震動し、行く手の松の茂みより大きなうわばみがするするすると這い出して、大波が寄せるが如くに立木の局の頭をのぞんで、呑まんとすれば、局は再び「あっ」と叫んで、生死も知らず倒れてしまった。うわばみは長い紅の舌を出し、局の額を舐め、襟を舐め、しきりに毒気を吹き掛けて何処ともなくいなくなった。
かくて立木の局は倒れる事、一刻ばかりにしてやや人心地は付けども、深く恐れて、これより寺へ帰るか、なおも聖を訪ねるかと思い迷ってたたずむ時に女の童の声で小歌を唄いつつ、▼此方を指して来る者あり。
局は耳をそば立てて、 「・・・・・怪しや。かかる山中に幼き女子(おなご)の声するは狐狸 の業(わざ)なるか」と思えば襟元ぞっとして一歩も進めず。とかくする程に早や向かいの木立の間より、年十一二の女子が草籠を負いながら牛を引きつつ来た。
立木の局はこれを見て「もしもし」と呼び止め、「そなたはこの山の麓におる者か。無漏海聖 は何処におわする。住処を知れば教えなさい」と云うと女子は微笑んで、
「いかでかは知らざらん。わらわはその尼聖に使われる者ぞ。聖が先にわらわに宣うには、この度は疫病を祓(はら)う為に我が身を都へ召されるなり。かかれば急いであの地へ参らん。よく留守をせよ」と宣った。思うに聖は鶴に乗り、既に都へ着きたまいけん。しかれば貴方は今更に庵(いおり)を訪ねてもその甲斐無いものを」と云い捨てて又、牛を追いつつ行き過ぎた。立木の局は女子の答えを聞いて驚き怪しみ、
「・・・・・無漏海聖はいかにして都より召された事を早くも知って既に出発されたのやらん。実にあの聖を普賢菩薩の化身と云うのは空言(そらごと)ならず」と腹の内に思案して、そこより麓へ下りつつ室長寺へ戻れば、住職の尼が出迎えて道の疲れを慰めた。その時、局は山中での出来事を物語り、「かくも恐ろしき深山(みやま)に何故に私(わらわ)を あざむいて独りで彼処へつかわせた。わらわがもし、運命尽きれば例え狼に食われずとも毒蛇の腹に葬(ほうむ)られん。后の仰せはすなわち勅(みことのり)に異ならず、その御使いは取りも直さず、勅使に等しいわらわなるにあなどり欺く不愉快さよ。もし山中で牛飼いの女子に会わねば、留守の庵と知らずして今なお訪ね惑(まど)っていたが、幸いにして斯様斯様の女子に会って、しかじかと云われたにより、そこより帰り来れた」としきりに恨みいきどおれば、住職の尼は聞きながら、
「御局、左様に息巻きたまうな。この山中には獰猛(どうもう)な獣が無きにあらねども、昔より人を害することはなし。しかるに貴方が二度までも危うい目に逢いたまうのは信心のおこたりを聖が懲(こ)らされたなり。 思うにその草刈の女子と見えたのは無漏海聖に疑い無し。あの尼聖は今もなお容姿はいささかも衰えず、或る時は二三十の齢(よわい)と見え、又、ある時は十二三の女子とも見えるなり。かくて貴方にしかじかと告げし事もあれば、神変自在の神通力で都へおもむきたまう事に何の疑いあるべきか」と言葉を尽くして説きさとせば、 局はこれに怒りもとけ、▼勅書をそのまま住職に渡し一両日そこへ逗留した。
かくて立木の局は次の日、住職に案内させて、あちこちの霊場を巡ると経堂の後ろに一宇(いちう)の小堂(しょうどう)あり。戸扉を堅く閉め大きな錠を下ろし、錠の上には幾つともなく封印あれば、立木の局はいぶかってその事の理由を尋ねれば、住職の尼は進み寄り、
「昔、無漏海聖が当山に隠れられた折、万葉集に見えた遊女(うかれめ)、蒲生(がもう)、土師(はじ)、婦(おとめ)、末ノ珠名(すえのたまな)、狭古(さふる)らを始めとして、 世に名だたる美女(傾城)ながらも人の妻にならずして苦界(くがい)の中で果てた者の亡き魂が宙宇(ちゅうう)に迷うのをことごとく封じ込め、一つの塚を築かせた。さればこの塚を傾城塚と呼んだ。もしこの塚をあばいてその幽魂(ゆうこん)を走らせれば、世の中に災いあると深く戒められたにより、当寺の代々の住職の尼法師がこのように閉ざしに封して開く事を許さずに来た」と告げるのを聞いて、立木の局はからからと嘲笑(あざわら)い、
「世に遊び女が若死にして人の妻となれぬのを憎しと思う事あれば、その亡き後を弔(とむら )って成仏させずに、只、いたずらに幽魂を封じる事があるか。これは無漏海の業(わざ)にはあらず、熊野比丘尼が地獄の絵で婆母(ばばかか)どもを脅すに等しく、後の住職の業なるべし。わらわは今、目の当たりにその塚を見たく欲す。さぁさぁ開いて見せたまえ」と云うのを住職は押し止めて、「その事、夢々叶うべからず。御局 、もし疑って傾城塚を開きたまえば、後悔されるべし。この儀は思い止まりたまえ」とひたすらいさめ争えども立木の局は聞かずに、まずその錠を開かせて、進み入りつつ塚を見ると、大きな▼自然石で傾城塚と彫りたるが内側は暗くて定かに見えねば、松明(たいまつ)を振り照らさせてあちこちと良く見ると台石(だいせき)の亀は半身が土に埋もれて、苔むした碑の裏には「遇斧而開(おのにあうてひらく)」という四つの文字が彫ってあった。立木の局はこのような使いに立てられる程あって、男文字(漢字)をもそらんじられた。その四字を読み下して、
「尼達、これをよく見たまえ。斧(おの)に遇(あ)って開くとある。斧を呼んで断(た)つ木と云えば、斧も立木(たつき)もこれ同じ。さればわらわがこの塚を今開くべき事の由を百年余りの昔より無漏海聖はよく知って、しかじかと印された。今、この下を開いて見ん。さぁさぁ用意をしたまえ」と権威につのる女の猿知恵。住職はなおもいさめるのを露ばかりも聞かずに寺男らを呼び集め、遂に石を倒し、台石を取り除かせて掘る事六尺余りにして、石の唐櫃(からひつ)が在れば、さればこそと立木の局は息をも付かせず下知(げち)すると人夫らは斧(よき)・鉞(まさかり)で力を合わせて石の蓋をひたすら打ち、遂に蓋を砕いたが底は暗くて見え分からねば、立木は松明を照らさせてよくよく見んとすると、忽然(こつぜん)と天もくじけ、大地も落ち入る音がして、穴の中より一道(いちどう)の黒雲が陰々と立ち上り、家の棟をも突き破り、中空(なかぞら)に棚引いて、幾筋ともなく光を放って四面八方に飛び去った。まさにこれ、後鳥羽院の御時に白拍子(しらびょうし)の亀菊(かめぎく)を御寵愛(ごちょうあい)されたことにより世の中乱れ、勇婦烈女(ゆうふれつじょ)らが出現すべき兆(きざ し)がここに顕(あらわ)れた。
これにより人夫らは逃げようとして、つまづき転んで、怪我をする者少なからず、ことに尼法師らは気絶した者も多かった。その中で立木の局は人に先立ち、堂内を命辛々(いのちからがら)走り出て、茫然(ぼうぜん)としていたが、面目無いと思ったか次の日、熊野を出発し都を指して帰って行った。
これより先に無漏海の尼聖は神通力で都へおもむき、一人自ら参内(さんだい)し、帝に謁( えっ)したまわり、大内に壇を設けて疫病の神を払えば、いくほども無く五畿内の悪しき病は皆回復し 、万民安堵の思いをなした。かくて無漏海の尼聖は再び鶴に乗って、熊野山へ帰られた。 およそこのくだりまで、物語の発端なり。▼
されば鳥羽院は在位十六年にして位(くらい)を第一の御子(みこ)の崇徳院に譲られ、崇徳院も又、在位十八年にして弟御子の近衛院に譲られ、近衛院は在位十四年にして崩御されれば、この上の御子の後白河院に位を継がせた。それより二條院、六條院、高倉院、高倉の御子 の安徳天皇が西海に沈まれれば、後白河院の御計らいで安徳天皇の弟の後鳥羽院を位に付けられた。この帝は在位十五年で位を第一の御子の土御門院(つちみかどいん)に譲られた後もなお天下の政治(まつりごと)は先例にならわせて、全てが院の御沙汰により、順徳院、九条院の時までは時の帝は在るに甲斐無きありさまだった。
しかるにその頃、都の東山に亀菊と云う白拍子がいた。年は十六ほどにして容姿うるわく、和楽器の技はもちろん香、立花(りっか)、 萬(よろず)の雅の技までも一つとして苦手なく、客を釣り、男を蕩(とろ)かす手練にたけて、およそ都にありとある裕福な家の息子、商人の手代なども皆これに惑わされて家を売り、妻子と別れ、身は落ちぶれて、様々に成り行く者が多ければ、その親、主人は亀菊を憎みつつ、遂に六波羅の決断所へ訴えて、彼女を追う事を願い申せば、六波羅で詮索の後、事皆、亀菊の罪に定まった。かかる優美な女を都の内に在らせれば、風俗の害なりとやがて追放させられた。これによって亀菊は五畿内の内に足を入れる事を叶わず、ささやかな知人を頼りに越後の新潟へおもむいて、縮唐屋(ちりからや)四太郎と云う港芸子の見番宿(けんばんやど)に身を寄せて、ここで三年ばかり暮らす後に都ではゆえあって、大赦が行われれば、亀菊も咎(とが)を許され世の中広くなりにけり。これにより亀菊は都へ帰ろうと、四太郎に頼むと、四太郎も不憫(ふびん)に思って、縮(ちぢみ)商人の夏兵衛という者に頼み、京六条のほとりに四太郎が知る人あれば、その方へ書状を添えて、夏兵衛と共に亀菊を旅立たせ、都へ帰し使わした。
[現代訳]傾城水滸伝
初編ノ二 曲亭馬琴著 歌川国安画
此の頃、都の室町のほとりに小間物屋雛右衛門と云う者あり。越後の出身で若い頃に都に上って、商人の家に奉公した。年頃になった頃、その親方の助けによって、ここらに小間物店を開いてより商いのお得意が多く出来、しかるべき者と成った。かかれば、この雛右衛門と新潟の四太郎は竹馬の友であったので、縮商人夏兵衛も同国のよしみあり 、夏毎に都へ上って縮を売る時に、この雛右衛門の所を宿として四、五か月も逗留した。なれば四太郎はこの便宜(びんぎ)で、この度、亀菊を都へ返すのに、商いの為に都上りする夏兵衛に頼み、雛右衛門に書状を送って亀菊の今後の事を任せて頼んだ。 さる程に亀菊は夏兵衛に伴われて、都の小間物屋に着けば、雛右衛門は対面しつつ心の内に思う様、
「・・・・・この亀菊は昔、都で客をとろかせ、若者共の身上(しんじょう)を幾人となく粉に振るわせた白拍子なのに、斯様な者を我が家に留め置くのは難儀なり。されども我が故郷の四太郎が遙々と頼み寄越した者でもあるし、彼の親には我も恵みを受けた事あれば、さすがに嫌とは云い難し。」と思案をしつつ、いと丁寧にもてなして四五日を経た後に亀菊を招き近づけ、「貴方は我が竹馬の友から頼まれた人なれば、いつまでここに居るとてもいささかも厭(いと)うにあらぬが、見る如くに我が家は萬事に忙しき商人で、とても貴方の立身出世の便宜(よすが)となるべき者にはあらず。六条のほとりの医師深根▼長彦という人は公卿、殿上人に招かれて広く療治をしたまうに、我も年頃、仲疎(うと)からねば、貴方の事を深根氏へ頼みつかわそうと思う。此の儀に従いたまわんや」と問えば亀菊は一議に及ばず、「まこと に不思議の御縁にて、かくまでお世話になる上は何をか否(いな)みはべるべき。ともかくも」と答えれば、 雛右衛門は次の日に長彦へ書状を送り、亀菊に小者を付けて深根の自宅へ遣 つかわした。
かくて長彦がその書状を見ると、 <この女子が宮仕えの有り付きの在るまで、そなたへ留め置かせたまいて手引きしてたまわるべし。衣食の費用はこちらよりともかくもつかまつらん。しかじか>と書いてあるのを繰り返しつつ読み終わり、腹の内に思う様、
「・・・・・この亀菊は音に聞こえた、いと婀娜(あだ)めきた乙女なるに、我が家に留め置けば、年若き弟子どもの身の為に良い事あらじ。詮術(せんすべ)あり」と一人うなずき、やがて返事を書きしたためて、小間物屋の小者を帰し、さて亀菊に対面して、
「そなたは和楽器の技でやん事無き方へ宮仕えを願えば幸いの事あれ。今、坊官で一二を争う法眼(ほうがん)顕清(けんせい)と聞こえるは院の御所に仕えて勢いあるお歴々なり。しかるにあの方は和楽器に技持つ女子を召し抱えんと言われるなり。それがしはこの頃、療治のために度々尋ねることあれば、手引きする事いと易し。しかし、先様の好みは十六ほどの振袖をとかねて注文されるに留袖にてはいかがあるべきか。その他の事は問題あらじ」と云うと亀菊は微笑んで、「年は十九になれども女子はこしらえ様によれり。先様へは十六とも十七とも申したまえ」と云うと長彦は喜んで、次の日、顕清の屋敷へ行って、事良く話せば、目見えの日さえ決められて、亀菊は大島田に振袖の衣(きぬ)を装い、長彦に伴われてその屋敷へ赴いた。
亀菊はその始め、白拍子なれば、俳優(わざおぎ)慣れたその装い。さながら十六の乙女と見えたり。その日は老女が対面し、その芸能を試したが琴、胡弓(こきゅう) 、笙(しょう )、又、舞唄いの今様(いまよう)まで技術を尽くせば、顕清は障子を隔ててこれを聞き、感激し、大いに喜んだ。その後、見参(けんざん)の首尾が整えば、三四日を経て亀菊はその屋敷へ移り住み、元の舞姫らと混って勤めていると早くも主人の心を知って、甲斐甲斐しく立ち振る舞えば、顕清は愛(め)で喜び、要事などを皆、亀菊に云い付けた。
○そもそも後鳥羽院の想い人の尾弘(おひろ)の局(つぼね)は法眼顕清の娘で、その御腹には朝仁(ともひと)親王と申せし男御子が産まれれば、父顕清も娘に付いて自ずから勢いあり。常に親しく院の御所へ参りつかえるに、元より歌を好んで詠み、又、古筆(こひつ)を好めば、世に珍しき物を集めんと思う程に、近頃、紀貫之(きのつらゆき)の自筆の土佐日記、又、躬恒(みつね/歌人)の短冊など多く手に入れれば、ある日、御物語のついでに、「かかるものを得て候え」と誇り顔に申し上げれば、院は聞こし召し、「それはいと珍しき物なり。持参して見せよ」と仰するに、顕清はいたく喜び、やがて自宅に戻りつつ、その次の日に尾弘の局にしかじかと手紙を送り、その古筆を叡覧(えいらん)に供えんとする。この使いには賢い女子ならではと思えば、亀菊を呼んで事の心を得させつつ、その手紙を渡して院の御所へ遣わした。
さる程に亀菊は下部(しもべ)に唐櫃(からひつ)を担(にな)わせて、尾弘の局へ参りしに取り次ぎの女中が立ち出て、「尾弘の局は院に召されて梨局(なしつぼ)におわす。戻られるにはいとしばらくの間があるべし。ゆるやかに待ちよ」と云うのを亀菊は押し返し、「これは私(わたくし)の使いにはべらず、御所様へ参らせたまうしかじかの物をもたらしてはべりにき。願わくばこの事を急ぎ伝えてたまわれかし」とひたすら乞い求めれば、「しからばかしこ へ赴いて、又、取り次ぎを頼むべし。これ持て行きね」と云いながら切手形(きりてがた)の木札一枚を亀菊に渡しつつ、唐櫃を端者(はしたもの)に担わして折戸口まで遣わした。
されば又、後鳥羽の院は文の道を好まれて、御詠み歌が妙(たえ)なるは云うも更なり。又、武芸をも好まれて、その上、種々の遊芸さえ、一つとして捨てたまわず。しかれども女御 、更衣のやん事無き高官をよそよそしくて遠ざけて、怪しの賊(しず)の女なりとも品形 (しなかたち)麗しく一芸に優れし者は御側近くはべらせて、御遊びの伽(とぎ)とさせたまうに、香、立花(生 け花)には興味なし。鞠はことさら良き物なれども女子に鞠を蹴らせるのは無惨なるべしと鞠の遊びに代えて子供が春にする遣羽子(やりはご)は良からめと、ひたすら羽根を突かせたまうに、その法式を立てられて種々の技を尽くされれば、上を学ぶ下々まで遣り羽子の遊びを旨として、その技は都と田舎に流行した。
これはさて置き、亀菊は梨局のほとりに参って取り次ぎを尋ねると、此の時、院は尾弘の局とその他の官女にまじって、遣り羽子の遊びに興されていて取り次ぐ者も無かりけり。さる程に院は瀧子という舞姫が突いたその羽子を胡鬼板(こぎいた)で跳ね返えさんとしたまいしに、亀菊が成り上がる時運がここに至りけん。
その羽子それて築垣(ついがき)の戸の方へひらめき飛んで、折戸の彼方の亀菊の頭の上に落ちかからんとし、亀菊はここぞと右手に持った切手の札持ち、その羽子を丁(ちょう)と受け、舞雲雀(まいひばり)と云う技で二つ三つ四つ突き上げて、程を測って彼方の院に突き返せば、一院の感激は大方ならず、「築垣の▼彼方に在って朕(ちん)がそらした遣り羽子を突き返したのは何者やらん。尋ねてみよ」と仰するに、一人の女官が折戸を開いて亀菊に会釈しつつ、ここへ参りし事の由を尋ねれば、亀菊はうやうや しく「法眼顕清の貫之、躬恒の筆の跡を叡覧(えいらん)に供える為に尾弘の局へ手紙を送ったその品々を捧げまつる使い女(め)
の亀菊と申す者にはべり。先に局へ参れども、梨局の方に居ますとある女房が云うにより、時の遅れる事が惜しくて切手をたまわり、おぼつか無くもここまで推参したれども、折から御遊の最中とおぼしく、いで来たまう人無きによりしばらく待ちてはべりにき」と恐る恐る答えるのを院は遙かに聞いて、「顕清の使いならば、いささかも苦しからず。その者を呼べ」と間近く招き寄せさせ、その容姿を見るに、いとあでやかな雅女(みやびめ)なれば、たちまち愛でさせたまい、 「汝は羽子に技ある者なり。突いて見せよ」と仰するに、亀菊は再び三度 、固辞したが許されず、さのみはかしこかるべしとて、ようやく立ち上がり、飛ぶ馬、蝙蝠(こうもり)、嵐の木の葉、燕返りなどと云う技で秘術を尽くして突けば、院はいよいよ感激され、 「なお、この他にも覚えた芸能ありや」と問われ、「和楽器の技、男舞いは幼きより習いしどもいとつたなくはべり」と申す。「さればまことに要ある者なり。朕に仕えよ」と仰せあって、尾弘の局に預けられ、自宅へは帰されず、その夜も御遊の席に召されて舞い歌った。
堪能の者なれば、御寵愛(ごちょうあい)は大方ならず、御側を離されなかった。
顕清はこんな事とも知らずに、その日亀菊が帰らぬのをいぶかしく思えば、次の日、御所へ参って気色を伺えば、院は笑いながら、「昨日は予ねて約束の珍書を見せられしな。ついてその使いの亀菊とか云う者は芸能ある女子、今より朕に仕えさせよ。まずしばらくは尾弘の局を局親(つぼおや)にするべし。朕は貫之の筆の跡よりあの亀菊こそ得ま欲しけれ」とたわむれて仰せける。顕清はこれを承って、亀菊が御寵愛の者となれば、我が娘の尾弘の為に良い事あらずと心の中にはいと悔しくは思えども、今更に詮方(せんかた)無ければ、「まことに彼女の幸いにて、いとありがたき事にこそ」と御受けを申しつつ、苦笑いして退いた。
かかりしかば、院は幾程も無く亀菊を五節(ごせち)の歌垣(うたがき)と云う司にされて、あまつさえ女武者所(おんなむしゃどころ)の別当(べっとう)を兼ねさせれば、勢いは典待(すけのつぼね)に等しく、果たして尾弘の局を始め、院の御情けを受けし女房達は皆こと如く捨てられて、三千の後宮(こうきゅう)に顔色(がんしょく)絶えて無き如く、亀菊一人に気圧(けお)された。
されば又、中頃より御所の院中には北面(ほくめん)の武士を置かれ、非常を戒(いまし)められしに、後鳥羽の院の時には又、西面の武士を置かせ、国々より武芸力量ある女を召され、▼ 女武者所に置かれ、その女武者らを預かり司る女官を武者所の別当と称せられた。
しかれどもその女武者らは縁故や依怙(えこ)で選ばれし者どもなれば、させる武芸のあらぬ者もその武者所にはべりしが、一人綾梭(あやおさ)と云う女武者のみが十八番の武芸に長けて、 男も及ばぬ力があった。
故(ゆえ)あるかな、綾梭の父は筑井(つくい)兵衛太郎(ひょうえたろう)という関東の武士で武芸の聞こえあるにより都へ召し上げられ西面の武士に成されたが、近き頃に亡くなった。
綾梭は女ながらに父の武芸を受け継いで、優れた技の者なれば、院の御所に仕えて武者所にありしが、久しく病に犯されて故郷へ引き籠もり居れば、亀菊が武者所の別当に成りしを聞きつつ寿を述べるに及ばず。しかし亀菊は綾梭が来て会わぬのをいぶかって、采女(うねめ)らに理由を問うと彼女は久しく病あって、故郷におりと答えれば、亀菊はそれを聞いてあざ笑い、 「彼女は死ぬ程の事はあらぬを引き籠りおるのは私(わらわ)を密かにあなどるらん。よしよしその儀ならば、詮術(せんすべ)あり。打ち捨てて置きね」と云う気色が只ならずと見えれば、采女らは密かに危ぶんで 、人を走らせ、綾梭にかくと告げれば、綾梭も驚いて、止むを得ずに病を押して、亀菊に目見えするが、亀菊はひたすらはしたなく罵って、「そなたの親の筑井の兵衛はさせる武芸も無い者なりしに、鎌倉からの推挙によって西面の武士に成されしすら、なお上も無き御恩なのに、云わんやそなたのはした武芸を親の子と思し召して、 采女に成された身の程をわきまえず、虚病(そらやまい)を申し立て、私(わらわ)を侮る不敵さよ。さぁさぁ六波羅へ引き渡して罪をたださん」と怒るのを朋輩(ほうばい)の采女がこれをいさめつつ、
「君、今こよ無き司に成されて、事に目出度き事の始めに人を罪ないたまわんはよろしき性とも覚えず。願わくば、綾梭の罪を許したまえ」と代わる代わるに詫れば、亀菊もようやく怒りを納めて、「しからば此の度は許さん。この後もなお不備あれば許すまじ」と云う時に綾梭は初めて頭をもたげて、その面を見ると、あに図らんや、我を支配の別当になった女官は前に父兵衛とともに六波羅に在りし時、よそながら見知った白拍子の亀菊なれば大きに驚いた。
やがて自宅へ帰り、母にしかじかと告げ、「あの亀菊は白拍子の頃に多くの人を害したのに、云わんや今は一院の御寵愛を受ければ、彼女が憎いと思う者の安穏は余もあらじ。かかれば私(わらわ)は彼女の為に遂には無実の罪を得ん。こはいかにすべき」と嘆けば、母親は聞きつつ驚いて、「しかる時はうかうかと都にいるのはいと危うし。三十六の計り事も逃げるを良しとす」と云えば親子は密かに▼他国に逃げようと思えども、「我が身は脚気(かっけ)の持 病あり道一里とも行く事叶わず。情けない老いの身にこそ」と云い掛けて涙ぐめば、綾梭はこれを慰めて、
「そう思われるならば、私(わらわ)、密かに妙案あり。斯様斯様」と囁けば、母親はしきりにうなずいて雑談時を移しけり。
かくて又、綾梭はその夕暮れに借馬(しゃくば)引きの鞍八(くらはち)を招き寄せ、
「我が母には脚気(かっけ)の持病あり。私(わらわ)も又、先頃より久しく病に犯されて、ようやくに回復したのを石山寺の観世音へ予ねて掛けた願解(がんほど)きに、母諸共に明日、参らんと思うなり。しかれども我が母は駕籠(かご)乗り物を嫌えば、馬にでも乗せて行くより他なし。口取りの男はこちらにあり。良い馬あれば明日一日、貸してたび」とこしらえれば、鞍八はその意を得て、
「幸いに良い馬あり。駆けには向かねども、鞍の上は静かにして遠乗りには極めて良し。値段五両で売ろうと思えど、売りかねて飼い置いていた。今宵より貸すべし」と答えて自宅に立ち返り、夕暮れにその馬を引きつつ貸せば、綾梭は深く喜んで、次の日の朝未明に母親を馬に乗せて、下部の留守介(るすすけ)と云う者に馬の口を取らせつつ、石山寺を指して三里ばかり行きし時、馬の口取りの下部留守介を呼び止めて、
「あな、いかにせん。忘れた事こそあれ。今朝、物に取りまぎれ、石山寺へまいらせる布施物を持て来ざりき。そなたはここより引き返し、布施物を取って来よ。それはしかじかの所にあり。われら親子は今宵、御堂で通夜すれば、そなたは急いで来るにも及ばず。今宵は自宅で休息して、明日は努めて迎えに来よ。来んとする時に、これを借馬の鞍八に確かに届けよ」と云い付けて、固く封した文箱を渡せば、留守介は心を得て、そこより自宅に立ち帰り、さて云 われた所はもちろん、あちこち探せども布施物とおぼしき物は無し。又、翌朝も残る隈無く探せども、それかと思う物も無ければ、詮方尽きて、そのまま石山寺へ迎えに行きしも綾梭親子は御堂におらず、心いよいよ疑い迷って、堂守 (どうもり)を尋ねると、「通夜せし者はあらず」と答える。
これにより留守介はむなしく国へ帰るが三条の橋詰めにて鞍八に行き会った。その時、鞍八は留守介を呼び止めて、
「心得難き事があり。借馬の賃は一日に五百文と定めたが、今朝渡された文箱を開いて見ると中には黄金五両あり。馬の値段と記されたり。しからば昨日貸した馬を買い切りにするとの事か。いぶかしき事限り無ければ、参って尋ね申さんと、今立ちいでし所なり。その訳を知らずや」と問われて▼留守介は眉をひそめ、「それには思い当たる事あり。その故(ゆえ)は斯様斯様」と、綾梭親子が石山寺に参らざりし事のおもむきの始め終わりを話して、「察するに、おらが旦那は親子密かに示し合わせて逃亡したならん。ばかばかしや」と囁けば、鞍八も驚き呆れて、その日は留守介と諸共にあちこちを訪ね巡りしが絶えて行方が知れざれば、止む事を得ず、留守介は或る人に頼んで、その事を女武者所へ報告し、鞍八は又、六波羅の決断所へ訴えた。
さる程に、亀菊は綾梭が母諸共に逃亡した事を聞き、いよいよ憎み憤り、にわかに院の仰せと称して六波羅へ下知(げち)を伝え、「綾梭親子を召し捕って参らすべし」と催促した。これにより六波羅の決断所では伊賀の判官光季(みつすえ)が手下を四方へ走らせて、綾梭を追わせども既に三日を経ていれば、行方は絶えて知れざりけり。この故(ゆえ)、光季は留守介、鞍八を呼び寄せて、なお詮索をすれども彼らが知る事なければ、詮方無くて止めにけり。
この時に世を厭(いと)うある物知りが囁いたのは
「昔、鳥羽の院の御時に美福門院の御沙汰として賞罰に僻事(ひがごと)多かり。さるにより、後、遂に保元(ほうげん)の戦(いくさ )起こって崇徳院は流された。今は又、亀菊が院の御寵愛を受け、御政治に僻事多 し。しかのみならず、鎌倉では頼朝(よりとも)の後家政子が武家の賞罰を執り行って、尼将軍と称せられる。されど京も鎌倉も萬(よろず)に女の沙汰により、世の中の勇婦賢妻(ゆうふけんさい)が無実の罪に身を置きかねて、世をいきどおる者あるべし。これしかしながら、その昔、立木の局があやまって傾城塚(けいせいづか)を開いた祟りならん」と云うとぞ。(留守介、鞍八らの事はこの後に物語り無し)
○さる程に綾梭は髻(たぶさ)を切り、姿をやつして、母を乗せた馬を追い、信濃路へ走りつつ小道、枝道、そこはかとなく山又山に旅寝を重ねて、信濃の国の水内(みのうち)郡戸隠山 (とがくしやま)の麓をよぎる時、日が暮れようとするに思わず宿を取り遅れ、あちこちと尋ねると道のほとり一町ばかり引き入れた木立の元に一構(かま)えの冠木門(かぶきもん)が見えれば、ようやくにたどり着いて、一夜の宿を求めると、主人は六十路ばかりの翁(おきな)で情けある者なれば、こころよく引き受けて、綾梭親子を風呂に入れ、夜食をすすめ、馬にも馬草を飼わせなどしてねんごろにもてなせば、綾梭親子は情けを感じて寝所に入って眠りについた。
その翌朝、主人の▼翁は日も昇ったのに旅の女がまだ起きねば、屏風のこなたより咳払いして、「いかに人々、起きたまわずや。早や夜は明けて候」と云う声聞いて綾梭は忙わしく走り出て、「 私(わらわ)はとっくに起きしが、旅の疲れにか、母が暁(あかつき)より痞(つかえ)起こって苦しめり」と云うと主人は驚いて、
「それはいと難儀(なんぎ)におわす。幸いに我が家に癪(しゃく)、痞(つか)えの妙薬あり。用いたたまえ」と云いつつ、やがてその薬を煎じて、しきりに勧めいたわって、「旅にて病むのは便(びん)無きものなり。いつまでも逗留して静かに保養したまえ」と云い慰める人の情けに綾梭親子は深く感じて、しばらくここに足を留め、保養し、およそ十日ばかりにして母の病は癒えた。
これにより綾梭は明日には予ねてよりこころざす方へ発たんと、泥に汚れた脚絆(きゃはん)を洗えばやと思いつつ、背戸の方に出て見れば方辺(かたへ)の空地で年十七八と見える女子が男めいた装(よそお)いして、木太刀(こたち)を使って独りで武芸の稽古をしていた。綾梭はしばしそれを見て、「・・・太刀筋は器用なれどもまさかの用には立ち難し」と独り言した声が漏れ、その女子は見返って、「女、何をか云う。 私(わらわ)の技をつたな しと思われれば、いざ立ち寄って勝負を決せよ。ここへ来ずや」と息巻く声を主人の翁が聞き付けて、忙わしく走り寄り、
「女中よ。心に掛けたまうな。彼女は我の娘だが生まれつきの性(さが)にやあらん。糸繰り、機(はた)織る事をせず、幼無きより武芸を好んで、男魂あるに似たり。母はそれを苦に病んで、一昨年の秋に亡くなった。されども、それがしは彼女がまにまに止めもせず、三人の師匠を取らせて、武芸を習わせたり。女中も定めて武の技に心掛けありと見える。彼女の望みなれば、打ち殺したまうとも苦しからず、一太刀当ててたまいね」と請い求めると綾梭は三度辞するも許されねば、「しからば是非に及び難し。お相手になりはべらん。無礼は許したまえ」と会釈をすれば、その娘は「云うにや及ぶ」と勢い猛(たけ)く、そのまま家に走り戻って、壁に掛けた薙刀(なぎなた)と木太刀を取って走り出て、「長き短き、いずれなりとも選び取られよ」と云うと綾梭は微笑んで、「 私(わらわ )は打ち物に嫌い無し。御身(おんみ)がまず取りたまえ」と譲ると怯(ひる)まず、娘は樫(かし)の木で作った薙刀を取って水車の如く回しつつ、隙を計って駆けんとするのを綾梭は木太刀でたちまち丁と払い除け付け入って、一打ちに打つならば打ち倒せれども、身を痛めずして勝ちを取らんと思えば、あしらって二足三足と後ずさり、その娘は踏み込んで再び駆けんとする所を綾梭がすかさず跳ね返せば、娘が持った薙刀は遙か後ろへ消し飛んで、その身も共に横ざまにはたと転んで伏しければ、綾梭は木太刀を捨てて走り寄り、「痛みはせずや。怪我はせずや。許したまえ」と会釈をすれば、その娘は膝立て直し、「私(わらわ)はまなこありながら、人をも知らず身をもはからず、こよ無き無礼をしはべりぬ。許させたまえ」 と額突(ぬかつ)いて身のあやまちを詫わびた。
父の翁は感じ、且つ喜んで、綾梭に向い、
「それがしは家代々が村長(むらおさ)を承って陸見庄内(くがみしょうない)と呼ばれる者なり。又此の所の里の名を女郎花村(おみなえしむら)と呼び、いかなる故(ゆえ)か知らねどもいにしえよりこの村には男子(おのこ)少なく女子(おな ご)多し。又、北隣りの一里を鬼無里村(きなさむら)と呼び、そこには男子多くして女子は極めて少ない。これをもて昔よりあの村と我が里人と婚縁を結ぶなり。それがしは幸なくて、只この娘一人を持てり。早や年頃なれば婿を取らんと思えども、只今見そなわせる如くに女子に似合わず武芸を好んで、人の妻となる事を願わず。人も又、その猛(たけ)きに恐れて婿にならんと云う者無ければ、事整わず時過ぎたり。又、我が娘は物毎に環龍(たまりゅう)の模様を好んで、衣(きぬ)にも帯にも龍の縫い物のある物を着れば、里人らは浮潜龍衣手(ふせんりゅうころもで)とあだ名を呼んで候。思うに君は世の常の婦人にはあらず、願わくば実を明かして、なおこの所に逗留し、娘に武芸を教えたまえば、この上も無き幸いなり。やよ、衣手。今日よりしてこの方様を教えの親と頼み申せ」と云うと衣手は喜んで綾梭を伏し拝み、師弟の契(ちぎ)りを請い願えば、綾梭も否むに由無く主人親子に向かって、
「今は何をか隠しはべらん。私(わらわ)は西面の武士の筑井兵衛太郎の娘で綾梭と云う者なり。父の兵衛太郎が亡くなりし頃、家を継ぐべき男子無く私(わらわ)を女武者所に置かせたが斯様斯様の事により▼亀菊に憎まれて災い此の身に迫れば、止む事を得ず、母を伴ない父方の縁(ゆかり)ある武田殿に身を寄せる為にわざと小道を巡って、宿取り遅れし夕暮れに恵みを受けたのみならず、思い掛け無き母の病を保養させ、遂に快癒した事、大方ならぬ情けによれり。かくまでの恩返しに私(わらわ)が覚えた技の限りは御息女に指南せん。衣手殿がこの年頃に習いし太刀筋は華やかなるを旨(むね)とせしのみでまさかの用には立ち難し。今少し習いたまえば、妙所に至るべし」と云うと親子は益々喜び、庄内は娘の為にその日酒宴を開いて綾梭親子をもてなしつつ、師弟の契を結ばせた。
さる程に綾梭は父の兵衛が伝えた十八般の武芸の秘術を日毎に衣手に教えれば、およそ半年余りにして衣手の武芸は上達し、あなどり難くなりにけり。かかりしかば綾梭はある日、衣手親子に向かって日頃の待遇を喜び伝え、
「今は早や、衣手殿の技術も上達すれば、いささかも欠けたる事無し。かかれば予ねて云う如く、明日には袂(たもと)を分かって初めよりこころざす武田殿へおもむくべし」と云うと親子は理(わり)無く止めて、
「願わくば、此の所で一期を過ごしたまえ。させるもてなし有らずと云うとも、ともかくもして御二方を養い参らせん」と云うを綾梭は聞いて、「さればとよ、我らは惜しくはべれども、とても留まる身にあらねば、明日は努めて出発せん。 落ち着いて後に、文で安否を問うべきに。自ら愛したまいね」とねんごろに別れを告げて、留まる気色が無ければ、衣手は仕方なく父と図って餞別に砂金二十両を贈りけり。その翌朝、綾梭は月ごろ馬屋に飼い置かれた我が馬を引き出して母親を乗せ、庄内と衣手に暇乞(いとまご)いして出発すれば、衣手は道の程、一里ばかり送りつつ、涙を流して別れけり。(綾梭の事、この後に物語り無し)
○かくて今年もはかなく暮れて師走の初めに父の庄内は風邪で臥し、医療の甲斐なく遂に亡くなれば、衣手は嘆きつつ、亡骸を野辺送りしてねんごろに弔った。しかれどもこの時まで決まった婿が無いにより、家に久しき手代の螻蛄平(けらへい)を仮に庄役代として工作の事を司どらせ、衣手はなお綾梭に教えられた武芸のみを折々に復しつつ為す事も無く月日を送ると、春経て夏は過ぎ、秋七月の頃になった。残る暑さが耐え難ければ、衣手は門のほとりに竹の腰掛けを置き、尻掛けて只一人、そよ吹く風を待つ折に、表の方よりきょろきょろと厨(くりや)のほとりを覗く者あり。衣手は一早く気がついて、「そは何者ぞ」と咎(とが)めれば、その者は急に見返って、「否(いな)、横七にて候」と云いつつ近づくのをよくよく見れば時々来る木樵(きこり)の横七なり。衣手はあざ笑って、「あな、黄昏に何事ぞ。きょろきょろ、そこらを覗くは私(わらわ)の足元を見る為か」と云われて横七は頭をかき、「否(いな)、何事も候(そうら)わず。ここの男衆の鋤蔵(すきぞう)を誘い出して一杯飲まんと思い、来た事は来たけれども、あなたがそこに居たまえば呼びかねて隠れたのみ」と云うと衣手は気色をやわらげ、
「そはそれにてもあるべきが、そなたは夏毎に猪茸(ししたけ)、岩茸(いわたけ)、椎茸(しいたけ)などを折々持て来て売りしが、今年は何故に持て来ぬぞ」と問われて横七は
「さればとよ。近頃、戸隠山(とがくしやま)に三人の鬼女(きじょ)が棲み、夜な夜な近い里に出て、人を殺し財(たから)を奪う。その強き事は大方ならず、昔あの山に棲んだ鬼女が維茂(これもち)殿に討たれたは只一人と伝え聞きしに、彼女らは元より手下多かり。このゆえに守護目代(しゅごもくだい)より百貫文の褒美銭を懸けられて、彼女らを絡め捕らせんとすれども、誰とて向かう者は無し。斯様の障(さわ)り有るにより、椎茸などは愚かな事で木を切る事も叶い難し」と告げるを衣手は聞きながら、
「我も又、あの山に女盗人(おんなぬすびと)どもが棲む事を聞かぬにはあらねども、さほどの事とは思わざりき。もし良き椎茸、岩茸あれば持て来よかし」と答えれば、横七は心得て暇乞いして帰りけり。
衣手は考えあって、次の日に酒食(しゅしょく)を用意し一村の女どもを呼び集め、
「各々(おのおの)も予ねてぞ知らん。近頃、戸隠山の女盗人らがあちこちの里々を騒がして人を殺し、物を奪う噂は既に隠れ無し。しからば彼女らが我が村へ押し寄せ来んも計り難し。わたしは女子(おなご)なりと云えども、家は代々村長なり。かつ此の村には男子少なく、しかも皆、惰弱(だじゃく)なり。奴等がもし寄せ来るならば絡め捕って公(おおやけ)へ渡さんと思うなり。各々も皆で合図を決め、賊婦らが来ると知れば拍子木(ひょうしぎ)で人を集め、力を合わせて働きたまえ。武具には稲穂を粉なす殻棹(からざお)に増すもの無し。皆、殻棹を用意して、只ひら打ちに打ちたまえ。わたしは先に進んで賊の大将を生け捕るべし」と手に取る如く指し示せば、女どもは一議に及ばず、「我々は愚かなる者なり。とにもかくにもお嬢様の指図に従わん」と皆諸共に答えれば、 衣手は下男、下女に用意の酒食を出させて、上戸(じょうご)には酒を飲ませ、下戸(げこ)には餅を食わせれば、 皆喜んで飲み食いしつつ、おのれおのれの自宅へ帰った。
近頃戸隠山に砦(とりで)を構えて、自ら鬼女と言い触らし、多くの手下を集めた三人の賊婦あり。その第一の頭(かしら)を野干玉(ぬばたまの)黒姫と呼ぶ。これは近き頃、謀反によって滅んだ城の小太郎資盛(すけもり)の家の家来の後家で年は三十五・六なるべし。させる勇力無しと云えども、思慮あって謀(はか)り事を好めり。第二番の頭を越路の今板額(いまはんがく)とあだ名せり。これ又、資盛の縁者で力強く武芸を好む。第三番の頭を戸隠の女鬼(しこめ)と云う。これも近頃滅んだ梶原の残党で力強く心巧みなり。この三人の悪たれ女は身の置き所無きままに戸隠山に立て籠り、多くの手下を集めつつ、異様な扮装して辺りの里を脅し、人を殺し、物を奪って山の砦に蓄えた。
かくて黒姫、今板額、女鬼ら三人の賊婦がある日酒盛りして遊ぶ折に今板額が言うには 「此の頃、我が砦には兵糧が乏しくなりぬ。いずれへなりとも向かって盗り入れんこと肝要ならん」と云うのを女鬼は聞きながら、「しからば川中島で多くの米を借り持て来ん。しばしも猶予すべからず」とはやるを黒姫は押し留め、「川中島へ向かえば、その道の程便(たよ)り良けれど、同じくは黒姫山より近道を越えて、越後の国へおもむくべし。その訳は斯様斯様」と利害を説いて諭(さと)せども、女鬼はしきりにいら立って少しもこれを聞かざりけり。
さて、この下りの問答は第五の巻にて解き明かすべし。
およそ此の度、新版の初編は全て八冊なのを長物語は御退屈と四冊に分けたり。
又、此の次を御覧じて、二編三編、その先の先々までも、 御評判、御評判。
<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>
曲亭馬琴著 歌川豊国画
文政八年(1825年)乙酉(きのととり) 春正月吉日新版
江戸通油町書林鶴屋喜右衛門梓 ▼:改頁
「実相無漏の大海に 五塵六欲の風は吹かずと云えども 随縁真如の波立たぬ時無し」
(能「江口」より)
行脚の僧が京から摂津の天王寺への途中で遊里で有名な江口の里に来て、遊女江口の君の旧跡を弔い、西行法師が昔ここで宿を断られた時に詠んだ歌「世の中を厭うまでこそ難からめ仮の宿りを惜しむ君かな」を口ずさんでいると、そこへ女が現れて、「それは一夜の宿を惜しんだのではなくて、この世も仮の宿であるから、それに執着しないようにと忠告したまでのこと」と弁解し、「実は、私はその江口の君の幽霊です」と言って消えた。その後、旅僧が奇妙な思いで弔っていると、江口の君が他の遊女達と舟に乗って現れて、遊女の境遇を謡ったり、舞を見せたりしていたが、やがて江口の君の姿は普賢菩薩に変わり、舟は白象となり、雲に乗って西の空へ去って行った。
(ここから本文)
世は平安の黄昏頃、鳥羽院の御后(おきさき)の美福門院は容姿麗しく才知の高さは男にも勝った。されば帝(みかど)の御寵愛は比べる者もなく、折に触れて政治(まつりごと)さえ任せれば、位を上げ、司を授ける事、民の訴えを聞き上げる事までも御后への口入れで全て定まるに至り、仕える女官達は自ずから権威を振るい、公卿衆、殿上人をも者の数とせず、我がままに振る舞えば、卑しき者の諺(ことわざ)の「女、賢 (さか)しうして牛売り損なう」と云うに似た事も多かった。
時は永久元年(1113 年)弥生の頃、帝は病気によってしばらく政治を行えず、可及の事を御后の決断に任せる程になり、例え摂政、関白でもその役に男が就くのは憚(はばか)りあると皆その妻がその役に就くにいたった。この頃、山城、大和、河内、和泉、摂津の五畿内に疫病が流行し、名僧らに勅(みことのり)して加持祈祷を尽くさせたが目立つ効果も無く、この事をいかがすべきと詮議が重ねられた。
その詮議の場で関白藤原忠道公の北の方の井手の政所(まんどころ)が進み出て、
「今、この疫病を払うには比叡山、三井寺の名僧でもその効果無く、 二十二社の神々でも霊験無い上は、熊野へ勅使を立て、那智の室長寺(むろおさでら)の住職の無漏海(むろかい)を都へ招き、祈り祓わせれば何か効果があるべき。熊野の山聖女(やまひじりめ)の無漏海は、昔、一条院の御時(980-1011年)に周防(山口県)の国の室積の絶世の美女の長(おさ)だった。書写山(しょしゃさん)の性空(しょうくう)上人が、ある時、夢のお告げによって室積に赴いて、その長に会うと、長は酒をすすめ、 宿をとり、「室積のみたらいに風は吹かねどもささら波立つあら面白や」と歌った。その時、性空上人が目を閉じれば、不思議にも長の姿は普賢菩薩となり、「実相無漏の大海に五塵六欲の風は吹かずと云えども随縁真如の波立たぬ時無し」と聞こえた。そして上人が又、目を開けば長は元の姿となり、歌う事は始めの如く。さすればこの長は普賢菩薩の化身なりと上人は随喜の涙を流して書写山へ帰って行った。その後、長は世を厭って熊野の山へ分け入ったと風の便りに聞き、▼性空上人は急いで都に上り、事の趣(おもむき)をしかじかと申し上げれば、帝は深く感心され、那智の麓に一座の尼寺を建立され、長を開基(かいき)に仰せ付けられ、無漏海仙尼と云う道号を授けしより既に早や百二十余年の時を経れども、無漏海仙尼の容姿はいささかも衰えず、健やかに御座( おわ)すると熊野の者は申すなり。その尼寺を室長寺(しつちょうじ)と号するのは室積の長と云う文字から取らせたと伝え聞いた。このような権化の寺であれば、都へ招き寄せて疫病を払わせれば何か効果があるべき」と故事さえ引き出して申し上げれば、美福門院は感心して「さらば、使いを遣わせ」と立木(たつ き)の局(つぼね)を勅使として熊野の山へ遣わされた。
さる程に立木の局は多くの供人にかしずかれ、次の日に都を出発し、夜に宿り日に歩み、道を急いで熊野の那智の麓の室長寺(むろおさでら)に着けば、当代住職の尼法師は多くの比丘尼 (び くに)を引き連れて鐘を鳴らし香を焚き、山門の外で勅使を迎え、先に立って案内しつつ、客殿に座を設けてもてなした。立木の局は住職に向かい、
「私 わらわが此の度、都より遙々(はるばる)と来た由は后の仰せを受けて無漏海仙尼を迎える為なり。その故(ゆえ)は斯様斯様(かようかよう)」と事情を述べ、「尼聖(あまひじり)は何処におわするか。何故に自ら対面されぬか」といぶかり問えば住職は
「無漏海聖は昔、この山に隠れしより麓へは下りたまわず。元より五穀を絶ち、霞を飲み、露を舐め、或る時は西に在り、又、或る時は東にあれば、この山の中ながらもその住所も定かならぬに后の御使いなりとても、いかで自らここまで出て対面できようや。もし聖に請いて都へ伴わんと思われるなら、ただ一筋に信心して独りで熊野山に登り、尼聖を訪ねたまえ。もし、いささかでも不信心の心を起こされれば、対面は叶うべからず。御慎みこそ肝要なれ」と ねんごろに説けば、局は「実(げ)にも」とうなずき、その夜は一夜断食し、次の日の明け方より只一人で熊野の奥へ分け入らんと虫の垂れ衣(ぎぬ)垂れ込めし、笠よ、杖よと忙わしく野装束(のしょうぞく)に裾壷(すそつぼ)折って勅書(ちょくしょ)の箱を襟(えり)に掛け、おぼつか無くも山路を指して出発すれば、住職の尼は八九人の尼法師を伴って五六町ほど送りつつ、別れる時に又、ねんごろに戒めて、「御局、尼聖に訪ね会わんと思われるなら、おごり高ぶる心を持たず、信心を怠りたまうな。一心真(まこと)にかないたまえば、遠からずして尼聖に目(ま)見えたまうべきに」と返すがえすも戒めて、やがて寺へと帰っていった。
かかりしかば、立木の局は心細くも只一人、右手には▼手香炉(てごうろ)をくゆらせて、左手に水晶の数珠(じゅず)を爪繰(つまぐ)り、口に六字の名号(みょうごう/南無阿弥陀仏)を間無く時無く念じつつ、つづら折りの山路を辿り辿るとわずかに十町余りで早くも疲れて心はしきりにいら立って、
「さても、いかなる報(むく)いでかく辛き目に会うやらん。私(わらわ)が宮中に在りし時は仮初(かりそ)めの物詣でにも車に乗らぬ事は無いのに、云わんや后の御使いとして、はしたなくも只一人で山路を辿るは何事ぞ」と独り言していると、巌(いわお)の裾の熊笹がさやさやさやと鳴ると見えると、牛に等しき大狼がこつぜんと走り出て飛び掛からんとすれば、立木の局は「あっ」と叫んで倒れ込んだ。 その時、その狼は紅(くれない)の舌を長く垂れ、星より輝く眼を怒らせて、しばし局を睨んで前に立ち後に巡り、山彦 (やまびこ)に響くばかりの声すさまじく遠吠えして何処ともなくいなくなった。
立木の局は倒れてからおよそ半刻(はんとき)ばかりでようやく我に返れば、頭をもたげ身を起し、又、手香炉を取り上げて、恐る恐る行く程にいよいよ疲れて立ち休らい、深く住職を恨みつつ、「あの熊野比丘尼めが。あくまで私(わらわ)を欺いて、猛獣の多い山に送りの者をも添えずして、一人使わせし憎さよ。都に帰れば、事の由を聞こえ上げ、遂には思い知らせんものを」と口にくどくど恨みの数々、 呟き呟く折しもあれ、山中にわかに震動し、行く手の松の茂みより大きなうわばみがするするすると這い出して、大波が寄せるが如くに立木の局の頭をのぞんで、呑まんとすれば、局は再び「あっ」と叫んで、生死も知らず倒れてしまった。うわばみは長い紅の舌を出し、局の額を舐め、襟を舐め、しきりに毒気を吹き掛けて何処ともなくいなくなった。
かくて立木の局は倒れる事、一刻ばかりにしてやや人心地は付けども、深く恐れて、これより寺へ帰るか、なおも聖を訪ねるかと思い迷ってたたずむ時に女の童の声で小歌を唄いつつ、▼此方を指して来る者あり。
局は耳をそば立てて、 「・・・・・怪しや。かかる山中に幼き女子(おなご)の声するは狐狸 の業(わざ)なるか」と思えば襟元ぞっとして一歩も進めず。とかくする程に早や向かいの木立の間より、年十一二の女子が草籠を負いながら牛を引きつつ来た。
立木の局はこれを見て「もしもし」と呼び止め、「そなたはこの山の麓におる者か。無漏海聖 は何処におわする。住処を知れば教えなさい」と云うと女子は微笑んで、
「いかでかは知らざらん。わらわはその尼聖に使われる者ぞ。聖が先にわらわに宣うには、この度は疫病を祓(はら)う為に我が身を都へ召されるなり。かかれば急いであの地へ参らん。よく留守をせよ」と宣った。思うに聖は鶴に乗り、既に都へ着きたまいけん。しかれば貴方は今更に庵(いおり)を訪ねてもその甲斐無いものを」と云い捨てて又、牛を追いつつ行き過ぎた。立木の局は女子の答えを聞いて驚き怪しみ、
「・・・・・無漏海聖はいかにして都より召された事を早くも知って既に出発されたのやらん。実にあの聖を普賢菩薩の化身と云うのは空言(そらごと)ならず」と腹の内に思案して、そこより麓へ下りつつ室長寺へ戻れば、住職の尼が出迎えて道の疲れを慰めた。その時、局は山中での出来事を物語り、「かくも恐ろしき深山(みやま)に何故に私(わらわ)を あざむいて独りで彼処へつかわせた。わらわがもし、運命尽きれば例え狼に食われずとも毒蛇の腹に葬(ほうむ)られん。后の仰せはすなわち勅(みことのり)に異ならず、その御使いは取りも直さず、勅使に等しいわらわなるにあなどり欺く不愉快さよ。もし山中で牛飼いの女子に会わねば、留守の庵と知らずして今なお訪ね惑(まど)っていたが、幸いにして斯様斯様の女子に会って、しかじかと云われたにより、そこより帰り来れた」としきりに恨みいきどおれば、住職の尼は聞きながら、
「御局、左様に息巻きたまうな。この山中には獰猛(どうもう)な獣が無きにあらねども、昔より人を害することはなし。しかるに貴方が二度までも危うい目に逢いたまうのは信心のおこたりを聖が懲(こ)らされたなり。 思うにその草刈の女子と見えたのは無漏海聖に疑い無し。あの尼聖は今もなお容姿はいささかも衰えず、或る時は二三十の齢(よわい)と見え、又、ある時は十二三の女子とも見えるなり。かくて貴方にしかじかと告げし事もあれば、神変自在の神通力で都へおもむきたまう事に何の疑いあるべきか」と言葉を尽くして説きさとせば、 局はこれに怒りもとけ、▼勅書をそのまま住職に渡し一両日そこへ逗留した。
かくて立木の局は次の日、住職に案内させて、あちこちの霊場を巡ると経堂の後ろに一宇(いちう)の小堂(しょうどう)あり。戸扉を堅く閉め大きな錠を下ろし、錠の上には幾つともなく封印あれば、立木の局はいぶかってその事の理由を尋ねれば、住職の尼は進み寄り、
「昔、無漏海聖が当山に隠れられた折、万葉集に見えた遊女(うかれめ)、蒲生(がもう)、土師(はじ)、婦(おとめ)、末ノ珠名(すえのたまな)、狭古(さふる)らを始めとして、 世に名だたる美女(傾城)ながらも人の妻にならずして苦界(くがい)の中で果てた者の亡き魂が宙宇(ちゅうう)に迷うのをことごとく封じ込め、一つの塚を築かせた。さればこの塚を傾城塚と呼んだ。もしこの塚をあばいてその幽魂(ゆうこん)を走らせれば、世の中に災いあると深く戒められたにより、当寺の代々の住職の尼法師がこのように閉ざしに封して開く事を許さずに来た」と告げるのを聞いて、立木の局はからからと嘲笑(あざわら)い、
「世に遊び女が若死にして人の妻となれぬのを憎しと思う事あれば、その亡き後を弔(とむら )って成仏させずに、只、いたずらに幽魂を封じる事があるか。これは無漏海の業(わざ)にはあらず、熊野比丘尼が地獄の絵で婆母(ばばかか)どもを脅すに等しく、後の住職の業なるべし。わらわは今、目の当たりにその塚を見たく欲す。さぁさぁ開いて見せたまえ」と云うのを住職は押し止めて、「その事、夢々叶うべからず。御局 、もし疑って傾城塚を開きたまえば、後悔されるべし。この儀は思い止まりたまえ」とひたすらいさめ争えども立木の局は聞かずに、まずその錠を開かせて、進み入りつつ塚を見ると、大きな▼自然石で傾城塚と彫りたるが内側は暗くて定かに見えねば、松明(たいまつ)を振り照らさせてあちこちと良く見ると台石(だいせき)の亀は半身が土に埋もれて、苔むした碑の裏には「遇斧而開(おのにあうてひらく)」という四つの文字が彫ってあった。立木の局はこのような使いに立てられる程あって、男文字(漢字)をもそらんじられた。その四字を読み下して、
「尼達、これをよく見たまえ。斧(おの)に遇(あ)って開くとある。斧を呼んで断(た)つ木と云えば、斧も立木(たつき)もこれ同じ。さればわらわがこの塚を今開くべき事の由を百年余りの昔より無漏海聖はよく知って、しかじかと印された。今、この下を開いて見ん。さぁさぁ用意をしたまえ」と権威につのる女の猿知恵。住職はなおもいさめるのを露ばかりも聞かずに寺男らを呼び集め、遂に石を倒し、台石を取り除かせて掘る事六尺余りにして、石の唐櫃(からひつ)が在れば、さればこそと立木の局は息をも付かせず下知(げち)すると人夫らは斧(よき)・鉞(まさかり)で力を合わせて石の蓋をひたすら打ち、遂に蓋を砕いたが底は暗くて見え分からねば、立木は松明を照らさせてよくよく見んとすると、忽然(こつぜん)と天もくじけ、大地も落ち入る音がして、穴の中より一道(いちどう)の黒雲が陰々と立ち上り、家の棟をも突き破り、中空(なかぞら)に棚引いて、幾筋ともなく光を放って四面八方に飛び去った。まさにこれ、後鳥羽院の御時に白拍子(しらびょうし)の亀菊(かめぎく)を御寵愛(ごちょうあい)されたことにより世の中乱れ、勇婦烈女(ゆうふれつじょ)らが出現すべき兆(きざ し)がここに顕(あらわ)れた。
これにより人夫らは逃げようとして、つまづき転んで、怪我をする者少なからず、ことに尼法師らは気絶した者も多かった。その中で立木の局は人に先立ち、堂内を命辛々(いのちからがら)走り出て、茫然(ぼうぜん)としていたが、面目無いと思ったか次の日、熊野を出発し都を指して帰って行った。
これより先に無漏海の尼聖は神通力で都へおもむき、一人自ら参内(さんだい)し、帝に謁( えっ)したまわり、大内に壇を設けて疫病の神を払えば、いくほども無く五畿内の悪しき病は皆回復し 、万民安堵の思いをなした。かくて無漏海の尼聖は再び鶴に乗って、熊野山へ帰られた。 およそこのくだりまで、物語の発端なり。▼
されば鳥羽院は在位十六年にして位(くらい)を第一の御子(みこ)の崇徳院に譲られ、崇徳院も又、在位十八年にして弟御子の近衛院に譲られ、近衛院は在位十四年にして崩御されれば、この上の御子の後白河院に位を継がせた。それより二條院、六條院、高倉院、高倉の御子 の安徳天皇が西海に沈まれれば、後白河院の御計らいで安徳天皇の弟の後鳥羽院を位に付けられた。この帝は在位十五年で位を第一の御子の土御門院(つちみかどいん)に譲られた後もなお天下の政治(まつりごと)は先例にならわせて、全てが院の御沙汰により、順徳院、九条院の時までは時の帝は在るに甲斐無きありさまだった。
しかるにその頃、都の東山に亀菊と云う白拍子がいた。年は十六ほどにして容姿うるわく、和楽器の技はもちろん香、立花(りっか)、 萬(よろず)の雅の技までも一つとして苦手なく、客を釣り、男を蕩(とろ)かす手練にたけて、およそ都にありとある裕福な家の息子、商人の手代なども皆これに惑わされて家を売り、妻子と別れ、身は落ちぶれて、様々に成り行く者が多ければ、その親、主人は亀菊を憎みつつ、遂に六波羅の決断所へ訴えて、彼女を追う事を願い申せば、六波羅で詮索の後、事皆、亀菊の罪に定まった。かかる優美な女を都の内に在らせれば、風俗の害なりとやがて追放させられた。これによって亀菊は五畿内の内に足を入れる事を叶わず、ささやかな知人を頼りに越後の新潟へおもむいて、縮唐屋(ちりからや)四太郎と云う港芸子の見番宿(けんばんやど)に身を寄せて、ここで三年ばかり暮らす後に都ではゆえあって、大赦が行われれば、亀菊も咎(とが)を許され世の中広くなりにけり。これにより亀菊は都へ帰ろうと、四太郎に頼むと、四太郎も不憫(ふびん)に思って、縮(ちぢみ)商人の夏兵衛という者に頼み、京六条のほとりに四太郎が知る人あれば、その方へ書状を添えて、夏兵衛と共に亀菊を旅立たせ、都へ帰し使わした。
[現代訳]傾城水滸伝
初編ノ二 曲亭馬琴著 歌川国安画
此の頃、都の室町のほとりに小間物屋雛右衛門と云う者あり。越後の出身で若い頃に都に上って、商人の家に奉公した。年頃になった頃、その親方の助けによって、ここらに小間物店を開いてより商いのお得意が多く出来、しかるべき者と成った。かかれば、この雛右衛門と新潟の四太郎は竹馬の友であったので、縮商人夏兵衛も同国のよしみあり 、夏毎に都へ上って縮を売る時に、この雛右衛門の所を宿として四、五か月も逗留した。なれば四太郎はこの便宜(びんぎ)で、この度、亀菊を都へ返すのに、商いの為に都上りする夏兵衛に頼み、雛右衛門に書状を送って亀菊の今後の事を任せて頼んだ。 さる程に亀菊は夏兵衛に伴われて、都の小間物屋に着けば、雛右衛門は対面しつつ心の内に思う様、
「・・・・・この亀菊は昔、都で客をとろかせ、若者共の身上(しんじょう)を幾人となく粉に振るわせた白拍子なのに、斯様な者を我が家に留め置くのは難儀なり。されども我が故郷の四太郎が遙々と頼み寄越した者でもあるし、彼の親には我も恵みを受けた事あれば、さすがに嫌とは云い難し。」と思案をしつつ、いと丁寧にもてなして四五日を経た後に亀菊を招き近づけ、「貴方は我が竹馬の友から頼まれた人なれば、いつまでここに居るとてもいささかも厭(いと)うにあらぬが、見る如くに我が家は萬事に忙しき商人で、とても貴方の立身出世の便宜(よすが)となるべき者にはあらず。六条のほとりの医師深根▼長彦という人は公卿、殿上人に招かれて広く療治をしたまうに、我も年頃、仲疎(うと)からねば、貴方の事を深根氏へ頼みつかわそうと思う。此の儀に従いたまわんや」と問えば亀菊は一議に及ばず、「まこと に不思議の御縁にて、かくまでお世話になる上は何をか否(いな)みはべるべき。ともかくも」と答えれば、 雛右衛門は次の日に長彦へ書状を送り、亀菊に小者を付けて深根の自宅へ遣 つかわした。
かくて長彦がその書状を見ると、 <この女子が宮仕えの有り付きの在るまで、そなたへ留め置かせたまいて手引きしてたまわるべし。衣食の費用はこちらよりともかくもつかまつらん。しかじか>と書いてあるのを繰り返しつつ読み終わり、腹の内に思う様、
「・・・・・この亀菊は音に聞こえた、いと婀娜(あだ)めきた乙女なるに、我が家に留め置けば、年若き弟子どもの身の為に良い事あらじ。詮術(せんすべ)あり」と一人うなずき、やがて返事を書きしたためて、小間物屋の小者を帰し、さて亀菊に対面して、
「そなたは和楽器の技でやん事無き方へ宮仕えを願えば幸いの事あれ。今、坊官で一二を争う法眼(ほうがん)顕清(けんせい)と聞こえるは院の御所に仕えて勢いあるお歴々なり。しかるにあの方は和楽器に技持つ女子を召し抱えんと言われるなり。それがしはこの頃、療治のために度々尋ねることあれば、手引きする事いと易し。しかし、先様の好みは十六ほどの振袖をとかねて注文されるに留袖にてはいかがあるべきか。その他の事は問題あらじ」と云うと亀菊は微笑んで、「年は十九になれども女子はこしらえ様によれり。先様へは十六とも十七とも申したまえ」と云うと長彦は喜んで、次の日、顕清の屋敷へ行って、事良く話せば、目見えの日さえ決められて、亀菊は大島田に振袖の衣(きぬ)を装い、長彦に伴われてその屋敷へ赴いた。
亀菊はその始め、白拍子なれば、俳優(わざおぎ)慣れたその装い。さながら十六の乙女と見えたり。その日は老女が対面し、その芸能を試したが琴、胡弓(こきゅう) 、笙(しょう )、又、舞唄いの今様(いまよう)まで技術を尽くせば、顕清は障子を隔ててこれを聞き、感激し、大いに喜んだ。その後、見参(けんざん)の首尾が整えば、三四日を経て亀菊はその屋敷へ移り住み、元の舞姫らと混って勤めていると早くも主人の心を知って、甲斐甲斐しく立ち振る舞えば、顕清は愛(め)で喜び、要事などを皆、亀菊に云い付けた。
○そもそも後鳥羽院の想い人の尾弘(おひろ)の局(つぼね)は法眼顕清の娘で、その御腹には朝仁(ともひと)親王と申せし男御子が産まれれば、父顕清も娘に付いて自ずから勢いあり。常に親しく院の御所へ参りつかえるに、元より歌を好んで詠み、又、古筆(こひつ)を好めば、世に珍しき物を集めんと思う程に、近頃、紀貫之(きのつらゆき)の自筆の土佐日記、又、躬恒(みつね/歌人)の短冊など多く手に入れれば、ある日、御物語のついでに、「かかるものを得て候え」と誇り顔に申し上げれば、院は聞こし召し、「それはいと珍しき物なり。持参して見せよ」と仰するに、顕清はいたく喜び、やがて自宅に戻りつつ、その次の日に尾弘の局にしかじかと手紙を送り、その古筆を叡覧(えいらん)に供えんとする。この使いには賢い女子ならではと思えば、亀菊を呼んで事の心を得させつつ、その手紙を渡して院の御所へ遣わした。
さる程に亀菊は下部(しもべ)に唐櫃(からひつ)を担(にな)わせて、尾弘の局へ参りしに取り次ぎの女中が立ち出て、「尾弘の局は院に召されて梨局(なしつぼ)におわす。戻られるにはいとしばらくの間があるべし。ゆるやかに待ちよ」と云うのを亀菊は押し返し、「これは私(わたくし)の使いにはべらず、御所様へ参らせたまうしかじかの物をもたらしてはべりにき。願わくばこの事を急ぎ伝えてたまわれかし」とひたすら乞い求めれば、「しからばかしこ へ赴いて、又、取り次ぎを頼むべし。これ持て行きね」と云いながら切手形(きりてがた)の木札一枚を亀菊に渡しつつ、唐櫃を端者(はしたもの)に担わして折戸口まで遣わした。
されば又、後鳥羽の院は文の道を好まれて、御詠み歌が妙(たえ)なるは云うも更なり。又、武芸をも好まれて、その上、種々の遊芸さえ、一つとして捨てたまわず。しかれども女御 、更衣のやん事無き高官をよそよそしくて遠ざけて、怪しの賊(しず)の女なりとも品形 (しなかたち)麗しく一芸に優れし者は御側近くはべらせて、御遊びの伽(とぎ)とさせたまうに、香、立花(生 け花)には興味なし。鞠はことさら良き物なれども女子に鞠を蹴らせるのは無惨なるべしと鞠の遊びに代えて子供が春にする遣羽子(やりはご)は良からめと、ひたすら羽根を突かせたまうに、その法式を立てられて種々の技を尽くされれば、上を学ぶ下々まで遣り羽子の遊びを旨として、その技は都と田舎に流行した。
これはさて置き、亀菊は梨局のほとりに参って取り次ぎを尋ねると、此の時、院は尾弘の局とその他の官女にまじって、遣り羽子の遊びに興されていて取り次ぐ者も無かりけり。さる程に院は瀧子という舞姫が突いたその羽子を胡鬼板(こぎいた)で跳ね返えさんとしたまいしに、亀菊が成り上がる時運がここに至りけん。
その羽子それて築垣(ついがき)の戸の方へひらめき飛んで、折戸の彼方の亀菊の頭の上に落ちかからんとし、亀菊はここぞと右手に持った切手の札持ち、その羽子を丁(ちょう)と受け、舞雲雀(まいひばり)と云う技で二つ三つ四つ突き上げて、程を測って彼方の院に突き返せば、一院の感激は大方ならず、「築垣の▼彼方に在って朕(ちん)がそらした遣り羽子を突き返したのは何者やらん。尋ねてみよ」と仰するに、一人の女官が折戸を開いて亀菊に会釈しつつ、ここへ参りし事の由を尋ねれば、亀菊はうやうや しく「法眼顕清の貫之、躬恒の筆の跡を叡覧(えいらん)に供える為に尾弘の局へ手紙を送ったその品々を捧げまつる使い女(め)
の亀菊と申す者にはべり。先に局へ参れども、梨局の方に居ますとある女房が云うにより、時の遅れる事が惜しくて切手をたまわり、おぼつか無くもここまで推参したれども、折から御遊の最中とおぼしく、いで来たまう人無きによりしばらく待ちてはべりにき」と恐る恐る答えるのを院は遙かに聞いて、「顕清の使いならば、いささかも苦しからず。その者を呼べ」と間近く招き寄せさせ、その容姿を見るに、いとあでやかな雅女(みやびめ)なれば、たちまち愛でさせたまい、 「汝は羽子に技ある者なり。突いて見せよ」と仰するに、亀菊は再び三度 、固辞したが許されず、さのみはかしこかるべしとて、ようやく立ち上がり、飛ぶ馬、蝙蝠(こうもり)、嵐の木の葉、燕返りなどと云う技で秘術を尽くして突けば、院はいよいよ感激され、 「なお、この他にも覚えた芸能ありや」と問われ、「和楽器の技、男舞いは幼きより習いしどもいとつたなくはべり」と申す。「さればまことに要ある者なり。朕に仕えよ」と仰せあって、尾弘の局に預けられ、自宅へは帰されず、その夜も御遊の席に召されて舞い歌った。
堪能の者なれば、御寵愛(ごちょうあい)は大方ならず、御側を離されなかった。
顕清はこんな事とも知らずに、その日亀菊が帰らぬのをいぶかしく思えば、次の日、御所へ参って気色を伺えば、院は笑いながら、「昨日は予ねて約束の珍書を見せられしな。ついてその使いの亀菊とか云う者は芸能ある女子、今より朕に仕えさせよ。まずしばらくは尾弘の局を局親(つぼおや)にするべし。朕は貫之の筆の跡よりあの亀菊こそ得ま欲しけれ」とたわむれて仰せける。顕清はこれを承って、亀菊が御寵愛の者となれば、我が娘の尾弘の為に良い事あらずと心の中にはいと悔しくは思えども、今更に詮方(せんかた)無ければ、「まことに彼女の幸いにて、いとありがたき事にこそ」と御受けを申しつつ、苦笑いして退いた。
かかりしかば、院は幾程も無く亀菊を五節(ごせち)の歌垣(うたがき)と云う司にされて、あまつさえ女武者所(おんなむしゃどころ)の別当(べっとう)を兼ねさせれば、勢いは典待(すけのつぼね)に等しく、果たして尾弘の局を始め、院の御情けを受けし女房達は皆こと如く捨てられて、三千の後宮(こうきゅう)に顔色(がんしょく)絶えて無き如く、亀菊一人に気圧(けお)された。
されば又、中頃より御所の院中には北面(ほくめん)の武士を置かれ、非常を戒(いまし)められしに、後鳥羽の院の時には又、西面の武士を置かせ、国々より武芸力量ある女を召され、▼ 女武者所に置かれ、その女武者らを預かり司る女官を武者所の別当と称せられた。
しかれどもその女武者らは縁故や依怙(えこ)で選ばれし者どもなれば、させる武芸のあらぬ者もその武者所にはべりしが、一人綾梭(あやおさ)と云う女武者のみが十八番の武芸に長けて、 男も及ばぬ力があった。
故(ゆえ)あるかな、綾梭の父は筑井(つくい)兵衛太郎(ひょうえたろう)という関東の武士で武芸の聞こえあるにより都へ召し上げられ西面の武士に成されたが、近き頃に亡くなった。
綾梭は女ながらに父の武芸を受け継いで、優れた技の者なれば、院の御所に仕えて武者所にありしが、久しく病に犯されて故郷へ引き籠もり居れば、亀菊が武者所の別当に成りしを聞きつつ寿を述べるに及ばず。しかし亀菊は綾梭が来て会わぬのをいぶかって、采女(うねめ)らに理由を問うと彼女は久しく病あって、故郷におりと答えれば、亀菊はそれを聞いてあざ笑い、 「彼女は死ぬ程の事はあらぬを引き籠りおるのは私(わらわ)を密かにあなどるらん。よしよしその儀ならば、詮術(せんすべ)あり。打ち捨てて置きね」と云う気色が只ならずと見えれば、采女らは密かに危ぶんで 、人を走らせ、綾梭にかくと告げれば、綾梭も驚いて、止むを得ずに病を押して、亀菊に目見えするが、亀菊はひたすらはしたなく罵って、「そなたの親の筑井の兵衛はさせる武芸も無い者なりしに、鎌倉からの推挙によって西面の武士に成されしすら、なお上も無き御恩なのに、云わんやそなたのはした武芸を親の子と思し召して、 采女に成された身の程をわきまえず、虚病(そらやまい)を申し立て、私(わらわ)を侮る不敵さよ。さぁさぁ六波羅へ引き渡して罪をたださん」と怒るのを朋輩(ほうばい)の采女がこれをいさめつつ、
「君、今こよ無き司に成されて、事に目出度き事の始めに人を罪ないたまわんはよろしき性とも覚えず。願わくば、綾梭の罪を許したまえ」と代わる代わるに詫れば、亀菊もようやく怒りを納めて、「しからば此の度は許さん。この後もなお不備あれば許すまじ」と云う時に綾梭は初めて頭をもたげて、その面を見ると、あに図らんや、我を支配の別当になった女官は前に父兵衛とともに六波羅に在りし時、よそながら見知った白拍子の亀菊なれば大きに驚いた。
やがて自宅へ帰り、母にしかじかと告げ、「あの亀菊は白拍子の頃に多くの人を害したのに、云わんや今は一院の御寵愛を受ければ、彼女が憎いと思う者の安穏は余もあらじ。かかれば私(わらわ)は彼女の為に遂には無実の罪を得ん。こはいかにすべき」と嘆けば、母親は聞きつつ驚いて、「しかる時はうかうかと都にいるのはいと危うし。三十六の計り事も逃げるを良しとす」と云えば親子は密かに▼他国に逃げようと思えども、「我が身は脚気(かっけ)の持 病あり道一里とも行く事叶わず。情けない老いの身にこそ」と云い掛けて涙ぐめば、綾梭はこれを慰めて、
「そう思われるならば、私(わらわ)、密かに妙案あり。斯様斯様」と囁けば、母親はしきりにうなずいて雑談時を移しけり。
かくて又、綾梭はその夕暮れに借馬(しゃくば)引きの鞍八(くらはち)を招き寄せ、
「我が母には脚気(かっけ)の持病あり。私(わらわ)も又、先頃より久しく病に犯されて、ようやくに回復したのを石山寺の観世音へ予ねて掛けた願解(がんほど)きに、母諸共に明日、参らんと思うなり。しかれども我が母は駕籠(かご)乗り物を嫌えば、馬にでも乗せて行くより他なし。口取りの男はこちらにあり。良い馬あれば明日一日、貸してたび」とこしらえれば、鞍八はその意を得て、
「幸いに良い馬あり。駆けには向かねども、鞍の上は静かにして遠乗りには極めて良し。値段五両で売ろうと思えど、売りかねて飼い置いていた。今宵より貸すべし」と答えて自宅に立ち返り、夕暮れにその馬を引きつつ貸せば、綾梭は深く喜んで、次の日の朝未明に母親を馬に乗せて、下部の留守介(るすすけ)と云う者に馬の口を取らせつつ、石山寺を指して三里ばかり行きし時、馬の口取りの下部留守介を呼び止めて、
「あな、いかにせん。忘れた事こそあれ。今朝、物に取りまぎれ、石山寺へまいらせる布施物を持て来ざりき。そなたはここより引き返し、布施物を取って来よ。それはしかじかの所にあり。われら親子は今宵、御堂で通夜すれば、そなたは急いで来るにも及ばず。今宵は自宅で休息して、明日は努めて迎えに来よ。来んとする時に、これを借馬の鞍八に確かに届けよ」と云い付けて、固く封した文箱を渡せば、留守介は心を得て、そこより自宅に立ち帰り、さて云 われた所はもちろん、あちこち探せども布施物とおぼしき物は無し。又、翌朝も残る隈無く探せども、それかと思う物も無ければ、詮方尽きて、そのまま石山寺へ迎えに行きしも綾梭親子は御堂におらず、心いよいよ疑い迷って、堂守 (どうもり)を尋ねると、「通夜せし者はあらず」と答える。
これにより留守介はむなしく国へ帰るが三条の橋詰めにて鞍八に行き会った。その時、鞍八は留守介を呼び止めて、
「心得難き事があり。借馬の賃は一日に五百文と定めたが、今朝渡された文箱を開いて見ると中には黄金五両あり。馬の値段と記されたり。しからば昨日貸した馬を買い切りにするとの事か。いぶかしき事限り無ければ、参って尋ね申さんと、今立ちいでし所なり。その訳を知らずや」と問われて▼留守介は眉をひそめ、「それには思い当たる事あり。その故(ゆえ)は斯様斯様」と、綾梭親子が石山寺に参らざりし事のおもむきの始め終わりを話して、「察するに、おらが旦那は親子密かに示し合わせて逃亡したならん。ばかばかしや」と囁けば、鞍八も驚き呆れて、その日は留守介と諸共にあちこちを訪ね巡りしが絶えて行方が知れざれば、止む事を得ず、留守介は或る人に頼んで、その事を女武者所へ報告し、鞍八は又、六波羅の決断所へ訴えた。
さる程に、亀菊は綾梭が母諸共に逃亡した事を聞き、いよいよ憎み憤り、にわかに院の仰せと称して六波羅へ下知(げち)を伝え、「綾梭親子を召し捕って参らすべし」と催促した。これにより六波羅の決断所では伊賀の判官光季(みつすえ)が手下を四方へ走らせて、綾梭を追わせども既に三日を経ていれば、行方は絶えて知れざりけり。この故(ゆえ)、光季は留守介、鞍八を呼び寄せて、なお詮索をすれども彼らが知る事なければ、詮方無くて止めにけり。
この時に世を厭(いと)うある物知りが囁いたのは
「昔、鳥羽の院の御時に美福門院の御沙汰として賞罰に僻事(ひがごと)多かり。さるにより、後、遂に保元(ほうげん)の戦(いくさ )起こって崇徳院は流された。今は又、亀菊が院の御寵愛を受け、御政治に僻事多 し。しかのみならず、鎌倉では頼朝(よりとも)の後家政子が武家の賞罰を執り行って、尼将軍と称せられる。されど京も鎌倉も萬(よろず)に女の沙汰により、世の中の勇婦賢妻(ゆうふけんさい)が無実の罪に身を置きかねて、世をいきどおる者あるべし。これしかしながら、その昔、立木の局があやまって傾城塚(けいせいづか)を開いた祟りならん」と云うとぞ。(留守介、鞍八らの事はこの後に物語り無し)
○さる程に綾梭は髻(たぶさ)を切り、姿をやつして、母を乗せた馬を追い、信濃路へ走りつつ小道、枝道、そこはかとなく山又山に旅寝を重ねて、信濃の国の水内(みのうち)郡戸隠山 (とがくしやま)の麓をよぎる時、日が暮れようとするに思わず宿を取り遅れ、あちこちと尋ねると道のほとり一町ばかり引き入れた木立の元に一構(かま)えの冠木門(かぶきもん)が見えれば、ようやくにたどり着いて、一夜の宿を求めると、主人は六十路ばかりの翁(おきな)で情けある者なれば、こころよく引き受けて、綾梭親子を風呂に入れ、夜食をすすめ、馬にも馬草を飼わせなどしてねんごろにもてなせば、綾梭親子は情けを感じて寝所に入って眠りについた。
その翌朝、主人の▼翁は日も昇ったのに旅の女がまだ起きねば、屏風のこなたより咳払いして、「いかに人々、起きたまわずや。早や夜は明けて候」と云う声聞いて綾梭は忙わしく走り出て、「 私(わらわ)はとっくに起きしが、旅の疲れにか、母が暁(あかつき)より痞(つかえ)起こって苦しめり」と云うと主人は驚いて、
「それはいと難儀(なんぎ)におわす。幸いに我が家に癪(しゃく)、痞(つか)えの妙薬あり。用いたたまえ」と云いつつ、やがてその薬を煎じて、しきりに勧めいたわって、「旅にて病むのは便(びん)無きものなり。いつまでも逗留して静かに保養したまえ」と云い慰める人の情けに綾梭親子は深く感じて、しばらくここに足を留め、保養し、およそ十日ばかりにして母の病は癒えた。
これにより綾梭は明日には予ねてよりこころざす方へ発たんと、泥に汚れた脚絆(きゃはん)を洗えばやと思いつつ、背戸の方に出て見れば方辺(かたへ)の空地で年十七八と見える女子が男めいた装(よそお)いして、木太刀(こたち)を使って独りで武芸の稽古をしていた。綾梭はしばしそれを見て、「・・・太刀筋は器用なれどもまさかの用には立ち難し」と独り言した声が漏れ、その女子は見返って、「女、何をか云う。 私(わらわ)の技をつたな しと思われれば、いざ立ち寄って勝負を決せよ。ここへ来ずや」と息巻く声を主人の翁が聞き付けて、忙わしく走り寄り、
「女中よ。心に掛けたまうな。彼女は我の娘だが生まれつきの性(さが)にやあらん。糸繰り、機(はた)織る事をせず、幼無きより武芸を好んで、男魂あるに似たり。母はそれを苦に病んで、一昨年の秋に亡くなった。されども、それがしは彼女がまにまに止めもせず、三人の師匠を取らせて、武芸を習わせたり。女中も定めて武の技に心掛けありと見える。彼女の望みなれば、打ち殺したまうとも苦しからず、一太刀当ててたまいね」と請い求めると綾梭は三度辞するも許されねば、「しからば是非に及び難し。お相手になりはべらん。無礼は許したまえ」と会釈をすれば、その娘は「云うにや及ぶ」と勢い猛(たけ)く、そのまま家に走り戻って、壁に掛けた薙刀(なぎなた)と木太刀を取って走り出て、「長き短き、いずれなりとも選び取られよ」と云うと綾梭は微笑んで、「 私(わらわ )は打ち物に嫌い無し。御身(おんみ)がまず取りたまえ」と譲ると怯(ひる)まず、娘は樫(かし)の木で作った薙刀を取って水車の如く回しつつ、隙を計って駆けんとするのを綾梭は木太刀でたちまち丁と払い除け付け入って、一打ちに打つならば打ち倒せれども、身を痛めずして勝ちを取らんと思えば、あしらって二足三足と後ずさり、その娘は踏み込んで再び駆けんとする所を綾梭がすかさず跳ね返せば、娘が持った薙刀は遙か後ろへ消し飛んで、その身も共に横ざまにはたと転んで伏しければ、綾梭は木太刀を捨てて走り寄り、「痛みはせずや。怪我はせずや。許したまえ」と会釈をすれば、その娘は膝立て直し、「私(わらわ)はまなこありながら、人をも知らず身をもはからず、こよ無き無礼をしはべりぬ。許させたまえ」 と額突(ぬかつ)いて身のあやまちを詫わびた。
父の翁は感じ、且つ喜んで、綾梭に向い、
「それがしは家代々が村長(むらおさ)を承って陸見庄内(くがみしょうない)と呼ばれる者なり。又此の所の里の名を女郎花村(おみなえしむら)と呼び、いかなる故(ゆえ)か知らねどもいにしえよりこの村には男子(おのこ)少なく女子(おな ご)多し。又、北隣りの一里を鬼無里村(きなさむら)と呼び、そこには男子多くして女子は極めて少ない。これをもて昔よりあの村と我が里人と婚縁を結ぶなり。それがしは幸なくて、只この娘一人を持てり。早や年頃なれば婿を取らんと思えども、只今見そなわせる如くに女子に似合わず武芸を好んで、人の妻となる事を願わず。人も又、その猛(たけ)きに恐れて婿にならんと云う者無ければ、事整わず時過ぎたり。又、我が娘は物毎に環龍(たまりゅう)の模様を好んで、衣(きぬ)にも帯にも龍の縫い物のある物を着れば、里人らは浮潜龍衣手(ふせんりゅうころもで)とあだ名を呼んで候。思うに君は世の常の婦人にはあらず、願わくば実を明かして、なおこの所に逗留し、娘に武芸を教えたまえば、この上も無き幸いなり。やよ、衣手。今日よりしてこの方様を教えの親と頼み申せ」と云うと衣手は喜んで綾梭を伏し拝み、師弟の契(ちぎ)りを請い願えば、綾梭も否むに由無く主人親子に向かって、
「今は何をか隠しはべらん。私(わらわ)は西面の武士の筑井兵衛太郎の娘で綾梭と云う者なり。父の兵衛太郎が亡くなりし頃、家を継ぐべき男子無く私(わらわ)を女武者所に置かせたが斯様斯様の事により▼亀菊に憎まれて災い此の身に迫れば、止む事を得ず、母を伴ない父方の縁(ゆかり)ある武田殿に身を寄せる為にわざと小道を巡って、宿取り遅れし夕暮れに恵みを受けたのみならず、思い掛け無き母の病を保養させ、遂に快癒した事、大方ならぬ情けによれり。かくまでの恩返しに私(わらわ)が覚えた技の限りは御息女に指南せん。衣手殿がこの年頃に習いし太刀筋は華やかなるを旨(むね)とせしのみでまさかの用には立ち難し。今少し習いたまえば、妙所に至るべし」と云うと親子は益々喜び、庄内は娘の為にその日酒宴を開いて綾梭親子をもてなしつつ、師弟の契を結ばせた。
さる程に綾梭は父の兵衛が伝えた十八般の武芸の秘術を日毎に衣手に教えれば、およそ半年余りにして衣手の武芸は上達し、あなどり難くなりにけり。かかりしかば綾梭はある日、衣手親子に向かって日頃の待遇を喜び伝え、
「今は早や、衣手殿の技術も上達すれば、いささかも欠けたる事無し。かかれば予ねて云う如く、明日には袂(たもと)を分かって初めよりこころざす武田殿へおもむくべし」と云うと親子は理(わり)無く止めて、
「願わくば、此の所で一期を過ごしたまえ。させるもてなし有らずと云うとも、ともかくもして御二方を養い参らせん」と云うを綾梭は聞いて、「さればとよ、我らは惜しくはべれども、とても留まる身にあらねば、明日は努めて出発せん。 落ち着いて後に、文で安否を問うべきに。自ら愛したまいね」とねんごろに別れを告げて、留まる気色が無ければ、衣手は仕方なく父と図って餞別に砂金二十両を贈りけり。その翌朝、綾梭は月ごろ馬屋に飼い置かれた我が馬を引き出して母親を乗せ、庄内と衣手に暇乞(いとまご)いして出発すれば、衣手は道の程、一里ばかり送りつつ、涙を流して別れけり。(綾梭の事、この後に物語り無し)
○かくて今年もはかなく暮れて師走の初めに父の庄内は風邪で臥し、医療の甲斐なく遂に亡くなれば、衣手は嘆きつつ、亡骸を野辺送りしてねんごろに弔った。しかれどもこの時まで決まった婿が無いにより、家に久しき手代の螻蛄平(けらへい)を仮に庄役代として工作の事を司どらせ、衣手はなお綾梭に教えられた武芸のみを折々に復しつつ為す事も無く月日を送ると、春経て夏は過ぎ、秋七月の頃になった。残る暑さが耐え難ければ、衣手は門のほとりに竹の腰掛けを置き、尻掛けて只一人、そよ吹く風を待つ折に、表の方よりきょろきょろと厨(くりや)のほとりを覗く者あり。衣手は一早く気がついて、「そは何者ぞ」と咎(とが)めれば、その者は急に見返って、「否(いな)、横七にて候」と云いつつ近づくのをよくよく見れば時々来る木樵(きこり)の横七なり。衣手はあざ笑って、「あな、黄昏に何事ぞ。きょろきょろ、そこらを覗くは私(わらわ)の足元を見る為か」と云われて横七は頭をかき、「否(いな)、何事も候(そうら)わず。ここの男衆の鋤蔵(すきぞう)を誘い出して一杯飲まんと思い、来た事は来たけれども、あなたがそこに居たまえば呼びかねて隠れたのみ」と云うと衣手は気色をやわらげ、
「そはそれにてもあるべきが、そなたは夏毎に猪茸(ししたけ)、岩茸(いわたけ)、椎茸(しいたけ)などを折々持て来て売りしが、今年は何故に持て来ぬぞ」と問われて横七は
「さればとよ。近頃、戸隠山(とがくしやま)に三人の鬼女(きじょ)が棲み、夜な夜な近い里に出て、人を殺し財(たから)を奪う。その強き事は大方ならず、昔あの山に棲んだ鬼女が維茂(これもち)殿に討たれたは只一人と伝え聞きしに、彼女らは元より手下多かり。このゆえに守護目代(しゅごもくだい)より百貫文の褒美銭を懸けられて、彼女らを絡め捕らせんとすれども、誰とて向かう者は無し。斯様の障(さわ)り有るにより、椎茸などは愚かな事で木を切る事も叶い難し」と告げるを衣手は聞きながら、
「我も又、あの山に女盗人(おんなぬすびと)どもが棲む事を聞かぬにはあらねども、さほどの事とは思わざりき。もし良き椎茸、岩茸あれば持て来よかし」と答えれば、横七は心得て暇乞いして帰りけり。
衣手は考えあって、次の日に酒食(しゅしょく)を用意し一村の女どもを呼び集め、
「各々(おのおの)も予ねてぞ知らん。近頃、戸隠山の女盗人らがあちこちの里々を騒がして人を殺し、物を奪う噂は既に隠れ無し。しからば彼女らが我が村へ押し寄せ来んも計り難し。わたしは女子(おなご)なりと云えども、家は代々村長なり。かつ此の村には男子少なく、しかも皆、惰弱(だじゃく)なり。奴等がもし寄せ来るならば絡め捕って公(おおやけ)へ渡さんと思うなり。各々も皆で合図を決め、賊婦らが来ると知れば拍子木(ひょうしぎ)で人を集め、力を合わせて働きたまえ。武具には稲穂を粉なす殻棹(からざお)に増すもの無し。皆、殻棹を用意して、只ひら打ちに打ちたまえ。わたしは先に進んで賊の大将を生け捕るべし」と手に取る如く指し示せば、女どもは一議に及ばず、「我々は愚かなる者なり。とにもかくにもお嬢様の指図に従わん」と皆諸共に答えれば、 衣手は下男、下女に用意の酒食を出させて、上戸(じょうご)には酒を飲ませ、下戸(げこ)には餅を食わせれば、 皆喜んで飲み食いしつつ、おのれおのれの自宅へ帰った。
近頃戸隠山に砦(とりで)を構えて、自ら鬼女と言い触らし、多くの手下を集めた三人の賊婦あり。その第一の頭(かしら)を野干玉(ぬばたまの)黒姫と呼ぶ。これは近き頃、謀反によって滅んだ城の小太郎資盛(すけもり)の家の家来の後家で年は三十五・六なるべし。させる勇力無しと云えども、思慮あって謀(はか)り事を好めり。第二番の頭を越路の今板額(いまはんがく)とあだ名せり。これ又、資盛の縁者で力強く武芸を好む。第三番の頭を戸隠の女鬼(しこめ)と云う。これも近頃滅んだ梶原の残党で力強く心巧みなり。この三人の悪たれ女は身の置き所無きままに戸隠山に立て籠り、多くの手下を集めつつ、異様な扮装して辺りの里を脅し、人を殺し、物を奪って山の砦に蓄えた。
かくて黒姫、今板額、女鬼ら三人の賊婦がある日酒盛りして遊ぶ折に今板額が言うには 「此の頃、我が砦には兵糧が乏しくなりぬ。いずれへなりとも向かって盗り入れんこと肝要ならん」と云うのを女鬼は聞きながら、「しからば川中島で多くの米を借り持て来ん。しばしも猶予すべからず」とはやるを黒姫は押し留め、「川中島へ向かえば、その道の程便(たよ)り良けれど、同じくは黒姫山より近道を越えて、越後の国へおもむくべし。その訳は斯様斯様」と利害を説いて諭(さと)せども、女鬼はしきりにいら立って少しもこれを聞かざりけり。
さて、この下りの問答は第五の巻にて解き明かすべし。
およそ此の度、新版の初編は全て八冊なのを長物語は御退屈と四冊に分けたり。
又、此の次を御覧じて、二編三編、その先の先々までも、 御評判、御評判。
<翻刻、校訂、現代訳:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>