わかとびの八戒(はっかい)羽悟了(うごりょう)は既に浄蔵を師と仰ぎ、渡天の供を願えば、されば剃髪すべしと浄蔵は迦毘羅坊に言いつけて、その頭髪を剃り落とさせ、岩裂を兄弟子として羽八戒を弟弟子とす。その時、岩裂は□□太郎官に向かって、
「それがしが伝え聞くに、和殿がこの八戒を婿にせしより彼の働きによってかくまで豊かになりたるにあらずや。しからば忌み嫌うことなく、この家を継がせるとも怪しむべき事にはあらず。されども彼が異類の故をもて親子が等しく忌み嫌う八戒は既に出家して我が師の旅路に従えば再会は図り難し。かかれば夫婦の重縁もここに断絶するものなり。せめてもの報いには袈裟衣、頭巾(ときん)、懐刀、頭陀袋、衣服、足袋、ごりの類まで彼の為に整えて餞(はなむけ)にしたまえかし」と言うと太郎官は一義に及ばず、にわかに羽悟了の旅装束を整えつつ、皆具(かいぐ)揃えて送りけり。その時、岩裂は羽八戒に向かって
「賢弟(けんてい)、法師になれば妻子に絆(ほだ)さるべきにあらねど、人の心を休むる為なり。暇の状を書きしたためて芙蓉に取らせたまえかし」と言うと八戒は否むに由なく三下り半は定まりの文句の文言、名印を据えた去り状書いて渡せば、太郎官夫婦は更なり芙蓉も深く岩裂の恩を感じて喜びの気色は表に表れけり。
かくて主の太郎官は浄蔵師弟三人を様々にもてなして、沙金をおのおの二百両、金襴おのおの五巻を布施として浄蔵、岩裂に贈りしが岩裂はあざ笑い、その布施をよくも見ずに浄蔵はこれを押し返し
「我々は是▲出家の事なり。金銀美服も何にせん。いわんや遙けき旅の空に何物を携うべき。志はさる事ながら、いささかたりとも受け難し」と固くいろひて取らざりしを太郎官は言葉を尽くしてしばしば進めて止まぬので、浄蔵法師はこうじ果てて岩裂と談合し、太郎官の下部はじ六を招き寄せ、その沙金と巻絹を指し示して、さて言う様
「我らは思いがけなく八戒という徒弟(でし)を得て、道の助けとすることは元これ観世音菩薩の御計らいと聞くものながら、道で和殿に出会ってここへ導(しるべ)をされたその功徳もまた莫大なり。よってこの沙金と巻絹をことごとく取らせるなり。必ず否む事なかれ」と遂に主に別れを告げて、その明けの朝立ちに馬に乗りいでたまえば、八戒は太郎官親子の者に暇乞いして、
「先には師兄(あにき)が言うに任して去り状を書いたれど世に和尚の隠し妻もそのためし多くあり。今行く道は十万余り八千里の長旅なれば師匠が道にて死なれるか或いは旅に飽き果てて中途より引き返せば、また来て芙蓉と一つになるべし。しばしの別れを悲しんできなきな(くよくよ)思いたまうな」と言うのを岩裂が打ち消して、「さのみは阿呆をつくなせそ。さぁさぁ荷物を担がずや」と叱り懲らして師の坊の馬を追い行けば、八戒は我が熊手に全ての梱(こり)を引き掛けて遅れじとてぞ従いける。されば主太郎官は名残を惜しみ□をしたひて村境まで送りつつ涙を注いで別れけり。
□かくて浄蔵法師は太郎官に別れてからしきりに馬を進めつつ、岩裂を見返って
「迦毘羅は何と思うやらん。我は去年両界山のあなたなる和こくの庄に宿を求めていさ部の綾彦が日の本を慕えることをよく知れり。そも殊勝なる事ながら彼処は唐とだったんの境なればなお近かり。それより万里の道を隔てたここにもサイヤアハン州あり。人物風俗大方ならず日本風に倣(なら)う事、いよいよ奇なりと言いつべし。これを見、かれを思うも我が日の本は万国に優れていとも尊きことと仰ぐべし仰ぐべし」としきりに感心すば、岩裂しばしうなずき「真にさなり」と答えけり。その時、八戒が走り着き、
「これより行く手の霊山(りょうさん)に烏巣(うそう)禅師という名僧あり。それがしは元より相知れり。立ち寄らせたまわずや」と言うと浄蔵はうなずいて、その柴の戸を叩かせて烏巣禅師に対面しつつ西天へ行く旅路の吉凶を尋ねると禅師は頭を振って西天へは行き難し、思いとどまりたまえかしと言われて浄蔵は驚き、「しからば、難行苦行をなすとても行き着くことが叶わずや」と問うと禅師は微笑んで、
「否、行き難きにはあらず、道に魔性の物が多かり。この故に行き難きのみ。貧僧(ひんそう)年頃読誦(どくじゅ)する般若波羅蜜多心経あり。この御経を読む者は一切の災いを逃れずと言うことなし。どれどれ授け参らせん」と読むこと全て五遍(ごへん)にして浄蔵よく記憶せり。今の心経はすなわち是なり。かくてまた禅師は後の吉凶を偈(げ)につくって示すと、その中に多年老石卵(ろうせきらん)木鳶(もくえん)踪歩長(そうほながし)と▲いう二句あり。岩裂はこれを聞いて怒れること甚(はなは)だしく、金箍の棒を引き出して禅師を打とうとする時に禅師は雲に飛び乗って早中空に登りしを岩裂はなお逃さじと続いて追わんとすれば、浄蔵、八戒が押しとどめ、まずその故を尋ねると岩裂は声を振り立て、
「只今、烏巣が唱えた偈句(げく)に多年老石卵(たねんろうせきらん)という句あり。これは我らをそしるなり。また木鳶(もくえん)しかじかという句もあり。これは八戒を笑うなり。奴はいかばかりの徳あって我らをかくもあざけるや。懲らして腹をいん。そこ退きたまえ」と息巻くを浄蔵はいたく戒めて、
「禅師が今我々の後来(こうらい)を戒むるに偈をもって示されたを怒るは要なき事ぞかし。思い捨てて行かずや」と理(ことわり)責めた師の坊の言葉に岩裂は怒りを収めて、三人は庵を立ちいでて、西を指してぞ急ぎける。
○かくて又幾十許(いくそばく)かその月を重ねて行くこといよいよ遙かなる浄蔵師弟三人はある日またいと険しき高嶺の麓に来た時に、一人の木こりに会えば浄蔵はこれを呼びとめ、山路の案内を尋ね問うとその人は答えて、
「この高嶺は黄風山(おうふうさん)と呼ぶいと恐ろしき魔所になん。さるによりこの山に魔王あり。折々いたく風を起こして木を抜き石を転ばす事すさまじなんど言うはかりなし。まいてその風が人の身に当たる時は腕とも言わず脛(すね)とも言わず刃をもって斬られるごとくに破れ裂け、死する者多かり。この故にこの辺りには人が住むことなく、我らも山へは入らずに麓を限りに稼ぐのみ。よくよく用心したまえ」と言い捨てて早行き過ぎける。八戒はこれを聞いて、「さる恐ろしき風の吹く山路ならば越えぬがよし。恐(こわ)や恐や」とつぶやくを浄蔵法師は見返って、「八戒、さのみ恐れる事か。この山を越えずして余所に行くべき道はなし」と言うと岩裂はうなずいて、「師の仰せこそ理なれ。我が山踏みをすべけれ」と先に立ちつつよじ登る山はことさら険しくて、吹く風肌を切る如く、面(おもて)を向くべき様もなければ浄蔵法師は馬より下り立ち、八戒は鼻面を襟に差し入れ進み得ず、岩裂も眉をひそめて、
「この風は是世の常の谷より起こる物にあらず。また虎などが起こすにもあらず。真に由々しき魔風にこそ」と言う言葉が未だ終わらず、現れ来る一手の妖兵。先に進むは大将と問わでも知るべきその出で立ちは荒れた夜叉に異ならず、道を塞いで声を振り立て、
「ここへ来るのは何やつぞ。この山の主の黄風王の股肱(ここう)腹心(ふくしん)と呼ばれた巡官(じゅんかん)ももんぐわと呼ばれるは我なり。名乗れ、聞かん」と呼びはったり。その時、岩裂が進み出て、
「汝、知らばや。我が師の坊は日本国の生き菩薩、浄蔵法師におわします。先に帝の勅に従い天竺象頭山へ赴いて金毘羅神を迎えたまえば、今日この山を過ぎるに導(しるべ)をせずや」と言わせもあえず、ももんぐわはあざ笑い「日本国の坊主でも梵天国(ぼんでんこく)の所化(しょけ)でも我が眼にかかっては引きずり帰って大王の御下知に任すべし。あれ生け捕れ」と息巻く指図に従うその手の妖怪は承るといらえも果てず得物得物を引き下げて群立ちかかるを羽八戒が熊手を持って押し隔て、多勢を相手に戦うたり。その隙に岩裂はももんがに渡り合いしきりに挑み戦う▲勇武自在(ゆうぶじざい)の棒の手に叶うべくもあらざれば、ももんがは辟易(へきえき)して一足いだして逃げ走るをなお逃さじと追う程にたちまち行方を見失って、そこかここかと尋ねれば一群茂き茅(ちがや)の内にももんぐわは隠れており、岩裂は早くこれを見て抜き足しつつ近づいて棒取りのべてはたと打つと例えば張り子を叩くが如く手応えもなくへたばりたる。かかる所に羽八戒は妖卒どもを討ち散らして熊手をひ下げて走り来て、此の有様に喜び勇んで「師兄、しとめたまいしか。手柄手柄」と誉めたてれば岩裂(あにでし)は後辺を見返って、「手柄どころかこれを見よ。これは真のももんぐわならず、彼奴は金蝉脱売(きんせんだつこく)の謀り事を用いしなり。よく見よかし」と言いつつもその骸(むくろ)を引き起こせばももんぐわにはあらずして、得知らぬ獣の顔なりけり。岩裂はいたく後悔して、
「我々が長追いせし故に彼奴は脱売の手立てをもて遠くここらへおびき寄せ、その身は元の所へ至りて我が師の坊を虜(とりこ)にせん。八戒、続け」と一足出して元来し道へ馳せ帰れば羽悟了の八戒も驚き慌てて踵(きびす)を巡らし、遅れじとてぞ走りける。
○かかりし程にももんぐわは金蝉脱売の謀り事をもて岩裂を出し抜いて元の所へ立ち返り、一心不乱に心経を素読じゅする浄蔵法師をかい掴み小脇にしかと引きかかえ、黄風洞に走り帰って風魔王に告げる様、
「それがし今日山中を巡行して候しが日本国より行脚の名僧浄蔵法師の師弟三人が山を越えるに出会って斯様斯様に計らいて浄蔵法師を絡め取り御覧に供え奉る。▲とく料(りょう)らして御酒宴の肴に仰せ付けられよ」としたり顔にぞ述べにける。黄風大王は聞いて
「その浄蔵と言う奴は四世再来(しせさいらい)の名僧なれば最も得難き肴なり。賞翫すべきものなれどもその弟子に岩裂の迦毘羅坊、八戒坊羽悟了とて神通不思議の曲者ありと世の風聞に伝え聞いたり。さるを今早まってこの浄蔵をうち食らわば、岩裂、八戒が深く恨んで我がこの洞を騒がすべし。かかればまず岩裂と八戒をうち捕って後ろ安くして後にその名僧を賞翫せん。しか心得よ」と説き示せば、ももんぐわは感心して、
「仰せは真にその理あり。しからばこの法師を岩室の内に繋ぎ置き、またあの二人の弟子どもを生け捕って諸共に料らせたまわばあきたりなん。手の者を少し貸したまえ。それがし再び向かうべし」と言えば魔王は頭を打ち振り、「岩裂は好敵なり。そぞろに逸りて過ちすな」ととどめて許さざりければ、ももんぐわは苛立(いらだ)って
「大王、などて臆したまうぞ。それがしがもし岩裂に負けて手を虚しくして帰れば、我が頭を召さるべし。いでいで」と言い掛けて屈強な妖怪を一百あまり従えて再び山路にたち出たり。
さる程に岩裂は八戒と諸共に元の所へ帰って見るに、馬と旅荷物はありながら浄蔵法師が見えざれば足ずりしつつ嘆いて、□は我が師は捕られたまいぬ。いざや尋ねて取り戻さんと用意とりどりなる折から早くも来るももんぐわは多勢をもって取り巻いて絡め捕らんと競ってかかるを物々しやと岩裂は例の金棒うち振って、うち倒しうち倒しまたたく間に妖怪どもを残り少なにうち殺せば、ももんぐわは驚き恐れてたちまち逃げ失せしが恥じて洞へは帰り得ず、麓の方に身を潜まして深く隠れていたりける。
○岩裂は再びまでももんぐわを討ち漏らして憤ること大方ならず、元の所には羽八戒を残し置いて、馬と荷物を守らせて一人進んで高嶺の黄風洞に押し寄せて、門うち叩き声高やかに
「黄風悪魔は何処におる。早く我が師を送り返せ。異議に及べば門戸を破って皆殺しにせん。いかにぞや、さぁさぁ返さずや」と呼び張ったり。さる程に風魔王はももんぐわが討ち負けて、手の者を多く討たせし由を伝え聞いて驚き怒り、「さらば自ら討って出て、岩裂めを生け捕るべし。用意をせよ」と急がす折から岩裂は既に押し寄せたりとの知らせに▲騒がぬ風魔王は手の者数多従えて門開かせてゆるぎ出て、
「やおれ、岩裂の迦毘羅坊。我は汝の師を捕らえたりとも未だ殺さで置きたるに虚実も問わず押し寄せ来るは物を知らざる痴れ者なり。その義ならば思い知らせん、観念せよ」と罵って、かたがまの鉾(ほこ)をうち振りうち振り、突き倒さんと競いかかるを岩裂は得たりと棒取りなおして挑み戦うこと半刻(はんとき)ばかり。勝負も果てしなかりしかば岩裂は身の内の毛を引き抜いて吹きかけるとその毛はたちまち数多の岩裂と変じつつ風魔王に討ってかかるを魔王は騒ぐ気色なく口に秘文を唱えれば、にわかに起こる疾(はや)ち風、木を抜き倒し石を飛ばすその風は鋭きこと刃をもって切る如くに岩裂が作り出せし影武者の大勢はこの大風に吹き散らされて今は真の岩裂さえも吹き殺されるべくおぼえしかば、心ならずも逃げ走り麓を指してぞ退きけり。かかる折からももんぐわは岩裂を討ちとめて、先度の恥を清めんと草むら陰から現れ出て討たんとするのを引き外す岩裂の棒の手に立つ足もなく追いまくられて麓の方へ逃げ走る。むかうに立った羽八戒が得たりと熊手を取りのべて、太腹ぐさと刺し貫く所を戒刀引き抜き首打ち落としてよく見れば、これむささびの化けたるにて、その本体を現しけり。
その時、岩裂の迦毘羅坊は先に風魔王と戦ったその体たらくを羽悟了に物語り、
「我もまた雲を起こし風を起こす神通力の人に負けじとは思わざりしがあの魔王めのいらとき風にはほとんど困り果てたり。我は元より不死身で刃も通らず火にも焼かれず、しかるも彼奴が起こせし風に眼をいたく打たれればその痛みは耐え難し。これ見よかし」と指し示せば羽八戒はつくつくと見つつ思わず大息付いて
「恐ろしや恐ろしや。あの風はいかなる風ぞや。山懐に避け隠れた我だにも悪く防げば吹き殺されんと思いしなり。師兄(あにき)すらかくの如し。哀れむべし我が師の坊は命を取られたまいけん」と言うを岩裂は聞きながら、
「否、我が師はなおつつがなし。手立てを持って救い取り参らせんと思えども日は早西に傾きたり。今宵は麓に宿を求めん。此方へ来よ」と先に立てば八戒はその義に従って馬を引き梱(こり)を担ってひとしく麓に下る時に道の行く手の林の内に侘びたる一つ屋があればそこに宿りを求めしに、主は旅のなすと聞こえて四十路余りの女房がただ一人いたりしがいと甲斐甲斐しくもてなしけり。その時岩裂は主の女房に向かって「ここらには目医者のなきや。我が目が痛んで耐え難し」と言うを女房は聞きながら
「見たまうごとくに一つ屋にて、隣村など言うものすら近き辺りにはべらねば薬師(くすし)はたえてなけれども、わらわが家に伝わる日月清明散(じつげつせいめいさん)という目薬がはべるなる。用いたえばまいらすべし」と言うと岩裂は喜んで、「そは幸いの事なりかし。それたまわらん」と急がせば女房は目薬を小皿に溶いてもて来つつ、鳥の羽で岩裂の両眼に付けると痛みは即座に退きけり。
さる程に岩裂は八戒と諸共に臥所(ふしど)に入って眠りしにその明け方に一人覚めて眼を開いて▲辺りを見ると常よりもなお明らかで蚤蚊の眉だもよく見えれば、かつ喜び、かつ感じて真にここの目薬は霊法なりきと独りごちて、その夜が明けるを待つ程に窓の隙より白み染めて山烏の声すれば八戒を呼び覚まし、これかれ等しく身を起こせばこはいかに。ありつる家は跡もなく二人は深き森の内で木の根を枕に臥したるなり。いよいよ不思議の事なれば岩裂は我が目の痛みの癒えたる由をしかじかと八戒に告げ知らせ、心ともなく方辺を見れば決明(けつめい)と言う草の葉に数多の文字が現れて、浄蔵法師を守護の神、昨日当番の虎童子が薬師如来に請い奉りて威如神尊の目の病を療治せしめるものなりと鮮やかに読まれしが、その字は読むに従って次第次第に消え失せけり。かくいちじるき応験奇特にさすがの岩裂も我を折って、
「さては薬師の冥助にて我が目はたやすく癒えたるなり。かかれば再び黄風悪魔を攻めたいらげて師を救わん。さればとて謀り事なく漫ろに進めば彼奴が風に破られん事は疑いなし。八戒は昨日の所に馬と荷物を守りていよ。我は悪魔の洞の内に忍び入り師の安否と敵の虚実をうかがうべし」と言うに八戒はうなずいて「その義はもっともしかるべし。さぁ行って、さぁ帰りね」と言うに岩裂は聞き捨てて又山深く登りけり。
○されば又岩裂は黄風山によじ登り、魔王の洞に近づく時にその身を一つの蝿(はえ)と変じて戸の節穴より内に入り、そこらくまなく見巡るに知る者たえてなかりける。痛ましいかな浄蔵法師は黄風洞の奥座敷の柱に縛り付けられ昨日より一粒の糧(かて)だに与えられざれど、生死の境に迷うことなき徳行無双の聖なればいささか騒ぐ気色なく口の内にて心経を読じゅしていたまいしに、頭の上に声ありて上人上人と呼ばれしかば浄蔵驚き仰いで
「我が名を呼ぶは迦毘羅坊が声にまさしく似たれども、ここら辺りに姿は見えず、あらいぶかしいや何者ぞ」と問われて岩裂は声密やかに
「御疑いは理なり。魔王の虚実を探らんためにそれがしは姿を蝿に変じて忍び入りここにあり」と諭せば浄蔵は喜んで「さぁさぁ我を救えかし。ともかくもして救わずや」と言うを岩裂は押しとどめ、
「あな声高し、頭に耳あり。よしや仰せはあらずとも風魔王を滅fぼして我が師の厄を解くべしと心を苦しめ候なり。今しばし待ちたまえ。それがしかくて候えば救い出さでやむべきや」と励まし慰め、そのままそこを立ち退いて魔王の□室(ゐま)に赴きけり。▲この時、黄風悪魔王は昨日岩裂に戦い勝ったる喜びに手下の化け物ども頭(かしら)だちたるを呼び集めて、を酒飲ませて我も飲み、漫ろに魔術に誇りしかば妖怪どもは言葉を揃えて
「日の神だももて余して威如神尊という司位(つかさくらい)を授けられた岩裂なれども我が大王の風にはかなわず、かかれば大千世界の神というとも仏というとも勝つ者は候わじ」と言えば黄風は微笑んで、
「実に汝らが言う如く、天地の間にあらんもの例えいかなる神通ありとも我は物の数とも思わず、ただ大黒天は恐るべし。今にもあれ大黒がここに来ることあらんには我が術破れて行い難し。恐れる者はただこれのみ」と言えば手下の妖怪はともに恐れる気色にて仰せの如しと答えけり。
この時も岩裂は初めのごとく蝿になり魔王の背中に止まっており、今しかじかと言うのを聞いて、独り喜びにたえざれば一ト声ぶぅんと羽根を鳴らして外の方へ飛び去りつ忙わしく山を下りて元の姿を現しけり。
八戒は遙かにこれを見て「師兄(あにき)、敵地の様子はいかに」と問えば、岩裂は走り寄って蝿になって立ち聞きしたその由を告げ知らせ、
「かかれば我が大黒天をかたらうて魔王を滅ぼさんと思えども、未だ縁あらずして大黒天と相知らねば今は何処におるやらん」と言うに八戒ちりかいひねりて
「伝え聞くに大黒天は北方水徳の神にして北天竺にありとかや。また日本に現れては大黒主の尊(みこと)と言われる。この故にある時は日本にあり、またある時は天竺にあり、只今いずれの国にあるか知る由なければ詮方あらず」と言う言葉未だ終わらずに、たちまち雲にうちって此方を指して来る者あり。岩裂はこれを仰ぎ見て「来たれる者は神か仏か。そもそも悪魔妖怪か。威如神尊ここにあり。名乗れ聞かん」と呼びかけたり。その時その天飛(あまと)ぶ神は静かに雲より下り立ちて、岩裂に向かい
「神尊、無礼を許したまえ。わかとびもつつがなきや。それがしは物を尋ねるために天竺へ赴くなり。用事があらば承らん」と言うと八戒は微笑んで、「この神はこれ別人ならず大黒天におわするかし」と引き会わせれば岩裂は喜ぶこと大方ならず
「それがしは君と語らうべき要用の事があるにより尋ね奉らんと思いしが▲計らずここへ来たまうこと真に得難き幸いなり。その故は斯様斯様」と浄蔵法師の厄難の事、黄風魔王の悪風にうち破られた体たらくを言葉せわしく説き示し、願うはそれがしを相助けて魔王を退治したまえと頼めば大黒は驚いて、
「さては奴めはいつの程にかここらの山に隠れ住みさる悪行をなすにこそ。只今も言うごとくそれがしが此の月頃尋ねる者は彼奴なり。しかるに渡天の聖僧をしばらくも苦しめしはこれそれがしが過ちなり。いかでかなおざりに見過ごさんや。今より神尊に伴って黄風山によじ登り、奴を退治せしむべし。しかれども初めよりそれがしありと知らせれば彼奴は必ず逃げ失すべし。よってそれがしは雲の内に立ち隠れ、戦いたけなわならん時に現れ出て彼奴を捕らえん。神尊はただ独りで彼の岩屋に押し寄せて斯様斯様に計らいたまえ」とせわしく示せば、岩裂は早くも心得、黄風洞に押し寄せつつ門をしきりにうち叩き、「黄風魔王、さぁいでて我と勝負を決せずや。恐れて出ずばたちまちに押し破って師の坊を救い出すに手の隙入らず、後悔すな」と罵ったり。魔王はこれを聞いて、
「おぞましや・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・者ども続け」と言うままに門押し開いて現れ出て
「愚かやな岩裂。身の分際を計らずに我と勝負を決せんとは真に烏呼の痴れ者なり。そこな退きそ」と罵って、鉾をひねって突いてかかれば岩裂は得たりとちっとも疑義せず耳に挟んだ金さい棒を引き伸ばし、振って面も振らずに戦うたり。既にして魔王の力もようやくに衰えて敵し難くや思いけん。また悪風を起こさんと口に秘文を唱える時に、様子をうかがう大黒天が雲の上より声高く「この痴れ者、肝太くも我があるを知らずや」と罵りながら雲かき分けて姿を現し近づきたまえば、魔王は早く仰ぎ見て、「いつの程にか大黒天に見つけられては我が術が行われぬぬも理なり。皆々引け」と言い捨てて逃げ隠れんとする時に、さもこそあらめと大黒天は土を飛ばして黄風魔王を馬の上よりうち落とし起きんとするを起こしも立てず膝にしっかと組み敷けば魔王は苦痛にたえずして元の姿を現したり。岩裂は喜び立ち寄り、と見ればこれ別物(べつもつ)ならず黄風魔王と称えしは、これ鎌鼬(かまいたち)の化けたるにて頭はさながら鼬(いたち)のごとく、羽根はいささか蝙蝠(こうもり)にて鎌に似たる剣羽あり。むささびかと思えばむささびにあらず豪猪(やまあらし)かと思えば山あらしに異なり、全てその形の恐ろしさは得も言われぬ化け物なり。その時大黒天は岩裂を見返りて
「面目なし。我ながらこの者を走らせて浄蔵法師を苦しめたのは皆それがしの誤りなり。そもそも我は故あって世の中にありとある鼠(ねずみ)の類を支配するが▲むささび、鎌鼬の類まで皆これ鼠の種類でその字ねずみに従えば、それがしこれらを召し使うがなかんずく鎌鼬は風を起こして人を損なう毒悪の曲者なればかりそめにも放ち飼いにする事なく越後の国の隠れ里ねずの牢屋(ひとや)へ押し込め置いたが牢屋の網を噛み破り、蓄電せし由聞こえればそれがしいたく驚き憂いて、をさをさ行方を尋ねしなり。しかれば思うに違わずしてこの所に隠れ住んで世の人を損なうその罪は許し難しと言えども願うは我が面にめでて此奴の命を助けたまえ。再び厳しく戒めて悪行を止めるべし。命冥加な痴れ者かな」と言いつつ槌(つち)を振り上げ頭をはたと打ちたまえば、鎌鼬はあっと叫んで頭を縮め、羽根をすぼめて、只一ト縮みになるところを大黒はすかさずかい掴んで袋へしかと押し入れて早くも口を締めたまえば、また出る事もあらざりけり。岩裂はこの有様に恨みもようやく溶ければ岩屋の内に進み入り、浄蔵法師を救い出し、さてまた魔王の手に付いた化け物どもを狩るに、皆これ野鼠、てん、鼬の化けたるにてこの時残らず討たれにけり。
さる程に浄蔵法師は大黒天の助けによって厄難解けた由を聞き、驚き、かつ喜んでその神徳を仰ぐまでに身を投げかけて拝みたまえば、大黒天は慰めて、「行く手の道はなお遠し。自ら相して年頃の大願を遂げたまえ。さらばさらば」の声とともに袋を肩に引き掛けて西を指してぞ飛び去りたまう。
○かかりし程に岩裂は黄風洞を焼き払い、浄蔵法師を助け引き再び麓に立ち返り、八戒にしかじかとありしことも告げ知らせれば八戒は大黒天の方便に感服して喜ぶこと大方ならず、「さらば今は妨げなし。さぁこの山を越えん」とてこれよりしてまた師弟三人師の坊を馬にうち乗せ八戒は旅行李をかき担い、岩裂は先に進んで道の露草かき払い、なんなく峠をうち越えて麓の在家に宿りを求め、また朝でたちにたちいでて、しきりに道を急ぎけり。
○かくてまた幾ばくの月日を経て、果てしなき旅寝を重ねた浄蔵師弟三人はある日天竺流沙川(りゅうさがわ)のほとりまで来たけれども船は一漕もなかりけり。聞きしにまさる川幅八百余里と名にしおう大千世界第一の大河に船も筏(いかだ)もあらずして、いかにして渡るべきとしきりに悶えて佇む師の恨みこそ理なれ。岩裂、八戒の身ならば雲に乗り地にも入る神通でこの川を渡る事は易けれども、師はなお凡夫(ぼんぷ)の肉身重くて波を踏むこと叶い難し。されば背に負い肩車に乗せるとも東路(あずまじ)の大井川には似る由もなきかりそめながら八百里に余ると聞こえし川幅の船筏を借りずして人力をもて中々に▲渡すべうもあらざれば岩裂もまた八戒もただこの故は気を揉んでひとしくもだえ苦しむ時に怪しむべし、沖の方より逆巻く波をかき開き現れ出る化け物あり。これいかなる出で立ちぞ、例えて言えば三才図絵に表れた海坊主に異ならず、その面つきは何となく烏(う)の鳥に似たようで口先が尖りし事は鳥のくちばしにさも似たり。身にはみるの如くかきされたる麻の衣を纏えども、生臭き風が辺りに香り、腰には九つの髑髏(しゃれこうべ)を繋ぎ掛けたり。かくてこの化け物は手に一筋の仕込み杖を突き立てつつ浄蔵法師を目にかけて捕り食らわんと近づく時に八戒は早く押し隔てて熊手をもって遮り止め「来れる奴は何者ぞ」と問わせもあえずあざ笑い、
「知らずや。我は年数多この川に住まいして渡天の法師を捕り食らう流沙川の主ぞかし。今日はことさら飢えたるにそ奴をここへ早く出せ、賞翫すべし。さぁさぁ」と人を恐れぬ不敵の振る舞い、憎さも憎しと八戒は岩裂に目をくわせて右膝より打たんとすればその化け物はいよいよ騒がずさしったりと押し開いてしばらく挑み戦いしが叶うべくもあらざれば後ずさりしてたちまちに波の底にぞ沈みける。
「それがしが伝え聞くに、和殿がこの八戒を婿にせしより彼の働きによってかくまで豊かになりたるにあらずや。しからば忌み嫌うことなく、この家を継がせるとも怪しむべき事にはあらず。されども彼が異類の故をもて親子が等しく忌み嫌う八戒は既に出家して我が師の旅路に従えば再会は図り難し。かかれば夫婦の重縁もここに断絶するものなり。せめてもの報いには袈裟衣、頭巾(ときん)、懐刀、頭陀袋、衣服、足袋、ごりの類まで彼の為に整えて餞(はなむけ)にしたまえかし」と言うと太郎官は一義に及ばず、にわかに羽悟了の旅装束を整えつつ、皆具(かいぐ)揃えて送りけり。その時、岩裂は羽八戒に向かって
「賢弟(けんてい)、法師になれば妻子に絆(ほだ)さるべきにあらねど、人の心を休むる為なり。暇の状を書きしたためて芙蓉に取らせたまえかし」と言うと八戒は否むに由なく三下り半は定まりの文句の文言、名印を据えた去り状書いて渡せば、太郎官夫婦は更なり芙蓉も深く岩裂の恩を感じて喜びの気色は表に表れけり。
かくて主の太郎官は浄蔵師弟三人を様々にもてなして、沙金をおのおの二百両、金襴おのおの五巻を布施として浄蔵、岩裂に贈りしが岩裂はあざ笑い、その布施をよくも見ずに浄蔵はこれを押し返し
「我々は是▲出家の事なり。金銀美服も何にせん。いわんや遙けき旅の空に何物を携うべき。志はさる事ながら、いささかたりとも受け難し」と固くいろひて取らざりしを太郎官は言葉を尽くしてしばしば進めて止まぬので、浄蔵法師はこうじ果てて岩裂と談合し、太郎官の下部はじ六を招き寄せ、その沙金と巻絹を指し示して、さて言う様
「我らは思いがけなく八戒という徒弟(でし)を得て、道の助けとすることは元これ観世音菩薩の御計らいと聞くものながら、道で和殿に出会ってここへ導(しるべ)をされたその功徳もまた莫大なり。よってこの沙金と巻絹をことごとく取らせるなり。必ず否む事なかれ」と遂に主に別れを告げて、その明けの朝立ちに馬に乗りいでたまえば、八戒は太郎官親子の者に暇乞いして、
「先には師兄(あにき)が言うに任して去り状を書いたれど世に和尚の隠し妻もそのためし多くあり。今行く道は十万余り八千里の長旅なれば師匠が道にて死なれるか或いは旅に飽き果てて中途より引き返せば、また来て芙蓉と一つになるべし。しばしの別れを悲しんできなきな(くよくよ)思いたまうな」と言うのを岩裂が打ち消して、「さのみは阿呆をつくなせそ。さぁさぁ荷物を担がずや」と叱り懲らして師の坊の馬を追い行けば、八戒は我が熊手に全ての梱(こり)を引き掛けて遅れじとてぞ従いける。されば主太郎官は名残を惜しみ□をしたひて村境まで送りつつ涙を注いで別れけり。
□かくて浄蔵法師は太郎官に別れてからしきりに馬を進めつつ、岩裂を見返って
「迦毘羅は何と思うやらん。我は去年両界山のあなたなる和こくの庄に宿を求めていさ部の綾彦が日の本を慕えることをよく知れり。そも殊勝なる事ながら彼処は唐とだったんの境なればなお近かり。それより万里の道を隔てたここにもサイヤアハン州あり。人物風俗大方ならず日本風に倣(なら)う事、いよいよ奇なりと言いつべし。これを見、かれを思うも我が日の本は万国に優れていとも尊きことと仰ぐべし仰ぐべし」としきりに感心すば、岩裂しばしうなずき「真にさなり」と答えけり。その時、八戒が走り着き、
「これより行く手の霊山(りょうさん)に烏巣(うそう)禅師という名僧あり。それがしは元より相知れり。立ち寄らせたまわずや」と言うと浄蔵はうなずいて、その柴の戸を叩かせて烏巣禅師に対面しつつ西天へ行く旅路の吉凶を尋ねると禅師は頭を振って西天へは行き難し、思いとどまりたまえかしと言われて浄蔵は驚き、「しからば、難行苦行をなすとても行き着くことが叶わずや」と問うと禅師は微笑んで、
「否、行き難きにはあらず、道に魔性の物が多かり。この故に行き難きのみ。貧僧(ひんそう)年頃読誦(どくじゅ)する般若波羅蜜多心経あり。この御経を読む者は一切の災いを逃れずと言うことなし。どれどれ授け参らせん」と読むこと全て五遍(ごへん)にして浄蔵よく記憶せり。今の心経はすなわち是なり。かくてまた禅師は後の吉凶を偈(げ)につくって示すと、その中に多年老石卵(ろうせきらん)木鳶(もくえん)踪歩長(そうほながし)と▲いう二句あり。岩裂はこれを聞いて怒れること甚(はなは)だしく、金箍の棒を引き出して禅師を打とうとする時に禅師は雲に飛び乗って早中空に登りしを岩裂はなお逃さじと続いて追わんとすれば、浄蔵、八戒が押しとどめ、まずその故を尋ねると岩裂は声を振り立て、
「只今、烏巣が唱えた偈句(げく)に多年老石卵(たねんろうせきらん)という句あり。これは我らをそしるなり。また木鳶(もくえん)しかじかという句もあり。これは八戒を笑うなり。奴はいかばかりの徳あって我らをかくもあざけるや。懲らして腹をいん。そこ退きたまえ」と息巻くを浄蔵はいたく戒めて、
「禅師が今我々の後来(こうらい)を戒むるに偈をもって示されたを怒るは要なき事ぞかし。思い捨てて行かずや」と理(ことわり)責めた師の坊の言葉に岩裂は怒りを収めて、三人は庵を立ちいでて、西を指してぞ急ぎける。
○かくて又幾十許(いくそばく)かその月を重ねて行くこといよいよ遙かなる浄蔵師弟三人はある日またいと険しき高嶺の麓に来た時に、一人の木こりに会えば浄蔵はこれを呼びとめ、山路の案内を尋ね問うとその人は答えて、
「この高嶺は黄風山(おうふうさん)と呼ぶいと恐ろしき魔所になん。さるによりこの山に魔王あり。折々いたく風を起こして木を抜き石を転ばす事すさまじなんど言うはかりなし。まいてその風が人の身に当たる時は腕とも言わず脛(すね)とも言わず刃をもって斬られるごとくに破れ裂け、死する者多かり。この故にこの辺りには人が住むことなく、我らも山へは入らずに麓を限りに稼ぐのみ。よくよく用心したまえ」と言い捨てて早行き過ぎける。八戒はこれを聞いて、「さる恐ろしき風の吹く山路ならば越えぬがよし。恐(こわ)や恐や」とつぶやくを浄蔵法師は見返って、「八戒、さのみ恐れる事か。この山を越えずして余所に行くべき道はなし」と言うと岩裂はうなずいて、「師の仰せこそ理なれ。我が山踏みをすべけれ」と先に立ちつつよじ登る山はことさら険しくて、吹く風肌を切る如く、面(おもて)を向くべき様もなければ浄蔵法師は馬より下り立ち、八戒は鼻面を襟に差し入れ進み得ず、岩裂も眉をひそめて、
「この風は是世の常の谷より起こる物にあらず。また虎などが起こすにもあらず。真に由々しき魔風にこそ」と言う言葉が未だ終わらず、現れ来る一手の妖兵。先に進むは大将と問わでも知るべきその出で立ちは荒れた夜叉に異ならず、道を塞いで声を振り立て、
「ここへ来るのは何やつぞ。この山の主の黄風王の股肱(ここう)腹心(ふくしん)と呼ばれた巡官(じゅんかん)ももんぐわと呼ばれるは我なり。名乗れ、聞かん」と呼びはったり。その時、岩裂が進み出て、
「汝、知らばや。我が師の坊は日本国の生き菩薩、浄蔵法師におわします。先に帝の勅に従い天竺象頭山へ赴いて金毘羅神を迎えたまえば、今日この山を過ぎるに導(しるべ)をせずや」と言わせもあえず、ももんぐわはあざ笑い「日本国の坊主でも梵天国(ぼんでんこく)の所化(しょけ)でも我が眼にかかっては引きずり帰って大王の御下知に任すべし。あれ生け捕れ」と息巻く指図に従うその手の妖怪は承るといらえも果てず得物得物を引き下げて群立ちかかるを羽八戒が熊手を持って押し隔て、多勢を相手に戦うたり。その隙に岩裂はももんがに渡り合いしきりに挑み戦う▲勇武自在(ゆうぶじざい)の棒の手に叶うべくもあらざれば、ももんがは辟易(へきえき)して一足いだして逃げ走るをなお逃さじと追う程にたちまち行方を見失って、そこかここかと尋ねれば一群茂き茅(ちがや)の内にももんぐわは隠れており、岩裂は早くこれを見て抜き足しつつ近づいて棒取りのべてはたと打つと例えば張り子を叩くが如く手応えもなくへたばりたる。かかる所に羽八戒は妖卒どもを討ち散らして熊手をひ下げて走り来て、此の有様に喜び勇んで「師兄、しとめたまいしか。手柄手柄」と誉めたてれば岩裂(あにでし)は後辺を見返って、「手柄どころかこれを見よ。これは真のももんぐわならず、彼奴は金蝉脱売(きんせんだつこく)の謀り事を用いしなり。よく見よかし」と言いつつもその骸(むくろ)を引き起こせばももんぐわにはあらずして、得知らぬ獣の顔なりけり。岩裂はいたく後悔して、
「我々が長追いせし故に彼奴は脱売の手立てをもて遠くここらへおびき寄せ、その身は元の所へ至りて我が師の坊を虜(とりこ)にせん。八戒、続け」と一足出して元来し道へ馳せ帰れば羽悟了の八戒も驚き慌てて踵(きびす)を巡らし、遅れじとてぞ走りける。
○かかりし程にももんぐわは金蝉脱売の謀り事をもて岩裂を出し抜いて元の所へ立ち返り、一心不乱に心経を素読じゅする浄蔵法師をかい掴み小脇にしかと引きかかえ、黄風洞に走り帰って風魔王に告げる様、
「それがし今日山中を巡行して候しが日本国より行脚の名僧浄蔵法師の師弟三人が山を越えるに出会って斯様斯様に計らいて浄蔵法師を絡め取り御覧に供え奉る。▲とく料(りょう)らして御酒宴の肴に仰せ付けられよ」としたり顔にぞ述べにける。黄風大王は聞いて
「その浄蔵と言う奴は四世再来(しせさいらい)の名僧なれば最も得難き肴なり。賞翫すべきものなれどもその弟子に岩裂の迦毘羅坊、八戒坊羽悟了とて神通不思議の曲者ありと世の風聞に伝え聞いたり。さるを今早まってこの浄蔵をうち食らわば、岩裂、八戒が深く恨んで我がこの洞を騒がすべし。かかればまず岩裂と八戒をうち捕って後ろ安くして後にその名僧を賞翫せん。しか心得よ」と説き示せば、ももんぐわは感心して、
「仰せは真にその理あり。しからばこの法師を岩室の内に繋ぎ置き、またあの二人の弟子どもを生け捕って諸共に料らせたまわばあきたりなん。手の者を少し貸したまえ。それがし再び向かうべし」と言えば魔王は頭を打ち振り、「岩裂は好敵なり。そぞろに逸りて過ちすな」ととどめて許さざりければ、ももんぐわは苛立(いらだ)って
「大王、などて臆したまうぞ。それがしがもし岩裂に負けて手を虚しくして帰れば、我が頭を召さるべし。いでいで」と言い掛けて屈強な妖怪を一百あまり従えて再び山路にたち出たり。
さる程に岩裂は八戒と諸共に元の所へ帰って見るに、馬と旅荷物はありながら浄蔵法師が見えざれば足ずりしつつ嘆いて、□は我が師は捕られたまいぬ。いざや尋ねて取り戻さんと用意とりどりなる折から早くも来るももんぐわは多勢をもって取り巻いて絡め捕らんと競ってかかるを物々しやと岩裂は例の金棒うち振って、うち倒しうち倒しまたたく間に妖怪どもを残り少なにうち殺せば、ももんぐわは驚き恐れてたちまち逃げ失せしが恥じて洞へは帰り得ず、麓の方に身を潜まして深く隠れていたりける。
○岩裂は再びまでももんぐわを討ち漏らして憤ること大方ならず、元の所には羽八戒を残し置いて、馬と荷物を守らせて一人進んで高嶺の黄風洞に押し寄せて、門うち叩き声高やかに
「黄風悪魔は何処におる。早く我が師を送り返せ。異議に及べば門戸を破って皆殺しにせん。いかにぞや、さぁさぁ返さずや」と呼び張ったり。さる程に風魔王はももんぐわが討ち負けて、手の者を多く討たせし由を伝え聞いて驚き怒り、「さらば自ら討って出て、岩裂めを生け捕るべし。用意をせよ」と急がす折から岩裂は既に押し寄せたりとの知らせに▲騒がぬ風魔王は手の者数多従えて門開かせてゆるぎ出て、
「やおれ、岩裂の迦毘羅坊。我は汝の師を捕らえたりとも未だ殺さで置きたるに虚実も問わず押し寄せ来るは物を知らざる痴れ者なり。その義ならば思い知らせん、観念せよ」と罵って、かたがまの鉾(ほこ)をうち振りうち振り、突き倒さんと競いかかるを岩裂は得たりと棒取りなおして挑み戦うこと半刻(はんとき)ばかり。勝負も果てしなかりしかば岩裂は身の内の毛を引き抜いて吹きかけるとその毛はたちまち数多の岩裂と変じつつ風魔王に討ってかかるを魔王は騒ぐ気色なく口に秘文を唱えれば、にわかに起こる疾(はや)ち風、木を抜き倒し石を飛ばすその風は鋭きこと刃をもって切る如くに岩裂が作り出せし影武者の大勢はこの大風に吹き散らされて今は真の岩裂さえも吹き殺されるべくおぼえしかば、心ならずも逃げ走り麓を指してぞ退きけり。かかる折からももんぐわは岩裂を討ちとめて、先度の恥を清めんと草むら陰から現れ出て討たんとするのを引き外す岩裂の棒の手に立つ足もなく追いまくられて麓の方へ逃げ走る。むかうに立った羽八戒が得たりと熊手を取りのべて、太腹ぐさと刺し貫く所を戒刀引き抜き首打ち落としてよく見れば、これむささびの化けたるにて、その本体を現しけり。
その時、岩裂の迦毘羅坊は先に風魔王と戦ったその体たらくを羽悟了に物語り、
「我もまた雲を起こし風を起こす神通力の人に負けじとは思わざりしがあの魔王めのいらとき風にはほとんど困り果てたり。我は元より不死身で刃も通らず火にも焼かれず、しかるも彼奴が起こせし風に眼をいたく打たれればその痛みは耐え難し。これ見よかし」と指し示せば羽八戒はつくつくと見つつ思わず大息付いて
「恐ろしや恐ろしや。あの風はいかなる風ぞや。山懐に避け隠れた我だにも悪く防げば吹き殺されんと思いしなり。師兄(あにき)すらかくの如し。哀れむべし我が師の坊は命を取られたまいけん」と言うを岩裂は聞きながら、
「否、我が師はなおつつがなし。手立てを持って救い取り参らせんと思えども日は早西に傾きたり。今宵は麓に宿を求めん。此方へ来よ」と先に立てば八戒はその義に従って馬を引き梱(こり)を担ってひとしく麓に下る時に道の行く手の林の内に侘びたる一つ屋があればそこに宿りを求めしに、主は旅のなすと聞こえて四十路余りの女房がただ一人いたりしがいと甲斐甲斐しくもてなしけり。その時岩裂は主の女房に向かって「ここらには目医者のなきや。我が目が痛んで耐え難し」と言うを女房は聞きながら
「見たまうごとくに一つ屋にて、隣村など言うものすら近き辺りにはべらねば薬師(くすし)はたえてなけれども、わらわが家に伝わる日月清明散(じつげつせいめいさん)という目薬がはべるなる。用いたえばまいらすべし」と言うと岩裂は喜んで、「そは幸いの事なりかし。それたまわらん」と急がせば女房は目薬を小皿に溶いてもて来つつ、鳥の羽で岩裂の両眼に付けると痛みは即座に退きけり。
さる程に岩裂は八戒と諸共に臥所(ふしど)に入って眠りしにその明け方に一人覚めて眼を開いて▲辺りを見ると常よりもなお明らかで蚤蚊の眉だもよく見えれば、かつ喜び、かつ感じて真にここの目薬は霊法なりきと独りごちて、その夜が明けるを待つ程に窓の隙より白み染めて山烏の声すれば八戒を呼び覚まし、これかれ等しく身を起こせばこはいかに。ありつる家は跡もなく二人は深き森の内で木の根を枕に臥したるなり。いよいよ不思議の事なれば岩裂は我が目の痛みの癒えたる由をしかじかと八戒に告げ知らせ、心ともなく方辺を見れば決明(けつめい)と言う草の葉に数多の文字が現れて、浄蔵法師を守護の神、昨日当番の虎童子が薬師如来に請い奉りて威如神尊の目の病を療治せしめるものなりと鮮やかに読まれしが、その字は読むに従って次第次第に消え失せけり。かくいちじるき応験奇特にさすがの岩裂も我を折って、
「さては薬師の冥助にて我が目はたやすく癒えたるなり。かかれば再び黄風悪魔を攻めたいらげて師を救わん。さればとて謀り事なく漫ろに進めば彼奴が風に破られん事は疑いなし。八戒は昨日の所に馬と荷物を守りていよ。我は悪魔の洞の内に忍び入り師の安否と敵の虚実をうかがうべし」と言うに八戒はうなずいて「その義はもっともしかるべし。さぁ行って、さぁ帰りね」と言うに岩裂は聞き捨てて又山深く登りけり。
○されば又岩裂は黄風山によじ登り、魔王の洞に近づく時にその身を一つの蝿(はえ)と変じて戸の節穴より内に入り、そこらくまなく見巡るに知る者たえてなかりける。痛ましいかな浄蔵法師は黄風洞の奥座敷の柱に縛り付けられ昨日より一粒の糧(かて)だに与えられざれど、生死の境に迷うことなき徳行無双の聖なればいささか騒ぐ気色なく口の内にて心経を読じゅしていたまいしに、頭の上に声ありて上人上人と呼ばれしかば浄蔵驚き仰いで
「我が名を呼ぶは迦毘羅坊が声にまさしく似たれども、ここら辺りに姿は見えず、あらいぶかしいや何者ぞ」と問われて岩裂は声密やかに
「御疑いは理なり。魔王の虚実を探らんためにそれがしは姿を蝿に変じて忍び入りここにあり」と諭せば浄蔵は喜んで「さぁさぁ我を救えかし。ともかくもして救わずや」と言うを岩裂は押しとどめ、
「あな声高し、頭に耳あり。よしや仰せはあらずとも風魔王を滅fぼして我が師の厄を解くべしと心を苦しめ候なり。今しばし待ちたまえ。それがしかくて候えば救い出さでやむべきや」と励まし慰め、そのままそこを立ち退いて魔王の□室(ゐま)に赴きけり。▲この時、黄風悪魔王は昨日岩裂に戦い勝ったる喜びに手下の化け物ども頭(かしら)だちたるを呼び集めて、を酒飲ませて我も飲み、漫ろに魔術に誇りしかば妖怪どもは言葉を揃えて
「日の神だももて余して威如神尊という司位(つかさくらい)を授けられた岩裂なれども我が大王の風にはかなわず、かかれば大千世界の神というとも仏というとも勝つ者は候わじ」と言えば黄風は微笑んで、
「実に汝らが言う如く、天地の間にあらんもの例えいかなる神通ありとも我は物の数とも思わず、ただ大黒天は恐るべし。今にもあれ大黒がここに来ることあらんには我が術破れて行い難し。恐れる者はただこれのみ」と言えば手下の妖怪はともに恐れる気色にて仰せの如しと答えけり。
この時も岩裂は初めのごとく蝿になり魔王の背中に止まっており、今しかじかと言うのを聞いて、独り喜びにたえざれば一ト声ぶぅんと羽根を鳴らして外の方へ飛び去りつ忙わしく山を下りて元の姿を現しけり。
八戒は遙かにこれを見て「師兄(あにき)、敵地の様子はいかに」と問えば、岩裂は走り寄って蝿になって立ち聞きしたその由を告げ知らせ、
「かかれば我が大黒天をかたらうて魔王を滅ぼさんと思えども、未だ縁あらずして大黒天と相知らねば今は何処におるやらん」と言うに八戒ちりかいひねりて
「伝え聞くに大黒天は北方水徳の神にして北天竺にありとかや。また日本に現れては大黒主の尊(みこと)と言われる。この故にある時は日本にあり、またある時は天竺にあり、只今いずれの国にあるか知る由なければ詮方あらず」と言う言葉未だ終わらずに、たちまち雲にうちって此方を指して来る者あり。岩裂はこれを仰ぎ見て「来たれる者は神か仏か。そもそも悪魔妖怪か。威如神尊ここにあり。名乗れ聞かん」と呼びかけたり。その時その天飛(あまと)ぶ神は静かに雲より下り立ちて、岩裂に向かい
「神尊、無礼を許したまえ。わかとびもつつがなきや。それがしは物を尋ねるために天竺へ赴くなり。用事があらば承らん」と言うと八戒は微笑んで、「この神はこれ別人ならず大黒天におわするかし」と引き会わせれば岩裂は喜ぶこと大方ならず
「それがしは君と語らうべき要用の事があるにより尋ね奉らんと思いしが▲計らずここへ来たまうこと真に得難き幸いなり。その故は斯様斯様」と浄蔵法師の厄難の事、黄風魔王の悪風にうち破られた体たらくを言葉せわしく説き示し、願うはそれがしを相助けて魔王を退治したまえと頼めば大黒は驚いて、
「さては奴めはいつの程にかここらの山に隠れ住みさる悪行をなすにこそ。只今も言うごとくそれがしが此の月頃尋ねる者は彼奴なり。しかるに渡天の聖僧をしばらくも苦しめしはこれそれがしが過ちなり。いかでかなおざりに見過ごさんや。今より神尊に伴って黄風山によじ登り、奴を退治せしむべし。しかれども初めよりそれがしありと知らせれば彼奴は必ず逃げ失すべし。よってそれがしは雲の内に立ち隠れ、戦いたけなわならん時に現れ出て彼奴を捕らえん。神尊はただ独りで彼の岩屋に押し寄せて斯様斯様に計らいたまえ」とせわしく示せば、岩裂は早くも心得、黄風洞に押し寄せつつ門をしきりにうち叩き、「黄風魔王、さぁいでて我と勝負を決せずや。恐れて出ずばたちまちに押し破って師の坊を救い出すに手の隙入らず、後悔すな」と罵ったり。魔王はこれを聞いて、
「おぞましや・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・者ども続け」と言うままに門押し開いて現れ出て
「愚かやな岩裂。身の分際を計らずに我と勝負を決せんとは真に烏呼の痴れ者なり。そこな退きそ」と罵って、鉾をひねって突いてかかれば岩裂は得たりとちっとも疑義せず耳に挟んだ金さい棒を引き伸ばし、振って面も振らずに戦うたり。既にして魔王の力もようやくに衰えて敵し難くや思いけん。また悪風を起こさんと口に秘文を唱える時に、様子をうかがう大黒天が雲の上より声高く「この痴れ者、肝太くも我があるを知らずや」と罵りながら雲かき分けて姿を現し近づきたまえば、魔王は早く仰ぎ見て、「いつの程にか大黒天に見つけられては我が術が行われぬぬも理なり。皆々引け」と言い捨てて逃げ隠れんとする時に、さもこそあらめと大黒天は土を飛ばして黄風魔王を馬の上よりうち落とし起きんとするを起こしも立てず膝にしっかと組み敷けば魔王は苦痛にたえずして元の姿を現したり。岩裂は喜び立ち寄り、と見ればこれ別物(べつもつ)ならず黄風魔王と称えしは、これ鎌鼬(かまいたち)の化けたるにて頭はさながら鼬(いたち)のごとく、羽根はいささか蝙蝠(こうもり)にて鎌に似たる剣羽あり。むささびかと思えばむささびにあらず豪猪(やまあらし)かと思えば山あらしに異なり、全てその形の恐ろしさは得も言われぬ化け物なり。その時大黒天は岩裂を見返りて
「面目なし。我ながらこの者を走らせて浄蔵法師を苦しめたのは皆それがしの誤りなり。そもそも我は故あって世の中にありとある鼠(ねずみ)の類を支配するが▲むささび、鎌鼬の類まで皆これ鼠の種類でその字ねずみに従えば、それがしこれらを召し使うがなかんずく鎌鼬は風を起こして人を損なう毒悪の曲者なればかりそめにも放ち飼いにする事なく越後の国の隠れ里ねずの牢屋(ひとや)へ押し込め置いたが牢屋の網を噛み破り、蓄電せし由聞こえればそれがしいたく驚き憂いて、をさをさ行方を尋ねしなり。しかれば思うに違わずしてこの所に隠れ住んで世の人を損なうその罪は許し難しと言えども願うは我が面にめでて此奴の命を助けたまえ。再び厳しく戒めて悪行を止めるべし。命冥加な痴れ者かな」と言いつつ槌(つち)を振り上げ頭をはたと打ちたまえば、鎌鼬はあっと叫んで頭を縮め、羽根をすぼめて、只一ト縮みになるところを大黒はすかさずかい掴んで袋へしかと押し入れて早くも口を締めたまえば、また出る事もあらざりけり。岩裂はこの有様に恨みもようやく溶ければ岩屋の内に進み入り、浄蔵法師を救い出し、さてまた魔王の手に付いた化け物どもを狩るに、皆これ野鼠、てん、鼬の化けたるにてこの時残らず討たれにけり。
さる程に浄蔵法師は大黒天の助けによって厄難解けた由を聞き、驚き、かつ喜んでその神徳を仰ぐまでに身を投げかけて拝みたまえば、大黒天は慰めて、「行く手の道はなお遠し。自ら相して年頃の大願を遂げたまえ。さらばさらば」の声とともに袋を肩に引き掛けて西を指してぞ飛び去りたまう。
○かかりし程に岩裂は黄風洞を焼き払い、浄蔵法師を助け引き再び麓に立ち返り、八戒にしかじかとありしことも告げ知らせれば八戒は大黒天の方便に感服して喜ぶこと大方ならず、「さらば今は妨げなし。さぁこの山を越えん」とてこれよりしてまた師弟三人師の坊を馬にうち乗せ八戒は旅行李をかき担い、岩裂は先に進んで道の露草かき払い、なんなく峠をうち越えて麓の在家に宿りを求め、また朝でたちにたちいでて、しきりに道を急ぎけり。
○かくてまた幾ばくの月日を経て、果てしなき旅寝を重ねた浄蔵師弟三人はある日天竺流沙川(りゅうさがわ)のほとりまで来たけれども船は一漕もなかりけり。聞きしにまさる川幅八百余里と名にしおう大千世界第一の大河に船も筏(いかだ)もあらずして、いかにして渡るべきとしきりに悶えて佇む師の恨みこそ理なれ。岩裂、八戒の身ならば雲に乗り地にも入る神通でこの川を渡る事は易けれども、師はなお凡夫(ぼんぷ)の肉身重くて波を踏むこと叶い難し。されば背に負い肩車に乗せるとも東路(あずまじ)の大井川には似る由もなきかりそめながら八百里に余ると聞こえし川幅の船筏を借りずして人力をもて中々に▲渡すべうもあらざれば岩裂もまた八戒もただこの故は気を揉んでひとしくもだえ苦しむ時に怪しむべし、沖の方より逆巻く波をかき開き現れ出る化け物あり。これいかなる出で立ちぞ、例えて言えば三才図絵に表れた海坊主に異ならず、その面つきは何となく烏(う)の鳥に似たようで口先が尖りし事は鳥のくちばしにさも似たり。身にはみるの如くかきされたる麻の衣を纏えども、生臭き風が辺りに香り、腰には九つの髑髏(しゃれこうべ)を繋ぎ掛けたり。かくてこの化け物は手に一筋の仕込み杖を突き立てつつ浄蔵法師を目にかけて捕り食らわんと近づく時に八戒は早く押し隔てて熊手をもって遮り止め「来れる奴は何者ぞ」と問わせもあえずあざ笑い、
「知らずや。我は年数多この川に住まいして渡天の法師を捕り食らう流沙川の主ぞかし。今日はことさら飢えたるにそ奴をここへ早く出せ、賞翫すべし。さぁさぁ」と人を恐れぬ不敵の振る舞い、憎さも憎しと八戒は岩裂に目をくわせて右膝より打たんとすればその化け物はいよいよ騒がずさしったりと押し開いてしばらく挑み戦いしが叶うべくもあらざれば後ずさりしてたちまちに波の底にぞ沈みける。