傾城水滸伝をめぐる冒険

傾城水滸伝を翻刻・校訂、翻訳して公開中。ネットで読めるのはここだけ。アニメ化、出版化など早い者勝ちなんだけどなぁ(^^)

[現代訳] 傾城水滸伝 三編之三四

2017-08-30 18:02:46 | 現代訳(傾城水滸伝)
傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 第三編之三
曲亭主人著 歌川国安画

 この編の前の巻の終りに説いた直鳶(ひたとび)の稲妻の事はしばらく置いて、太宰府では青嵐の青柳が女武者の教え頭となった翌年の夏の初めに頼家卿(きょう)の落とし胤(だね)がしかじかの所にありと訴え申す者があれば信種は召し捕って厳しく禁獄した。

さても鎌倉の将軍頼家卿は建仁三年(1203年)の秋七月に母の尼御台(あまみだい)政子(まさこ)御前と執権北条義時の計略で伊豆の修善寺へ押し込められ、その上、頼家卿の嫡男(ちゃくなん)の一幡(いちまん)君は比企(ひき)の判官義員(よしかず)と共に義時により討たれた。かくてその次の年、元久元年の秋になり、義時は密(ひそ)かに安達景盛(かげもり)を討手の大将として伊豆の修善寺へ遣(つか)わして、浴室の中で頼家卿を討った。
しかるにこの頃、頼家卿の妾腹に三世姫(さんせひめ)と呼ばれた息女(そくじょ)あり、乳母夫婦が甲斐甲斐しく懐(ふところ)に抱いて、西国に落ち下り、名を変え、姿をやつして、ひそかに育て参(まい)らせる事は早や七年に及んだ。
 かかりし程に情けを知らぬ里人がいかにしてか嗅ぎ付けて、乳母夫婦を殺し、矢庭(やにわ)に姫を奪い捕り、太宰府に連れて行き、事しかじかと訴えれば、信種は大きに喜び、
「幼少な息女と云うとも油断すべきにあらず。よく絡め捕ったり」とその者には褒美(ほうび)を取らせ、三世姫を一間の内に厳しく閉じ込め、三人の女房を付け、鎌倉へ送り遣(つか)わし執権の御計らいに任せねばと思えども、この頃は平家の残党、木曽の余類(よるい)、或るいは義経、泰衡(やすひら)の恩顧(おんこ)の者、又は比企の判官、梶原などの一族で討ち漏らされた者どもが山に籠もり海に浮かんで、多きは千人二千人、少なきも五百六百と軍兵を集め、砦(とりで)を構え兵糧を奪い、路地の妨げを致す事、しばしばその聞こえあり。
「去年の秋、太宰府より貢ぎの金三千両を鎌倉へ参(まい)らせたが、たちまち道で奪い取られ、その盗賊の行方(ゆくえ)は未だ知れず。かかればこの度、三世姫を鎌倉へ遣(つか)わせるに、船路にもせよ陸にもせよ、曲者(くせもの)どもに奪い取られれば世の物笑いに▼なるべし。さればとて、数千の軍兵で送らせるのは京都、鎌倉の沙汰(さた)が後ろめたし。いかがすべき」と思いかね、徒(いたずら)に日を過ごすと、鎌倉の執権義時の奥方は十時(ととき)御前の母上なるが、五月の初めに使いが来て、持参した手紙を十時御前は見て、
「父君はこの頃、いささか暑さにあたって、心地良からず御座(おわ)しまするに、とかくに熱気が冷めず、ある博士が申すには筑紫(つくし)太宰府の天満宮に納め置かれた天国(あまくに)の宝剣を枕に掛けて置けば平癒(へいゆ)は疑い無しと確かに申した。しかれどもあの宝剣は世に隠れなき霊宝なるを鎌倉より下知(げち)を伝えて取り寄せられるべくもあらず。小武殿にて、しばしの間借り受けて、さぁさぁ送りたまえかし。なおざりにされなそ」と繰り返しつつ書かれていれば、十時御前は驚いて、しかじかと告げるを信季聞いて眉をひそめ、
「只今、我らの勢いであの宝剣を借りんと云えば、神主もいかでか否(いな)まん。まいて、執権の為なるや。そこに障(さわ)りはなけれども、もし道中で曲者(くせもの)に奪い取られる事あれば、これは由々しき大事なるべし。さればあの宝剣と三世姫を鎌倉へ送り遣(つか)わす宰領(さいりょう)は智勇兼備の者ならでは必ず事を過(あやま)つべし。さて誰を遣わすべき」と心の内で選べども、なおその人を得ざりけり。
[物語ふたつに分かれる]
ここに又、難波津の守護の天野の判官(はんがん)遠景(とおかげ)は先に滅んだ残党が隠れる事もと、捕り手頭の誰かれに手下を大勢従わせ、あちこちへ使わせたが一人も捕らえ得ざりけり。しかるに、この頃、都には院の御所で女武者を置かれれば、国々の守護、地頭もこれにならって、勇婦を抱え女武者として召し置かぬ者の無い世なれば、難波の守護にも女武者あり。その中でも直鳶(ひたとび)の稲妻、篠芒(しのすすき)の朱良井(あからい)と云う二人の女武者は男勝りの智勇の者なり。その時、遠景は思う、
「・・・・あの稲妻、朱良井(あからい)らは近い世の巴(ともえ)、板額(はんがく)にもをさをさ劣らぬ者どもなれば、今宵、彼女らに云い付けて、あちこちへ遣(つか)わすべし。女なれば曲者らも侮(あなど)り油断し、絡め捕られる事もあるべし」と思う由をその女子(おなご)らに説き示し、心得させて、手下五七人を従わせ、その夜、西生(にしなり)、東生(ひがしなり)の村々へ遣(つか)わした。
さる程に両人は東西へ分かれ、朱良井は西生の村々を巡り、稲妻は東生の村々を巡ると荒れ墓のほとりの朽(く)ち傾いた観音堂の内でいびきの声がすれば、稲妻は心に訝(いぶか)り、松明(たいまつ)を振り照らし、近寄って見ると、歳なお若き下衆(げす)女が大縞(おおしま)の一重(ひとえ)衣(ぎぬ)の片袖を押し肌脱いで黒い肌を現わしたるが、ひどく酒に酔ったとおぼしくて、前後も知らず伏しており、稲妻はこれを見て、
「これは曲者(くせもの)ぞ。絡め捕れ」との下知に従う手下は「承る」と答えつつ、押さえて縄を掛けようとすると、その女は驚き覚めて跳ね返し、先頭の一人を掴(つか)んで、礫(つぶて)に取って、表の方へ投げ退(の)けた。
されども多勢なれば、上に折り重なって、腕を捉え、足を押さえて、ようやく縄を掛ければ稲妻は喜び、しばらく休息すべしと、天王寺村におもむいて、村長(むらおさ)小蝶(こちょう)の自宅に着いた。
国府(こくふ)天王寺の村々の庄役(しょうやく)はこの時は女持ちでその名を小蝶(こちょう)と呼ばれた。彼女は代々東生(ひがしなり)の庄役で筋目正しい者なるが、その親には家を継ぐべき男子(おのこ)無く、只、この小蝶一人をもてり。しかるに両親が世を去りし頃、婿を迎えたまえと仲立ちする者多けれど、小蝶(こちょう)はそれを請け引かず、その家が断つべくもあらざりしを小蝶は男に勝って力強く武芸を好み、且つ、算筆(さんぴつ)さえも良くすれば、村人らが国司(こくし)に願って、小蝶を親の時の如く庄役に成し下されとこぞって請い申し、女の時めく世なれば遂にその儀を任された。
しかるに去年、西生(にしなり)の中津川のほとりに妖怪が出て人を悩ますこと甚(はな)はだしく、ある山伏(やまぶし)が里人に教えて、大きな石の塔を造らせ、これを中津の川端に建てればそれより妖怪は東生に移り来て、ここの里人を悩ますと聞けば小蝶はひどく腹立てて、ある夜、只一人で中津川へ行き、その塔を担(かつ)ぎ、静々(しずしず)と帰り来て、猫間川のほとりに建てれば、人皆、小蝶の勇力に恐れ、これより彼女をあだ名して夜叉天王(やしゃてんのう)の小蝶とも、多力(たぢから)の小蝶とも呼んだ。
閑話(あだしはなし)はさて置いて(閑話休題)、小蝶はその夜の丑三(うしみつ)つ頃、不意に難波津の守護の女武者直鳶(ひたとび)の稲妻が夜回りの帰る途中に手下に門を叩かせれば、忙わしく迎え入れ、客座敷に休息させ、にわかに酒肴(さけさかな)を按配(あんばい)して、稲妻にすすめ、手下らには次の間で、同じく盃(さかずき)をすすめれば、手下らは捕まえた怪しい女を牛小屋の梁(はり)に吊り上げ、戸を閉め、皆諸共に次の間で酒を飲んだ。
その時、小蝶は稲妻をねぎらって、
「直鳶(ひたとび)殿、夜中の勤役(きんやく)疲れたまわめ。いかに獲物がはべりしか」と問われて稲妻は
「然(さ)ればとよ、させる者にはあらざれど、荒れ墓の崩れ堂で怪しい女を絡め捕った。その故(ゆえ)は斯様(かよう)斯様」と事詳(つまび)らかに▼説き示し、
「この事を早く長(おさ)に告げずば、後に国司(こくし)より御尋ねあった時、御答えに不都合ならんと思えば、心得させん為、且つ休息も欲しさに、こんな夜深(よぶか)に門を叩いて、驚かしたに、かく懇(ねんご)ろなるもてなしは心苦しくはべる」と云う。小蝶はこれを聞いて、浅からぬ志の喜びを述べなどしつつ、腹の内に思う、
「・・・・我が預かる村里には曲者(くせもの)絶えて無かりしに、直鳶(ひたとび)殿に絡められたはいかなる者にてあらんずらん。そこへ行って、密(ひそ)かに見ばや」と思うと手代の老僕(おとな)を座敷に出して、稲妻らをもてなさせ、自分はしばらく退(しりぞ)いて、紙燭(しそく)を照らして、只一人で牛小屋におもむいた。
さても小蝶の心の内に今しかじかと思う由はその身に男魂あれば、年頃弱きを助け強きを挫(くじ)き、施(ほどこ)しを好み、財(たから)を惜しまず、もし一芸ある女子(おなご)が不仕合せに身を置きかねて頼み来る者あれば、いつまでも養い置いて、又、立ち去らんと云う時は路銀を与え元手を取らせて、いささかも恩とせず、それをもて、その名は遍(あまね)く世に聞こえ、徳とせずと云う事無し。されば小蝶がその女を密(ひそ)かに見たいと欲するは心に彼女を哀れむ故(ゆえ)なり。さる程に小蝶はやおら牛小屋の戸を開け、灯(とも)し火を差し寄せて、その女を見て、
「そちはいかなる悪事を成して、かく絡め捕られたぞ」と問えば女も見返して、
「私(わらわ)いかでか悪事を成すべき。筑紫の果てより遙々(はるばる)とこのあたりに問う人あり。しかるに宵に酒を飲み過ぎ、耐え難(がた)くとある辻堂に休らって、心ともなく酔い臥(ふ)したのを捕り手の人々が怪んで、訳も問わずに絡めたなり。さりとてわが身に犯せる罪は無し。後に云い解く由もあれば、この恥ずかしめを忍ぶのみ」と云うと小蝶はうなずいて、
「しからば、そなたの尋ねる人の名は何と云うやらん」と再び問われて、
「然(さ)ればとよ、天王寺村に隠れも無き、夜叉天王の小蝶殿なり。その人に密議を告げて、世に二つと無い宝物を贈らんと思えばなり」と云うと小蝶は微笑んで
「云われる小蝶は私(わらわ)なり。宝と聞いて愛(め)でるにあらねど、私(わらわ)を尋ねて来る人をいかで救わず置くべきか。稲妻殿がここを出て行く時に、そなたは私(わらわ)を伯母(おば)と呼べ。私(わらわ)は又、そなたを姪(めい)の小沼と云う。その余の事は斯様(かよう)斯様」と忍びやかに示し合わせて、又、忙わしく座敷に行って、稲妻をもてなした。
かくて盃(さかずき)の数も巡り、早や明け方になれば、稲妻は別れを告げて、立ち出んとする時に手下らは牛小屋に吊り上げ置いた女を降ろし、押し据えて、皆並み居た門辺(かどべ)で見送る小蝶はその女を見て、
「昨夜(ゆうべ)絡め捕られたのはこの女子(おなご)にてはべるか」と問う言葉が未だ終わらずに、その女は声を掛け
「叔母(おば)様、私(わらわ)を救いたまえ。救いたまえ」と呼ぶと小蝶はわざと驚きながら、火影に立ち寄り、つらつらと見て、
「おのれは鹿間の小沼じゃないか」と言れて、女は再び声を振り立て、
「いかにも小沼ではべるなり。年頃、敷居が高ければ訪れもせざれども奉公しても果々(はかばか)しからず、叔母御に頼まんと思うて遙々(はるばる)来たけれど、夜食代わりの腰掛酒を飲み過ぎて酔うたので、このまま行けば叱(しか)られん、しばらく酔いを醒ましてこそと、道のほとりの辻堂に憩(いこ)いてしばし微睡(まどろ)んだが、この人々が見咎(みとが)めて、訳も正さず情け無く、急に絡め捕られたり。救いたまえ」とかき口説けば、小蝶はわざと睨(にら)みつけ、
「能無し女が又しても、奉公もできずに難波三界(さんがい)を彷徨(さまよ)う事か。さまでに酒が飲みたくても我宿へ来て飲みはせず、女子(おなご)だてらに腰掛酒に酔うたとて、辻堂で転寝(うたたね)をする事やある。どうしてくりょう」と息巻いて、あたりにあった竹杖を取り上げて打とうとするのを▼稲妻は急に止め、
「庄役(しょうやく)、怒りたまうな。私(わらわ)も実はこの女子(おなご)が犯した罪の有り無しを知らず、又庄役の姪とは夢にも知らぬ事なれば、只装束(いでたち)が異様なると一人辻堂に酔い臥したのを心得難く思えば、絡め捕らしたのみ」と云うと小蝶は面(おもて)を和らげ、
「世に恥ずかしき事ながら、此奴(こやつ)は播磨(はりま)の鹿間の姉の子ではべる。歳十一二なりし頃、一度ここへ呼び寄せたが、女子(おなご)に似合わぬわがまままで心しぶとき者なれば、追い返えしより既に早や十年余りの月日を経れば、私(わらわ)は見忘れたけれども左の方の鼻の脇に赤く大きな黒子(ほくろ)あり。それのみ忘れざれば、早く小沼と知ったなり。彼女の両親は亡くなって、今に縁(よすが)を定め得ず、ここらあたりへ彷徨い来て、叔母の顔に泥を塗る腹立たしさよ」と息巻いて再び打とうと進み寄るのを稲妻は間に押し隔(へだ)て、
「云われる趣(おもむき)は道理なれども、若い内の心得(こころえ)違いは誰にも無きにはあらず。あなたの姪御(めいご)をいかにして、このままに引きもて行かれんや。いざいざ受け取りたまえ」と手下に下知(げち)して、その女の縄を解き、小蝶に渡して別れを告げて、そのまま帰り去ろうとするのを小蝶はしばしと押し止めて、
「数ならねども私(わらわ)の面(おもて)にめでて許させたまいぬる。此奴(こやつ)のために喜びを述べずに返し参(まい)らせんや。しばしこちらへ入りたまえ」と留めて座敷へ伴い、紙に包んだ金千匹を角盆に載せて贈るのを稲妻はしばしば押し返せども、小蝶はなおも言葉を尽くして、
「かばかりの物を受けたまわずば、私(わらわ)の心は安からず。まげて受け引きたまいね」としきりにすすめて止まざれば、稲妻は遂に否(いな)みかね、ようやくに受け納めると小蝶は手下らにも銀一包みづつ贈った。
とかくする程に、夜はしらじらと明け、稲妻は忙わしく手下を引き連れ、暇乞(いとまご)いして屋敷へ帰って行った。小蝶はその女子(おなご)を奥の座敷へ伴って、酒食(しゅしょく)をすすめて新しい衣装に着替えさせ、
「先にははばかりの場で、未だお前の何をも問わず。お前はまことに筑紫の人か。いかなる事で我方へ来た」と問えば女子(おなご)は左右を見返り、
「我、身の上をつぶさに告げるに、あたりの人を遠ざけたまえ」と云うと小蝶は聞きながら、
「ここにいる者どもは全て私(わらわ)の腹心で、いささかも苦しからず。さぁ話したまえ」と云うと女子(おなご)は膝を進めて、
「何をか隠すべき。私(わらわ)は筑紫の田代の者で、名を味鴨(あじかも)と云う者なり。私(わらわ)は髪が赤ければ、人あだ名して赤頭(あかがしら)の味鴨と呼んだ。父は鎌倉二代の将軍頼家(よりいえ)卿(きょう)の家臣で冨部の五郎高義なり。今より十年前の秋、執権北条義時の計略で頼家卿が修善寺であえなく討たれた時、我が父は討ち死にして、母は乱軍の内に討たれた。その時、私(わらわ)は十二才、頼家卿の息女(そくじょ)の三世姫(さんせひめ)に具し奉(たてまつ)り、筑紫の田代に落ち、よそながら姫上に宮仕えしたが、里人らの悪心(あくしん)で大勢がにわかに押し寄せ、姫上の乳母の小坂の九郎夫婦をたちまち討ち殺し、姫を奪い、やがて筑紫の探題(たんだい)の小武信種に渡した。
その折、私(わらわ)は居合わせず、事の変を聞いて宙を飛んで帰ると云えども、事果てた後の事なれば、いかにとも仕方無さにそのまま田代を逃亡して、あちこちに身を隠し、いかにもして姫上を取り返さんと思えども、身一つにては叶うべからず、この天王寺村に隠れ無き、夜叉(やしゃ)天王小蝶(こちょう)殿は武芸力量、女に似合わず弱きを助け強きを挫(くじ)き、義の為には身をも忘れて、財(たから)を惜しみたまわずと予(か)ねてより聞けば、思う心を密(ひそ)かに告げて、いかで助けを借りんとて▼遙々(はるばる)尋ねて来たが、辻堂に酔い伏して、稲妻とやらに生け捕られ、思わずここへ引きもて来られて、不思議にあなたに救われたは、これ、奇縁(きえん)と云うべきのみ。いかに受け引きたまわんや」と云うと小蝶はうなずいて、
「私(わらわ)も親の時より鎌倉の将軍家の御恩によって、かたの如くに四五か村の長(おさ)をすれば、頼家卿の御落命(ごらくめい)、あの義時の肝悪(かんあく)をいかでか憎いと思わざらんや。まいて頼家卿の姫上さえ囚(とら)われとなりたまうはいと痛ましき事。かかればその儀に一味の事は元より願うところなれども、筑紫は道がいと遠く奪い取るべき頼(たよ)りを得ず」と云うと味鴨は微笑んで、
「その儀は気使いしたまうべからず。私(わらわ)がほのかに伝え聞くは小武信種が人をもて、三世姫を鎌倉へ送り遣(つか)わす用意あり。且つ、義時の病気平癒(へいゆ)の為に天国(あまくに)の宝剣を太宰府の社(やしろ)から借り受けて、鎌倉へ贈ると聞く。義時になんの徳あって、天満宮の神宝の御剣(みつるぎ)を軽々しく鎌倉へ運び下すや。この事も又憎むべし。先に得難き宝物をあなたに贈り参(まい)らせるために、遙々(はるばる)尋ねて来たと云ったは三世姫と天国の宝剣の事を云うなり。私(わらわ)も元より武芸をたしなむ。時日を探り、途中に待ち伏せして奪い取るべし。この義はいかに」と囁けば小蝶はしきりにうなずいて、
「しからんには事を起こす、いささか便宜(びんぎ)あるに似たれど、なおも味方を集めて計り事を定めるべし。まずまず休息したまえ」と小座敷へ伴って、小蝶は奥へ退(しりぞ)いた。その時味鴨は思う、
「・・・・・我、思わずも小蝶殿の情けによって、縄目(なわめ)を免(まぬが)れ、又、あの密議に一味(いちみ)され、又もてなされる事は大方(おおかた)ならぬ恩なれど、未だ報(むく)いをせず。さるにてもあの稲妻めは咎(とが)も無い私(わらわ)を酷(むご)く縛(いまし)めて、小蝶殿より金を取り、したり顔する憎さよ。遠くは行かじ追っかけて、金取り返して小蝶殿に渡すが当座の恩返し。そうじゃそうじゃ」と腹の内に思案をしつつあたりを見ると、壁に掛けた一振りの仕込み杖(つえ)があれば、「これ幸い」と脇挟み、裳裾(もすそ)かかげて庭口より後を追った。かくとも知らぬ稲妻は既に小蝶の自宅を出て、いささか途中に立ち寄る方あり。それより更に道を急いで、野田のほとりまで来た時に後より我を追う者あり。誰ならんと見返って、しばらくそこにただすむと、味鴨が追っかけ来て、眼(まなこ)を怒(いか)らし声高やかに、
「貪欲者の稲妻待て。先に汝(なんじ)は咎(とが)も無い我をひどく縛(いまし)めて、我の叔母に催促し、多くの金を貪り取って、ぬくぬくとして帰るともいかでそのまま帰すべき。金を我にさぁ戻せ」と云うと稲妻は呆れ果て、
「此奴(こやつ)は気でも違ったか。許し難き奴なれども汝(なんじ)の叔母の顔に免じて、その縛(いまし)めを解き許したに、かたじけ無いとは思いもせずに我が懐(ふところ)を目掛けて来たか。叔母御が贈った金なるに、おのれに返す事はせん。さぁさぁ帰れ」と息巻けば、味鴨は罵(ののし)って、「返さぬとて取らずに置くべき」=いやいや返さぬ=いや返せ=そりや又どうして=こうして取るはと仕込み杖(つえ)をひらりと抜いて討ち掛かれば、稲妻も又、抜き合わせて丁は発止(はっし)と戦った。
さればまた、この野田の里に呉竹(くれたけ)と云う女博士あり。あちこちの女の童(わらべ)を集めて、書道を教え、又、大和(やまと)、唐土(もろこし)の文を教えて生業(なりわい)とする▼者なるが、智恵(ちえ)深い女なれば、人あだ名して智慧海(ちえうみ)の呉竹(くれたけ)と呼んだ。
さればこの呉竹は稲妻とは知る仲で、小蝶にも疎(うと)からず、この朝起き出て、自ら門の戸を開ければ、見知った稲妻が一人の女子(おなご)と争って、互いに刃をひらめかし、二打ち三打ちと戦うのを、呉竹はあわやと押し止め、まずその訳を尋ねれば、稲妻は息付きながら、昨夜、味鴨を絡め捕った事の始めより、彼女が天王寺村の庄役小蝶の姪なるによって邪正(じゃしょう)も正さず許した事を物語り。
「その折に小蝶がその喜びとて、ちとの物を贈りしをこの女子(おなご)が嫉妬して取り返さんとひしめく故(ゆえ)に、事がここに及びしなり」と云うを呉竹は聞いて、心の内に思う、
「・・・・我は年頃、小蝶殿とは親しく交われども、姪女(めいじょ)が在るのを聞かず、且つ叔母(おば)姪(めい)の年恰好(としかっこう)も不相応に見えれば、これには深き訳あるべし。まず双方をなだめて」と思案をしつつ、様々に言葉を尽くして諭(さと)せども、味鴨はとにかく贈った金を返せと云う言葉争い再び募(つの)って、またまた挑み戦うに呉竹も止めかねて、仕方無く見えた折に、天王寺村の方より駆け来る者あり。
 これすなわち小蝶なり。近づくままに声を掛け、味鴨を叱(しか)り止めれど切り結んだ最中なればちっとも聞かず、踏み込み、踏み込み、勢い激しく闘えば、稲妻は遂にあしらいかねて、受け太刀になれば、従う手下らも堪(こら)えかね、助太刀(すけだち)せんと身構えた。
その時、小蝶は走り着き、あたりに在った桂石をいと軽々と持ち上げて、討ち合わせた刃の中へ投げ込んで尻を掛け、味鴨をひどく叱って、稲妻をなだめれば、両人これに心解け、ようやく刃を収めつつ、稲妻は味鴨の事を小蝶に告げて、
「その金はあなたより贈られた物なれば、再びあなたに会った日に返そうと思ったのみ。姪御に返す理由が無ければ、争い募(つの)って鎬(しのぎ)を削った。既にあなたが来た上はこの金を返すべし」と云うのを小蝶は聞きながら、
「いかでかはさる事はべらんや。皆、我が姪のわがままに任した無礼は許させたまえ」と言葉を尽くして詫びれば、稲妻はこれに心解けて、互いに遺恨(いこん)あらじと和睦(わぼく)をしつつ、元の如くに手下を引き連れ、忙わしく天野の屋敷へ帰って行った。
その時、呉竹も小蝶にあった事を告げ、
「私(わらわ)も先に止めたども姪御(めいご)の武芸は世の常ならねば稲妻殿もあしらいかねて、受け大刀(たち)になられたり。あなたが来るのが今少し遅れれば、稲妻殿は傷を負って、事が大事になるべきに、幸いにして収ったのは大方(おおかた)ならぬ喜びなり。しかし、いぶかしいのは播磨にあなたの姪がある事は今日まで知らざりき。真(まこと)の姪御ではべるか」と問われて小蝶は微笑みながら、
「その疑いは▼道理なり。これには故(ゆえ)ある事ぞかし。まず我が自宅へ来たまえ」と呉竹を伴って、天王寺村へ帰りつつ、奥座敷で酒をすすめ、味鴨の事の初めより終わりまでを呉竹に告げ知らせ、
「私(わらわ)は昨夜、夢心(ゆめごころ)に北斗七星が我が家の後ろに落ち、又一つ小さい星が後より落ちるを夢見て覚めた。星を夢に見る者は萬(よろず)に利ありと聞くが、この度思い起こす事が成就する前触ならずや」と云えば呉竹はうなずいて、
「我も人も義時の道ならぬ計らいを憤らずと云う者は稀(まれ)なり。かかれば三世姫を奪い取って、国に忠義を尽くす事は私(わらわ)も願う事ぞかし。さりながら一味の輩(ともがら)が大勢ではかえって事の妨げにならん。さればとて、この三人のみでは事足るべくもあらぬなり。近江の国の唐崎の漁師に三人の姉妹あり。第一の姉を大歳麻二網(おおとしまふたあみ)と云い、その次は気違水(きちがいみず)の五井(いつつい)、第三の末の妹を鬼子母神(きしぼじん)七曲(ななわた)と云う。この姉妹は新田四郎忠常の家臣で三崎の七郎利光の姪(めい)なり。先に忠常が滅び失せてより、姉妹三人は唐崎で網を引き、釣り糸を垂れ、貧しく世を渡れども、男に劣らぬ魂あり。私(わらわ)が近江に在りし時、疎(うと)からず交わった。あの姉妹を呼べば、最適の助けとならん。謀り事は斯様(かよう)斯様」と額(ひたい)を合わせて囁き示せば、小蝶は喜び、用意の金子一包みを呉竹に渡した。

かくて呉竹はその日急いで出発し、日ならず近江の唐崎に着き、まず二網の自宅に行くと二網が出迎えて、
「これは珍らし。先生はいかなる風に吹き送られて、ここへ来られたやらん」と笑みつつ云えば呉竹もからからと笑い、
「ちと頼みたき事があり、遙々(はるばる)と来た。二人の妹御もおのおの宅におられるか」と問えば二網、
「然(さ)ればとよ、五井(いつつい)は釣りに、七曲(ななわた)は何処(いずこ)へか行きけん。そこらあたりを尋ねて見ん。いざたまえ」と小船に乗せて、あちこちと入り江、入り江を漕(こ)ぎ巡ると一群(ひとむら)茂き真菰(まこも)の中に一艘(そう)の釣り船あり。二網(ふたあみ)はややと声を掛け、
「そは五井にあらざるか。智慧海(ちえのうみ)の先生が▼難波より来られたり。そなたらを集めて語らう事がある。さぁさぁ」と急がすと五井は「おう」と答えて、そのまま船を漕ぎ寄せて、呉竹と対面して、別れた後の無事を寿(ことぶ)き、姉の二網(ふたあみ)諸共に盃(さかずき)をすすめんと唐崎の方へ漕ぎ戻すと入江橋のほとりで七曲(ななわた)が徳利の酒を携(たずさ)えて自宅へ帰るを見つつ呼び留め、船を寄せて、そのままに乗り移らせれば、七曲も又、呉竹に挨拶して、まず船中のもてなしにとその酒を開ければ、五井は釣った魚を一つ竃(へっつい)に押しくべて、焼いて肴(さかな)にすすめた。

その時、呉竹は三人の姉妹に向かい、
「私(わらわ)は天王寺の富める人の娘たちの素読の師匠と敬(うやま)われ、その家屋敷のほとりに居るなり。しかるにその人が近い日に寿あって、多くの客を招かれる。これにより長さ二尺五寸の鯉十本と一尺余りの源五郎鮒六十枚を求められている。これをあなたたち姉妹に頼もうとて来たなり」と云うと三人は眉(まゆ)をひそめて、
「鯉鮒はこの地の名物。さばかりの注文はいと易い事なりしが、いかにせん、今ではなかなか一尺余りの鯉も絶えて得難し。その儀は許したまえかし」と否(いな)むを何ぞと故(ゆえ)を問えば、三人は答えて
「然(さ)ればとよ、さる大きな鯉鮒はこの湖でも飯浦(いいうら)、山梨(やまなし)、片山のほとりに多い。しかるに近頃、賤ヶ岳に三人の山賊あって、多くの手下を集めている。第一の頭領(とうりょう)を賽博士巨綸(えせはかせおおいと)と云い、その次を天津雁(あまつかり)真弓、その次を女仁王杣木(おんなにおうそまき)と云う。かくて又、先頃より虎尾の桜戸と云う勇婦が馳せ加わって勢い最も強大なり。あの山賊の勇婦の面々は賤ヶ岳(しずがたけ)に砦(とりで)を構えて、飯浦と余呉川を境とし、多くの村里を横領すれば、我々までも世渡りを狭(せば)められ、絶えて彼処(かしこ)へ行く事得ならず。この故(ゆえ)に御注文の鯉鮒は我々の力に叶いはべらず」と云うと呉竹は小首を傾け、
「聞くとその勇婦らは先亡(せんぼう)の残党で、すなわち謀反(むほん)の輩(やから)なり。しかるに、何故に公(おおやけ)が討手(うって)の軍兵を差し向けず、都近き島山を棲家にできるやらん」と云えば三人は言葉ひとしく、
「それは故(ゆえ)ある事なるべし。今、都では白拍子の亀菊の沙汰(さた)として、非法の事も少なからず。▼又、鎌倉には執権(しっけん)義時が密(ひそ)かに頼朝卿(きょう)の御子(みこ)たちを押し倒さんと謀(はか)る故(ゆえ)に京も又、鎌倉もとにかくに事が多くて討手の沙汰に及ばずとぞ。実(げ)に今の世の有様は京、鎌倉に非法多くて、頼朝卿の御子孫のある甲斐も無くなりたまうはいと口惜(くちお)しい事になん。我々も手下を集めて、山籠もりする力あれば、かく味気無い世渡りをするより遥かに増すべきものを」と拳(こぶし)をさすり、歯を食いしばって、しきりに恨み憤(いきどお)れば、呉竹は小膝をすすめて、
「おのおのが云われる事に露ばかりも偽(いつわ)り無くば、密(ひそ)かに語らうべき一議あり」と云うを三人は聞きながら、
「鎌倉殿の御為になる事ならば、命も惜しまず、さぁ話したまいね」と云うと呉竹はうなずいて、
「されば大事を明かすべし。その訳は斯様(かよう)斯様」と三世姫の事よりして、小蝶、味鴨が心を合わして、道で奪い取らんと謀(はか)れども未だ一味の人数足らず、これによりおのおのを呼ぶ為に鯉鮒を求めに来たと云いしなり。この儀を受け引きたまわんや」と云うと喜ぶ姉妹たち、
「それこそ願うところなれ。この酒も早や尽きた。狐松楼にて飲み直さん」と唐崎のほとりの仕出し酒屋へ船を漕ぎ着け、皆々二階へ上り、酒を出させ、肴(さかな)を添えさせ、差しつ押さえつ日の暮れるまで、酒宴に時を移した。       

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/私蔵本>




けいせいすいこでんさんへんのし
曲亭馬琴戲編 歌川国安繪画
江戸書行仙鶴堂梓

 かくて三人の姉妹はなお酒肴(さけさかな)を買い求め、呉竹を伴って再び船に乗ると、これらの値(あたい)を呉竹が償(つぐな)ったのを二網(ふたあみ)らはとにかく呉竹には出させじと、姉妹ひとしく否(いな)めども呉竹も又、従わず、
「これは我が路銀の内ならず。小蝶殿がその為にと渡された金なれば、否(いな)むは返って、あの方の志にもとるに似たり。ただ任せて置きたまえ」と云うと姉妹は感心して、
「実(げ)に、あの方は財を惜しまず、男魂ある女子(おなご)と交わりを結びたまうと聞いたのは空言(そらごと)ならざりき」としきりに褒めて止まざりけり。
 さる程に船は早二網(ふたあみ)の門に着けば、皆、諸共に自宅に集り、その夜又、あの酒肴(さけさかな)で席を開いて呉竹をもてなすと、呉竹は忍びやかにその密議を話し出し、
「いかに各々(おのおの)、小蝶殿の大望(たいもう)に一味(いちみ)する事はいよいよ相違(そうい)あらざるや」と云われて三人は一議に及ばず、
「それは宣(のたま)うまでも無し。我々は新田殿の余類である事は先生も知って御座(おわ)さめ。忠常主は源家(げんけ)の忠臣、頼家卿(きょう)の御時に義時と戦って、遂に討ち死にした。我々は女なりと云うとも、かかる大義(たいぎ)に加わる事は真(まこと)に此上(こよ)無き幸いなり。例えその事が遂げずして、身は八つ裂きにならばなれ。一味(いちみ)同心(どうしん)改心あらず」と言葉を放って答えれば、呉竹は深く喜んで、
「しからば明日の朝、私(わらわ)と共に難波へ行き、小蝶殿に対面して密談をこらしたまえ」と云うと姉妹はその儀に任せて、翌朝、呉竹諸共に難波津(なにわつ)へ出発し、次の日、未(ひつじ)の頃に天王寺村へ着けば、小蝶は斜めならず喜んで、忙わしく出迎えて、二網(ふたあみ)ら三人を奥座敷へ誘(いざな)って、茶をすすめ酒をすすめ、
「聞き及んだ姉妹たち、縁が無いと思いしが、居ながら面(おもて)を合わせる事は喜びこれにますもの無し」と云うと三人は言葉ひとしく、
「この難波津(なにわつ)に隠れ無き、夜叉天王(やしゃてんのう)の多力(たぢから)殿。会わぬ先から親しく思った▼事が今日叶って対面できるは大方(おおかた)ならぬ幸いなり。智慧海(ちえのうみ)先生に密議は伝え聞きはべりぬ。用いたまう由あれば、共に力を尽くすべし」と世に頼もしく答えると小蝶はいよいよ喜んで、味鴨(あじかも)を招き寄せ、二網(ふたあみ)ら姉妹に引き合わせつつ、呉竹と共に六人は額(ぬか)を突き合わせ、閑談(かんだん)時を移す折から男どもが走り来て、
「只今、女の陰陽師(おんみょうじ)が門(かど)に立ち、旦那に対面したいと申すなり。いかが計らい候(そうら)わん」と告げるを小蝶は聞きながら、
「あな、気が利かぬ者どもかな。常に心を得させた如く、さばかりの事に取り計らいできずして、客人たちと物語りする言葉の腰を折る事やある。いつもの如く銭と米を取らせよ」と息巻けば男も頭をかきながら、
「それは仰せまでも無く、米一升と銭百文を折敷(おしき)に載せて出したが、その者それを取らず、「我は物を貰(もら)う為に遙々(はるばる)と来るものか。早く主に会わせよ」と罵(ののし)り狂い候(そうろう)なり」と云うと小蝶は押し返し、
「それは物が少ない故(ゆえ)に我に会わんと云うならん。銭一貫に米五升、増し与えて云うべきは旦那は只今客あって早速御目にかかり難し。近き程に又、来たまえと云うて、さぁさぁ返せ」と諭(さと)せば、その下男は心得て退(しりぞ)いた。

 しばらくして表の方が俄(にわ)かに人声騒がしく、物音高く聞こえれば、あれはいかにと皆々耳をそばだてる程もあらずに、一人の男があわただしく走り来て、
「仰(おお)せに任せて、女巫女(みこ)に銭米多く取らせたら、その者いよいよ腹立てて、いかなれば汝(なんじ)らは主には会わせず、我をかくも侮(あなど)るや。その儀ならば踏み込んで、対面せんと罵(ののし)り狂って、防ぐ者を突き倒し、投げ退(しりぞ)けて踏みにじる、女に似合わぬ力量早業、手に余り候(そうろう)なれ」と言葉せわしく告げると小蝶は騒ぐ気色(けしき)も無く、人々を見返って、
「聞かれる如き訳なれば、しばらく許したまえ」と云いつつ、やがて座を立って、表の方に走り出て、荒れに荒れた女巫女(みこ)に向い、言葉を掛けて
「やよ、客人、鎮(しず)まりたまえ。私(わらわ)が小蝶なり。人を得知らぬ男どもの無礼を許して云う由あれば、さぁさぁ私(わらわ)に告げたまえ」と云うと女巫女は面を和らげ手を止めて、
「聞き及んだ多力殿。得難き二つの宝物(ほうもつ)を贈り参(まい)らせんと思い尋ねてみると、取次人が会わせずに銭を贈り米を贈る腹立たしさに事がここに及べるのみ」と云うと小蝶は微笑んで、
「しからんには此方(こなた)へ」と先に立ちつつ客座敷へ迎え入れ、茶をすすめ、その姓名を尋ねれば、女巫女は声を潜(ひそ)めて
「私(わらわ)は陰陽博士阿部の泰彦(やすひこ)の一人娘、蓍(めどぎ)と呼ばれる者なり。父泰彦は建久の頃、頼朝卿(きょう)の招(まね)きによって、鎌倉へ参り仕(つか)えたが、執権北条時政に忌(い)み嫌われて、罪ならぬ無実の罪をこうむって、たちまち都へ追い返され、幾程も無く亡くなった。私(わらわ)は女ながらに親の術を受け伝え、占いは更なり、あの式神(しきがみ)を使い雲を呼び風を起こす秘術までもよくすれば、世の人私(わらわ)をあだ名して指神子蓍(さすのみこめどぎ)とも雲間隠(くもまがくれ)の龍子(たつこ)とも▼呼ぶ。しかるにあなたは志ある女子(おなご)を愛して、義の為には財も惜しまず、多く得難(がた)き女丈夫と伝え聞くにより、世にも稀(まれ)な宝物を参らせんとて来た」と云うと小蝶は喜んで、
「我らも又、予(かね)てよりその名は聞く、指神子蓍(さすのみこめどぎ)殿で在りしよな。宝と云うはいかなる物ぞ」と問うと蓍(めどぎ)は膝(ひざ)を進めて、
「宝と云うは斯様(かよう)斯様と三世姫の事、又、天国(あまくに)の宝剣さえ筑紫の探題信種が此の度、鎌倉へ送り遣(つか)わすと云う噂を告げ知らせ。とにもかくにも痛ましきは幼き姫上の御事(おんこと)なり。謀(はか)り事を巡らせて、道で奪い取るならば、国の為に忠義にして、頼家卿の亡き魂をいささか慰め奉(たてまつ)る。これ、忠臣と云うべきのみ。これをあなたに告げ知らせ、語らわんとて来たなり」と云う言葉未だ終らず、たちまち後ろに人あって、蓍(めどぎ)の襟首(えりくび)掴(つか)み、
「大胆不敵な女めが謀反(むほん)の企(くわだ)て早や聞いた。覚悟をせよ」と罵(ののし)ると、蓍(めどぎ)は顔色(がんしょく)が土の如く表れて、陳(ちん)ずる由も無かった。
その時、小蝶は笑いつつ、
「先生、戯(たわむ)れせずに、まずまず対面したまえ」と云うとその人ほほ笑んで、やがて方辺(かたへ)に座を占めれば、小蝶は蓍(めどぎ)に向かって、
「今、告げられた事は此方(こなた)にも早や伝わって、一味(いちみ)の人々集めておる。これは智慧海(ちえのうみ)先生なり。三世姫を奪い取る第一の軍師で、はばかるべき人にはあらず」と云うと蓍(めどぎ)も笑い、
「さては上手く遊ばれたり。その名は高く聞こえた智慧海先生よな」と云うと呉竹が進み向って、
「人伝(ひとづて)ながら、予ねて聞く雲間隠(くもまがく)れの龍子(たつこ)殿、ここで会うのも宿世(すくせ)の良縁。いと喜ばしくはべり」と云う互いの挨拶終われば、小蝶は蓍(めどぎ)、呉竹を奥座敷へ伴って、味鴨(あじかも)、二網(ふたあみ)、五井(いつつい)、七曲(ななわた)らに引き合わせて、更に又、酒肴(さけさかな)を添えて、蓍(めどぎ)に酒をすすめた。
その時、呉竹が云うには
「多力殿が夢で北斗七星が家の後ろへ落ちたと見たのはこの七人に合うなり。かかれば一味の面々はこの他を求むべからず。但し、三世姫を鎌倉へ送り行く者はいずれの日に太宰府を発って、船路を行くや陸地を行くや。その道筋を詳しく探り知らずばあるべからず。この事は味鴨殿が適任なれば、あなたは明日の朝に出発して聞き定め、すぐ告げたまえ」と云うのを蓍(めどぎ)は押し止めて、
「その事は心安かれ。私(わらわ)は詳しく探り得た。三世姫を送り行くその輩(ともがら)は水無月一日に太宰府を発ち、陸地を行く。かくて播磨(はりま)の明石より摂津(せっつ)の兵庫を経て、摩耶山(まやさん)を越え、生田の森より難波(なにわ)へかかり、大和路を下ると云う。此の事ちっとも相違なし」と云うと小蝶は喜んで、
「しからんには我々がその路で出迎えて謀り事を行うに摩耶山こそ最適なり。さりながら、あの地に▼しばらく逗留して待ち合わせるための中宿が無いをいかがせん」と云うのを呉竹は聞きながら、
「摂津の兵庫の片ほとりの勝山村に昼鼠(ひるねずみ)白粉(しろこ)と云う女あり。彼女は勝栗返(かっくりかえし)の髪八(かみはち)と云う百姓の女房で、貧しき者なれども心映えは義に勇み、男に勝る魂あり。私(わらわ)はその白粉とは予ねて知った仲なれば、彼女を味方に増し加わえ、その自宿を宿とせん。先に主の夢に又、小さな星一つが後より家の後ろの方へ落ちたと見たのは又、その白粉に応ずるなり」と諭(さと)せば皆々喜んで、
「人数も場所も早定まった。呉竹先生にはなお思慮あらん。あの姫上を奪い取る手立てはいかに、聞かま欲し」と云えば、呉竹は微笑んで、
「力をもて取るべくは力をもて彼を討つべし。又、知恵をもて取るべくは謀(はか)り事を用うべし。これらは臨機応変で、今はまだ定め難し。各々(おのおの)は口を慎んで、密議を他所へ漏らすべからず。この事最も肝要(かんよう)なり」と云うと小蝶はうなずいて、
「云われるところ、真(まこと)に故(ゆえ)あり。唐崎の姉妹はまず近江へ帰り、その期に及んですぐ来たまえ、智慧海先生も自宅に帰って、常の如くに手習い子供を集めて在るべし。只、指神子(さすのみこ)と赤頭(あかがしら)はこの奥の間に逗留し、なおも密議を語らいたまえ」と云うと皆々その意を得て、二網姉妹の三人は次の日近江へ帰り、呉竹は自宅に帰って、遠近(をちこち)の女の子らに手習い読書(よみかき)を教えつつ、夕暮れ毎に多力の奥座敷へ来て、人々となお密談を凝らした。

○ここに又、太宰府の信種は探題の勢いで天満宮の神主らに鎌倉の下知を伝えて、天国(あまくに)の宝剣を借り出して、三世姫と共に鎌倉の北条家へ送り遣(つか)わさんと思いながらも、先亡(せんぼう)の残党が処々(しょしょ)の山に立て籠もる折なれば、道で異変あると後悔そこに絶ち難し。この使いには誰をが遣(つか)わすべきと定めかね、▼と様こう様思いつつ、次の日にこの事を十時(ととき)御前に語らうと、十時御前は次の間の青柳を指差して、
「殿は日頃あの女子(おなご)の知恵の賢しさを誉め、武芸を誉めて、女武者の教え頭に取り立てたにあらずや。さればこの度、三世姫と宝剣を守護させて、鎌倉へ遣(つか)わす使いには彼女にますものあるまじけれ」と云われて信種はうなずきつつ、
「あなたの意見はその理あり。それがしは今まで青柳の事を忘れたり。あの者は真(まこと)にしかるべし」と答えて、やがて青柳をほとり近く招き寄せ、三世姫と宝剣を鎌倉へ送り遣わす事の意味合いをしかじかと詳しく説き示し、
「これはいと大事な使いなれば、そちを選んで用いるなり。道中の非常の為なれば、手勢二三百人を従わせん。よく務めよ」と仰すれば、青柳は謹(つつし)んで、
「御掟(おんおきて)の趣(おもむき)をうけたまわって、否(いな)み申すにあらねども、よしや百人二百人の雑兵を差し添えても、事ある時には皆逃げ失せて、物の用には立つべからず。私(わらわ)が申す由に任せて、穏便(おんびん)の御沙汰あれば御請けを仕(つかまつ)らん。さなくば余人へ仰せ付け下されたし」と申すと信種は聞いて眉をひそめ、
「手勢が多くて悪いと思えば、そはともかくも汝(なんじ)に任せん。しからば又、いかにして無事なるべきと思うぞや」と問われて青柳は小膝(こひざ)を進めて、
「私(わらわ)の手立てに任せたまえば、三世姫を物々しく網乗り物などに乗せたてまつり、遣(つか)わされるは返って危うし。只、富める郷の妻娘などが慰(なぐさ)みがてらに物参(ものまい)りする旅姿の装束して、三世姫は世の常の旅籠に乗せ、私(わらわ)はその相輿(あいこし)に乗って守護すべし。さて人足は籠かき四人と物持ちの者三人、上下十人に過ぎざる時は全て人目に立たずして道中は安穏(あんのん)なるべし」と云うと信種はうなずいて、
「その謀り事は真(まこと)によし。さらば老女字野江(あざのえ)の相役の世和田(せわた)の局(つぼね)と奥付きの雑掌(ざっしょう)渋川栗太夫(しぶかわくりだゆう)ならびに表使いの樽垣(たるがき)衛門太(えもんた)らを差し添えて、相談相手に遣(つか)わすべし。この儀を心得候(そうら)へ」と云われて青柳は頭(こうべ)を傾け、
「その儀ならば、この御使いは余人(よじん)へ仰せ付けらるべし」と云うを「とは又、いかに」と信種問うと青柳は又、云う、
「あの世和田も栗太夫らも皆、重役で私(わらわ)の指図を受けざるべし。私(わらわ)の指図を受けるを恥て、難渋(なんじゅう)を云われれば、この度の御用を勤め難し」と云うと信種は「実(げ)にも」と悟って、
「その儀はちっとも気遣うべからず。我が彼らを呼び寄せて、厳しく言い付けさせるべし」と諭(さと)して、やがて世和田(せわた)、栗太夫と衛門太も呼び寄せて、鎌倉行きを命じ、
「万事に青柳の指図を受けて、その進退に任すべし。もし偏見を挟み、いささかたりともその意に違えば、帰府の後に罪を正して汝(なんじ)らを許す事無し。皆心得よ」と仰すれば、三人ひとしく事請けして、かしこまって退いた。
かくて又、信種は青柳を近づけて、
「彼らにはしかと言い付けた。出発の日はいつぞや」と問われて、青柳は一議に及ばず。「急ぐ事なれば、明日出発を仕(つかまつ)らん。しからば水無月末に鎌倉に到るべし」と云うと信種は喜んで、
「明日は水無月一日なり。日並(ひなみ)良ければ出発すべし。但し、天国(あまくに)の宝剣は栗太夫に持たせ、十時御前の手紙は世和田の局(つぼね)に持たすべし。なれどもこれを汝(なんじ)に渡さん。汝よりあの者どもへ渡せば下知に従うべし。いざいざ」と云い掛けて、宝剣を取り寄せて青柳に渡せば、十時御前も母君へ参(まい)らせる一封を青柳に渡した。青柳はこれらを受け取り、詰め所に退き、世和田らの三人に出発の日を知らせ、皆諸共に招き寄せ、
「この度の御使いは大事の役義にはべるので、各々(おのおの)全て姿をやつして馬(うま)籠(かご)には乗りたまうな。その余の事は斯様(かよう)斯様」と事つまびらかに説き示して、あの二品(ふたしな)を取り出して、
「これはこれ、御前様より母上に参(まい)らせたまう手紙にはべる。世和田殿の襟(えり)に掛け、片時も身から離したまうな。又、この一振りは天国の宝剣なり。これは栗太夫に持たせよと殿様の仰(おお)せなり。いずれも大切な品なれば、その心得はあらま欲し。私(わらわ)は三世姫を守護すれば、相輿(あいこし)に乗る。衛門太殿は籠脇に付き添って心を配り、人足らを追い回し、過(あやま)ちなき様にとのみ念じたまえ。但し、籠の者は四人と定めて、その二人は手替わりなり。雨具とその他の持ち人足は三人にして一人は手替わりなるべし。かかれば上下十二人なり。例え人足らが願うとも道中の雲とか云う者どもを雇うべからず。この儀を心得たまえ」といと厳(おごそ)かに説き示して、二品を渡せば、世和田は更なり、栗太夫も衛門太も呆れ果て、いと口惜(くちお)しく思えども、主命(しゅめい)ならば一議に及ばず、おめおめと退(しりぞ)いて旅の用意を整えた。

○かくてその翌朝、青柳はその付き人より三世姫を受け取って、旅乗り物に▼乗せ参(まい)らせ、その身も共に相輿で宰府の城を出発すれば、世和田は手紙を入れられた皮文箱(ふばこ)を襟に掛け、栗太夫は宝剣を背負いつつ、衛門太も共に乗り物に添って、東を指して出発した。
かくて行くと行く程に、早三日四日と旅寝を重ね、暑さのために人々は疲れを増して、いと苦しく思えども、青柳はちっとも容赦せず、只人足を罵(ののし)って、ひたすら道を急ぐと、皆はくどくどと呟(つぶや)いて、
「土用前の暑い日に朝の涼(すず)の内に発ちはせず、遅く発ち出て早く留まり、日盛りにのみ歩かせられる。これはいかなる報(むく)いぞや」と恨みがましく言うのを青柳は聞いて眼(まなこ)を怒らし、
「汝(なんじ)ら何をかよく知るべき。暁(あかつき)前に出発すれば、山賊の恐れあり。日暮れて遅く宿に着けば、又、これ賊の恐れあり。遅く発って早く泊まるのはさる災いをあらせじとてなり。もし我が事を用いずば辛き目を見ん」と息巻くと人足らは心に恨めど勢い仕方無きままに辛くして日を重ねつつ、播磨路まで来た時に、人足らはこらえかね、世和田、栗太夫に由を告げ、「願わくば青柳殿をなだめて、路を緩めたまえ」と言葉ひとしく頼むと、世和田、栗太夫は目を見合わせ、互いに太い息を付き、
「汝らしばし辛抱せよ。鎌倉に着けば、申し上げて褒美(ほうび)を取らせん。日頃、あの青柳が我々をすら下に見る面(つら)の憎さに腹は立てども、主命(しゅめい)なれば争い難し」となだめて、その日を過ごした。
かくて青柳は三世姫を守護しつつ、既に摂津国の兵庫に宿を求めた。夜の暑さに耐えぬ人足らは栗太夫、世和田らと、その宵の間に談合して、
「明日の朝は出し抜けに正明(しょうあ)け七つに出発し、日の出ぬ内に三里も行くべし。砂は焦がれ石は焼けるこの暑い日にいかにして日盛りにのみ歩かんや」と早や内談を定めれば、丑三(うしみつ)つの頃に皆起きて、朝飯よ、破籠(わりご)よと、いとかしましく罵(ののし)ると青柳はひどく腹を立て、
「これは何事ぞ。今日に限って、今より発てとは誰が云い付けた。今日の道は湊川(みなとがわ)と云う川もあり山もあり、人里まれな行く手を抱えて、夜明け前に出る事がある。皆々寝よ」と息巻けば栗太夫、世和田らはあざ笑いつつ臥所(ふしど)に隠れ、人足らは争いかねて、蚊帳(かや)の内に入った。
 かくて青柳はその朝の日の出頃に兵庫の宿を出発し、人足を急がしつつ、湊川を渡って、摩耶山(まやさん)に登り行く。この頃の道中は今の道と違えば、必ず摩耶山を越えるのを順道とした。既に山路にかかる頃は真昼になり、水無月の空には一点の雲も無く、山には一滴の水もなし。さらぬだに人々はたどりかねる夏の▼旅に高い山路を越えつつ行けば、汗は流れて衣(きぬ)を絞り、足は火照(ほて)って運ぶに物憂(ものう)し。とかくして喘(あえ)ぎ喘いで峠に登り着けば、人足どもは乗り物を松の木陰に下ろし、笠(かさ)を円座(えんざ)に汗拭きながら居眠るもあり、うろうろと遊び歩く者もあり、とみには行くべき気色ならねば、青柳はこらえかねて、乗り物より出て、人足どもを呼び起こし、
「これは何事ぞ。こんな山でうかうかとしている事か。汝達は知らずや。この所は山賊の住処(すみか)なり。さぁ行かずや」と罵(ののし)れば、供人足らは言葉をそろえて、
「あなたは役義(やくぎ)を権にかうて、はした無く我々を叱(しか)りたまうが一日の道中(どうちゅう)には必ず休憩場と云う物あり。あなたこそ日毎日毎に乗り物に乗っていれば、我々の身の苦しさは知りたまわじ。ここを山賊の住処(すみか)なんどと脅したまえど、我々は鎌倉へ通い慣れた者なれば、案内は良く知ったり。しばらく休息させたまえ」と答えて、立つ者ひとりも無ければ、青柳はいよいよ腹立てて、輿(こし)に付けた仕込み杖(つえ)を取って、地上を叩き、「起きよ、起きよ」と急がせども、一人を起こせば一人が倒れ、あなた此方(こなた)と制しかね、仕方無く見えれば、栗太夫、世和田、衛門太がようやくそこに辿り着き、共に青柳をなだめて云う、
「人足らは重荷を背負って、かかる山路を越えれば、ここにてしばし休もうと云うは無理ならず。させる物をも持たぬ我々も疲れ果て、一足も運び難し。ここは木陰多くて風さえ通う極楽なるに少し日陰ができるまで憩わせたまえ」と詫びられて、青柳は止むを得ず、
「しからばしばし憩いたまえ、久しくはなりはべらず」と答えて、その身は乗り物に付き添って居ると向かいの松の木陰より此方(こなた)をうかがう者あり。
 青柳は素早く身構えて、「人々起きよ。山賊が来る」と呼び立てると、皆々慌てて起きんとする時、その者が近寄るのを見れば旅の女なり。
此方(こなた)を見つつ声を掛け、
「人々、さのみ騒ぎたまうな。我々も旅の者で彼処(かしこ)の木陰で休んで居(お)り。しかるに、そこに人声がするのはもしや山賊かと思って密(ひそ)かに垣間(かいま)見た。我々は上下合わせて七人の女連れなり。気遣われる者にはあらず」と云うと皆々安堵して、元の木陰に戻るとこんな所に麓(ふもと)より一荷の酒を担い、峠へ上り来る者あり。遥かに見れば女で「「あな醜(みにく)、賢(さか)しらをすと、酒飲まぬ人をよく見ば、猿にかも似る」※と読んだは道理(ことわり)や。それは万葉の大伴卿(きょう)、これは万願寺(まんがんじ)の上諸白(じょうもろはく)、下戸が飲めば猿に似る、猿よ猿、飲むは飲まぬにましらてふ。心の猿は狂うとも酒とし云えば咎(とが)も無し」と歌う声よく吹き送る峰の松風。いざしばし、汗を入れんと峠の木陰に荷を下ろした。
※あな醜い・・・/万葉集 何と醜いこと。利口ぶって酒を飲まない人をよく見ると猿に似ている。

人足らはこれを見て、皆諸共に談合する、
「先程より喉(のど)は渇けどここらに飲むべき▼水は無し。あの酒を買い求め、暑さをしのぐにます事なし」と二人が立ち寄り酒の値(あたい)を尋ねれば、酒売りの女は答えて、
「我らは日毎にこの山を越え湊川(みなとがわ)の片田舎へ卸売りをする者なり。されども買わんと宣(のたま)えば、いかばかりでも売るべきなり。値は一升二百五十文、最も上酒にはべるかし」と云うと皆々うなずいて、
「しからば一杯買い取って、七人で分け飲むべし。計りをよくして得させよ」と云うと女は心得て、荷蓋(にふた)を取ろうとする時に青柳が見て声を怒らし、
「この痴(し)れ者らがうかうかとここらで酒を買う事か。今の世は酒の中に痺(しび)れ薬を入れ、旅人にそれを飲ませ、殺して路銀を奪うと聞くに、それを知らずや」と罵(ののし)れば人足らは買いかねて、頭を掻きつつ退(しりぞ)いた。その時その女連れは木陰を出て、酒売り女に向かい、
「先より喉(のど)が渇けども、水も無ければ唾(つば)を飲み、苦しかりしに良い物来たり。その酒を少し売ってたべ」と云うと女は頭を振って、
「この酒には痺れ薬を入れたと云う人あるに、うかうかと買いたまうな」と腹立ち声して当て擦れば、旅の女子(おなご)らは笑い、
「それは人にもよるべきなり。我々は痺れ薬が入っていたとも苦しからず。我々は女連れで熱海へ湯治の帰り道なり。乗り物に乗ったは大尽(だいじん)の御新造(ごしんぞ)なるが、男の連れは気が詰まると通し籠にも女子(おなご)を雇って、あの三人は籠の衆なり。又、一人は荷持ちなれども、それにも女子を具せられた。喉(のど)が渇くとよ。さぁさぁ」と急がして、およそ一甕(かめ)三升入の片荷の酒を買い取って、水呑み柄杓(ひしゃく)を出しつつ、手に手に汲んで舌打ち鳴らし、籠に付けた夏桃を肴(さかな)に引き裂き食らうと乗り物の中の女ももどかしくや思いけん。早や出て一つに集まり、遂に一甕(かめ)三升の酒を残り無く飲み尽くせしに、籠かきの女子(おなご)三人と荷持ちの女はなお足らずと、残る片荷の甕(かめ)の酒を更に五合買い取って、再びこれを飲んだ。

その時、最初に出て良く口をきく年増の女が銭を取り出し、酒売り女に酒の値を取らせて云う、「和女郎(わにょろ)は思い掛けも無き良き商いをした。報(むく)いに少し負けよ」と云いながら、いと大きな水呑み柄杓(ひしゃく)をその甕(かめ)へ差し入れて、すくい取って飲もうとすれば、酒売り女は驚いて、その手をしかと引き捕らえ、
「あれ程負けて置いたのに、その大柄杓(ひしゃく)は合入らん。それをただ飲まれてたまるものか。由無き戯(たわむ)れしたまうな」と云うのも聞かず振り離し逃げんとすると追われる弾みに酒を残り無く、振り溢(こぼ)しつつ笑えば、皆々どっとはやした。栗太夫、衛門太、世和田も先よりこれを見て青柳に向かって▼云う、
「あの人々の様子を見ると、思いのままに飲めども酒には異なる事も無し。人足らが飲みたがるのもさらさら無理とは思われず。我々とても喉(のど)渇きが耐え難きをいかにせん。許して飲ませたまえ」と恨みがましく詫びると、青柳も先程より様子を見て、ようやくに疑い解けて、問題あらじと思えば云われるままにうなずいて、「彼らの望みに任せたまえ」と云うと喜ぶ人足らはたちまち銭を集めて、その酒を買おうとするが酒売りの女はちっとも売らず、
「この酒には痺れ薬を入れてあり、あなたたちには売れぬなり。売らず売らず」と頭を振って、荷を引き担(かつ)いで行こうとすれば、女連れの旅人らは片腹痛く思う由にて、立ち替わり入れ替わりに酒売り女を諭(さと)し、侘(わ)びつつ酒を売らせれば、人足らは辛(から)くして、その酒を買い取って、水呑み柄杓(ひしゃく)に酌み取って、世和田、衛門太、栗太夫らにうやうやしくすすめれば、三人ひとしく受け飲んで、青柳にもすすめ、青柳もさすがに否(いな)とも云いかねて、只一柄杓(ひしゃく)の酒を飲んだ。

さる程に人足らは瓜(うり)の皮に群がった蟻の如くに立ち集い、一滴も残さずに一甕(かめ)の酒を飲み干した。その時、酒売り女は人足らに向かって云う、
「この一甕(かめ)も三升入りでいずれも同じ酒ながら、あの人たちが五六合買い取りたまいし事なれば、その値(あたい)を引きはべる」と云いつつ銭百四五十文を返して、空荷(からに)を担いで元の山路を下り行けば、又、あの女連れの旅人らは残った夏桃を世和田、青柳らに皆与えて、酒の肴(さかな)にと贈れば、人足に到るまで、その桃を分けもらいつつ、喜び食べた。
しばらくして、女連れの旅人らは此方(こなた)を見て、笑いながら、
「汝(なんじ)らは既に早謀(はか)り事に陥(おちい)った。さぁ倒れよ」と手を叩けば、怪しむべし、こなたの人々、人足らは云うも更なり、栗太夫も衛門太も世和田も口から涎(よだれ)を流して、身の内たちまち萎(な)え痺(しび)れ、青柳さえも倒れ臥(ふ)し、起きようとするに手足叶わず、叫ぼうとするに舌回らず、眼(まなこ)を見張るのみにして、その恙(つつが)無い者は乗り物の内の三世姫の他には一人も無かった。

 その時、その女連れの始め旅籠(かご)に乗って来た一人の女が走り寄り、三世姫の乗り物の戸を開け、驚く姫上の手を取って出し参(まい)らせ、
「我々はこれ忠義の者なり。君が鎌倉へ送られて、義時の手で害せられん事の痛ましさに救い取り奉(たてまつ)りぬ。いざたまえ」と慰(なぐさ)め申して、抱(いだ)きつつ、忙わしく我が旅籠に乗せ奉(たてまつ)る。▼その間に一人の女は栗太夫が背負った宝剣を奪い取り、
「これは聖廟(せいびょう)の宝物なのに、義時なんどが病ありとて、守らせたまう事あらんや。姫上の守り刀にしばらく用いた後に、あの神社へ返すべし。しか心得よ」と罵(ののし)った。その時、一人の女が世和田の襟(えり)に掛けた文箱(ふばこ)を取って砕き、十時御前の手紙をずたずたに引き裂き捨てて、
「汝(なんじ)らは一人も残さず頭を刎(は)ねるべき者どもなれども、事の源を推すと汝らが知る事にも非(あら)ず。その罪は探題の諂(へつら)いより起こるのみ。よって今その首の代わりにこの手紙を引き裂き捨てた。冥罰(みょうばつ)思い知るべし」と罵(ののし)ると三人の籠かき女は三世姫を乗せ参(まい)らせた旅籠を早やもたげだせば、仕合せ良しと女子(おなご)ともに連れだって足早に麓(ふもと)の方へ下り行く。その有様を目には見て、耳に聞くのみで人々は中気(ちゅうき)病みに異ならず、物も云われず身も動かせず、手さえ足さえ叶わねば、おめおめとして見送った。

 さてその七人の旅の女は小蝶、呉竹、蓍(めどぎ)なり。初め旅籠(かご)に乗ったのは小蝶で、三世姫を奪い取り、我が旅籠(かご)に移し乗せたも小蝶なり。又、初めに酒を買って、連れの女子(おなご)にも飲ませ、後に片荷の手を付けぬ酒を五合買った後、一柄杓(ひしゃく)負けよと甕(かめ)へ柄杓を差し入れて、その酒を酌み出して、追われて酒を振り溢(こぼ)した者は呉竹なり。されば始めに二つの甕(かめ)の酒は世の常の酒を七人の女子どもが飽くまでに飲んで後、片荷の甕(かめ)へ呉竹が差し入れた柄杓に痺れ薬は入れてあり、その柄杓を甕(かめ)へ入れた時、薬は酒に混じった。その一甕(かめ)にも毒が無いと青柳らに思わせる、更に二網(ふたあみ)、五井(いつつい)らが五合の酒を買って飲んだ。されば籠をかく三人の女子どもは二網、五井、七曲(ななわた)で、荷持ちの女は味鴨(あじかも)なり。又、夏桃を世和田らの酒の肴(さかな)にと贈った者は蓍(めどぎ)で、あの酒売りに扮装(いでたち)たは昼鼠(ひるねずみ)の白粉(しろこ)なり。およそこの謀(はか)り事は呉竹の胸より出て、事がここに及んだなり。

○さる程に青柳のみが酒を飲む事が多くなければ、その夕暮れに我に返って、口惜(くちお)しき事限りもあらず、姫上も宝剣も奪い取られて、おめおめと太宰府へは帰り難し。自害をせんと思い定めて、崖(がけ)におもむき、懐剣(かいけん)引き抜き、喉(のど)へ突き立てたが、たちまちに思い返す、
「信種主は我には恩義ある主君に非(あら)ず。さるをここにて犬死(いぬじ)にすれば、亡き親たちへの不孝なり。まず身を隠して、後に又、明かりを立てる時もあらん。そうじや、そうじや」と刃を収めて、元の所へ立ち帰り、倒れ伏した栗太夫、世和田らをにらんで、
「汝(なんじ)らは我が云う事を用いず、賊に落とし入れられ、我を巻き添えした事なれば、今汝らを斬り殺して、我も自害をすべけれども、いささか思う事あれば、このまま別れん。覚えていよ」と罵(ののし)って、仕込み杖(つえ)を突き立てて、東の麓を指して、行方も知れずになった。

○かくて栗太夫、衛門太、世和田らは人足と共にその夜丑三(うしみつ)つの頃にようやく酒毒醒(さ)めて、▼いかにすべきと呆れ果て、更に思案にあたわず、青柳の云う事を聞かざりし、後悔の他は無かりけり。その時、人足の小賢しい者が進み出て、
「殿(との)輩(ばら)思いたまわずや。「身に付く火は払い落とし、代償には人をだせ」と云うことわざもある。青柳殿は逃亡して、ここに居ぬこそ幸いなれ。皆あの婦人に塗り付けて、言い訳をしたまえ」と云われて喜ぶ三人はやがてその儀に任しつつ、衛門太をそのまま鎌倉へ遣(つか)わして、執権にこれを訴え、栗太夫、世和田らは日を経(へ)て、筑紫に帰りつつ、
「さても青柳は主君の御恩を受けながら、謀反人(むほんにん)らと心を合わせ、斯様(かよう)斯様の所で我々をも謀(たばか)って、痺れ薬を入れた酒を飲ませて気絶させ、三世姫をも宝剣をも奪い取って逃げ失せた。我々が彼女に謀られた落ち度を赦免(しゃめん)ましまして、青柳を絡め捕り、罪を正させたまえかし」と真(まこと)空言(そらごと)打ち混ぜて、我にのみ良き様に訴えた。されば又、青柳が摩耶山(まやさん)より影を隠した、その後の物語りは第四編に著(あらわ)すべし。又来る春を待ちたまえかし。目出度し、目出度し。 

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 禁転載 底本/私蔵本>

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