唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(D章C節c項.良心)

2016-11-26 00:14:00 | ヘーゲル精神現象学

 D章C節a項とb項でヘーゲルは、道徳的世界観が抽象的非現実に過ぎず、意識の自己実現こそが現実的道徳を可能にするのを示した。次のC節c項でヘーゲルが示すのは、良心として現れる神的実在と個人の現実存在である。ここではヘーゲルによる実存主義批判とも、逆にヘーゲル版実存主義とも言い得る精神現象学のD章C節c項を概観する。


[D章C節c項の概要]

 良心の知は、個別の要請の全てを満たさずとも正義を実現する個別者の恣意として現れる。その確信は直接的真理であり、媒介を通じて現れる一般的倫理ではない。良心における自己は、自律した自己の純粋知であり、個別と一般が一体化した義務であり、他者の承認を要しない信念である。それは対他存在する即自存在としてある。それゆえにその内心の意図と断言ないし行動の間に乖離を探し、良心の真を疑うのは無意味である。良心は信念において、純粋義務の無内容を個別の恣意的義務内容とすり替える。ただしそのすり替えには、知に基づく自己自身による良心の存在の承認、すなわち決意が必要である。個人の義務はときに他人の要求と対立するが、個人の信念が義務にかなうなら、他人はその行動を承認する。ここで他人や自己自身が承認するのは、良心の行動結果ではなく、その自らを知る自己意識である。そしてその存立の場は、一般的自己意識である。つまり信念は、言葉においてのみ現実的である。なぜなら一般的自己意識は行動自体から自由なので、行動は無価値だからである。また信念の言表においてのみ特定の行動が義務として他者に対して現れる。それと言うのも、言葉は自己意識間を媒介し、自己意識においても対自を媒介するからである。言葉は対他存在する即自存在であり、自己否定において対自する個別であり、したがって他者と共にある一般である。この対自を通じて自己意識の自己は定在を得、その自己も多様でありながら他者に承認された一般となる。そして他者もまたこの一般であるがゆえに、他者を承認し、他者から承認される。したがって自らを良心として言表する個人は、その行動内容に関わらず、誰でも真実を語らざるを得ない。すなわち良心は神的創造力であり、神への奉仕であり、したがって教団の神への奉仕でもある。ただし言葉の上で対象化された良心は、現在する自己意識と区別された抽象的自己意識に留まる。それに対して良心の自己意識は、自己が自体であること、およびその知が宗教であることを知っている。結果的に実存するのは信念だけであり、それ以外の全ての実在性は抽象に転じる。ただしこのような信念は、自らを対象化する力を持たず、不安においてストア主義および懐疑主義に逃避し、全ての実体を解体したあげくに自己崩壊する虚偽の自己意識である。本来なら個人の義務と一般的義務の間に対立は無いので、個人の義務の実現は一般的義務をも実現する。しかし良心が持つ絶対至上の独裁権は、良心を他者にとっての悪としても現れさせる。またそもそも良心自体は一般的義務なので、それに対立する個別の良心は悪であり、その良心の主張は偽善である。この偽善は義務一般を承認しながら、自体的良心の非存在や不可知を主張する。しかし一般的義務を現す良心であっても、一般的義務に対立するなら、それはやはり悪である。この良心の自己把握は、一般態として自らを直観する良心として現れる。しかしその評価する良心も、その優越的高慢において下劣であり、行動しない利己性においてやはり偽善である。ただしこの評価する良心は、全ての個別的行動が一般的行動になるのを明らかにする。このことから行動者は評価者の同意を期待することで、自らの個別を放棄して一般へと踏み出す。一方で評価者は行動者の期待に応えない限り、行動者に対する一般への転化の妨害者である。そのように行動する良心が悪を自覚して自らの行動を断念する一方で、評価する良心も悪を自覚して自らの思想を拒否する。このときに両者の悪は、一般者を実現するための単なる媒介となり、赦されるべきものとして現れる。このようにして評価する良心は、個別的な自己についての純粋知の中に、一般的実体としての自己自身の純粋知を直観する。この直観は両者の相互承認であり、絶対精神である。絶対精神としての一般者、そして悪としての個別者の両者は、相互対立において相手を通じて自己意識になり、自己否定において相手の内に統一する。両者の和解は、分裂した二者が統一した自我の定在であり、二者が異なる姿に外化した神である。


1)自己意識の変遷の整理

 道徳的世界観の矛盾が一つの表象の内に統一されたことにより明らかになったのは、意識の自己は純粋義務および自らの純粋知として存在する現実であり、意識の彼岸に純粋思惟として自己における神的実在が現れることである。人倫としての精神世界における人格的自己は、人倫により承認された抽象的現実であり、一般と個別の差異は自覚されなかった。これに対して教養世界における個別的自己は、絶対的自由を自覚した具体的現実であり、一般は個別にとっての抽象的対象であった。しかしその一般と個別は対立していた。さらに道徳世界における一般的自己は、本来あるべき抽象的一般であり、逆に個別の自己は単なる現実的偶有であった。道徳と自然、道徳と幸福は対立したままにあり、一般と個別は逆転した。最後に現れた良心としての精神世界における現実的自己は、本来あるべき一般的自己が偶有の個別自己として現れたのを確信する。つまり良心において道徳と自然、道徳と幸福、および一般と個別の対立は解消されている。


2)良心における個別と一般の一体化

 良心の知は現実的な知であり、対象自体と一致する自己であり、感覚的確信としてあるような個別存在である。対象と異なる知は、対象の偶然に過ぎない。良心はそのことを受容した上で、内容を保持したままに対象知を意識の現実知に作り変える。また良心は個別の事情で現れる各種法則を固定化せず、個別の要請の全てを満たさずとも正義を実現する。しかしその確信は、個別者の恣意として現れる直接的真理であり、媒介を通じて現れる一般的倫理ではない。ただしここでの良心の不完全な知は、良心である限り完全な知である。それゆえにこのときの良心は、各種要請の不履行について検査して動揺することも無い。したがって良心は、純粋道徳を自らの神的実在とすり替えたり、逆に自然と感性に関わる義務を自らと別の実存に移したりもしない。つまり信念において良心は、純粋義務の実現を現実的義務の実現にすり換え、義務と現実の矛盾を受容しない。逆にそのような矛盾の受容は、すり換えについての無自覚であり、信念の不在である。良心における自己は、道徳意識における無内容な自然の即自存在ではなく、自律した自己の純粋知であり、個別と一般が一体化した義務であり、信念である。したがってそれは自ら法則として現れ、他者の承認を要しない現実である。すなわちそれは、対他存在する即自存在としてある知である。以前の理性において現れた個人は自然の代理人に過ぎず、その事自体は述語としてのみ現れた。それに対して良心における個人は、自らの事自体を主語にする。


3)良心の相互承認

 良心における個別的恣意は、純粋義務の無内容を個別の義務内容とすり替える。そのことから個人の義務はときに他人の要求と対立する。しかし個人の信念が義務にかなうなら、他人はその行動を承認する。そもそも個人の義務と一般的義務の間に対立は無く、個人の義務の実現は一般的義務をも実現する。それゆえに良心は、絶対至上の独裁権をもつ。行動における良心の対他存在は、良心の居場所を知から存在に変えることにより、良心の即自存在から乖離する。この乖離を補正するのは、精神の自己確信に基づくすり換えである。ただしこのすり換えは、他者の自己も自由に行っている。それだからこそ存在する良心は、他者にとって悪としても現れ得る。さらに先の乖離の補正には、知に基づく自己自身による良心の存在の承認、すなわち決意が必要である。さもなければ良心の存在は、平凡な現実に過ぎない。ちなみにここで他人や自己自身が承認するのは、良心の行動結果ではなく、自らを知る自己意識である。そしてその存立の場は、一般的自己意識である。


4)言葉と良心

 言葉は、対他存在する即自存在である。それは自己否定において対自する個別であり、したがって他者と共にある一般でもある。言葉は自己意識間の媒介者なので、自己意識においても対自を媒介する。その対自を通じて自己意識の自己も定在を得る。したがってその自己も、多様でありながら他者に承認された一般である。さらに良心における言葉は、自己の実在を知る自己を言表する。それが表出するのは、特定の行動に対する義務を生じさせ得る唯一の知であり、すなわち信念である。そして特定の行動を義務として他者に対して示すのも、信念の言表である。一般的自己意識は行動自体から自由なので、価値を持つのは信念だけであり、行動は無価値である。つまり信念は、言葉においてのみ現実的である。その行動の実現は、信念の実在を確信から断言に移す形態転換にすぎない。この確信する自己は直接知として法則であり義務なので、その内心の意図と断言ないし行動の間に乖離を探し、良心の真を疑うのは無意味である。自らを良心として扱い、信念を言表する自己は、自らの特殊を廃棄しており、自らの一般を確信している。そして他者もまたこの一般であるがゆえに、他者を承認し、他者から承認される。したがって自らを良心として言表する個人は、その行動内容に関わらず、誰でも真実を語らざるを得ない。


5)意識の自己と対象の対立

 良心の直接知は神の声なので、良心は神的創造力であり、神への奉仕である。したがってそれは教団の神への奉仕でもある。ただし意識が良心を一般的自己意識において対象化する限り、その良心は、現在する自己意識から区別された抽象的自己意識に留まる。それは現在する自己意識と抽象的自己意識を区別し、両者を一般的自己意識の媒介において統一するだけの無思想である。実際にはこの二極に分かれた両者は、直接的統一において区別されない。そのような意識では、実在が自らの内に現在しており、実在と自らを統一している。したがって良心の自己意識は、自己が自体であるのを知っており、その知が宗教であるのを知っている。この宗教は、精神に関する教団の教説でもある。結果的に信念以外の全ての実在性は抽象に転じ、信念だけが実存する。ただしこのような信念は、全ての実体を解体したあげくに自己崩壊する虚偽の自己意識である。意識にとって即自存在する実体は、自らの知としての知である。意識はその対象化において、自己と対象の相互交替する二極に分離する。しかし意識におけるその自体的な不安定は、意識を不幸する。対象は自己自身にほかならず、そのくせ対象は自己を否定するからである。自らを対象化する力を持たない意識は、自己対象化による自らの変化に対して不安に陥り、ストア主義および懐疑主義に逃避し、最後に不幸な美しき魂として消滅する。


6)意識の一般と個別の対立

 行動する良心における自己の一般態は、自らの知としての知である。個々の自己はこの相互に等しい一般態として始まり、相互に等しくない個別態へと分離して対立する。そしてその個別態は、同様に一般態とも対立する。しかし良心自体であるはずの一般的義務に対立する限り、確信する自己としての個別の良心は悪であり、その良心の主張は偽善である。この偽善は、対他的な義務一般をそもそも承認しながら、そのくせに自体的良心の非存在や不可知を主張する。しかし一般者に承認されない良心の主張は、悪の自白に過ぎない。もし一般的義務を現す良心であっても、それが一般的義務に対立するなら、それはやはり悪だからである。一般的義務も一つの個別的義務に過ぎないからである。悪として現れた良心は、義務に従うことで義務に矛盾するわけである。このときの良心の自己把握は、個別態として対立に関与した行動する良心と違い、一般態として対立から離れて自らを直観する良心として現れる。しかしここでの自己を俯瞰するだけの良心も、その優越的高慢において下劣であり、行動しない利己性においてやはり偽善である。ただしその評価する良心は、純粋義務の無内容を承知し、個別義務の分析に長けているので、全ての個別的行動が幸福追求のための一般的行動になるのを明らかにもする。このことから行動者は、自らの行動について評価者の同意を期待する。ただし評価者は自らの分析の合理性にだけ関心を持つので、行動者の期待に応えることは無い。とは言え期待を裏切られた行動者は、既に自らの個別を放棄して一般へと踏み出している。反対に期待を裏切った評価者は、行動者に対する一般への転化の妨害者として現れる。このときの行動する良心が美しき魂であるなら、行動者はその踏み出しを自らの死において実現せざるを得ない。


7)対立の解消

 評価する良心を通じて、行動する良心は悪を自覚して自らの行動を断念する。一方の評価する良心も、行動する良心の変化を通じて自らの思想を拒否する。両者は共々に自らの個別を放棄し、新たな一般へと踏み出すことになる。このときに個別者の悪は、一般者を実現するための単なる媒介となり、赦されるべきものとして現れてくる。行動する良心に対する赦しは、評価する良心の自己否定となり、善悪の区別は廃棄される。このようにして評価する良心は、個別的な自己についての純粋知の中に、一般的実体としての自己自身の純粋知を直観する。この直観は両者の相互承認であり、絶対精神である。ただしこの絶対精神が定在するのは、この個別者の純粋知が交替を実現する頂点においてだけである。この新たな一般者である絶対精神が対立するのは、個別を実体に扱う知である。そしてその純粋知が理解するのは、一般者が純粋連続性だと言うことであり、個別者の純粋非連続性が空虚な悪だと言うことである。逆に悪の純粋知は、一般者が非現実で他者のためだけの存在だと理解している。一般者と個別者の両者は、共に自己自身を確信し、自らの純粋自己だけを目的とし、相手との対立において純粋に自己を知る概念である。しかしそのままでの両者は、共にまだ自己意識ではない。両者は相互対立において相手を通じて自己意識になるのであり、非連続を連続させ、自己否定において相手の内に統一する。両者の和解は、分裂した二者が統一した自我の定在であり、二者が異なる姿に外化した神である。それは自己自身を確信し、自らが純粋知であることを知っている。

(2016/11/25)続く⇒(精神現象学E-A/B) 精神現象学の前の記事⇒(精神現象学D-Ca/b)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項    ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項   ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節   ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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