唯物論者

唯物論の再構築

俗物4:不可知論者

2016-03-18 08:44:38 | 記事一覧
 不可知論とは、真理を知るのを不可能とみなす経験論の理屈である。もちろん「真理を知るのは不可能である」と言う命題が真理であるなら、この不可知の真理を知り得たことが謎として残ってしまう。この矛盾に対してカントは、真理に先験的真理と経験的真理の区別を持ち込み、不可知の真性を維持しようと努めた。ところがカントが打ち立てた新たな不可知論とは、知り得る先験的真理を可知に扱い、知り得ない経験的真理を不可知に扱う自家撞着の理屈であった。とは言えこれにより「真理を知ることは不可能である」との命題は、「経験的真理を知ることは不可能である」と言う命題に置き換えられ、不可知論も生き残ることとなった。ただしカントの理屈は、先験的真理と経験的真理の区別をイデアと現象の区別と同じものにしている。つまり肝心の不可知判定自体は、イデアと同様に天上から飛来するものとして扱われていた。不可知の前提は、プラトンにおけるイデア存在の前提と同様に、人間が有限存在であるがゆえの自明の理として扱われたわけである。このために、アリストテレスがプラトンのイデア論を反駁したのと同じ論理展開が、カントの不可知論に対するヘーゲルの反駁において再現されることとなった。ヘーゲルはアリストテレスの第三人間論を踏襲して、先験的カテゴリーを含めた対象一般が、意識の内に経験的に発生する様を示した。もちろんヘーゲルも先験的カテゴリーから意識の発生を語る。しかしそれはカント流の一覧表的カテゴリーではなく、先験と経験の間にあった壁を破壊したものである。ヘーゲルにおいて先験と経験の差異は、同じ対象について抱え持つ情報量のより多さとより少なさの違いでしかない。もちろん対象の完全な情報量を持った対象の姿とは、対象それ自体である。ここで言う対象それ自体とは、単に現時点で感覚的に見えている対象ではなく、対象の抱えた全ての属性であり、対象に関わる全ての世界との諸関係であり、それらの過去から未来の姿の全体を言う。当然ながらこのような観点で言えば、対象に関する情報量の少なさや誤情報の記録は、対象の不可知を意味しない。むしろカントのごとく、実体と現象の間に相関が無いとあらかじめ前提を立てておき、それから喜々として現象から実体を導出できないと真面目ぶって結論するのは、ヘーゲルからすれば詐欺に等しい理屈である。ここでの徹底したヘーゲルのカント不可知論批判は功を奏し、カント以後に不可知論の哲学的な再興が起きなくなった。このために今では不可知論は、同じような欺瞞的理屈の独我論が頻繁に哲学世界に再興するのと違って、既知に執着して可知を無視する理屈、経験のうちに先験を見い出そうとしない理屈、真理認識への辛抱の足りない未熟な理屈、そもそも知とは何かを説明できない理屈として見做され、誤った理屈に数えられるようになった。ヘーゲルは弁証法の復興などの巨大な哲学史的足跡を残しているが、もしかしたらこの不可知論の撲滅こそがヘーゲル最大の哲学史的貢献なのかもしれない。ヘーゲルも指摘していることだが、不可知論が真理への厳密さの追求を不可知論自らに向けないところに筆者も不可知論の理屈の奇怪さを感じる。ただしその不徹底の原因も結局のところ、先に不可知の前提を立てて、それから不可知の結論を導く形の不可知論が持つ哲学的手品の仕組みに集約できる。もともと懐疑論や不可知論は、自律的自我の自覚と思い込みの自戒の効用でのみ、積極的な意味を持つ理屈である。しかしそれが積極的な意味を維持する条件は、それらの理屈を自らのうちに保持する場合に限られている。不可知論に対して筆者が嫌悪を感じる部分もやはり、不可知論者がこれらの自論をもって自らを戒めるのではなく、他者の知を罵るところにある。例え不可知が真理であるとしても、不可知の影響を見極め、それによる被害を最小限にする努力は必要である。もしその方策に不備があるなら、不可知論者は具体的にその直すべきところを指摘してあげれば良い。自らそのような指摘をすることもできず、またそのように指摘する気概も無いのに、高所に立ったつもりで他者を罵るのは、他者にとって有難迷惑ではなく、本当の迷惑である。他人に対する攻撃が容赦ないくせに、自分には全くと言って甘いのが不可知論者である。

 上述内容は哲学における不可知論が持つ俗物性を述べたものだが、この腐った理屈は様々な変形を遂げて私たちの生活の周辺に頻繁に出没している。例えば「誰それの唱える主張は主観的である」とか「彼の理屈は経験に縛られている」「視野が狭い」と相手を非難するのが好きな人がいるが、この論旨の基調にも不可知論が横たわっている。この手の批判の言わんとしているのは、「私の主張は客観的である」「私の理屈こそが先験的原理である」「私の視野は広い」と言う自惚れである。しかし或る主張が主観的かどうかは主張の内容を何も説明するものではない。また経験性や視野の大きさと言うのも、単なる感覚表現に留まっている。もっぱらそれは、経験不足の人間が経験豊富な人間に対抗するための虚勢であり、視野の狭い人間が視野の広い相手を貶めるための単なるレッテル貼りにすぎない。その意味でおそらくこの非難が目指すのは、相手の主張が少数派だと言うことであり、自分の主張は多数派だと言うことである。すなわち自分こそが虎の威を借りているのだと言う恫喝であり、相手に対する権威への屈服の強制である。言い換えれば、この人物の思考パターンは、真理が力関係で決まると信じる愚劣な思想に支配されている。もちろんこの思考パターンが成立するためには、本人が真理を軽視しており、真理を意識にすぎないものとして扱う観念論において、そもそも真理認識を不可能だと信じている必要がある。これと似たような形式の相手に対する非難の仕方に、「誰それの唱える主張は普通ではない」「その理屈は一般的ではない」「君は常識を知らない」との言い方がある。この言い方は、誰もが知り得る形であたかも普通と名付けられた主張、または一般と決められた理屈、そして常識が存在するかのような音の響きを持つ。この非難の仕方は、まるでプラトンのイデアのように普遍的な主張や理屈が世界に存在し、相手の主張や理屈がそれに則っていないのだと言わんばかりである。しかしこの手の表現が言わんとしていることも、結局「私の主張こそが普通である」「私の理屈の方が一般的である」「私自身が常識を体現する」と言う身勝手な理屈である。さらにこの論調の亜流には、「嘘をつき続ければ、いつかその嘘が本当になる」と考えるようなヒットラー式思考や韓流弁論術、または「勝てば官軍」に代表されるように真理を人間世界の力関係に依存させる歴史ニヒリズムがある。いずれの思考パターンも真理の不在を前提にしており、例え存在しても力関係で決められるかのように真理を軽んじた理屈になっている。
 まず当たり前のことだが、或る主張が主観的であることは、その主張の偽を証明しない。仮に世界の圧倒的多数が地球が平たい円盤だと考えて主張していたとしても、少数者側の地球が丸いと思い込む主観が偽になることは無い。ここでの多数者と少数者の主張の対立とその勝敗は、天体観測数値と万有引力法則の認知において徐々に決定され、最終的に人間が大気圏外に出て地球を見おろすことで決着する。逆に或る主張の偽をその主張の主観性において説明できるとすれば、主張の真理は多数決で決まることとなる。この場合だと或る主張の真性は、その主張の人気度合いと等しいものとなる。もしそのように美人コンテストのごとく様々な事柄の真理が決定されるなら、地球が平たい円盤として認知され直すのもまだ可能であろう。もちろん真理がその程度の事柄であるなら、真理とは幻に過ぎず、その実体は存在しないことになる。そしてそのような実体の正体を知ろうとする努力も無意味であり、それどころか危険な行為となる。もしうっかりと正体を知ることができてしまうのなら、やはり実体は存在してしまうからである。この馬鹿げた理屈とヒュームの経験論の類似を探すのは簡単である。いずれも実体の不在を前提にしており、主張の真理を多数決で決めており、他者の理屈の主観性をなじっている。違う点を言うとすれば、全ての理屈は経験に根付くと理解している分だけ、ヒュームは最低の俗物になるを脱している点だけである。そもそも人が何事かを考えて或る主張をする場合、その主張がその人の考えであり、その主観に根付いたものであるのは当たり前の話である。そしてその理屈が正しいか間違っているかを別にして、おそらくその主張の背景には何らかの主張者の経験があるのであろうと予想することもできる。そうであれば、わざわざ相手に対して「誰それの唱える主張は主観的である」とか「その理屈は経験的である」とか述べ立てるのは、言う必要も無いような当然の真理である。以前の記事で筆者は、当たり前のことを当たり前に言う人間を俗物の定義に使ったことがある。当然ながら、ここで見たような言う必要も無い真理を得意気に話す輩とは、その定義に合致した紛れも無い俗物である。ちなみに俗物の俗物たる由縁は、言う必要も無い真理を得意気に話し、そのくだらない真理を我が物として自慢し、それをもって相手を見下して傲慢に振る舞い、さらには恫喝すると言ったような、俗物に固有の愚劣な品性にある。それゆえ逆に言えば、主観性とか視野狭窄と言う言葉でしか相手の主張を論難できないことは、その人物の品性の無さ、すなわち俗物性を端的に示す主要な目印にもなる。したがってもしそのような発言をする人を見かける機会があったなら、まずあらかじめその人物に対して内心で軽蔑しておくべきである。と言うのも俗物の嗜好とその行動目的は、もっぱら自慢と他者屈服にあるからである。そのために先に内心でその俗物を軽蔑しておけば、彼が放つ数々のくだらない恫喝に対しても少しは余裕を持って応対できるはずである。ただし俗物は、自尊心が高く、他者への攻撃心が強く、猜疑心に固まっており、妬み深い。そのため、俗物のくだらない挑発行為を避けるためにも、基本的に彼に対する軽蔑心を見せない方が得策である。なお事柄の真性を世界世論や世界標準に求めたりする人間も、筆者から見ればもっぱら俗物である。真理の決定は多数決ではなく、事柄と事実、見込みと実測値、論理展開の整合、そして人倫の実現などの検証において決められることである。したがって主張の偽についても個々の事実乖離やデータ不備、または論理矛盾の個々の指摘の積み重ねにおいて決定されるべきである。さらに加えて注意すべきなのは、人物の俗物性は、必ずしもその人の知的水準の低さと一致しないことである。ただし俗物は、その知的水準が低くないと言っても、それが理性的な水準に達するわけでも無い。俗物とは出来の悪い賢者であり、中途半端な愚者である。
(2016/03/18)




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