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唯物論の再構築

ロシアン・ファシズムの現在(1)

2024-01-14 17:57:18 | 政治時評

(1)ファシズムの諸形態

 近代以前の独裁的秩序は、封建秩序として現れてきた。そしてこの身分制が、この独裁体制と現代の独裁体制の区別になっている。ただし身分制封建秩序は、民意に対して支配者側の意向を強制する。その強制は既に独裁であり、支配層内部の権力集中度、および民意との乖離がその独裁の程度を上下させていた。これに対して近代の独裁体制としてのファシズムは、いずれも一見民主的な国民運動として始まる。しかしそれは、支配層を支えるために国民が相互監視する全体主義国家として結実した。それは歴史的に以下の3形態で現れてきた。
  ・民族主義ファシズム
  ・赤色ファシズム
  ・宗教的原理主義
 これら3種のファシズムは、別種の方向から国民運動を形成する。しかしそれらはいずれも、最終的に似たような独裁体制を擁立する。それらはいずれも国民の精神的支配を目指し、その精神的支配の頂点に体制支配層を鎮座させる。もちろんその精神的支配の内容が正当であるなら、その支配も妥当かもしれない。しかしその正当性は、国民により了解される必要を持つ。そしてその了解過程は民主主義であり、それは独裁的秩序と対立する。それゆえに独裁体制における精神的支配は、それ自体が既に不当である。しかも往々にしてその精神的支配の内容も不当である。当然のことながら独裁体制は国民から離反する。もし独裁体制がその不当性を払拭したいのであれば、自ら独裁体制であるのをやめる必要を持つ。しかし独裁体制が独裁体制である由縁は、独裁体制が自ら独裁体制であることに固執することに従う。その固執の背景には、独裁支配層が持つ経済的特権階層としての生活基盤がある。この記事は以下において、これら3形態の成立と相関を確認する。


(1a)ファシズムと民族主義

 ファシズムの基調は、国内における異民族の暴力的駆逐と自らの対立勢力の暴力的弾圧、国外における自国権益の暴力的維持とそのための対外的な軍事進出として現れる。つまりその対外的特徴は、民族浄化と侵略的民族主義である。それはイタリアに始まり、より先鋭化してドイツナチズムに伝播し、形態を変えて国家主義や全体主義となって世界を席捲した。その母体イデオロギーは、基本的に民族主義である。しかし民族主義の全てが、このファシズムの基調を目指すのでもない。ファシズムにおける民族主義は、特定階層とその支持層を民族として括り、その利益の暴力的実現を目指す。端的に言うとその民族主義は、特定階層の利害を代弁する一つの経済的な階級意識である。それゆえにその民族主義は、民族の枠にこだわる必要も無く、その範囲設定も恣意的で良い。ちなみにその不明瞭な民族的境界の多くに、宗教の差異が使用される。それと言うのも不明瞭な民族的境界の多くが、宗派境界と重複するからである。逆に言うなら民族間の差異もその程度の差異にすぎない。つまりその差異は、もともと相互対立に値するような問題ではない。このことから現代世界の民族主義の多くを、イスラム宗派が代行する。もちろんイスラム同士の対立では、国内権益の中心にいるイスラム宗派がその排外的中心を占拠し、他のイスラム宗派を弾圧する。また逆に例えばユダヤ教のように、宗教が民族的境界を形成することもできる。したがってその民族的境界は、地域における特定の共通利害を表現するだけであり、実際の民族境界ではない。またそれだからこそ民族主義者は、同じ民族同胞に対しても売国奴とか非国民のレッテルを貼ることができる。このときに民族主義者は自らを愛国者だと信じており、自分の方が国家への裏切者かもしれないと疑うことも無い。ところがその民族主義はその暴力支配によって、逆に自らの民族を非人間的部族に貶める。そしてそのような非人間的部族は尊敬もされず、むしろ軽蔑される。しかもその軽蔑は、他国や他民族からだけでなく、自国民からも注がれる。加えてファシストが行う国民の暴力支配は、経済と文化の発展において足枷となる。したがってファシストは愛国を語りながら、自国の経済的文化的発展を阻害する。ファシストはその行動面において全く国を愛しておらず、自らが所属する利益集団だけを愛している。


(1b)ファシズムと共産主義

 イタリアのファシスト運動は、同時期に高揚した共産主義運動の影響下にあり、共産主義の多くの活動形態を模倣した。また実際ナチズムの場合、その党内には後に党内右派に粛清される社会主義者が存在した。ただしその活動形態の類似は、単にファシストが共産主義運動を模倣したことだけでなく、両者の支持母体の共通性にも従う。共産主義とファシズムのいずれにおいても、その運動の牽引者および支持者は、国内において虐げられて不利益を受けていた社会階層である。ただし共産主義の支持母体が無産者であったのに対し、ファシストの支持母体は自己資本を持つ小資本家であった。しかし小資本家は、無産者に対する搾取者にもなる。そして当時の共産主義運動は、資本家の大小に関わらず、搾取する小資本家を容赦無く攻撃していた。それゆえに両者はその類似性に関わらず、互いに相手を敵として憎悪し対立した。一方でファシズムは共産主義のような平等社会の未来像を持たず、科学的合理性への信頼も無い。その運動の根底にあるのは、自らの零落に対する怨嗟であり、無方向な支配の衝動である。その非合理な情念は、人権や平等の理念と適合しない。実際にファシズムは、平等の理念を攻撃し、強者による弱者支配を唱えた。また本来的に社会主義や共産主義は、平等な人権に根差す国際主義である。それに対してファシズムの対外政策は、他民族支配を目指す帝国主義に収斂する。そこでファシズムが民族主義に傾斜するのは、それが人権と平等と競合できる理念を代表するからである。ファシストはその民族主義において、自らの民族的優位を確信している。しかしその確信に特段の根拠は無い。その民族優位性の多くは、異民族に対する自民族のインフラの優位や富裕度に従う。つまりもっぱらその確信は、単純にその地域における土着特権に従う。とは言え民族主義は、それだけだと独裁の根拠として弱い。ファシズムにとっても、民族主義だけを口実にして、同じ国民を弾圧する上で非合理である。それゆえにファシズムは、その粉飾のために社会主義を看板に掲げる。しかしここでファシズムが語る社会主義は、人権と平等を実現するためのものではない。彼らの社会主義が目指すのは、彼らの考える国家権益の実現にある。もちろんその国家権益は、実際には特定の利益集団の権益であり、国民全体の権益ではない。このためにファシズムが掲げる社会主義は、特定の利益集団から外れた多くの人権を、当たり前のごとく侵害する。結果的にその矛盾は、人権の実現を目指すはずの社会主義が、恒常的に人権を侵害する奇怪な事態に至る。そしてそのあまりのギャップのゆえにファシズムも、自らの民族社会主義を本来の社会主義と区別し、国家社会主義を自称した。その呼称は今でこそ排外的民族主義の劣悪思想を表現する。しかしその登場当初の国家社会主義は、共産主義に対抗可能な超人思想としてもてはやされていた。


(1c)スターリン主義

 ファシズムにおける自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動は、共産主義にとっても他人事ではない。それは共産主義において労働者階級の階級的憤怒であり、その理解が搾取資本家に対する容赦無い攻撃を正当化させる。また目指すべき目標が人権と平等な生活の実現であるなら、目的が手段を浄化すると信じられてもいた。そしてロシアにおいてレーニンが赤色クーデターを実現すると、ロシア・ボリシェヴィズムが共産主義を体現するようになった。しかしその共産主義の左傾化は、レーニンにおける民主主義軽視の姿勢を、さらに共産主義陣営内で徹底させる。結果的にそのレーニンの致命的欠陥は、ロシアに人権と平等な生活を実現するどころか、その対極の世界を生み出した。それがソヴィエト・ロシアにおけるスターリンの共産主義独裁体制である。なるほど共産主義は、ファシズムの独裁体制と敵対した。ところが共産主義の独裁体制は、その敵対した体制と差異が無く、むしろもっと非道であった。その独裁体制は国内における他党派だけでなく、自らの対立勢力となり得る党内諸派の全てを暴力的に駆逐した。さらにそれは国内において宗教や文化芸術、社会科学など、自らの対立勢力となり得る全ての思想の芽を壊滅させた。そして国外においてその独裁体制は、旧時代のロシア権益の暴力的回復とそのための対外的な軍事進出を進めた。その対外膨張の理屈では、あからさまにロシアの民族主義が謳われた。しかしそれは、理論としての共産主義と関係無いものであった。結局その共産主義独裁は、民族主義ファシズムを単に共産主義色に染めあげたものとなった。しかしその共産主義色は、それが偽りだとしても、やはりロシアの民族主義独裁を制約する。またその共産主義独裁の成立過程は、民族主義ポピュリズムから生じる民族主義ファシズムと異なる。したがってその差異は、共産主義のファシズムを民族主義ファシズムから区別し、赤色ファシズムとして扱う。しかし共産主義の金看板は、その体制がただ単に赤色ファシズムだと言う真実を覆い隠した。また共産主義者を含めて左派活動家の多くが、その赤色ファシズムを、ロシア共産主義の存命のために必要なものと理解した。この左派活動家の沈黙においても共産主義の金看板は、大きな役割を果たした。結果的に全世界の左派活動家がファシズムを糾弾する中で、ロシア共産主義がもたらした人道的災厄の多くが無視された。ロシア共産主義独裁の真実は、ロシア共産主義独裁が自らに加えた桎梏に耐えきれず、自ら悲鳴を上げたことで、ようやく全世界的な公然の事実となる。しかし第二次大戦後の戦後復興でそれなりにロシアの国力が回復すると、再びロシア共産主義独裁は、ロシア全土をスターリン式独裁の酸欠状態の中に沈没させる。その独裁がもたらす桎梏に対して、再びロシア共産主義自身が音を上げるのは、その30年後となる。ただしこのときにロシア共産主義の方向転換は時すでに遅く、ロシア共産主義体制自体が崩壊した。


(1d)赤色ファシズムとプーチン独裁

 ソヴィエト・ロシアの共産主義の金看板は、ロシアの赤色ファシズムの存命に大きな役割を果たした。その一方でその金看板は、ロシアの赤色ファシズムにとって足枷でもある。それは共産主義的平等をロシアの赤色貴族に要求し、赤色貴族の特権を制約する。その体裁を整える上でロシアの赤色貴族の階層は、企業における役職階層よりも、軍隊における指令系統に近いものとなる。またその政策決定の方向も、ファシスト集団の民族的な利益実現ではなく、ロシア共産主義体制の秩序維持とその対外的拡張に重点が置かれた。前者の民族的な利益実現と後者の共産主義体制の秩序維持は、建国当初のソヴィエト・ロシアにおいて多くの点で同一であった。しかしその軍隊における指令系統は、ファシスト集団の個人的な利益実現に対立し、自らを窒息させた。また自由な報道が無い巨大化した体制において、軍隊式の上位下達には限界がある。その現場無視の硬直した指令系統は、一方で体制の末端に進むほどに怠惰と指令無視を蓄積させる。他方でそれは、中間指令系統における汚職と腐敗を生む。さらにロシア権益の地方民族と東欧共産圏への分配は、ソヴィエト・ロシアの大きな負担でもあった。そこでソヴィエト・ロシアがその補正を目指すと、共産主義体制の秩序維持と対外的拡張が、反対に体制の配下にいる民族と東欧共産圏の自立へと作用する。しかしそれは、当時のロシアの民族的利益を損なうものだともみなされ得る。しかもその不協和音は、ロシア国内において進行した地道な国民生活の安定、および西側報道を通じた西側比較での相対的貧困の露呈により増大した。そしてそれは、ロシアの指導部と軍部の対立に発展し、最終的にソヴィエト・ロシアを崩壊させた。ちなみに北朝鮮のウルトラ・スターリン主義体制の存続を可能にしたのは、国内における国民生活の安定の遅延であり、その絶対的貧困を暴露する西側報道の侵入阻止である。そのどちらが崩れても、おそらく北朝鮮の独裁体制の存続は難しい。この旧ソ連や北朝鮮に比べると、中国の赤色ファシズムの行方はまだ流動的である。中国における情報統制は旧ソ連よりゆるやかであり、民主化を含めた中国近代化の必要についても、共産党内に常に理解者が現れてきた。その歴史的経緯が、中国の流動性を支える。それゆえに中国共産党独裁政権に対する現在の対応についても、中国がポスト習近平時代という形で、民族主義と国際主義のどちらの方向にふれるかの見極めを要する。一方でロシアは共産主義の金看板を失うことにより、その赤色ファシズムを民族主義ファシズムに純化させる国内基盤を得た。ロシアの特権集団は、今では平等や革命などの共産主義的使命を気に掛ける必要も無い。彼らは純粋にロシア民族主義を謳うことで、自らへの利益集約を可能にしている。実際にプーチンの狙いも共産主義の復権ではなく、純粋にロシアの民族的栄光の復活である。またそもそもプーチンは共産主義を嫌い、独裁に抵抗する貧者による革命一般を否定している。彼がスターリンに興味を示すのも、ただ単にスターリンにおける赤色ファシズムを尊敬するだけの理由に従う。


(1e)宗教的原理主義

 独裁的秩序の転覆に必要なのは、独裁的秩序に対抗する革命集団の擁立であり、その維持と拡大である。ひとたび革命集団が擁立されれば、独裁的秩序の下での不合理な貧困と差別が、むしろその革命集団の増大に作用する。ただし貧困と差別に苦しむ者が革命集団の側に合流するのは、彼らが自らの苦悩の原因を独裁的秩序に見出す場合に限られる。ところが不合理な貧困と差別に苦しむのは、もっぱら無学で粗暴な底辺世界の住人たちである。そしてその無学と粗暴が、往々にして彼らをそのまま底辺世界に押し留める。それどころか彼らにおける自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動は、むしろ彼らをファシズムに誘う。このときに独裁的秩序の支配層が彼らを積極的に支援して自らに癒合するなら、無学で粗暴な底辺世界の住人たちは独裁的秩序の支配層に加わり、その独裁的秩序を補強する。それゆえに発展途上国における革命は、貧者における階級的怨嗟を正しく特権支配層の側に向けさせるような単純な説明を要する。そしてその単純な説明に適した思想に共産主義が選ばれてきた。ところが共産主義の看板の腐食は、世界の民衆を共産主義から離反させた。それでもここで必要なのは民主主義革命であり、共和制の実現である。しかし独裁的秩序の転覆に必要なのは、先に示した通り、やはり独裁的秩序に対抗する革命集団の擁立とその維持と拡大である。ところがその主体となるべき民衆において民主的であろうとする部分は弾圧され、他方の部分が愛国ファシストに転じて独裁的秩序を支持する。結果的にその革命主体の不在、および共産主義の歴史的後退は、不合理な貧困と差別に苦しむ民衆に、非民主的かつ非愛国的かつ非合理な革命主体を擁立させる。そしてもっぱら宗教がそこに現れる。それはもっぱら宗教的因習に従う伝統的な家父長的社会秩序として現れる。その非民主性を支えるのは、硬直して定型化した社会原理である。その原理は定型化しており、話し合いを要しない。そして話し合いを要しないがゆえに、その革命集団において個々のメンバーは消耗品となる。その革命集団において骨となるのは、原理的な社会秩序の思想である。一方でこの革命集団の非愛国性は、既存の支配層の代わりに神の信託集団を国家に据える。つまりその革命集団は、既存国家への反逆において、個々のメンバーに新たな国家を与える。結局その革命主体は、既存の愛国ファシズムが支持する支配集団の代わりに、異なる支配集団を擁立しただけの別種の愛国ファシズムにすぎない。またすぐ判ることだが、その革命集団の活動形態と組織方針は、レーニン型ボリシェヴィズムである。つまりその別種のファシズムは、没落した共産主義の代わりに、宗教的原理を革命思想に据えただけの別種の赤色ファシズムでもある。ただ赤色ファシズムと違い、この原理主義ファシズムは、民族主義ファシズム以上に平等社会の未来像を持たず、科学的合理性への信頼も無い。おそらくその擁立する未来社会像は、イラン式の原理主義聖職者集団の宗教的専制国家、またはサウジアラビア式の宗教的君主国家である。そしてその科学的合理性の欠如は、自己破壊的なカルト式熱意において、他宗派と他民族、および体制内の民主主義者の殺戮を正当化する。当然ながらその話し合いの否定は、他の民主国家との話し合いを否定するだけでなく、宗教的原理主義者同士の話し合いを否定する。したがって彼らは、紛争の終止符の打ち所を知らない。つまり共産主義の歴史的後退は、旧時代の悪鬼を現代に蘇らせるものとなった。


(2)ファシズムにおける観念論

 ファシズムは国民の精神的支配を目指し、その精神的支配の頂点に体制支配層を鎮座させる。その支配の不当性は、民主主義の不在にある。そして民主主義の必要は、独裁支配層の経済的特権が持つ不当性暴露の必要に従う。加えてその不当性暴露を可能にするのは、自由な報道である。自由な報道が目指すのは事実報道であり、思い込みの虚偽ではない。端的に要求されるのは対象の物理認識であり、その言い訳ではない。これに対してファシズムは、言い訳を通じて対象の物理的様相それ自体の隠蔽を謀る。そしてそれを推し進める形で、ファシストは事実報道を遮蔽し、自由な報道を窒息させる。この自由な報道の欠落は、そのまま民主主義を不可能にする。ここに待ち構えているのは、階級対立が対象認識を不可能にする認識上の困難である。マルクスにおける哲学者としての問題意識もここにあり、彼が共産主義革命を提示したのもその解決指針に従う。ファシズムにおける対象認識の遮蔽は、その成長過程に連携している。以下にその成長過程を確認する。


(2a)ファシズムと民主主義

 民族主義ファシズムは民主主義ポビュリズムの中から発生する。彼らは弾圧されてもいないのに、自ら挑発的暴力を繰り返して鎮圧され、それを政治的弾圧とみなして抗う。彼らにとって批判一般は自らの信条への脅威であり、その批判を暴力で封じ込める。その言論弾圧は、ファシストが権力の座に近づくほどに過激になり、最終的に批判者を他民族の外国人、または外国の手先とみなして収容所に収監し、処刑する。この民族主義ファシズムは、もっぱら実在したことも無い理想的な過去の復元を目指す。もちろんその非現実な復古主義は、宗教的原理主義においても変わらない。その理想的過去は、民族主義ファシズムにおける民族的栄光と同様に、実は極悪な過去を逆に美化して生まれた幻影である。それゆえに両者はともに、伝統的な強権的家父長秩序の復活を目標とする。単純に言うとその目指す目標は、強者による弱者支配である。いずれにおいてもその背景にあるのは、自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動である。一方で宗教的原理主義は、赤色ファシズムと同様に、民主主義ポビュリズムの中から発生するのでなく、もっぱら既存の独裁的秩序に対する転覆要求から生じる。そしてそれらの背景には、民主主義の未発達な社会状態がある。しかし革命集団の目標が独裁的秩序の転覆なら、その転覆後の社会秩序は、独裁の対極である民主的秩序となるべきである。このときに革命集団が集団外からの批判を許すのなら、自らの集団内部からの批判を許さないのは、不合理である。それゆえに革命集団が民主的秩序を目指すのなら、その革命集団はそれ自身が民主的である必要を持つ。この場合に宗教的原理主義であろうと、赤色ファシズムであろうと、その当初は民主的でなければいけない。とは言え、組織における批判の抑制は、その組織に迅速な行動を与える。その一方で批判の抑制は、組織行動の柔軟性を奪う。それは組織内外の問題検討を不十分にし、その問題対応を困難にする。それゆえに独裁体制においてさえ支配層は、自らの周辺に有識者を必要とする。当然ながらこの自由な意思疎通は、民主的組織ではさらに必要とされる。理想を言うとそこではメンバー全員が個々に有識者となる。ところがこれらの民主主義の必要は、やはり意思決定の遅延をもたらす。そしてその遅延は、革命集団の迅速な局面打開の対応において命取りである。ただし一般的な運動方針は、必ずしもそのように局面打開の迅速性を必要としない。それが要請されるのは、革命集団に対する独裁体制による弾圧への対処である。革命集団における組織防衛の必要は、革命集団内部における民主主義を制約する。それは革命集団に対し、メンバー間の自由な意思疎通を制約し、指揮系統を分裂させることにより、摘発時の被害を局所化する組織形態を選ばせる。この場合に上位組織を防衛するために、その指揮系統も旧式軍隊の上意下達になる。しかし端的に言うとこの組織形態に組織方針を話し合う余地は無く、したがって非民主的である。民主主義を目指す革命集団が、非民主的になるのは矛盾である。そしてこのジレンマが、革命集団自体を非民主的に変質させる。その変質の背景には、革命集団内部における支配層の不当な経済的特権が控えている。ちなみに組織防衛のために必要だった民主主義の制約は、少なくとも革命集団が政権奪取した後に不要となる。それゆえに革命集団が政権奪取した後に民主主義に制約をかけるのは、その革命集団自体の虚偽性を表現する。


(2b)ファシズムと善

 独裁的秩序がもたらす不合理な貧困と差別は、自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動と癒合して新たなファシズムの芽を生む。その一方は既存秩序を補完する愛国に純化し、他方は既存秩序を破壊する反体制的情熱に純化する。ただしいずれの情熱においても、その正当な部分はファシズムに進まずに、民主主義の実現に進む。両者に共通するのは、その不幸な境遇に対応した自らの空虚であり、その虚無の代償を得ようとする渇望である。もしその渇望が単純な自己富裕の実現に留まるなら、そこに特段の善は必要とされない。しかし不合理な貧困と差別にある者は、そもそも普通の暮らしでさえままならない。このときに物理的富裕から見放された人間が目指すのは、精神的富裕である。そこに現れるのは、物理的価値ではなく精神的価値であり、すなわち善である。またそれゆえに人は、不合理な貧困と差別の中にあっても悪徳の中に身を委ねず、逆に悪徳を避ける。しかし人が虚無の代償に善を得ようとするほど、その善の純粋さが人を自己否定に追い込む。そしてその自己否定は、その個人における善に対する滅私奉公として現れる。特に不幸な境遇にある個人にとって、否定すべき自己はもともと既に無に等しい。むしろ失う者の無い無産者の方が、容易に善を通じてより大きな価値を手にする。それどころか失う者の無い無産者は、自らの生に絶望しており、死に場所さえ求める。その死の代償が善であるなら、彼は容易に死を望む。もちろんその典型例は、原理主義における自爆テロであり、そもそも原理主義が手本にした民族主義や共産主義における自己犠牲行為である。いずれにおいても絶望は人に対して、命を賭した挺身行為に誘う。ところがその命がけで得た善が本物の善であるかどうかは、また別の問題である。もしその行動が本物の善を実現するなら、その死も無駄にならないかもしれない。しかしそうでなければ、その死は無駄であり、場合によって正反対にそれは悪を実現させる。厄介なのは、命を賭した挺身行為を行う個人が、ただ単に死にたいだけであり、死ぬ口実として既存の正体不明の善を使う場合である。その場合にその善の真偽は、彼自身にとってもどうでも良い。このときに彼の対他存在は、結果の生死に関わらず、その虚偽の善を信奉する組織において聖人となる。しかし彼が本物の聖人であるかどうかは、相変わらず別の問題のままである。ここで必要となるのは、既に善ではなく、真理である。それは意識が捏造するものではなく、物理が構成する。その物理は、情報の直接性と量を必要とする。その情報量は一方で空間的量であり、他方で時間的量であり、同時に広がる事実の連鎖と時間経緯において整合する必要を持つ。そのような情報全体の体系だけが、その個々の情報間の整合性確認を通じ、物理的真に近づく。


(2c)ファシズムと真理

 ファシズムの信じる善は、物理的真に対立する。単純に言えばファシズムの善は意識の捏造であり、単に思い込まれただけの嘘である。それは直接的情報とその量と整合せず、逆に直接的情報とその量がその嘘を露呈させる。それゆえにファシズムは情報一般に敵対し、自ら信じる嘘を正しい情報と称して外部世界に流通させる。このときにファシストの組織指導者は、自らに都合の悪い情報を組織内で沈黙させる。しかしその同じ情報は、組織外からも飛来する。それゆえにファシストが国家を支配するなら、国内におけるファシズム組織に対する不都合な情報の全てを暴力的に封じ込める。さらに彼らは国外からの情報を遮蔽し、国外情報が同調する国内批判者を外国諜報機関の代理人とみなし、売国奴に仕立て上げる。一方で自由な報道とは自由な表現であり、自由な表現は虚偽表現を含む。もともと物理的真は、その実態と正反対に現象することも多い。それゆえに直接的情報と言えども、往々にしてそれは単独で虚偽となる。そのために直接的情報は、事実の連鎖と時間経緯において整合する必要を持つ。このことは表現が虚偽になる一般的な可能性を示す。それゆえに端的に言うなら表現の自由とは、虚偽を述べる自由でさえある。しかし虚偽表現は正される必要がある。ただしその否定は、物理的暴力によって行われるのではなく、対抗する正規表現と話し合いが行う。ここで虚偽表現を是正するのも、事実の連鎖と時間経緯における整合性に従う。それが期待するのは、納得による虚偽表現の自己縊死であり、自然死である。そうでなければ虚偽表現の暴力的否定は、そのまま表現の自由の否定に連携する。ところがファシストは、この虚偽表現の補正必要を逆手に取る形で、ファシストに都合の悪い自由な表現の全てを弾圧する。実際にはそこでファシストが恐怖する対象は、自らの嘘の露呈であり、自己欺瞞の自覚である。その自己欺瞞は、例えば勝てば官軍であるとか、信じ続けた嘘は真実に転じるとかの虚偽格言に自らの居場所を求める。それが表現するのは、真理は意識であり、意識が真理を規定すると捉える観念論の王道である。しかし物の見方を変えたところで物理的真は変わらない。主権国家を侵略したのはロシアであり、ロシアが加害者でありウクライナは被害者である。不幸の現実を思い込まれただけの幸福に塗り替える虚言を、物理的真は許さない。またその自覚があるからこそロシアファシストは、ウクライナで起きた戦争の真実をロシアの自国内から排除する必要を持つ。おそらく現代の戦争に対する正しい方策は、そのような現実をファシズム国家の国内にあますことなく流布させることである。そして現代世界は、この方策を実現する強力な武器としてインターネットを生み出した。ところが現状を言えばインターネットにおいてさえ、相変わらずそこにファシストによる情報防衛網が構築されつつある。また一般的見解とか学問的見解と称する情報も、実際にはそもそも多様に満ちて対立し合っている。しかも貧困が蔓延する独裁体制下では、外国語翻訳の困難だけでなく、そもそもインターネット自体が完備されていない。そして戦争が終結していない現実も、この世界における事実情報の基盤的欠落を表現している。


(2d)真理と良心

 上位階層への批判や指摘が不可能な国家では、そのような情報発信行為が発信者の命取りとなる。そこでは上位階層の問題を改善できず、現場無視の指揮系統の責任を誰も取らない。当然ながらそのような国家では、汚職と腐敗も批判されずに放置され、蔓延する。そしてその腐敗は最上位階層に集積するので、最上位階層における中心的指導者でさえ、その利害対立の中で抹殺される事態が生じる。このような事態は、国家水準の場合に限らず、非民主的な革命集団内部の職業的革命家の間でも生じる。ただし革命集団における汚職と腐敗は、単なる組織上位階層の生活利益により生じない。そのような上層部の生活利益を追求するだけの革命集団は、暴力団やネズミ講と同様の、不法な経済的搾取集団と変わらない。もともと革命集団のメンバーが期待するのは、やはり悪に対抗する善である。そしてその善の対極にある悪を、独裁体制が体現する。それゆえに非民主的な革命集団におけるその特異な汚職と腐敗は、そのスローガンとする独裁体制との対決において先鋭化する。一見するとそれは組織における汚職と腐敗ではなく、むしろ民族主義や共産主義、または宗教における自己犠牲的献身の深化である。さしあたりその汚職と腐敗は、集団指導部における物理生活的な私的資産の取得に進まない。しかしその代わりに集団指導部は、精神的資産を取得する。その精神的資産は、民族主義や共産主義、または宗教の自己都合的解釈である。しかしそれは、その解釈の徹底を通じた組織内権力の私物化となる。そして結局その精神的資産の私物化は、物理生活的資産の私物化に転じる。本来なら革命集団の自己犠牲の献身相手は善であり、集団指導部がその善を体現する。ところがその集団指導部が批判や指摘を免れていれば、その集団指導部が善を体現しているのかも怪しい。そして集団指導部が汚職と腐敗にまみれているなら、その自己犠牲的献身も、集団指導部が提唱する善を実現するだけになる。そして集団指導部が提唱する善が実は悪なら、その自己犠牲的献身も、実際には善ではなく悪を実現することになる。このときにその革命集団は、その過激なスローガンと正反対に、暴力団やネズミ講と同様、あるいはもっと不法な経済的搾取集団に転じる。この場合に末端メンバーは、善が実現すると信じながら、悪を実践する。ここでの集団指導部が行う善の粉飾は、末端メンバーを現実乖離に晒す。しかしもっぱら末端メンバーはその現実乖離を、集団指導部が示した組織方針に従って無視する。このときに彼の心を支えるのは、悪を善に塗り替えることへの無反省である。そこには物理の塗り替えを意識の勝利と勘違いする間違った観念論がある。ところが良心は真理の側に立っており、真理だけが良心の声として現れる。もちろんファシストも、自らの行為を良心に従ったと思っているであろう。しかしそうであるならファシストは、真理の隠蔽に走る自らの行動様式を説明できない。このときに隠蔽される物理的真は、ファシストに対して良心の声として現れる。したがって真理を隠蔽するファシズムは、自らの思惑と逆に良心の声の対岸に立つ。その虚偽と真理の両岸を隔てる深淵を構成するのは、相変わらず経済的階級の差異である。

(2024/01/14)
続く⇒ロシアン・ファシズムの現在(2)
英語版(1a)⇒The present state of Russian fascism (1)
英語版(1b)⇒The present state of Russian fascism (2)

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数理労働価値(第四章:生産要素表(3)生産拡大における生産要素の遷移)

2023-12-03 10:10:25 | 資本論の見直し

(10)生産拡大における生産要素の遷移

 上記に記載した生産要素を一覧にすると、以下にまとまる。

[物財生産工程における基礎的生産要素]


[物財生産工程における生産要素の遷移]


ここで上記の生産要素の一覧で捨象してきた物財の価値量についても、以下にその遷移を追記する。

[物財生産工程における価値量の遷移]


もともと価値量と物財量は、10進数と12進数の違いと同様に、単位規模が違うだけの異なる量表現にすぎない。その変化を物財量と同様に追跡しても、上記表と同等の遷移を示すだけに見える。しかし上記遷移で見ると、不変資本導入後の拡大再生産で物財生産量数が増大する一方で、物財価値量は増大していない。これは物財生産量の増大を受けて、物財の単位価値が下落したせいである。価値単位減少の場合に比べると、拡大再生産の剰余価値搾取は、純生産物価値量がx/(x+r)だけ減少する。つまり純生産物rを労働者から直接搾取する価値単位減少と違い、拡大再生産は純生産物rを大きくするほどに、その取得価値量rpを減少させる。それは単純に不労取得者自身における搾取の相殺を示す。この純生産物価値量の減少だけを見ると、拡大再生産は価値単位減少に比べて剰余価値搾取を緩和する。しかしこの緩和は、上記表が生産物を全て消費する前提に従う。ところが不労取得者がいくら貪欲でも、彼は貧民より何倍もの食事をできない。彼はせいぜい労力のかかる高級食材をそこそこ多めに食べるだけである。このことは食事に限らず、衣食住の全体に該当する。また無駄な消費は、不労取得者にとっても無駄である。特に不労取得者が金融資本家であるなら、彼にとって消費の抑制それ自体が拡大再生産を実現する。それゆえに不労取得者は自らの消費を抑制し、多くの取得価値が死蔵される。この場合に上記に見られた搾取の相殺は実現しない。一方で無駄な物財生産の拡大再生産も、消費不能な上限量で停止する。それは消費に対応しない物財生産を抑制し、資産家の贅沢に対応する物財に生産を集中させる。しかしこのような物財生産の拡大は、貧民にとって別世界の出来事に留まる。拡大再生産はそれだけでは、資本主義における生産と消費の不均衡、すなわち労働と所有の不均衡を解消しない。むしろその不均衡はより激化する。ここでさしあたり求められるのは、上記表5の価値単位増大かもしれない。しかしそれは、上記表を見るまでも無く、不労取得者の収益を減少させる。また不労取得者の裾野は薄く広く伸びており、その多くが自らの不労収益に満足していない。どのみち不労取得者にとって収益の減少は忌まわしき事態であり、彼は全力でそれを阻止する。ただしもっぱらその対策は、減少した収益を国庫から引出し、国庫経由で貧民に負担させるものとなる。


(11)生産拡大が前提する価値単位の相対的縮小

 上記表2でも上記表4でも拡大再生産は、価値単位、すなわち人間生活の物財生産量に対する相対的縮小を前提する。それは相対的縮小なので、生産増に比して小さい人間生活の増大でも拡大再生産は可能であり、生産減に比して大きい人間生活の縮小でも拡大再生産は可能である。したがって生産のための投下物財量aがゼロでも、価値単位cを以前より小さくすれば、拡大再生産が可能である。しかしこのことが逆に、投下物財量aの増大が価値単位cの減少より小さい場合に、縮小再生産を起こす。そして往々に景気後退局面でこの事象が発生する。それと言うのも価値単位cは、投下物財量aの減少を超える急激な減少に耐えられないからである。それゆえにこのことは、ケインズ式の財政出動による有効需要創出を有意にする。ただしその効能は、麻薬が持つ短期的効能と同じである。医者が治療に麻薬を使用する場合、医者は麻薬が苦痛を消す間に患部の治療を終了する必要がある。もし患部の治療が不十分だと、麻薬の効力が失われたときに、有効需要が増大させてきた人間生活の絶対的縮小が始まる。それがもたらす苦痛は、麻薬の投入前よりひどくなる。もちろんある程度の患部の治療がされていたなら、それなりに苦痛も麻薬の投入前より緩和する。しかし苦痛が再来する限り、さらなる財政出動による有効需要創出が要請される。そして患部の治療が進まなければ、国民経済全体の麻薬漬けが常態化する。このときに有効需要創出の出資者が、国民経済全体を牛耳る権利を得る。その出資者は、国民を相手にした債権者である。その出資者は必要であれば国民経済を破綻させるが、必要が無ければ国民経済全体の麻薬漬けを放置する。その債務利益は巨大なので、ほどほどに利益が出るなら出資者も満足するし、必要ならたまに損失が少々出ても困らない。もともと彼の収益の中心は、国債収入ではなく、もっと別の剰余価値搾取と金融利益にある。むしろ借金財政である方が、債権者は債務者を支配できる。支配者の心得は、領民を生かさず殺さずに支配することである。ただしこの意志は、具体的個人が体現するわけではない。またその意志の実現者も、自らが不労利益集団に選ばれた操り道具であるのを自覚しない。むしろ彼には基本的事実に対する無知と無自覚を要請される。単純に言うと彼の信念は、事実乖離した知であり、物理から遊離した純粋な観念論である。さもなければさすがに彼も、一方で事実を知りつつ、他方で虚偽を信じる自らの自己欺瞞を自覚する。そしてそのような信念を、不労取得者の相反する利害の全体が実現する。この意志が注意して監視すべきなのは、共産主義革命の勃発である。もちろんそのような危機を見越して、その意志はあらかじめ国民経済に破綻圧力をかけるし、共産主義者を事前に壊滅させる。もし事前にその壊滅に失敗して共産主義政権が樹立しても、彼は国民経済の破綻圧力によってその政権を瓦解させられる。なんなら実際に国民経済を破綻させることも彼は厭わない。その場合にその意志は、共産主義者の自滅を期待して、自らの拠点を国外に移す。事前の準備さえしているなら、彼の損失も限定的である。さしあたりの歴史的経験から言えば、共産主義者たちは自滅する。そうであるなら彼の国民経済の掌握は、再出発可能である。そのための資金に彼は困ってもいない。現状の経験から見ると、むしろその後の支配者の地位は、共産主義者の失敗を経ることで、より盤石なものになる。
(2023/12/03)

続く⇒第四章(4)二部門間の生産要素表   前の記事⇒第四章(2)不変資本導入と生産規模拡大

数理労働価値
  序論:労働価値論の原理
      (1)生体における供給と消費
      (2)過去に対する現在の初期劣位の逆転
      (3)供給と消費の一般式
      (4)分業と階級分離
  1章 基本モデル
      (1)消費財生産モデル
      (2)生産と消費の不均衡
      (3)消費財増大の価値に対する一時的影響
      (4)価値単位としての労働力
      (5)商業
      (6)統括労働
      (7)剰余価値
      (8)消費財生産数変化の実数値モデル
      (9)上記表の式変形の注記
  2章 資本蓄積
      (1)生産財転換モデル
      (2)拡大再生産
      (3)不変資本を媒介にした可変資本減資
      (4)不変資本を媒介にした可変資本増強
      (5)不変資本による剰余価値生産の質的増大
      (6)独占財の価値法則
      (7)生産財転換の実数値モデル
      (8)生産財転換の実数値モデル2
  3章 金融資本
      (1)金融資本と利子
      (2)差額略取の実体化
      (3)労働力商品の資源化
      (4)価格構成における剰余価値の変動
      (5)(C+V)と(C+V+M)
      (6)金融資本における生産財転換の実数値モデル
  4章 生産要素表
      (1)剰余生産物搾取による純生産物の生成
      (2)不変資本導入と生産規模拡大
      (3)生産拡大における生産要素の遷移
      (4)二部門間の生産要素表
      (5)二部門それぞれにおける剰余価値搾取


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数理労働価値(第四章:生産要素表(2)不変資本導入と生産規模拡大)

2023-12-03 09:16:56 | 資本論の見直し

(6)生産要素における投下物財の追加(不変資本導入)

 上記の生産要素の一覧は、自然物を原材料にして物財を生産する想定に従っている。つまり生産工程の始まりに必要な賦存物財が無い。しかし生産物はもっぱら自然物だけではなく、市場の物財を原材料にする。つまり自然物と市場物は、生産物の有機的構成を成す。ただ内実として前者の自然物は投下労働力であり、後者の市場物は、物財生産のための投下物財である。それは原材料や道具や機械として現れる。自然物との対比で言うと、投下物財は非自然物であり、人工物である。人工物は生産物なので、自然物と同様に、もともと投下労働力を実体とする。しかし投下労働力が生きた労働力であるのに対し、投下物財は物態にある死んだ労働力である。その死んだ労働力は、ここでの生産工程の開始前に投下された労働力なので、投下物財も賦存物財として現れる。一方でこの賦存物財は、上記表が実現した余剰生産物である。それは生産工程の中で消費されるが、そのまま消滅しない。単純再生産を維持するなら、賦存物財も投下労働力も、生産工程の終わりに再び最初の姿に戻らなければいけない。ただしここでは、賦存物財に特定の物財を想定していない。そこで少なくとも物財生産量は、賦存物財量を含めた投下物財量を維持する必要がある。したがって物財生産量は、先のxでは不十分であり、賦存物財の分だけ増産する必要がある。そして実現すべき物財生産量が増大するなら、その分だけ物財生産の原材料も増量する必要がある。ここでは物財一つ当たりの生産に使う投下物財量をaとする。ただここでの投下物財量aは、上記表2で取得した純生産物である。したがってその最大値も、単純に純生産物量を必要物財量で按分した値r/xになる。上記表に追記する形で、一部を変えた生産要素の一覧表を示すと、次のようになる。なおここでは上記の減量した人間生活が安定した状態を想定し、その労働力の必要物財量をcではなく、cとして表現する。ただしそのcの内実の人間生活は、既に減量している。下記表が表現するのは、不変資本導入をしたものの余剰生産物rの増量が出ないケースである。ここでは価値単位cが生産表1の値に戻っており、価値単位の減少で得た余剰生産物は失われる。その一方で、投下物財量と生産量の増分が相殺し合うため、余剰生産物は生産されない。なお実数値の基礎値にしている賦存労働力数L・前期物財生産量x・余剰生産物rの実値イメージに、上記表2の値を使用している。ただし価値単位cは、先の表1の値に戻している。また物財の単位当たり投下物財量aに、賦存物財量を維持可能な下限値0.13をあてている。

[物財生産工程における生産要素3(不変資本導入)]


上記表における物財一つ当たりの生産に使う物財量aは、物財一つの生産に先行して必要な賦存物財量であり、言い換えると物財一つの生産に必要な不変資本の大きさ、すなわち不変資本比率を表現する。上記はひとまずこの不変資本比率aを、純生産物比率(r/x)以下として示した。しかし不変資本比率aが純生産物比率(r/x)より小さいと、最終的に純生産物が残ってしまい、純生産物量がゼロにならない。したがって上記表の整合性から言えば、物財一つ当たりの生産に使う物財量aも、そのまま全て次の物財生産工程に投下されるべきである。すなわちa=r/xであるべきである。ただこの不変資本比率aは技術進歩によっても減少するし、生産者による不変資本投資の削減によっても減少する。そしていずれにおいても一時的に純生産物量は増大する。しかし不変資本による純生産物量の増大効果が大きいなら、不変資本投資を削減して利益を得たとしても、その利益は相対的に損失に転じる。また不変資本の登場は、不変資本に対応する労働力を必要とし、そのための必要物財量も本来ならaxだけ増えて、(1+a)xになるべきである。ただしそれらの影響分析は、次項以後に行う。以下の記述では、不変資本比率の増減に断りをしない限り、この「a=r/x」を前提する。ちなみに純生産物量がそのまま剰余生産物量であるなら、(r/x)すなわち(純生産物量/必要物財量)は剰余価値率を表現する。あるいは物財一つ当たりの生産に使う物財量aが単に物財一つ当たりの搾取割合にすぎないなら、aは剰余価値率である。


(7)生産規模拡大による純生産物の生成

 上記表では投下物財を生産要素に加えても、純生産物量の内実は「生産量x-必要資源Lc」のまま変わらない。しかしこれではそもそも投下物財を生産要素に加える必要も無い。生産者が投下物財を使用するのは、明らかにその使用が「生産量x>必要資源Lc」の拡大再生産を実現することに従う。そして投下物財がこの拡大再生産を可能にするのは、端的に言うと、そもそも投下物財が完成品であることに従う。基本的に労働力だけで物財を生産する場合、その生産物は生産工程における損失を含む投下労働力の全体である。一方で生産物の一部にあらかじめ完成品を混ぜた同じ量の生産物は、その完成品の混入比率に応じて、生産工程における投下労働と損失が減少する。極端に言うと、もし最初から完成品を100%混ぜるのなら、生産工程における投下労働と損失もゼロになる。そしてその投下労働と損失の減少は、そのまま投下労働力を原資に変えて拡大再生産を実現する。もちろんこれは投下物財が拡大再生産を可能にする単純な説明であり、生産する該当物財の完成品を投下物財に使用する必要は無い。協業が生産集団の中に熟練工の技術共有を実現するなら、これと同じ効果が生じる。さらに熟練工の代わりに自動機械を投下しても、やはり同じ効果が生じる。その効果は、梃子や歯車の使用がもたらす省力化と変わらない。ただしその効果が出るためには、先の直接的な剰余価値搾取と違い、物財生産量の増加が必要である。この点で言うと、純生産物量の増大は、先の直接的な剰余価値搾取の方が単純明快である。しかしそれは、短期に純生産物を生成するだけである。むしろそれは、労働力全体の人間生活の持続を困難にする。やはり純生産物の生成は、Lcに対するxの増大を目指す必要がある。ここでは労働力全体の人間生活の持続の必要が、長期に生産工程の入出力において弁の役割を果たし、拡大再生産への一方通行を結果する。一方でここで可能になる純生産物は、単なる余剰生産物である。この余剰生産物の消費者は、端的に言うと二極に分離可能である。一方の極では労働者が余剰生産物を消費し、他方の極では不労取得者が余剰生産物を消費する。もちろんその不労取得者は、労働者ではない。労働者が余剰生産物を消費する場合、価値単位cが増大する。しかし不労取得者が余剰生産物を消費する場合、価値単位cは増大しない。ここでの余剰生産物量は剰余生産物rとして現れる。単純に言うとそれは、不労取得者の生活資材である。しかしそのように余剰生産物が消費されれば、生産と消費の総計一致が実現する。それは既に「労働力全体の必要物財量Lc=物財生産量x」の総計一致を、過去のものとする。簡単に言うとその新たな総計一致は、「労働力全体の必要物財量Lc+不労取得者の生活資材r=期末物財生産量x」である。上記表で変更の加わる生産要素を示すと、次のようになる。なお余剰生産物rを加えた期末物財生産物数x、つまり(x+r)を下記でxで表現している。下記表が表現するのは、不変資本導入による期待通りの余剰生産物rの生産である。ここでは各種物財価値が定比例で増大する中で、価値単位cの相対的減少が余剰生産物の生産を実現する。実数値の基礎値にしている賦存労働力数L・前期物財生産量x・余剰生産物rの実値イメージに、上記表3の値を使用している。また物財の単位当たり投下物財量aに、賦存物財量を維持可能な下限値0.12をあてている。これは単位当たりに使う物財量aに前期余剰生産物を全量使う設定値である。

[物財生産工程における生産要素4(物財生産量の増大)]


(8)生産規模拡大における価値単位の増大

 上記の生産規模拡大は、不労取得者が余剰生産物を消費する一方で、労働者が余剰生産物を消費するのも可能である。この場合の拡大再生産は、労働者の必要消費量増大により、その余剰生産物を消費する。当然ながら不労取得者の取得物財量の増大速度は、この場合に減速する。そして労働者の人間生活に余裕が生まれるほどに、価値単位cが増大する。ここでも余剰生産物量は、剰余生産物として現れる。しかし労働者が余剰生産物を消費するので、それは剰余生産物として表面化しない。そして労働者が余剰生産物を消費することにより、生産と消費の総計一致が実現する。その余剰生産物量をrとし、上記表で変更の加わる生産要素を示すと、次のようになる。なおここでも余剰生産物rを加えた物財生産物数x、つまり(x+r)を下記でxで表現している。同様に一労働力あたりの余剰生産物rを加えた一労働力あたりの消費物財量c、つまり(c+r/L)を下記でcで表現している。下記表が表現するのは、価値単位cの増大による余剰生産物rの消失である。ここでは価値単位cに余剰生産物rを労働力に対して均等に増分させたので、投下物財量と生産量の増分が相殺し合い、余剰生産物は生産されない。実数値の基礎値にしている賦存労働力数L・前期物財生産量x・余剰生産物r、および物財の単位当たり投下物財量aの実値イメージに、上記表4の値を使用している。

[物財生産工程における生産要素5(価値単位増加)]


増大した労働力の必要物財量cは、その増量値がそのまま人間生活の必要物財量だと扱われるなら、もうcではなく、ただのcである。そしてそれが正規の労働力の必要物財量cに転じると、x生産の必要物財量Lcも正規のLcに転じる。一方で同じことは増大した物財量xにも該当する。物財量xは、そのまま労働力全体の必要物財量だと扱われるなら、もうxではなく、ただのxである。そしてそれが正規の物財量xに転じると、労働力全体の必要物財量xも正規のxに転じる。どのみち物財生産量と労働力の必要物財量が同じ比率で増大するなら、純生産物量はその拡大再生産によって増大しない。もし純生産物ゼロの生産工程でこの拡大再生産が始まっても、拡大再生産後の純生産物はゼロである。或る定量の純生産物を得る生産工程でこの拡大再生産が始まっても、拡大再生産後に純生産物は増減しない。むしろ物財価値は減価するので、その純生産物価値が減価する。しかし生産と消費が足並みを揃えて増大するので、総計一致は崩れない。このことは逆に、物財生産量と労働力の必要物財量が同じ比率で減少するなら、総計一致が崩れないのを示す。ただしそれがもたらすのは、以前より物資の乏しい貧相な人間生活である。そして人間の物理的な肉体は、極度の必要消費量減少に耐えられない。やはりここでも期待されるのは、縮小均衡する単純再生産ではなく、拡大均衡する単純再生産である。


(9)生産規模拡大における価値単位の減少

 上記表1に始まる単純再生産は、上記表2の剰余生産物搾取を通じて拡大再生産を通じて、上記表3のための生産工程の賦存物財を得る。それは死んだ労働力としての原材料や道具、さらには機械などの不変資本である。これらの物財は、物財生産を質と量の両方で安定させる。しかし労働者の貧困化と引き換えに手に入れる生産拡大は、労働者の生存限界を自らの限界にする。それゆえに生産要素にこの賦存物財を追加した拡大再生産は、それ以上の拡大を維持できずに単純再生産に立ち戻る。ただその一方で技術進歩は不変資本を通じて、物財生産の質と量を暫時増大させる。その増大は、一方で上記表4の不労取得者を増大させる拡大再生産、他方で上記表5の人間生活拡充を含む単純再生産を可能にする。それが実現するのは、一方における不労取得者の資本主義的利益の増大であり、他方における貧困化した労働者の人間生活の改善である。しかし労働者の人間生活は、不労取得者の致富欲の前で常に貧困を強いられる。それゆえに労働者の人間生活が改善するごとに、上記表4の人間生活の収奪と上記表5の物財生産の増大が同時に進行する。この二つの表の生産要素の合体は、次のように純生産物量の増大に拍車をかける。なお上記表4との比較で見ると、労働力全体の必要物財量が同じxであるのに、上記表4よりも純生産物量が増量する。この増量は、下記表6が上記表5における労働力全体の必要物財量xの減量を受けることに従う。つまり下記の必要物財量c±の内実は、cである。当然ながら下記表6の内実も、前出表4と同じになる。実数値の基礎値にしている賦存労働力数L・前期物財生産量x・余剰生産物r、および物財の単位当たり投下物財量aの実値イメージに、上記表5の値を使用している。

[物財生産工程における生産要素6(労働力の必要物財量cの減少、および物財生産量の増大)]


物財の生産工程における拡大再生産の実現は、一方で不労取得者を生み育てて増大させ、他方で減少した価値単位cを増大して復旧する。これらの拡大再生産を可能にするのは、労働力の特異な能力である。それは自らの人間生活より多くの人間生活を生産する能力である。その労働力の能力は、技術進歩に伴ってさらに強固となり、拡大再生産をさらに容易にする。その富の増大は、不労取得者が奪い取った人間生活をそれなりに労働者の元に返す。しかし労働力全体の必要物財量は、相変わらず物財全体の生産量より少ない。その少なさは、一方で不労取得者の増大に従い、他方で不労取得者における富裕の増大に従う。この剰余生産物搾取は、労働者の必要物財量を一人分の人間生活のままに押し留め、さらにその一端に極度の貧困を集積させる。その歪みは貧困の一方に獣以下の悪鬼を生み、貧困の他方に歪みを正す正義の主体を生む。共産主義の想定ではその歪みを正す主体は、不労取得者の中から生まれない。彼らは不労取得で生計を立てるので、歪みを根本的に解決する主体に適さない。すなわち正義の主体は、労働者の中から生まれる。ただし今のところ、その歪みを根本的に正した成功例は無い。その失敗理由は、簡単に言えば革命主体における民主主義の不在である。民主主義は、それが目的にする公正を実現するための絶対的に必要な手段である。しかもそれは単なる手段ではない。民主主義は、それ自身が自ら目的にする公正である。したがって民主主義は、手段と目的が不可分の同一体になっている。
(2023/12/03)

続く⇒第四章(3)生産拡大における生産要素の遷移   前の記事⇒第四章(1)剰余生産物搾取による純生産物の生成

数理労働価値
  序論:労働価値論の原理
      (1)生体における供給と消費
      (2)過去に対する現在の初期劣位の逆転
      (3)供給と消費の一般式
      (4)分業と階級分離
  1章 基本モデル
      (1)消費財生産モデル
      (2)生産と消費の不均衡
      (3)消費財増大の価値に対する一時的影響
      (4)価値単位としての労働力
      (5)商業
      (6)統括労働
      (7)剰余価値
      (8)消費財生産数変化の実数値モデル
      (9)上記表の式変形の注記
  2章 資本蓄積
      (1)生産財転換モデル
      (2)拡大再生産
      (3)不変資本を媒介にした可変資本減資
      (4)不変資本を媒介にした可変資本増強
      (5)不変資本による剰余価値生産の質的増大
      (6)独占財の価値法則
      (7)生産財転換の実数値モデル
      (8)生産財転換の実数値モデル2
  3章 金融資本
      (1)金融資本と利子
      (2)差額略取の実体化
      (3)労働力商品の資源化
      (4)価格構成における剰余価値の変動
      (5)(C+V)と(C+V+M)
      (6)金融資本における生産財転換の実数値モデル
  4章 生産要素表
      (1)剰余生産物搾取による純生産物の生成
      (2)不変資本導入と生産規模拡大
      (3)生産拡大における生産要素の遷移
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      (5)二部門それぞれにおける剰余価値搾取


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数理労働価値(第四章:生産要素表(1)剰余生産物搾取による純生産物の生成)

2023-12-03 09:04:09 | 資本論の見直し

(1)価値としての労働力

 物財生産にあたり最低限必要な資源は労働力である。労働力はそれ自体が財であるが、労働により自然物を財にする。それゆえに少なくともその労働力は、生産地から消費者に自然物を運搬することにより、その自然物を物財に変える。例えば生産者は、鉱石や魚介類を生産地から消費者の元に運搬し、それを生産物とする。この場合にその運搬労働が生産工程であり、運搬した物財が生産物である。ここでの物財生産量は、運搬した物財量に等しく、その運搬した物財の全体は、運搬労働を担った労働力の生活に等しい。それゆえに生産者からすれば、その運搬した物財全体は、運搬労働を担った労働力全体に等しい。調達困難な自然物であれば、その困難に応じて増大した労働力の全体が物財と等価になる。相変わらずその等価が示すのは、運搬した物財の全体と運搬労働を担った労働力全体の人間生活の等価である。そしてその人間生活は、人間生活に必要な全物財量に等しい。経済学で商品に追加労働を加えることで商品価値が増すことをもって、商品に対する投下労働で増加した価値を付加価値と呼ぶ。しかし拾ってきた自然物にもともと価値は無い。結局その自然物に投下した「拾ってきた」と言う労働行為が自然物に価値を付加する。そうであるなら、別に付加価値と言わずとも、価値の実体は、最初から投下労働力である。


(2)投下労働力の按分値としての物財単価

 物財は或る全体量を持ち、その全体の構成部分となる一定量を物財の単位にする。価値面において物財の全体量は、その取得のための投下労働力量を自らの価値とする。同様に物財単価も、物財一つ当たりに投下した労働力量と等価になる。上記例における物財単価も、物財一つ当たりに費やした運搬労働力と等価になる。それは物財全体を運搬した労働力全体を、物財量数で按分した値である。逆に運搬後の物財価値量は、物財量に物財単価を乗じた値となる。つまりここでの価値量と物財量は、10進数と12進数の違いと同様に、単位規模が違うだけの異なる量表現にすぎない。ただしここで生産者が期待する労働価値論は、投下した労働力が支配する価値量である。そのような価値量は、生産者が無意味に費やした労働力を含む。しかしそれは投下労働価値説ではなく、支配労働価値説にすぎない。投下労働価値説における価値は、物財の再生産に必要な労働力量を言う。ただどのみちここでの説明では、投下労働価値説と支配労働価値説の相違も現れない。


(3)物財の価値単位としての消費物財量(必要物財量)

 労働力は生産した物財を別の消費財と交換し、人間生活を営む。もし労働者が直接に物財を消費するなら、物財はそのまま労働者の生活資材であり、人間生活そのものである。この人間生活の大きさは、消費物財量として現れる。それは一労働者の人間生活の大きさを表現する一つの定量として現れる。それゆえにこの消費物財量は、物財の価値単位となる。もちろん労働力が生産物財量を全て消費するなら、消費物財量は一人当たりの生産物財量と何も変わらない。すなわち “(消費物財量/労働力数)=(生産消費物財量/労働力数)” である。そうであるなら消費物財量ではなく、生産物財量が物財の価値単位であっても良い。しかし生産物財量は、消費物財量より多いことあれば、少ないこともある。しかし生産物財量と違い、消費物財量は人間生活の最低限の定量を持つ。それゆえに価値単位は生産物財量ではなく、消費物財量である。それは人間生活の最低限の定量なので、必要物財量と言っても変わらない。価値単位としての必要物財量は、物財の価値を表現する。簡単に言えばそれは物財の価格である。


(4)余剰生産物としての純生産物

 生産物量は、少なくとも労働力の人間生活に必要な資源量以上である。それが労働力の人間生活に必要な資源量よりも多いのであれば、その差分は、余剰生産物として現れる。この余剰生産物は、余剰の人間生活を可能にする。しかしこの余剰生産物の量は、そのままでは単なる物財量である。それがどれだけの余剰の人間生活を体現するか知るには、それを価値単位に換算する必要がある。もちろんその人間生活の量が表現するのは、余剰生産物全体の価値である。この余剰生産物は、生産者の人間生活に消費される必要を免れている。それは生産工程における純粋な生産物であり、純生産物として表現される。上記までに登場した生産要素を一覧表にすると、次のようになる。

[物財生産工程における生産要素1]


(5)剰余生産物搾取による純生産物の生成

 さしあたり余剰生産物としての純生産物は、物財の生産量と消費量の増減から現れる偶然の産物である。それは消費物財量Lcに対する生産物財量xの相対的な増大で生まれる。しかしLcに対するxの増大、またはxに対するLcの減少が余剰生産物を可能にするなら、余剰生産物の取得者も自然発生的な純生産物の出現を待つ必要も無い。彼は生産量xを増やし、必要物財量Lcを削ることで余剰生産物を生み出せば良い。ところが単純再生産にある生産工程の場合、生産量を増やすための労働力は不足している。必要物財量Lcに対する生産量xの増大は、やはり生産量xの自然増に期待せざるを得ない。もちろん或る種の技術革新は、生産量xの増大を実現する。しかしその技術革新は運まかせであり、結局生産量xの自然増と大差が無い。またもっぱら技術革新は、或る種の資源蓄積や協業システム、あるいは道具、機械のような物財として現れる。それは生産工程に対して生産工程開始前に投下される賦存物財として現れる。それは単純再生産にある生産工程にとって、生産工程から遊離した余剰生産物である。しかし余剰生産物は、拡大再生産によって生じる。拡大再生産の始まる前に余剰生産物は現れるのは、順序が逆である。このような事情から最初の余剰生産物は、剰余生産物搾取から生じる。すなわち拡大再生産は、必要物財量Lcの生産量xに対する減少から始まる。生産者にとって剰余生産物搾取は、運まかせを必要としない技術革新である。その余剰生産物は、労働者の人間生活を削り取って生まれる。それを可能にするのは、余剰生産物を意図的に発生させる致富欲である。その致富欲が前提するのは、余剰生産物を取得する搾取者の特権的地位である。上記表における純生産物の出現を、必要物財量Lcの減少から示すと次のようになる。なお余剰生産物rを減じた物財生産物数x、つまり(x-r)を下記でxで表現している。同様に一労働力あたりの余剰生産物rを加えた一労働力あたりの消費物財量c、つまり(c-r/L)を下記でcで表現している。また実数値の基礎値にしている賦存労働力数L・価値単位c・前期物財生産量xの実値イメージに上記表1の値を使用し、余剰生産物rに4,000,000を見込んでいる。

[物財生産工程における生産要素2(労働力の必要物財量cの減少)]


先の生産表1の単純再生産だと純生産物量はゼロだった。それに対して上記表は、一労働力当たりの消費物財量を減少させれば、物財4,000,000の余剰生産物を純生産物量として生産できるのを示す。一方で減少した労働力の消費物財量cは、その減量値がそのまま人間生活の必要物財量だと扱われるなら、もうcではなく、ただのcである。そしてそれが正規の労働力の消費物財量cに転じると、生産量xの必要物財量Lcも正規の必要物財量Lcに転じる。それはcを格上げることで、相対的に生産量xを格下げる。内実的にその物財生産は、以前に必要だった投下物財量を必要としない。それが実現するのは、単純に言うと物財の値下げである。この一連のcの格上げにより、純生産物量(x-Lc)も(x-Lc)となる。つまり純生産物量は、ゼロに転じる。上記の拡大再生産は、一時期的に労働者を貧困化させただけで、純生産物を生成できなくなる。それは拡大再生産の終焉であり、単純再生産を再興させる。このときの物財の値下げは、貧困化した労働者の恵みとなる。ただ上記と同形式の拡大再生産が持続するなら、労働者の貧困化も同じく持続する。しかし支配者と違い、支配される者は搾取規模の拡大を望まず、支配者に対して安定した搾取を期待する。この支配者と被支配者の双方の思惑が、支配者による定量搾取を実現する。それが実現するのは、余剰生産物の拡大再生産ではなく、定量の余剰生産物を必要生産物に含む形の単純再生産である。ここでの定量の剰余生産物は、労働者の人間生活を維持するための必要経費の如く現れる。
(2023/12/03)

続く⇒第四章(2)不変資本導入と生産規模拡大   前の記事⇒第三章(6)金融資本における生産財転換の実数値モデル

数理労働価値
  序論:労働価値論の原理
      (1)生体における供給と消費
      (2)過去に対する現在の初期劣位の逆転
      (3)供給と消費の一般式
      (4)分業と階級分離
  1章 基本モデル
      (1)消費財生産モデル
      (2)生産と消費の不均衡
      (3)消費財増大の価値に対する一時的影響
      (4)価値単位としての労働力
      (5)商業
      (6)統括労働
      (7)剰余価値
      (8)消費財生産数変化の実数値モデル
      (9)上記表の式変形の注記
  2章 資本蓄積
      (1)生産財転換モデル
      (2)拡大再生産
      (3)不変資本を媒介にした可変資本減資
      (4)不変資本を媒介にした可変資本増強
      (5)不変資本による剰余価値生産の質的増大
      (6)独占財の価値法則
      (7)生産財転換の実数値モデル
      (8)生産財転換の実数値モデル2
  3章 金融資本
      (1)金融資本と利子
      (2)差額略取の実体化
      (3)労働力商品の資源化
      (4)価格構成における剰余価値の変動
      (5)(C+V)と(C+V+M)
      (6)金融資本における生産財転換の実数値モデル
  4章 生産要素表
      (1)剰余生産物搾取による純生産物の生成
      (2)不変資本導入と生産規模拡大
      (3)生産拡大における生産要素の遷移
      (4)二部門間の生産要素表
      (5)二部門それぞれにおける剰余価値搾取


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数理労働価値(第三章:金融資本(6)金融資本における生産財転換の実数値モデル)

2023-10-09 11:20:27 | 資本論の見直し

(7)金融資本における生産財転換の実数値モデル

  上記までに記載した金融資本における生産財転換モデルは、変数記述なので判りにくい。そこで以下に実数を想定した生産財転換を以下に示す。なおここでは登場する各種値を次のように設定した。ちなみに1労働日あたりの労働力1単位の労賃に10,000円を想定している。


その他部門の預金額1,000,000円
預金利率  5%
貸出利率  8%
剰余価値率200%


金融資本における生産財転換モデルを預金利率に配慮して、生産資本における生産財転換モデルに準じて記載すると、次のようになる。

[金融資本における生産財転換モデル1] ※剰余価値率;200%、預金利率:5%


[金融資本における生産財転換モデル1での商取引]※▼:出力、△:入力


(7a)調達金利と貸出金利、卸売価格と店頭価格

 上記モデルにおける融資元本1,030,000は、金融部門の調達資金1,000,000と額面が異なる。また預金金利と貸出金利の差異が無い。そこで融資元本と調達資金を同額にし、その収支変更を貸出金利に反映させると、次のようになる。

[金融資本における生産財転換モデル2] ※剰余価値率;200%、預金利率:5%、貸出利率:8%

[金融資本における生産財転換モデル2での商取引]※▼:出力、△:入力、p1:調達利率、p2:貸出利率

(7b)資本循環起点の変更

 利子海資本としての金融資本では資本循環の起点が変わり、W-G―Wが、G-W-Gの運動となる。その生産財転換モデルは次のようになる。なお以下では、単発の資本循環で融資の返済を終える想定で、帳尻をあわせるために以下の想定をしており、不変資本を導入した消費財部門での資本蓄積は、資本循環の第二サイクルで初めて発生する。なおここでは表示を簡略化するために、剰余価値率0%にして、剰余価値搾取なしで特別剰余価値取得だけの資本循環を記載している。
 (注1)消費財部門不変資本1,000,000=資本財部門不変資本1,000,000
 (注2)資本財部門不変資本Cf=資本財部門(可変資本1,000,000+不変資本2,000,000)=消費財部門(不変資本1,000,000+可変資本2,000,000)
 (注3)消費財部門剰余資本∮gf(t-1)/t=金融部門不変資本1,000,000+貸出金利80,000

[金融資本における生産財転換モデル3] ※調達資本:1,000,000、貸出利率:8%、不変資本による生産増割合:7倍、∮gXは価値形態の∮X。

[金融資本における生産財転換モデルでの商取引3] ※▼:出力、△:入力、なお∮gXは価値形態の∮X。


(2023/10/09) 続く⇒第四章(1)剰余生産物搾取による純生産物の生成   前の記事⇒第三章(5)(C+V)と(C+V+M)

数理労働価値
  序論:労働価値論の原理
      (1)生体における供給と消費
      (2)過去に対する現在の初期劣位の逆転
      (3)供給と消費の一般式
      (4)分業と階級分離
  1章 基本モデル
      (1)消費財生産モデル
      (2)生産と消費の不均衡
      (3)消費財増大の価値に対する一時的影響
      (4)価値単位としての労働力
      (5)商業
      (6)統括労働
      (7)剰余価値
      (8)消費財生産量変化の実数値モデル
      (9)上記表の式変形の注記
  2章 資本蓄積
      (1)生産財転換モデル
      (2)拡大再生産
      (3)不変資本を媒介にした可変資本減資
      (4)不変資本を媒介にした可変資本増強
      (5)不変資本による剰余価値生産の質的増大
      (6)独占財の価値法則
      (7)生産財転換の実数値モデル
      (8)生産財転換の実数値モデル2
  3章 金融資本
      (1)金融資本と利子
      (2)差額略取の実体化
      (3)労働力商品の資源化
      (4)価格構成における剰余価値の変動
      (5)(C+V)と(C+V+M)
      (6)金融資本における生産財転換の実数値モデル
  4章 生産要素表
      (1)剰余生産物搾取による純生産物の生成
      (2)不変資本導入と生産規模拡大
      (3)生産拡大における生産要素の遷移
      (4)二部門間の生産要素表
      (5)二部門それぞれにおける剰余価値搾取


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