唯物論者

唯物論の再構築

ロシアン・ファシズムの現在(3)

2024-01-23 08:01:08 | 政治時評

(4)独裁国家民主化の方策

 ファシスト国家の侵略戦争を抑止し、その民主化を支える場合、ファシストが国民弾圧に使う各種の口実を挫く必要がある。もっぱらその口実を根拠づけるのは、ファシストが信奉する民族主義や原理主義宗教の妄言である。ファシストはそれらの理念を通じて、自らを民族的中核、または宗教的真理と喧伝する。そしてそれにより彼らは、自らに対抗する他者を一掃し、国家を支配する。ところがもともと民族主義の目標は、地域住民の自由と人権の実現に集約される。またそうであるからこそ、地域住民の自由と人権が阻害されたときに、迫害された地域住民の中から民族主義が立ち現れる。このような民族主義の意義は、宗教の意義においても変わらない。宗教は地域住民の純化した生活習慣であり、その形式だからである。この点で言えば、ファシストが民族主義や宗教を根拠にして国民を弾圧するのは、それらの本来の目標に反する。しかし民族主義や宗教は、自由と人権から切り離れて現れることもできる。もともとそれらが地域住民の自由と人権の実現を目指す理由は、該当地域住民が迫害される下位の生活集団であることに従う。しかし該当地域住民が下位集団を収奪し、支配する上位の生活集団であるなら、その支配地域における自由と人権の実現は、自らの生活に不利益をもたらす。それゆえに支配集団の民族主義と宗教は、容易に自由と人権の対極へと移行する。またそれらが実現しようとするのは、もっぱら該当地域における平均的多数者の伝統的生活にすぎない。このような民族主義と宗教は、単に多数者であると言う権利に従い、多数者から外れた個人や馴染めない個人、あるいは別形式の生活習慣を持つ集団、またはもともとの異国人を追い詰め、滅ぼす。それゆえに迫害される下位の生活集団においても、往々にして民族主義と宗教は、自由と人権の実現に対立する。そしてファシストが信奉するのは、結局その程度の民族主義や宗教である。それゆえに民族主義と宗教が自由と人権の実現を目指すなら、その目標のために自らの無根拠な形式性を離脱する必要を持つ。ここで求められているのは、多数者による少数者の暴力的抑圧ではなく、そして自由と人権の暴力的抑圧ではなく、話し合いにより地域住民の対立を調整する作業である。それ調整作業は、民族主義や宗教を根拠づける思い込みや迷信ではなく、現実世界の物理的事実を根拠にする。
 ちなみに民族主義や宗教が根拠にする思い込みや迷信は、可能であるなら、民族定義の変更、宗教の廃絶、または全宗教の癒合のような空想的手法により一掃できる。全世界的に国境線を均等サイズに細分化できれば、侵略戦争が口実を失なうので、民主主義がそれらの不満を吸収できるかもしれない。また大規模封印列車を実施すれば、独裁体制に抵抗する人材を独裁国家内部に移植できる。ほかにも難民の発生に対応して、ロシアのやり方を真似る形で、独裁国家の国境沿いの一部地域を難民キャンプ専用地に確保し、国際的に該当居住地域を支援して、民主化を局地的に確立させる新型植民地などの非現実な方策を考えられる。しかし民族的妄信や迷信の一掃は時間がかかるし、そもそもその一掃を実現できるなら、おそらく同時に独裁国家の民主化も完了する。また全世界的な国境線の均等分割は、それ自身が武力を背景にするか、全世界的な民主化の完了を必要とする。そして大規模封印列車を実施すれば、封印列車で送り込まれた反体制派や民主化知識人は、独裁国家に全員収容所送りにされるか処刑されてしまう。一方で前述の新型植民地は、ファシズム国家にとって侵略である。またファシズム国家において自国領土内に真理が出現することは、ファシストの虚偽にとって脅威でしかない。ファシストは自国領土内の難民キャンプを容赦なく爆撃することになり、戦火はファシストと難民の間で二つの相反する愛国の武力対決に発展する。しかしどれだけ資本投下して難民地区を近代化させても、駐留外国勢力が敗退すれば、日本の朝鮮併合と同様に単なる侵略の事実だけが残る。もしかすると30年後のアフガニスタンでは、現在の閉塞した国内状態も、タリバーンが残虐な外国勢力を駆逐した愛国武勇伝の世界として描かれているかもしれない。また二つの相反する愛国の武力対決が、停戦を通じて国内国境線を残すのであれば、それは第二次世界大戦後のドイツや朝鮮半島、またはベトナム分断の再来を招く。それは分断を残すことにより、双方の側の国内近代化を阻害する。そのように考えると、独裁国家の外部から武力を通じて民主化を実現させるのは、やはり無理があるように見える。もともと民主主義は暴力の対極である。民主主義を暴力で実現するのは、どのようにしても矛盾を残す。むしろ暴力で実現した民主主義は、容易にその反対物に転化する。そもそも民主主義は、正しい対象認識を実現するための道具に過ぎない。その基本は、自然科学における正しい対象認識の実現方法に準拠する。それは世代をまたがる研究者の間における批判と検証が実現するものである。そしてその批判と検証の手法こそが民主主義を構成する。つまりその学術的真理は、研究者が暴力的に確定するものではない。もちろんその学術研究でさえ、異なる認識主体の階級利害において捻じ曲げられて承認される。しかしその承認された真理も、最終的に物理的自然それ自体がその真を確定する。そしてその真が、自己利害において真理を捻じ曲げた者たちの虚偽を暴く。それゆえに民主主義をその基本から即して実現するのであれば、事実認識の流通から始める必要がある。


(4a)事実報道の整備

 独裁国家の内政に対する影響力は、文化芸術を通じた人権理念の提示、および独裁の現実を伝える事実報道として可能である。その行使が的確であるなら、その行使は民主化の必要を、支配層を含めた独裁国家の全国民に自覚させる。独裁国家への長期的な対応を言えば、この非軍事的方策は、前者の軍事的方策より重要である。その重要性は、その方策自体が非暴力であることに従う。それゆえに理想を言えば、諸外国は軍事的方策を一切取らずに、人権理念と事実報道を独裁国家に提示することで、その独裁を改悛させたい。例えばロシアによるウクライナ侵略において求められているのは、ロシア国民におけるウクライナで起きた惨劇の加害者としての自覚である。ここで必要なのは、ウクライナをロシアの下僕に扱うロシア意識、およびその非人間性を愛国と偽る民族主義の虚妄を暴き出し、それら虚偽意識がウクライナにもたらした地獄の惨劇をロシアに直視させることである。それがもし成功するなら、その事実系列の羅列は、犯罪加害者としての自覚をロシアにもたらす。またそれらの露呈と事実認識なしにロシアは、自らを犯罪加害者として自覚できない。もちろんその自覚に立ちはだかるのは、他国の所有物を奪い取ることを誇るような虚偽的な民族主義である。あるいはそのような行為を恥ずべきことと思わない国民気質である。しかしそのような民族主義と国民性も、民主主義にとって自らが一掃すべき対象にすぎない。ロシアや中国、北朝鮮のような独裁国家において他国の情報を制限するのは、その支配層がそれらの事実の拡散を怖れているからであり、自らの虚偽の露呈を危惧するからである。彼らが示す恐怖は、独裁の現実を伝える事実報道の威力をそのまま表現する。一方で物理媒体を伴う情報整備は、その媒体の進歩により規定される。過去の多くの時代においてその媒体は、もっぱら印刷文書であった。そこでの情報は、その真偽内容を別にして、何かについての伝承や研究や表現である。その情報は記号や形で表現されるので、情報の形状と内容の差異によって分類と体系を可能にする。その情報は、一方で現実世界の存在者の真を表現し、他方で現実世界の存在者の偽を表現する。さしあたり事実記録は真の現実世界の真を表現し、創作物は偽の現実世界を表現する。ただしその真偽区分は、対応する事実の有無に留まる。しかし事実記録もまた、一方で真の現実世界を表現し、他方で偽の現実世界を表現する。そしてその真偽は、情報の現実世界における実在の有無に対応する。もしその事実記録が実在しなければ、その事実記録はただの虚偽記録となる。虚偽記録の多くは、過去における事実記録であり、あるいは迷信となった過去の伝承である。そしてこのように情報の真偽も、情報についての分類と体系の一画を成す。もし情報の真偽が一覧検索可能であれば、情報捏造者が数多く発する虚偽も、瞬時に真偽判定において否定可能になる。ただしここで重要なのは個々の虚偽情報の捨象ではない。虚偽情報は、それ自身が虚偽の事実記録を成す。そこで必要なのは、その虚偽情報の出所と背景の特定であり、虚偽判定の根拠の明示となる。その地道な作業は、法廷における立件ならびに裁定の手順に準拠し、肯定と否定、弁護と検察の双方の主張の全てを記録したものとなる必要がある。


(4b)事物と観念

 事実報道の真偽は、さしあたり該当情報の有無に従う。単純に言えばそれはその意識の起源が、物理か観念かの差異である。ただし観念論に従えば、物理が現れるのは意識の場であり、意識の起源は常に観念である。その理屈に従えば、意識は直接に物理を知り得ない。この場合にせいぜい可能な物理は、異なる意識が共有する共同観念に留まる。この理屈は、物理を意識の他者として前提する。そしてその前提のゆえに意識は物理を知り得ない。しかし自己意識にとって、他人の意識も意識の他者である。そうであるなら、自己意識は他人の意識を知り得ない。したがって異なる意識によって共有される共同観念も成立し得ない。ただしこの観念論は、この不都合な事情には目をつむる。要するにこの観念論は、意識の蓋然を物理に扱う経験論である。一方で意識の蓋然は意識の不整合を多く含み、その補正を必要とする。その不整合の背景には意識の偶然があり、さらにその背後に物理の偶然を隠している。しかしいずれの偶然を規定するのも、物理的真である。その物理的真は、さしあたり同一律や矛盾律として現れ、現象の不整合を補正し、最終的に物理法則を実現する。もちろん観念論はこの物理的真を認めない。もっぱら観念論はそれらの物理規定を唯物論の信仰に扱い、それを意識の真に置き換える。その物理的真の否定は、ときに同一律や矛盾律の否定にまで至る。しかしその物理的真の否定は、物理的真に対立する意識の不都合に従う。あるいはむしろその不都合により、意識は物理的真に対して反発する。その葛藤が表現するのは、その意識の成立基盤と物理的真との対立である。ただし物理的真に対して反発する意識もあれば、それを受け入れる意識もある。むしろ現実世界に対応する意識は、物理的真を受容する。また唯物論から言えば、その物理的真に反発する意識の自己都合を規定するのも、やはり物理的真である。そして真理一般を自己都合で否定する意識の在り方は、既に虚偽である。それゆえに観念論による物理的真の暴力的排除は、放っておいてもそのうちに物理的真が否定する。すなわち現実の物理が、その自己欺瞞を打ち倒す。しかしその冷戦を通じた観念論の自己崩壊を待てないのであれば、観念論の側に物理的真をより早く流通させる必要がある。そして実際に80年代の衛星放送に始まる独裁体制下の事実報道の流通は、続々と独裁体制の崩壊を実現してきた。おそらく今必要なのは、その情報革命の加速であり、事実報道の整備である。一方で事実報道は物理の偶然と意識の偶然を含む。それに乗じて意識の自己都合は、その相反する事実を組み合わせて虚偽事実を捏造する。しかし捏造者は、既に自らの捏造の虚偽を知っている。当然ながらその知は、捏造者に嘘つきの自覚をもたらす。その自覚が捏造者に与える良心の呵責は、捏造者にその呵責を許す上位者を必要とさせる。そしてその必要に応じて物理の対極に宗教が現れる。しかしその宗教も自己都合で事実を捏造するなら、自ずと自己を捏造者として自覚する。いずれにおいても捏造者は、自らの一瞬の快楽のために、神の足元から離れて行く。宗教が真理の加護者であるなら、宗教は捏造者としての自己を許せない。結局その自覚が醸成するのは、一連の捏造者における敗北の自覚である。


(4c)ファシズム認定

 ファシズムは愛国の美名のもとで自らに不都合な真理を暴力的に弾圧する。このときにそれは個々の国民に保身の甘言を弄し、最終的に国民全員を暴力の共犯者に仕立てる。それは民意の全体から抵抗者を排除するので、必然的にファシストが多数決で国家を支配する。それゆえに民主国家とファシスト国家は、その民主的体裁だけでは区別され得ない。その区別は、その国家における物理的事実の正当な流通、および対等な話し合いの実現の有無に従う。すなわちそれは、該当国家における言論の自由と人権尊重の現実性に従う。そしてその現実性の欠如は、言論の自由と人権尊重を訴える人々が抑留され、国外に逃亡する現実により判定できる。この点で現状のロシアは、このファシスト独裁にあり、その頂点にプーチンがいると断言できる。一方で国家の近代化と科学技術の発展は一体の関係にある。そして話し合いの無い世界で、科学技術は進歩しない。つまり科学技術の発展と民主主義の実現も、一体の関係にある。それゆえに民主主義の欠如は、そのまま国家の近代化を阻害する。ファシスト国家では捏造された原理的イデオロギーが国民を支配し、それが国民の話し合いの上位に立つ。ただしそれでもその国家は、その批判的国民の暴力的排除を隠匿し、民主的体裁を保とうとする。そこにファシスト国家における次の必要が生まれる。それは、独裁支持と愛国を一体のものとして現す必要である。もちろんそれは、前述したとおり、実際には愛国ではない。第二次大戦後の世界において、ファシズムの不人気は確定的であり、ロシアでさえ自らのファシズム認定を避けるために、ウクライナをファシスト扱いする。周知のようにロシアが利用しているのは、ウクライナ民族独立運動がナチズムと野合した第二次大戦時の経緯である。ただしそれは、ウクライナが毒蛇と人食い熊の選択を迫られて、熊ではなく蛇を選んだことを非難する程度の話である。しかしそれをもってロシアは、ウクライナの民族運動にファシズムのレッテルを貼りつける。もちろんその目的は、ロシアにとって不都合なウクライナの民族的自立を貶めることにある。そしてロシア支配層の目論見から言えば、ウクライナの民族的自立は、ロシアに対する民族浄化を伴う侵略的民族主義に等しい。もちろんそのレッテル貼りは、自己都合のファシズム認定に留まる。少なくとも国家としてのウクライナは、民族浄化をしていなかったし、侵略もしていない。しかもそのロシアの不都合は、ロシア民衆にとっての不都合ではなく、ロシア特権階級にとっての不都合でしかない。民族浄化を伴う侵略的民族主義をファシズムに扱うこの一般的定義に、さしあたり問題は無い。注意すべきなのは、このファシズム認定が対象国家について民主主義の有無を問わないことである。また実際にファシズムは、民主主義の単なる対極ではない。過去のファシズムは、民主主義におけるポピュリズムとして登場した。それゆえにむしろファシズムは、言論の自由と人権尊重の対極として限定される必要がある。ファシズムは、国民の支持を得て政権を奪取した後、反対者の暴力的排除に移行する。結局それは、民族浄化を伴う侵略的民族主義が、言論弾圧と人権無視を常に必要とすることに起因する。そしてこの言論弾圧と人権無視は、既存秩序の枠内で体制の物理的事実から抽出可能な事象である。その物理的事実を通じたファシズム認定は、ウクライナに対するファシズム認定を不可能にし、逆にロシアによる自己のファシズム認定を可能にする。その認定基準の確立は、ロシアだけに留まらず、現存する他の独裁体制の評価にも有効であり、さらに今後現れる全てのファシズムにも有効である。当然ながら、表現の適正使用に対する或る程度の良心、および世界的なファシズムの不人気は、このファシズム認定基準の国際的通用により、ファシズムの抑制に作用する。ただしその認定基準の擁立は、物理事実に対する意識の変化に過ぎず、観念的操作を超えない。したがって認定基準の変更は、おそらく意識の一過的な対応に留まる。とは言えそれでも、現在および将来のファシズムの抑制を試みる上で、この認定基準の変更は十分に有意義である。


(5)ロシアン・ファシズム

 プーチン独裁政権の確立には、ナチスドイツにおけるヒットラー独裁政権の確立との類似点が多い。両者とも民主的選挙を通じた民族主義的ポビュリズムで人気を博し、低迷する国内経済の復興時期に政権を担当している。ただしプーチンの場合、ヒットラーほどの天才的な経済施策の実施をしたわけでない。彼の経済施策は、ロシアの潤沢な資源を自由主義経済の供給路線に乗せ、西側の支援においてロシア経済を復興するものである。それは経済の自然回復を早期実現しただけであり、せいぜい鄧小平の中国近代化を模倣した水準に留まる。ただし翻って見るとそれは、回復した国力によってロシアの帝国的復権を目指す北朝鮮式方策だったと見るべきかもしれない。一方でヒットラーとプーチンは、謀略事件による政敵の壊滅、治安組織によるテロと情報統制、他民族に対する武力制圧と対外侵攻などの諸点で共通項を持つ。結果的にいずれの体制も、その戦時体制において国民に支持を強要し、また戦時体制に持ち込むことで国民の支持を受ける。いずれにおいても体制批判者は投獄されるか抹殺されるか、石のように黙るしかなく、そのことが国内世論の発言者を体制賛同者に純化する。そしてその体制賛同者への国内純化を、独裁政権は自らの圧倒的支持と錯覚する。しかし批判の封殺と情報統制で実現した国内世論と政権支持は、民主主義が前提する対立意見の公開と事実検証を踏襲していない。要するにそれは単なる多数者による少数者の圧殺と支配であり、民主主義ではない。そのプーチン・ロシアが昨年2月から本格化したウクライナ侵略で目指したのは、簡単に言えば民主化潰しである。プーチンを筆頭にするロシア支配層が恐れるのは、民主化のロシアへの波及であり、民主化の進展による自分たちの悪事の露呈である。もちろんそのような心配が、そのまま悪事露呈への危機感として表明されることは無い。その口実は、旧ソ連の場合だと共産主義の防衛であり、プーチンロシアの場合では民族的権利の防衛である。この民族的権利の防衛は、もっぱら侵略を正当化する虚言として現れる一般的口実であり、ナチスドイツや帝国日本も使っている。ただプーチンの場合はその民族的権利の防衛について謀略性が高く、しかもその規模が最初から大きい。例えばプーチンは、大統領選を優位に進めるために連邦保安局(FSB)と結託して5件の集合住宅爆破事件を起こしたとの疑惑を抱えている。そしてその疑惑の追及に対して、まず亡命した証人を毒殺し、次に真相を追及するジャーナリズムへのテロルとその権力的排除を実施した。もちろんその処刑と権力的排除が表現するのは、自ら犯した謀略の誇示であり、要するに犯行の自白である。同様に昨年2月からのウクライナ侵略でもプーチンは、ウクライナにおいて迫害されるロシア系住民の保護を侵攻の口実にしている。ここでもウクライナにおけるロシア系住民の迫害の事実追及を、ロシアはウクライナ東部の接収を通じて排除している。これらの事実隠蔽に必要なのは、報道と表現に対する権力的抑圧であり、話し合いを基本にした民主主義の否定である。逆に言えば報道と表現に対する権力的抑圧を排除し、話し合いを基本にした民主主義を実現するなら、プーチンロシアの数々の虚偽が暴かれ、現在のウクライナ戦争も終焉する。これに対してプーチンロシアは、報道と表現の自由、および民主主義をアメリカ一極の世界秩序と捉え、民主主義に敵対する独裁国家を仲間に引き入れた世界の多極支配を訴える。もちろんロシアが考えるその多極の一つの極にウクライナ政権は含まれていない。ここにあるプーチンの危機感は、第二次大戦後のハンガリーやポーランド、さらにチェコスロバキアに登場した人間の顔をした社会主義に対し、ソ連が持った危機感と変わらない。もちろんロシアが欧米以上に自由で民主的であったら、ロシアはそのような危機感と無縁だったはずである。その場合だとウクライナは、逆に欧米を離れてロシア寄りになっていたであろう。しかしロシアの民族主義者は、ウクライナにおけるロシア支配の離脱事態をそのように捉えず、むしろロシアを自由と民主主義に対立させる。そして昔も今もロシアの独裁者は、その誤った民族主義を自らの延命に利用する。現在のロシアでは、ロシアの誇りと権威を失墜させる行為が愛国とみなされ、ロシアの誇りと権威を守ろうとする行為が売国と非難される。本来ならその愛国判定を行うのは、物理的事実に基づく話し合いである。すなわち科学と民主主義が、愛国の真を決定する。そして愛国の真は、自由で民主的なロシアを目指し、ウクライナの民主化を支持する。当然ながらそれは、今回のロシア自身によるウクライナ侵略を全面的に拒否する。しかし独裁者は、この決定を許容できない。そこで支配者は、自らの独断により愛国の真を決定する。ここで彼が依拠するのは、ウクライナの民主化に対立する偽りの愛国である。それが目指すのは、自由の対極にある独裁国家である。それゆえにロシアの独裁者は、物理的事実と話し合いを拒否する。結果的に独裁国家における事実報道と民主主義は、権力の統制下で自由を奪われる。それどころか独裁者は、その不自由な報道と制約された民主主義を、さらに事実報道と民主主義の対立物に転化させる。ファシズムは物理的事実と話し合いをそれぞれ虚偽と暴力に代置し、国家を人間に対立する腐臭の漂う化け物に変える。

(2024/01/22)
前の記事⇒ロシアン・ファシズムの現在(2)


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ロシアン・ファシズムの現在(2)

2024-01-23 06:52:14 | 政治時評

(3)ウクライナ戦争の理想的解決とその阻害事情

 ロシアのクリミア侵略から始まった現在のウクライナ戦争は、ロシアとウクライナの双方に甚大な死傷者をもたらしており、ウクライナの生活再建のためにも早急な終焉を期待されている。しかし侵略者に対する道義的責任から言うと、このウクライナ戦争の終わりを決められるのは、侵略を始めたロシアだけである。もちろんウクライナが抗戦を諦めて領土の多くをロシアに譲るなら、ウクライナ戦争も終わる。しかし自国領土を脅し取られて終わるような戦争の解決は、ウクライナはもちろんとして、ウクライナ以外の国も許容できない。またその先にロシアによる再侵攻が始まる不安も残る。それゆえに期待されるのは、やはり侵略者自身による侵略の拒否だけとなる。また基本的に人間は自らの行為の誤りを自覚するなら、その誤った行為をやめる。同様にロシア国民が自らの侵略の誤りを自覚するなら、彼らもまたその侵略をやめるはずである。ただしそのためには、ロシアにおいて民主主義が実現する必要がある。その民主主義の内実は、まず第一にロシアがウクライナで何をしたのかの事実報道の実現であり、ウクライナ侵略に至る経緯の事実報道の実現である。当然ながらその事実報道の実現は、事実報道を暴力的に阻止する言論弾圧者の排除を必要とする。その排除が目指すのは、発言者に対する暴力の全面禁止である。そして発言者の生存保証の実現によって、ようやく物理的事実を元にした話し合いも可能となる。つまりその民主主義の内実は、第二に言論と表現の自由の実現である。そもそもロシア支配層が事実報道と民主主義を怖れるのは、事実報道と民主主義がウクライナ侵略を拒否するだけに留まらず、さらにロシア支配層の悪事を露呈させると彼らが確信していることに従う。このロシア支配層の確信は、公正なロシアによるウクライナ侵略の拒否可能性を十分に表現する。一方でその確信は、ロシア支配層における自らの悪の自覚でもある。ロシア支配層はその自覚を自ら払拭する必要があり、その自己欺瞞を完成させるためにも、ロシア支配層は事実報道と民主主義の抑圧を必要とする。いずれにおいてもそれらのロシア支配層が自ら吐露する恐怖は、物理的事実を元にした話し合いにおける自らの敗北の確信を表現する。したがってロシアにおいて民主主義が実現するなら、ロシアは自らウクライナ侵略を終焉させる。この非軍事的解決は、欧米とロシアの軍事的緊張を不要とし、無駄な経済封鎖による経済混乱や国民負担が無い理想的方策である。そこで次に、この理想的解決を実現できない事情について確認する。ただ簡単に言うと、独裁体制において民主化を阻害するのは、独裁体制それ自身である。しかしこの説明は、単なる同語反復である。それゆえに独裁体制を個々の民主化の阻害事情に分解すると次のようになる。
  ・批判者の暴力的排除
  ・事実認識の遮断
  ・支配層による根幹産業の私有
  ・国家の歴史的特異性


(3a)批判者の暴力的排除

 独裁国家における批判者の暴力的排除は、批判者を肉体的に死滅させ、他方で批判者を国外に逃亡させる。国家機関における批判者の不在は、国家の意思決定を一つの支配層、極端な場合には一人の支配者に委ねる。それゆえにその政治体制は独裁と称される。独裁は民主主義の対極にあり、民主主義が真理を実現する正しい方法である限り、独裁は実現すべき真理に対立する虚偽である。もちろん独裁の目的が真理に即応するなら、独裁はその方法的虚偽に関わらず、真理を実現するかもしれない。そして独裁者がもっぱら想定するのは、この目的の真を通じた自らの独裁の浄化である。しかし目的の真偽は検証される必要があり、その検証は話し合いを必要とする。独裁はこの話し合いの対極であり、目的の真偽を不定にする。やはり独裁は、手段の偽を浄化しない。目的の真が自らの浄化を必要とするなら、既にその必要が目的の偽を露呈する。一方で批判者の排除は、最終的に独裁者とその仲間だけを、国家意志を決定する国家構成員として残す。そこでの話し合いは形だけであり、内実として話し合いにならない。また彼らが意見対立を排除するなら、そもそも話し合う必要も無い。そこでの話し合いは、決定事項の調整に留まる。しかし彼らがその調整を真剣に行うと、そもそもの決定事項の誤謬に辿り着く。それゆえに決定事項の調整でさえ、独裁国家の下ではまともに実施できない。独裁国家ではこの話し合いの実質的な壊滅が、行政や経営の各局面に蔓延する。しかしそれがもたらす困難に対応するためには、やはり話し合いが必要である。ところが実質的な話し合いができないなら、困難は解決されず、そもそもその実態さえ覆い隠される。そこで流通するのは、支配層に都合の良い経済と虚偽情報だけとなる。そして社会全体に非現実な意思決定や虚偽報告が蔓延すると、独裁体制下における社会から慈愛と良識も消えてゆく。そこでは、支配層が夢想する幸福な理想社会と不幸な現実社会の間に修復不能なギャップが生じる。この場合に国民の前に明らかになるのは、不幸な現実社会を幸福な理想社会と喧伝する支配層の嘘である。それゆえに独裁国家においても、この困難への対処に言論封殺の解除が必要となる。ところが言論封殺を解除しても、独裁国家に残っているのが独裁の共犯者だけでは、民主化が進展しない。その民主化の推進者は、独裁に封殺された批判者が担当すべきである。そのことから独裁国家の民主化は、独裁者が拘束した批判者の解放、および国外に逃亡した批判者の帰還を必要とする。ところが独裁者が批判者を肉体的に死滅させていたなら、解放すべき批判者は既に物理的に存在しないか、あるいはその生存数も限られている。また危険を感じて国外に逃亡した批判者も、危険を顧みずに自国に戻ったりしない。特に発展途上国から先進国に亡命した批判者は、先進国で得た自由で豊かな市民生活を手放せない。彼らが自国に安心して戻るためには、その恐怖の源である独裁支配層が権力から一掃される必要がある。現代世界ではこの政治難民と経済難民の大量移動が壮大な規模で進行し、難民の帰還の目途も立たない。またおそらく彼らは帰還しない。これらの事態は、独裁国家の民主化を主導すべき人材を、独裁国家から枯渇させる。この独裁国家民主化のジレンマは、世界中の独裁国家で起きており、現状のプーチン支配にあるロシアにも該当する。このために仮に独裁国家が体制崩壊を起こしても、その後の民主化の実現も怪しい。さしあたり独裁国家の体制崩壊は、独裁者が拘束した批判者を解放させる。しかしそれらの批判的意見も雑多であり、そこには暴力を思想で隠蔽する反民主主義者も混ざっている。それらの暴力的主張の解放は、解放後の自由な社会に新たな緊張と混乱を生む。その社会不安は新体制下にある国民に、強力な国家秩序の回復を希求させる。そして往々にしてその結末は、独裁者を再興させる。もちろん国民が古い独裁者の復活を忌避するなら、そこで再興する独裁者にも新たな独裁者が選ばれる。いずれにしても独裁者が再興する限り、独裁国家の民主化も頓挫する。


(3b)事実認識の遮断

 独裁者が批判者を死滅させる必要は、批判的言論も死滅させる。独裁者にとって批判的言論と批判者の間に差異は無い。独裁における言論弾圧は、上記の批判者の暴力的排除と一体になっている。しかし批判的言論は一つの意識であり、それは現実世界の反映である。ただし意識の真は現実世界であり、意識の虚偽は現実世界の誤認識である。その虚偽は、現実世界の反映誤りに基礎を持つ。それゆえに独裁が喧伝する真が実は虚偽であるなら、その意識の虚偽を現実世界が反駁する。そこで独裁における言論弾圧は、現実世界の真を暴力的に排除する。その暴力的排除は、独裁体制による事実認識の遮断として現れる。それは国内における現在または過去の事実報道を阻害し、国民にその事実報道を見えなくさせる。一方で独裁者も現実世界による反駁を嫌うので、できるだけ彼自身も事実報道を見たくない。そこで極端な場合、国民だけでなく独裁者にもその事実報道が見えなくなる。しかし現代社会は国際報道が発達しており、国民にも独裁者にも国際報道を媒介にして或る程度の事実報道が届く。それゆえに事実認識の遮断は、もっぱら現在または過去の事実を編集し、別の事実に捏造する形に進行する。これによりロシア国内では、ウクライナにおいてロシアが行った集合住宅や民間インフラの爆撃は、ウクライナ人の仕業にされることになる。同様にロシア国内では、ブチャ虐殺や児童誘拐などのロシアの戦争犯罪も、ウクライナと欧米による捏造とされる。他国から見ると、ウクライナ人が自国を爆撃すると言う報道は奇妙であり、明らかに捏造を疑われる。同様にロシア人であっても、そのような報道の捏造を疑うだろうと我々は予想する。しかし批判的言論が死滅した社会では、国民はうかつにその疑問を口にすることもできない。それどころか独裁体制下で国民が平穏に暮らそうとするなら、その疑問を封印するだけでは足りない。それだとその国民は、嘘を信じるフリをしているだけなので、その不熱心な挙動が自らの生命を危険に晒す。このときにその国民は自らの生活を守るために、独裁体制が喧伝する嘘を率先して信じるようになる。言い方を変えると国民は、ファシストに都合の良い愛国者となる。もちろんその愛国の正体は亡国であり、愛国でも何でもない。しかし愛国者であると自分を含めて、周囲の全てを納得させれば、国民は独裁体制下で平穏な暮らしを保証される。そしてその平穏な暮らしを守るために、国民は周囲の他の国民を蹴落とし始める。そうすれば国民は、蹴落とした他人との比較で愛国者となる。このような独裁体制における国民一般の生活事情が、その国内において嘘と虚偽を無批判に流通させる。そこでは正当な論理判断が排除され、激しく愛国を語る偽の愛国により、国家理性の崩壊と国民の総痴呆化が進行する。一方で民主世界における言論の保証は、各方面の正反対の言論を保証する。端的に言うとそれは、嘘と虚偽に対する生存保証である。そのことをさらに端的に言うと、民主世界の言論の自由とは、嘘と虚偽を発する自由である。当然ながら民主世界で喧伝される事実報道も、嘘と虚偽を含む。しかしその嘘と虚偽を各方面の正反対の言論が否定するので、それらは現実世界との不整合により淘汰されて消滅する。どのみち自らの嘘と虚偽を自覚する言論は、自らの真を目指す限りその命脈も短くなる。おそらくそのようなプロパガンダは、別種の虚偽、すなわち間違った信念や確信に基づいて発せられる。しかしその間違った信念だか確信も、現実世界と整合できない。それらの間違った言論は、自らが含む現実世界との矛盾により、最終的に自滅する。他方で民主世界の多様な言論は、その外部にいる独裁者にとって都合の良い言論を含む。独裁体制は積極的にそれらの言論を自国に取り込み、自国に言論の自由を粉飾する。ところがその取捨選択と編纂は、それを行う担当者を現実世界の真に晒す。この場合に彼は自らの嘘と虚偽を自覚せざるを得ず、その嘘と虚偽を正当化するために、より一層に間違った信念や信仰に完全にはまり込む。その過程は、独裁体制下の国民が行う自己洗脳過程と同じである。ところがどの事実が体制にとって都合の良い事実で、どの事実が体制にとって都合の悪い事実なのかを知るためには、やはり事実を知る必要がある。ここで事実認識に対する遮蔽が起きると、国民はもうその真実を自己決定できずに不可知論に入り込む。ここでの不可知論は、独裁国家における事実認識の遮蔽の最後の砦である。もしそこで独裁体制下の事実が壊死するなら、事実に基づく批判も壊死する。そしてその批判の不可能により、独裁国家の民主化も頓挫する。


(3c)支配層による根幹産業の私有

 批判者の排除、および事実認識の遮断は、いずれも暴力を必要とする。その暴力の基本は、批判者に対する生活基盤の破壊である。もちろんその破壊は、批判者に対する肉体的破壊を含む。一方で支配層は、被支配層全員の生活基盤の全てを破壊できない。それでは支配層が支配する相手がいなくなり、支配層の生活もおぼつかない。支配層は自らに従順な被支配層の生活を保障し、それ以外の批判者の生活基盤を破壊する。このことは支配層に、被支配層全員の生活管理を必要とさせる。その生活管理の基本は、自らに従順な被支配層の職を守り、批判者の生活を奪うものとなる。旧時代においてその生殺与奪は身分制度を形成し、被支配層を世襲的な複数の階層に分断した。そこでの生産物の所有者は支配層であり、被支配層の内実はそのおこぼれを受ける身分である。しかし生産者が自らの生産物を私有できないのは、あからさまに不合理である。それゆえに支配層と生産者の関係において、生産者が支配層に生産物を奉納する形式が取られる。ここでの生産物の所有者は、土地や家屋などの生産手段の所有者として現れる。彼らは中間支配層として上位支配層の支配を補完する。したがって生産手段所有者に雇用される労働者と貧農、および無産者は、生産物の僅かなおこぼれを受ける身分へとさらに極限される。ただし人数から言えば、一番多いのは無産者であり、次に中間支配層であり、そして上位の最終支配層が一番少ない。最終支配層に期待されるのは、中間支配層を含む支配層全体の支配権の維持である。それゆえに最終支配層は、自らを治安と軍事の専門機関へと特化する。これにより被支配層全員の生活管理も中間支配層が代行し、支配の分業が完成する。しかしその分業は、生産手段所有者を含む生産者が、自らの生産物を私有できない不合理を完全に露呈させる。それゆえに戦国期から王政の廃止を経た後の近代の歴史は、中間支配層が新たな王位に君臨する歴史に転じる。その歴史では中間支配層が伝統的な最終支配層を駆逐し、立場を入れ替える。ここでは王政の廃止後にナポレオンが皇帝になったり、スターリンや毛沢東が実質的王座に就いたりなど、詳細を無視すると大同小異の王政復古が起きる。そしてその王政復古の一パターンに、現代ロシアのプーチン独裁も含まれる。加えて言うなら、イスラム原理主義国家やミャンマー軍事政権、北朝鮮王朝など、独裁国家のいずれもが被支配層全員の生活を支配層が牛耳ることで成立している。なお中東における王族支配は近代以前の王政であるが、同様に王族が被支配層全員の生活を支配層が牛耳ることで成立している。いずれにおいてもその独裁体制の根源に現れるのは、支配層による被支配層の生活基盤の私有である。ただしその私有は、形式的に私有を宣言する必要も無い。したがってその私有をもっと別の表現にして、支配層による生活基盤の私物化と言い表して良い。そのような独裁体制では、生産手段の公有は建前であり、生産手段は特権階層の私物になっている。一方でその生活基盤の多くは、近代において次々に無産者に対して私有を認められている。またそうでなければ無産者の生活は、極限の貧困を脱せない。また産業の育成においても、特定個人による生産手段の占有は阻害要因として現れ、国家全体の富の増大を阻害する。そしてその阻害の実情のゆえに旧共産圏の多くは、貧困の中で瓦解した。ベトナムや中国における市場経済の導入は、国家による生産手段の占有を廃することで、体制崩壊の危機を脱している。それゆえに現代の独裁体制も、支配層による生活基盤全ての私有ではなく、もっぱら国家の根幹産業の私物化として現れる。また根幹産業が限られた国家なら、根幹産業の私物化を実現することで、その独裁体制も維持できる。一方で産業には、生産物及び生産手段の私物化への適性がある。実現生産価値の多くに技能に要する産業では、労働者がその技能を占有する。それゆえに生産物私有の決定も、労働者の技能水準に応じざるを得ない。それに対して実現生産価値の多くが天然資源に帰属する場合、その産業における生産物私有は、土地などの生産手段所有者により多く配分される。例えば石油を筆頭にした天然資源の採掘産業は、生産手段所有者による生産物私有に最適となる。そしてその産業適性が、該当産業に従事する無産者の生活支配を、生産手段所有者に対して可能にする。他方でその天然資源が持つ価値の内実は、土地などの生産手段の独占がもたらす特別剰余価値である。その独占は暴力を必要とし、暴力なしに独占を維持できない。そこで天然資源の採掘を根幹産業とする国家は独裁体制に傾斜し、独裁体制はその根幹産業を通じて国民の暴力支配を可能にする。天然資源が豊富で他の産業の発展が困難なロシアは、このような独裁体制の成立に有利な土地柄であり、またそのような土地柄が独裁体制の成立を促す。そしてその根幹産業の私有が、中東王制国家の場合と同様に、ロシアにおける民主化を困難にしている。


(3d)国家の歴史的特異性

 ロシアにおける民主主義の実現は、国家としてのロシアの歴史的特異性によっても阻まれている。その歴史的特異性は、ロシアの多くの地域が侵略と略奪の成果であることに従う。そしてそのロシアの特異性が、他国への侵略と略奪に対する無反省に転じる。もともと歴史的にロシアは、欧州帝国主義と対抗する必要とモンゴル帝国の復活阻止のために、東方への国土拡張を優先してきた。それらの地域にもともとロシア人は住んでおらず、それらの地域においてロシア人は入植者であり、さらに言えば侵略者であった。そのロシアの歴史的必要は、ロシア人に自らの侵略を美化し、略奪を正当化する旧時代の帝国主義式権利意識を植え付けた。ただしこの旧時代の権利意識は、ロシア固有のものではない。旧時代において侵略と殺戮は全世界で行われており、そこでの侵略者は、自らの悪徳に無反省である必要を持つ。そしてその無反省が植民地と奴隷制を可能にした。さらに大航海時代から現代に続く先進国による発展途上国の侵略でも、侵略者は自らの侵略行為を誇る必要があった。そこでの美徳は、相手の権利を踏みにじることであり、より多くの略奪を祖国への忠誠と愛国の印として扱う。そしてこの権利意識が、支配地域の先住民に対する無慈悲な略奪を正当化してきた。それらが人道に反した非道行為に扱われるためには、さしあたり18世紀末のフランス革命が発した人権宣言を待つ必要があった。しかもその人権意識がまともに機能するようになったのも、20世紀以後である。その旧時代の権利意識は戦国武将における殺戮数の競争意識と同水準にあり、その延長上で20世紀初頭に世界的な帝国主義戦争が勃発した。一方で近年の先進国において旧時代の権利意識は、もっぱら先住民や奴隷、さらには旧植民地に対する贖罪意識にとって代わられた。この置き換えは人権意識の浸透と同じものであり、その物理的内実は国民資産の非差別的分配の実現にある。すなわち国民における極度の貧困の一掃が、人権意識の浸透を可能にした。さらに言うとそれを可能にしたのは、産業革命による生産技術の飛躍的発展である。結局このことは、人間が自らを単なる動物から区別するために、最低限の生活保障が必要なのを示す。逆に言うと、国民における極度の貧困が一掃されなければ、人権意識は浸透せず、侵略と略奪も美徳と愛国の虚飾を得る。端的に言うとそこでの人間は、いまだ人間ではなく、単なる動物である。一方でロシアは20世紀初頭の革命で民主主義の実現に失敗し、その対極の独裁体制に移行した。その独裁体制は、共産主義の肩書にも関わらず、国民資産の非差別的分配にも失敗し、侵略と略奪を美徳とする旧時代の権利意識を復活させる。その点で言えば共産主義の看板は、当時の独裁体制にとって自らの足枷である。しかしむしろその金看板こそが、独裁体制が持つ権利意識の虚偽を粉飾した。ところがロシアにおける共産主義体制の崩壊は、共産主義の金看板をロシア支配層から奪い取る。それはロシアにとって、自らの侵略と略奪の非道を粉飾する口実の喪失である。ところが相変わらずロシア支配層は、他国への侵略と略奪を自らの権利だと信じて疑わない。しかも不思議なことにその特異な権利意識を、多くのロシア国民が共有している。さしあたりプーチンに従うとその権利意識は、ロシアとウクライナにおいて自己と他者の区別を持たず、その区別の欠如のゆえにロシアはウクライナからの略奪を自らの権利とする。しかし自己と他者に区別が無ければ、略奪の必要も無い。したがって実際にはその権利意識は自己と他者を区別し、その区別に従ってロシアもウクライナから略奪している。しかし他者からの略奪を自らの権利とするなら、相手による自己の略奪も相手の権利となる。結局その理屈が侵犯するのは、私有財産を含めた個人の私的権利一般である。つまりその権利意識が否定するのは、基本的人権である。またその矛盾と理不尽のゆえに、第二次大戦後の帝国先進国は、かつて自らが非道を働いた相手の先住民や奴隷、および旧植民地に対し、贖罪意識を持つに至った。逆にそのことが露呈させるのは、旧時代の権利意識が国民を支配する場合、そのような国において基本的人権を保証する困難である。それはそのままロシアにおける民主主義の困難を表現する。さらに言えばそのことは、プーチン亡き後においてさえ、ウクライナ侵略の終焉させるに足る民主主義の実現が、ロシアにおいて困難であるのを予想させる。


(3e)独裁国家民主化の失敗

 実際には上記の阻害事情の内、3a)と3b)を克服しても、3c)と3d)を克服するのは困難である。それは独裁国家の民主化失敗の経験が示している。しかもその失敗経験が独裁体制民主化の阻害事情として付け加わる。ロシアに限らず世界には独裁国家がいまだ多く存在し、その国内で非道な暴力が横行している。そしてその独裁体制に対抗する内戦で多くの難民が生まれ、近年ではその難民が大挙して先進国に流入するようになった。これに対して欧米は独裁体制の非人道性を非難し、ときに空爆などの軍事行使も行っている。イラクとアフガニスタンに至っては、欧米が軍事介入でその独裁体制を崩壊させた。その後に国際社会がアフガン近代化のために試みたのは、民主化に必要な事実報道の浸透と国民の民主的教育の充実、さらに自由選挙の実施などの民主国家の基盤整備である。そのアフガン近代化の努力は20年にも及んだ。ところがそのアフガニスタンの民主化実験は、多大な労力と資金を投入した挙句に失敗した。その民主化失敗の多くは、アフガン新支配層による欧米支援の着服に起因し、それが経済の自律的発展を阻害した。それに対して、民主化により零落した旧イスラム秩序の中間支配層の不満が、タリバーンの復活を呼び寄せた。そしてその独裁体制の復活が、一時期的な民主化において国際支援により自由を知った多くの国民を国外に難民として流出させた。20年におよぶアフガン近代化は灰塵に帰し、再び事実報道の遮断と批判的国民の暴力的排除が、アフガニスタンの日常に舞い戻った。ここでもアフガン近代化を阻むのは、独裁国家における民主化の困難である。しかしそれは20年の努力で解決できなかった以上、相応の有利な条件が無い限り、以前と同じ要領で民主化を実現する道も既に封じられている。それゆえにその失敗は、他国における独裁後の国家民主化の試みを絶望させる十分な力を持つ。その絶望が予想させるのは、紛争地で発生する難民が今後もさらに数を増し、彼らが先進国に流入する未来図である。そこに現れる最初のジレンマは、難民の発生を阻止するために独裁体制の崩壊が必要な一方で、独裁体制の崩壊に必要な人材が難民となるジレンマである。そしてそのジレンマは、他のジレンマと癒合している。そこでは独裁を崩壊させる試みが社会不安を呼び、その社会不安が独裁を強固にする。そのジレンマの根源には国民の貧困があり、貧困が暴力的秩序の必要と結びついている。一方で独裁体制における良心の目覚めを、独裁国家の富裕化により実現させる期待も封じられている。北朝鮮における独裁国家の富裕化は、単に支配層を富裕にして独裁を強化させただけであり、国民福利は改善せず、民主化も進まなかった。またもし独裁国家で国民福利が改善しても、中東産油国における民主化と同様に、その富裕化が支配層に忠誠を誓うだけの近代化だけに終わる可能性も高い。結局それは独裁国家に力を与えるだけの結末であり、諸外国が独裁国家に抱く不安をさらに高める。そしてこの難民事情は、プーチン独裁が生んだロシア人難民にも該当する。このジレンマだらけの現状において、さしあたり諸外国が取り得る対処法は、よりましな独裁体制への反復移行、および独裁国家の弱体化の二つに限定される。ただしよりましな独裁体制への反復移行は、上記のアフガニスタンや北朝鮮の例でも失敗している。そしてロシアにおけるプーチン独裁の復活も、この同じ失敗に含まれる。それゆえに現状の諸外国が独裁国家に取り得る対処法として残るのは、独裁国家の弱体化だけとなる。しかしその対処法は、その独裁体制化の国民から反逆の余力を奪うだけであり、その独裁体制を終焉させるだけの効力を持たない。


(3f)弱体化した独裁体制の持続可能性

 独裁が既定路線の経済発展を実現する場合、独裁体制は無駄な迂回と各部門の調整を必要とせず、最短経路で最先端の生産工程を実現する。それゆえに東欧共産主義は、第二次大戦後の復興期に諸外国を驚かせるような経済成長を遂げた。それと似た事情は、ベトナムと中国の改革開放による経済成長に見て取ることができる。しかし科学技術の発展には話し合いと事実情報が必要であり、そのいずれもが民主主義に直結する。そしてその民主主義は、独裁体制と対立する。単純に言えば、独裁体制下で科学技術は発展しない。それゆえに独裁体制の経済成長は、奇跡的な発展を遂げた後に失速し、そのまま低迷期に突入する。もちろん独裁体制も科学技術の発展に対し、限定された話し合いと事実情報を許容する。しかし限定がある限り、その限定はやはり科学技術の発展にとって足枷である。それは他の民主国家との技術競争において、独裁体制の科学技術の発展を遅らせる。また科学技術の発展以上に、経済運営における独裁体制の官僚主義が、独裁体制の経済発展を阻害する。当然ながらその経済低迷の第一の処方箋は、民主主義の実現である。しかし独裁体制は、それを許容しない。その国家近代化における最大の障害は、独裁体制それ自体である。その支配層は愛国を叫ぶ売国奴であり、口から出る美言と反対方向に、国家を時代遅れの老害にする。このことは、諸外国が独裁体制と距離を取るなら、独裁体制は経済の低迷を脱せずにそのまま弱体化するのを示す。独裁国家の危険が他国への侵略にある場合、独裁国家の弱体化はその侵略の危険性を減じる。第二次大戦後の冷戦は、結果的にそのような民主国家と独裁国家との我慢比べの戦いであった。ただしそれは結果的に我慢比べになっただけであり、冷戦の始まりにおいてどちらが最終的に独裁体制になるかはまだ不確定であった。しかし既に独裁体制にあった共産主義陣営は、フルシチョフの雪解けを不徹底に終わらせる。そしてその不徹底が、ロシアを冷戦の敗者にさせた。翻って見ると、ゴルバチョフの決断が有効となり得たのは、ナジとゴムルカのハンガリー・ポーランド動乱以前のフルシチョフ時代だけである。その後にどのロシア指導者がペレストロイカを発動しても、おそらくロシア共産主義体制は崩壊している。ただロシアは資源に恵まれた自給自足可能な国家なので、その弱体化の効果が出るのに半世紀を要した。当然ながらプーチンロシアの弱体化にも、同程度の期間が必要となる。ただしプーチンの余命は、そこまで長くない。それゆえに西側によるロシア弱体化は、さしあたりプーチンの死を待つまでの短い期間の効果確認で良い。一方でプーチン独裁は、上記で述べた民主化阻害事情を背景として持つ。そのことが十分に示すのは、ロシアファシズムがプーチンの死と無関係に持続する可能性である。結果的にロシアファシズムの終焉は、民主化の進展における冷戦の終焉、および独裁化の進展における冷戦の再開を反復させることで、徐々に実現させる道しか残らない。そうだとしても、既に述べたように民族主義ファシズムは、民主主義におけるポピュリズムとして始まる。それは経済的に復活した旧独裁国家において、ファシストをより強力で危険な水準で回復させ、最終的に民主主義を滅ぼすかもしれない。かつてロシア議会についてレーニンは、ブルジョア独裁を彩るためのイチジクの葉と評した。そして彼はそのロシア議会に対抗して、ロシアソヴィエトを代置した。ところがロシア革命時の議会は、それ以前の帝国議会と違って十分に民主的であり、レーニンの議会評価は虚言であった。つまりその議会評価は、そのままレーニンが持つ民主主義軽視の欠陥を表現した。結末から言えば、むしろロシアソヴィエトの方が、虚言の民主主義を飾るイチジクの葉に転じている。一方で現ロシアファシズムによる批判者の暴力的排除は、ロシア議会を本物のイチジクの葉に変えた。この現状から言えば、ロシアをソヴィエト崩壊にまで持ち込んだ西側の冷戦対応は、回り道をして新たなファシズムを迎えただけに留まる。そのロシア国民の総意はファシズムを希求しており、ファシズムがロシア民意を体現する。ファシズムを抑止するための民主化は、独裁体制の弱体化においても、やはりジレンマの中にある。


(2024/01/22)
続く⇒ロシアン・ファシズムの現在(3)  前の記事⇒ロシアン・ファシズムの現在(1)


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唯物論者:記事一覧(政治時評)

2024-01-14 19:17:22 | 記事一覧

政治時評

   日本の防衛問題
             ・・・ 日本の防衛問題(1)
             ・・・ 日本の防衛問題(2)

   中国反日暴動
             ・・・ 中国反日暴動
             ・・・ 中国反日暴動2
             ・・・ 中国反日暴動3
   経済関係
             ・・・ デフレと恐慌
             ・・・ ハイパーインフレーション
             ・・・ 日本の少子化
   その他
             ・・・ アメリカvs小沢一郎
             ・・・ タブーとしての原発事故
             ・・・ 日本と中国
             ・・・ プーチン独裁と観念論
             ・・・ ロシアン・ファシズムの現在(1)
                 英語版(1a)⇒The present state of Russian fascism (1)
                 英語版(1b)⇒The present state of Russian fascism (2)
             ・・・ ロシアン・ファシズムの現在(2)
                 英語版(2a)⇒The present state of Russian fascism (3)
                 英語版(2b)⇒The present state of Russian fascism (4)
             ・・・ ロシアン・ファシズムの現在(3)
                 英語版(3)⇒The present state of Russian fascism (5)


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ロシアン・ファシズムの現在(1)

2024-01-14 17:57:18 | 政治時評

(1)ファシズムの諸形態

 近代以前の独裁的秩序は、封建秩序として現れてきた。そしてこの身分制が、この独裁体制と現代の独裁体制の区別になっている。ただし身分制封建秩序は、民意に対して支配者側の意向を強制する。その強制は既に独裁であり、支配層内部の権力集中度、および民意との乖離がその独裁の程度を上下させていた。これに対して近代の独裁体制としてのファシズムは、いずれも一見民主的な国民運動として始まる。しかしそれは、支配層を支えるために国民が相互監視する全体主義国家として結実した。それは歴史的に以下の3形態で現れてきた。
  ・民族主義ファシズム
  ・赤色ファシズム
  ・宗教的原理主義
 これら3種のファシズムは、別種の方向から国民運動を形成する。しかしそれらはいずれも、最終的に似たような独裁体制を擁立する。それらはいずれも国民の精神的支配を目指し、その精神的支配の頂点に体制支配層を鎮座させる。もちろんその精神的支配の内容が正当であるなら、その支配も妥当かもしれない。しかしその正当性は、国民により了解される必要を持つ。そしてその了解過程は民主主義であり、それは独裁的秩序と対立する。それゆえに独裁体制における精神的支配は、それ自体が既に不当である。しかも往々にしてその精神的支配の内容も不当である。当然のことながら独裁体制は国民から離反する。もし独裁体制がその不当性を払拭したいのであれば、自ら独裁体制であるのをやめる必要を持つ。しかし独裁体制が独裁体制である由縁は、独裁体制が自ら独裁体制であることに固執することに従う。その固執の背景には、独裁支配層が持つ経済的特権階層としての生活基盤がある。この記事は以下において、これら3形態の成立と相関を確認する。


(1a)ファシズムと民族主義

 ファシズムの基調は、国内における異民族の暴力的駆逐と自らの対立勢力の暴力的弾圧、国外における自国権益の暴力的維持とそのための対外的な軍事進出として現れる。つまりその対外的特徴は、民族浄化と侵略的民族主義である。それはイタリアに始まり、より先鋭化してドイツナチズムに伝播し、形態を変えて国家主義や全体主義となって世界を席捲した。その母体イデオロギーは、基本的に民族主義である。しかし民族主義の全てが、このファシズムの基調を目指すのでもない。ファシズムにおける民族主義は、特定階層とその支持層を民族として括り、その利益の暴力的実現を目指す。端的に言うとその民族主義は、特定階層の利害を代弁する一つの経済的な階級意識である。それゆえにその民族主義は、民族の枠にこだわる必要も無く、その範囲設定も恣意的で良い。ちなみにその不明瞭な民族的境界の多くに、宗教の差異が使用される。それと言うのも不明瞭な民族的境界の多くが、宗派境界と重複するからである。逆に言うなら民族間の差異もその程度の差異にすぎない。つまりその差異は、もともと相互対立に値するような問題ではない。このことから現代世界の民族主義の多くを、イスラム宗派が代行する。もちろんイスラム同士の対立では、国内権益の中心にいるイスラム宗派がその排外的中心を占拠し、他のイスラム宗派を弾圧する。また逆に例えばユダヤ教のように、宗教が民族的境界を形成することもできる。したがってその民族的境界は、地域における特定の共通利害を表現するだけであり、実際の民族境界ではない。またそれだからこそ民族主義者は、同じ民族同胞に対しても売国奴とか非国民のレッテルを貼ることができる。このときに民族主義者は自らを愛国者だと信じており、自分の方が国家への裏切者かもしれないと疑うことも無い。ところがその民族主義はその暴力支配によって、逆に自らの民族を非人間的部族に貶める。そしてそのような非人間的部族は尊敬もされず、むしろ軽蔑される。しかもその軽蔑は、他国や他民族からだけでなく、自国民からも注がれる。加えてファシストが行う国民の暴力支配は、経済と文化の発展において足枷となる。したがってファシストは愛国を語りながら、自国の経済的文化的発展を阻害する。ファシストはその行動面において全く国を愛しておらず、自らが所属する利益集団だけを愛している。


(1b)ファシズムと共産主義

 イタリアのファシスト運動は、同時期に高揚した共産主義運動の影響下にあり、共産主義の多くの活動形態を模倣した。また実際ナチズムの場合、その党内には後に党内右派に粛清される社会主義者が存在した。ただしその活動形態の類似は、単にファシストが共産主義運動を模倣したことだけでなく、両者の支持母体の共通性にも従う。共産主義とファシズムのいずれにおいても、その運動の牽引者および支持者は、国内において虐げられて不利益を受けていた社会階層である。ただし共産主義の支持母体が無産者であったのに対し、ファシストの支持母体は自己資本を持つ小資本家であった。しかし小資本家は、無産者に対する搾取者にもなる。そして当時の共産主義運動は、資本家の大小に関わらず、搾取する小資本家を容赦無く攻撃していた。それゆえに両者はその類似性に関わらず、互いに相手を敵として憎悪し対立した。一方でファシズムは共産主義のような平等社会の未来像を持たず、科学的合理性への信頼も無い。その運動の根底にあるのは、自らの零落に対する怨嗟であり、無方向な支配の衝動である。その非合理な情念は、人権や平等の理念と適合しない。実際にファシズムは、平等の理念を攻撃し、強者による弱者支配を唱えた。また本来的に社会主義や共産主義は、平等な人権に根差す国際主義である。それに対してファシズムの対外政策は、他民族支配を目指す帝国主義に収斂する。そこでファシズムが民族主義に傾斜するのは、それが人権と平等と競合できる理念を代表するからである。ファシストはその民族主義において、自らの民族的優位を確信している。しかしその確信に特段の根拠は無い。その民族優位性の多くは、異民族に対する自民族のインフラの優位や富裕度に従う。つまりもっぱらその確信は、単純にその地域における土着特権に従う。とは言え民族主義は、それだけだと独裁の根拠として弱い。ファシズムにとっても、民族主義だけを口実にして、同じ国民を弾圧する上で非合理である。それゆえにファシズムは、その粉飾のために社会主義を看板に掲げる。しかしここでファシズムが語る社会主義は、人権と平等を実現するためのものではない。彼らの社会主義が目指すのは、彼らの考える国家権益の実現にある。もちろんその国家権益は、実際には特定の利益集団の権益であり、国民全体の権益ではない。このためにファシズムが掲げる社会主義は、特定の利益集団から外れた多くの人権を、当たり前のごとく侵害する。結果的にその矛盾は、人権の実現を目指すはずの社会主義が、恒常的に人権を侵害する奇怪な事態に至る。そしてそのあまりのギャップのゆえにファシズムも、自らの民族社会主義を本来の社会主義と区別し、国家社会主義を自称した。その呼称は今でこそ排外的民族主義の劣悪思想を表現する。しかしその登場当初の国家社会主義は、共産主義に対抗可能な超人思想としてもてはやされていた。


(1c)スターリン主義

 ファシズムにおける自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動は、共産主義にとっても他人事ではない。それは共産主義において労働者階級の階級的憤怒であり、その理解が搾取資本家に対する容赦無い攻撃を正当化させる。また目指すべき目標が人権と平等な生活の実現であるなら、目的が手段を浄化すると信じられてもいた。そしてロシアにおいてレーニンが赤色クーデターを実現すると、ロシア・ボリシェヴィズムが共産主義を体現するようになった。しかしその共産主義の左傾化は、レーニンにおける民主主義軽視の姿勢を、さらに共産主義陣営内で徹底させる。結果的にそのレーニンの致命的欠陥は、ロシアに人権と平等な生活を実現するどころか、その対極の世界を生み出した。それがソヴィエト・ロシアにおけるスターリンの共産主義独裁体制である。なるほど共産主義は、ファシズムの独裁体制と敵対した。ところが共産主義の独裁体制は、その敵対した体制と差異が無く、むしろもっと非道であった。その独裁体制は国内における他党派だけでなく、自らの対立勢力となり得る党内諸派の全てを暴力的に駆逐した。さらにそれは国内において宗教や文化芸術、社会科学など、自らの対立勢力となり得る全ての思想の芽を壊滅させた。そして国外においてその独裁体制は、旧時代のロシア権益の暴力的回復とそのための対外的な軍事進出を進めた。その対外膨張の理屈では、あからさまにロシアの民族主義が謳われた。しかしそれは、理論としての共産主義と関係無いものであった。結局その共産主義独裁は、民族主義ファシズムを単に共産主義色に染めあげたものとなった。しかしその共産主義色は、それが偽りだとしても、やはりロシアの民族主義独裁を制約する。またその共産主義独裁の成立過程は、民族主義ポピュリズムから生じる民族主義ファシズムと異なる。したがってその差異は、共産主義のファシズムを民族主義ファシズムから区別し、赤色ファシズムとして扱う。しかし共産主義の金看板は、その体制がただ単に赤色ファシズムだと言う真実を覆い隠した。また共産主義者を含めて左派活動家の多くが、その赤色ファシズムを、ロシア共産主義の存命のために必要なものと理解した。この左派活動家の沈黙においても共産主義の金看板は、大きな役割を果たした。結果的に全世界の左派活動家がファシズムを糾弾する中で、ロシア共産主義がもたらした人道的災厄の多くが無視された。ロシア共産主義独裁の真実は、ロシア共産主義独裁が自らに加えた桎梏に耐えきれず、自ら悲鳴を上げたことで、ようやく全世界的な公然の事実となる。しかし第二次大戦後の戦後復興でそれなりにロシアの国力が回復すると、再びロシア共産主義独裁は、ロシア全土をスターリン式独裁の酸欠状態の中に沈没させる。その独裁がもたらす桎梏に対して、再びロシア共産主義自身が音を上げるのは、その30年後となる。ただしこのときにロシア共産主義の方向転換は時すでに遅く、ロシア共産主義体制自体が崩壊した。


(1d)赤色ファシズムとプーチン独裁

 ソヴィエト・ロシアの共産主義の金看板は、ロシアの赤色ファシズムの存命に大きな役割を果たした。その一方でその金看板は、ロシアの赤色ファシズムにとって足枷でもある。それは共産主義的平等をロシアの赤色貴族に要求し、赤色貴族の特権を制約する。その体裁を整える上でロシアの赤色貴族の階層は、企業における役職階層よりも、軍隊における指令系統に近いものとなる。またその政策決定の方向も、ファシスト集団の民族的な利益実現ではなく、ロシア共産主義体制の秩序維持とその対外的拡張に重点が置かれた。前者の民族的な利益実現と後者の共産主義体制の秩序維持は、建国当初のソヴィエト・ロシアにおいて多くの点で同一であった。しかしその軍隊における指令系統は、ファシスト集団の個人的な利益実現に対立し、自らを窒息させた。また自由な報道が無い巨大化した体制において、軍隊式の上位下達には限界がある。その現場無視の硬直した指令系統は、一方で体制の末端に進むほどに怠惰と指令無視を蓄積させる。他方でそれは、中間指令系統における汚職と腐敗を生む。さらにロシア権益の地方民族と東欧共産圏への分配は、ソヴィエト・ロシアの大きな負担でもあった。そこでソヴィエト・ロシアがその補正を目指すと、共産主義体制の秩序維持と対外的拡張が、反対に体制の配下にいる民族と東欧共産圏の自立へと作用する。しかしそれは、当時のロシアの民族的利益を損なうものだともみなされ得る。しかもその不協和音は、ロシア国内において進行した地道な国民生活の安定、および西側報道を通じた西側比較での相対的貧困の露呈により増大した。そしてそれは、ロシアの指導部と軍部の対立に発展し、最終的にソヴィエト・ロシアを崩壊させた。ちなみに北朝鮮のウルトラ・スターリン主義体制の存続を可能にしたのは、国内における国民生活の安定の遅延であり、その絶対的貧困を暴露する西側報道の侵入阻止である。そのどちらが崩れても、おそらく北朝鮮の独裁体制の存続は難しい。この旧ソ連や北朝鮮に比べると、中国の赤色ファシズムの行方はまだ流動的である。中国における情報統制は旧ソ連よりゆるやかであり、民主化を含めた中国近代化の必要についても、共産党内に常に理解者が現れてきた。その歴史的経緯が、中国の流動性を支える。それゆえに中国共産党独裁政権に対する現在の対応についても、中国がポスト習近平時代という形で、民族主義と国際主義のどちらの方向にふれるかの見極めを要する。一方でロシアは共産主義の金看板を失うことにより、その赤色ファシズムを民族主義ファシズムに純化させる国内基盤を得た。ロシアの特権集団は、今では平等や革命などの共産主義的使命を気に掛ける必要も無い。彼らは純粋にロシア民族主義を謳うことで、自らへの利益集約を可能にしている。実際にプーチンの狙いも共産主義の復権ではなく、純粋にロシアの民族的栄光の復活である。またそもそもプーチンは共産主義を嫌い、独裁に抵抗する貧者による革命一般を否定している。彼がスターリンに興味を示すのも、ただ単にスターリンにおける赤色ファシズムを尊敬するだけの理由に従う。


(1e)宗教的原理主義

 独裁的秩序の転覆に必要なのは、独裁的秩序に対抗する革命集団の擁立であり、その維持と拡大である。ひとたび革命集団が擁立されれば、独裁的秩序の下での不合理な貧困と差別が、むしろその革命集団の増大に作用する。ただし貧困と差別に苦しむ者が革命集団の側に合流するのは、彼らが自らの苦悩の原因を独裁的秩序に見出す場合に限られる。ところが不合理な貧困と差別に苦しむのは、もっぱら無学で粗暴な底辺世界の住人たちである。そしてその無学と粗暴が、往々にして彼らをそのまま底辺世界に押し留める。それどころか彼らにおける自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動は、むしろ彼らをファシズムに誘う。このときに独裁的秩序の支配層が彼らを積極的に支援して自らに癒合するなら、無学で粗暴な底辺世界の住人たちは独裁的秩序の支配層に加わり、その独裁的秩序を補強する。それゆえに発展途上国における革命は、貧者における階級的怨嗟を正しく特権支配層の側に向けさせるような単純な説明を要する。そしてその単純な説明に適した思想に共産主義が選ばれてきた。ところが共産主義の看板の腐食は、世界の民衆を共産主義から離反させた。それでもここで必要なのは民主主義革命であり、共和制の実現である。しかし独裁的秩序の転覆に必要なのは、先に示した通り、やはり独裁的秩序に対抗する革命集団の擁立とその維持と拡大である。ところがその主体となるべき民衆において民主的であろうとする部分は弾圧され、他方の部分が愛国ファシストに転じて独裁的秩序を支持する。結果的にその革命主体の不在、および共産主義の歴史的後退は、不合理な貧困と差別に苦しむ民衆に、非民主的かつ非愛国的かつ非合理な革命主体を擁立させる。そしてもっぱら宗教がそこに現れる。それはもっぱら宗教的因習に従う伝統的な家父長的社会秩序として現れる。その非民主性を支えるのは、硬直して定型化した社会原理である。その原理は定型化しており、話し合いを要しない。そして話し合いを要しないがゆえに、その革命集団において個々のメンバーは消耗品となる。その革命集団において骨となるのは、原理的な社会秩序の思想である。一方でこの革命集団の非愛国性は、既存の支配層の代わりに神の信託集団を国家に据える。つまりその革命集団は、既存国家への反逆において、個々のメンバーに新たな国家を与える。結局その革命主体は、既存の愛国ファシズムが支持する支配集団の代わりに、異なる支配集団を擁立しただけの別種の愛国ファシズムにすぎない。またすぐ判ることだが、その革命集団の活動形態と組織方針は、レーニン型ボリシェヴィズムである。つまりその別種のファシズムは、没落した共産主義の代わりに、宗教的原理を革命思想に据えただけの別種の赤色ファシズムでもある。ただ赤色ファシズムと違い、この原理主義ファシズムは、民族主義ファシズム以上に平等社会の未来像を持たず、科学的合理性への信頼も無い。おそらくその擁立する未来社会像は、イラン式の原理主義聖職者集団の宗教的専制国家、またはサウジアラビア式の宗教的君主国家である。そしてその科学的合理性の欠如は、自己破壊的なカルト式熱意において、他宗派と他民族、および体制内の民主主義者の殺戮を正当化する。当然ながらその話し合いの否定は、他の民主国家との話し合いを否定するだけでなく、宗教的原理主義者同士の話し合いを否定する。したがって彼らは、紛争の終止符の打ち所を知らない。つまり共産主義の歴史的後退は、旧時代の悪鬼を現代に蘇らせるものとなった。


(2)ファシズムにおける観念論

 ファシズムは国民の精神的支配を目指し、その精神的支配の頂点に体制支配層を鎮座させる。その支配の不当性は、民主主義の不在にある。そして民主主義の必要は、独裁支配層の経済的特権が持つ不当性暴露の必要に従う。加えてその不当性暴露を可能にするのは、自由な報道である。自由な報道が目指すのは事実報道であり、思い込みの虚偽ではない。端的に要求されるのは対象の物理認識であり、その言い訳ではない。これに対してファシズムは、言い訳を通じて対象の物理的様相それ自体の隠蔽を謀る。そしてそれを推し進める形で、ファシストは事実報道を遮蔽し、自由な報道を窒息させる。この自由な報道の欠落は、そのまま民主主義を不可能にする。ここに待ち構えているのは、階級対立が対象認識を不可能にする認識上の困難である。マルクスにおける哲学者としての問題意識もここにあり、彼が共産主義革命を提示したのもその解決指針に従う。ファシズムにおける対象認識の遮蔽は、その成長過程に連携している。以下にその成長過程を確認する。


(2a)ファシズムと民主主義

 民族主義ファシズムは民主主義ポビュリズムの中から発生する。彼らは弾圧されてもいないのに、自ら挑発的暴力を繰り返して鎮圧され、それを政治的弾圧とみなして抗う。彼らにとって批判一般は自らの信条への脅威であり、その批判を暴力で封じ込める。その言論弾圧は、ファシストが権力の座に近づくほどに過激になり、最終的に批判者を他民族の外国人、または外国の手先とみなして収容所に収監し、処刑する。この民族主義ファシズムは、もっぱら実在したことも無い理想的な過去の復元を目指す。もちろんその非現実な復古主義は、宗教的原理主義においても変わらない。その理想的過去は、民族主義ファシズムにおける民族的栄光と同様に、実は極悪な過去を逆に美化して生まれた幻影である。それゆえに両者はともに、伝統的な強権的家父長秩序の復活を目標とする。単純に言うとその目指す目標は、強者による弱者支配である。いずれにおいてもその背景にあるのは、自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動である。一方で宗教的原理主義は、赤色ファシズムと同様に、民主主義ポビュリズムの中から発生するのでなく、もっぱら既存の独裁的秩序に対する転覆要求から生じる。そしてそれらの背景には、民主主義の未発達な社会状態がある。しかし革命集団の目標が独裁的秩序の転覆なら、その転覆後の社会秩序は、独裁の対極である民主的秩序となるべきである。このときに革命集団が集団外からの批判を許すのなら、自らの集団内部からの批判を許さないのは、不合理である。それゆえに革命集団が民主的秩序を目指すのなら、その革命集団はそれ自身が民主的である必要を持つ。この場合に宗教的原理主義であろうと、赤色ファシズムであろうと、その当初は民主的でなければいけない。とは言え、組織における批判の抑制は、その組織に迅速な行動を与える。その一方で批判の抑制は、組織行動の柔軟性を奪う。それは組織内外の問題検討を不十分にし、その問題対応を困難にする。それゆえに独裁体制においてさえ支配層は、自らの周辺に有識者を必要とする。当然ながらこの自由な意思疎通は、民主的組織ではさらに必要とされる。理想を言うとそこではメンバー全員が個々に有識者となる。ところがこれらの民主主義の必要は、やはり意思決定の遅延をもたらす。そしてその遅延は、革命集団の迅速な局面打開の対応において命取りである。ただし一般的な運動方針は、必ずしもそのように局面打開の迅速性を必要としない。それが要請されるのは、革命集団に対する独裁体制による弾圧への対処である。革命集団における組織防衛の必要は、革命集団内部における民主主義を制約する。それは革命集団に対し、メンバー間の自由な意思疎通を制約し、指揮系統を分裂させることにより、摘発時の被害を局所化する組織形態を選ばせる。この場合に上位組織を防衛するために、その指揮系統も旧式軍隊の上意下達になる。しかし端的に言うとこの組織形態に組織方針を話し合う余地は無く、したがって非民主的である。民主主義を目指す革命集団が、非民主的になるのは矛盾である。そしてこのジレンマが、革命集団自体を非民主的に変質させる。その変質の背景には、革命集団内部における支配層の不当な経済的特権が控えている。ちなみに組織防衛のために必要だった民主主義の制約は、少なくとも革命集団が政権奪取した後に不要となる。それゆえに革命集団が政権奪取した後に民主主義に制約をかけるのは、その革命集団自体の虚偽性を表現する。


(2b)ファシズムと善

 独裁的秩序がもたらす不合理な貧困と差別は、自らの零落に対する怨嗟、および無方向な支配の衝動と癒合して新たなファシズムの芽を生む。その一方は既存秩序を補完する愛国に純化し、他方は既存秩序を破壊する反体制的情熱に純化する。ただしいずれの情熱においても、その正当な部分はファシズムに進まずに、民主主義の実現に進む。両者に共通するのは、その不幸な境遇に対応した自らの空虚であり、その虚無の代償を得ようとする渇望である。もしその渇望が単純な自己富裕の実現に留まるなら、そこに特段の善は必要とされない。しかし不合理な貧困と差別にある者は、そもそも普通の暮らしでさえままならない。このときに物理的富裕から見放された人間が目指すのは、精神的富裕である。そこに現れるのは、物理的価値ではなく精神的価値であり、すなわち善である。またそれゆえに人は、不合理な貧困と差別の中にあっても悪徳の中に身を委ねず、逆に悪徳を避ける。しかし人が虚無の代償に善を得ようとするほど、その善の純粋さが人を自己否定に追い込む。そしてその自己否定は、その個人における善に対する滅私奉公として現れる。特に不幸な境遇にある個人にとって、否定すべき自己はもともと既に無に等しい。むしろ失う者の無い無産者の方が、容易に善を通じてより大きな価値を手にする。それどころか失う者の無い無産者は、自らの生に絶望しており、死に場所さえ求める。その死の代償が善であるなら、彼は容易に死を望む。もちろんその典型例は、原理主義における自爆テロであり、そもそも原理主義が手本にした民族主義や共産主義における自己犠牲行為である。いずれにおいても絶望は人に対して、命を賭した挺身行為に誘う。ところがその命がけで得た善が本物の善であるかどうかは、また別の問題である。もしその行動が本物の善を実現するなら、その死も無駄にならないかもしれない。しかしそうでなければ、その死は無駄であり、場合によって正反対にそれは悪を実現させる。厄介なのは、命を賭した挺身行為を行う個人が、ただ単に死にたいだけであり、死ぬ口実として既存の正体不明の善を使う場合である。その場合にその善の真偽は、彼自身にとってもどうでも良い。このときに彼の対他存在は、結果の生死に関わらず、その虚偽の善を信奉する組織において聖人となる。しかし彼が本物の聖人であるかどうかは、相変わらず別の問題のままである。ここで必要となるのは、既に善ではなく、真理である。それは意識が捏造するものではなく、物理が構成する。その物理は、情報の直接性と量を必要とする。その情報量は一方で空間的量であり、他方で時間的量であり、同時に広がる事実の連鎖と時間経緯において整合する必要を持つ。そのような情報全体の体系だけが、その個々の情報間の整合性確認を通じ、物理的真に近づく。


(2c)ファシズムと真理

 ファシズムの信じる善は、物理的真に対立する。単純に言えばファシズムの善は意識の捏造であり、単に思い込まれただけの嘘である。それは直接的情報とその量と整合せず、逆に直接的情報とその量がその嘘を露呈させる。それゆえにファシズムは情報一般に敵対し、自ら信じる嘘を正しい情報と称して外部世界に流通させる。このときにファシストの組織指導者は、自らに都合の悪い情報を組織内で沈黙させる。しかしその同じ情報は、組織外からも飛来する。それゆえにファシストが国家を支配するなら、国内におけるファシズム組織に対する不都合な情報の全てを暴力的に封じ込める。さらに彼らは国外からの情報を遮蔽し、国外情報が同調する国内批判者を外国諜報機関の代理人とみなし、売国奴に仕立て上げる。一方で自由な報道とは自由な表現であり、自由な表現は虚偽表現を含む。もともと物理的真は、その実態と正反対に現象することも多い。それゆえに直接的情報と言えども、往々にしてそれは単独で虚偽となる。そのために直接的情報は、事実の連鎖と時間経緯において整合する必要を持つ。このことは表現が虚偽になる一般的な可能性を示す。それゆえに端的に言うなら表現の自由とは、虚偽を述べる自由でさえある。しかし虚偽表現は正される必要がある。ただしその否定は、物理的暴力によって行われるのではなく、対抗する正規表現と話し合いが行う。ここで虚偽表現を是正するのも、事実の連鎖と時間経緯における整合性に従う。それが期待するのは、納得による虚偽表現の自己縊死であり、自然死である。そうでなければ虚偽表現の暴力的否定は、そのまま表現の自由の否定に連携する。ところがファシストは、この虚偽表現の補正必要を逆手に取る形で、ファシストに都合の悪い自由な表現の全てを弾圧する。実際にはそこでファシストが恐怖する対象は、自らの嘘の露呈であり、自己欺瞞の自覚である。その自己欺瞞は、例えば勝てば官軍であるとか、信じ続けた嘘は真実に転じるとかの虚偽格言に自らの居場所を求める。それが表現するのは、真理は意識であり、意識が真理を規定すると捉える観念論の王道である。しかし物の見方を変えたところで物理的真は変わらない。主権国家を侵略したのはロシアであり、ロシアが加害者でありウクライナは被害者である。不幸の現実を思い込まれただけの幸福に塗り替える虚言を、物理的真は許さない。またその自覚があるからこそロシアファシストは、ウクライナで起きた戦争の真実をロシアの自国内から排除する必要を持つ。おそらく現代の戦争に対する正しい方策は、そのような現実をファシズム国家の国内にあますことなく流布させることである。そして現代世界は、この方策を実現する強力な武器としてインターネットを生み出した。ところが現状を言えばインターネットにおいてさえ、相変わらずそこにファシストによる情報防衛網が構築されつつある。また一般的見解とか学問的見解と称する情報も、実際にはそもそも多様に満ちて対立し合っている。しかも貧困が蔓延する独裁体制下では、外国語翻訳の困難だけでなく、そもそもインターネット自体が完備されていない。そして戦争が終結していない現実も、この世界における事実情報の基盤的欠落を表現している。


(2d)真理と良心

 上位階層への批判や指摘が不可能な国家では、そのような情報発信行為が発信者の命取りとなる。そこでは上位階層の問題を改善できず、現場無視の指揮系統の責任を誰も取らない。当然ながらそのような国家では、汚職と腐敗も批判されずに放置され、蔓延する。そしてその腐敗は最上位階層に集積するので、最上位階層における中心的指導者でさえ、その利害対立の中で抹殺される事態が生じる。このような事態は、国家水準の場合に限らず、非民主的な革命集団内部の職業的革命家の間でも生じる。ただし革命集団における汚職と腐敗は、単なる組織上位階層の生活利益により生じない。そのような上層部の生活利益を追求するだけの革命集団は、暴力団やネズミ講と同様の、不法な経済的搾取集団と変わらない。もともと革命集団のメンバーが期待するのは、やはり悪に対抗する善である。そしてその善の対極にある悪を、独裁体制が体現する。それゆえに非民主的な革命集団におけるその特異な汚職と腐敗は、そのスローガンとする独裁体制との対決において先鋭化する。一見するとそれは組織における汚職と腐敗ではなく、むしろ民族主義や共産主義、または宗教における自己犠牲的献身の深化である。さしあたりその汚職と腐敗は、集団指導部における物理生活的な私的資産の取得に進まない。しかしその代わりに集団指導部は、精神的資産を取得する。その精神的資産は、民族主義や共産主義、または宗教の自己都合的解釈である。しかしそれは、その解釈の徹底を通じた組織内権力の私物化となる。そして結局その精神的資産の私物化は、物理生活的資産の私物化に転じる。本来なら革命集団の自己犠牲の献身相手は善であり、集団指導部がその善を体現する。ところがその集団指導部が批判や指摘を免れていれば、その集団指導部が善を体現しているのかも怪しい。そして集団指導部が汚職と腐敗にまみれているなら、その自己犠牲的献身も、集団指導部が提唱する善を実現するだけになる。そして集団指導部が提唱する善が実は悪なら、その自己犠牲的献身も、実際には善ではなく悪を実現することになる。このときにその革命集団は、その過激なスローガンと正反対に、暴力団やネズミ講と同様、あるいはもっと不法な経済的搾取集団に転じる。この場合に末端メンバーは、善が実現すると信じながら、悪を実践する。ここでの集団指導部が行う善の粉飾は、末端メンバーを現実乖離に晒す。しかしもっぱら末端メンバーはその現実乖離を、集団指導部が示した組織方針に従って無視する。このときに彼の心を支えるのは、悪を善に塗り替えることへの無反省である。そこには物理の塗り替えを意識の勝利と勘違いする間違った観念論がある。ところが良心は真理の側に立っており、真理だけが良心の声として現れる。もちろんファシストも、自らの行為を良心に従ったと思っているであろう。しかしそうであるならファシストは、真理の隠蔽に走る自らの行動様式を説明できない。このときに隠蔽される物理的真は、ファシストに対して良心の声として現れる。したがって真理を隠蔽するファシズムは、自らの思惑と逆に良心の声の対岸に立つ。その虚偽と真理の両岸を隔てる深淵を構成するのは、相変わらず経済的階級の差異である。

(2024/01/14)
続く⇒ロシアン・ファシズムの現在(2)
英語版(1a)⇒The present state of Russian fascism (1)
英語版(1b)⇒The present state of Russian fascism (2)

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数理労働価値(第四章:生産要素表(3)生産拡大における生産要素の遷移)

2023-12-03 10:10:25 | 資本論の見直し

(10)生産拡大における生産要素の遷移

 上記に記載した生産要素を一覧にすると、以下にまとまる。

[物財生産工程における基礎的生産要素]


[物財生産工程における生産要素の遷移]


ここで上記の生産要素の一覧で捨象してきた物財の価値量についても、以下にその遷移を追記する。

[物財生産工程における価値量の遷移]


もともと価値量と物財数は、10進数と12進数の違いと同様に、単位規模が違うだけの異なる量表現にすぎない。その変化を物財量と同様に追跡しても、上記表と同等の遷移を示すだけに見える。しかし上記遷移で見ると、不変資本導入後の拡大再生産で物財生産数が増大する一方で、物財価値量は増大していない。これは物財生産数の増大を受けて、物財の単位価値が下落したせいである。価値単位減少の場合に比べると、拡大再生産の剰余価値搾取は、純生産物価値量がx/(x+r)だけ減少する。つまり純生産物rを労働者から直接搾取する価値単位減少と違い、拡大再生産は純生産物rを大きくするほどに、その取得価値量rpを減少させる。それは単純に不労取得者自身における搾取の相殺を示す。この純生産物価値量の減少だけを見ると、拡大再生産は価値単位減少に比べて剰余価値搾取を緩和する。しかしこの緩和は、上記表が生産物を全て消費する前提に従う。ところが不労取得者がいくら貪欲でも、彼は貧民より何倍もの食事をできない。彼はせいぜい労力のかかる高級食材をそこそこ多めに食べるだけである。このことは食事に限らず、衣食住の全体に該当する。また無駄な消費は、不労取得者にとっても無駄である。特に不労取得者が金融資本家であるなら、彼にとって消費の抑制それ自体が拡大再生産を実現する。それゆえに不労取得者は自らの消費を抑制し、多くの取得価値が死蔵される。この場合に上記に見られた搾取の相殺は実現しない。一方で無駄な物財生産の拡大再生産も、消費不能な上限量で停止する。それは消費に対応しない物財生産を抑制し、資産家の贅沢に対応する物財に生産を集中させる。しかしこのような物財生産の拡大は、貧民にとって別世界の出来事に留まる。拡大再生産はそれだけでは、資本主義における生産と消費の不均衡、すなわち労働と所有の不均衡を解消しない。むしろその不均衡はより激化する。ここでさしあたり求められるのは、上記表5の価値単位増大かもしれない。しかしそれは、上記表を見るまでも無く、不労取得者の収益を減少させる。また不労取得者の裾野は薄く広く伸びており、その多くが自らの不労収益に満足していない。どのみち不労取得者にとって収益の減少は忌まわしき事態であり、彼は全力でそれを阻止する。ただしもっぱらその対策は、減少した収益を国庫から引出し、国庫経由で貧民に負担させるものとなる。


(11)生産拡大が前提する価値単位の相対的縮小

 上記表2でも上記表4でも拡大再生産は、価値単位、すなわち人間生活の物財生産数に対する相対的縮小を前提する。それは相対的縮小なので、生産増に比して小さい人間生活の増大でも拡大再生産は可能であり、生産減に比して大きい人間生活の縮小でも拡大再生産は可能である。したがって生産のための投下物財数aがゼロでも、価値単位cを以前より小さくすれば、拡大再生産が可能である。しかしこのことが逆に、投下物財数aの増大が価値単位cの減少より小さい場合に、縮小再生産を起こす。そして往々に景気後退局面でこの事象が発生する。それと言うのも価値単位cは、投下物財数aの減少を超える急激な減少に耐えられないからである。それゆえにこのことは、ケインズ式の財政出動による有効需要創出を有意にする。ただしその効能は、麻薬が持つ短期的効能と同じである。医者が治療に麻薬を使用する場合、医者は麻薬が苦痛を消す間に患部の治療を終了する必要がある。もし患部の治療が不十分だと、麻薬の効力が失われたときに、有効需要が増大させてきた人間生活の絶対的縮小が始まる。それがもたらす苦痛は、麻薬の投入前よりひどくなる。もちろんある程度の患部の治療がされていたなら、それなりに苦痛も麻薬の投入前より緩和する。しかし苦痛が再来する限り、さらなる財政出動による有効需要創出が要請される。そして患部の治療が進まなければ、国民経済全体の麻薬漬けが常態化する。このときに有効需要創出の出資者が、国民経済全体を牛耳る権利を得る。その出資者は、国民を相手にした債権者である。その出資者は必要であれば国民経済を破綻させるが、必要が無ければ国民経済全体の麻薬漬けを放置する。その債務利益は巨大なので、ほどほどに利益が出るなら出資者も満足するし、必要ならたまに損失が少々出ても困らない。もともと彼の収益の中心は、国債収入ではなく、もっと別の剰余価値搾取と金融利益にある。むしろ借金財政である方が、債権者は債務者を支配できる。支配者の心得は、領民を生かさず殺さずに支配することである。ただしこの意志は、具体的個人が体現するわけではない。またその意志の実現者も、自らが不労利益集団に選ばれた操り道具であるのを自覚しない。むしろ彼には基本的事実に対する無知と無自覚を要請される。単純に言うと彼の信念は、事実乖離した知であり、物理から遊離した純粋な観念論である。さもなければさすがに彼も、一方で事実を知りつつ、他方で虚偽を信じる自らの自己欺瞞を自覚する。そしてそのような信念を、不労取得者の相反する利害の全体が実現する。この意志が注意して監視すべきなのは、共産主義革命の勃発である。もちろんそのような危機を見越して、その意志はあらかじめ国民経済に破綻圧力をかけるし、共産主義者を事前に壊滅させる。もし事前にその壊滅に失敗して共産主義政権が樹立しても、彼は国民経済の破綻圧力によってその政権を瓦解させられる。なんなら実際に国民経済を破綻させることも彼は厭わない。その場合にその意志は、共産主義者の自滅を期待して、自らの拠点を国外に移す。事前の準備さえしているなら、彼の損失も限定的である。さしあたりの歴史的経験から言えば、共産主義者たちは自滅する。そうであるなら彼の国民経済の掌握は、再出発可能である。そのための資金に彼は困ってもいない。現状の経験から見ると、むしろその後の支配者の地位は、共産主義者の失敗を経ることで、より盤石なものになる。
(2023/12/03)

続く⇒第四章(4)二部門間の生産要素表   前の記事⇒第二章(2)不変資本導入と生産規模拡大

数理労働価値
  序論:労働価値論の原理
      (1)生体における供給と消費
      (2)過去に対する現在の初期劣位の逆転
      (3)供給と消費の一般式
      (4)分業と階級分離
  1章 基本モデル
      (1)消費財生産モデル
      (2)生産と消費の不均衡
      (3)消費財増大の価値に対する一時的影響
      (4)価値単位としての労働力
      (5)商業
      (6)統括労働
      (7)剰余価値
      (8)消費財生産数変化の実数値モデル
      (9)上記表の式変形の注記
  2章 資本蓄積
      (1)生産財転換モデル
      (2)拡大再生産
      (3)不変資本を媒介にした可変資本減資
      (4)不変資本を媒介にした可変資本増強
      (5)不変資本による剰余価値生産の質的増大
      (6)独占財の価値法則
      (7)生産財転換の実数値モデル
      (8)生産財転換の実数値モデル2
  3章 金融資本
      (1)金融資本と利子
      (2)差額略取の実体化
      (3)労働力商品の資源化
      (4)価格構成における剰余価値の変動
      (5)(C+V)と(C+V+M)
      (6)金融資本における生産財転換の実数値モデル
  4章 生産要素表
      (1)剰余生産物搾取による純生産物の生成
      (2)不変資本導入と生産規模拡大
      (3)生産拡大における生産要素の遷移


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