おいちゃんの田舎暮らし日記

定年になって田舎で小さな小屋を作りながら暮らしています

本日は兵庫まで

2011-04-30 22:44:53 | ドライブ、車中泊、旅行
関西方面、本日は曇り
 
今日は11時頃愛知県を出発し、名神高速を一路大阪方面へ、途中大津サービスエリアで休憩、
京都東で下車、京都市内を抜けて沓掛ICで再び高速に乗り亀山IC下車、国道372をを利用して
峠の山道を抜けて西脇市へ。
約6時間で目的地到着、高速道路は愛知県、岐阜県で若干混んでいたが、それより西側の高速は
ほとんど渋滞はなかったようだ。
 
何度も同じ高速を通って行っているので今回はあえて京都から兵庫に向かって下道利用で来た。
時間は結構かかったが時間的余裕があれば寄り道もまた楽しい。
 
 
 
名神高速、関ヶ原付近の渋滞状況
 
 
 
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潤のお出迎えを受けた
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明日は、ゆっくり起きて瀬戸大橋を通って四国にわたる予定です。
 

 

ノアの箱舟

2011-04-29 23:43:40 | 日記
今日も愛知にいた、朝のうちはお天気よし、晴れのち曇りというところか、
 
ホームセンタ-に部品を買いに行った。
 
ロビン エンジンの燃料ストレーナーからガソリンがすこし漏れる。ゴムパッキンの交換が必要だ。以前にHCで関連部品を見たような気がしたので行ってみたが、違うHCのようだ、同じ部品はなかった、仕方ないので何かないかと探していたらほぼ同じサイズのゴムワッシャーがあったのでこれを買うことにした、袋の裏には油脂類にも強いと書かれている。
 
                                         外径18mm、厚さ 2mm  120円
 
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ついでに、このようなO-RINGセット 300円も買った
役に立つだろうか、ガソリンに対して大丈夫だろうか?。
 
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ノアの箱舟
 
中日新聞1月1日お正月の特集号に、作家 宮内 勝典さんと宗教学者 山折 哲雄さんとの対談が載っていた。
題は、「多神教的寛容へ」というもの、この対談に非常に共感した。この中の記述の一部を転記させていただく
(全体ではなく部分的と言うのは誤解も生まれるかもしれないがその点はお断りしておく)
 
<山折氏>
西欧文明、ユダヤ、キリスト文明の根底的な戦略は、生き残り戦略。危機的な状況が来た時に、それでもなお生き残らなければいけないという考えです。
その出発点は旧約聖書に出てくるノアの箱舟の物語。ノアの一族だけが船を作って生き残る。ヨーロッパ文明は、この考えに基づいて発展してきたと思う。経済、宗教、政治などの理論、今日の医療の問題も環境の問題もそう、生き残るものと、犠牲にする者を仕分けしていく。
 
一方アジアには危機的状況が襲った時、全体で引き受けようという思想がある。滅びるならみんなで滅びようと。一言でいえば、無常戦略だと思う。成長するものは必ず衰退する。興隆するものは必ず死滅する。つまり死を受け入れるということ。これが無常ということで、基本的にはデメリットを全員で引き受け、そのことによってもう一つの生き残りの道をつくりだすという生き方です。
 
仏教でも老荘の思想でも、みんな「無常」ですよね。これからの低成長時代を生き抜く重要な戦略になるんじゃないかな。
経済も変動は日常茶飯事、これも無常じゃないかと思う。アジア的価値観は低成長時代だからこそ再評価されていい。
 
と書かれていた。今回の大震災時に皆がとった行動が世界から驚嘆の目で見られ多くの国から高い評価を受けている、なんで暴動や略奪行為が起きないのか?
このことはやはり、山折先生が指摘されているように日本人の持つ無常戦略というものかもしれない。
 
おいちゃんには哲学や宗教学的なことは皆目わからないが・・そうかもしれないと思った。
 
 
それから、「風」さんのブログを読ませてもらっていたら、書き込みか記事で下記のような記述があったと紹介されていた。
 
いろいろ記述されていたが、
 
「子供がお菓子を持ってレジに並んでいたけれど、順番が近くなり、レジを見て考え込み、レジ横にあった募金箱にお金を入れて、お菓子を棚に戻して出て行きました。店員さんその子供の背中に向けてかけた「ありがとうございます」という声が、震えてました。」
 
これを読んでおいちゃんは涙がポロポロ出てしまいました。
(まだ日本は滅びません)
 
 
もう連休に入りましたね、明日から関西から四国方面に小旅行に出かけます。
車、混でるでしょうが・・・・
 
 
 
 
 

食と生

2011-04-28 22:23:39 | 日記
光回線
 
愛知北西部、今日は朝のうちは天候が良かったが、午後から曇り気温も低かった。
 
頼んであった光回線の工事をする人が朝から3名来た。
工事と言っても大したことはないと思っていたがゴンドラ車が来て電柱から本格的にケーブルを引着込んだ。

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屋内にはこれまでの電話回線のパイプを利用して光ファイバーを引き込んだ、今まであったモジュラーのところにうまく引き込む事が出来た、従来のワイヤーも残してあるので必要な時は利用できる


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工事が終わると今度は交換機のセットアップを行う人が来た。契約ではパソコン1台の接続を行ってくれることとなっていた。これまでは無線を使っていた、そのまま無線も利用できるし勿論ケーブルも利用できる。
引き込み工事費用として3000円、セットアップ費用として1000円というものだが、これだけの人が来てこの費用では安いと思うし、その他の特典がいっぱいあってパソコン購入時の値引きがあるが、これらは利用料で十分回収できるのだろう、契約は2年、それより早くキャンセルするとペナルティーをとられる事となっている。
通信速度は速い、今後料金はどの程度になるのだろう?
 
 
 
食と生
 

地震で避難している時、もうこれで人生お終いなのかと思った。その前夜 Iちゃんと楽しい食事をした、よく最後の晩餐と言うがタイミング良くあれがおいちゃんにとって最後の晩餐会だったのかと思った。人はもう最後かもしれないという時何を考えるか何か食べる事を考えるものか?家族や恋人のことか?

 
 
父親は93歳で他界した、もう臨終に近い時、子供の誰かが話かけた、なにかしてほしいことはないか?、父は言った「なにかうまい物を食べさせてくれ」 もう物を飲み込む力もないというのに・・・
 
戦時中の夢の中をさまよっていたのだろうか?
 
言うまでもなく食は生に直接結びついている、後々なんであんなことを言うのか考えてみた。
 
 
父は戦争を体験した、戦地での飢餓、運よく帰っては来たが手術が必要な胃の大病をしたこの時の食への制限、終戦後の困窮生活 子供5人と両親、そしておいちゃんが中学の時、祖父母が住んでいた別宅が火元で火災を起こした、この時は10所帯位焼けだしてしまった、幸いにも人身はなかった。現在のように火災保険制度も浸透している訳でもなく、家長に対する風当たりは相当なものだったであろう、色んな手を尽くして弁償もしたのであろう。しかし父はへこたれることなくその後も毅然として生きた。
 
 
田舎独特のものかもしれないが、親戚の家など遊びに行くとそこのおばあちゃんが、おまえはご飯は食べたか、もっといっぱい食べろといつも言う、これは人をもてなす心と、子供たちに対する愛なのだろうか。
 
現代の子供はお母さんが食べ物を持っておっかけまわして食べさせている。
 
 
おいちゃんのふるさとは四国の山の中である。幼少のころ姉などに聞いた話ではあるが、この山間地では、人が亡くなった時お悔やみの挨拶に、「お米も振ったけど命が尽きたようだが御気の毒だ」というような意味のことばをかけたという。
 
このお米を振るというのは、竹の筒の中にお米を入れて、病人の耳元でお米の音を聴かせる。それを食べたいために死に近い者が元気が出るのではと言うものだろう。いろんな手を尽くし、さらにまたこのような行為までしても命が持たなかったというもの。
 
小心者のおいちゃんはこの話は今まで外部の人にしたことはなかった、恥だと思った。
 
宮本 常一という人が戦中、戦後日本中を歩きまわって色んな土地、人から語り継がれる民話や昔話などを書き留めたいわゆる民族史を最近読んだ、驚いたのは、東北地方だったと思うがこの本の中に全く同じような記述があった。よく考えるとこの話はなにか宗教的な儀式か単なる民話かとも思ったが必ずしもそうでもないと思う、こういった地域の昔は水田は少なく、主食は山地でも収穫できる、稗や粟や蕎麦などであったのだ。米がどれだけ貴重な食料であったかは推測できる。
 
これは、そんなに昔の話ではない、おじいちゃん、おばあちゃんの時代だ。
 
今回のように非常事態になった時、特にこれに近い時代に育った母親達は子供の命を守り、女は家族を守る行動をとる、あなたは飢餓を経験したことがあるか?明りのない夜を何日も過ごしたことがあるだろうか?
 
非常事態にスーパーの米やパンや電池を一生懸命買い集める行為を誰が非難できようか、これは暖かく電気のつた部屋で理性をもって考える事ではなく、このような経験を持つ人達の脳の中にしっかりと書き込まれた細胞がそうさせる。理屈ではないのである。
 
Iちゃんは、さわやかでとても元気な人である。務めた会社が倒産し失業しても、地震がきて影響を受けようとも、男と別れようとも元気に前向きに生きている、また上京したら是非食事にでも行こう。食は元気の元である。

帰宅困難者

2011-04-27 19:23:15 | 日記
昨日は雨、今日も雨の予報だったので昨晩山から愛知の自宅に帰った
 しばらく家に帰っていなかったので銀行に行ったりいろんな支払いの手続き、ワンコの散歩や洗濯までした。4時頃から雨、風今夜から明日朝にかけて東海地方は強雨の予報
 
おいちゃんはこの3月まで東京で単身赴任生活を、7年間送った。
 
3月11日14時46分頃発生した東北地方太平洋沖地震の時、東京駅近くの丸の内側のビル7階に居た。
10名ほどで会議中だったが仙台の人の携帯電話が突然鳴った、少し話してから、今仙台で大きな地震があったらしい、っと言い終わるかどうかの時突然大きな揺れがこのビルにも起こった。
 
驚いた、こんな大きな揺れはこれまで体験したことはない、揺れは続いている、とりあえず携帯でテレビを見た。すごいことになっている、ここもビルが揺れ続けている東京は震度5だという、さてどうするまだビルは揺れている外を見るともうすでに結構な人々が外に出ているのも見える。
 
こういう時は建物の中にいた方が安全なのだと誰かが言った、しかしおいちゃんは建物の中にとどまるのは無理だと思った。
ビルが倒壊するとすれば中に居るのはいやだ、ビルの谷間に居て瓦礫の落下にやられる確率は高いが自力で避ける事が可能かもしれない。
 
恐怖は震度5で終わるのか6になるのか7になるか次の予想がつかないところである。もう外に出ようと決意し、ビル中央部にある階段を駆け下りた。一階には結構な人が居たがそれほどバタバタしている様子はない。
 
丸の内側には比較的新しいビルがあり現在建築中のビルも何棟かある。ビル群を見上げると建設中のビルのトップにはクレーンが設置されている、余震のあるたびにこのクレーンが数メートル(だと思う)は揺れている、いつ吹っ飛んでも来ても不思議ではない揺れだ。
 
もし今この様なものが落下してきたらJRの高架下に逃げようとなるべく高架寄りを歩いた(これが正解かどうかは不明だが・・・)
 
どこに行くか、このあたりで建物がないところは皇居だ、皇居の方に行くことにした。
皇居外苑と言うのか皇居前の広場で松の木の植えてあるところまで来た、とりあえず上から落ちてくるものはない、このあたりにはすでに近くのビルから退避してきたサラリーマンたちが大勢いる、ヘルメットを被っているものも結構いる。
 
しばらくこの場所で様子を見ることにした。車は動いている、ニュースでは道路も渋滞を起こし始めているらしい。目の前にタクシーが止まっており運転手も避難している様子、少し年配のご夫婦がこのタクシーと交渉しているが、運転手が言うのには今はお客を乗せてはいけないような指令が本部からきているので無理だとか言っている。
 
言うまでもなくこれくらいの地震が来たら交通機関は全滅だ、ホテルもむりだろう、これからどうする?地震が収まったら先ほどのビルに帰って泊めてもらうことは可能かもしれない、しかしもうホテルも含めて高層ビルの中に入るのはいやだ。田舎者のおいちゃんは高層ビルは苦手だ、非常の場合の逃げ口が限られているからだ、アパートも2階に住んでいる。
 
 
幸い今朝は少し寒かったので、裏付きのコートと厚手の手袋、マフラーを持参していた。この天気だとこのまま公園で夜を明かすのも無理ではないだろう。しかしどこかないだろうかと二重橋方面に向かって歩いて行くと、大きなバス駐車場があり平屋作りの待合室のようなものがある、中に入るとかなり広いし簡単なレストランにもなってるような建物であった。外にはトイレもあるし自動販売機もあり電気も点灯している。
 
ここで避難できたら十分だと思った、他にも同じように帰宅困難者となった人たちが数名いた。今から歩いて帰れるところまで帰ろうかと一瞬思ったがあったがそのようなエネルギーを使いたくない、もうすぐ夜にもなる。明日になれば何とかなるだろう、
 
 
その建物の中に入って椅子に座っていた、他にも数人居た、支配人のような人が来てどう対応したらよいのか困惑しているようだった、ここは公共の施設のようだ、従業員もいるし当然今日は皆自宅に帰る事はできないだろう。
 
 
そのうち夕暮れがせまると同時にこの建物には多くの人が集まってきた。この状況でこれだけの人がすでに建物内に居るのに今更出て行ってくれとは言えないだろう、先の支配人のような人がスピーカーで、この施設は避難場所として提供させていただきますので使ってもらって良い、というようなアナウンスをした、責任者に正式に許可を得たのだろう。皆から自然と拍手がわいた、
 
100名近い人が居た、夜はもっと人数が増えていたようだ。携帯テレビでニュースを見ていたら少し年配のご婦人から声をかけられた。私は秋田から来ているんだが秋田方面の状況はどうでしょうか?と言われた。テレビでは東北、太平洋側の災害を主に伝えていたので秋田は比較的大丈夫のようです、ご婦人は大変心配されたことでしょう。
 
 
自動販売機も動いていたし、コンセントもあったので混んではいたが携帯の充電もできていたようだ。おいちゃんは予備のバッテリーを持っていた。
夜中も余震が頻繁に起こり、その都度皆の携帯電話の災害避難警報が鳴り、皆が一斉に外に外に出ようとしたり外に出た。一夜のうちにそれを何回繰り返したことだろう、この建物は平屋建てなので倒壊する事はないだろうが天井の落下はあるかもしれない、壁や一部の構造物が割れているようなところもあった。
 
 
ほとんど眠る事も出来ないまま朝が来た、幸い地下鉄など交通機関も動いているものもあり、徒歩で行動する人もいるだろう、避難している人数もだんだんと減ってきた。その施設の人からアナウンスがあって皆さんへの食べ物は出せませんが、今から味噌汁を配りますのでよろしかったら召し上がって下さいとのこと、これだけおいしいと感じた味噌汁はなかった(感謝)。
 
東京に勤務しているみなさんどうなったのか?皆無事なのか?一部の人にはメールで確認した。家族や親せきの者から安否確認のメールがあった。携帯はなかなかつながりにくかったが、メールは何回かやると送信できた。
 
早朝は何かと込み合うだろうと予想して、だいぶん遅く時間をずらしてアパートに帰るべく東京駅に向かった。一度はこのまま名古屋に向かって新幹線で帰ろうかとも思ったが、新幹線に乗るのも今はなんだか不安だ。
 
 
東京駅の朝は当然すごく混雑していた、JR総武線の乗り場まで行ってみようと改札を入り地下3階に向けて降りて行ったが、すごい人だ、大勢の人達だがきっちりと列を作って皆並んでいた。この電車は千葉方面に向かうメインのJR線なので込み合って当然だ。もうこの電車はあきらめよう、地下鉄で行けるところまで行って後はタクシーや徒歩覚悟で帰ることとした。
 
 
地下鉄や地上の電車は動いていても間引き運転で、ものすごく混んでいた。何台か列車をやり過ごしやっと隙間がありそうな列車が来たので乗った、なんとかアパートに帰りつく事が出来た。
 
古いRC造りの3階建アパートであったが建物は無事で、戸も開けることができた、机の上の本が少し落ちていた程度で電気もガスも出る、ひび割れているようなこともない、とりあえず問題ないだろう。
 
近所のコンビニに行った、ご飯類やパン類は一切売り切れでお菓子のようなものだけだった。かみさんから電話があり新幹線が動いているらしいのでそのまま愛知に帰ってきたらどうか?と言う。よく考えるとこれから先通勤するとしてもどうなるの?定年も近い、それほど重要な仕事を抱えているわけでもない。会社には申し訳ないが一旦愛知県の自宅に帰らせてもらうこととした。
 
 
続きは次回に

洗濯機の給水

2011-04-27 00:14:31 | DIY(土木、建築、他)
今日は朝から雨、日中もずうっと~
 
 

 




 

これまでは山小屋に来ても長くてせいぜい2~3日の滞在だったので洗濯もの持ち帰っていたが
ここで生活するとなると洗濯が必要だ。
 
 
4月に入ってからすすぐさま洗濯機を設置した。
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この洗濯機の給水栓がちょっと変だと思いませんか?そうです給水パイプが天井から配管
されています。
 
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洗濯機へは風呂から配管されています、なんで上に配管するのか?
それは冬場に洗濯が終わってから一番右下の蛇口から水抜きを
行うためにこのようになっています。
 

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ということでやっと洗濯機が使用できるようになりました。
この洗濯機は、おいちゃんがこの3月まで東京で生活していたときの洗濯機を山にもってきた物です。
 
東京といえば3月11日の震災時、おいちゃんは東京駅近くのビルの中でした。
 
少し体験談を書きたいと思います、また次回で。