充足しつつ、活動枠はあんまり広げないで、今そこにある日常の、瞬間の密度を、単に濃くするのでもなく、適度に適当に保つスキル。そういうものを、わたしは高めたい。
二百三高地の高地にあと少しでたどり着けなかった兵士の前半生に共感できれば、日本史は理解できたも同然。
日本というフィクションの少し先のゴールを見透かしていた信長と利道の恍惚と不安を、後世に生まれた役得でぼんやり視界に収めたつもりになりつつ、韓国台湾の慰安婦にも目配せするワイドがあれば、とりあえず21世紀の前半は善人ぽく生きていけるかな。
光文社古典新訳文庫は今こそ広告戦略次第で新潮文庫を越えられるんではなかろうか。それはつまり、この国の若人の世界理解の方法論の時代的更新で、戦後的隠居老人の末期の愉楽の提供でもある。
19世紀の無闇矢鱈な熱情が21世紀の冷静でいたがる高い系意識を震わせる。意識なんて何世紀だって越えられる。
今世紀以降、五輪の年には必ず災難がある。それを試練と捉え直し、災難を前倒しで捉え、かつてないリア充を目指すことにする。リア充こそすべて。
自分が世界の先端にいるという錯覚を抱き続けるという狂気を自家薬籠中のものとする狂気
世界的表現が書店で表せるくらいしかないのだとしたら安心してしまう。それがネットの中に浮遊しているのだとしたら無視しても別に構わない。でもそれが細胞に根付くものだとしたら逃れようがない。
建築はITは、世界を切り拓いているのか。世界は切り拓かれているのか。これ以上切り拓かれる必要があるのか。拓かれて何の意味があるのか。
構築やクリエイティブという言語的解釈はそんなにすごいのか。それは掃除以上の効果はあるのか。
軍事的ITが生み出したのは結局ルンバなんではなかろうか。踊りながら掃除する以上の活動がこの世にあるのか。
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