泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

僕は、そして僕たちはどう生きるか

2023-09-03 18:08:53 | 読書
「君たちはどう生きるか」に続いて読みたくなった本。この小説にも「コペル君」と呼ばれる中学生が登場します。
 それだけでなく、著者の梨木香歩さんを読みたくなったのは、別冊太陽の「河合隼雄 たましいに向き合う」を読んだからでもあります。


 この本に、梨木さんの文章も寄せられています。
 今日もそうでしたが、あまりにも暑くて疲れて何もする気がわかないとき、ぱらぱらとめくって好きなところから読みました。
 河合隼雄さんは、2006年の8月に脳梗塞で倒れられました。そのまま意識が戻らず、翌年の7月に亡くなりました。2006年8月は、このブログを始めたときでもあって、それからもう17年。この本と働く本屋で出会って、買わないわけにはいかなかった。それだけ私は河合隼雄の影響を受けていました。
「影響を受ける」というより、こんがらがった自分を解きほぐす助けになってくれたという感じでしょうか。
 あるいは、大海原を照らす灯台のように。そこにいてくれることがありがたかった。
「切り拓かれた道の行方」という題で、梨木さんは書かれています。
 切り拓かれた道は、多くの人たちが通ることで、踏み固められて大きくなっていく。
 切り拓かれた道は、文章で辿ることができて、本となって残されています。
 私もまた読みたくなってきました(すでに1冊書いました)。
 
 で、梨木さんの本。
 少し読んだだけで、とても文章が上手いと(当たり前なのですが)わかりました。
 読むことに対するストレスが極めて低い。主人公のいる場所に自然に入っていけて、その空気も感じられるような描写。
 柔らかくて的確。砕けすぎると嫌味が出ますがそれもありません。
 読んでいて引っかかったのは、初めて接する植物や虫たちの名前。
 ハンテンボク、イタドリ、ウミユリ、チゴユリ、クマガイソウ、トビムシ、カニムシ、ザトウムシ、エビネ、キンラン、ギンラン、コウホネ、ヒシ、カラスヘビ、スベリヒユ、シーボルトミミズ、などなど。
 一つ一つ、わからなければスマホで調べました。その時間もまた楽しく。その生き物を、ほんの少しだけでも知っただけで、より小説の具体をつかまえられるように感じました。
 不思議な一日の話です。
 コペル君と、彼の母の弟「ノボちゃん」というおじさんに呼ばれている子が、いつものように土壌調査に出かけた。「土壌調査」は、1リットルの土にどれだけの虫が生息しているかを定期的に調べるもの。彼はこれが必要だと感じて続けていた。その理由は後で明かされます。
 その出かけた先でノボちゃんと会う。ノボちゃんはイタドリが必要で採取しているところでした。さらにヨモギも必要だと言う。コペル君は、汚染されていないヨモギが生えている場所を知っていた。が、そこは、学校に来なくなっていたかつての親友の敷地内だった。
 その友達ユージンに久々に電話をかけ、OKをもらう。ノボちゃんとコペルと、コペルの飼っている犬「ブラキ氏」でユージンの自宅に。ユージンは、訳あって、大きな家に一人暮らしをしていた。その訳も、次第に明らかになっていきます。
 そこにユージンのいとこ、ショウコもやってくる。ショウコは、一人暮らしのユージンを気遣ってということもあったが、その他にも大事な役割があり、ユージンの家にしばしば来ていた。ショウコの使命もまた次第に明らかにされていきます。
 最終的には、「たましいの殺人」について書かれていたのでした。
 物語の出だしの柔らかさからは想像もできない展開。だけど、とても滑らかにつながっていて、著者の中では全体が見えていたのだと思う。そうじゃなければ書けない書き方です。
「たましいの殺人」が何なのか? ショウコが関わることになった「インジャ」の話、ユージンが学校に行かなくなった理由、ユージンが出会った元兵役拒否者、ユージンのおばあさんの活動、途中から参加することになるショウコの母の友人でオーストラリア人のマイクの軍隊での体験談などなどを通じて具体的に追体験していくことができます。
 最後は焚き火を囲んで。墓場で過ごすしかなかった「インジャ」が人の群れに改めて入ってくる。どうしてそれが可能になったのか? それも読んでいるうちに自ずとつかめてくる。そんな構造です。
 インジャの語った言葉が忘れられません。
「……泣いたら、だめだ。考え続けられなくなるから」 (231ページ10行)
 インジャもまた泣いたのでしょう。その上で、泣くだけでは先に進めないこともまたわかっていた。
 群れから離れ、一人になる時間と場所が必要だった。
 でも人は、一人では生きていけない。
 というか、僕がどう生きるかを考えていると、自ずと「僕たち」はどう生きるかについて考えることにつながっていく。
 ああ私はこんな小説が書きたかったんだなと思わせられました。
 私が学生時代に書いた処女作は、この作品の足元にも及ばない。だけれども、「たましいの殺人」を描きたかったのだと今は思う。
 この本は、「たましいの殺人」のその後まで書いている。著者が誠実ならば、そこまで描いて当然だと思える。
 以上のような感想を抱いて、改めて生物の固有名詞がたくさん出てきた意味が浮かび上がってきます。
 アスファルトで道を通すことだけが人にとって必要なことなのか。
 考え続けること。それが人の固有性を保つための秘訣なのではないのか。
 さて、私はどう生きていくのか?
 こんな素晴らしい小説を書かれて、まだ書くべきことは残されているのか?
 向き合い続けるしかないのではないでしょうか。
 私と、(私に)描かれたいものとが。その対話が噛み合って、豊かに広がって深まっていくほどに、作品の質も上がっていくのでしょう。
 向き合い続けること、カウンセリングを継続していくこと、考え続けていくこと。
 考え続けていくことの切実な要求を聴き、知らされた思いです。
 一つ一つのたましいが、喜んで(わらわらと)、一つでも多く人間になっていけるように。

 梨木香歩 著/岩波現代文庫/2015

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