泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

2008-08-27 23:28:22 | 映画
 市川崑監督作品です。絵の連続が映画であることを示している。
 ツタヤの更新になったのです。それで一本おまけ。それで借りました。
 学生時代は毎週のようにツタヤに行っていたのに。見尽くすなんてことはないのでしょうが、映画を観る機会がめっきり減った。単に暇が少なくなったからなのでしょうか。
 あんなに観たはずなのに、必ずと言っていいほど、気づいていない名作がある。市川さんは特に、亡くなったことで知りました。
 『鍵』は、原作が谷崎潤一郎です。『陰翳礼賛』は確か高校の授業で出たような。当時はその良さがわからなかった。「変態だ」と一蹴する輩もいますが、僕はそうは思わない。闇には確かに美がある。そこでしか味わえないものが。年を重ねるごとに染みてくるものと言うのでしょうか。谷崎は永井荷風に認められて作家道に入った。その流れ、共通した感性、性や女への親和。そこから人間の深みに入っていく。僕は嫌いじゃありません。
 この映画。またしても驚くのがその新しさです。1959年に作られたとは思えない。ほんとに今、触れていた。あっという間でした。市川さんの映画は、ほんと観ているだけでも楽しい。そして奥様である和田夏十の脚本。言葉もまたそぎ落とされ、それでも十分に伝わります。
 病を患いながら老い、死に抗おうとする剣持という男が、研修医の若い男木村をわざと誘い、妻と密会させ、そこを覗くことで嫉妬し、興奮し、生命感を保とうとする。そんな父を垣間見てしまう娘は父が嫌いでしかたない。妻は妻で、木村を愛するようになってしまう。娘もまた木村を思い、両親への憎しみを抱えている。剣持は木村と娘を結婚させようとする。木村は剣持の名誉や財産だけを狙っている。死への怯えが強い刺激を増幅させ、剣持は血圧を上げすぎ、死んでしまう。奥さんは「やっと死んだ」というような笑みさえ浮かべる。そして三人になり、木村を母に奪われたくない娘が、母に毒を盛るのですが空振り。そこへ召使の作ったサラダが運ばれてくる・・・。
 ラストは、なんとなく複線があったので納得しますが、それにしてもあっけない。でも、そこまで書いて、ああと見えてくるものがある。いかに執着がたわいないものであるか、しかしその執着が人を動かし、安定させもしているか。
 そして、観る者をそちらに引っ張る力がある。あなたもそうでしょ、と。
 確かに。否定できない。
 精錬潔白。そんな人がいるのでしょうか。それは多くの場合、偽装なのではないでしょうか。
 谷崎は、誰になんと言われようと、確かに人間の核に触れていた。情欲のない人間がどこにいるでしょうか。
 闇を書けてこそ作家です。もちろん、光も。
 それにしても「鍵」。人を生かし、人を殺しもする鍵。
 鍵が具体的になんだ?と聞かれても答えに窮してしまいますが、谷崎潤一郎は確かに、小説の全体で「鍵」を書いたのだと思います。
 まあ、気になったら観てみてください。こんな素晴らしい映画が、ツタヤの片隅に眠っています。

市川崑/中村雁治郎・京マチ子・仲代達也他/1959/角川映画
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ラフマニノフ ある愛の調べ

2008-05-07 23:27:41 | 映画
 創作と愛は、どのような関係にあるのでしょうか?
 この映画の終盤、腹が熱くなるのがわかった。そして、涙が出た。僕が泣くとき、いつもなにかに触れている。感情の流れが開いている。それはいつも、既知の向こうから、唐突にやってくる。私を洗い、どこかに行ってしまう。それこそが小説だと、頭でわかっていても、書き連ねる言葉はいつか行儀がよくなってしまい、そこに届かない。
 シャガールもそうですが、ラフマニノフもまたロシア出身で、亡命しなくてはならなかった。金を得るため、家族のために、演奏旅行をしなくてはならなかった。猿のように。創作は一向にはかどらず、10年、一つの音符も書けない。いらいらする。鬱々とする。
 彼が始めて書いた第一番。それは先生の教え「一流のピアニストになるためには作曲はするな」を破ることだった。その時の恋人に捧げるためだった。しかし、指揮者の無理解、無配慮によって、初演はひどいものだった。彼は行き場を失い、気絶し、うつ状態に陥る。彼の妻となるナターシャは幼馴染で、ずっと離れないことを誓い、看病し、守る。彼女の婚約者が医者で、嫉妬しながらも、彼女を好きなために、彼女の切望、彼を治療すること、を受け入れて、心理療法を試みる。病が癒えて、また癒えるようにできたのが、あの有名なピアノ協奏曲第二番です。その隣には、彼女がいなければならなかった。
 アメリカの生活で、彼が不調のとき、魔法のように届けられるのがライラックの花束。故郷にあった、故郷を思い出す、彼を快活にする花。匂い。その花束が誰によってラフマニノフのところに届けられているのか、それが最後になってわかります。そこで僕の感情も頂点に達し、結果涙がこぼれる。
 僕が泣くとき、いつもある情景が浮かび上がっています。ラフマニノフにとって、それがライラックだったように。
 創作と愛は、とにかく別々のものではない、というのは確かでしょう。そして僕の創作が、まだまだ不十分なのは、愛が不十分だからだと言って間違いないでしょう。
 過去に囚われてはいない。それを書き直したって意味はない。でも、大切なものは大切なものとして、残っている。こうして何度も浮上する。
 僕は、とにかく書き続けて、ここに僕がいることを伝え続けるしかありません。決して閉じているのではなく、全力で。

パーヴェル・ルンギン監督/エヴゲニー・ツィガノフ  ヴィクトリア・トルストガノヴァ他出演/渋谷 ル・シネマにて
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こころ

2008-03-04 15:05:46 | 映画
 今までなんでこの映画を観ていなかったのか。そう思ってしまうほど心が揺さぶられました。
 市川崑監督作品第三弾(個人的に)は、知らない人はいない(ですよね)漱石の『こころ』です。
 僕は、よく人に言うのですが、自主的に本を再読したことは二回しかない。一つは遠藤周作の『深い河』、そしてもう一つがこの『こころ』。いかようにも解釈できる、人間の普遍的な真実が描かれている。だから触れるたびに新鮮な感動を覚える。もう一度読みたいと思う。核心から離れてしまったかと感じれば感じるほど。あるいは試すために。自分が、どれほど「まし」になったかを知るために。それは鏡のようです。作者の思惑や野心などとは無縁だからこそそれができる。
 「映画は所詮、光と影だと思う」という言葉を残しているだけあって、市川さんの映像は、明暗がはっきりしていて、細心の注意があり、飽きることがありません。『ビルマの竪琴』も『こころ』も白黒なのですが、だからこそ演技が光るというのでしょうか。まったく不便を感じません。むしろ白黒の方がいいのかもしれない。先生の抱える闇と、奥さんの明るさと若く健康な学生の私の対比が、白黒によって見事に表現されています。先生の友人Kが自殺したとき、なぜふすまを開けていたのか。先生は、Kの部屋から差し込む光によって目覚める。その映像が、ほんとに胸を打ちます。
 今回観て思ったのは、自殺者の心のありようです。現在の日本にだって、年間3万人以上の自殺者がいる。逝ってしまった人々の心を知りたい。逝こうとしている人々の心を知りたい。なぜそんなに苦しんでいるのか。なぜ、悲観的なことばかり言うのか。奥さんも、私も、何度も、精一杯関わろうとした。できることなら力になりたいと願い、動いた。でも、力及ばなかった。残された者の悲しみ。漱石は、この映画は、死と生を描ききっています。人間誰しもが通る道。だからこそ、時間を越えて、今でも生きる人々の支えになりえている。
 先生の死の意味とはなんでしょう? 友人を死なせてしまったこと。Kが奥さん(結婚前はお嬢さん)を愛していることを知って、奪われまいと結婚を申し出た。その母子に了承されたことを、Kは知り、その夜、自害する。でも、話はそんな簡単じゃない。先生は、自ら誘ってKを、下宿(お嬢さんとその母の家)に住まわせている。自ら向上するために。自分を助けて欲しいと。あまりにストイックで、自分を責めるKを、先生は母子に頼んで温かく世話して欲しいと頼んでもいる。それなのに、お嬢さんがKと関わると、先生はふくれっつらをし、お前の道はどうしたのだ、向上心のないものは馬鹿だ、道のために愛を止める覚悟はあるのか、などとKを責め立てる。Kが果てた後、先生はお嬢さんと結婚しますが、月一回のKの墓参りを続け、働こう、元気になろうともがきもしますが、働けず、引きこもり、おそらく35くらいで、明治が終り、乃木大将が殉死したことに影響もされ、海に消える。かつて無意識に海を沖へと向かっていた先生に、なんらかの危険を感じ、近寄ったのが私。その意味でこの物語は、援助者と病人の関係をも表現しています。
 先生は、過去に囚われたものであり、大きな傷を心に抱えて、解決できずにいる。そこに私が現れ、少しずつ先生は私に心を打ち明けていく。死ぬ前に、誰か一人でいい、人間を信頼したい、君はその一人になってくれるか? 先生は私を信じ、長い手紙を書いた。そしてそれが遺書になってしまった。でも、この作品を読者として参加するとき、死、そして再生への物語として、自分の心にしまわれます。読者の中の過去、清算できていないもの、どうしようもないエゴイズム、破壊衝動、それらを先生は、あますことなく抱え、手紙として書き表し、私に向かって最大限の信頼を持って語ってくれた。私は無力で、先生を救うことなんてできなかったけど、私の中で先生が、苦しく長くとも理解され尽くされることで、先生は私の中で生き返る。危うい道を、先生は、文字通り先に生きた。それをそのまま、若い私、読者に伝えた。どう学ぶかは、私次第です。
 先生が最期に私を信頼したこと。それこそが救いなのかもしれません。自分自身をも信じられなくなったとき、人は生きてゆけない。その苦しみを、先生は死ぬほどに味わった。
 人を信頼すること。信頼に足る自分になること。勇気を持って過去を語ること。
 死ぬのは、物語の中だけでいいのです。
 想像で死ぬことで、人間は生き返ることができる。その力を、漱石は、市川監督も、伝えたかったのではないでしょうか。

市川崑監督/森雅之・新珠三千代・三橋達也他出演/日活/1955
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ビルマの竪琴

2008-02-26 22:01:26 | 映画
 市川崑監督の作品、第二弾(個人的に)は『ビルマの竪琴』です。
 原作を文庫(竹山道雄著/新潮文庫)で読んだのはいつだったか。もう十年も前になるかと思います。
 白黒なのですが、色彩が浮かんでくるようです。映像だけで芸術。美しい。画家の魂がこもっている。そして音楽。やつれた兵隊の合唱、竪琴の伴奏。音楽が何度人を救ったか。この映画を観るとよくわかります。
 原作者の竹山道雄は、ドイツ文学者で、第一高等学校(東大の前身)の教官をしており、教え子を戦地に送る経験を持っていた。痛々しい帰還兵を何人も見ていた。『ビルマの竪琴』は、1948年に単行本として発表されていますが、生徒、帰国兵を通じてと、当時日本の敵だった連合軍(ビルマにおいてはイギリス)との間に共通の歌(「埴生の宿」1823年イギリスで誕生、原題は「Home,Sweet Home」)があることから、「音楽で和解を」を主題に創作されたのでした。発表当時は、元軍隊へのバッシングの嵐(あんなにバンザイしたのに)の中で、一石を投じたとのことです。
 60年経ってまだ作品が生きているのはなぜでしょう? その答えは、水島(ビルマに僧侶として残った兵士)の手紙の中にあると思いました。
「山をよじ、川をわたって、そこに草むす屍、水づく屍を葬りながら、私はつくづく疑念にくるしめられました。―いったいこの世には、何故にこのような悲惨があるのだろうか。何故にこのような不可解な苦悩があるのだろうか。われらはこれをどう考うべきなのか。そうして、こういうことに対してはどういう態度をとるべきなのか?
 この疑念に対しては教えられました。―この「何故に」ということは、所詮人間にはいかに考えても分からないことだ。われらはただ、この苦しみの多い世界にすこしでも救いをもたらす者として行動せよ。その勇気をもて。そうして、いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高き平安を身をもって証しする者たる力を示せ、と。このことがはっきりした自分の確信となるよう、できるだけの修行をしたい、と念願いたします」(189-190ページ)
 竹山さんは、教え子の葬式に何度も出た。棺には、お骨も遺灰もない。ビルマでは30万人の日本人が死んだ。世間では、元兵隊を悪人呼ばわり。彼らを鎮魂する者はいなかった。いなくてはならないと願った。その苦しい思いが水島になり、『ビルマの竪琴』になった。
 映画に戻りますが、ワンカットずつが、実にきめ細かく心が配られています。DVDには付録として撮影現場の写真ギャラリーがありますが、一枚一枚が絵です。俳優も音楽も、映像にぴったりと合っている。
 日本人にはなくてはならない作品です。これこそ文化、芸術というものでしょう。
 そこの暇な大学生! メイド喫茶なんかに行っている場合じゃないぞ。

市川崑監督/三國連太郎・安井昌二他出演/和田夏十脚本/日活/1956
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東京オリンピック

2008-02-23 17:51:19 | 映画
 映画監督の市川崑さんが、今年2月13日に亡くなりました。新聞やテレビで頻繁に取上げられており、おすぎの薦めもあってこの『東京オリンピック』を観ました。横溝正史原作の金田一シリーズは観たことがあったのですが、今回も映像の斬新さ、人間の喜びと悲しみ、またユーモア(競歩で)を感じました。
 記録映画というより、芸術であってドラマでした。競技前の選手の緊張は、同じ仕草の繰り返しや荒い呼吸、空中の一点を見つめる眼差しによって、直に伝わってくる。接写と風景画のような構図はバランスがよかった。挟まれるナレーション、アナウンスは嫌味じゃなかった。最初と最後の活字、初めは、「オリンピックは人類の持っている 夢のあらわれである」 終わりは、「夜 聖火は太陽へ帰った 人類は4年ごとに夢をみる この創られた平和を 夢で終わらせていいのであろうか」 全体の作品のメッセージが凝縮されている。脚本に谷川俊太郎も入っていて、もしかしてこの言葉は彼が発したのかもしれない。
 また静寂と音楽の明暗がくっきりしていて、そのことで選手の動きや気持ちに注視することができました。ランナーのタッタッタという地面を蹴る音。鉄棒のきしみ。ハンマーを投げるときのうめき。燃え盛る火のゴオオオという地鳴り。
 人間はここまでやるのか、やれるのかという驚き。全力を出し切った後の和睦、賞賛。競技中の人間への観客の声援。観る者も参加してしまって、感動を経験する。フィナーレの、あらゆる境目を越えてしまった、同じ人間としての肯定感。
 夢は実現させるためにある。選手たちは夢に近づき、その姿を観る者は、わがことのように応援し、笑い泣く。自らの最大限の能力を発揮しようとする人間に、人間は感動する。難しいからこそ、そのようになっているからこそ、人は倒れてもまた走ろうとする。
 スポーツのよさ、意義、人間のひたむきな生き様、余すことなく捉えられています。戦争という暗い記憶だけじゃなく、東京オリンピックという素晴らしい出来事が、1964年、両方とも僕が生まれる前、この日本の東京であった。
 夢を夢で終わらせてはいけない。この映画に参加した人すべてが思うのではないでしょうか。

市川崑監督/東京オリンピック映画協会(DVDは東宝)/1965
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天国と地獄

2007-08-23 21:58:07 | 映画
 映画館に行く予定も、プールに行く気力も、夏ばてでぱーになり、おとなしくDVDを借りて、観ました。それがこの『天国と地獄』です。
 ミステリものというのでしょうか。しかし、ミステリと言ってしまうには、あまりに軽い。
 誘拐犯が現れる前から、この映画はドラマになっています。会社内での確執。ポストを巡る争い。そうした被害者の人生があってこそ、3000万という要求が、重くのしかかる。苦悩する権藤さんを、ほんとによく三船敏郎が演じています。それはもう「演技」ではないのかもしれません。苦悩し、卑劣さに怒り、従業員や妻子を思い、自分のこれからを案じる一人の男がそこにいるばかり。その純粋な姿が、観る者を打つ。
 それは犯人にしても同じことです。事件の様相を、影で新聞でチェックする彼。逮捕され、死刑が確定し、権藤さんを呼び寄せ、語り合うのが最後のシーンですが、死なんか怖くないといいながら震え、叫びの止まらない彼は、まさに地獄です。対面するかつての被害者は、一時でも金を失ったことでそれまでの職場を去り、それでも彼の命の一部である仕事、靴作りに励んでいる。その存在は、威厳に満ちています。
 天国とは、今生きていること。地獄とは、それに背を向けること。そう思いました。麻薬中毒者のたむろする一角に、犯人が薬の威力を確かめに立ち寄る場面がありますが、そこもまた地獄です。そんな場所が、すぐ近くにあることを見せる。今、堅実に生きていることのありがたさ、足並み、態度を、観る者に反省させる。すべて作品において、監督なんかどこにも出ずに。
 圧倒されるのは、一人ひとりの俳優の演技です。先ほども書いたように、それはもう「演技」じゃない。生の人間が、ただただ生きているのです。そんな他者をリアルに感じ、そう感じている自分を感じないわけにはいかない。だから作品が自分のものとなり、残る。伝えられていく。
 すぐれた作品は、ジャンルを越えています。概念や操作や思惑も超えている。芸術が、僕らにおいて、働く。そんなすばらしい、夏ばてを吹っ飛ばすには十分な一本でした。

黒澤明監督/エド・マクベイン『キングの身代金』ハヤカワ文庫原作/三船敏郎・仲代達也他出演/東宝/1963
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生きる

2007-08-20 17:47:31 | 映画
 観ました。ツタヤの会員カードの更新で、一本ただだったので、DVDで、他に思い当たるものもなかったので。
 やっぱり、これが一番です。他の映画も、少なからず観たはずなのですが、映画でいいものというと、これしか思い浮かびません。
 30年、お役所勤めをしてきた市民課長が主人公。彼はある日、胃がんを宣告されます(直接的にではありませんが)。この事実を受け入れるまでの放浪、酒、女、博打。そんな二週間で、決定的な影響を与えた、役所を辞めて工場で働く若い女性との対話がありました。
「わしは、もうすぐ死ぬ。君は、なぜそんなに生き生きしているのか? 君と一緒にいると、この辺が(胸に手を当てて)楽しくなる。教えてくれ。でなきゃ、死ねない」
「わたし、こんなの(ぜんまい式のうさぎ人形)を作ってるだけよ。世界中の赤ちゃんと友達になったみたいで。課長さんもなにか作ってみたら?」
 ぴょこぴょこと飛び跳ねるうさちゃん。うなだれていた市民課長は、ああっと気づきます。やればできる、と目を輝かせて。うさちゃんを奪い、役所に戻る。そのとき、喫茶店に居合わせたグループは、お誕生日会の真っ最中。「ハッピバースデイトゥーユー」は、彼のためにこそ流れていた。
 陳情されてたらいまわしになっていた公園の設立に、課長は一心不乱に取り組みます。「命が惜しくないのかね」というやくざの脅しも、余命半年の彼には通じない。
 できた公園のブランコに揺られながら、彼はしみじみ歌います。「命短し 恋せよ乙女」と。
 あまりに感動したので、調べました。この歌は、『ゴンドラの唄』といい、大正時代、1915年に、島村抱月が主催する文芸座の女座長として、主役を演じていた松井須磨子が、ツルゲーネフ作の『その前夜』劇中で歌ったのが始まりだそうです。
 短いので、歌詞を載せてみます。

  ゴンドラの唄   作詞:吉井勇 作曲:中山晋平 

いのち短し 恋せよ乙女
朱(あか)き唇 褪(あ)せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを

いのち短し 恋せよ乙女
いざ手をとりて 彼(か)の舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰も 来ぬものを

いのち短し 恋せよ乙女
波に漂う 舟の様(よ)に
君が柔手を 我が肩に
ここには人目も 無いものを

いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを

 死を自覚して、初めて生きる。それは真理なのかもしれません。
 身近な死を、遠ざけ、隠すほどに、生もわからなくなるものなのでしょう。

 生きる。時間に追われるのではなく、退屈でもなく、恨んでいる暇もないくらいに。
 生を受けたもの、すべての宿題。
 書いたように、ヒントは死の自覚であり、作ることなのでしょう。

 文句なしにすばらしいです。観るたびに、きっと自分を映す鏡になります。

黒澤明監督/志村喬・小田切みき他出演/東宝/1952

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ゆれる

2007-04-16 21:07:48 | 映画
 久々に、冷たい雨の降る中、映画を観てきました。
 当初は、六本木ヒルズ内で上映されている「ツォツィ」を観るつもりでしたが、たどりついてみると、いけるはずの三階に、エレベーターがいかない。首をひねりながら、案内図を眺めていると、隣にご案内嬢がいるのに気づきました。
「あのー」
「はい、なんでしょう?」
「ここの三階で「ツォツィ」という映画をやっているはずなんですが」
「はい。申し訳ないのですが、今日は貸切になっておりまして、一般の方はご入場になれません」
「貸切? おかしいなあ」
「映画をごらんになるのなら、渋谷や新宿にもございますが」
 「ツォツィ」はここでしかやってないでしょ。
 でも、確かに「映画」が観たい。
 そこで、携帯で検索し直しました。池袋で、何かいい映画はやっていないかと。
 そして、見つけたのが、「ゆれる」です。

 この脚本が、読売文学賞を受賞したのを知っていました。
 すばらしかった。
 弟が、母の葬式に、何年ぶりかで東京から実家に帰ってきます。湧き起こった父との口論に割って入り、なだめる兄。翌日、幼馴染の女性と三人で、かつて父母に連れられていった渓谷に、ドライブに出かけます。急流にかかったつり橋の上で、事件は起きます。女性が、橋から転落して、死んでしまうのです。
 その出来事を巡る想起、裁判が、この物語の柱なのですが、その描き方が見事。「カラマーゾフの兄弟」を、「羅生門」を思い出しました。
 弟は、兄から恋人を奪い、刑務所に七年閉じ込める。兄が女性を突き落としたと偽証して。自分が女性と通じていたことを、兄に嫉妬していたことを知られたくなくて。
 兄が戻ってくる。その前日、弟は、亡き母が撮ったフィルムを観て、泣き崩れる。見ようとしなかったこと、信頼に裏打ちされた家族愛が見えたからです。つり橋で、足を踏み外したのは、僕だったと気づく。
 ラストもまた、心に残ります。バスで他の町に去ろうとする兄に、弟は「おにいちゃん、うちに帰ろう」と叫ぶ。やっと気づいた兄の笑顔。そして一瞬にして、止まったバスに遮られてしまう。
 「ゆれる」のは、僕でもあります。兄から弟に、面会室で告げられた言葉が忘れられない。「人を疑い、ついに誰をも信じなかったのが、俺の知るお前だ」
 ぐさりと突き刺さっています。
 僕は何度、他者に向かって「なぜ?」と発してきたでしょうか。
 投げかけられた者にとって、これほど辛い言葉があるでしょうか?
 「なぜ?」の裏には、私はこうなんだが、そうじゃないんじゃないか、なぜなら、といった否定が含まれていました。そして私は正しく、私に吸収されるように、他者を捻じ曲げることになっていたのではないのか。
 自信を長く持てなかったことも、そこに根がありそうです。

 「あなたは何を手に入れたのですか?」
 この、かつての兄の後輩が発した、弟への問いもゆれました。後輩は、幼い女の子と奥さんを連れ、刑を終えた兄を迎えにいって欲しいと、弟に頼みにいったのでした。
 疑って疑って、一体何を手に入れられるというのでしょうか。

 もう遅いということはない。

 とにかく、いい映画です。

西川美和監督・脚本/オダギリジョー・香川照之他出演/池袋・新文芸座にて
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敬愛なるベートーヴェン

2006-12-18 22:26:46 | 映画
 一緒に観に行った人は、「疲れた」と連発していましたが、僕はおもしろくて、二時間があっという間でした。
 これから「第九」の季節になりますが、その誕生の舞台裏とも言うべき姿が、製作者の想像があるにせよ、描かれています。
 観ていておもしろかったのは、ベートーヴェンの生が(これもおそらくとしか言いようがありませんが)、その人間性が浮き彫りにされているからです。アパートに一人で住んでいて、裸になり、気持ちよく水浴びをし、流れ落ちた水が階下の食卓を台無しにし、止めろ、いい加減にしろという苦情、叫びにも関わらず、都合の悪いことは聞こえずに続ける彼。音楽の才能があると勝手に思い込んでいる溺愛する(それはさびしさの裏返しなのですが)甥が、実はギャンブルに身を落とし、彼の金庫から金を抜き取っていて、それを知っていながら止められない彼。難聴を補うために、薄い金属板を襟を立てるように頭の後ろに巻きつけ、作曲に没頭する彼。音楽は魂に働くものであって、その調べは神からのメッセージであり、それを聴き取るには沈黙が必要であって、耳が不自由になったからこそその真実に気づけたのだと語る彼。公演の前に、指揮できるだろうかと不安にさいなまれる彼。
 確かに彼は気難しく、人を馬鹿にする傾向もあった。そのために、彼を嫌い、恨む人もいた。でも、作り出した音楽は、確かに本物で、新曲を聴きたいがために、彼の隣室に住む人もいた。彼の音楽の真実味は、時代を超えて今でも生きていることが証明している。
 音楽とは、人間の持つ、言葉にならない世界の調べ、生命の神秘とも言えるのかもしれません。そこから発しているものは、聴くものの生を励ます。それが本当の芸術なのでしょう。
 このブログ、「泉を聴く」も、目的としては同じです。そこにあるけれどもつかみづらい、魂の栄養とも言うべきもの探索記として機能させたい。その試みの有効性は、私によって、これを読む人によって、その人の生活の中において実証されるのでしょう。

アニエスカ・ホランド監督 エド・ハリス/ダイアン・クリガー出演
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ゲド戦記

2006-08-03 23:00:43 | 映画
 原作は、もっと奥深く、壮大なのでしょう。映画で観た限りでは、表面をなでただけという印象を、ぬぐうことができません。
 「ありきたり」なお話に、見えてしまいました。矯正教育的な映画とも言えるのかもしれません。
 アレンという少年が主人公。彼は、自分でもわからない影(無意識)にのっとられて、父を殺してしまいます(エディプスコンプレックス)。逃げるように砂漠に出て、狼の群れ(不良グループ、あるいはやくざ)に囲まれ、惜しくない命が尽きるのを傍観しているとき、ハイタカ(ゲド)に助けられます。二人はそのまま、旅する(矯正教育)ことになります。
 ゲドは、世界の秩序を乱す根源を探して旅していました。そこで行き着くのが、同じ魔法使い(大人)でも、落ちこぼれで世間にうらみのあるクモという魔女(犯罪者)です。
 クモは、生きることを恐れている。その真実を受け入れがたいために、永遠の命(理想郷)を得ようとして、悪事にも手を染める(自己愛)。一時、アレンもクモの世界(犯罪、病、闇、魑魅魍魎)に囚われます。助けに来たゲドも捕まり、殺されそうになる。そこに、少女テルーが、アレンの影とともに、アレンが父から奪った剣(社会参加への券)を携え、意気消沈したアレンの元に飛び込み、命を吹き込みます。元気を取り戻したアレンが、テルーと力を合わせて(愛情)、悪玉のクモをやっつける。テルーは竜と化し(命の象徴)、アレンを抱きかかえて空を飛ぶ(社会適応成功)。
 というように、とてもわかりやすいのです。イメージに意味をつけてゆくと。それが「ありきたり」にも見えてしまう理由です。
 一つ、とても印象的だったのが、テルーが草原で、ほんとにただ一人、歌を歌うシーン。アレンが近くで見ていて、思わず涙してしまうのですが、僕もまた、泣きそうになりました。その後、険悪だった(防衛していた)二人の関係は、急速に近づきます。何が、そんなに胸を打ったのか? それは、生きる上で避けられない寂しさや無力感を、しみじみと感じるからなんだろうと思います。孤独が、人間存在の基本だという事実も、思い起こします。
 自分が積極的に生きることに、社会に出ることに、びくびくしていた時期が、確かに僕にもありました。そんな季節にいる人たちにとって、この映画は最も響くのではないかと感じます。

ル=グウィン原作・宮崎吾郎監督・菅原文太、風吹ジュン他出演
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