泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

ゆれる

2007-04-16 21:07:48 | 映画
 久々に、冷たい雨の降る中、映画を観てきました。
 当初は、六本木ヒルズ内で上映されている「ツォツィ」を観るつもりでしたが、たどりついてみると、いけるはずの三階に、エレベーターがいかない。首をひねりながら、案内図を眺めていると、隣にご案内嬢がいるのに気づきました。
「あのー」
「はい、なんでしょう?」
「ここの三階で「ツォツィ」という映画をやっているはずなんですが」
「はい。申し訳ないのですが、今日は貸切になっておりまして、一般の方はご入場になれません」
「貸切? おかしいなあ」
「映画をごらんになるのなら、渋谷や新宿にもございますが」
 「ツォツィ」はここでしかやってないでしょ。
 でも、確かに「映画」が観たい。
 そこで、携帯で検索し直しました。池袋で、何かいい映画はやっていないかと。
 そして、見つけたのが、「ゆれる」です。

 この脚本が、読売文学賞を受賞したのを知っていました。
 すばらしかった。
 弟が、母の葬式に、何年ぶりかで東京から実家に帰ってきます。湧き起こった父との口論に割って入り、なだめる兄。翌日、幼馴染の女性と三人で、かつて父母に連れられていった渓谷に、ドライブに出かけます。急流にかかったつり橋の上で、事件は起きます。女性が、橋から転落して、死んでしまうのです。
 その出来事を巡る想起、裁判が、この物語の柱なのですが、その描き方が見事。「カラマーゾフの兄弟」を、「羅生門」を思い出しました。
 弟は、兄から恋人を奪い、刑務所に七年閉じ込める。兄が女性を突き落としたと偽証して。自分が女性と通じていたことを、兄に嫉妬していたことを知られたくなくて。
 兄が戻ってくる。その前日、弟は、亡き母が撮ったフィルムを観て、泣き崩れる。見ようとしなかったこと、信頼に裏打ちされた家族愛が見えたからです。つり橋で、足を踏み外したのは、僕だったと気づく。
 ラストもまた、心に残ります。バスで他の町に去ろうとする兄に、弟は「おにいちゃん、うちに帰ろう」と叫ぶ。やっと気づいた兄の笑顔。そして一瞬にして、止まったバスに遮られてしまう。
 「ゆれる」のは、僕でもあります。兄から弟に、面会室で告げられた言葉が忘れられない。「人を疑い、ついに誰をも信じなかったのが、俺の知るお前だ」
 ぐさりと突き刺さっています。
 僕は何度、他者に向かって「なぜ?」と発してきたでしょうか。
 投げかけられた者にとって、これほど辛い言葉があるでしょうか?
 「なぜ?」の裏には、私はこうなんだが、そうじゃないんじゃないか、なぜなら、といった否定が含まれていました。そして私は正しく、私に吸収されるように、他者を捻じ曲げることになっていたのではないのか。
 自信を長く持てなかったことも、そこに根がありそうです。

 「あなたは何を手に入れたのですか?」
 この、かつての兄の後輩が発した、弟への問いもゆれました。後輩は、幼い女の子と奥さんを連れ、刑を終えた兄を迎えにいって欲しいと、弟に頼みにいったのでした。
 疑って疑って、一体何を手に入れられるというのでしょうか。

 もう遅いということはない。

 とにかく、いい映画です。

西川美和監督・脚本/オダギリジョー・香川照之他出演/池袋・新文芸座にて

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