映画監督の市川崑さんが、今年2月13日に亡くなりました。新聞やテレビで頻繁に取上げられており、おすぎの薦めもあってこの『東京オリンピック』を観ました。横溝正史原作の金田一シリーズは観たことがあったのですが、今回も映像の斬新さ、人間の喜びと悲しみ、またユーモア(競歩で)を感じました。
記録映画というより、芸術であってドラマでした。競技前の選手の緊張は、同じ仕草の繰り返しや荒い呼吸、空中の一点を見つめる眼差しによって、直に伝わってくる。接写と風景画のような構図はバランスがよかった。挟まれるナレーション、アナウンスは嫌味じゃなかった。最初と最後の活字、初めは、「オリンピックは人類の持っている 夢のあらわれである」 終わりは、「夜 聖火は太陽へ帰った 人類は4年ごとに夢をみる この創られた平和を 夢で終わらせていいのであろうか」 全体の作品のメッセージが凝縮されている。脚本に谷川俊太郎も入っていて、もしかしてこの言葉は彼が発したのかもしれない。
また静寂と音楽の明暗がくっきりしていて、そのことで選手の動きや気持ちに注視することができました。ランナーのタッタッタという地面を蹴る音。鉄棒のきしみ。ハンマーを投げるときのうめき。燃え盛る火のゴオオオという地鳴り。
人間はここまでやるのか、やれるのかという驚き。全力を出し切った後の和睦、賞賛。競技中の人間への観客の声援。観る者も参加してしまって、感動を経験する。フィナーレの、あらゆる境目を越えてしまった、同じ人間としての肯定感。
夢は実現させるためにある。選手たちは夢に近づき、その姿を観る者は、わがことのように応援し、笑い泣く。自らの最大限の能力を発揮しようとする人間に、人間は感動する。難しいからこそ、そのようになっているからこそ、人は倒れてもまた走ろうとする。
スポーツのよさ、意義、人間のひたむきな生き様、余すことなく捉えられています。戦争という暗い記憶だけじゃなく、東京オリンピックという素晴らしい出来事が、1964年、両方とも僕が生まれる前、この日本の東京であった。
夢を夢で終わらせてはいけない。この映画に参加した人すべてが思うのではないでしょうか。
市川崑監督/東京オリンピック映画協会(DVDは東宝)/1965
記録映画というより、芸術であってドラマでした。競技前の選手の緊張は、同じ仕草の繰り返しや荒い呼吸、空中の一点を見つめる眼差しによって、直に伝わってくる。接写と風景画のような構図はバランスがよかった。挟まれるナレーション、アナウンスは嫌味じゃなかった。最初と最後の活字、初めは、「オリンピックは人類の持っている 夢のあらわれである」 終わりは、「夜 聖火は太陽へ帰った 人類は4年ごとに夢をみる この創られた平和を 夢で終わらせていいのであろうか」 全体の作品のメッセージが凝縮されている。脚本に谷川俊太郎も入っていて、もしかしてこの言葉は彼が発したのかもしれない。
また静寂と音楽の明暗がくっきりしていて、そのことで選手の動きや気持ちに注視することができました。ランナーのタッタッタという地面を蹴る音。鉄棒のきしみ。ハンマーを投げるときのうめき。燃え盛る火のゴオオオという地鳴り。
人間はここまでやるのか、やれるのかという驚き。全力を出し切った後の和睦、賞賛。競技中の人間への観客の声援。観る者も参加してしまって、感動を経験する。フィナーレの、あらゆる境目を越えてしまった、同じ人間としての肯定感。
夢は実現させるためにある。選手たちは夢に近づき、その姿を観る者は、わがことのように応援し、笑い泣く。自らの最大限の能力を発揮しようとする人間に、人間は感動する。難しいからこそ、そのようになっているからこそ、人は倒れてもまた走ろうとする。
スポーツのよさ、意義、人間のひたむきな生き様、余すことなく捉えられています。戦争という暗い記憶だけじゃなく、東京オリンピックという素晴らしい出来事が、1964年、両方とも僕が生まれる前、この日本の東京であった。
夢を夢で終わらせてはいけない。この映画に参加した人すべてが思うのではないでしょうか。
市川崑監督/東京オリンピック映画協会(DVDは東宝)/1965
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