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二年前のラジオ番組の内容

2024-11-03 11:42:42 | 日記
「読書の秋、おススメ本!其の壱」

11月6日(日曜)午後5時30分からの「サンデー・トワイライト」は、上野が最近読んだ本のお話をします。


『イケズな東京~150年の良い遺産(レガシー)、ダメな遺産(レガシー)』というタイトルで、国際日本文化研究センター所長の井上章一さんと、建築家で東京藝術大学教授の青木淳さんの対談+リレーエッセイ本です。


『イケズな東京~150年の良いレガシー、ダメなレガシー』は中公新書ラクレから出ている本なんですけど、井上章一さんというのは実に面白い人物です。


井上章一:国際日本文化研究センター所長。専門は建築史・意匠論、日本文化や美人論、関西文化論など多岐に渡る研究をする学者で、阪神タイガースファンでもある。著書には『霊柩車の誕生』『つくられた桂離宮神話』『美人論』『南蛮幻想』、最近注目を集めた新書本として『京都ぎらい』などもある。

青木淳:建築家で、東京芸術大学教授。現在は京都市美術館館長を務めている。横浜生まれ。


井上章一さんはこんなことをこの本で述べておられます。

新型コロナ禍で東京のオフィスから人が減った。リモートワークをする。会社がある都心部の高層ビルから人がいなくなり、田舎へ引っ込む会社も出ていた。おもにIT系の会社だ。この様子を井上は、江戸時代に入って天守閣が造られなくなった城を例に書いている。実用的な意味がなくなった天守閣。東京の高層ビルにどこか通底する。

この天守閣なるもの、江戸時代、商人の家には許されない高さだった。高みから武士を見下ろすな!という考え。しかし、その武士は商人から金を借りていた。三井や住友などである。この反動で、明治維新で武士階級が解体されると、商人は背の高い建物を建てた。これは現在も続いている。


フランス文学者の桑原武夫氏は「身分制の廃止という点については、日本のほうがはるかに徹底している」と明治維新とフランス革命を比較している。


文化庁の京都移転について井上氏はこんな見解である。

文化庁の職員たちの間に「都落ち」感が強い。東京で子育てをしていい学校に行かせたいのに、それができなくなる。京都みたいな田舎にいい学校はない。官僚たちにとって双六の上がりはどこの省庁も最終的に「東京」。しかし、文化庁だけが京都という田舎に来る。これが堪らなくイヤだと思っている。


東京都というのは、「東の京都」という意味なのに、「西東京市」とか、高校野球で「東東京地区」なんて出てきている。「京」も「都」も「みやこ=中心地」という意味。東東京なんて麻雀用語「トントンキョウ」ではないかと、これは青木淳氏の指摘。


青木淳氏はこう語る。

2020年の東京五輪の新国立競技場は、ザハ・ハディドさんの案が選ばれたのに、費用が掛かりすぎるということで却下された。そして、隈研吾の無難なデザインになってしまったわけだが、そうなると、以前の国立競技場を建て替える必要があったのかどうか?


井上章一氏はまたこうも語る。

京都には景観規制、景観条例があるけど、ヨーロッパから比べたらかなり緩い。河原町四条から通りをみると、建物はもうてんでバラバラ。また、イギリスの建築家を道頓堀に連れて行ったら、「ここは、何をやってもいいところなのか!」と叫んだという。


第二次世界大戦中の1943年7月19日、イタリアの首都ローマは連合軍から初めて空爆を受けた。その翌日にイタリア軍の参謀本部は「戦争をやめよう」と国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世に掛け合っている。ムッソリーニの逮捕と連合国への休戦申し込みを空爆の翌日に決断している。誰もローマに爆弾が落ちるとは思っていなかったのだ。コロッセオが、バチカンが燃えていいのか?そんなことは断じて許されない。フランスも、パリが燃えるのが許せなかった。

しかし、わが日本の参謀本部は、連合軍の東京空爆を3年4ケ月持ちこたえた。東京が焦土と化しても戦争を継続した。その結果、東京には江戸時代からの建物が残っていない。日本の政府は建築物などどうでもいいと考えていたのだろうか。


井上氏はこうも指摘する。

『大改造!!劇的ビフォーアフター』という番組で、建築の達人や匠が家の床にビー玉を置いて、ビー玉が転がると「傾いています!シロアリがいるかも」「こんなふうに床が傾いていると三半規管に悪い影響を与えます」「頭が悪くなる!」とか発言する。しかし、ベネチアの建築家はその話を聞いて、「ベネチアの建物は床にビー玉を置いたら必ず転がる。しかし、三半規管に問題がある者はいない」という。「家が傾いていると勉強ができない子供になる」という説に対して、「斜めの方が頭は活性化する」という研究論文もある。垂直に立つということは、傾くのを補正しながら立つのであって、その方が頭は活性化するのだ。


さらに井上氏は、神戸女学院のことも述べている。

ここはヴォーリズが校舎を設計し、配置した美しいキャンパスだが、あるシンクタンクのスタッフが2000年頃、こんな発言をした。「こんな築60年の建物なんか、維持管理するだけで、ドブに金を捨てるようなものです」。

……この本を読んで感じたことをお話しします。お楽しみに。

『百年の孤独』

2024-07-31 21:55:19 | 日記

この本を読んだのは1983年のことだ。1982.7.30の11刷、1500円の新刊で購入した。悪戦苦闘しながら26歳の僕は読んだ。この鬼シュルレアリズムの高湿気と破滅の物語は、当時やっていた芝居にそのカケラも映すことが出来なかった。百年という言葉だけを盗用して「風屋敷百年物語」という、雨が降り続く日本家屋の不義の物語を書いたが評価されなかった。今年この物語が復興した。文庫本になった。すぐに購入して、今日ようやく読み了えた。この小説が翻訳された当時の文壇、作家の反応を筒井康隆が解説で怒っている。この小説を読んだことと読まなかったことで何がどう変わったのかはわからないが、この物語のなかに身を置いているときの自分の感触をいまだに持ち続けているのが不思議である。やはり湿気と干魃のせいだろうか。

文庫本を買う

2024-03-08 09:45:11 | 日記

 

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石垣りんさんの随筆「花嫁」のことをかつて書いた。
うろ覚えだったので、ちゃんと読みたいな、と思った。
『朝のあかり』という文庫新刊になっていた。
 
文庫本の棚をまわっていると、先ごろ亡くなった山田太一さんの随筆を見つけた。
氏の本は割とよく読んでいる。
戦前生まれの矜持とストイックさ、独特のダンディズムも感じる作家。
寺山修司と同級生だった。
青森生まれの才気溢れる少年と、浅草生まれの都会っ子の文学青年の交歓。
そこが気になるのだった。
 
さらに、マンディアルグの文庫本。
『オートバイ』は若い頃に読んだな。
悦楽の小説。
しかし、ミシェル・フーコーの講義でこう聞いた。
1960年代後半の学生運動の頃、性の改革を進めることが運動の主体となったが、
フランスの若者はセックスに熱心ではなく、
ドイツの若者は真面目にせっせと性に向かったとか。
日本では四畳半の部屋と風呂屋の石鹸箱の音か。
なんだか物悲しいな。
ま、そういうことはね。

木村蒹葭堂

2024-01-08 18:17:58 | 日記

調べものがあって、北堀江にある大阪市立中央図書館へ行く。休日なので来館者が多く大半の席が埋まっている。だが、空間設計がいいのか混雑感はない。4人掛けデスクに座り(もちろんほかの3席は座っている、年配者2名、大学生1名)、ゆったりと資料を読み、書き物をすることができた。途中、珈琲タイムで屋外に出たとき、敷地の片隅に顕彰碑を見つけた。

木村蒹葭堂……この人物は、大阪在住の人なら一度は耳にした名前かもしれない。江戸中期の文人であり蒐集家であり、本草学者であり博学者である。元々家業は酒造業であるが、酒造株を他人に賃貸して生活の糧を得ていた。年に三十両の収入だったというから中流の下の方の暮らしだった。

だがこの多趣多才な男、妻と妾と同居しているのである。本妻は結構嫉妬深かったようだが、それでも妻妾同居をやめない。三人で長崎旅行などもおこなったという。このほかに娘が一人、下女一人の五人暮らしだったというが、女性ばかりのなかに住んでいたということだ。なかなかの人物である。

27歳で『山海名産図会』を著し、その後さまざまなジャンルの書を上梓する。『銅器由来私記』『桜譜』『禽譜』『貝譜』『秘物産品目』『本草綱目解』等々。以前、NHKの「ダーウィンが来た」という番組で、”イッカク”というふしぎなクジラを特集していたが、ここに登場する日本の古文書は、蒹葭堂が編纂した『一角纂考』だった。また、文学にも精通していて、漢詩を書き書画もうまかったという。語学ではオランダ語やラテン語も解したそうだ。

諸国から来る者に蒹葭堂の名前は知れ渡っていて多くの来客があった。本人はそれに困惑し、「人気があるのも困ったもんや」と言ったところ、朴訥だが口が悪い友人に、「お前に人気があるんやなく、お前が持っている物に人は寄って来るんだ」と言われて、大いに恥じた……と書かれている。

蒹葭堂とは彼の書斎の名称である。ケンカ早い人だったわけではないようだ。同時代の友人には、司馬江漢、上田秋成、頼山陽、本居宣長、伊藤若冲、与謝蕪村、円山応挙、平賀源内などがいて、1700年代後半という時期に町人文化、都市文化が花開いたかが分かる。