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この男は、おれが歩いている少し前を歩いていて、突然躓いて前のめりに転びかけるのだが、転ぶと見せかけて両手を前に出して、転ぶ力にさらに勢いをつけて前転してしまうのだった。後ろから見ていたおれと女性はもちろん転倒しそうな男の姿に息をのむのだが、見事に前転して体操選手のように両手を横に広げて終演の姿になるのを見て感心する。だが、この時点ではまだおれは彼を「全身バネ男」とは思っていない。
この転倒の少し前におれは彼と出会っている。ここは古い和風木造旅館群をリニューアルした和風テーマパークで、まだ工事中だ。入口の守衛室の横でおれは彼の出迎えを受けたところだった。彼の容姿はというと、劇団で大道具仕事をしてくれた岩田君に似ているのだが、知らないと思うので別の人物を挙げるとすると、岩田君とは全然似ていないのだが、漫才師サンドイッチマンの伊達みきおさんのような雰囲気で、体躯も引き締まった筋肉に覆われているように見えず、ラフな上下スウェット姿である。彼は初対面のおれに名刺を差し出したのでおれも名刺を渡す。その名刺交換の間におれは記憶の世界に出向いている。
この建設中のテーマパークは、和風旅館を基本コンセプトにしているから宿泊設備も整っている。おれは、とある一軒の旅館に昨晩宿泊していて、そこにはこのテーマパークを運営する会社の代表もいて、前の晩に一緒に酒を飲んだ。なぜかその宴会のなかに親父もいて同世代の男と話している姿を見ている。もちろん親父は今から20年前の2004年に鬼籍に入っているのだがここでは元気だ。宴会でみな酔いつぶれて朝になって起きてウロウロしていると、「みなさんもう出かけられました」と女中さんというのか女将というのか、年配の女が言う。親父は昨晩話し込んでいた男と山歩きに出かけたとのことだった。夢を見たこの日は4月10日の午前4時ごろのことで、この日は20年前、親父の息が弱くなっていった時間帯だった。おれは前の晩に川西市立病院からの電話で呼び出されて泊まりこんでいたのだった。そして日が昇った午前6時頃だったかに親父は天へ続く階段を登り始めたのだった。その親父が元気に山歩きに出かけてしまったのを二日酔のおれはただ感心するだけで、この年齢でこんなに酒に弱くなってしまうのは問題だと思っている。そのうち、今日すべき仕事である和風旅館テーマパークの取材に出かけ、守衛室の横でこの伊達みきおさんに似た男に出会ったのだった。
名刺交換をしてから「昨晩はここの旅館に泊まって酒を飲んでいました」というと、男は「ああ、そうですか」と何の感慨もなく言う。そして、歩き始めて少しして転倒シーンに出くわすわけだが、この時点ではまだ彼を全身バネ男だとは思っていないと記した。そう思うのはそれからしばらくしてからのことだった。
相変わらず男はおれと女性の前を歩いている。おれの横を歩いている女性は劇団の女優なのだが誰なのか特定できない。女優なのだから見た目はすっきりしていてよく喋るし愛想もいい。女優なのだからと書いたがすべての女優がみなそうではないという意見というか文句をつけてくる者もいるだろうことは無論承知の上だ。だが、おれの考えとして女優は容姿が良くてすっきりしている。容姿端麗の基準については人それぞれあるだろうからここではこれ以上言わないが、ともかく女性は女優で取材のために仕事をしてくれている。
おれたちの前で転倒しかけて前転した男は着地して手を広げて終演姿勢になった後も別段こちらを振り向くこともなく歩き出す。しばらく行くと右手に小石を積んだ堤のようなものが現われた。城郭の石垣のように大きなものではなく、小さな石を積み上げてその間をコンクリートで固めた人工物の石垣である。その上はひと一人が歩けるくらいの小径になっていて、草が生えている。タンポポの黄色い花が揺れていたから季節は春なのだろう。
前をゆく男が急にその石垣堤の上に生えている大きな草の束を引き抜こうとしておれたちに男の右半身を見せて両手で草をつかんだ。全身に力を入れているのがわかるし男が唸り声まで上げているのがわかった。草の束は大きくて男の力では抜けないだろうとおれは思っていたのだが、やはりその通り抜けなくて、男が全力を出し声まで出して引き抜こうとすると草をつかんだまま石垣堤の上に飛び乗せられた。なぜそういう動きになったのかわからずに眺めていると、またもや男は堤の上で前転してしまうのだった、しかも今回は両手が塞がっているから空転だ。おれは驚くが男はやはり何事もなかったように石垣から飛び降りて前を歩きだした。
このとき、おれと女性は「こいつは全身バネ男だ」ということに気づいたのだ。この言い方をすると、それまでに全身バネ男という存在を知っていたのかと詰問されるかもしれないが、あいにく知らないと白状しよう。ただ、おれと女性が同時に「こいつは全身バネ男だ」思ったことがおれも女性も同時に感じ、共振したことがお互い自覚でいたので、この男が「全身バネ男」と定義できた。
前を歩く男に従って数分経った。やってきたのはフェンスに囲まれた行き止まりの荒れ地で、フェンスの周辺は草が生えている造成地のようだ。男は、ここからエレベーターに乗るといい、フェンスの向こう側の土壁に埋まるようにして設置されたエレベーターを示す。たしかに土壁のなかにエレベーター扉があり、なんと二基ならんでいる。男はエレベーターの呼びボタンを押してこちらを振り返り、「エレベーターは恐くありませんか」と聞いて少し笑う。女性が「怖くありません」と答えてフェンスの裂け目に半身を入れて向こう側に行った。おれはそこからすり抜けることはできないと判断してフェンスの裂け目を探すがなかなか見つからない。だが、全身バネ男もまだこちら側にいる。さてどうしようと思ったところで目が覚めました。