時々、芝居の夢を見る。
ジム・ジャームッシュの『パターソン』は詩人の映画である。
登場する男は詩を書き続けている。
しかし、詩集は出していない。
「出版するべき」
と、中近東由来で、今はアメリカ国籍を得ている可愛い妻にいわれる。
普段は市バスの運転手をしている男が詩を書くのは、
朝、バスを動かす前、運転席に座ったほんのわずかなひとときのことだ。
何日かかけて一編の詩を編み上げる。
朝早く起きて、眠っている妻にキスをして、
シリアルを食べてバス車庫に向かう。
月曜から金曜まで、規則正しい日々を送る。
言葉を紡ぎ出すのは、夜、夕食が終わってから犬の散歩に出て、
犬を店の前に留め、
カウンターのいつも同じ席で一杯のビールを飲んでいる瞬間だ。
ジョッキに注がれたビールが半分くらい減ったとき、
男はその液体の表面を見て、
書くべき言葉をなんとなく、ぼんやりと、曖昧なままつかまえる。
そして、それをあたため持ち、翌朝ノートに書きつける。
男は2人の、詩を書く人と出会う。
ひとりは少女で、ひとりは日本人の、大阪に住んでいると思われる男だ。
著名な詩人たちの名前も登場する。
ロン・パジェット、ウィリアム・C・ウィリアムズ、フランク・オハラ、
ジョン・アッシュベリー、エミリー・ディキンソン、ケネス・コック、
そして、アレン・ギンズバーグ。
僕はこれらの詩人の詩集を持っていない。
男の妻は、カップケーキ作りがうまい。町のバザーに出すとよく売れる。
歌も好きで、ギターを買って「線路は続くよどこまでも」を練習する。
カントリー歌手になるのが夢だともいう。
そして、パッツィー・クラインの名前を口にする。
パッツィーは絶頂期を迎えていた30歳のとき、
航空機事故で亡くなったカントリー歌手だ。
1963年のことだが、
いまだにパッツィーのことを憶えているアメリカ人は多い。
「けころ」という言葉がある。
遊郭ことばで、
吉原からすこし離れた安い遊郭などで働く遊女たちを指すものだそうだ。
彼女たちは次から次へ仕事をしたから、「蹴転がる=けころ」と呼ばれたらしい。
私はこのことばを池波正太郎の『鬼平犯科帳』を読んでいて知ったのだが、
もとより吉原や遊郭、遊女については小説など以外に知らない。
だがこの遊郭モノの小説には面白いものが多々あって、
隆慶一郎の名作『吉原御免状』、松井今朝子の『吉原手引草』、
高田郁の「みおつくし料理帖シリーズ」などがある。
永井荷風にもここのことを書いたものが多い。
こうした物語や随筆から見えてくる江戸の風俗はなかなか面白い。
上方人である司馬遼太郎は江戸っ子の本質について
「自分自身できまりをつくって、そのなかで窮屈そうに生きているひとたち」
と書いているが、これは卓見だと思う。
時節になるとかならず行く場所、することがあり、
衣服はこうで、土産はこれで、挨拶はこうする、滞在時間も決まっていて、
その帰りがけに定まった店でこの料理を食べる……
すべてが決まっていた。
だからその原則がなにかの都合で崩れると、途端に不機嫌になってしまう。
料理屋が閉まっていたりなどすると、怒りだしたりする。
おそらく司馬は池波正太郎を見てこのような分析をしたのだと思う。
実際、二人は若い頃仲が良かった。
それにしても「けころ」ということばはなかなかに辛辣だ。
外れの遊女というものがそう呼ばれていたこと、自分らでも認めていたことを思うと、
〔そういう時代だった〕のだろうが、せつない。
しかしまた、そうした〔せつなさ〕からゆたかな物語が生まれてくるのだろう。