北の隠れ家

 総本家「ホームページ風又長屋」・本家「風又長屋」の別館もございますのでご訪問を。 SINCE 2008.12.19

夢のまた夢 ・ 十一部  

2016年04月27日 12時06分51秒 | 夢のまた夢
☆昭和の時代☆


      


【 息子の保育園・小学生時代 ポチコの家族仲間入り 】

昭和六十年四月五日長男俊輔、昭和六十一年四月五日祐輔が「春光小学校」へ入学したんでごぜぇますだ。小学生になると不思議なもので、なんとなく大人っぽく見えてまいりましたなぁ。
アッシの家に家族が増えたのは息子たちが小学四年、三年の時でございましたな。
名前は「ポチ子」と申しまして、雌、雑種の中型犬でごぜぇましただ。この一人娘は、その後十四年間アッシたちの家族の一員として過ごしましたんでごぜぇます。人間であればなんと九十八歳まで生きたんで、へぇ。
長男二十三、次男二十二歳のときに、老衰でこの世とお別れしちまったんでごぜぇますだ。つい先日の平成十三年十二月一日が命日でごぜぇますんで。偶然にも、天皇家の「愛子様」がご誕生なさった日でごぜぇましただ。

本当に家族の一人が居なくなったような気持ちでやんしたなぁ。この月は、敏信兄も十二月二十一日に亡くなったので忘れることの出来ねぇ月となりましたなぁ。





この「ポチ子」の想い出にこんなことがありましたなぁ。そう、あれはポチ子が三歳の頃でしたかなぁ、我が家から歩いて十五分の所に石狩川の河川敷があるんでございますが、或る夏の日に散歩がてらに連れて行ったんでごぜぇますだ。とても暑い日でございましたなぁ。結構、川幅の或る川でして、その川辺にポチ子を連れて行ったときの事でごぜぇます。

ポチ子も暑くてガマンが出来なかったんでしょう、アッシのリードを持っている手を振りきって突然、石狩川に飛び込んだのでごぜぇますだ。
アッシは流されていくポチ子を見て、慌ててしまい、ツルッと足が滑って川の中へ「ドボン!」と落っこちたんでごぜぇますだ(笑)。ポチ子のことも心配でしたが、自分の事も必死でしたなぁ(笑)。
アッシがようよう、川から這い上がって、さてポチ子はと見渡すと、土手のかなたからアッシのほうへ一目散にかけてくるポチ子の姿を見つけた時は、ほんとうにホッと致しやした。
二人でズブ濡れ姿で自転車に乗って、帰宅したことが忘れられない思い出でごぜぇますだ。





話が横道に反れましたが、こんなことも有って平凡な毎日を平和に過ごす日が続いていたのでごぜぇます。
この年、昭和六十年二月二十四日、カミサンの妹の綾子嬢が「華燭の典」をトーヨーホテル、三階「翡翠の間」にて執り行われたんでごぜぇますだ。
花束贈呈のセレモニーは最初、長男坊の俊輔が予定されていたんでごぜぇますが当日、風邪から肺炎を起こしかけ、その高熱の為、急遽、弟の祐輔が代行して行なったのでごぜぇます。そうですなぁ、その時の会費は、確か六千五百円でしたでごぜぇますだ(笑)。今よりずっと安かったんでやんすねぇ。


この息子達の「保育園時代」の思い出の一つに、忘れられないものがありやしてねぇ。あれは確か或る夏の夜の出来事でざいましたなぁ。
長男坊が夕方、帰宅してきたと想ったら、自慢げにポケットから「キンケシ」を次から次へと出したのでごぜぇますだ。「キンケシ」てぇのは当時子供の世界で一世を風靡したオモチャでごぜぇますだ。
その「キンケシ」が出るわ出るわ、さすがのアッシもそれには驚きやしたなぁ。話しを聞くと、なんと百円入れると、その機械から山のようにキンケシが次から次へと出てきたと云うんでごぜぇますだ。

アッシはこりゃ、てっきりその機械が故障していると想い、息子にそれを話し、その店屋さんに教えてあげなければと、その店はどこの店かと息子に案内させようと一緒に表に出たのでごぜぇますだ。
ところが、家から少し行ったところで息子の足が止まって歩こうとしないんでさぁ。訳を聴くと、なんと息子は嘘をついていたと云うじゃありませんか。アッシはびっくりして、どういうことかと問い詰めたら、母親が家の中の引き出しに入れておいた小銭を失敬してそのお金であれだけの「キンケシ」を買ったということでごぜぇましただ。




それでアッシも、あれだけの量のキンケシが出てきたことに納得したんでごぜぇます。親も悪いのでごぜぇますだ。子供が目にとまるところにお金を置いていたということが、悪意はないのに、子供に誘惑の気持ちを抱かせてしまったんですからなぁ。
話しを聞けば、兄だけにとどまらず、弟もちょろまかしていたというんですから、まいりましたなぁ、これにゃ。 

でも、この事はそのまま見過ごすことが出来ませんでな、家に戻ってきて兄弟二人並べて「お灸」を敢行いたしましんでごぜぇますだ。嘗て、自分がされたように。でも、その時初めて当時の愛子姉の気持ちがよくわかりましたなぁ。

「お灸」をされる息子たちの辛さもわかりますが、本当は「お灸」をすえる方のほうがもっともっと辛い気持ちだったてぇことを。アッシも正直申し上げますと、いざとなると子供たちが可愛そうになって何度もやめようかと内心想いやしたが、「息子」のためにと思い直し、心を鬼にして敢行いたしやした。
アッシがこの歳になるまで幼い頃、愛子姉にされたことをはっきり覚えているように、息子たちも生涯覚えているかどうかはわかりませんが、「心を鬼にする」ということを身を持って味わった思い出でございましたなぁ。





この年、昭和六十年三月二十六日俊輔が「蘭契保育園」第五回生卒業生となり、四月五日「春光小学校」へ入学したのでごぜぇますだ。
弟の祐輔は兄の卒業した「蘭契保育園」へとこれまた入園したのでごぜぇます。 息子の初めての入学式にゃアッシは仕事で出席出来なかったんでございますが、とうとう次男坊の入学式にも出席出来ず、二人の卒業式にも出れなかったんでごぜぇますだ。まぁ、ほとんどの父親がそうだったのでしょうがね。

この昭和六十年の俊輔が、小学校入学しての初めての春季大運動会が五月二十六日に行なわれたんでごぜぇますが、なんとお昼前にゃ大雨の天気になりまして中断、中止となっちまったんでごぜぁます。
翌日、再び続きをしたってぇ話しですが、親はほとんど仕事の関係で応援出来ず、そりゃ気の抜けた運動会だったそうでごぜぇますだ。

そんなこんなで、長男坊は徒歩五、六分の小学校へ、次男坊は徒歩二分の蘭契保育園へと各々新しい時代の生活が始っていったのでごぜぇます。





この年、息子たちの夏休みの或る日曜日に、家族全員で「嵐山サイクリング」に挑戦したんでごぜぇますだ。アッシもサイクリングなんてぇ代物は、生まれて初めての経験でごぜぇましただ。
おにぎり、水筒、おやつ等を各自のリュックサックに用意し、北の大地の澄み切った青空の下、軽快にペダルを踏み出発したんでごぜぇます。
我が家から嵐山まで何キロありましたでしょうかねぇ。石狩川の土手沿いに「サイクリング♪♪、サイクリング♪♪、ヤッホウヤッホウ♪♪」と鼻歌まじりにべダルをこいでいたまでは快調だったんでごぜぇますが、其の内お尻が次第に痛くなってきちまったのにゃ、内心参りましたなぁ(笑)。カミサンに聞くと同じだったようで(笑)。元気なのは子供たちばかりで、へぇ。

それにしても嵐山の頂上からの旭川街外を一望に眺望出来た時の気持ちは、それまでの汗が、一瞬のうちにどこかへ吹っ飛んで行きましたなぁ。
前方には北海道の屋根と称される大雪山連邦、その右手には十勝岳連峰の山々が連なり、下方には日本第二の長流を誇る石狩川の清流が、これこそ「山紫水明の地」という言葉が当てはまるような風景ではないだろうかと思わせた郷土の風景でごぜぇましたなぁ。





昭和六十一年四月五日、次男坊祐輔が、昨年の兄についで春光小学校へ入学したのでごぜぇますだ。その日は、北の大地は素晴らしい青空でございましたなぁ。

この年の次男坊の初めての学芸会には忘れられないものがごぜぇますだ。
この日は日曜日に開かれたの、でアッシも出席することが出来ましたんで。屋内運動場で行なわれたので皆、座布団持参でごぜぇましただ。
次男坊のクラスの出番がとうとうやってまいりやした。双眼鏡片手にアッシは、息子の雄姿を探したんでごぜぇますが、何度さがしてみても姿を見つけることが出来やせん。
時間はドンドンと進んで参ります。とうとう最後まで次男坊の姿は舞台の上には見つけることが出来やせんだったのでやんす。カミサンと二人で、がっかりして帰宅したのを覚えておりやす。

カミサンとも話ししたんでごぜぇやすが、次男坊のこと、出番寸前でなにか気に入らない事が有ったのだろう、それでヘソを曲げて学芸会に参加しなかったんだろうと。そんな頑固な所がある息子でしたんで、へぇ。先生には本当に迷惑を掛けたことと想いましたなぁ。


昭和六十三年、息子たちが小学校三年、二年生の夏休みに二泊三日で「ルスツ、洞爺」へ始めての泊まりがけの家族旅行に行ってめいりやしたぁ。家族旅行なるものが、これが最初で最後になるとは夢にも思いまやせんでしたな。子供は楽しかったでしょうが、親は少し疲れましたなぁ。
でも、子供たちの幼い頃の思い出作りをとの想いで挙行した強行スケジュールでございやしたが、行ってきて良かったと想いましたなぁ自分の幼い頃は、一度もこんな経験が無かったのもアッシの心の中のどこかにあったんでやんしょうねぇ。



先に申し上げましたが、この年の十一月二十五日に我が家に一人娘が増えたのでございますだ。前述した「ポチ子」でごぜぇます。
雑種犬でごぜぇやしたが、生後三ヶ月で我が家にやってきたんで、へぇ。
来た頃はキャンキャンと泣き騒ぐだけのうるさい子犬でございましたなぁ。丸々と太ったお世辞にも可愛い犬だとは云えないポチ子でやんしたですなぁ。アッシは、ダンボールでポチ子専用の家を作りやしたんで。

でも寝るときは、キャンキャンと泣いてうるさいので、とうとうアッシの寝床で一緒に寝ましたんで、へぇ(笑)。
これが癖になっちまったのか、しばらく二人で寝床を共にいたしやしたなぁ。
或る朝、冷たい感覚で目覚めたことがありましてな、そうなんでごぜぇますだ。ポチ子がオネショしたんでごゼます(笑)。

一歳頃までは、まだ小さかったので放しがいにしていたのでございますが、少し身体が大きくなって来たころには繋がれるようになりましたなぁ。可愛そうではありましたが止む終えませんでやんした。 
半日家の中で、半日は外でのポチ子ライフの生活でごぜぇやしたですなぁ。夜は、鳴き声が近所迷惑をかけると想い、家の中で寝かせやしたで。


ポチ子が我が家の一員になってから、我が家の空気もなにかしら変わったように感じましたなぁ。
何がってぇ申しますと、一口で云いますてぇと、優しい雰囲気になったてぇ事でしょうかねぇ。それまでは、息子たちへのガミガミした怒りがちな言葉が多かったような毎日が、なんとなく少なくなっていったような気がするんでごぜぇますだ(笑)。

ポチ子も我が家へ来た頃は丸々とした子犬だったんでごぜぇやすが、一年もする頃にゃ、もう立派な中型犬に成長しておりやした。
一年前までは留守にしていた我が家に帰宅すると、ポチコの大、小便が至るところでしていたんでやんすが、それが嘘のようになくなりましたんで、へぇ。
一年後にゃ小便をしたい時にゃ、ちゃんと教えるようしやしたんで。犬って利巧なもんでございますなぁ。

ポチ子には、玄関フードのあの厚いガラスを割られ、またベランダに通じる和室のガラスも割られましたなぁ。とにかく元気の良い一人娘でございやしたよ(笑)。
アッシとは、良く石狩川の河川敷に散歩がてら出掛けましたなぁ。時折、アッシと部屋の中でかくれんぼをして遊んだのも、今じゃ懐かしい思い出でとなりやした、へぇ。
カーテンの中やら、押し入れの中やら、机の下やらに隠れて「ポチ子~」と名前を呼んで捜させるんでさぁ。ポチ子が声をした方を一所懸命にアッシを捜しているんでごぜぇますだ。
その様子をカーテンの隅から覗いては、笑っていたアッシでございやした。随分知らねぇ間に、癒されていたんでやんすなぁ。


この年に八月に、カミサンの母親のお兄さんである旭川郊外「江丹別」に住む「織田久松」氏の米寿のお祝いが高砂台の温泉で開かれたのでごぜぇやした。
盛大なお祝いでごぜぇましたんで。久松氏は八十八歳にもかかわらず、壮健で百歳まで長生き出来るんではないかと想ったアッシでございやしたよ。
この年の十二月には、昭和天皇が危篤状態に陥ったんでごぜぇますだ。新しい年、昭和六十四年一月半ばにとうとう天皇陛下の、その波乱万丈の人生を終えられたのでごぜぇます。


昭和の時代から「平成」の時代へと流れて行ったのでごぜぇましただ。この年にカミサンの姉が嫁いでいる室崎家が市内、豊岡に新居を新築したんでやんしたなぁ。
平成二年、長男坊の俊輔が札幌方面へ一泊の修学旅行に行ったんでごぜぇますだ。そしてこの年、記念すべき忘れられない年ともなったのでごぜぇますだ。

つづく


最新の画像もっと見る

コメントを投稿