北の隠れ家

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夢のまた夢 ・ 十部

2016年04月26日 09時38分07秒 | 夢のまた夢
☆新婚時代☆


    





それからのアッシは信用を挽回せんと一生懸命仕事にがんばりやしたなぁ。
そうすることによって彼女のことを忘れようとしたのも本当のことでごぜぇましたなぁ。

旭川へ戻ってきたのが二十六でごぜぇましたが、四年間は仕事一途でござんした。三十の声を聞くようになってから、見合いの話もチラホラ出てくるようになりましたが、アッシは「純子」以外にゃ眼も向けませんでしたなぁ。一緒に慣れねぇとわかっちゃいましたがねぇ。


そうこうしている内に、店にアルバイトにきていた高校三年生の子と親しくなっていったんで。
歳が離れすぎていたのでアッシもそんな気は毛頭なかったんで気楽に相手になっていたんでやんがねぇ。まぁ、おめぇが結婚するまでは、失恋でも良いから、一度は恋愛を経験してから結婚しろよなんて、昔話をしてたんでごぜぇますだ(笑)。まさか、一緒になるとは夢にも思っていなかったやんすからねぇ~。
そんなこんなで、いろんなことを話して行く内に或る日、突然 「オイラと一緒になるか?」てぇ聞きますと「うん」と頷くじゃございませんか。正直内心、ビックリしたアッシでやんしたでごぜぇますだ(笑)。

そんな訳で話はトントン拍子に進み、半年後にゃ世帯を持ってしまいましたんで。へぇ、勿論今どき、はやりの「出来ちゃった結婚」じゃごぜぇませんですよ。正真正銘の純愛結婚で(笑)。
アッシがその子のご両親に気に入れられた最大の理由は、きっと、両親不在、兄弟とも交流は盛んなほうでないアッシだったので、まぁまぁとおメガネにかなったんでないでやんしょうかねぇ(笑)。
今、思うと笑ってしまうんでやんすが、当時にのアッシは、この子に手を出しちまって所帯を持つめぇにてめぇが交通事故かなんかで、急死することもあると考えておりやしてね、キズものにはしたくねぇと手を出さなかったんでやんすよ(笑)。信じられねぇでしょうが、そんなアッシだったんでごぜぇますだ(笑)。
アッシが三十歳、オカミさんが十八歳てぇ若さで結婚したんでごぜぇますだ。丁度、干支が一緒で、一回り歳の差が有ったんでごぜぇます。おはずかしい話で、へぇ~(笑)。





結婚式は、会社の仕事関係から、花咲町の「友愛会館」てぇところであげましたんで。
東京から、敏信兄が、地元からは清子姉、秀子姉の三人の身内が出席してくれやした。
敏信兄が、最も喜んでくれているようでござんしたなぁ。小学校の入学式で、アッシの父親と間違われたくらいですから(笑)。

新居はてぇますと、カミさんの実家が本町にありまして、そこから徒歩三分てぇ近くにある民間アパート「静香壮」てぇいうアパートで、四畳半と六畳間という新居でごぜぇましただ。
あまりにも、義両親の家が近くだったもんで、毎日のように顔を出していたアッシでございましたなぁ。そんなアッシをカミさんは、やっぱり面白くなかったでしょうなぁ。いってぇ、誰と結婚したんだってね、へぇ。家庭愛に飢えていたアッシでやんしたから、どうもご両親の所へ行くのが多かったようで(笑)。


そんなこんなで、アッシも、歳が歳だから一日も早く子供が欲しかったんでごぜぇますが、なかなか出来なかったんでごぜぇますだ。あせればあせるほど出来ませんでしたなぁ。仲の良いほど子は出来ぬてぇのは本当のことでござんすな。
そのうちお前さんの身体が、出来そこないんじゃねぇかとお互いに言い出す始末で。
先ずカミサンを病院に行かせたアッシでごぜぇましただ。なんでもねぇとの診断で今度ぁ、アッシの番だということになっちまって。
アッシは病院へ行くのが嫌でねぇ。なんだかんだと引き伸ばしていたんでごぜぇますだ。その内とうとうカミサンの堪忍袋の緒が切れちまって、まいりましたななぁ。
あん時は。アッシは苦肉の策をたてましてね。こう云って、どうにか病院行きを逃れる事が出来たんでさぁ。

それはどうしたかてぇとね、「病院へ行くことは造作もねぇことだ。ちと検査での痛みをこらえりゃ良いんだから。だがなぁ、問題は検査の結果のことでぇ。もしもだ、もしものことだぜ、この自分に子が造ることが出来ねぇ身体だとわかったらどうなさる。
養子縁組でもするのか、孤児院から子を引き取るてぇのか。そんなしちめんどうくさいことよりも、その内、コウノトリがオイラたちに可愛い子供を運んできてくれるかも知れねぇと希望を持っていたほうが、よっぽど幸せなんじゃねぇか」ってね。
へぇ、アッシも病院へ行くのが嫌で嫌でカミサンをこのようにして説得したんでごぜぇますだ(笑)。 そうこうしているときに、この新婚ホヤホヤの時に、なんと珍しい人が旭川へ見えたんでございます。あれはもう、師走になっていた頃でやんしたなぁ~。

アッシの兄貴の文雄兄が、京都から遊びがてらやってきたんでさぁ。きっと、弟の嫁さんの顔を見に来たんでございましょう。旭川の清子姉のところで、年末年始を過ごし、清子姉の子供がいる函館に寄って、京都に戻ってまいりましたなぁ。





そうこうして、もし子供が出来なかったら、将来世界一周に行こうとお互いに話ししていた矢先に長男坊が出来たんでさぁ。
そんな中、長男坊の俊輔が誕生したのは、昭和五十三年六月二十八日でごぜぇましただ。、その日旭川は猛暑で、一足早く真夏がおとづれたような日でございましたなぁ。今でもはっきりと覚えているあっしでごぜぇます。
そして、ガラス越しに見た産まれたてのアッシの子は、猿の子のようでございましたなぁ(笑)。
次男坊はてぇ云いますとね、アッシがカミサンが、ごろりと寝転がっていたところをひょいと跨いだだけで、アッというまに出来ちまいましたんで。へぇ、そうなんでさぁ。昭和五十四年九月二十二日、一つ違いの兄が誕生した同じ「森産婦人科病院」で産まれたんでごぜぇますだ。

年子の兄弟なんでごぜぇますだ。あれだけ待って、三年も掛かって出来たてぇのに不思議なことも有るもんでぇ。
神さまのちょっとしたいたずらだったのかも知れませんなぁ。きっと神様がカミサンが余りにも若いので気をつかって、時間をかけたのでございましょう。
ちょうどご時世が、バブル全盛期に入ろうとしていた時期でごぜぇましたなぁ。物は、作れば作るほど売れましたなぁ。今の時代にゃ、信じられねぇような時代でござんしたでやんすよ。もう二度とあのような時代はやってこねえものなのでしょうかねぇ。

長男の名付親はアッシなんでごぜぇますだ。それがどんなことから付けたかてぇと申しますと、名前を色々と考えていた頃のことでございます。或る夜、夢を見たんでございます。その夢の中で長男坊の名前をこの名前にしなさいてぇような夢を見ましてな。
そうでございます、名前は「俊輔」(シュンスケ)と命名したんで。
敏信兄にそのことを電話でいいますと「そりゃ伊藤博文の名前じゃねぇか」っておっしゃられましてね。さすが博学の敏信兄でございましたなぁ。
そうでございます。「俊輔」てぇ名前は、伊藤博文の若かりし頃の名前だったんでごぜぇますだ。アッシもそれは知っていましたがね、敏信兄が開口一番にそのことをおっしゃったのには驚きましたやしたなぁ。

次男坊の名前もアッシが付けたんでございます。「祐輔」(ユウスケ)てぇんでございます。
アッシはどうも「輔」の文字が好きでございまして次男坊にも付けさせてもらったてぇ訳でごぜぇますだ。
年子の子供でしたでんで、女房は育てるのに大変だったらしいですがね。良く自転車で、長男を前に、弟はおんぶして走っておりましたなぁ。若かったから出来たんでしょうなぁ。良く、やってくれましたなぁ。

一年後に、春光町に有る、公営の「北海道雇用促進住宅」てぇ鉄筋コンクリート造り四階建ての団地に当選しましてね、そこへ引越ししたんでごぜぇますだ。
重い玄関の戸を開けると、石炭を入れる納戸、三畳間ほどの台所、そして「ペチカ」がありましてね、六畳間と四畳半の畳部屋で。それまでのアパートとは広さはそれほどの変わりはなかったんでございますが、アッシ達にしてみれば月とスッポンくれぇの差を感じましたねぇ。しかもペチカなんですぜ。最初に狭い狭いアパートで暮らしていたからこの時、あれほどの感激をした我々だったんでございましょうねぇ。

この団地生活の時に長男、次男が誕生したんでごぜぇますだ。団地の役員もやりましたなぁ。カミさんと夜、一緒に交通安全のタテ看板を何箇所かに立てた想い出がごぜぇます。
子供たちが、少し大きくなってきた頃にゃ、奥の四畳半に二段ベッドを置きましたなぁ。
ある夜、隣の六畳間でビリビリてぇ紙を破る音が聞こえましたんで。何だろうと思って、ふすまを開けると、兄弟そろって、なんと押入れのふすまの張り紙を破っているじゃございませんか(笑)。
ニコニコしながら、二人で面白そうに破っている姿を見て、苦笑いをするしか無かったのを覚えていやす(笑)。今じゃ、良い思い出になっておりやすがね(笑)。

この団地に八年間もお世話になったんでございます。入居した頃の家賃はたしか三千円でしたかな、出居した時はそれが八千円くらいだったと記憶してございますなぁ。この低家賃のお陰で、家を新築出来る貯金が出来たんでごぜぇますだ。

つづく



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