北の隠れ家

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夢のまた夢 ・ 九部

2016年04月25日 11時04分39秒 | 夢のまた夢
☆失踪事件☆


      




一年後、遅くても二年後には迎えに行こうと想っていたアッシでごぜぇましただ。

旭川へ戻って一ケ月位してからだったでごぜぇましたでしょうか、彼女から電話が掛かってきたんでさぁ。
話を聞くと、それまで何度も電話を掛けたとのこと、店から工場に居るアッシに取り次いでくれなかったらしいんでごぜぇますだ。
電話の用件は、自分は今、東京の従兄の経営する会社の事務をやっているんだが、東京へ出てこないかとの内容でごぜぇました。

アッシは迷いましたなぁ。弘前で修業してきたものを、この育ての家である旭川千秋亭で、発揮しょうと意気盛んに戻って来たのでごぜぇますが、残念ながら、アッシの出番はなく旧態以前のままの経営でござんした。
そんなこんなで、修業してきたことが何の意味もなかったのでごぜぇますだ。

そんなことも関連していやして、アッシの気持ちも凹んでおったのでごぜぇます。。何の為に三年もの修業に行って来たのかと、悩みはじめていたときでごぜぇましたんでやんす。そんな気持ちになっているときに、彼女から電話が来たのでごぜぇますだ。

思案に思案して、彼女の居る東京へ行く決心をしたアッシでごぜぇました。が、どうしても東京へ行くという話を義父にできませんでしたなぁ。

今まで育ててくれた恩義を感じれば感じるほど云えませんでやんした。それでとうとう、何の断りも無く、列車に飛び乗ったアッシでございましたんで。
列車に乗る前に、駅前の赤いポストに前夜に書いた手紙を投函したのでごぜぇますだ。若かったんですなぁ。後先何も考えずに行動できたてぇことは。 

正直に申しますてぇと、津軽海峡を渡り終えるまで、内心、戻ろうか東京へ行こうかと迷っていたアッシでごぜぇましただ。
ですが、青函連絡船が、青森に着いた時にゃそんな気持ちも吹っ切れておりやした。前だけを見ていましたなぁ。津軽の海を渡りきるてぇことは色々な気持ちを踏ん切りさせるなにものかがあったんでございますなぁ。連絡船だったからでしょうねぇ。飛行機だと、こうは行かなかったでしょうなぁ。 





東京は、彼女の従兄が経営している小さな会社の敷地内にある、田端の安アパートで暮らし始めましたなぁ。
彼女もそのアパートにおりましたんでごぜぇますだ。でも、一緒の部屋では暮らしませんでやんした、昔の事でごぜぇますから、けじめってぇ物が大事でやんしたからなぁ。そんなこんなで、彼女の従兄の会社で働くようになりやした。

東京には敏信兄、愛子姉がおりやしたが、勝手気ままに行動してしまった以上、逢うことは出来ないと決心していたアッシでございました。


そんなこんなで、東京・田端での生活が始まりだしたのでごぜぇますだ。
最初の頃は、もう慣れない仕事に気持ちを集中して生活しておりやした。三ケ月を過ぎた頃ようやく気持ちも落ち着いてきて、彼女とも楽しい日々を過ごすゆとりが出来てきたアッシでございました。

ところが、一年を迎えようとした頃、アッシの心の中に育ての義父の事が急激に思い出されてきたのでごぜぇますだ。その頃、義父は七十代だったのでは。その事も気になりだしてきていたのでございます。
矢張り、黙って出てきたという事が一番気になっていたんでやんすねぇ。きちんと話をして東京に来ていたならば、あんなに想いわずらうことは無かったかも知れませんなぁ。

このままじゃ、「人の道」にはずれている、お天道さまに堂々と胸を張って生きてはいけねぇ、このまま育ての義父が亡くなっちまったらアッシは一生取り返しのつかねぇ親不孝者になっちまう。

このままで果たして良いのだろうかと悩み始めてしまったんでごぜぇますだ。 
こんなアッシが板ばさみに苦しみだした姿を見て、彼女は「国へ帰ったほうが良い、別れましょう」と言い出したんで。
そんなこんなでアッシは一年後、北の大地へ一人で戻ったんでごぜぇます。彼女とはそれっきりになっちまいました。





数年後、風の便りに、その後、結婚したけれども一人息子が小学校一年の頃、子供を置いて離婚しちまったらしい話を小耳にはさみましたなぁ。
アッシはてぇと、育ての家にゃなかなかすんなり戻ることが出来ませんでやんしたが、苦しんで苦しんで、悩んで悩んで彼女と別れて帰ってきた意味がないので、思い切って育ての家の玄関を開けましたんで。

義父は何も云わず迎えてくださいましたなぁ。

つづく


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