へぇ、アッシはね、北の大地の室蘭に近い「豊浦」てぇ田舎で産声を上げたらしいんでさぁ。
正確にゃ、虻田郡豊浦村字〇〇町てぇ云いますがね。父親「山本栄司」母親「山本ヨシ」てぇんで。五男坊でござんした。
先年のあの有珠山爆発のすぐそばのところなんで。山がすぐ後ろに迫ってくる、小さな小さな海辺の村だったそうで。夜、海の波の音を子守唄代わりに育ったらしいてぇんですが、本人は全然覚えちゃいねぇんですがね。戸籍謄本にそう記してあるんで。
ただね、なんでも四国徳島から夢を抱いて北の大地に渡ってきた祖父が一代で築いたものを、アッシの親父さんが潰してしまったようなんでございますよ。しかも、かみさんを三人も変えたってぇ、とんだ親父でございやして、生まれてきた子供はてぇへんな目にあいやしたんで(笑)。
アッシが三歳のころ、放蕩三昧のオヤジにとうとう愛想が尽きてアッシのお袋さんは、実家の四国、徳島へ一番小さかったアッシを連れて行ったそうで。
しかもお袋のお腹の中にゃ、アッシのたった一人の妹が居たんでさぁ。そんで何ケ月か徳島のお袋さんの実家に居候していたらしいんで。そのとき一緒に遊んだ従兄のお袋の姉にあたる鶴子叔母さんがそう云うんでごぜぇますだ。もう、随分前にお亡くなりになりましたがね。
そんなこんなで徳島でアッシは、暮らしていたらしいんですがね、とうとう生活が困窮してアッシだけ再び、父親に北の大地に連れ戻されたらしいんで。
そして、北海道旭川の栄町(サカエマチ)にアッシをポイっと置いてまた、内地に戻っていったオヤジだったとのことでごぜぇますだ(笑)。
栄町にゃ、豊浦から当時旭川へ移住して暮らしていたんでごぜぇますが、祖父を筆頭に兄三人、姉三人の七人の家族にアッシが放り込まれたてぇ訳で、へぇ。祖父「永蔵」兄「敏信」「文雄」「守」姉「清子」「愛子」「秀子」そしてアッシだったんで。これが旭川栄町時代の我が家の家族でございましてね、へぇ。
アッシの家の家族構成はちと珍しくてね、オヤジは一人なんでございますが、お袋さんが三人いましてね。いえいえ、同時に居た訳じゃごぜぇませんよ。最初のお袋さん「ユキノ」さんがお亡くになり、次に「ヨシ」と再婚し、この人がアッシのお袋さんなんでございますがね。最後に「静子」さんてぇお方がと三人いたってぇ訳でございます、へぇ。
このアッシのオヤジさんのことからお話いたしましょうかねぇ。
オヤジは明治三十六年三月八日、父「山本永蔵」母「アサ」の長男として誕生、姉が三人おりまして、たった一人の男の子だったそうで、そりゃ昔のことでごぜぇますから、「跡取り」ということで大事に甘やかされて育ったんじゃないでしょうかねぇ。
最初の妻「ユキノ」さんとはいつ結婚したのかはわかりませんが、大正十三年七月十五日長男「敏信」出産、次いで長女「清子」、そして昭和六年三月四日にゃ二女「愛子」を出産したんで。
「ユキノ」さんてぇお袋さんがいつ亡くなったのかはわかりませんが、残された写真を見ると相当の美人だったようでございます。それで兄、姉が美男美女であることに合点がいったアッシでございましたでやんすよ(笑)。
その「ユキノ」さんがお亡くなりになり、昭和十二年六月二十八日、オヤジはアッシのお袋さんである「山本ヨシ」と再婚したんでございます。
お袋さんはオヤジとは親戚にあたり、当時密かに好きな人が居なすったらしいんで。が、父親の「栄司のところへ嫁に行け」の鶴の一声で泣く泣く北の大地へ渡って来たってぇ話でごぜぇますだ。
当時は父権が絶対的な時代であった故に、お袋さんも可愛そうな人でございましたでやんすよ。お袋さんは父「山本長兵衛」母「キョウ」二女として徳島県麻植郡〇〇町で誕生、「雪雄」「文雄」「守」「秀子」「アッシ」「康子」四男二女をもうけたのでございます。
「雪雄」ってぇ兄貴が長男で居たんでやんすが、残念ながら赤ん坊のときに亡くなったそうでごぜぇます。
妹の「康子」は昭和二十三年六月二五日徳島県〇〇町で誕生、お袋さんの兄である隣町の芳男叔父のところで育ったんでございます。
本人が自分の兄弟がいるということを知ったのは中学一年の頃であったらしいんでごぜぇますだ。それまでは全く知らなかったらしいんで。知らなかったほうが幸せであったのか、知ってしまったほうが幸せだったのかは本人のみぞ知るでございますなぁ。
アッシ自身、てめぇの妹・弟が居るってぇことを知ったのは16歳の時でやんしたからねぇ~(笑)。
このたった一人の妹も結婚後数年で離婚し、母親一人で娘二人を育て上げたのでございます。五十歳のとき、まだまだ若いというのに娘二人を残して肺癌で先立ってしまいましたのでごぜぇますだ。
三番目のお袋さんに当たる「静子さん」てぇお方は、父「鈴木富太郎」母「カメノ」の三女としてご誕生されましたのでごぜぇます。そして「賢司」「優司」という立派な二児をもうけられたのでございます。まぁ、アッシとは腹違いの弟になりやすんで。初めて逢ったのは、アッシが16歳の夏の時でやんした。この時の話は後ほどに。。。。
オヤジの籍に入ったのがアッシのお袋さんと正式離婚した昭和三十七年六月六日であったんでございます。この間、「静子お袋さん」「賢司」「優司」兄弟の心境は、なんとも言葉に言い表すことが出来ねぇアッシでございます。
そういう訳でやんすから、アッシが所帯を持って、抜ける以前の戸籍謄本は、すごいもんでやんしたよ(笑)。姉が良く、恥かしい戸籍謄本だって云っていたのを思い出しやすよ(笑)。
アッシが生まれる以前の、「豊浦時代」は優雅な生活だったらしいんでやんすが、なんでもオヤジさんが食い潰してしまってからは、旭川の栄町時代はドン底の生活状態になっていたようでございます。
アッシはまだまだオキャンの頃で、そんなことはちっともわからず毎日が面白く、沢山いる兄弟同士でにぎやかに毎日遊びにふけっていたんでごぜぇますだ。
思い出しても本当に懐かしい良い幸せな時代でやんした。ですから、オヤジ、お袋が居なくても全然寂しいなんて一度も感じなかったアッシでごぜぇますだ。
また今、想えば両親のいねぇアッシに寂しい想いをさせねぇで育ててくれた兄姉が本当に偉かったんでごぜぇますなぁ。本当に、にぎやかだったんでさぁ。アッシは、でやんすから「とうさん」「かあさん」ってぇ言葉を知らなかったんでやんすよ(笑)。楽しいかった時代でやんした。へぇ。。。。
こんな我が家を支えていた大黒柱の一番上の兄が、五日前に先立たれた兄貴なんでぇ。
「敏信」てぇ名前で一家をオヤジ代わりに養ってくんなすった兄なんでごぜぇますだ。豊浦時代は祖父の力量で大きな海産物工場を持っていたほど裕福だったらしいんでやんすが、出来の悪い一人息子のオヤジがとうとう食いつぶしたらしいんで。
この優雅な時代に育ったのが今、云った敏信兄、そして清子姉、愛子姉三兄姉らしいんで。
その次の妻になった子供が、文雄兄、守兄、そして秀子姉といて 一番バッチがアッシだったんでさぁ。アッシが物心つく頃はもう旭川にいたんでごぜぇますだ。豊浦時代の子供時代を過ごされたのは一世代上の敏信兄、清子姉、愛子姉の時代だったんでごぜぇますだ。
祖父は九十七か九十八歳まで長命だったんで。丁度、東京オリンピックが開かれていた時に東京の娘の家で世話になっていたときに、亡くなっちまったんでごぜぇます。なんでも若い頃は故郷、徳島の田舎で町史に残るほどの偉い人だったらしいんでごぜぇますだ。
商売の才覚も抜きん出て、素晴らしいものを持っていたとのことで。こりゃ、みんな四国の従兄から聞いた話なんですがね。
余談でごぜぇますが、なんでもアッシの先祖ってぇお方は、「神主」さんだったらしいんで。敏信兄からアッシが学生時代に聞いた話なんですがね。
四国徳島の或る田舎に「山本神社」てぇシロモノが有るんだとか。この話を聞いたときにゃなんか信じられなかったんですがね。へぇ、実は今も半信半疑で(笑)。それがなんと小さな祠だというじゃありませんか(爆)。
この祖父にアッシはとても可愛がっもらったそうで。とにかく、祖父は信心深いお人で暇さえあれば、仏壇の前でお経をあげていたお方でごぜぇます。
その後ろに、アッシがいつも、チョコンとくっついていたらしいんで(笑)。きっとお供えしていたお菓子が目的だったんじゃないでしょうかねぇ(笑)。
それと記憶に残っているのが、祖父が「株」のラジオをいつも聞いていたということでさぁ。「何円高、何円高、何円安・・・」てぇ放送でさぁ。
アッシが五つか六つの時だったでしょうかねぇ、冬の或る日に守兄、秀子姉と三人並ばされて「お灸」をされた思い出があるんでさぁ。ええっ?誰にされたんだって?へぇ愛子姉にでさぁ。
てぇいうのは、実はアッシがその悪さの原因だったんで。
そのころぁ、冬の雪の中でよく兄弟たちと遊んでいたんでごぜぇますだ。一番小さなアッシが、長靴のなかによく雪が入っちまって靴下やズボンなんぞうビショ濡れになって遊んでいたのでごぜぇます。
こりゃ、愛子姉に怒られると幼い心に想ったのでござんしょう、一緒に遊んでいた守兄、秀子姉の脱いだ長靴の中にせっせと雪ン子を入れていたというんでさぁ。
悪いこたぁ出来ねぇもんでぇ、それを運悪く、鬼より怖い愛子姉に見つかっちまったという訳でさぁ(笑)。
即、「お灸」、今の時代にゃもう、お目にかかることも珍しくなっちまいましたが、本物の「お灸」をすえられたんでございます。何も悪いこたぁしていねぇ守兄、秀子姉と一緒にで。へぇ~。
兄弟の連帯責任てぇやつでね。守兄、秀子姉はじっとアッシをかばって、その熱さにがまんをして耐えていたらしいんでごぜぇますが、アッシはてぇと、すぐアッチ~アッチ~と云ってもぐさをさっさと 払いのけてたてぇんで話でさぁ(笑)。
このシーンは幼かったアッシでしたが、ぼんやりと覚えているんでさぁ。とにかくその頃から、辛抱出来ねぇアッシだったらしいんで。でもまさか、こんなアッシが後年、てめぇの息子二人に同じ歳頃の時に「お灸」を同じようにすることになろうとは夢にも想いませんでやんしたなぁ(笑)。その時の愛子姉の、お灸をすえる方が、どれだけ辛かったかをその時に知りやしたもんでやんすよ(笑)。
何せ、三つくれぇで母親と「さよなら」しちまったアッシでござんしょ、清子姉、愛子姉がこのピーピー云っていたアッシをおんぶして育ててくれたらしいんで。この頃のことはうすぼんやりと覚えているアッシなんで。
でも、母親の顔はまったく覚えていやしませんでやんしたアッシで(笑)。ちょうど年頃の姉だった清子姉、愛子姉は、アッシの世話で何度もデートを棒に振ったそうで。ほんとに申し訳ねぇこたぁしちまっていたアッシだったんですなぁ。
つづく