先日6/5のミッドウェー海戦の日に佐世保海軍墓地で、空母 飛龍・加賀の慰霊祭が執り行われました。そこにある方のご紹介で一般参列させていただき、日本人の一人として海戦で戦って亡くなられた方に追悼の念と共に敬意と感謝の意を示してきました。飛龍・加賀の元乗組員の方もいらっしゃってました
飛龍元乗組員の方に、お話をお伺いしました。Aさんは95歳、大阪からいらっしゃいました。
「真珠湾攻撃時には、新兵で参加していない。教育が終わって、飛龍に配属が決まった。飛龍が佐世保に帰ってきてないので、1ヶ月くらい遊んで、飛龍にはじめて乗った。新兵なので、怖さも何も知らなかった。
飛龍では一番高角砲に配属された。ミッドウェー海戦の時は、昼飯5分前に、加賀、赤城、蒼龍は空襲でやられた。加賀は艦橋が一発で飛ばされた。飛龍は一隻だけ残ったが、日没5分前位にやられた。雲がごっつうでてきて、急降下で5機くらいきた。対空砲座にいたが、甲板にボーンとやられた。
上半身は火傷でやられた。それでも気づかずに、一生懸命ポンプで火消しした。しまいには、ポンプも動かず海水汲んで消した。火災で飛行機が着陸できず、能力がなくなって艦は4隻とも沈んだ。艦長は司令に退艦してくださいと一人で残ると勧めたが、司令は私も残ると言った。副官も私も残るといった。
飛龍艦長が怒って、副官は退艦命令といって降ろした。艦長は加来止男、九州熊本八代の出身。副官に帽子を渡して別れた。私は負傷して火傷をしていたので、先に退艦して、カッターに乗せてもらって、谷風に拾われて手当してもらった。新兵教育受けただけだったので、教育のとおりの動作だけだった。
ミッドウェー海戦の前日に、航空兵は宴会で騒いでいた。9時から10時に当直で衛兵として立っていたところ。山口多聞司令がやってきて、ごくろうと肩を叩かれた。終戦10年くらいして、海軍関係の飛龍の戦没同窓会・慰霊祭が九州四国各県持ち回りで行われていた。艦長の息子さんが来られていた。
飛龍の同窓会には、加来止男艦長の息子さんも来られていた。艦長夫人の花子さんも大阪に来られていて、カラオケに一緒に行った。もう動けるのは、私一人くらいになった。」
慰霊祭には、戦史に関心があるだけの私に関係者の皆様暖かく迎えていただき、楽しく過ごすことができました。皆様ありがとうございました。m_m
H28.3.21 ある戦争体験者の方が集まる会の総会・懇親会に参加しました
福岡から東京へ・・・高度1万メートルの飛行機の窓からです
太平洋戦争中はこの高さで戦っていた方もおられるのかと思うとすごいです
1日目は新宿ビルにある平和祈念展示資料館に行き、ガイドの解説と、太平洋戦争中に潜水艦乗組員だった方のお話を聞きました。
2日目は、まず東京都戦没者霊苑に参拝しました。
写真は戦没地域標示盤といって、戦没者数を地域別に表示したものです。
霊苑からみた総会会場の文京シビックセンターです
戦争体験者の方が集まる会の総会・懇親会に出席しました。
総会から、約70人が参加し、その半数が戦争体験者の方でした。
懇親会では、戦争体験の方のお話を、直接伺うことができました。
特に印象に残ったのは、戦闘機隼に乗ってB29を撃墜した方のお話です。
新幹線で、博多へ帰りました。
今回も、貴重なお話をお聞きすることができました、関係者の皆さんありがとうございましたm_m
戦闘機 隼の元搭乗員の方Sさんのお話を伺ってきました
Sさんは太平洋戦争中、戦闘機隼でシンガポール防空の任務についていました
1944年1月11日 B29 20機が来襲、停泊している日本巡洋艦2隻を狙ってのものでした
Sさんら6機が迎撃に上がりました、早めに上がったので、待つことができました。
B29は1000mの距離から真正面から撃ちはじめました。煙もパンパン、弾もカンカン当たるが、
高度を落としたら負けだと思ってそのままで進み、Sさんは500mの距離まで我慢して撃ちはじめました。
B29のエンジン2機に命中し、煙をはいて落下していくのがみえました。
Sさんは離脱し、着陸すると。敵機の弾はエンジンを貫いていました。
Sさんは終戦時まで隼に搭乗していました。Sさんお話ありがとうございました。
そこで、現在でもご健在の方の戦争体験証言を集めてみました
今回は、巡洋艦「足柄」に搭乗していた方の証言です
Kさん(熊本県 94才)
1945(昭和20)年6月8日、私の乗った兵員輸送中の重巡洋艦「足柄」は、英潜水艦の魚雷攻撃で沈没した。魚雷4発がほとんど同時に右舷に命中。上がった水柱が滝のように落ちてきた。息ができない。艦は右に傾いていく。速力が急速に落ちた。
私の担当は高射砲で、弾道計算の任務に就いていた。「総員、後甲板」という命令を受けて移動しようとしたが、海藻を踏んで滑り、海中へ落ちた。艦が沈没すると渦ができるので、巻き込まれないように必死に泳いで艦を離れた。
間もなく、艦は船尾から海中に沈んだ。海に浮いていた者たちは感情が激して「バンザーイ、バンザーイ」と叫んだ。続いて「海ゆかば」の合唱。日本酒の酒瓶が、あちこちに浮いていた。「どうなるかわからん。飲め、飲め」とやけっぱちになって勧める者もいた。
1時間以上も浮いていただろうか、僚艦の駆逐艦「神風」に救助された。片足のひざから下が欠落し、白い骨が見えている兵もいた。
Tさん(香川県 88才)
海面に白い気泡を残しながら向かってくる魚雷がはっきり見えた。「だめだ、当たる」。Tさんは、敵艦までの距離を計る測距儀(そっきょぎ)の担当だった。衝撃で頭を打ち付け、かぶっていた防毒マスクのレンズが自分の血で真っ赤に染まった。機関兵の悲鳴が聞こえたが、持ち場を守ることで必死だった。
Tさんが乗船した足柄は、大戦前の37年5月には英国に派遣され、ジョージ6世の戴冠記念観艦式に国内から唯一参加した船だった。「上官に『有名な船だぞ』と言われてね。誇らしかった」
「総員退避!」。上官の叫び声が響く。数発の魚雷が直撃した足柄は砲身が海につかる寸前に傾いていた。乗組員が投げ出されるように海に落ち、Tさんも続いた。6月8日午後0時37分、足柄は沈没。乗組員と移送中の陸軍兵士ら計約2千人のうち、乗組員約300人が犠牲となり、陸軍兵士にも死者が出た。
2時間海を漂流し救助されTさんは、英国軍による1年間の捕虜生活を経て46年8月に帰国。故郷は平穏を取り戻していたが、胸の痛みは消えなかった。
Uさん(熊本県 90才)
熊本県本渡町(現・天草市)に生まれ、1942年5月、16歳で志願して佐世保第2海兵団に入った。機関兵として訓練を受け、1年足らずで足柄への乗艦を命じられた。
45年6月8日。シンガポールに陸軍部隊を運ぶため、インドネシア沖のバンカ海峡に差しかかったときだった。艦内に爆音が響き、激しい横揺れが襲った。船底に近いボイラー室で戦闘配置についていたが、立っていられない。英軍の潜水艦が放った魚雷4発が命中していた。「もう上がるぞっ」ボイラー室には同期のKさんと2人だけになり、一緒に退避しようとした。だが、Kさんは座ったまま、立ち上がろうとしなかった。
「泳げないから、お前に迷惑をかける。俺はここで死ぬ。生き残って内地に帰ったら、俺の死に様を両親に伝えてくれ」
どれだけ促そうとも、決意は固かった。「K、さようなら」。タラップを駆け上がり、海に飛び込んだ。約3時間、必死に泳ぎ、行動を共にしていた駆逐艦にたどり着いた。足柄は沈没し、乗組員約1000人のうち185人が死亡した。
✳︎写真は足柄と同型艦の妙高の模型

礼号作戦
第二次世界大戦中のイギリス戦車にバレンタイン戦車というのがあります
バレンタインデーの2月14日に設計書が提出されたので、この名になったのだとか
日本ではバレンタイン歩兵戦車と呼ばれていますが、英語では Valentine tank で そのまま バレンタイン戦車^^;
・写真はロシアのクビンカ戦車博物館のバレンタイン戦車
今川宇宙
ガルパン ガールズ&パンツァー GuP Girls und Pantzer 艦これ 艦隊これくしょん
国谷裕子 辰巳シーナ 長谷川京子 コマンドー マツコ会議
ウロボロス おみやさん 篠原篤
真珠湾攻撃に参加した大型艦船を1/2000スケールで揃えてみました
手前から 赤城 加賀 瑞鶴 翔鶴 蒼龍 飛龍 比叡 霧島 利根 筑摩 阿武隈 です

海上自衛隊もイージス艦3隻を配備しておりましたが、迎撃措置は行いませんでした。
今回迎撃措置をとったイージス艦は 「きりしま」「ちょうかい」 と
「こんごう」「みょうこう」のいずれか1隻の3隻と思われます。
✳︎写真は佐世保に停泊中のイージス艦 ちょうかい

平成28年1月27日(水)、鹿児島県鹿屋航空基地にて、零戦(零式艦上戦闘機)の飛行試験が行われる予定です。
これは、日本人唯一の零戦オーナーである方が、クラウドファンディングによりインターネット経由で資金を調達し、日本の空を零戦を飛行させようという計画「零戦里帰りプロジェクト」の試験飛行のようです。
今回は、準備段階ですが、これから、日本各地の飛行場での飛行が検討されているようです。
何はともあれ、日本での零戦の飛行は平成7年以来21年ぶりのことです、今回は試験段階非公開なので、みにいけませんが、試験飛行の成功を期待しています。また、公開飛行ではぜひみにいきたいものです!
※写真は平成25年に日本の所沢にて、地上走行試験を行っている零戦。この時は飛行は行われませんでした。
あらすじ:1933年 欧米と日本の対立が深まる中、日本の運命を左右する会議が海軍省で開かれようとしていた。それは「航空主兵」と「大艦巨砲」派の権力闘争の始まりであった。そんな中、海軍少将山本五十六は、数学の天才と噂される青年をスカウトする
あけましておめでとうございます ツイッター11編で太平洋戦争の概要をつくってみました!
太平洋戦争の原因ー日本が中国やインドシナに進出したのを警戒して、アメリカは日本への石油の輸出を停止する。アメリカはハル・ノートにより、日本の中国やインドシナからの撤退を迫った。日本は石油が無くなると国家機能が停止してしまうので、撤退か開戦かの選択を迫られ。開戦に至った。
太平洋戦争1ーアメリカへとの外交交渉は決裂し、1941年12月8日、日本海軍機動部隊はハワイ真珠湾の艦隊に、航空機による奇襲攻撃を行い。日本はアメリカに宣戦布告を行った。米艦隊は5隻の戦艦が沈み、壊滅的な被害を被った。しかし、空母3隻は被害を逃れ、米国民は騙し討ちと激怒した。
太平洋戦争2ー1941年12月10日、マレー沖海戦で日本海軍は航空機により英戦艦2隻を撃沈した。日本陸軍は12月には香港、翌年1月にはマニラを占領した。開戦と同時にマレーに上陸した日本陸軍は、2月にシンガポールを占領した。3月にはインドネシアを占領し、日本は石油資源等を確保した
太平洋戦争3ー1942年4月、セイロン島沖海戦で日本海軍は英空母等を撃沈し、英海軍はインド洋から撤退した。5月、日本陸軍はビルマを占領。5月、日本の南部ニューギニア攻略のため珊瑚海海戦が生起し、史上初の空母対空母の戦いが行われる。戦いは引分だったが、ニューギニア上陸作戦は中断。
太平洋戦争4ー1942年4月、ドゥーリットル中佐による日本本土の初空襲。6月、山本五十六海軍大将発案によるミッドウェイ攻略が行われるが、アメリカは暗号を解読して、珊瑚海海戦で損傷していた空母を含めて空母3隻を投入して待伏せしていた。日本は空母4隻を失う大敗。日本の勝機は無くなる。
太平洋戦争5ー1942年8月、アメリカはソロモン諸島ガダルカナル島にある、日本軍の飛行場を占領。それを発端に、日本海軍は第一〜三次ソロモン海戦、南太平洋海戦を戦い。日本陸軍は飛行場に3回の総攻撃を行った。ガダルカナルでは日本軍の補給状況は深刻を極め、戦死者の大半が餓死者だった。
太平洋戦争6ー1943年2月、遂に日本軍はガダルカナル島から撤退した。ソロモン諸島での戦いで航空戦力を消耗しきった日本は、これ以降守勢にたたされ、4月18日山本五十六海軍大将がブーゲンビル島上空で戦死した。5月にアッツ島に米軍が上陸し、日本軍は全滅し、玉砕という言葉が使われた。
太平洋戦争7ー1944年6月、アメリカ軍は、空母15隻でマリアナ諸島のサイパンに侵攻した。一方日本海軍は空母9隻の機動部隊で迎え撃ち、米機より航続距離の長い日本機で遠距離から攻撃を仕掛けたが、熟練度の低い日本機は容易に撃ち落とされ、日本空母も3隻撃沈されて日本機動部隊は壊滅した。
太平洋戦争8ーアメリカ軍のサイパン占領により、B29爆撃機が日本を空襲できるようになった。1944年10月、アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に侵攻した。日本海軍は空母を囮にして、残存している戦艦部隊を総動員して、レイテ湾に向かったが、突入直前で反転して作戦は失敗した。
太平洋戦争9ー1945年3月10日、東京大空襲により、8万人の民間人の死者がでた。日本全土の都市が空襲で焦土と化した。4月、アメリカ軍が沖縄に上陸、戦艦大和が沖縄に向かったが撃沈される。沖縄の日本軍は民間人を巻添えにしながらも、防戦するが、6月には米軍が沖縄を制圧した。
太平洋戦争10ー1945年7月、アメリカらは、ポツダム宣言により、日本に無条件降伏を要求。しかし日本はこれを黙殺した、日本国民全員が「一億総特攻」により戦うつもりだった。しかし8月に広島、長崎に原爆が投下され、天皇の決断により、ポツダム宣言を受託した。8月15日戦争は終わった。
水木先生はゲゲゲの鬼太郎などの妖怪漫画の作者であると同時に、貴重な戦争体験を21世紀まで語り継いでくれた方でした
漫画だけではなく、ゲゲゲの女房のドラマ化も記憶に新しいところです
今年の初めまで、隔週で週刊誌に漫画を連載されるほどお元気でした
水木先生は太平洋戦争時、駆逐艦雪風で、ニューギニア戦線から帰還されました
また雪風に乗って戦友の元に旅立たれたのでしょうか......

✳︎写真は江田島兵学校にある駆逐艦 雪風の錨
磯風に乗船したIさん(88才)に直接お話をお聞きすることができました。
Iさんは昭和17年に、わずか15才で大竹海兵団に入団しました。
練習兵教育は厳しく、犠牲的精神等を徹底的に叩き込まれました。したがって犠牲者も多く、一期生、3700人中、2500人が戦死しました。
Iさんは磯風の舵機室という艦尾の底部に配置になり、舵輪を握って船の舵をとる任務を行いました。
Iさんが乗船したのはマリアナ沖海戦から沖縄特攻作戦までであり、多くの艦が沈むのを目撃されたそうです。
マリアナ沖海戦では空母大鳳が沈むのに立会いました。大鳳は最新型の装甲空母でしたが、たった一発の魚雷で誘爆し、磯風は大鳳に横付けし、板を渡して救助活動を行いました。甲板は地獄絵図であり、黒焦げになった死体が累々と横たわっていたそうです。大鳳艦長は大きく傾いた甲板上で、ロープで足をくくりつけて、艦と最後を共にしました。
大和型三番艦 空母信濃が沈むのも目撃しました。 信濃はアメリカ潜水艦の雷撃により、初出航17時間で沈没してしまいました。突貫工事で完成した空母であり、Iさん曰く、沈むのもやむを得ないということでした。
Iさんの搭乗する磯風は、沖縄特攻作戦で、戦艦大和を護衛しました。大和は集中攻撃を受け、煙をもうもうとだしながら沈んで行ったそうです。磯風も舵が故障し、人力で操舵したそうです。Iさんたちも雪風に移乗し、磯風は雪風の雷撃処分を受けました。
Iさん、貴重なお話をしていただき、本当にありがとうございましたm(_ _)m
平成27年9月20日に東京の日々谷公会堂で行われた戦場体験証言集会に参加しました
戦場体験映像保存の会が主催する
「第4回 あの戦場体験を語り継ぐ集い 戦後70年の今とこれからを考えるために」です
この日始発の博多発の新幹線に乗り、行ってきました
数日前に戦場体験映像保存の会のブログに参加する旨コメントすると
関心のある話をしていただける方を直接紹介いただけると返事をいただきました
磯風乗組員だったIさんを紹介していただき、お話できるということになりました。
Iさんは磯風の艦尾の舵機室に乗船し、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、大和沖縄特攻
の主要海戦に参加し、大鳳、武蔵、金剛、信濃、大和 の最期に立会った方です
お話を聞いてきたのでレポートしてみたいと思います
※写真は日々谷公会堂
本日、平成27年8月15日は終戦記念日
戦後70年を迎えます。70年間戦争がなく平和だった日本
一方70年間 世界は戦争が絶えませんでした
この70年間日本で戦争が無かったことは
世界が平和であることへの一筋の希望ではないでしょうか
70年経っても 多くの戦争経験者が存命です
どんなに戦争で活躍した人でも、ほとんどの方が平和が一番だと言っておられます。
この平和を保っていくために私たちが何をすべきか
どうすれば良いかはすぐには答えは出ません
しかし、一人一人がそれを考えていけたら、
それが未来への希望、平和な世界に繋がるのではないでしょうか