古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「夕されば 小倉の山に」(万1511・1664)歌について

2022年06月19日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集の「夕されば 小倉の山に」歌(万1511・1664)は古来名高い。

   秋の雑歌ざふか
  崗本天皇をかもとのすめらみことの御製歌一首
 ゆふされば 小倉をぐらの山に 鳴く鹿は 今夜こよひは鳴かず いにけらしも(巻8・1511)
   秋雑歌
  崗本天皇御製歌一首
 暮去者小倉乃山尓鳴鹿者今夜波不鳴寐宿家良思母

   雑歌
  泊瀬朝倉宮はつせのあさくらのみやに天の下知らしめしし大泊瀬幼武天皇おほはつせわかたけるのすめらみこと御製歌おほみうた一首
 夕されば 小倉の山に す鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも(巻9・1664)
  右は、或る本に曰く、崗本天皇の御製なりといへり。正指せいしつばひらかにせず。これに因りて以ちてかさねて載す。
   雑歌
  泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首
 暮去者小椋山尓臥鹿之今夜者不鳴寐家良霜
  右或本云崗本天皇御製不審正指因以累戴
臥す鹿(井の頭自然文化園)
 これら二首の歌は、特に両者の関係、また作者について、しばしば論じられてきた(注1)。歌の内容については、仁徳紀に載る菟餓野の鹿の逸話と絡めて説くものと絡めずに説くものとがある。また、「鳴く」と「臥す」の微妙な違いをこと立てる考えや、「い寝」について、ただ寝るのか、共寝するのかという対立も見られる。中国におけるいわゆる鹿鳴の捉え方との関連を説いたり、その影響を受けて後代になって創られたものとする考え方も呈されている。また、作者について、実作者なのか仮託されたかといった議論もある。さておいても「大泊瀬幼武天皇」は雄略天皇のこととして定まるが、「崗本天皇」は舒明天皇か皇極天皇のいずれかであろうとされている。「小倉の山」の場所を比定する見解もある。これらの意見は、本旨を軽んじて屋上屋を築く、議論のための議論である。
 両者とも、「夕されば小倉の山に」で始まっていて異同はない(注2)。歌の四句目までの主語は「鹿」である。主語─動詞の関係をすっきりと表したいなら、例えば次のような言い回しになるのではないか。

 小倉山 夕さり来れば 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも

 舞台が小倉山であることがはっきりする。むろん、小倉山であろうがなかろうが、鹿は鳴く(臥す)ものである。わざわざ小倉山に限っている点と、語順が「夕されば 小倉の山に」とつづく点は注目すべきである。ヲグラのヲは接頭語で、小さい意を表す。「小舟をぶね」(万358他)、「小屋をや」(万2825他)、「小野をの」(万239他)、「小河をがは」(万316他)などとある。「夕されば 小倉の山に」とつづく理由は、ヲグラはヲ(小)+クラ(暗、「暗し」の語幹)の意を示そうとしているからであると直感させられる。

 如へばおぐらき夜分には、世間幽冥にして都てゆる所无くして正道を迷失しつ、満月出で已りて諸の暗を皆、除して諸の失道のひと、皆、正路を見るといふがごとし。(地蔵十輪経・巻第八、元慶七年点)
 外の方を眺め出だしたれば、やうやう暗くなりにたるに、虫の声ばかり紛れなくて、山のかた小暗く、何のあやめも見えぬに、いとしめやかなるさまして寄りゐたまへるも、わづらはしとのみ内には思さる。(源氏物語・宿木)
 蒙籠モウロウ ヲクラシ(色葉字類抄)

 「夕されば」、夕方になると、「小倉をぐらの」、少し暗くなっている、と順接に述べているわけである。「夕されば」は、「小倉(の山)」を導く序詞的な役割を果たしている。
 ところが、「今夜こよひ」になって鹿は鳴かなくなっている。ヨヒ(宵)は夜の前半のことをいうとされる(注3)。日はすっかり沈んであたりは暗くなっている。明かりを灯さずに差す光は月明りばかりである。そんななか、昨日までは鳴いていた、あるいは臥していたことが知られていた(注4)鹿が、今日の夜になって鳴かない。そして、その理由について歌の作者は弁論している。おそらく、寝たからであろう、と。
 そんなどうだっていいようなことを喜んで歌い、どうだっていい歌を聞いた人も喜んでいる。これが雄略天皇の歌であろうが舒明天皇か皇極天皇の歌であろうが、あるいは他の誰かの作であろうが、本質的なところではその喜びに変わりはない。悦楽があったから伝承されていると考えられる。
 何を言わんとして歌っているのか。それは、「夕されば」と言ったときには夕暮れ時の薄明があるが、「今夜こよひ」では、ちょっと暗いでは済まされなくなっている点である。仁徳紀の逸話に知られる鳴く鹿の話では、鹿が鳴かなかったのは「月尽つごもり」の日、晦であった(注5)
 どういうことか。月尽(晦)の日は月明りが期待できないから、真っ暗なのである。ヲグラ(小暗)→マクラ(真暗)になっている。マ(真)は接頭語で、形状言マの意、真に、完全に、純粋に、全く、を表す。そういうマクラ(真暗)な状態ならば、マクラ(枕)を使って寝ようという“話”になっている(注6)。「臥す鹿」という言い換えはとかく評判が悪いが、歌意を伝えるに十分な表現となっている。鹿が寝るのに枕を使うことはなかろうといった自然科学的にしてナンセンスなさかしらごとは通用しない。
左:白練綾大枕(正倉院宝物、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010160&index=0をトリミング) 、中:石枕(立花附き、天理参考館展示品、古墳時代中期、群馬県出土)、右:琥珀製枕(復元品、橿原考古学研究所附属博物館展示品、御坊山3号墳出土、飛鳥時代、7世紀)
 朝徹は、まくらに有たやみが、朝日がつるつると出て、三千大千世界の明なやうな。(荘子抄、1530年)
 愛宕嵐の山下風まぜに降雪、烟と共に寄手の目口に入て、真暗闇になれば、進退失度。(応仁記、書陵部蔵、室町時代写、国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100233470/viewer/36)

 古い文献例は確かめられないが、「真っ暗」と言うのは促音便と考えられる。
 知恵の付き始めた幼児の、ねえ、どうして夜は寝なくちゃいけないの? という煩わしい問いかけに、上代の知恵人は容易に答えることができた。マクラ(真暗)な時はマクラ(枕)を使うものだよ、と。
 これが、言葉を知恵として使うことで生きていた無文字時代の“常識”であった。人から人へ伝え授けるすべが、言葉にしかなかった時代の正しい対応と言える。
 当然ながら、万葉の時代に、伝承なり伝誦されていた古歌が、漢籍の知識などを基にしなければ成立しない歌であることなどあり得ないのである。伝わるということは、その伝える途中のたくさんの人たちが、誰一人欠けることなく歌の内容を理解していたということに他ならない。万葉集が編まれた時代に、個別具体的にある日ある時ある所で宴席が設けられ、漢籍を引いて勿体をつけたお題が呈示されて歌会が開かれることがあったにせよ、その場限りのことであった。文字の読み書きが覚束ない人のほうが圧倒的に多く、総学者社会などではない。万葉歌の歌が、お勉強屋さんのする道楽のようなものだとしたら、生活に追われて日々過ごす人たちはかまけてなどいなかっただろう(注7)
 また、伝承や伝誦の歌ではなく、新たに創作して雄略天皇や舒明・皇極天皇に託けて万葉集の巻、ないしは分類の頭に据えて恰好をつけたのだとする考え方も本来的に当たらない(注8)。古い順に歌を並べることには、エディターの力量もなにも取り立てるほどのことではないし、往年の天皇の名に託けて歌が作られるようなことが古代に行われていたとの証拠もない。後から作った歌だとの主張に反証の可能性はなく、同時に証明の可能性もない。どういうメリットがあって古代人がわざわざそのような作為を行ったのか説明されなければ、空想的な仮説の段階から一歩も進んでいない。
 現在までつづけられてきた“天動説”的解釈は捨て去らなければならない。自らの視点は動くことはなくて万葉集の歌のほうにブレがあり、作者や歌詞の一部が異伝となっていたり、仁徳紀の逸話や中国の鹿鳴の捉え方を受けたものだといった見方からは何も得られない。「名歌」とする鑑賞も現代人の視点で言っている。
 “地動説”はシンプルである。ヲグラ(小暗)→マクラ(真暗)だけですべてを説明できる。言葉遊びの単純な歌である。それを“くだらない”と評価するのは現代人の考え方に基づく。“くだらない”かどうかという点からして根本的に考え方を覆す必要がある。コペルニクス的転回である。
 万葉集に記されている歌に何が書いてあるか。恋心や哀しみの情などさまざまであろう。しかし、それらを越えて一つだけ確かな解答がある。万葉集の歌にはヤマトコトバが書いてある。歌は言葉でできている。
 言葉に対する考え方、接し方が、今日の文字を持った我々とは異なるのである。口伝えだけで伝えることをしていたヤマトコトバは、歌に発した言葉において、その時その場でそれ自体を定義(再定義)する試みを絶えず行っていた。そうすることでしか、言葉を確かならしめる手法がなかったからである。そうやって示した言葉は、循環論的な様相を示しながら、今日の人からすればかなり異質に輝いている。

 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも(巻8・1511)

 夕方になると、つまり、ちょっと暗くなることの謂いにふさわしいヲグラの山に、ふだんなら鳴く鹿は、今宵は鳴かないで寝たらしいよ、そう言えるのは、今宵のヨヒとは日のすっかり沈んだ夜のことだからである。ヨヒ(宵)がユフ(夕)と本当の意味で対立する概念としてあるのは、ヲグラ(小暗)どころではなくマクラ(真暗)な時のことだからである。なぜ対立する概念かというと、ヨヒ(宵)とユフ(夕)とは別の言葉だからで、二つが言葉として存在していて互いに関連するところが見出せないからである。そんなヨヒ(宵)がコヨヒ(今宵)訪れていて、ちょうど晦のマクラ(真暗)な夜を迎えているのである。夕方になって薄暗がりに鳴いていたり、臥していたりする姿がぼんやり見えていた鹿は、マクラ(真暗)ななか鳴いていないのは、マクラ(枕)を使って眠りについているにからに違いないではないか。それがマクラ(真暗、枕)という言葉の表れとして適切なことである。言葉と事柄とは同一のもの、それが正確な意味での言霊信仰と呼べるもののもとにあるものである。真っ暗ならたとえ何かの鳴き声がしていても、それがいかにも鹿の鳴き声のように聞こえたとしても、不確定性原理さながらに鹿かどうか確かめることはできなくて、鳴いていないのだ、寝てしまったのだ、と、マクラという言葉をすべての前提として通観していくことが、言葉と事柄とは同一のものであるという思想信条にあっては正しい言い方なのである。

 上代のヤマトコトバでは、枕詞のように過度といえるほど多重に意味を丸め込んで表す修辞が行われていた。枕詞が常用される土壌には、言葉を発する時に自己定義して確認しながら使う習慣があった。言葉と事柄とは同一のものであるということをモットーにすること、それが上代の人たちの“言霊信仰”であり、言葉づかいは自ずと“論理学的”になる。この丸め込み論法を駆使するのに巧みであった天皇としては、日本書紀の記述や万葉集の歌からすぐに察知できる。雄略天皇や皇極・斉明(重祚)天皇である。
 雄略天皇の発言に、「猟場にはたのしびは、膳夫かしはでをしてなますつくらしむ。みづから割らむに何与いかに」(雄略紀二年十月)と、人々の斜め上を行く問いかけが行われた。群臣はわからずに答えられないでいると、天皇は怒って御者を斬り殺してしまっている。御者がなますになっている。斉明天皇はすべてを言いくるめる遷都をしている。「冬十月の丁酉の朔己酉に、小墾田をはりだに、宮闕おほみやを造り起てて、瓦覆かはらぶき擬将せむとす。又深山ふかきやま広谷ひろきたににして、宮殿みやに造らむと、朽ちただれたる者多し。遂に止めて作らず。是の冬に、飛鳥板蓋宮あすかのいたぶきのみやひつけり。かれ飛鳥川原宮あすかのかはらのみやに遷りおはします。」(斉明紀元年)とある。瓦覆かはらぶきにしようとして確保した資材はダメになり、それは火災除けに効果があるのだが、火災に遭ったために川原かはら覆きで代用したというのである。火災のことは忌詞に「出火みづながれ」(斉明紀五年七月)と言うが、失策をすべて水に流している。二人の天皇に対する「百姓おほみたから」の評として、「有徳天皇おむおむしくましますすめらみことなり」(雄略紀四年二月)、「至徳天皇いきほひましますすめらみことなり」(皇極紀元年八月)とよく似た表現が行われている(注9)。曲げた解釈を平気でする権力者に対して、皮肉な持ち上げをしている。
 巻8・万1511番歌では「崗本天皇」、巻9・1664番歌では「泊瀬朝倉宮に天の下知らしめしし大泊瀬幼武天皇」と題詞は歌の作者を記している。伝承歌や仮託歌であろうといった議論については、本来求められなければならない課題に思い致す必要がある。万葉集に書きとめられる時に、歌の作者を「崗本天皇」や「泊瀬朝倉宮に天の下知らしめしし大泊瀬幼武天皇」と定めて是と受けとめられていたという点である。上代の人の間で、なるほどそれらの天皇が歌った歌であろうと納得されていたということである。その認識基盤についてこそ検討されなければならない。言葉の屁理屈丸め込み論法の人として名高ければ、いかにもさもありなんとして落ち着いていたということになる(注10)。「夕されば」歌に「崗本天皇」とあるのは、舒明天皇のことではなくて皇極・斉明女帝であったと考える。
 今日の言葉の利用法と上代の言葉の使用法には隔たりがある。異文化であることをまず理解することが求められている。その先に何が得られるか。コンピュータ言語のように記号化することに向かっている“我々”には実は得られるものはない。現代の“我々”とは別の文化が確かに存在し、それは“我々”の反転世界のようなものだから、同じ地平で“多様性”などという言い方をしても表せるものではない。AI(人工知能)が両論併記型に回答するのは、論理の組み立て方を違えているだけであって、論理の素となる言葉、文字言語自体を揺るがすことには与しない。識字を棄てて無文字になる勇気のない“我々”と同じことをしている。対して上代の人たちが使っていたヤマトコトバは、言葉自体への疑問をそのままぶつけて揺るがすことがくり返されていた。これまでの万葉集の鑑賞に「名歌」などと評されながら何一つ読めていないのは、上代の人の言葉づかいが本質的なところで現代の言語活動と掠っていないことを示唆している。

(注)
(注1)名歌であるとか、「鳴く鹿」は「臥す鹿」よりも良い、といった鑑賞レベルのことまで含めれば膨大な“研究”史を有している。それは“誤解”史なのでここでは触れない。
(注2)「夕されば」、「夕さらば」と訓まれている「暮去者」は、ひょっとすると「よひされば」、「よひさらば」と訓むかもしれないとする説が、山口2022.にある。
(注3)井手2006.参照。時間帯用語については、昼の時間帯と夜の時間帯とで分けていたとする大野晋説(大野1966.)が定着している。山口2022.は、「アサ(朝)─アシタ(朝)/ユフ(夕)─ユフヘ(夕)の関係は、〈昼を中心とした名称─夜を中心とした名称〉というような意味の違いと見るべきではなくて、〈非独立系─独立系〉という機能の対立と捉えるべきものである。」(53頁)としている。
(注4)ヲグラシを真っ暗な、の意と解する説もあるが、ぼんやりとは見えてそれが何かはわかるが、詳細は見分けることができないという意味と捉えたほうが接頭語ヲ(小)の義にかなう。
(注5)「秋七月に、天皇、皇后と高台たかどのしまして、避暑すずみたまふ。時に、毎夜よなよな菟餓野とがのより鹿聞ゆること有り。其の声、寥亮さやかにして悲し。共に可憐あはれとおもほすみこころを起したまふ。月尽つごもりいたりて、鹿の鳴きこえず。爰に天皇、皇后に語りて曰はく、「是夕こよひに当りて鹿鳴かず。其れ、何の由りてならむ」とのたまふ。」(仁徳紀三十八年七月)とある。話は鹿が鳴かなかったのは狩られたからで、苞苴(おほにへ)にして進上した佐伯部は所払いになっている。さらに、鹿の夢の話になり、「鳴く牡鹿しかなれや、夢相いめあはせのまにまに」という諺譚へと展開している。この仁徳紀の逸話と「夕されば」歌との共通点は、ふだんは鳴く鹿が鳴かない時があったというにすぎない。語り手が同じく天皇であるとするのは、考え方として間違いである。地位をして語らしめているのであれば、歴代の天皇に鹿鳴譚がなければならない。
 小島1953.に、「この天皇と鹿との話は三輪山伝説などに比して物の哀れを催させるものであり、トガ野の諺と同時に天皇にまつはる話も歌語として語られたものではあるまいか。しかしこの歌語りも大和へ入ると主人公を変へトガ野の鹿もヲグラ山の鹿となつてしまふのは一般の公式であつた……。その主人公は仁徳紀以後の記事を眺めるとわかる通り、最もふさはしい人はやはり雄略天皇に指を屈しなければなるまい(古事記でも同様)。」(52頁、漢字の旧字体は改めた)とある。空想にしたがう虚言、暴論である。
 ただし、「夕されば」歌に鹿が鳴かなかったのは、仁徳紀同様、「月尽」(晦)の日であった。結果的に合致している。
(注6)枕の語源説とマクラ(真暗)→マクラ(枕)の駄洒落とは無関係であるが、基礎的な語彙においてその語源をたどることは不可能である。
(注7)今日の出典論を重視した研究に、漢籍の重箱をつついたような指摘が行われることがある。しかし、勉強家諸氏が無教養な人とほとんど没交渉なことを思えば、万葉時代の“歌人”には勉強家が多かったかのように前提して中国風の知識をひけらかしていたなどと議論することはできないだろう。歌会は学会ではない。言葉遊びの歌や庶民の歌、東歌や防人歌を、「歌」として同列に採ることに憚るところがない点も説明できない。多くの人が聞いてわかるから需給が整って“歌”は存立していた。受験勉強でもしなければ覚えられないようなことを当時は共通認識にしていて、それをもとに歌が作られて宮廷を中心に男女問わず楽しまれていた、などといった頭でっかちなことはあり得ない。
(注8)影山2017.は、「現時点にあってもむろん右諸論[澤瀉1961.、稲岡1970.、伊藤1996b.、小島1953.]の提起が研究史上の意義を失うことはないが、その帰結にもはや追随するべき点はない。一首のほんとうの作者を突きとめようとしたり伝承の経路を「いろいろ」推理したりすることに今日的意義は存しない。「原作の單純素朴な姿」は論者の期待の投映にすぎないし、「も想像される」「と見ることもできる」といたずらに選択肢を追加しても混乱を深めるばかりだからだ。問いかけるべき課題は、ほとんど同一の歌を異なる天皇御製として掲げるそれぞれの巻の意志にある。天皇実作―あるいは仮託―を証明することは不可能であっても、ある天皇作歌を巻頭に据える意味であれば考究する余地が残されている。」(189頁)とする。影山氏は、巻八秋雑歌では秋の代表的景物として鹿をとり、巻九では山を象徴する動物として位置づけているとしている。引用文の前半部について同意見である。後半部の、万葉集のそれぞれの巻の編纂主旨として本当なのかについては触れない。歌そのものに迫らず、括弧に入れた形でエディターの意向を問うても無意味であろう。
(注9)「有徳天皇」(雄略紀)は、熱田本訓によれば、イキヲヒマシマススメラミコトである。
(注10)なぜそれを天皇のこととしているのかについては、人物像の確かな存在を説話が伝えるのはほとんどが天皇であり、為政者である天皇は言葉を詔ることを文字どおり事としていたからである。言った「こと」が実際の「こと」になるように仕向けるのである。とはいえ、筆者は、そこに「歌」のポリティクスといった説明を加えたりはしない。その言辞は、“天動説”的視座から発せられている。“くだらない”ことの本質に興味を持たずには古代の心性に近づくことはできない。

(引用・参考文献)
井手2006. 井手至「「ゆふへの逢ひ、今日のあした」─時間帯を表わす上代語「ゆふへ、よひ、あした」をめぐって─」神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第二十八集』塙書房、平成18年。
伊藤1996a. 伊藤博『萬葉集釈注 四』集英社、1996年。
伊藤1996b. 伊藤博『萬葉集釈注 五』集英社、1996年。
稲岡1970. 稲岡耕二「舒明天皇・斉明天皇 一」『国文学 解釈と鑑賞』第442号、至文堂、昭和45年11月。
大野1966. 大野晋『日本語の年輪』新潮社(新潮文庫)、昭和41年。
澤瀉1961. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第八』中央公論社、昭和36年。
影山2017. 影山尚之「萬葉集巻九雑歌冒頭部の意匠」『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。
金井2019. 金井清一「舒明・雄略御製「夕されば……」錯雑考」『古代抒情詩『万葉集』と令制下の歌人たち』笠間書院、令和元年。
小島1953. 小島憲之「「トガ野」の鹿と「ヲグラ山」の鹿」『萬葉』第9号、昭和28年10月。
小島1964. 小島憲之「口頭より記載へ」『上代日本文学と中国文学 中─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和39年。
清水1991. 清水靖彦『日本枕考』勁草書房、1991年。
曽倉2020. 曽倉岑「舒明天皇「夕されば」歌について」『萬葉記紀精論』花鳥社、2020年。
寺川2001. 寺川真知夫「仁徳紀聆鹿鳴伝承の意味」『文芸論叢』第56号、大谷大学文芸学会、平成13年3月。
中西1995. 中西進「雄略御製の伝誦」『中西進万葉論集 第一巻 万葉集の比較文学的研究(上)』講談社、1995年。
野口2019. 野口恵子「「夕されば 小倉の山に」歌について─「文字の歌」と「声の歌」の様相を考える─」『史聚』第52号、駒澤大学大学院史学会、2019年4月。
山口2022. 山口佳紀「ヨヒ(宵)考─上代語を中心に─」『萬葉』第233号、令和4年3月。
矢野1996. 矢野憲一『枕』法政大学出版局、1996年。
吉永1955. 吉永登「萬葉小倉山考」『萬葉 その異伝発生をめぐって』関西大学文学部国語国文学研究室、昭和30年。
吉村1981. 吉村誠「『万葉集』鹿鳴歌「今夜は鳴かずい寝にけらしも」の一解釈」『群馬県立女子大学国文学研究』創刊号、昭和56年3月。

※本稿は、2022年6月稿に対し、2024年1月、多少手を入れたものである。

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