古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集における「船装ひ」と「船飾り」について

2018年03月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集中に、「船飾ふなかざり」、「船装ふなよそひ」と関係する歌は、4首指摘されている。

 八十やそくには 難波なにはに集ひ 船飾り〔布奈可射里〕 がせむ日ろを 見も人もがも(万4329)
  右の一首は、足下郡あしがらのしものこほり上丁かみつよほろ丹比部国人たぢひべのくにひと
 難波津なにはつに 装ひ装ひて〔余曽比余曽比弖〕 今日けふの日や 出でてまからむ 見るははなしに(万4330)
  右の一首は、鎌倉郡の上丁丸子連多麻呂まろこのむらじおほまろ
  二月七日に、相模国さがむのくにの防人部領使ことりづかひかみ従五位下藤原朝臣宿奈麻呂すくなまろたてまつれる歌の数は八首。但し拙劣つたなき歌五首は取り載せず。
 押し照るや 難波の津ゆり 船装ひ〔布奈余曽比〕 あれは漕ぎぬと いもに告ぎこそ(万4365)
 (右の二首は、信太郡しだのこほりの物部道足みちたり
 津の国の 海のなぎさに 船装ひ〔布奈餘曽比〕 も時に あもが目もがも(万4383)
  右の一首は、塩屋郡の上丁丈部足人はせつかべのたりひと
  二月十四日に、下野国の防人部領使、正六位上田口朝臣大戸おほへたてまつれる歌の数十八首。但し拙劣つたなき歌は取り載せず。

 これらの歌は、「天平勝宝七歳乙未の二月に、相替りて筑紫につかはさえし諸国くにぐに防人さきもりの歌」という題詞のもとの一群にある。万4365・4383番歌も、それぞれ常陸国と下野国の防人部領使の「進歌」である。
 「船飾り」と「船装ひ」という語をめぐっては、これまでも議論されてきた。「船装ひ」を艤装のこととし、「船飾り」も同一のこととする説と、「船飾り」は大漁旗を掲げるような満船飾や、軍艦にフラッグをかかげるように満艦飾に飾ることとする説がある。上代に、「船飾り」の例は、万4329番歌に孤例である。したがって、それが艤装のことなのか、旗を掲げるようなことなのか、確かめようがないように一見思われる。瀧川1974.に、防人の用船にも律令に規定のように、旗幟を掲げることをしていたとの主張がある(注1)。その際に引かれる用例が万4330番歌で、「装ひ装ひて」と繰り返されているから、「艤装した上に更に旗幟を立てて船を飾ったからであると解すべき」(276頁)としている。万葉集中には、動詞が繰り返されている例に、「行き行きて」(万2395)、「有り有りて」(万3113)といった例がある。それらについて、徒歩で行き馬で行き船で行く、多重人格の人間としてある、などと解することはできない。「装ひ装ひて」は、順々に艤装を施していって出航の準備を整えていくことを言っている。そしてまた、万4365・4383番歌の「船装ひ」の歌は、出航のことしか触れられていないので、満艦飾を施していると考えるのはいささか飛躍に過ぎると考える。「装ひ装ひて」は単に艤装のことであろう。
 では、万4329番歌の「船飾り」は、艤装のことなのか、満艦飾のことなのか。中川2009.に、瀧川1974.説をとり、「艤装した上に更に旗幟を立てて船を飾った」ことをいうとしている。その際、日本書紀の「飾(餝)船」、「荘船」の例を引いている。

 六月の壬寅の朔丙辰に、客等まらうとたち難波津なにはのつに泊れり。是の日に、餝船かざりふね三十艘みそふねを以て、客等を江口えぐちに迎へて、にひしきむろつみ安置はべらしむ。(推古紀十六年六月)
 初め磐金いはかね、新羅にわたる日に、津にいたころに、荘船かざりぶね一艘ひとふな、海の浦に迎ふ。(推古紀三十一年十一月)

 そして、「迎船の儀式の際、船には鼓吹が備えられ音楽が演奏され、旗や幟が立てられ船をかざっていたようである。上陸してからの使節を迎えるかざり馬(かざり馬)も、金銅の金具で華麗に仕立てられた鞍などでかざられていたようで、かざることは自国の権威を示すと共に、相手国に対する敬意の表現でもあった。」(192頁)とある。迎船に旗や幟を立てて飾ることはそのとおりであろう。しかし、中国や朝鮮半島からのお客さんを迎えるための「餝船(荘船)」は、内港だけ航行するためのものであったと考えられる。中国や朝鮮半島からやってきた船が旗や幟を立てていたのか記述はなく、おそらく、そのようなことはしておらず、お客さんを迎える儀礼のために飾り立てた船のことを、カザリブネと称していたのであろう。そう定めてみると、万4329番歌の「船飾り」を「飾船(荘船)」と同等に扱うことはためらわれる。「船装ひ」の2例と同様、防人を筑紫へ運ぶ船のことである。防人は足軽兵士である。駐屯地へ行くだけで、大砲を積んだ戦艦を仕立てているわけではなく、護送船である。したがって、軍防令を援用して満艦飾を施しているとすることは当たらない。筆者は、多くの注釈書の示すように、「船飾り」とはもっぱら檝を整える艤装のことであると考える(注2)
 防人の乗る船の艤装においては、檝を整えることがなにより重要である(注3)。そう受け取られていたと考える理由は、万葉集の歌に見えるマカヂ(真(二)梶)、マカヂシジヌキ(真(二)檝(楫・梶)繁貫(抜))という表現にある。

 こしの海の 角鹿つのがの浜ゆ 大船おほふねに 真檝貫まかぢぬおろし〔真梶貫下〕 いさなとり ……(万366)
 大船に 真檝繁貫まかぢしじぬき〔真梶繁貫〕 大王おほきみの ……(万368)
 …… 敷栲しきたへの 枕もまかず 桜皮かには巻き 作れる舟に 真檝貫まかぢぬき〔真梶貫〕 が漕ぎ来れば ……(万942)
 朝凪あさなぎに 真檝まかぢでて〔真梶榜出而〕 ……(万1185)
 大船に 真檝繁貫まかぢしじぬき〔真梶繁貫〕 漕ぎなば ……(万1386)
 …… 難波潟なにはがた 三津みつの崎より 大船に 真檝繁貫まかぢしじぬき〔二梶繁貫〕 白波の ……(万1453)
 大船に 真檝繁貫まかぢしじぬき〔真檝繁抜〕 漕ぐほとも ……(万2494)
 をの取りて 丹生にふ檜山ひやまの 木折きこり来て いかだに作り 真檝貫まかぢぬき〔二梶貫〕 いそ漕ぎつつ 島づたひ ……(万3232)
 …… 大伴の 御津みつの浜辺ゆ 大舟に 真檝繁貫まかぢしじぬき〔真梶繁貫〕 朝凪に ……(万3333)
 大船に 真檝繁貫まかぢしじぬき〔麻可治之自奴伎〕 海原を ……(万3611)
 …… 御津の浜びに 大船に 真檝繁貫まかぢしじぬき〔真可治之自奴伎〕 韓国からくにに 渡りかむと ……(万3627)
 真檝貫まかぢぬき〔真可治奴伎〕 船し行かずは ……(万3630)
 大船に 真檝繁貫まかぢしじぬき〔真可治之自奴伎〕 時待つと ……(万3679)
 大船に 真檝繁貫まかぢしじぬき〔真梶繁貫〕 この吾子あこを 韓国へる ……(万4240)
左:船形埴輪(宮崎県西都市西都原古墳群出土、古墳時代、5世紀、東博展示品。舷側上の突起はオールの支点となるものである)、右:船形埴輪(松坂市宝塚1号墳出土、古墳時代、5世紀初頭、松坂市文化財センター展示品。オール受けの穴は進行方向を意識して開けられているという)
 「真檝繁貫き」とは、船の左右両舷に開けた穴に「檝」を据えつけることである。檝を漕いだ時、うまく水を掻くように貫かれていなければならない。今のオール受けの機能である。上の例に見られるように、「真檝」という語は圧倒的に「大船」を伴う。小船には1本だけともをつければいいように思われる。1棹の場合、それは「片檝」である。「真檝繁貫き」などとあれば、どうやら4本以上偶数本、たくさん檝がついているように思われる。防人を護送する船は大型船である。4本、6本、8本、……の檝を装着するための艤装は、案外骨の折れる作業であったろう。それを「船装ひ」とふつうは言うところ、万4329番歌では「船飾り」と洒落た言い方をしていたのではないかと考える。
 万4329番歌の歌意について、これまで深い読み方が行われていなかった。たくさんの国の人たちは、今や難波に集まって船を飾っている、そんな日の私を見る人がいて欲しい、といった願いが歌われているとされている(注4)。不思議な歌意であるが、疑問が呈されていない。万4383番歌では、艤装して出航する時に「あも」に会いたいと歌っている。ところが、万4329番歌では、船飾りをする日が来て誰でもいいから見る人がいて欲しいと言っている。仕事っぷりを見てもらいたがっている。歌の作者の足下郡上丁丹比部国人は、なぜそのような思いに至っているのか。それはつまり、彼は、艤装のことと思われる「船飾り」をさせてもらえないからである。その理由は彼の名前による。
左:葦柄(2018年3月)、右:マムシの遊泳(「釣りしてたらマムシに遭遇」(mo jima様、https://www.youtube.com/watch?v=Ji-X4H6KARs))
 彼の名は、「足下郡あしがらのしものこほりの上丁かみつよほろ丹比部たぢひべの国人くにひと」と断られている。アシガラと聞けば、葦柄のことであろうと感じられる(注5)。葦の柄のようなものが檝になるかといえば、縁起でもないのである。全然漕ぐことができず役に立たない。しかも、タヂヒとは、マムシのことである。「たぢひ水歯別命みずはわけのみこと」(仁徳記)は「多遅たぢひの瑞歯別みずはわけの天皇すめらみこと」(反正前紀)のことである。蛇のようにぐにゃぐにゃ曲がるようでは水を漕ぐときの抵抗力は得られない。そういう名を負った人については、艤装に加わらせることはできない。だから、「八十やそくに」の人はみな艤装に参加することはできても、彼だけは入れてもらえないのであって、いつまでたっても仕事っぷりを目にする人は現れないのである。だから、このような変な歌を歌ってもおもしろがられて採録されている。それほどに名が大事であったことは、「名にふ」(万35・480・1034・2418・2477・2497・3638・4466)、「名のみを名児なごやまと負ひて」(万963)、「おのが負へる己が名負ひて」(万4098)という言い方が頻出していることからもわかるし、何よりもその地が、「難波なには」であることから確かめられる。「八十国」の人々のそれぞれさまざまな「名には、に集ひ」て「船飾り」を許されている。けれども、アシガラ出身者にしてタヂヒなる名には、それは許されないことであったというのが落ちである。事ここに至って、「船飾り」は船の檝を装備する艤装のことであると検証される。旗や幟を立てる竿に、葦柄のような脆弱なものは務まらないとの考え方も可能ではあるが、タヂヒがマムシのことを指していて、マムシは蛇行して泳ぐことができる。当時の人はそれを身近に観察して知っていたであろう。そのような蛇行して航行する船を装備しているのではなく、直進する船にしたいから彼は参加させてもらえないのである。「船装ひ」と「船飾り」とは、名義抄に、「艤 音蟻、カサル、フナヨソヒ」とあり、言葉が混淆していたと考えるのが妥当であろう。万4329番歌に、外国からのお客さんのための迎船を拵えているのではなく、自分たちが九州へ乗って行く船を整備している。「八十国」の人たちは、いかにうまく漕げて安全に渡航できるかにのみ関心が向いており、一生懸命に艤装している。だからこそ、不吉な名前の人は除外しているのであって、旗や幟を立ててお祭り気分でいるわけではない。
 以上、万4329番歌「船飾り」は艤装のことであることを示した。ヤマトコトバで歌われた歌の歌詞の問題にすぎないのであり、所謂「法制史学者」に防人歌の本当の鑑賞は出来そうにない。

(注)
(注1)瀧川1974.に次のようにある。

 鼓吹は各軍団にも備えられていたのでありまして、軍防令には、
  凡軍団、各置皷二面、大角二口、少角四口。通用兵士。分番教習。
とあります。この鼓は軍鼓即ち陣太鼓でありまして、楽鼓のツヅミではありません。大角というのは、今も山伏が吹き鳴らす法螺貝のことであります。防人の交替即ち番代は、征討軍士の発遣に准ぜられていますから、その難波出発に当って、勇壮なる軍楽が奏せられたことは、言うまでもありません。防人らを乗せ畢った主船司の官船は、鼓吹司吹部の号令によって打ち鳴らす太鼓の音によって、一斉に八十楫を貫いて沖へ漕ぎ出したと思います。相模の国の防人が詠んだ、
  難波津によそひよそひて今日の日や出でてまからむ見る母なしに(四三三〇)
という歌の「よそひよそひて」を、[これまで]すべての万葉註釈家は、単に船を艤装することと解していますが、「よそひ」を重ねているのは、動作の継続を意味するに非ずして、艤装した上に更に旗幟を立てて船を飾ったからであると解すべきであります。その一つ前の歌には、
  八十国は難波に集ひ船かざり我がせむ日ろを見る人もがな(四三二九)
とあって、「船かざり」の語も見えています。船飾りと船装いとは、少し意味が違うと思います。
 養老の職員令には、
  鼓吹司
  正一人。掌調習鼓吹。佑一人。大令史一人。少令史一人。吹部卅人。使部十人。直丁一人。鼓吹戸。
とありますが、この吹部は、後に大角長上、鉦鼓長上と呼ばれた軍楽隊の楽長でありまして、鼓吹を奏する吹人は、鼓吹戸の人々が上番します。鼓吹戸は、職員令集解の古記、令釈引くところの別記によりますと、二百十八戸ありますから、吹人の数は相当多かったと、思います。防人の難波発遣に際しては、鼓吹司の官人一人、吹部両三人、吹人十数人ぐらいが、難波に派遣されたと思います。彼等も、兵部省難波支庁若しくはその近所に宿泊していたでありましょう。……防人の難波発遣は当代の盛儀の一つであり、その船出の情景は、都人の見物に値する壮観であったと思うのであります。物見高いは都の常と申しますが、千二百年前の難波京の都人も、その例外ではなく、浜には群衆が堵列して防人の出船を見まもっていたと思います。その群衆の眼の中に、母の眼が無いことが、防人らにとって一入さびしく、悲しかったのであります。
 津の国の海のなぎさに船よそひも時にあもが目もがも(四三八三)
という歌は、この情景を想像してこそ、初めて実感をもって我々に迫るものがあるのでありまして、当代の軍事制度に暗い所謂「万葉学者」に防人歌の本当の鑑賞は出来ないと思うのであります。(296~297頁、改行、字間は適宜改めた)

(注2)和名抄に以下のような語釈が載るものの、上代語にカヂ(檝・楫)は、水を掻いて船を進める道具を言い、後にかいかじなどと分別されるものの総称とされている。

 棹 釈名に云はく、旁に在りて水を撥ぬるを櫂〈直教反、字は亦、棹に作る。楊氏漢語抄に加伊かいと云ふ〉と曰ひ、水中に櫂し、また櫂を進むなりといふ。
 檝 釈名に云はく、檝〈音は接、一音に集、賀遅かぢ〉舟を捷疾せしむるなりといふ。兼名苑に云はく、檝は一名に橈〈奴効反、一音に饒〉といふ。
 㰏 唐韻に云はく、㰏〈音は高、字は亦、篙に作る、佐乎さを〉は棹竿なりといふ。方言に云はく、船を刺す竹なりといふ。
 艣 唐韻に云はく、艣〈郎古反、魯と同じ〉は船を進むる所以なりといふ。
 舵 唐韻に云はく、舵〈徒可反、上声の重、字は亦、䑨に作る〉は船を正す木なりといふ。漢語抄に柁〈船尾なり、或に柂に作る、和語に太以たいと云ふ。今案ふるに舟人の挟杪を呼びて舵師と為すは是れ〉と云ふ。

 いま櫂と称されるのはカヌーに見られる paddock、ボートに見られる oar であるが、ほかに艪、棹なども手を使う船の推進具である。マカヂシジヌキ(真檝繁貫)と歌われているものを字義通りに解釈するなら、ボート競技のエイトのようなことと捉えるのが妥当であろう。マカヂは左右揃った a pair of oars ということになる。なお、ひと口に艪と言っても、漕ぎ方に物理的な違いがあるとも指摘されている。大野2008.参照。
(注3)艤装には、帆や碇などの調節も必須であるが、凪や時化しけに対して対処するには漕ぐしかない。また、岩礁などがあって危険を伴う沿岸部の航行には、帆を下して漕いだものと思われる。したがって、航海に際して「よほろ」がいちばん重視したのは、己が漕ぐ檝であったと思われる。和名抄に、「艤 唐韻に云はく、艤〈魚綺反、不奈与曽比ふなよそひ〉は舟を整へ岸に向ふなりといふ。」とある。「向岸」は着岸といった意味のようである。着岸時に帆は使わない。檝(楫)や櫂の類、艪(櫓)の類、棹(㰏)の類を用いた。拙稿「古事記の大山守命の反乱譚の「具餝船檝者」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2dfd56d09d6d3ee3fc2c8048fce5863e参照。
艪を横たえ棹を使う釣船屋と棹一筋の筏師(「江戸名所隅田川はな盛」歌川広重(1797~1858)筆、横大判錦絵、江戸時代、19世紀、高橋寧氏寄贈、東博展示品。さで網を使う漁師の移動手段は不明)
(注4)近年の訳注書でも、例えば、多田2010.に、「多くの国の防人たちは難波に集結して、船飾りをしている。その船飾りを私がする日を見送ってくれる人がいてほしい。」(250頁)、稲岡2015.に、「多くの国々の防人がこの難波に集まって、出帆の船飾りを私がするのを、見る人がいるといいなあ。」(467頁)などとある。
(注5)相模国の地名「足柄」は、万葉集にアシガラ、アシガリと出てくる。万3367番歌には、「足柄小舟あしがらをぶね」とある。拙稿「万葉集における「足柄」の船表現について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f9d5d1611624456a01a254efedeae5b0参照。

(引用・参考文献)
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(四)』明治書院、平成27年。
大野2008. 大野恵三「中世絵画資料に見る艪・楫操作の技法」『民具研究』第138号、日本民具学会、2008年9月。
瀧川1974. 瀧川政次郎『万葉律令考』東京堂出版、昭和49年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解7』筑摩書房、2010年。
中川2009. 中川ゆかり『上代散文─その表現の試み─』塙書房、2009年。

(English Summary)
About "funakazari" at Manyoshu №4329 song.
In this paper, I think about the meaning of "Funakazari" at Manyoshu №4329 song. Until today, there were two theories. One was to equip oars, sail and anchor, and the other was to decorate a ship with various flags. Considering the author's name "Ashigara ……", "Tadifi ……", we would discover that "funakazari" means properly equipping several oars fitting to the ship.

※本稿は、2018年3月稿を2023年8月にルビ化したものである。

この記事についてブログを書く
« 万葉集における「足柄」の船... | トップ | 玉依毘売(玉依姫)に託され... »