古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

玉依毘売(玉依姫)に託された歌と歌問答について

2018年04月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 拙稿「海神の宮門の設定について」、「ソラツヒコ(虚空津日高、虚空彦)としての彦火火出見尊(火照命)の役割」、「鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について」により、記紀の海宮遊幸章について考究を進めてきた。その最後の部分が、鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)(うかやふきあはせずのみこと)の話である。母親の豊玉毘売(豊玉姫)(とよたまびめ)は養育せず、その妹の玉依毘売(玉依姫)(たまよりびめ)を送って乳母にしている。その際、歌を附けて送り、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)側もそれに応えて、関係性が確かめられた伝が載る。この点は、他の諸伝と見比べながら説話として措定されるべきである。本稿では、歌謡を交わしている伝からその歌謡の意味を考え、他の伝にも相通じるものか検証することとする。記紀で、「玉」の歌謡問答が記されるのは、記と紀一書第三である。

 然くして後は、其の伺ひし情(こころ)を恨むれども、恋ふる心に忍(た)へずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)玉依毘売に附けて、歌を献りき。其の歌に曰く、
  赤玉は 緒さへ光れど 白玉(しらたま)の 君が装(よそ)ひし 貴(たふと)くありけり(記7)
爾に其の比古遅(ひこぢ)〈三字は音を以てす〉、答ふる歌に曰く、
  沖つ島 鴨着く島に 我が率寝(ゐね)し 妹は忘れじ 世の尽(ことごと)に(記8)(記上)
 言(まを)し訖りて、乃ち海(わた)を渉(わた)りて俓に去ぬ。時に、彦火火出見尊、乃ち歌(うたよみ)して曰はく、
  沖つ鳥 鴨着く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世の尽も(紀5)
亦云はく、彦火火出見尊、婦人(をみな)を取りて乳母(ちおも)・湯母(ゆおも)・及び飯嚼(いひかみ)・湯坐(ゆゑびと)としたまふ。凡(すべ)て諸部(もろとものを)備行(そなは)りて、養(ひた)し奉る。時に、権(かり)に他婦(あたしをみな)を用(と)りて、乳(ち)を以て皇子を養す。此、世(よのなか)に乳母を取りて、児を養す縁(ことのもと)なり。是の後に、豊玉姫、其の児の端正(きらぎら)しきことを聞きて、心に甚だ憐び重(あが)めて、復(また)帰りて養さむと欲(おもほ)す。義(ことわり)に於きて可からず。故、女弟(いろど)玉依姫を遣(まだ)して、来して養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌(かへしうた)奉(たてまつ)りて曰さく、
  赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装ひし 貴くありけり(紀6)
凡て此の贈答二首(ふたうた)、号けて挙歌(あげうた)と曰ふ。(神代紀第十段一書第三)

 記紀で歌の問答に違いがあることが指摘されている。第一に、歌われる順序が違う。記では、豊玉毘売側が先に歌い、それに応じて彦穂穂出見命(火照命)が歌うが、紀では逆に彦火火出見尊が先、豊玉姫が後に歌っている。また、紀では歌が歌われてから状況説明があり、その後で歌が返されている。また、第二に、豊玉毘売(豊玉姫)側からの歌の文句が少し異なる。同じく「赤玉」で始まるが、第二・三句が違っている。その結果、歌中にある「君」を誰と捉えるべきかという問題が起こり、一説に、紀の「君」は鸕鷀草葺不合尊ではないかとされている(注1)。けれども、記で「献歌曰」、「答歌曰」とあったのが、紀で「歌之曰」、「奉報歌」とあるので、やはり2つの歌は応酬されたものである。その際、別の人へ歌を返すというのは、歌に“相続”があったことになる。そういった例がないわけではないが、どちらかわからないような設定を説明抜きに行うことは考えにくい。歌われる順序は逆であるが、「赤玉……」の2つの歌に、記紀間で意味に大きな差はないとまず考えてみるのが本道であろう。後に詳しく述べる。
 話は、豊玉毘売(豊玉姫)が子を産むに際して、鵜の羽で屋根を葺いていて葺き終らぬうちに陣痛が来て、産屋に入って鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)を産んだのち、姿を見られたことを恥として、海へ帰っていくが、代わりに妹の玉依毘売(玉依姫)を寄こして養育させたという展開になっている。名前に「玉」と連続し、また、歌謡にも「玉」が出てくる。玉に曰く因縁がありそうである。見られて辱めを受けたとする出産シーンについては、さまざまに記されている。

 八尋和邇(やひろわに)と化(な)りて匍匐(はらば)ひ委蛇(もごよ)ふ。(記)
 豊玉姫、方(みざかり)に産(こう)むときに龍(たつ)に化為(な)りぬ。(紀本文)
 豊玉姫、八尋の大熊鰐(わに)に化為(な)りて、匍匐(は)ひ逶虵(もごよ)ふ。(神代紀第十段一書第一)
 則ち八尋大鰐に化為りぬ。(神代紀第十段一書第三)

 ワニかタツか知れないが、いかつい海中生物であると想定されているようである。産みの苦しみ的な描写は、「匍匐委蛇」(記)、「匍匐逶虵」(紀一書第一)とあり、ワニ、カメ、ヘビ、トカゲのような爬虫類かサンショウウオのような両生類的な動きが示されている。そして、豊玉毘売(豊玉姫)が産んでいるのは、明記されているわけではないものの、歌謡にある「赤玉」ないし「白玉」をイメージさせるので、卵生であるかのようである。そして、玉依毘売(玉依姫)が遣わされている。
 玉依毘売に歌を附けてもたらした次第について、古事記には、「因養其御子之縁、附其弟玉依毘売而、献歌之。」とだけ記されている。小学館の新編日本古典文学全集古事記の頭注には、「子の養育というかかわりに託して、の意だが、玉依毘売をめぐる、そのいきさつは書かれていない。養育のために玉依毘売を海神の国から送ったのであり、その際にことづけたということか。」(136頁)と疑問視されている。
 歌をことづけている。歌は、「赤玉は …… 白玉の ……」という歌である。この玉の歌をことづけた当人は豊玉毘売、ことづけられて伝えた人は玉依毘売である。玉に因って伝えているのだから、「玉依毘売」という名が定められて表面的に正しいといえる。歌の内容は、「白玉の 君が装(よそ)ひし 貴(たふと)くありけり」が主眼である。「赤玉は 緒さへ光れど」はそれを導くための序詞風の語り口である(注2
。したがって、歌の眼目は、白玉のようなあなた様の装ったお姿はそれ以上に貴くありました、という意と解されている。「白玉の君が装ひし貴くありけり」の「白玉の」のノは連体助詞、「装ひ」は名詞、下接のシは助詞、「けり」は“気づき”の意の助動詞である。
 似た構造の歌の例をあげる。

 赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり(記7)
 赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装ひし 貴くありけり(紀6)
 咲く花は 移ろふ時あり あしひきの 山菅の根し 長くはありけり(万4484)

 万4484番歌に、上2句で歌われた内容に反する形で、下の句で高評価を与える言い方が行われている。咲く花はきれいだけれども時間の流れによってすぐに枯れてしまうもので、反対に山の菅の根っこなどは見てもきれいではないけれど蔓延っていて時間的にも永続するものだと気づきました、という言い分である(注3)
記7番歌謡、紀6番歌謡も、下の句に助詞シが用いられている。赤玉は通した紐さえ光っていたり、また、人は光っていると言うけれど、それよりもあなた様の装おいが貴くあると気づきました、という言い方である。
 学校文法で強意を示すとされる助詞シについては、扱いがむずかしい。大野1993.に、係助詞のコソに一対の「順接の条件句を導くことを役割とする助詞だろうと推測される。」(165頁)とする。田中2004.に、「「格を明示するための助詞」とするのがよい。」(116頁)、小田2015.に、「とりたて」の「副助詞」としてあげられている。佐佐木2009.では、「「シの下は自然的成行き、発生、推量などを表現」するものになる、と大野の論[1993.]では見ている。」(12頁)と読んでいる。そして、「大野の視点……[はシの下の]述語に置かれている」のであり、「「…し」に応じる動詞は「心情を表わす」ものでなければならない、という強固な思い込み」(29頁)を生み、他の用法を顧みていないと批判し、構文論的な視点から続紀の宣命例を中心に検証されている(注4)
 上の3例とも、最後のケリは気づきの意味である。小田2015.に、助動詞ケリの意味に、テンス的意味と、認識的意味を分け、「テンス的意味として、①「継承相」(過去に起こって現在まで持続している、または結果の及んでいる事態を表す)と、②「伝承相」(発話者がその事態の真実性に関与していない過去の事態を表す)を、認識的意味として、③「確認相」(気づかなかった事態に気づいたという認識の獲得を表す)」とする。「確認相」のことは「気づき」とも呼ばれている。意外なことを驚きをもって受け止める際にも用いられている。そうは思っていなかったことを、そうなのだと気づいたということであり、再認識することを言っている。上の例で言えば、「山菅の根」などというものを何もわざわざとりたてることはなかったのであるが、それをとりたててみると、長いかと言えば長くあったと気づいたと言っている。同様に考えると、記紀の歌謡の「君が装ひし貴くありけり」は、あなた様の装いなどをとりたててみることもないのであるけれど、とりたててみると、貴くあると気づきました、と言っている。最初から装いについて貴いとわかっていたわけではない。この点は重要である。
 井戸のところで火遠理命を発見する際、次のように記されていた。

 仰ぎ見れば、麗しき壮夫(をとこ)有り。……「……甚(いと)麗しき壮夫ぞ。我が王に益して甚貴し。……」といふ。……「吾が門に麗しき人有り」といふ。(記上)
 容貌(かほ)世に絶(すぐ)れたり。……「……一(ひとり)の貴客(よきまらうと)有(ま)す。骨法(かたち)常(ただひと)に非ず。……実(まこと)に是妙美(まぐは)し。……一(ひとはしら)の麗(かほよ)き神有(ま)して、杜樹(かつらのき)に倚(よりた)てり。(神代紀第十段一書第一)
 「……顔色(かほ)甚(はなはだ)美(よ)く、容貌(かたち)且(また)閑(みや)びたり。殆(ほとほと)に常之人(ただひと)に非ず」といふ。(神代紀第十段一書第二)
 「吾(やつかれ)、我が王を独り能く絶麗(すぐれてかほよ)くましますと謂(おも)ひき。今一の客(まらうと)有り。彌復遠(おほく)勝(まさ)れり」といふ。(神代紀第十段一書第四)

 注意は実は「装ひ」に向いていない。全体的な印象が「麗し」く、「容貌(かほ)」、「骨法(かたち)」が素晴らしいと言い、また、「麗(かほよ)き」とも訓んでいる。顔のことばかり気にしている。「装ひ」については記されておらず、ましてそれが貴いとは触れられていない。そんななか、歌において、「装ひ」が「貴くありけり」と言っている。別れの時の歌において、貴いと気づいたと言っている。道理にかなった正しい物言いである。では、彼の「装ひ」は、これまでどのように表わされていたのであろうか。基本的に記述はなく、束帯なのか、貫頭衣なのかすらわからない。いましばらく海宮遊幸章全体を遡ってみると、彦火火出見尊の「装ひ」の表現は一つだけあることを思い出す。無目堅間(無目籠)(まなしかたま)(無間勝間(まなしかつま))である。

 即ち無間勝間(まなしかつま)の小船(をぶね)を造り、其の船に載せて、……(記上)
 ……乃ち無目籠(まなしかたま)を作りて、彦火火出見尊を籠(かたま)の中(なか)に内(い)れて、海に沈む。……是に、籠を棄てて遊行(い)でます。(神代紀第十段本文)
 因りて其の竹を取りて、大目麁籠(おほまあらこ)を作りて、火火出見尊を籠の中に内れまつりて、海に投(い)る。一に云はく、無目堅間(まなしかたま)を以て浮木(うけき)に為(つく)りて、細縄(ほそなは)を以て火火出見尊を繫(ゆ)ひ著(つ)けまつりて沈む。所謂(いはゆる)堅間(かたま)は、是今の竹の籠(こ)なりといふ。(神代紀第十段一書第一)
 ……乃ち無目堅間(まなしかたま)の小船(をぶね)を作りて、火火出見尊を載せまつりて、海の中に推し放つ。(神代紀第十段一書第三)
 
 鉤を失くして海辺で途方に暮れていた時、塩椎神(塩土老翁)に教えてもらって無目堅間の籠の船をこしらえてもらい、それに乗って海神の宮を訪れている。「装ひ」は、動詞「装ふ」の連用形名詞で、①衣服、装束、整った服装のこと、②飾り、装飾のこと、③準備をすること、支度、の意である。もとの動詞「装ふ」は、①服装、用具などを整え身に着ける、身支度を整えること、②飾り整えることで、装飾を施すことや殿舎や座席を設営し、しつらえること、③船や車などが出発できるように飾り整えること、の意がある。最後の船の「装ひ」こそ、今、顧みられているものである。船の「装ひ」については、特に「船装(ふなよそ)ひ」という語も用いられている。

 時に、味耜高彦根神(あぢすきたかひこねのかみ)、光儀(よそひ)華艶(うるは)しくして、二丘(ふたを)二谷(ふたたに)の間に映(てりわた)る。(神代紀第九段一書第一)
 則ち皇后(きさき)、男(ますらを)の装束(よそひ)して新羅を征(う)ちたまふ。(神功前紀仲哀九年十二月一云)
 …… 白栲(しろたへ)に 舎人装ひて 和豆香山(わづかやま) 御輿(みこし)立たして ……(万475)
 其の装束(よそひ)、菟田(うだ)の猟(かり)の如し。(推古紀二十年五月)
 時に密(しのび)に舎人を遣はして装飾(よそひ)を視察(み)しむ。(雄略紀十四年四月)
 僕(あ)は降りむ装束(よそひ)しつる間に、子生(あ)れ出でぬ。(記上)
 水鳥の 立たむよそひに 妹のらに もの言はず来(き)にて 思ひかねつも(万3528)
 ぬばたまの 黒き御衣(みけし)を まつぶさに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 羽叩(はたた)ぎも ……(記4)
 君無くは なぞ身装餝(よそ)はむ 匣(くしげ)なる 黄楊(つげ)の小梳(をぐし)も 取らむと思はず(万1777)
 仏・菩薩の像(みかた)と四天王の像とを厳(よそ)ひて、衆(もろもろ)の僧(ほふし)を屈(ゐや)び請(ま)せて、……(皇極紀元年七月)
 山吹の 立ち儀(よそ)ひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく(万158)
 …… 皇子の御門(みかど)を 神宮(かむみや)に 装ひまつりて 使はしし ……(万199)
 年に装ふ 吾が舟漕がむ 天の河 風は吹くとも 浪立つなゆめ(万2058)
 難波津に 装ひ装ひて 今日の日や 出でて罷らむ 見る母なしに(万4330)
 押し照るや 難波の津ゆり 船装ひ 吾は漕ぎぬと 妹に告ぎこそ(万4365)
 …… そほ船の 艫(とも)にも舳(へ)にも 船装ひ 真梶(まかぢ)繁(しじ)貫き ……(万2089)
 津の国の 海の渚に 船装ひ 立(た)し出(で)も時に 母(あも)が目もがも(万4283)

 記7・紀6番歌謡に見られる「装ひ」を、彦火火出見尊のこととする限り、話の前段に無目堅間のことのみ該当する。いやむしろ、無目堅間のことを示したいから、ここで再び「装ひ」という語を示しているのであろう。無目堅間など、思い出さなくてもいいような代物であるが、そんなものなども貴くあったことが今になって気づいたと語っている。助詞シの“とりたて”の用法、助動詞ケリの“気づき”の用法とも、まことに適合した使い方になっている。
 拙稿「無目堅間(まなしかたま)とは」に述べたとおり、無目堅間とは、マナ(愛)+シカ(鹿)+タマ(玉)の洒落を以て成立する造語と考えられる。音義は、愛玩するにいとおしいほどの素敵なデザインの着物の、鹿の子絞りの施されたものである。鹿の子絞りは、絞り染めの文様である。鹿の子のことは、和名抄に、「麑 〈音迷、字亦麛に作る。加呉(かこ)〉」とあり、カコは水手(水夫)(かこ、コは甲類)と同音である。和名抄に、「水手 日本紀私記に云はく、水手〈加古(かこ)、今案ずるに加古(かこ)は鹿子の義、本書の注に見ゆ〉といふ。」とある。マナシカタマなる語の創案によって、カコ(コは甲類)は、鹿の子であり、水夫であり、籠であると定められて悟られる。そんな無間勝間(無目籠、無目堅間)は小船に設えられている。すなわち、動詞「装ふ」ことがなされている。船として出航できるように準備されるとともに、鹿の子絞りなのだからお洒落な装束であるという落ちが付いている。
鹿の子模様
 鹿の子絞りの染め物は、括った部分が着色しない。白く玉模様に残っている。「白玉」の謂いである。記7番歌謡に、「赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり」とある「白玉」は、鹿の子模様のことをいうカコであり、無目堅間の船装いのことを言っている。では、「赤玉」は何か。第一に、「白玉」を導くための序詞風の言い回しとして言い放たれているのであろう。今日のように、お正月に紅白の蒲鉾を食べるような観念は上代に存しない。第二に、アカダマという音の響きは、マナシカタマを思い起こさせる仕掛けとなっている(注5)。アカダマがアカ(明・開)+カタマ(堅間)の捩りとして機能して、反対の目の開いていないカタマ(堅間)こそが船として設えられていると考えられるからである。紀6番歌謡に、「赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装ひし 貴くありけり」とあって、「白玉」が登場していないが、「君が装ひ」として考えられるものは船装いしかないのだから、明らかなことは言わない方が頓智の問い掛けとして奥深い。あるいは、アカダマを間の開いた堅間のことを言っているとするなら、光が隙間を通って透過すると言っていることになる。ランプシェードの謂いに当たるものと言えば、篝火の籠のことが思われる(注6)
 今になって豊玉毘売(豊玉姫)は無目堅間のことを思い出している。それを「白玉」と言っているからには、やはり、真珠のことが思念されていると考えられる。和名抄に、「珠 白虎通に云はく、海に明珠〈日本紀私記に、真珠は之良太麻(しらたま)と云ふ。〉出づといふ。」とある。真珠の逸話は允恭紀にある。狩りをしに淡路島へ行った折、不猟だったの理由を探ると島の神さまの祟りということで、赤石(明石)の海底の真珠を捧げるようにと言われ、海人がたくさん出て探し、とても深いところへ一人の海人が潜って鰒を取ってきて、中から真珠を取り出したが、海人は息絶えたため手厚く墓を作って葬ったという話である。

 然れども終日(ひねもす)に、一の獣をだに獲たまはず。是に猟(かり)止(や)めて更に卜ふ。嶋の神、祟りて曰はく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石(あかし)の海の底に真珠(しらたま)有り。其の珠を我に祠らば、悉(ふつく)に獣を得しめむ」とのたまふ。爰に更に処処の白水郎(あま)を集へて、赤石の海の底を探(かづ)かしむ。海深くして底に至ること能はず。唯し一の海人(あま)有り。男狭磯(をさし)と曰ふ。是、阿波国の長邑(ながのむら)の人なり。諸の白水郎に勝れたり。是、腰に縄を繋(つ)けて海の底に入る。差(やや)須臾(しばらく)ありて出でて曰さく、「海の底に大蝮(おほあはび)有り。其の処光(て)れり」とまをす。諸人(もろひと)、皆曰く、「嶋の神の請(こは)する珠、殆(ほとほど)に是の蝮の腹に有るか」といふ。亦入りて探く。爰に男狭磯、大蝮を抱きて泛(うか)び出でたり。乃ち息絶えて、浪の上に死(みまか)りぬ。既にして縄を下(おろ)して海の深さを測るに、六十尋(むそひろ)なり。則ち蝮を割(さ)く。実(まこと)に真珠、腹の中に有り。其の大きさ桃の子(み)の如し。乃ち嶋の神を祀りて猟したまふ。多(さは)に獣を獲たまひつ。唯、男狭磯が海に入りて死りしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚く葬(はぶ)りぬ。其の墓、猶今まで存(うせず)。(允恭紀十四年九月)

 近代に産業化された日本の養殖真珠では、アコヤガイを母貝にして行われることが多く、生産量も多い。天然に真珠を作る貝としては、他に、アワビやシロチョウガイ、クロチョウガイ、ハマグリ、イチョウガイなどがあり、大きさや色や輝きはさまざまである。万葉集にも登場する鰒玉(あわびだま)のことを本真珠と呼び、最も貴重なものと捉えていたようである。アワビは岩肌に棲息し、それを採るために海人(あま)は潜水漁をする(注7)。豊玉毘売は海神の娘である。海の底に宮があってそこで暮らしているかのように描かれていた。昨今は月や火星へ移住する計画があるが、海底で暮らすことを夢見ても、空間を確保したうえで行われている。潜水艇、潜水艦、潜水服を着用してのことである。それらがない場合、素潜りで息が続く時間内にのみ、海のなかで“暮らす”ことができる。いま、その素潜りが語られている。海中の玉を採るために海人は海に潜る。潜りながらあちこち捜し回る。その姿態は、「匍匐委蛇(匍匐逶虵)」と形容してぴったりである。
海女の「匍匐逶虵」(三重県無形民俗文化財「海女習俗」三重県HPhttps://www.pref.mie.lg.jp/common/04/000063473.htm)

 琴頭(ことがみ)に 来居る影姫 玉ならば 吾(あ)が欲(ほ)る玉の 鰒(あはび)白玉(紀92)
 白珠は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 吾し知られば 知らずともよし(万1018)
 礒(いそ)の上に 爪木(つまき)折り焚き 汝(な)が為と 吾が潜(かづ)き来(こ)し 沖つ白玉(万1203)
 海神(わたつみ)の 手に纏(ま)き持てる 玉ゆゑに 磯の浦廻(うらみ)に 潜きするかも(万1301)
 潜きする 海人(あま)は告(の)るとも 海神の 心し得ずは 見ゆと云はなくに(万1303)
 伊勢の海の 白水郎(あま)の島津が 鰒玉(あはびたま) 取りて後もか 恋の繁けむ(万1322)
 紀の国の 浜に寄るとふ 鰒珠 拾(ひり)はむと云ひて 妹の山 ……(万3318)
 帰るさに 妹に見せむに わたつみの 沖つ白玉 拾ひて行かな(万3614)
 珠洲(すす)の海人の 沖つ御神(みかみ)に い渡りて 潜き採るといふ 鰒玉 五百箇(いほち)もがも ……(万4101)
 白玉を 包みて遣らば 菖蒲(あやめぐさ) 花橘に 合へも貫くがね(万4102)
 吾妹子が 心慰(なぐさ)に 遣らむため 沖つ島なる 白玉もがも(万4104)
 …… 奈呉(なご)の海人の 潜き取るとふ 真珠(しらたま)の 見が欲し御面(みおもわ) ……(万4169)

 歌に「玉」、「白玉」と歌われるときには、「海人(白水郎)」、「潜(かづ)く」、「沖つ島」などという語とともに用いられることが多い。万1008番歌に「知ら」という語が多用されているのは、「白玉」のシラにかけた例である。ジュエリーとして真珠が美しいと尊ばれたことから、「白玉」という語は、大事なものの比喩や、意中の相手のことを表す語へと展開した。
 鵜葺草葺不合命を養(ひた)すために玉依毘売は派遣されている。「養す」は、「日足」(垂仁記)という仮名書きから、ヒタスと清音であった。ヒタスと同音に、水に浸ける意味の「浸(ひた)す」がある。同じ意味で、「浸(澇)(こ)む」とも言う。コは甲類で、「子産(こ)む」と同音である。そして、水に浸かった田のことは、「なづき田」(景行記)、「なづきの田」(記34)と呼ばれていた。深田、泥田、湿田のことである(注8)。身体のなかでそれによく似た色彩、形状の場所は、脳である。古語に、「脳(なづき)」である。頭からすっぽり水に浸ることは、海人が鰒を採るために潜ることであり、古語に、「潜(かづ)く」である。四段活用の自動詞「潜(かづ)く」は、水中に潜ること、潜って魚貝をとることを言い、下二段活用の他動詞「潜(かづ)く」は、水に潜らせる、水に漬けることを言い、特に鵜飼をすることを指すことが多い。海女のことを「潜(かづ)き女」と呼び、また、頭に被り物を被ることも「被(かづ)く」といって脳を覆うことに当たる。いま、鵜葺草葺不合尊のことを話している。屋根の天辺をいかに葺き被くかが問われていた(注9)
「なづき田」(芦沼での困難な農作業、新潟県HP「水郷亀田郷のあゆみ~泥田農業からの脱出~」https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/niigata_norin/1356886907084.html)

 凡(すべ)て諸部(もろとものを)備行(そなは)りて、養(ひた)し奉る。時に、権(かり)に他婦(あたしをみな)を用(と)りて、乳(ち)を以て皇子を養す。此、世(よのなか)に乳母を取りて、児(こ)を養す縁(ことのもと)なり。(神代紀第十段第三)
 何(いか)に為(し)てか日足(ひた)し奉らむ(垂仁記)
 漚 於候一候二反、又平、漬也、漸也、浮也、漬也、奈津久(なづく)、又比太須(ひたす)、又水尓豆久(水につく)、又宇留保須(うるほす)也(新撰字鏡)
 其の用(つか)ふこと、即ち熱(あつ)き月に当りて、水酒に漬(ひた)して用ふ。(仁徳紀六十二年是歳)
 此の田は、天旱(ひでり)するにに漑(みづまか)せ難く、水潦(いさらみづ)するに浸(こ)み易し。(安閑紀元年七月)
 渋谿(しぶたに)の 二上山に 鷲そ子産(こ)むと云ふ 翳(さしは)にも 君がみために 鷲そ子産と云ふ(万3882)
 汝(な)が御子や 遂に知らむと 雁は子産むらし(記73)
 …… 秋津島 倭の国に 雁子産むと 我は聞かず(紀63)
 なづきの田の 稲幹(いながら)に 稲幹に 這ひ廻(もとほ)ろふ 野老蔓(ところづら)(記34)
 天孫、就(ゆ)きて問ひて曰はく、「児(みこ)の名(みな)を何(いか)に称(なづ)けば可(よ)けむ」といふ。対へて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号(なづ)くべし」とまをす。(神代紀第十段一書第三)
 …… 野島の海人の 海(わた)の底 奥(おき)つ海石(いくり)に 鰒珠 多(さは)に潜(かづ)き出(で) ……(万933)
 沖つ島 い行き渡りて 潜(かづ)くちふ 鰒珠もが 包みて遣らむ(万4103)
 隠口(こもりく)の 長谷(はつせ)の川の 上つ瀬に 鵜を八頭(やつ)漬(かづ)け 下つ瀬に 鵜を八頭漬け 上つ瀬の 年魚(あゆ)を咋(く)はしめ ……(万3330)
 …… 平瀬には 小網(さで)さし渡し 早瀬には 水烏(う)を潜(かづ)けつつ ……(万4189)
 潜女 本朝式に云はく、伊勢国等潜女〈和名、加豆岐米(かづきめ)〉といふ。(廿巻本和名抄)
 寒(こご)ゆる時に曳き蒙(かづ)く綿の端は、西国より出でし所なり。(東大寺諷誦文稿)
 
 鵜の羽を葺草(かや)にして産屋の屋根を葺こうとし、葺き切らないうちに豊玉姫は産気づいた。鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の説話で子を産むことは「子産(こ)む」と言っていたから、同音の「浸む」と共通項があると認識されれば言葉として納得されやすい。同音の語に同義の意味合いがあると洒落るため、なかば強引に結びつけた説話が形作られている。豊玉毘売は海神の娘で、海女の化身のような存在として描かれている。ワニかタツの姿をしていたとは、海女が潜水して岩の間を左右前後上下に身をくねらせていることの謂いである。「浸(こ)む」ことになっていて、「子産(こ)む」ことをしていると、潜水している様を言い当てている。つまり、「子産(こ)む」とは、真珠という玉、ないしは玉子(卵)を生むことである。それが特に本真珠であると、鰒玉ということになり、鰒を採ることは、アワビの腹足の様子が女陰を連想させることからして、豊玉姫が海女である様を表わしていて正しいと知れる。そして、生まれた子の名前をどうしたら良いかと彦火火出見尊に問われて、豊玉姫がウガヤフキアハセズノミコトと名づけている(注10)。水に浸っている豊玉姫は、「浸(なづ)く」ことになっているから名づけている。
 鵜の羽で産屋の甍部分を葺き終わらない前に産気づいてしまった。「被(かづ)く」前であると設定されている。すなわち、鵜飼で鵜に「潜(かづ)く」ようにする前に、自らが「潜(かづ)く」ことをして玉の子を産んでいる。「浸(こ)む」ことをして「子産(こ)む」ことをしているばかりか、「浸(ひた)す」ことをして「養(ひた)す」ことに至っている。産んだ子が玉のようなきれいな子であったことは、紀の記述にあらわれている。「是後、豊玉姫聞其児端正、心甚憐重、欲復帰養。於義不可。故遣女弟玉依姫、以来養者也。」(紀一書第三)とある。歌に「白玉」とある点について、それが父親の彦火火出見尊を表わすのか、子の鸕鷀草葺不合尊を表わすのか、二者択一を迫る理由は必ずしもなかったと知れる。「天つ神の御子」だから海原では産めないとして参上している。本当の父子なのだから両者はよく似ている。その類似性を表わす語が、「白玉」である。鹿の子絞りを思い出させる無目堅間という装いと、海神の娘の豊玉毘売が潜って獲った真珠とをともに表わす言葉である。
 以上、玉依毘売(玉依姫)が豊玉毘売(豊玉姫)の産んだ子の養育係として派遣された時の歌物語の内実について論じた。それは、歌謡を差し挟まない他の伝、紀本文、一書第一、一書第四の話と齟齬を来たすものではない。歌謡を含む伝と含まない伝があるのは、伝えた人の記憶や好みによるのであろう。そして、結局のところ、なにほどかストーリーに展開があるわけではなく、単に該当するヤマトコトバを辞書的に説明するために話の方を構成させている。言葉の説明を込み入って行っているのが、本説話の内容ということになる。鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の話は、永らく神話ないし説話と捉えられてきたが、ここに、いわゆる“説話”の概念を覆すものとして理解されることとなる。何ごとかを表すために話が筋立てられて時系列を追って進んでいくのではなく、話に用いられる言葉遣いの言葉自体を定義し直すような作業として、鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の話が説話化されている。すなわち、story ではなく、narrative として捉え返さなければならない。聖書の断章を積み上げていくことで、なにほどかいわゆる“史実”が偲ばれるのとは異なり、音声言語のやりとりという言葉的“体験”をそのまま音声言語に定めている。それらの narrative を積み上げてできあがるものは、神話体系とは異なり、また、歴史書とも程遠く、上代口頭語の辞書に近いものと言えよう。もちろん、現代の考え方からすれば、言葉の語義が記されている辞書というよりも、同音語の洒落を書き留めたネタ帳のようなものである。そんなおよそ漫才の台本のような代物が、古代の“歴史”を語るかに見える記紀の“説話”として紹介されているのは、無文字文化時代の人々の心性を表すものであったからである。記紀の“神話”とされる話(咄・噺・譚)とは、無文字時代の無名の人々の精神史がたまたま伝えられて文字に書き写されたもの、そんな奇跡の産物であろう。無形民俗文化の有形化である。人々の関心事である新技術、車井戸や低湿地帯への水田開拓、新しい屋根素材の瓦、甍について、それを知らない人に知らせるために、説話という形で、言葉だけで伝えようと努力している。高度な verbal communication technic が仕組まれていたのであった。

(注)
(注1)青木2015.は、紀6番歌謡は、豊玉姫が玉依姫に託して、鸕鷀草葺不合尊に献じた歌としている。彦火火出見尊との関係は切れているからとされている。西郷2005.には、「紀には女の返歌として、……児のフキアヘズの美しいのをほめた歌であるかのような文脈になっている。むろん、古事記の伝え方の方が歌の背景としてはふさわしい。」(193頁)と印象が語られている。
(注2)本居宣長・古事記伝に、「玉依毘売(タマヨリビメ)、御名ノ意、玉(タマ)は、御姉の御名のに同く、依(ヨリ)は、【字は借字にて、】余呂志(ヨロシ)の切(ツヅマ)りたるなり、【呂志(ロシ)は理(リ)と切(ツヅマレ)】余呂志(ヨロシ)は、師ノ説に、物の足(タ)り具(ソナハ)れるを云、余呂都余呂布(ヨロヅヨロフ)なども、同言の分れたるなり、……此ノ意を以て美称(タゝヘ)たる名なり、」(国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805、445/600)、漢字の旧字体は改めた。)とある。いま、玉の話をしている。玉の歌も歌われている。玉に依る姫であるから玉依毘売と素直に考えて基本的に差支えない。
(注3)この歌は、天平勝宝九歳の橘奈良麻呂の謀反に同調しなかった大伴家持の胸中を語るものと考えられている。左注に、「右の一首は、大伴宿禰家持、物色の変化(うつろひ)を悲怜(かなし)びて作れり。」とある。
(注4)岩波古語辞典に、「「し」の現代語訳としては「もしや…でも」「…など」の語が考えられるが、自発の助動詞「ゆ」と呼応するものなどには、現代語に適切な訳語が見当らない。現代にはこのようなやわらかな表現法が存在しないからである。「し」は不確実・不確定の意を表わす点で係助詞「も」と根本的に共通な点がある。しかし「も」は不確実ながら、その対象や判断に執着して捨て切れずにいる趣きがある。それに対して、「し」にはそのような粘着する気持はなく、むしろ不確実ゆえに、その対象を指すだけで不確実のまま打ち置いている趣きがある。」(1451頁)とある。
 筆者は、大野先生と多少ニュアンスの異なる捉え方をしている。「大和し美(うる)はし」(記30)や「大和し思ほゆ」(万64)など、どうして「大和」を“とりたて”なければならないのか、いかにものわざとらしさが感じられる。自然と思い出されると言いながら、はじめからヤマト有りきで、ヤマトファーストではないかと疑う。別に思い出されることなどなくていいと言いながら“とりたて”てみて、事を既成事実化して行っていると勘ぐる。つまり、とりたてて言うほどのことはないと付言しながら言及するという“とりたて”が行われている。英語でいえば、付加疑問文に近いものである。したがって、そのような言い方に対しては、訳語としても大仰に訳出するのがふさわしいと考える。別にとりたててみることもないのが大和ではございますが、なんだか自然と大和のことが思い出されますが、これはいったいどういうことでございましょうか、といった饒舌を以て対処するのである。「やわらかな表現法」ではなく、言いたいことを隠しておいてきれいごとで取り繕いながら、語りを押しつける用法であると捉え直すことができる。控えめであることを装いながら言い分をゴリ押ししてくる慇懃無礼な嫌らしさが感じられる。助詞のシが一音であるから、対応する語がないように感じているだけで、現代にも似た表現法は消えては顕れている。政府の答弁に「させていただきたく存じます」とあったり、レジで「千円からでよろしかったでしょうか」など、枚挙にいとまがない。いくつか訳出例をあげておく。

 春の日は山し見が欲し(万324)……春の日には、別にとりたててみることでもないのでございますが、山、そう、山などが見たいのですが、どうでしょう。
 何時しか明けむ(万4038)……何時などということをとりたててみることもないのでございますが、何時明けるのでございましょうか、早く明けて欲しいですよね、いかがでしょう。
 人は旧(ふる)けし宜しかるべし(万1885)……ただ人だけは年をとっている老人なんかがよろしいに違いありませんよ、ねえ、そうでしょう。
 立ちても居ても君をしそ思ふ(万3089)……立っていても座っていても、別にあなた様のことをとりたてて思おうとしているわけではないのですが、なんだか自然に思われてきます、どうしてもそうなるでしょう、ねえ、わかるでしょう。
 故、是を以て子は祖(おや)の心成すいし、子には在るべし。(十三詔、天平勝宝元年四月、聖武天皇)……そのようなわけだから、子は祖先の心のような心になること、とわざわざ言うのも何であるけれど、子としてあるべきことなのでありましょうぞ。
 汝(いまし)たちの能(よ)からぬに依りてし、如是(かく)在るらし。(十七詔、天平宝字元年七月、光明皇太后)……お前たちが良くないからであろうことがためと言っては何ですが、こんなことになったのでしょう、ねえ、そうでしょう。

(注5)(注9)に触れるとおり、アカダマは、アマという語を連想させる音でもある。
(注6)垂仁記の后救出作戦失敗の折に、御子だけを奪った時の天皇の問いかけに、上の「養す」の例の「何に為てか日足し奉らむ」のほかに、「凡そ子の名は、必ず母の名(なづ)くるに、何(いか)にか是の子の御名を称(い)はむ」とある。上代に、必ず子の名を母親が命名していたものか定かではないが、妻問い婚を前提としたり、乳母を決めたりするところから、子の母親側の実家が今日以上に身近な存在としてあったであろうことは推察される。ただし、その由来としては、豊玉毘売の説話が発端となっていて、「浸(なづ)く」存在が「名づく」存在であると導かれたと考えるのが、言霊信仰に生きた無文字文化の人々の“野生の思考”として正解なのであろう。
(注7)マダカアワビという大きな種もいる。母貝が大きいからといって真珠が大きくなるとは言えないが、允恭紀の赤石の真珠の話は深いところへ潜っており、この可能性が高い。
(注8)水に常時使った田は、稲作を沖積平野へと展開させてから現れたものか、確かなところは不明である。ただし、水田に常湛法が普及した時期に、多くの「なづき田」はポピュラーになって行ったと考えられる。記の直近記事に、塩盈珠・塩乾珠の呪力の話が載る。そこに、「高田(あげた)」、「下田(くぼた)」と記している。水を操る力を持っているから相手にいじわるができるという話である。新撰字鏡に、「漚 於候一候二反、去、又平、漬也、漸也、浮也、清也、奈津久(なづく)、又比多須(ひたす)、又水尓豆久(水につく)、又宇留保須(うるほす)也」とある。
(注9)拙稿「鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について参照。タマ(tama)をとやかく持ち出している。アマ(ama)という音と通じている。アマは海女であり、尼である。海女が白玉の獲れる鰒漁に使うのは、魚籠(びく)である。尼のことは比丘尼(びくに)という。比丘、比丘尼という語は漢訳の直輸入と思われビは甲類と思われる。魚籠という語が上代からあったか不明である。尼の姿として、頭巾で頭を隠す姿が知られる。同じように貴婦人が顔を隠すために頭からすっぽりかぶるようにした衣裳は、衣被(きぬかづ)きである。ヤマトコトバは体系化されている。
(注10)「赤玉」は、“有目堅間”とでも言える荒籠の篝(かがり)とともに、赤い玉、琥珀などの類を指すとも考えられる。「赤玉は 緒さへ光れど」(記7)、「赤玉の 光はありと」(紀6)とあるのは、焚き木が籠から漏れ光る様も表わしている。鵜葺草葺不合命の話になっていてわかるように、夜鵜飼の光景が彷彿される。と同時に、宝飾品としても譬えている。その赤玉については、素材が何であるか、古辞書に従って限定する必要はないであろう。無目堅間と真珠をともに表わす「白玉」を導き出すために持ち出された言葉と思われるからである。なお、古代において、紅白を組み合わせる考え方は確認されていない。

(引用・参考文献)
青木2015. 『青木周平著作集 中―古代の歌と散文の研究―』おうふう、2015年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
大野1993. 大野晋『係り結びの研究』岩波書店、1993年。
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第四巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
佐佐木2009. 佐佐木隆『上代の韻文と散文』おうふう、2009年。
田中2004. 田中みどり「格助詞「ガ」「ノ」と間投助詞「シ」―記紀萬葉における用法と、その形成―」『古代中世文学論考 第十一集』新典社、平成16年。

(English Summary)
In this paper, I will examine the meaning of song question and answer between Fikofofodeminömikötö and Tamayöribime entrusted by Töyötamabime. By "Tama" song, we re-notices "Kako", meaning colorless spots of tie-dyeing, sailors, and a tightly woven basket gotten on a ride to the sea palace. The story is made in spoken language, transmitted by it, and it is oral communication itself.

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