古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「小竹の葉は み山もさやに 乱友」(万133)歌の訓みについて

2022年02月21日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 柿本人麻呂の石見相聞歌のうち、万133番歌はよく知られながら必ずしも定訓を得ていない。

 小竹(ささ)の葉は み山もさやに 乱友 吾は妹思ふ 別れ来ぬれば〔小竹之葉者三山毛清尓乱友吾者妹思別来礼婆〕(万133)(注1)

 この第三句「乱友」の訓みについては、ミダルトモとサヤゲドモとの二つが有力となっており(注2)、視覚的作用と聴覚的作用のいずれを優先させるかという場外乱闘にさえなっている(注3)。両者の説は、塩沢1997.に議論が整理され、それぞれが他者を排する理由をまとめている。

(A)「ミダルトモ」が「サヤゲドモ」を排する主な理由は、
(1)「乱」を「サヤグ」と確実に訓む例が見いだせない。
(2)第二句の「さやに」は動詞「さやぐ」の語幹に「に」がついたもので、「み山もさやに」という、〈AモBニ〉という形式の定型句に続く句は、「山も狭に 咲ける馬酔木の」(8・一四二八)や「滝もとどろに鳴く蟬の」(5・三六一七)のように、「B」と語幹を同じくする動詞が来た例が見いだせない。……
(B)「サヤゲドモ」が「ミダルトモ」を排する主な理由は、
(1)「ミダル」は、バラバラと散乱するもの、糸のように細長く入り乱れるものに用いられるのみで、枝のままの葉に「ミダル」と用いた例はない。
(2)「トモ」という仮定条件と結句の「別れ来ぬれば」という確定条件との間に齟齬がある。(66~67頁)(注4)

 結局のところ、依然として両説とも命脈を保っている。筆者は、サヤゲドモ説に与する。そう訓まなければ「み山」という表現が意味をなさないからである。岩波古語辞典に、「みやま【み山】《ミは接頭語。霊力の支配する神秘な山が原義。後には、単に、木木がこんもり繁った深山の意になった》①霊力の支配する神秘な山。「小竹()の葉はーもさやに乱るとも」〈万133〉②御陵。「ーに詣で給ひて」〈源氏 須磨〉③《「外山(ま とや)」の対》木の繁った奥深い山。 「ーには霰(れ あら)降るらし外山(ま とや)なるまさきのかづら色づきにけり」〈神楽歌一〉。「深山、ミヤマ」〈饅頭屋本節用集〉miyama」(1241頁)とある。ここで、当該歌はこの①の用法にのみ適うものなのか問われよう。山を敬いほめたたえて言っているとして、前の歌にある「高角山」のことを言っているのであろうが、なにゆえ「み山」とこの歌のみ言い換えているのか。②御陵の意を見出されることを願っているのではないか。御陵はミサザキと呼ばれた(注5)。和名抄に、「山陵〈埴輪附〉 日本紀私記に山陵〈美佐々岐(みさざき)〉と云ふ。埴輪〈波迩和(はにわ)〉は山陵の縁辺に埴の人形を作り、車輪の如く立つる者なりといふ。」とある。ミサザキという言葉(音)に、ササという言葉(音)はざわついている。ざわめくことがサヤグという語の意味である。だから、「乱友」はサヤゲドモと訓むのが正しいのである(注6)。逆接の仮定条件を表すトモではなく、逆接の確定条件を表すドモで適合している。排除的に考察する必要はなく、一点の曇りもなく選択的にそう訓まれて然るべしなのである。
 検証は歌のなかに行うことができる。下句に、「吾は妹思ふ 別れ来ぬれば」とある。上句とのつながりがいまひとつ理解しきれず、トモかドモか論じられることがあったが、その点は解明された。そして、「吾は妹思ふ」理由は、「別れ来ぬれば」と説明されている。ワレハオモフ←キヌレバである。人麻呂自身の声に、言葉遊びであることが明かされている。上句も下句も言葉遊びに説明されているのであり、万133番歌の表現技法は、言葉の謎かけ、頓智にあった(注7)
 本稿は、この歌の訓にとどまるには余裕がある。白川1995.に、サヤグが解説されている。少し長くなるが碩学の疑問に答えられた時、上代語のサヤグ問題は解決したと言える。

 さやぐ〔乱(亂)〕 四段。竹の葉などがさやさやと音をたてる、その擬声語の「さや」を動詞化した語。〔古語拾遺〕に「阿那佐夜憩あやさやけ竹葉ささはの聲なり」とあり、また「栲衾たくぶすまさやぐがしたに」〔記五〕のようにもいう。のちの「ざわめく」に近い。音の乱れさわぐことから、またことが乱れさわぐ意に用いる。「そよぐ」の「そよ」はその母音交替形である。
 狭井河さゐがはよ雲立ち渡り畝火山うねびやま佐夜藝(乱ぎ) ぬ風吹かむとす〔記二〇〕
 葦辺あしべなるをぎの葉左夜藝さやぎ(乱ぎ)秋風の吹き來るなへにかり鳴き渡る〔万二一三四〕
 高浜たかはま下風したかぜ佐夜久さやぐ(乱ぐ)いもを恋ひ妻と言はばやしこと召しつも〔常陸風土記、茨城郡うばらきのこほり
 「小竹ささの葉はみ山もさやさやげども」〔万一三三〕のように、「さやぐ」には乱の字を用いる。そうは「さわく」にあてられる字である。 〔神代紀下〕に 「未平さやげり」、〔神武前紀〕に「猶聞喧擾之響焉なほさやげりなり」とみえ、平静の状態でないことをいう。〔新撰字鏡〕にそうの異体字をあげて「蘇后の反、左也久さやくなり」とし、さらに古文三字を録しているが、みな叟の異文である。その字は〔玉篇〕又部に「〓[下記の写しの頭字]、蘇后の切、老なり、或いは叟に作る」とし、〔篆隷万象名義てんれいばんしょうめいぎ〕又部にも〔新撰字鏡〕と同じ字形をあげて、「蘇后の反、老、父、聖父」と注する。〔説文〕三下に「老なり。又に従ひ、〓に従ふ。けつ」とする字であるが、〔新撰字鏡〕がどうしてこの字に「左也久さやく」の訓を加えたのか、その過程を確かめることができない。(376頁、一部漢字の旧字体は改めた)
「〓」(新撰字鏡写し)
 「叟」がなぜサヤクなのか(注8)。「老、父、聖父」なるお年寄りはどこにまつられるか。ミサザキ(御陵)である。サザとざわめいている。ミサザキのうち最もよく知られるのは大仙陵古墳、いわゆる仁徳天皇陵である。オホサザキノスメラミコトの寿陵として生前からつくられている。ササがサザとサヤグ(注9)ところが「み山」(万133)なのである。それを「乱」字で書くことが正しいのは、音の乱れだと直感させられるからである。ヤマトコトバは音声言語であった。

(注)
(注1)前後の歌は次のとおりである。万135~139番歌は略した。

  柿本朝臣人麻呂、石見国より妻に別れて上り来る時の歌二首〈并せて短歌〉〔柿本朝臣人麻呂従石見國別妻上来時歌二首〈并短歌〉〕
 石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと〈一云 礒なしと〉 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟は〈一云 礒は〉 なくとも 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝し妹を〈一云 はしきよし 妹が手本を〉 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎へて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山〔石見乃海角乃浦廻乎浦無等人社見良目滷無等〈一云礒無登〉人社見良目能咲八師浦者無友縦畫屋師滷者〈一云礒者〉無鞆鯨魚取海邊乎指而和多豆乃荒礒乃上尓香青生玉藻息津藻朝羽振風社依米夕羽振流浪社来縁浪之共彼縁此依玉藻成依宿之妹乎〈一云波之伎余思妹之手本乎〉露霜乃置而之来者此道乃八十隈毎萬段顧為騰弥遠尓里者放奴益高尓山毛越来奴夏草之念思奈要而志怒布良武妹之門将見靡此山〕(万131)
  反歌二首
 石見のや 高角山の 木の間より 我が振る袖を 妹見つらむか〔石見乃也高角山之木際従我振袖乎妹見都良武香〕(万132)
  或本の反歌に曰く〔或本反歌曰〕
 石見なる 高角山の 木の間ゆも 我が袖振るを 妹見けむかも〔石見尓有高角山乃木間従文吾袂振乎妹見監鴨〕(万134)

(注2)ミダルトモ説は、大系本萬葉集、稲岡1985.、稲岡1997.、サヤゲドモ説は、古典集成本萬葉集、中西1978.、新編全集本萬葉集、新大系文庫本万葉集、阿蘇2006.、伊藤2009.、多田2009.などに見られる。万133番歌の訓みについての諸論は、他の訓み方も含め、間宮2001.や坂本2010.に列挙されている。
(注3)多くの解説書に、ミダルは視覚的であり、サヤグは聴覚的だとされているが、ミダルは秩序の喪失に関する語であり、感覚において視覚に限定的に結びつくものではない。「秋風、河原風にまじりではやく、草むらに虫の声乱れて聞ゆ。」(宇津保物語・俊蔭)は、ミダルが聴覚の世界に用いられた例である。
 脆弱な基盤の上に視聴対の表現として議論されている。鉄野1989.に、「「吾」は外界から不断に働きかけられているのであって、「吾」は常に「笹の葉」とともに顫動し、かつそれに抗うのである。両者は相克し合う関係とでも言わねばなるまい。囲繞する顫動は、「吾」を占めようとしつつ、まさにそのことによって「別れ来」たことに「吾」を目覚ませずにはおかない。逆に「別れ来」たこと、一人乱れる笹の中にあることに戦く中から、「妹思ふ吾」が立ち上り、「思ふ」ことでその世界を突き破って行こうとする。「思ふ」ことは「別れ来」たことによって初めて発見されるのである。」(113頁)、神野志2010.に、「視覚的に捉えられた笹の葉と、サヤと、山全体に満ちたざわめきをいうのと、併存・対照しているのである。その外界を表現したとき、そのなかで「妹」を思ってあるものとして「我」は明確な輪郭を得る。……それは、表現が立ち上げるのであって、歌うことによってはじめてたしかな心情のかたちを見出された「我」というのが正当であろう。」(211~212頁)などとある。「乱友」の訓みの問題が視覚と聴覚の対立に発展し、さらには近代的自我が文芸によって形成されたかとされる主張が拡張されて人麻呂の自我形成に援用されている。「妹」を思わなかったら「靡けこの山」とは言わなかったろうが、「我」がそれまで定まっていなかったとは言えそうにない。まして「笹の葉」がアイデンティティを惹起しているとは思われず、デカルトのように方法的懐疑が行われた様子もない。
(注4)塩沢氏は、ここではサヤグトモという訓を蓋然性が高いとしている。『万葉語誌』の「さやけし【清けし】・さやぐ・さやに」の項では「さやげども」とし、「笹の葉は全山にわたってざわざわとした葉擦れの音を立てる。これは忌むべき事態の予兆となっている。……別れを自覚した人麻呂は「思ふ」ことによって眼前に妹を引き寄せ止めようとする。……笹の葉の「さやぎ」は、妹の喪失の予兆として、重要な役割を果たしている。」(171頁、この項、塩沢一平)としている。
(注5)万葉集中に、歌語として「御陵」という用字の歌がある。

  山科の御陵(みさざき)より退(まか)り散(あら)くる時、額田王の作る歌一首
 やすみしし わご大君の かしこきや 御陵(みはか)仕ふる〔御陵奉仕流〕 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと 哭(ね)のみを 泣きつつありてや 百磯城(ももしき)の 大宮人は 去(ゆ)き別れなむ(万155)

 一般にミハカと訓まれているが、これはサザキと訓むのかもしれない。孝元紀七年二月条に「狭狭城山君(ささきのやまのきみ)」とあり、雄略前紀安康三年十月条に「近江の狭狭城山君韓帒(からぶくろ)、言さく」と伝聞の形で登場する人物は、雄略天皇による市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)殺害に加担している。その同族が「近江国狭狭城山君の祖(おや)倭帒宿禰(やまとふくろのすくね)」(顕宗紀元年二月是月)である。市辺押磐皇子の遺児が顕宗天皇で、顕宗紀元年五月条に「狭狭城山君韓帒宿禰、事、謀りて皇子押磐(おしは)を殺しまつるに連(かか)りぬ。誅(ころ)さるるに臨みて叩頭(の)みて言(まを)す詞(ことば)極めて哀し。天皇、加戮(ころ)さしめたまふに忍びずして、陵戸(みさざきのへ)に充て、兼めて山を守らしむ。籍帳(へのふみた)を削(けづ)り除(す)てて、山部連(やまべのむらじ)に隸(つ)けたまふ。惟(ここ)に倭帒宿禰、妹(いろも)置目(おきめ)の功(いさをし)に因りて、仍ち本姓(もとのかばね)狭狭城山君(ささきのやまのきみ)の氏を賜ふ。」と決している。
 山陵に関わらせているのは言葉(音)の同一性に従うものと考えられるから、紀の「狭狭城」はササキよりもサザキと訓まれるのが望ましいであろう。固有名詞であれ、サザキは山と言葉上緊密な関係にあると認識されていた。万155番歌で「御陵」に「山科」、「鏡の山」と続いている。墓標をそなえただけのハカ(墓)よりも、土墳をともなった(ミ)サザキと連繋させて歌われている可能性が高い。聞いていてわかりやすいからである。歌の作者は口承の歌を良くした額田王である。
(注6)間宮2001.は、「サヤニサヤグは副詞サヤニが動詞サヤグを修飾する形になるが、そのような結合関係、例えばソヨニソヨグだとかトドロニトドロクなどはあってもよさそうな表現であるが、文献に実例を見出せない。こういった修飾関係は、おそらく重複した表現になってしまうために、実現しなかったのであろう。」(77~78頁)とあり、訓みの候補から排除する。
 しかし、「み山もさやに〜」という、AもBに〜、体言+助詞モ+状態の副詞+助詞ニ+動詞の形式は、AがBであるほどに〜、AがBであるばかりに〜という表現である。動詞に表す程度がちょうど「AもBに」であると述べているから、Bと動詞とが言葉にダブった表現は想定され得る。万葉集中でも、「音(ね)を泣く」、「眠(い)を寝(ぬ)」といったくどい表現は頻繁に行われている。澤瀉1947.は数多くの例をあげ、上代の歌にくりかえしの多いことを示している。
 そしてまた、ソヨニ─ソヨグ、トドロニ─トドロクは同根に語幹をともにしているものの、サヤニ─サヤグでは語の出自が違うかもしれないという疑惑がある。サヤニはサエ(冴)に生じ、はっきりと、の意を持っている。サヤグはざわめく、の意である。くっきりとざわめいている、はっきりとざわざわしているのが聞える、という言い方は重複に当らず、冗長な表現でもない。
(注7)万葉集でサヤグという語は他に2例、記歌謡に3例見られる。歌では、サヤグは多く葉の様子を言う。ほかに葦原中国の騒擾状態を「いたくさやぎてありなり」(〔伊多久佐夜藝弖有那理〕記上・〔伊多玖佐夜藝帝阿理那理〕神武記)と言っている。

 葦辺なる 荻の葉さやげ〔左夜芸〕 秋風の 吹き来るなへに 雁鳴き渡る〈一に云ふ「秋風に 雁が音聞こゆ 今し来らしも」〉(万2134)
 笹が葉の さやぐ〔佐也久〕霜夜に 七重着る 衣にませる 児ろが肌はも(万4431)
 …… 綾垣の ふはやが下に 苧衾(むしぶすま) 和(にこ)やが下に 栲衾(たくぶすま) さやぐが下に 沫雪の 若やる胸を 栲綱(たくづな)の 白き腕(ただむき) ……(記5)
 狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木(こ)の葉さやぎぬ 風吹かむとす(記20)
 畝火山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとそ 木の葉さやげる(記21)

 万葉集で「み山」という語は他に4例見られる。

 あしひきの み山〔御山〕もさやに 落ち激(たぎ)つ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば ……(万920)
 やすみしし わご大君は み吉野の 秋津の小野の 野の上(へ)には 跡見(とみ)据ゑ置きて み山〔御山〕には 射目(いめ)立て渡し 朝狩に 鹿猪(しし)踏み起こし 夕狩に 鳥踏み立て ……(万926)
 夕されば み山〔美夜麻〕を去らぬ 布雲(にのぐも)の 何(あぜ)か絶えむと 言ひし児ろばも(万3513)
 梅の花 み山〔美夜万〕と繁(しみ)に ありともや かくのみ君は 見れど飽かにせむ(万3902)

 「み山」について、神の支配する山、畏怖すべき山、聖なる山といった視点から捉えられることが多いが、接頭語ミ(御)は、「古くは、神・天皇・宮廷のものを表わす語。」(岩波古語辞典1212頁)である。万920・926番歌は吉野讃歌であり、御料地を敬って「み山」と言っている。ミサザキ(御陵)が作られたのは御料地である。万920番歌の「み山」がミサザキのことであるとすると、実はとてもわかりやすい。鳥の名にもサザキがある。現在、ミソサザイと呼ばれている。和名抄に、「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼の二音、佐々岐(さざき)〉は小鳥なり、蒿萊の間に生れ、藩籬の下に長ぜりといふ。」とある。ミソサザイは外敵からの攻撃にあわないように、あえて危険な山中の渓流上に巣を作る。つまり、(あしひきの)山、御料地の山もざわざわと落ちはしるような、ミソサザイも確かに落っこち揉まれるような吉野の川の川の瀬がきれいなのを見ると、……という意味にとることができる。万3513・3902番歌の「み山」は、「深山」と記される意と思われる。
(注8)塩谷1984.は、「集韻には「叟叟」として「浙米聲(米をとぐ声)」という意味が記されている。この「叟叟」は明らかに擬声語と思われるものである。この「叟(〓)」に「サヤグ」の訓が付されていることは、「サヤグ」が擬声語「サヤサヤ」を語源とし、「サヤという音がする」という聴覚主体の意味を持つことを決定づけるものと言えよう。」(264頁)としている。しかし、米をとぐ音をサヤグとする文献例は管見に入らない。
(注9)語幹と見られているサヤにおいて、「さやさや」(紀41・記74)と重なる語のあり方については拙稿「枯野伝説について」参照。擬音語に発すると思われているサヤなのであるが、莢(鞘)と関連づけられて使用されている。狭狭城山君の名に韓帒宿禰、倭帒宿禰などと「帒」とついているのは、鳥のサザキ(鷦鷯)の作る巣のあり様と古墳のサザキ(御陵)のあり様とが、同じく帒(袋)状の様子に通じていることによるのであろう。拙稿「仁徳天皇の名、オホサザキの秘密」参照。古代の人が、ヤマトコトバをそのように認識していたということである。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義1 巻第一・巻第二 』笠間書院、2006年。
伊藤2009. 伊藤博訳注『新版万葉集一 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
稲岡1985. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第二』有斐閣、1985年。
稲岡1997. 稲岡耕二『和歌文学大系1 萬葉集(一)』明治書院、平成9年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
澤瀉1947. 澤瀉久隆『萬葉古径』全国書房、昭和22年。
北島1935. 北島葭江「「さやにさやぐ」について」『文学』第3巻第2号、岩波書店、昭和10年2月。
神野志1999. 神野志隆光「石見相聞歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第二巻 柿本人麻呂(一)』和泉書院、1999年。
神野志2010. 神野志隆光「私的領域を組み込み、感情を組織して成り立つ世界」高岡市万葉歴史館編『生の万葉集』笠間書院、平成22年。
古典集成本萬葉集 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋元四郎校注『萬葉集一』新潮社、1976年。
駒木1993. 駒木敏「小竹 (ささ) の葉のさやぎ─『万葉集』巻二・一三三番歌解─」『同志社国文学』第38号、1993年3月。同志社大学学術リポジトリhttp://doi.org/10.14988/pa.2017.0000005081
坂本2010. 坂本信幸「笹の葉はみ山もさやに─「乱友」考─」『萬葉』第207号、平成22年9月、萬葉学会学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/2010(『万葉歌解』塙書房、2020年所収) 
塩沢1997. 塩沢一平「小竹の葉はみ山もさやにさやぐとも 」『上代文学』第78号、1997年4月。上代文学会ホームページhttp://jodaibungakukai.org/data/078-05.pdf
塩谷1984. 塩谷香織「ささの葉はみ山もさやに乱るとも」五味智英・小島憲之編『萬葉集研究 第十二集』塙書房、昭和59年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新大系文庫本万葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『萬葉集(1)』小学館、1994年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解1』筑摩書房、2009年。
鉄野1989. 鉄野昌弘「人麻呂における聴覚と視覚─「み山もさやに」をめぐって─」伊藤博・稲岡耕二編『万葉集研究 第十七集』塙書房、1989年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
間宮2001. 間宮厚司『万葉難訓歌の研究』法政大学出版局、2001年。
『万葉語誌』 多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。

この記事についてブログを書く
« 久米禅師と石川郎女の問答歌─... | トップ | 高倉下(たかくらじ)とは誰か »