古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

高倉下(たかくらじ)とは誰か

2022年02月28日 | 古事記・日本書紀・万葉集
高倉下の夢の文章の構造

 神武天皇の東征譚に、熊野の高倉下(たかくらじ)という人物が登場する。

 故(かれ)、神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと[=神武天皇])、其地(そこ)より廻(めぐ)り幸(いでま)して、熊野村(くまののむら)に到りし時、大熊、髪、出で入りて即ち失(う)せぬ。爾(ここ)に、神倭伊波礼毘古命、倐忽(たちまち)に遠延(をえ)為(し)、及(また)御軍(みいくさ)皆遠延して伏しぬ。遠延の二字は音を以てす。此の時、熊野の高倉下(たかくらじ)此は人の名そ。一(ひとふり)の横刀(たち)を賷(も)ちて、天つ神御子の伏せる地(ところ)に到りて献りし時、天つ神御子、即ち寤(さ)め起きて、詔りたまはく、「長く寝(い)ねつるかも」とのりたまひき。故、其の横刀を受け取りし時、其の熊野山(くまののやま)の荒ぶる神、自づから皆切り仆(たふ)さえき。爾くして、其の惑(を)え伏せる御軍、悉く寤め起きき。
 故、天神御子(あまつかみのみこ)、其の横刀(たち)を獲し所由(ゆゑ)を問ひしに、高倉下(たかくらじ)が答へて曰(まを)ししく、「己が夢に云はく、天照大神・高木神の二柱の神の命(みこと)を以て、建御雷神(たけみかづちのかみ)を召して詔(のりたま)はく、『葦原中国は、いたくさやぎてありなり。我が御子等、平らかならず坐(いま)すらし。其の葦原中国は、専ら汝が言向(ことむ)けたる国ぞ。故、汝建御雷神、降るべし』とのりたまふ。爾に答へて曰さく、『僕は降らずとも、専ら其の国を平らげし横刀(たち)有り。是の刀(たち)を降すべし。〈此の刀の名は、佐士布都神(さじふつのかみ)と云ふ。亦の名は甕布都神(みかふつのかみ)と云ふ。亦の名は布都御魂(ふつのみたま)と云ふ。此の刀は、石上神宮に坐すぞ。〉此の刀を降さむ状は、高倉下が倉の頂(むね)を穿(うか)ちて、其より墮(おと)し入れむ。故、あさめよく、汝、取り持ちて、天神御子に献れ』とまをす。故、夢の教の如く、旦に己が倉を見れば、信(まこと)に横刀有り。故、是の横刀を以て献る」とまをす。(神武記)
 天皇(すめらみこと)独(ひとはしら)、皇子(みこ)手研耳命(たぎしみみのみこと)と、軍(みいくさ)を帥(ひき)ゐて進みて、熊野の荒坂津(あらさかのつ)亦の名は丹敷浦(にしきのうら)に至ります。因りて丹敷戸畔(にしきとべ)といふ者を誅(ころ)す。時に神、毒気(あしきいき)を吐きて、人物(ひと)咸(ことごとく)に瘁(を)えぬ。是に由りて、皇軍(みいくさ)復(また)振(おこ)ること能はず。時に彼処(そこ)に人有り、号(な)を熊野の高倉下(たかくらじ)と曰ふ。忽(たちまち)に夜(よ)に夢(ゆめ)みらく、天照大神(あまてらすおほみかみ)、武甕雷神(たけみかづちのかみ)に謂(かた)りて曰はく、「夫(そ)れ葦原中国は猶(なほ)聞喧擾之響焉(さやげりなり)。聞喧擾之響焉、此には左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ。汝(いまし)更(また)往きて征(う)て」とのたまひき。武甕雷神対へ曰(まを)さく、「予(やつこ)行(まか)らずと雖も、予が国を平(む)けし剣を下(くだ)さば、国自づから平けなむ」とまをす。天照大神の曰はく、「諾(うべ)なり。諾、此には宇毎那利(うべなり)と云ふ。」とのたまふ。時に武甕雷神、登(すなは)ち高倉(たかくらじ)に謂(かた)りて曰く、「予(わ)が剣、号を韴霊(ふつのみたま)と曰ふ。韴霊、此には赴屠能瀰哆磨(ふつのみたま)と云ふ。今し当に汝が庫の裏(うち)に置かむ。取りて天孫(あめみま)に献れ」といふ。高倉、「唯々(をを)」と曰(まを)すとみて寤めぬ。明旦(くるつあした)に、夢(いめ)の中の教(をしへ)に依りて庫(ほくら)を開きて視るに、果して落ちたつ剣有りて、倒(さかしま)に庫の底板(しきいた)に立てり。即ち取りて進(たてまつ)る。時に、天皇、適(よ)く寐(みね)せり。忽然(たちまち)にして寤(さ)めて曰はく、「予(われ)何ぞ若此(かく)長眠(ながい)しつるや」とのたまふ。尋(つ)ぎて毒(あしきいき)に中(あた)りし士卒(いくさのひとども)、悉(ふつく)に復(また)醒(さ)めて起く。(神武前紀戊午年六月)

 記の話に、高倉下の夢の内容が長々と記されている。天照大神・高木神の二柱と建御雷神との間の問答である。紀では夢をユメミラクとク語法で以下に記すとしている。それを「曰く、「……」といふ。」という形に再読していない。とはいえ、夢の内容がどこまでかは理解できる。曰の文でも実は声音を変えれば理解できるのだから鍵括弧をつけて再読する必要はないが、便宜的に鍵括弧をつけて話法を際立たせるためにわかりやすくしている。記の記事においても、夢ミツラク……ユメミツなどと訓むには及ばない。声音を変えなくてもわかるからである。
 ただし、夢の中でくり広げられている天照大神・高木神の二柱と建御雷神との間の問答の言葉が、どこで切れるものかは正確を期さなければならない(注1)。「……自其堕入。故、阿佐米余玖……」部分を、「……自其堕入。」「故、阿佐米余玖……」の二つに分ける説は、「故」の意、原因・理由を表さない。本居宣長・古事記伝に、「此間に其堺なくてはキコえ難し、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/486)というのであるが、アサメヨクの意は「故」とあって通じるものと見なければならない。

 故、神倭伊波礼毘古命、従其地廻幸、到熊野村之時、大熊、髪、出入即失。爾、神倭伊波礼毘古命、倐忽為遠延、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以音。此時、熊野之高倉下、此者、人名。一横刀、到於天神御子之伏地而献之時、天神御子、即寤起、詔、「長寝乎。」故、受‐取其横刀之時、其熊野山之荒神、自皆為切仆。爾、其惑伏御軍、悉寤起之。故、天神御子、問其横刀之所由、高倉下答曰、「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔、『葦原中国者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理。此十一字以音我御子等、不平坐良志。此二字以音其葦原中国者、専汝所言向之国、故汝建御雷神可降。』爾答曰、『僕雖降、専有其国之横刀、可是刀此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。此刀状者、穿高倉下之倉頂、自其堕入。故、阿佐米余玖阿下五字以。汝取持献天神御子。』故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而献耳。」(神武記)

タカクラジという名

 タカクラジ(高倉下)という名については、田中2012.に、「人名の「クラジ」に「倉下」の字を宛てたのは、古代の倉は床が高く、その下の空間を活用する風習があつて、「倉下」(クラシタ)を「クラジ」と呼びならはしてゐたからであらう。しかし、人名の「高倉下」の場合、中心をなす語幹は「高倉」であつて、「倉下」ではあるまい。……日本紀に見える、高倉下の夢の話の中で、自分の名を語る時に、「私」といふ意味で「高倉」と自称する箇所が二箇所あり、「高倉下」の略称が「高倉」であることが判るからである。尤も、それならば「クラジ(倉下)」に意味がないのかといふと、さうではない。この「クラジ」といふのは、「宮主」を「ミヤジ」、「戸主」を「トジ(「刀自」はあて字)」と呼ぶやうに、「倉主」のことであらう。ムラジ(連)も本来、「村主」の意味であらう。高い大きな倉の所有者が「高倉主」、即ち「タカクラジ」であつたと思はれる。」(104~105頁)という考えがある。神武前紀戊午年十一月条に、「兄倉下・弟倉下」の訓注に、「倉下、此には衢羅餌(くらじ)と云ふ。」とあってそう訓むことがわかっている(注2)。しかし、高床倉庫の下の空間を当時の人が活用するにあたりクラジと呼んでいたかどうかは記述がないのでわからない。さらに「高倉」とだけ書いて「下」を略してどうしてタカクラジという訓みが行われているのかも不明である。
高床倉庫(横浜市大塚・歳勝土遺跡公園復元展示)
 高床倉庫の下、床下には空間ができている。そこは雨や強い日光を遮るから、作業場や休憩所として用いられた。もちろん、宙に浮いているわけではなく、柱によって立っている。高倉からすれば脚を立てている。その脚が地面についているから立っている。クラでは馬の鞍の上から見て、馬の脚によって高所に居ることになっている。偉い人が腰掛ける椅子はやはりクラ(座)であるが、それも脚が付いているから高くなっていて、下々のものはその前で地べたにひれ伏している。
 そんな高床倉庫の様は、ちょうどキノコが傘を広げながら地面に立っている様に似ている。立てている脚は、キノコの石突(いしづき)にあたる。石突は、槍や鉾などの地面に当たるところを金具で補強したところをいう。また、太刀(横刀)では鞘尻を包む金具のことであり、鐺(こじり)とも呼ばれる。金属ではあるが、横刀の鞘のほうについているもので、鞘の中にはハ(刃)があるが、鐺は刃ではない。すなわち、高倉下という書き方の意は、横刀の鞘の石突を下に突き立てていることになり、倉の屋根に穴をあけ横刀を落し入れられたとあれば、その鞘を目がけて入れられたと言っていると考えることができる。「降此刀状者、穿高倉下之倉頂、自其堕入。」に「倉頂」とある「頂」は、旧訓どおりムネと訓むことが望ましい。刀背(みね)のこともムネと言う。刀のおさめ方は収蔵庫である倉にただ入れればよいということではなく、剥き出しではなく鞘におさめることが正しい方法である。
 タカクラジの意が高倉主であってかまわないが、高倉下と筆記している。「倉下、此云衢羅餌。」という訓注を厳密に捉えれば、「倉」という字の「下」、口の部分をクラジというのだと取ることができる。すると、「高口」とあってもタカクラジと訓むのと同じことであるということになる。「高口」はタカクチと訓める。鳥のタカのことは別にクチと言っていた。

 四十三年の秋九月の庚子の朔に、依網屯倉(よさみのみやけ)の阿弭古(あびこ)、異(あや)しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰さく、「臣(やつかれ)、毎(つね)に網を張りて鳥を捕るに、未だ曾て是の鳥の類を得ず。故、奇(あやし)びて献る」とまをす。天皇、酒君(さけのきみ)を召して、鳥を示(み)せて曰はく、「是、何鳥ぞ」とのたまふ。酒君、対へて言さく、「此の鳥の類、多(さは)に百済に在り。馴し得てば能く人に従ふ。亦捷(と)く飛び諸の鳥を掠(と)る。百済の俗(ひと)、此の鳥を号けて倶知(くち)と曰ふ」とまをす。是、今時(いま)の鷹(たか)なり。乃ち酒君に授けて養馴(やす)む(注3)。幾時(いくばく)もあらずして馴くること得たり。酒君、則ち韋(をしかは)の緡(はやを)を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕(ただむき)の上に居(す)ゑて、天皇に献る。是の日に、百舌鳥野(もずの)に幸して遊猟(かり)したまふ。時に雌雉(めきぎし)多に起(た)つ。乃ち鷹を放ちて捕らしむ。忽に数十(あまた)の雉を獲つ。是の月、甫(はじ)めて鷹甘部(たかかひべ)を定む。故、時人(ときのひと)、其の養鷹(たかか)ふ処を号けて鷹甘邑(たかかひのむら)と曰ふ。(仁徳紀四十三年九月)

 鷹のことを百済にクチと言っていた。本邦に在来していなかったわけではなく、鷹狩に利用する目的で家畜化されて、そのときタカという存在が我々人間の命名の対象となった。この記事が伝えたいことはかなり逆説的で皮肉なものである。自然界の hawk は自らのために狩りをする。曲って鋭い嘴で獲物を捕えて殺すと同時にえぐるように器用に食べている。鷹狩でそれをされると猟師は獲るものがない。そこで飼い馴らすときに鋭利な嘴の先を切ってなかなか食べられないようにする。hawk がハ(刃)となる嘴の機能を失っていて、それがハ(歯)のない開いた口に当るから、それをクチと呼んでいたということであろう。古代百済語に hawk のことをクチと言っていたとする記述は見られない。
鷹架(左:一遍聖絵巻第四模本、狩野養長模、江戸時代、天保11年(1840)、東博展示品、右:養鷹秘抄、続群書類聚第19輯ノ中、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936508/167~168をトリミング接合(注4)
 高倉がタカクラと訓まれる限りにおいて、鷹鞍の意に解せられる。高倉下が鷹鞍下のこととするなら、鷹架の下には布が張られることに目が向く。鷹が宙返りしないようにするための工夫であるという(注5)。その幕は帷(かたびら)、帟(ひらばり)に当たるものであろう。和名抄に、「帷 釈名に云はく、帷〈音は維、加太比良(かたびら)〉は囲ひなり、以て自ら障へ囲ふなりといふ。」、「幕 唐式に云はく、衛尉寺に六幅幕・八幅幕といふ。〈音は莫、万玖(まく)〉」、「帟 周礼注に云はく、平帳は帟〈余古反、比良波利(ひらばり)〉と曰ふといふ。」とある。ひらひらとしているものを張っている。鷹道具に定められているように、高倉下にとって、どのようなカタビラが好ましくてどのようなものはそうでないか、よくわかっていたことを物語っている。
 クラジという音を聞いた時、クラ(動詞クル(繰・絡)の未然形)+ジ(助動詞)の意に受け取ることができる。糸など細長いものを手元に引き寄せること、たぐることをしないつもりだ、してはいけない、しないだろう、といった意味合いにとれる。タグルには吐くの意がある。「寧(いづくに)ぞ口より吐(たぐ)れる物を以て、敢へて我に養(あ)ふべけむ」(神代紀第五段一書第十一)とある。
 神倭伊波礼毘古命らが皆、をえして寝てしまっているのに高倉下だけは起きていた。吐くことがない彼は、食中毒にならなかったということである。今日でも使われるように、「遠延(をえ)」とは吐くときの奇声による語と考えられる。天皇の一行は大熊の髪の目立つ動物、ツキノワグマの様子を目にしていて、熊が食べているのだから食べられるだろうと思って食べたら中毒症状を起こして眠ってしまったというのである。熊野村の高倉下という人ばかりは食当たりせずに起きていた。
 タカクラジという音からは、タカ(タケ(茸)の音転)+クラハジ(不食)の約と聞こえる。ハ(歯)が欠けていることは、「食」字と「倉」字との違いに表れている。「食(𩚁)」の下の部分は匕(あいくち)であって刃物、つまり歯物があるから食べられる。「倉」の下の部分は開いた口の形で歯がない。そして、鷹鞍下にひらひらした布が規定にしたがって施されていたから、食べるならヒラタケ(注6)を食べたということである。一方、皇軍は熊に当てられている。クマヒラを食べて中毒になったということであろう。別名をツキヨタケといい、かすかに発光する。真っ暗闇の中で光るさまを、全身黒いツキノワグマの首元の白い部分に見立てた呼称かもしれない。このクマヒラは毒キノコで、下痢、嘔吐、腹痛、景色が青白く見えるといった幻覚症状などが生じる。
左:高倉ジオラマ(橿原考古学研究所附属博物館展示品)、中:ヒラタケ(福岡県産ヒラタケ、(株)ホクト製市場流通品)、右:クマヒラ(国立研究開発法人 森林研究・整備機構 森林総合研究所ホームページ「自然探訪2014年10月 ツキヨタケ」https://www.ffpri.affrc.go.jp/snap/2014/10-tsukiyotake.html)

刀の献上の仕方─あさめよく─

 「あさめよく」取り持って天つ御子に献上するようにと指示されている。この「あさめよく」という語は語彙未詳とされ、「アシタノヨク」(賀茂真淵・冠辞考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898688/25)、「朝の間に能く」(朝疾く)(荷田春満・古事記箚記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920715/117)、「アサはアサル(漁)の語基、メは「目」、ヨクは「良く」で、「十分目配りして探しての意か。」(新編全集本古事記147頁)とする説があげられている。これらは文章が読めていない。「故、阿佐米余玖、汝、取持献天神御子。」は、だから、おまえは、「あさめよく」取り持って天神御子に献上しなさい、と命ぜられている一文である。天照大神と高木神が居合わせているところで、建御雷神が高倉下に向って、眠りについている神倭伊波礼毘古命のところへ「取持」して献上するようにと言った、と夢に見ている。高倉下は熊野の住人で、神倭伊波礼毘古命の皇軍に加わっていた人物ではない。刀を持って行ったらその時が初対面である。それも眠っている人を目覚めさせて渡すように、その真の意思が通じるように「取持」せよと言っている。渡すものは刃物である。初対面の寝ている相手を起してまで渡すのである。やり方が不適切だと敵だと思われて斬り合いになるかもしれない。そんなことになったら、渡すこともできなければ、その渡そうとする意思、好意も通じないことになる。その両方の意味を含めて「取持」と記されている。
 呼びかけの語は「汝」である。ナムチ、ナレ、イマシなどと訓まれる。高倉下の夢のなかに自身が登場していて、建御雷神から呼びかけられている。この呼びかけを天照大神・高木神の二柱と建御雷神との間の問答の状況下に見るか、その問答が終ってから建御雷神から単独に命じられたものと見るかによって訓み方が変わってくる。筆者は、天照大神・高木神の二柱と建御雷神との間の問答が続いているものと考える。天照大神・高木神の二柱の目の前で建御雷神から命じられている光景を描いた言い回しととるのである。そうしないと迫真性が失われる。建御雷神は天照大神・高木神の二柱から「可降」と言われているのに、いやいや代わりに「可是刀」と主張している。それでOKであるかどうか、記に天照大神・高木神の二柱が認めたとする記述が見られない。紀では「諾 諾、此云宇毎那利。」となっている。良しとするから話は展開しているはずである。すなわち、建御雷神が天照大神・高木神の二柱に代わりの方法を開陳し、それが正しいと聞き手に認められるようにされているはずである。
 よって、「降此刀状」の正当性が確認される必要がある。紀では、「倒立於庫底板」とある。高床倉庫のなかの敷板に突き刺さっている。記では、ただ「穿高倉下之倉頂、自其堕入」となっている。それが正当なやり方であったとわかるには、刀が降ろされることが何かしらふさわしいと感じられなければならない。その唯一の方法は、高倉下の倉のなかに刀を待ち受けるものがあったということに限られよう。すなわち、鞘が置かれていて「堕入」したときにそれに収まったということに相違あるまい。献上のときには鞘に入れた状態で渡したので要らぬ疑いは払拭されている。紀とは話の細部に違いがある。
 渡す直前の状況も記されている。「賷一横刀、到於天神御子之伏地而献之時、天神御子、即寤起、詔、「長寝乎。」故、受‐取其横刀之時、其熊野山之荒神、自皆為切仆。」とある。「一横刀」をどうやってもっているか。「一」をヒトフリと刀特有の助数詞をつけて訓んでいる。これには、動詞フル(振)の意が込められているのであろう。刀を横に、つまり地面と平行に一回ぐるりと振るうのである。そうしておいて鞘に収めて献上しているから、天神御子が目を覚ました時、ああ、長く寝ていたと言ったときに「其熊野山之荒神、自皆為切仆。」となっていて正しいのである。天神御子は地面に寝そべっていたから、一振り振るったときにも当ることなく、一方立っていた「其熊野山之荒神」は自動的に皆、切り仆されることになっている。献上した横刀に霊威があって荒ぶる神たちはひとりでに姿を隠したのではなく、「横刀」のヒトフリに切り倒されたのである。
 そのやり方について、建御雷神から「あさめよく(メ・ヨは乙類)」と注意されている。上手い具合に、順調な次第で行うことを表す語であろう。紀のように、床に刺さった刀をそこから引き抜いて剥き出しで持って行けば、いつでも殺傷することができようが、高倉下は熊野村の在地の人であって神武天皇に付き従っていたわけではなく、互いに知らない間柄である。刀を献上するには鞘に収めてなければ敵意剥き出しになってしまう。すなわち、「あさめよく」という言葉は、神倭伊波礼毘古命が反射的に思うであろうことを、そうではないのです、ご安心ください、と真意を伝えることの良いことを言っている。条件反射的な反応を諫めるのである。諫めることは古語にイサム(諫)、また、アサム(諫)という。「相手の行為を浅いものと判断して、それに対して意見をいうこと。」(大系本日本書紀27頁)で、下二段活用の動詞である。

 然れども兄(このかみ)の王の志を視(み)るに、便(たやす)く諫(あさ)むること得(う)まじ。(垂仁紀四年九月)
 是に、朴市田来津、独り進みて諫(あさ)めて曰く、……(天智紀元年十二月)

 寝起きで反射的に敵だと勘違いするのを、上手に諫めて仲を取り持つようにして横刀を取り持って献上しなさいということである。音の転じたイサム(諫)という語は、イサ(不知)という語を活用させた語である(注7)。相手の行動を拒否し、抑制する意である。「あさめよく」が枕詞的発想に作られた語であるなら、「あさめよく」は悪夢のままに変な考えを起こさないでいい目覚めを可能ならしめるという意があるのであろう。それを可能とさせるのは、献上する刀がきちんと鞘に収まっていることが必須である。すなわち、葦原中国の、「いたくさやぎてありなり」に対し、鞘をもって対処することである。その鞘には鮫皮が使われて、サメ(寤・醒・覚)にもってこいであったということではないか(注8)。鮫(さめ、メは乙類)、下二段動詞サム(寤・醒・覚)の連用形サメのメは乙類である。酔い、夢、眠り、前後不覚から正気に戻ること、蘇生することを表している。
牡丹造梅花皮鮫鞘腰刀拵(南北朝時代、14世紀、京都国立博物館蔵、国立文化財機構所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyohaku/E%E7%94%B2182?locale=ja)
 鮫 陸詞切韻に云はく、鮫〈音は交、佐米(さめ)〉は魚の皮にして文有り、以て刀剣を飾るべき者なりといふ。兼名苑に、一名に𩶅〓(弥冠に魚)〈低迷の二音〉と云ふ。本草に、一名に䱜魚〈上は食各反〉と云ふ。拾遺に、一名に鯊魚〈上の音は沙、字は亦、魦に作る〉と云ふ。(和名抄)
 天つ神御子、即ち寤(さ)め起きて、……(神武記)
 高倉、「唯々(をを)」と曰(まを)すとみて寤めぬ。(神武前紀戊午年六月)
 猶(なほ)失意(こころまどひ)せること酔へるが如し。因りて山の下の泉の側(ほとり)に居て、乃ち其の水を飲(を)して醒(さ)めぬ。故、其の泉を号けて、居醒泉(ゐさめがゐ)と曰ふ。(景行紀四十年是歳)
 地に躃(たふ)れて臥し嘿然(ひそか)なり。曰(ものい)はず。良(やや)久(ひさ)にありて蘇(さ)め起(た)ち、……(霊異記・中・第十)
 夢より醒(さ)め驚きて思ひ怪しび、……(霊異記・上・第十八)
 水を以て灑(そそ)きて蘇(さ)めしめつ。(金光明経最勝王経・巻第十)
 法を聞かぬ先は酔へるが如し。法を聞きつる後は醒めたるが如し。(東大寺諷誦文稿)

 ここに、記における高倉下とは、鮫皮でできた刀の鞘のことを擬人化し、具現化した人物であることを示すための謂いであったと知れる。話にその鮫はシュモクザメと思われた可能性が高く、頭部の撞木部分を穿つことが「穿高倉下之倉頂」と述べられており(注9)、胴体は収めるところ、倉の内部空間、刀では鞘に見立てられていたのであった。
左:シュモクザメ線刻(琴板、豊岡市出石町袴狹遺跡出土、弥生時代後期~古墳時代前期、兵庫県立考古博物館ホームページhttps://www.hyogo-koukohaku.jp/modules/collection/index.php?action=PageView&page_id=19)を回転、右:シュモクザメ絵(かせ鰐、隠岐国産物絵図注書(写)、原書は享保19年(1734)頃、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541411/30をトリミング)

(注)
(注1)諸説をあげる。
故、天神御子、問獲其横刀之所由、
高倉下答曰、「己夢云、【天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔、『葦原中国者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理。……我御子等、不平坐良志。……其葦原中国者、専汝所言向之国、故汝建御雷神可降。』爾答白、『僕雖不降、専有平其国之横刀、可降是刀。……降此刀状者、穿高倉下之倉頂、自其堕入。故、阿佐米余玖……汝取持献天神御子。』】故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而献耳。」(西郷2005.、尾崎1966.、倉野1963.)
故、天神御子、問獲其横刀之所由、
高倉下答曰、「己夢云、【天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔、『葦原中国者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理。……我御子等、不平坐良志。……其葦原中国者、専汝所言向之国、故汝建御雷神可降。』爾答白、『僕雖不降、専有平其国之横刀、可降是刀。……降此刀状者、穿高倉下之倉頂、自其堕入。』『故、阿佐米余玖……汝取持献天神御子。』】故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而献耳。」(日本古典全書、中村2009.、新校古事記、新編全集本古事記では「己夢云」を「己夢之」とする。本居宣長・古事記伝は、「堕入オトシイレムの下に脱文オチタルコトあるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/486)としており、次田1943.も従う。)
故、天神御子、問獲其横刀之所由、
高倉下答曰、「己夢云、【天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔、『葦原中国者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理。……我御子等、不平坐良志。……其葦原中国者、専汝所言向之国、故汝建御雷神可降。』爾答白、『僕雖不降、専有平其国之横刀、可降是刀。』……降此刀状者、穿高倉下之倉頂、自其堕入。故、阿佐米余玖……汝取持献天神御子。】故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而献耳。」(西宮1979.、思想大系本古事記)
(注2)新釈全訳日本書紀に、「クラジは元来地名と思われる……が、物語内ではこの霊剣が高倉に下されるエピソードと結びついて意味を持つ。」(305頁)とある。クラジという地名表記に逸話の意味から「倉下」と書いたとすることになるが、その強引さについては説かれない。
(注3)前田本、「令養馴」にヤスムと傍訓がある。鷹は安息しているのではなく、止まり木に静かに止まっているようにさせている。人の腕に乗っても逃げていかないようになるのが最終目標である。このヤスムは他動詞である。犬を調教するとき、「お座り」と命じたらそのポーズをとるようにさせている。リードがなくてもそれができるようになったら完璧である。
(注4)鷹狩道具等図解、彦根城博物館「彦根藩井伊家の鷹狩り」https://hikone-castle-museum.jp/exhibition_old/7563.html参照。
(注5)鷹道具に、「架垂ホコタレ」といい、「流球表に裏打をなせるもの。幅約三尺、長さ六尺。架に掛け鷹の、とまりたる時、すべらぬ為に使用す。」(宮内省式部職編『放鷹』吉川弘文館、昭和7年。371頁。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512/211、漢字の旧字体は改めた。)とあるもので、「ほこ衣(ぎぬ)」(鷹口伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936508/152)、「ほこ布」(禰津松鴎軒記、国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/img/706423(19/29))ともいう。
(注6)ヒラタケはかつて、ビン栽培して株立ち状に仕立てたものを「シメジ」と称して売られていた。シメジという言葉は、湿地(しめぢ)によるとする説もあるが、茸の類に○○ジという言い方があった可能性は残る。高倉下(たかくらじ)なる高床倉庫の下の柱脚に雨が当たってキノコが発生することはあるであろう。現在復元されている高床倉庫は、掘立柱に似せてコンクリート基礎の上に建てられていることがほとんどである。
(注7)このイサという語には、同音にイサ(ナ)という語がある。クジラのことをいう。「俗(くにひと)、鯨を云ひて伊佐(いさ)と為す。」(壱岐風土記逸文)と見え、イサナの形が多く用いられている。命じられているのは高倉下である。クラジとクジラはよく似ている。彼は名に諫む意味を負っていて、その名のとおり上手に諫めながら取り持って、武器を献上することができたのであった。
 海洋動物の鯨について、上代にクヂラ、クジラのいずれであったか決め難い。

 鯨鯢 唐韻に云はく、大魚にして雄を鯨〈渠京反〉と曰ひ、雌を鯢〈音は蜺、久知良(くぢら)〉と曰ふといふ。淮南子に云はく、鯨・鯢は魚の王なりといふ。(和名抄)
 鯢 吾嵆反、平、女久知良(めくぢら)(新撰字鏡)
 古老(ふるおきな)の曰へらく、郡より南、近く小さき丘有り。體(かたち)、鯨鯢(くじら)に似たり。倭武(やまとたける)の天皇、因りて久慈(くじ)と名づけたまひき。(常陸風土記・久慈郡)

 洒落を言っている高倉下の例からすれば、どちらとも正しいのではないか。神武記の歌謡にクヂラは出てくる。それが鯨のことを言うか、上に述べた鷹の古語、クチの複数形、クチ等(ら)の意か二つの説が唱えられている。

 宇陀(うだ)の 高城(たかき)に 鴫縄(しぎわな)張る 我が待つや 鴫は障(さや)らず いすくはし くぢら障る 前妻(こなみ)が 肴(な)乞はさば 立ち蕎麦の 実の無けくを こきしひゑね 後妻(うはなり)が 肴乞はさば 厳榊(いちさかき) 実の多けくを こきだひゑね ええしやごしや〈此は、いのごふそ〉 ああしやごしや〈此は、嘲咲(あざわら)ふぞ〉(記7)

 鯨説と鷹等(くちら)説とがあっても、どちらも正しいのではないか。すなわち、洒落を言っている。鷹を指せばタカクラジのことが連想される。鯨を指せばタカクラジの音転しているものを連想される。鴫縄にシギはかからないで、イサなるもの、そうじゃないんだ、そうじゃないんだ、という本来かかるべきもの以外のものがかかっている。
(注8)和名抄に、「属鏤 広雅に云はく、属鏤〈力朱反、文選に豆流岐(つるき)と読む〉は剣なりといふ。」とある。属鏤は、呉王夫差が伍子胥に死ぬように与えたとされる名剣の名である。史記・呉太伯世家に、「呉王聞之、大怒、賜子胥属鏤之剣以死。」とある。「子胥に属鏤之剣を賜ふ」との記事は、春秋左氏伝・哀公十一年条にも載る。文選には、張衡・呉都賦に「鮫函(さめさや)を扈(かぶ)り帯(は)き、属鏤(しょくるのつるぎ)を抜(ぬ)き揄(ひ)く。(扈‐帯鮫函、抜‐揄属鏤。)」とある。六臣註の最後に「良曰、扈者従君主行也。鮫函者以鮫皮刀。抜‐投属鏤剣名也。皆帯以従君行也。」とあり、鮫皮で装った鞘から名刀を抜き揄いている。「抜揄」は「扶揄」、「抜投」にも作る。
 矢野1979.に、「刀のさやをサメ皮で包むのは柄鮫ほど古くからではなく南北朝時代からと思う。」(155~156頁)とあるが、そうとは限られないであろう。神山1943.に、シュモクザメは「蒲鉾原料及び皮革原料としての利用度が高い。」(218頁)といい、「皮革という観点からのみ考へれば、鮫は漁獲すると同時に皮を剥いで塩蔵することが最も理想的の処理方法に違いないが、」(318頁、漢字の旧字体は改めた。)同時に食用とするためになかなかそうはいかない点について戦時下での状況を述べている。皮の製造法については同書に詳しく、『代用品の話』104頁(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1230931/56)に簡単な紹介が載る。
撞木鮫皮の剥ぎ方図解?(腹開き皮?、神山1943.323頁第18図を改変)
(注9)現在、実際にでこぼこした鮫皮として利用されているものは、輸入された熱帯産のツカエイであるという。シュモクザメによく似た形をして頭部が横に広がっている。記の「穿高倉下之倉頂」の「頂」は、旧訓どおりムネと訓むべきことがわかる。撞木部を棟木に見立てているからである。鮫を倉に見立てることは、胎生であることから理解できよう。現在、呉服商が利用している狭幅の衣桁である撞木は、もともと反物を垂らして見せて着姿を想像させるためのものであるが、その様子は鷹架の下にヒラを懸けているのとよく似ている。高田2019.は、「「呼び名がないと厄介だが、これは『小型衣桁』とでも呼ぶのかい?」……「撞木杖から思いついたので、今は仮に『撞木』と呼ばせてくださいな」」(260頁)と使っている。
架鷹コラージュ(ウィキペディア、SLIMHANNYA様「鈴木長吉 十二の鷹(東京国立近代美術館工芸館「名工の明治」展にて)」https://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木長吉、及び撞木にかけられた反物)
 内田2009.は矢野1979.の記紀のワニをすべてシュモクザメと見る説に同調している。筆者は「佐比持神(さひもちのかみ)」とも謂われるとする「一尋和邇(ひとひろわに)」(記上)はシュモクザメを念頭にそう描かれていると考えるが、記にある稲羽の素菟説話や紀にある「海神(わたつみ)の乗る駿馬(すぐれたるうま)」とされる「八尋鰐(やひろわに)」は別物であろうと考える。記紀の説話は話(咄・噺・譚)である。話のためにワニと呼んでいるので、種の同定と直接関係するものではない。言葉の研究においては、山陰地方に魚類の分類にサメのことを方言にワニと呼んでいるから記紀に登場するワニはすべからく shark であると決めてしまうのではなく、どうしてワニという言葉がわざわざ使われているのかから始められなければならない。

(引用・参考文献)
内田2009. 内田律雄『古代日本海の漁撈民』同成社、2009年。
尾崎1966. 尾崎暢殃『古事記全講』加藤中道館、昭和41年。
神山1943. 神山峻『水産皮革』水産経済研究所、昭和18年。
川村1910. 川村清一「月夜茸及ビ其發光現象ニ就テ(一)」『植物学雑誌』第24巻第281号、明治43年6月。国立研究開発法人科学技術振興機構https://doi.org/10.15281/jplantres1887.24.281_165
倉野1963. 倉野憲司校注『古事記』岩波書店(岩波文庫)、1963年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
大系本日本書紀 大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
『代用品の話』 ダイヤモンド社編『代用品の話』ダイヤモンド社、昭和13年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1230931/56
高田2019. 高田郁『あきない世傳 金と銀 六 本流篇』角川春樹事務所(時代小説文庫)、2019年。
田中2012. 田中卓『続田中卓著作集4 日本建国史と邪馬台国』国書刊行会、平成24年。
次田1924. 次田潤『古事記新考』明治書院、大正13年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1918074
中村2009. 中村啓信『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
西宮1979. 西宮一民『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
日本古典全書 神田秀夫・太田善麿校註『日本古典全書 古事記下』朝日新聞社、昭和37年。
矢野1979. 矢野憲一『鮫』法政大学出版局、1979年。

(English Summary)
In Emperor Jimmu eastern expedition, a person named Takakuraji presented a treasure sword to him at Kumano. In this article, we will understand that the short story was made well as a folklore related to the name of Takakuraji by reading Yamato Kotoba in it, in detail.

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