古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

高安王の鮒を贈る歌

2023年09月05日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻四に、女性に鮒を贈って気を引いた王族の歌が載っている。

  高安王たかやすのおほきみつつめる鮒を娘子をとめに贈る歌一首〈高安王は後にかばね大原真人のうぢを賜へり〉〔高安王褁鮒贈娘子歌一首〈高安王者後賜姓大原真人氏〉〕
 沖辺おきへ行き を行き今や 妹がため 吾がすなどれる 藻臥束鮒もふしつかふな〔奥弊徃邊去伊麻夜為妹吾漁有藻臥束鮒〕(万625)

沖辺を行き岸辺を行って、今あなたのために私が捕った藻伏束鮒です。
▷高安王が包みにした鮒を娘子に贈ったときの歌。「鮒」は、平城ママ木簡の一つに「東市買進上物 雑一翼 鮮鮒十隻 螺廿貝 右物付倭麻呂進上如前天平八年十一月廿五日下村主大魚」とあるように、市で売買されていたことが分かる。高安王も、市で手に入れた鮒を娘子に贈って、戯れに自ら漁したと詠ったのだろう。「沖辺」は岸辺から離れた川の真中の方。「藻伏束鮒」は、藻に隠れている一束(握りこぶし)ほどの長さの鮒。(新大系文庫本389頁)

 諸注釈書とも、おおむねこのような注解が行われている(注1)。到底納得の行くものではない。
 川か池かわからないが、娘子に贈ったフナは、その岸から遠いところで捕ったフナか、岸近くで捕ったフナか、訳ではわからない。どうでもいいことのように思われるかもしれないが、なぜ「沖辺おきへ行きを行き」と贅言を尽くしているのか。市場で買ったのならそういえばいいのに、行き巡ってようやく藻に隠れている7~8㎝サイズのフナを捕まえたからそれを贈りますと言っている。常識的に考えて、身分ある人が女の子にプレゼントとするのに、フナを一匹、それも小さいものをプレゼントするというのはあり得ないだろう。そこを諧謔の趣きと考えるのが今日の通説のようであるが、子供騙しに縁日の金魚すくいの金魚を贈ったといった歌ではなかろう。当時、一般民に観賞魚の風習があったとは考えにくい。
 川や池の中にいるとき、フナは「藻臥束鮒もふしつかふな」、つまり、藻の生えているところに隠れて棲息している。その性質を利用して柴漬ふしづけ漁が行われていた。ふしと呼ばれる小枝の束を水中に沈め、棲みついた魚やエビを捕まえている。野生動物は突然現れたふしにすぐに近寄ることはない。警戒心があるから時間をかけて入るのを待つことになる。数か月置いておけば藻が生えてきて魚も不自然さを感じなくなり、そこを寝床にするようである。冬に仕掛けて春先に周囲を囲んで逃げられないようにして引き上げた。
左:柴漬漁(霞ヶ浦における笹漬、小川良徳「人工漁礁と魚付き」『水産増殖』1968巻臨時号7、昭和43年3月、4頁をトリミング。J-STAGE https://doi.org/10.11233/aquaculturesci1953.1968.Special7_3)、右:柴漬漁(「於朶漁」、日本捕魚図志、国文学資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200022092/13?ln=jaをトリミング)
 葦や藁などで作られたつとにフナが包まれていたら、柴漬ふしづけのなかに魚が入っているのとよく似ていることになっている。意図的に同じような形状にして理解しやすくしていると言える。とはいえ、「吾がすなどれる」と誇れるほどの大きさではない。想定に矛盾があるのではないか。
 筆者は、贈った苞の中身は「鮮鮒」ではなく、「鮒ずし」(注2)ではないかと考える。平城京木簡に、「天平八年三月十八日鮨鮒○数五十一隻」、「日下「鮒鮨鮒」六升三合」などとある。馴れずしとして完成したフナを藁苞に包んで贈ることは考えられる。一樽に何十匹も入れて漬けたうちから選んで包んで贈ったということであろう。「沖辺おきへ行きを行き」して捕ったたくさんのフナを漬けたということだろう。あるいは漬樽のなかを手でまさぐって取りあげたことを指しているのかもしれない。桶の中央部か周辺部かを表すのに、「沖辺おきへ行きを行き」と言っているのかもしれない。水中でふしを漬けて捕ったフナを馴れずしに漬けている。うまく漬かって発酵した鮒ずしを柴漬ふしづけ様に苞にしている。
鮒ずし(滋賀県ホームページ「こころに残る滋賀の風景」https://www.pref.shiga.lg.jp/site/kokoro/area_sonota/details/0342_details.html)
 「沖辺おきへ行きを行き今や妹がため吾がすなどれる」とある「今や」の「や」は改めて考えなければならない。既存の説としては管見に入らないが、これは反語を表す。沖辺を行き、岸辺を行って、たった今あなたのために、と訳すのには誤謬がある。反語の本意は、沖辺を行き、岸辺を行って捕ったその今か、いやいやその今ではない、という意味である。「や」は、確定的、既定的なことを承ける。歌のなかの「今」は、漁をしてフナを捕まえたその時のことを指すのであろう。その決まっている「今」であろうか、いやいやそうではないと言い、かなり時間が経過していることを示唆する表現となっている。馴れずしを作るには、先に塩漬けして水があがってきたら重石をする。夏の初めに水洗いして塩抜きし、硬めに炊いたご飯と一緒に漬け込み、秋から冬に乳酸発酵がすすんで食べごろとなる。十カ月ほどかかっている。しかも柴漬ふしづけ漁なのだから、ふしを沈めてから計算すると一年近く経っている。沈めたときも、「沖辺おきへ行きを行き」していた。いつからあなたのことを思っていたのか。「沖辺おきへ行きを行き」するほどか、いやいやそれどころではない。一年ほども過ぎている。あなたのために捕ったフナを長い間漬けて発酵、熟成させていました。その間ずっと思い続けていました。フナと私の気持ちともどももらってくれますか。
 「束鮒つかふな」は小さなサイズである。小さければ発酵は比較的速く進む。大きいと熟成に二年ぐらいかかる。鮒ずしに作る時には内臓を出してご飯を詰める。やっていることはミイラ作りとよく似ている。一定単位量のフナを樽の中でミイラにする、つまりは喪に際して横並びに臥させることをしている。そういうことを「藻臥束鮒もふしつかふな」という言葉に込めているのではないか。「つか」はたばねたものを数える語でもある。「きだごとにたちからの稲二束ふたつか二把ふたたばり」(孝徳紀大化二年二月)とある。漬樽にはご飯とご飯詰めしたフナとを交互に積んでいく。段ごとにフナとご飯とを置いていっている。つまり、「束鮒つかふな」の「つか」は「ふな」にかかってその長さを表しているのではなく、ご飯のもととなるイネの量を勘定したもの言いなのではないか。
 そしてまた、ツカには、土を盛りあげて突いて造った墓のことも表す。冢や塚の字が使われる。鮒ずしの漬樽はフナのお墓なのであり、そこから発掘して苞にくるんで持って行っている。そう考えるなら、苞の中身がフナとご飯の発酵食品であることを示すものとして、苞の素材には稲藁を用いた藁苞であったと想定される。どうしてわざわざ苞にくるんでいると断っていたのかが読み解ける。そして、「束鮒つかふな」という大きさの指定はフナの長さのことを言っているのではなく、十把を一束と数えた助数詞のツカのようにあるフナという意味ではないか(注3)。よく漬かった鮒ずしを一尾ずつ入れて苞とし、それを数珠つなぎにしたもののことを言うのであろう。「沖辺」で捕れたもの、「辺」で捕れたもの、複数あるから束ねているとしていると考えられるのである。
 鮒ずしは好き嫌いが多い食べ物である。たまに食べるのに向いている。一度にたくさん貰ってはいつまでも台所が臭くて困るもので、そんな時には親戚や近所に配るであろう。もはや秘した恋ではなく、高安王は公然と娘子を貰い受けようとしている。娘子やその一族に、鮒ずしのにおいのように強烈な印象を与えようと企てていたのであった。
 左注に、「高安王者後賜姓大原真人氏」とあり、賜姓降下して「大原真人高安」となったことが注されている。オホハラはオホ(大)+ハラ(腹)、食欲旺盛な人を思わせる。「真人」というのもただ何でも食べるというのではなく、人間ならではの嗜好を有していたということを示すのであろう。いわゆるグルメである。同じく魚好きのネコであっても、フナをくわえてどこかへ持って行き、隠れて鮒ずしを作っているという話を聞いたことがない。

(注)
(注1)「人に物を贈るに添えた歌は、……[万782・1460・4455]などにあるが、それらはいずれも、このようにまで苦労した、と言って努力を認めてもらおうとする。この歌も、王と呼ばれる身分でありながら川の中を裾をまくって飛沫を上げながら捕った、その成果が長さたった三寸の鮒、と言うところに戯笑性が感じられる。」(木下1983.253頁)、「上二句の大げさな表現に対し、下の鮒が一握りほどに小さい点が興をそそる。それだけで娘子への誠意が知られるけれども、あるいは、「藻臥束鮒」に、あなたのためにはすべてを投げ出してつつましく控える意を託しているのかもしれない。」(伊藤1996.543頁)などと評されている。
(注2)鮒ずしが奈良時代にどのように作られていたのかについては、推測の域を出ることはない。ここでは製法は今日とさほど変わらないものと考えている。あるいは、この歌がかなり確度の高い文献資料に該当するのかもしれない。
(注3)「つか」を長さの単位とした場合、「束鮒」が7~8㎝のフナということになり、たくさん貰って甘露煮にするならともかく、一尾だけでは扱いに困るであろう。たばねたものを数える単位とした場合、「束鮒」はフナの干物を束にしたものと想定することはできるが、鰹節や身欠き鰊、干鮑のように加工したものが一般的に存在したのか不明である。題詞の「褁鮒」と歌詞の「束鮒」とが両立するべく整合性を考えたとき、鮒ずしの藁苞による個別包装を想定するのがいちばん理にかなっていると思う。

(引用・参考文献)
石毛・ラドル1990. 石毛直道・ケネス-ラドル『魚醬とナレズシの研究』岩波書店、1990年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
木下1983. 木下正俊『萬葉集全注 巻第四』有斐閣、昭和58年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
橋本1974. 橋本四郎「つつむ」『萬葉』第85号、昭和49年9月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1974
橋本2016. 橋本道範編『再考ふなずしの歴史』サンライズ出版、2016年。

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