持統六年三月、天皇は伊勢へ行幸した。中納言三輪朝臣高市麻呂は時期が悪いから延期するように諫言したが天皇は強行した。その時に歌われた歌が万葉集巻一の万40〜44番歌である。最初の三首は柿本人麻呂の歌で、当麻真人麻呂の妻、石上大臣が一首ずつ加えている。
伊勢国に幸す時に、京に留むる柿本朝臣人麻呂の作る歌〔幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌〕
嗚呼見の浦に 船乗りすらむ 娘子らが 玉裳の裾に 潮満つらむか〔鳴呼見乃浦尓船乗為良武𡢳嬬等之珠裳乃須十二四寳三都良武香〕(万40)
釧着く 答志の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ〔釼著手節乃埼二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武〕(万41)
潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を〔潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎〕(万42)
当麻真人麻呂が妻の作る歌〔當麻真人麻呂妻作歌〕
吾が背子は いづく行くらむ 沖つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ〔吾勢枯波何所行良武己津物隠乃山乎今日香越等六〕(万43)
石上大臣の従駕なりて作る歌〔石上大臣従駕作歌〕
吾妹子を いざ見の山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも〔吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞〕(万44)
右は、日本紀に曰はく、「朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰に、浄広肆広瀬王等を以て留守官と為す。是に中納言三輪朝臣高市麻呂、其の冠位を脱きて朝に擎上げ、重ねて諌めて曰さく、『農作の前に、車駕、未だ以て動くべからず』とまをす。辛未に、天皇、諌めに従ひたまはず。遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔にして庚午に、阿胡行宮に御す」といふ。〔右日本紀曰朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以浄廣肆廣瀬王等為留守官於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位擎上於朝重諌曰農作之前車駕未可以動辛未天皇不従諌遂幸伊勢五月乙丑朔庚午御阿胡行宮〕
これらの歌はいわゆる行幸従駕歌と見られている(注1)がそうではない。四首目まで行幸時に京を守るために残された側から歌われている。この時の行幸では、三輪高市麻呂が反対し、冠位を捨てる覚悟で諫言している。なぜ天皇は行幸を決行したのか、なぜ三輪高市麻呂は猛烈に反対したのか、その理由等については、これまでにも諸説あげられてきたが、なお要を得た回答は得られていない。
ただ言えるであろうことは、都に留まる側から行幸する人への思いを歌った歌が冒頭から四首も続いているのだから、三輪高市麻呂の立場と同じ思いを歌っている可能性が高いという点である。この歌を万葉集に採録した人はそのことを理解していて、適切に左注を施したのだろう。
三輪高市麻呂は、諫める理由に「農作」をあげている。憲法十七条の第十六条に、「十六に曰はく、民を使ふに時を以てするは、古の良き典なり。故、冬の月に間有らば、以て民を使ふべし。春より秋に至るまでに、農桑の節なり。民を使ふべからず。其れ農せずは何をか食はむ、桑せずは何をか服む。」(推古十二年四月)とある。季節的にも「春三月」なら田植えの時期に近い農繁期に当たり、人民は多忙を極めていたことであろう。農作業に支障が出ては農本主義は成り立たない。当然の主張である。一連の歌のなかでは、万43番歌が農作業にかかわらせて歌を詠んだものと思しい。
吾が背子は いづく行くらむ 沖つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ(万43)
人麻呂の三首に続いて当麻真人麻呂の妻が歌を作っている。タギマノマヒトマロのことを思ってのことであろう。どうして登場しているのか。タギマという音が、タク(動詞)+ウマ(馬)のこと、馬の手綱をたくし上げるように操ることと関係していると思ったからであり、思わせたいからであろう。春の農作業、田作りをとりあげている。馬を使う作業としては、田起しや田均しがある。馬に馬鍬を引かせて代掻きをした。「農作之前」にすることである。なのに、当麻真人麻呂は従駕させられ、あろうことか農耕に使うべき馬に乗って出かけてしまった。田作りは疎かになってしまっている。我が夫はどこを進んでいるのだろう、藻が流れていってどこへ行ったかわからないように隠れてしまうという、そのナバリの山を今日あたり越えているのだろう、いい気なものだ、とぼやいている。伊勢への行幸だから、海にまつわることを持ち出すために「沖つ藻の」という枕詞を登場させ、ナバリという地名を歌っている。流れ流れてどこへ行ったものか、代掻きもしないで、という意味である。そのとき、ナバリには、ツナ(綱)+ハリ(張)の意を込めていたのだろう。条里制の田で一気に代掻きをするために、嫌がる馬を泥田へと手綱を張って引き入れて馬鍬を引かせていた。
吾妹子を いざ見の山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも(万44)
さらに石上大臣の歌が載っている。彼はイソノカミという名を負っている。いそいそと勇んで見ようとしている。従駕しているから、大和の方を見るために振り返っている。ちょうどイザミという山のあるところを通過している。さあ、見ようというのだが、イザミの山が高いからか、大和国が遠いからか、大和は見えない。進みながら振り返って見ようとすることは、振り返りつつ離れて行っている。上代では「振り離け見る」という。そういう行為に石上大臣は適任である。なぜなら、イソノカミという音は、イシノカメという音の転訛したものと思われるからである(注2)。石の甕(メは乙類)は酒を入れておく容器である。石を穿って作ったものではなく、石のような風合いの須恵器のことを指している。「酒」(ケは乙類)は「離け」(ケは乙類)と同音である。どんなに勇んで見ようとしても、それにふさわしい名を負っている私が見ても、大和を目にすることはできない。早く帰ろうよ、と歌っている。
人麻呂作の三首も、同じように諫言の気持ちをもって歌われたものと考えられる。伊勢(志摩を含む(注3))地方の地名を詠み込みながらなじるような歌になっている。
嗚呼見の浦に 船乗りすらむ 娘子らが 玉裳の裾に 潮満つらむか(万40)
万40番歌では、「玉裳の裾に潮満つらむか」と言っている。今は「農作之前」である。尻をからげながら泥田の水に浸かって作業をすべきところである。タヅクリ(田作り)の時、きれいな衣装を身に纏うこと、タヅクリ(手作り)などしない(注4)。「大和の 忍 の広瀬を 渡らむと 足結手作り 腰作らふも」(紀106)とあり、「手作り」は手で衣類の紐を結ぶなどして身づくろいすることをいう。盛装していながら海辺で遊んでいる場合ではないのである。
この歌で、「らむ」は二つ使われている。現在そうしているだろうと推量しているわけだが、後者のそれは疑問の助詞「か」を伴っている。裳の裾に潮が満ちているだろう、と言っているのではなく、裳の裾に潮が満ちているのだろうか、と疑問を投げかけている。情景を到底見ることなどできない都にいながら、推量に疑問を加えている。意図してそう歌っているとしか考えられない。場所は「嗚呼見の浦」である。当時の船の停泊形態としては、大型船の場合、ラグーンのようなところへ乗り入れて潮が引くのを待ち、干潟に乗り上げるようにしていた。出航形態はその逆をたどる。水位が増してきて船が浮かび、初めて航行が可能となる。
ところが、その場所はアミノウラである。アミ(網)+ノ(助詞)+ウラ(浦)ということは、浦という、海からみて奥まったところに海の水が満ちるのを待たなければならない。船の周りに潮を持って来ることを考えると、桶や盥で汲んできて満たせば何とかなるのだが、網では水を汲もうにも汲むことはできない。だから、いつまで待ってもちっとも船出はできないのではないか。「玉裳の裾に潮満つらむ」ことなんてないのではないか、と皮肉を言っているのである。
釧着く 答志の崎に 今日もかも の 玉藻刈るらむ(万41)
この歌の原文では、元暦校本などにより「今日」としているが、西本願寺本には「今」とある。「今もかも」と訓む可能性が残されている(注5)。筆者は、歌意を理解するうえで、「今もかも」が正しいと考える。
西本願寺本万葉集(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242401/1/20~21をトリミング接合)
万40番歌で歌っていた「玉裳」を引き継いで、「玉藻」を歌っている。当たり前の話であるが、玉藻を刈るのは漁民の仕事であって、大宮人のすることではない。では、宮廷社会の人間がタマモカルことがなかったかといえば、一度事件になったことがある。麻続王事件である。麻続王がその子どもを相手に、天皇の冠、中国で皇帝が被る玉藻と呼ばれる冠を被せて遊んでいた。天武天皇は激怒し、子どもを含めて流罪にした。天武四年(675)のこの事件のことは万葉集の万23・24番歌にも録されており、17年経過した持統六年(692)でも人々の間に記憶されていたことであろう。玉藻を借りるのと玉藻を刈るのとを絡めた洒落の歌が歌われた(注6)。すなわち、万41番歌においては、今でも玉藻を借りて遊ぶ輩がいるらしいと皮肉を言っていることになっている。
この解釈が正しいのは、序詞風に歌われている上の句が証明している。「釧着く 答志の崎に」の「釧着く」はタフシという地名の頭音、タ(手)を導く枕詞である。釧というブレスレットは、手に巻くから環とも呼ばれる。そんな手の関節、タフシ(手節)のことを表してしまう地名、答志の、さらに先のことを問題にしている。手首の関節よりも先にあるのは指である。古語にオヨビと言った。和名抄に、「指 唐韻に云はく、指〈諸視反、由比。俗に於与比と云ふ〉は手の指なり、指扐〈音は勒、於与比乃万太〉は指の間なりといふ。」とある。ヨの甲乙は不明ながら仮に乙類であるとすると、オヨビは動詞オヨブ(及)の連用形と同音である。「及ぶ」とは、至る、達する、の意で、時間的にも、空間的にも使われた。今に至るまでもまだ玉藻を借りて玉藻を刈るようなことになっているのだろう、と皮肉っている。
では、この人麻呂の歌はいつ歌われたのか。実際に行幸へ出掛けてしまってから都で歌われたものが、使者によって伊勢へ届けられたとは考えにくい。題詞を注意深く読むと、「幸二于伊勢国一時、留レ京柿本朝臣人麻呂作歌」と書いてある。行幸へ出掛けようとする寸前に、天皇一行がまだ都にいるときに歌われた歌である可能性がある。三輪高市麻呂が諫言したのとほど近い時に歌われたものであると推測される。
潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を(万42)
この歌は、「船に妹乗るらむか」とあり、船に彼女は乗船するのだろうか、と疑問を呈している。潮がさわさわと音を立てていて、島のめぐりは荒波が立っている。そんな伊良虞の島のあたりで船に乗ろうとしないのではないか、というのである。行幸へ行っても波が荒くて船に乗りたがらない女性たちがいて、ちっともおもしろくないよ、と言いたいのである。行幸に反対する意を表明している。
イラゴというからには、イラ(苛・莿)なる性格を有するところだろうと推測している。都から遠く離れたところの実際の地誌については知られていない(注7)。それでもイラゴノシマというところなのだから、イラ(苛・莿)なる島であろうと知恵が働いている。少なくとも歌を歌い、その歌われた歌をその場で聞いた人たちの間では、そのように思われたであろうと考えられる。それ以外にイラゴノシマという地名がとり上げられた理由は見出だせない。
何がイラ(苛・莿)なのか。島の性質なのだから、磯が多くて岩礁、暗礁がめぐっている島だと感じられよう。だから、やたらと潮騒の音がすることになっている。潮流の激しい時に海鳴りがしているのである。ざわざわと音がするのは、潮の流れが海中の巌にぶつかっているからである。海のなかにあって上からは見えない岩石のことを、上代語でイクリ(海石)と言った。「門中の海石に」(記74)とある(注8)。時に船が接触して難破する危険性がある。
そんな海石が「島廻」、つまり、島をめぐっている。だから、イラゴノシマはどこを取ってみても「荒き島廻」になっている。イクリがメグリにある。ということは、「漕ぐ船」というのは、航行において比較的安定した大型船ではなくて、小さなクリブネであると直感される。クリという音が連想されるからである。遠くを進む刳船を陸上から見ると、波立つところで波に揉まれ、船端は高い波に隠れているに違いない(注9)。ちょうど、海石が海面に隠れて暗礁となっているようにである。刳船には海水が入ってきていつ沈むか知れやしないから、暗礁が周囲にある島であえて船に乗ろうとするだろうか。女官が尻込みするような危険なことを無理強いしてどうなるのか、伊勢行幸は止めたらよいのではないか、というのがこの歌の主張である。
以上、伊勢行幸時の留京歌(万40〜44)ほかは、三輪高市麻呂と同じく行幸を思い留まらせようとして歌われた歌であった(注10)。題詞の「幸二于伊勢国一時、留レ京柿本朝臣人麻呂作歌」にある「留」字は、自動詞トドマルではなく、他動詞トドム(下二段)の連体形と、上二段活用のトドムの連体形を兼ねた表現である。他動詞のトドムは、引き留める意であり、上二段の用例は山上憶良の歌に限られる。「留みかね」の形で使われており、留めておくことができないニュアンスを含んでいたかと思われる。これらの反対意見を排して持統天皇は行幸に出立した。行幸は公式行事である。御用歌人の人麻呂が自発的に留まると言って留まることなどできるはずはなく、随伴しなければならないのだが、減らず口を挟むのなら留まっていなさいと命じられて留まっていたということだろう。
(注)
(注1)これまでの、なぜ左注が記されているのかを無視した解釈や、そこに「農作」とまで明示されている点を顧慮しない臆説については、各種注釈書や参考文献を参照されたい。
(注2)拙稿「「石上(いそのかみ) 布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/63ce526724ddc00295935ef605f00c7b参照。
(注3)「……及び伊賀・伊勢・志摩の国造等に冠位を賜ひ……」(持統紀六年三月)とあって、この頃に分国したと考えられている。
(注4)タツクリと、共に清音であったかもしれない。紀歌謡原文には「陀豆矩梨」とある。
(注5)中西1978.70頁に適切な注釈が施されている。
(注6)拙稿「玉藻の歌について─万23・24番歌─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/1a892d49d86103f4b75e31d62cff4c78/?cid=defef9518fa2bff0745395aee2ec3fad参照。
(注7)無文字時代に知識の集積体である歌枕的な発想はない。歌をやりとりする上で皆が共有してはじめて歌枕は利用可能となる。万葉集に見られる上代においては、言葉(音)だけが頼りであり、言葉と一体となる事柄だけが求められた。文字が読めない人ばかりの時、そうでなければ通じないからである。本来の意味での言霊とは、言=事なる一致点を強調した考え方による。
(注8)イクリ(海石)という言葉は、「涅 唐韻に云はく、涅〈奴結反、和名は久利〉は水中の黒土なりといふ。」と関連がある語と考えられている。「農作」、つまり、田作りの時に行幸を決行しようとする天皇への諫言を助勢する歌である。タツクリと韻を踏んでいる。和名抄にも、「佃 唐韻に云はく、佃〈音は田と同じ、和名は豆久利太久利〉は作り田なりといふ。」とある。そしてまた、砂浜で見ることができる大きめの貝にハマグリがある。石ころのようなものをクリと呼んでいるわけで、イクリはイソ(磯)+クリ(栗)の約かもしれない。和名抄に、「栗 兼名苑に云はく、栗〈力質反、久利〉は一名に撰子といふ。」とある。
(注9)クル(刳)、クリブネ(刳船)という言葉の確例は上代に見られない。ただ、単材式刳船、いわゆる丸木舟は、岩礁の多い海岸の小型漁船として近代まで活躍していた。ぶつかっても全壊することは少なく、重心も低く傾いても復元力を有していた。
(注10)神野志2010.に、澤瀉1957.が「をとめら」→「大宮人」→「妹」と対象を狭めながら歌い進んでいるという指摘(307頁)を推し進め、最終的に公的な立場から離れた私的領域を歌うことになっていて、連作のなかで私的領域までからめるかたちになっているという。そして、「『万葉集』の「歴史」は、私的領域を見出しながら、そこまで組みこんだ世界をあらわしだすのだといってよいであろう。」(215頁)と結論づけている。人麻呂唯我論が始まっているようである。論じてきたように、人麻呂の歌(万40〜42)に続く当麻真人麻呂が妻の歌(万43)、石上大臣の歌(万44)は一連の歌であり、左注冒頭の「右」はそれら五首すべてにかかる。当たり前の話だが、人麻呂が宮廷社会の中心にいるわけではないし、歌を中心に世界が回っているわけでもない。
(引用・参考文献)
尾崎2015. 尾崎富義『万葉集の歌と民俗諸相』おうふう、2015年。
澤瀉1957. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
神野志2010. 神野志隆光「私的領域を組み込み、感情を組織して成り立つ世界─泣血哀慟歌から考える─」高岡市万葉歴史館編『生の万葉集』笠間書院、平成22年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
多田2017. 多田一臣『柿本人麻呂』吉川弘文館、2017年。
辻󠄀尾2018. 辻󠄀尾榮市『舟船考古学』ニューサイエンス社、平成30年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
廣岡2021. 廣岡義隆『萬葉風土歌枕考説』和泉書院、2021年。
伊勢国に幸す時に、京に留むる柿本朝臣人麻呂の作る歌〔幸于伊勢國時留京柿本朝臣人麻呂作歌〕
嗚呼見の浦に 船乗りすらむ 娘子らが 玉裳の裾に 潮満つらむか〔鳴呼見乃浦尓船乗為良武𡢳嬬等之珠裳乃須十二四寳三都良武香〕(万40)
釧着く 答志の崎に 今日もかも 大宮人の 玉藻刈るらむ〔釼著手節乃埼二今日毛可母大宮人之玉藻苅良武〕(万41)
潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を〔潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎〕(万42)
当麻真人麻呂が妻の作る歌〔當麻真人麻呂妻作歌〕
吾が背子は いづく行くらむ 沖つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ〔吾勢枯波何所行良武己津物隠乃山乎今日香越等六〕(万43)
石上大臣の従駕なりて作る歌〔石上大臣従駕作歌〕
吾妹子を いざ見の山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも〔吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞〕(万44)
右は、日本紀に曰はく、「朱鳥六年壬辰の春三月丙寅の朔にして戊辰に、浄広肆広瀬王等を以て留守官と為す。是に中納言三輪朝臣高市麻呂、其の冠位を脱きて朝に擎上げ、重ねて諌めて曰さく、『農作の前に、車駕、未だ以て動くべからず』とまをす。辛未に、天皇、諌めに従ひたまはず。遂に伊勢に幸す。五月乙丑の朔にして庚午に、阿胡行宮に御す」といふ。〔右日本紀曰朱鳥六年壬辰春三月丙寅朔戊辰以浄廣肆廣瀬王等為留守官於是中納言三輪朝臣高市麻呂脱其冠位擎上於朝重諌曰農作之前車駕未可以動辛未天皇不従諌遂幸伊勢五月乙丑朔庚午御阿胡行宮〕
これらの歌はいわゆる行幸従駕歌と見られている(注1)がそうではない。四首目まで行幸時に京を守るために残された側から歌われている。この時の行幸では、三輪高市麻呂が反対し、冠位を捨てる覚悟で諫言している。なぜ天皇は行幸を決行したのか、なぜ三輪高市麻呂は猛烈に反対したのか、その理由等については、これまでにも諸説あげられてきたが、なお要を得た回答は得られていない。
ただ言えるであろうことは、都に留まる側から行幸する人への思いを歌った歌が冒頭から四首も続いているのだから、三輪高市麻呂の立場と同じ思いを歌っている可能性が高いという点である。この歌を万葉集に採録した人はそのことを理解していて、適切に左注を施したのだろう。
三輪高市麻呂は、諫める理由に「農作」をあげている。憲法十七条の第十六条に、「十六に曰はく、民を使ふに時を以てするは、古の良き典なり。故、冬の月に間有らば、以て民を使ふべし。春より秋に至るまでに、農桑の節なり。民を使ふべからず。其れ農せずは何をか食はむ、桑せずは何をか服む。」(推古十二年四月)とある。季節的にも「春三月」なら田植えの時期に近い農繁期に当たり、人民は多忙を極めていたことであろう。農作業に支障が出ては農本主義は成り立たない。当然の主張である。一連の歌のなかでは、万43番歌が農作業にかかわらせて歌を詠んだものと思しい。
吾が背子は いづく行くらむ 沖つ藻の 名張の山を 今日か越ゆらむ(万43)
人麻呂の三首に続いて当麻真人麻呂の妻が歌を作っている。タギマノマヒトマロのことを思ってのことであろう。どうして登場しているのか。タギマという音が、タク(動詞)+ウマ(馬)のこと、馬の手綱をたくし上げるように操ることと関係していると思ったからであり、思わせたいからであろう。春の農作業、田作りをとりあげている。馬を使う作業としては、田起しや田均しがある。馬に馬鍬を引かせて代掻きをした。「農作之前」にすることである。なのに、当麻真人麻呂は従駕させられ、あろうことか農耕に使うべき馬に乗って出かけてしまった。田作りは疎かになってしまっている。我が夫はどこを進んでいるのだろう、藻が流れていってどこへ行ったかわからないように隠れてしまうという、そのナバリの山を今日あたり越えているのだろう、いい気なものだ、とぼやいている。伊勢への行幸だから、海にまつわることを持ち出すために「沖つ藻の」という枕詞を登場させ、ナバリという地名を歌っている。流れ流れてどこへ行ったものか、代掻きもしないで、という意味である。そのとき、ナバリには、ツナ(綱)+ハリ(張)の意を込めていたのだろう。条里制の田で一気に代掻きをするために、嫌がる馬を泥田へと手綱を張って引き入れて馬鍬を引かせていた。
吾妹子を いざ見の山を 高みかも 大和の見えぬ 国遠みかも(万44)
さらに石上大臣の歌が載っている。彼はイソノカミという名を負っている。いそいそと勇んで見ようとしている。従駕しているから、大和の方を見るために振り返っている。ちょうどイザミという山のあるところを通過している。さあ、見ようというのだが、イザミの山が高いからか、大和国が遠いからか、大和は見えない。進みながら振り返って見ようとすることは、振り返りつつ離れて行っている。上代では「振り離け見る」という。そういう行為に石上大臣は適任である。なぜなら、イソノカミという音は、イシノカメという音の転訛したものと思われるからである(注2)。石の甕(メは乙類)は酒を入れておく容器である。石を穿って作ったものではなく、石のような風合いの須恵器のことを指している。「酒」(ケは乙類)は「離け」(ケは乙類)と同音である。どんなに勇んで見ようとしても、それにふさわしい名を負っている私が見ても、大和を目にすることはできない。早く帰ろうよ、と歌っている。
人麻呂作の三首も、同じように諫言の気持ちをもって歌われたものと考えられる。伊勢(志摩を含む(注3))地方の地名を詠み込みながらなじるような歌になっている。
嗚呼見の浦に 船乗りすらむ 娘子らが 玉裳の裾に 潮満つらむか(万40)
万40番歌では、「玉裳の裾に潮満つらむか」と言っている。今は「農作之前」である。尻をからげながら泥田の水に浸かって作業をすべきところである。タヅクリ(田作り)の時、きれいな衣装を身に纏うこと、タヅクリ(手作り)などしない(注4)。「大和の 忍 の広瀬を 渡らむと 足結手作り 腰作らふも」(紀106)とあり、「手作り」は手で衣類の紐を結ぶなどして身づくろいすることをいう。盛装していながら海辺で遊んでいる場合ではないのである。
この歌で、「らむ」は二つ使われている。現在そうしているだろうと推量しているわけだが、後者のそれは疑問の助詞「か」を伴っている。裳の裾に潮が満ちているだろう、と言っているのではなく、裳の裾に潮が満ちているのだろうか、と疑問を投げかけている。情景を到底見ることなどできない都にいながら、推量に疑問を加えている。意図してそう歌っているとしか考えられない。場所は「嗚呼見の浦」である。当時の船の停泊形態としては、大型船の場合、ラグーンのようなところへ乗り入れて潮が引くのを待ち、干潟に乗り上げるようにしていた。出航形態はその逆をたどる。水位が増してきて船が浮かび、初めて航行が可能となる。
ところが、その場所はアミノウラである。アミ(網)+ノ(助詞)+ウラ(浦)ということは、浦という、海からみて奥まったところに海の水が満ちるのを待たなければならない。船の周りに潮を持って来ることを考えると、桶や盥で汲んできて満たせば何とかなるのだが、網では水を汲もうにも汲むことはできない。だから、いつまで待ってもちっとも船出はできないのではないか。「玉裳の裾に潮満つらむ」ことなんてないのではないか、と皮肉を言っているのである。
釧着く 答志の崎に 今日もかも の 玉藻刈るらむ(万41)
この歌の原文では、元暦校本などにより「今日」としているが、西本願寺本には「今」とある。「今もかも」と訓む可能性が残されている(注5)。筆者は、歌意を理解するうえで、「今もかも」が正しいと考える。
西本願寺本万葉集(国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242401/1/20~21をトリミング接合)
万40番歌で歌っていた「玉裳」を引き継いで、「玉藻」を歌っている。当たり前の話であるが、玉藻を刈るのは漁民の仕事であって、大宮人のすることではない。では、宮廷社会の人間がタマモカルことがなかったかといえば、一度事件になったことがある。麻続王事件である。麻続王がその子どもを相手に、天皇の冠、中国で皇帝が被る玉藻と呼ばれる冠を被せて遊んでいた。天武天皇は激怒し、子どもを含めて流罪にした。天武四年(675)のこの事件のことは万葉集の万23・24番歌にも録されており、17年経過した持統六年(692)でも人々の間に記憶されていたことであろう。玉藻を借りるのと玉藻を刈るのとを絡めた洒落の歌が歌われた(注6)。すなわち、万41番歌においては、今でも玉藻を借りて遊ぶ輩がいるらしいと皮肉を言っていることになっている。
この解釈が正しいのは、序詞風に歌われている上の句が証明している。「釧着く 答志の崎に」の「釧着く」はタフシという地名の頭音、タ(手)を導く枕詞である。釧というブレスレットは、手に巻くから環とも呼ばれる。そんな手の関節、タフシ(手節)のことを表してしまう地名、答志の、さらに先のことを問題にしている。手首の関節よりも先にあるのは指である。古語にオヨビと言った。和名抄に、「指 唐韻に云はく、指〈諸視反、由比。俗に於与比と云ふ〉は手の指なり、指扐〈音は勒、於与比乃万太〉は指の間なりといふ。」とある。ヨの甲乙は不明ながら仮に乙類であるとすると、オヨビは動詞オヨブ(及)の連用形と同音である。「及ぶ」とは、至る、達する、の意で、時間的にも、空間的にも使われた。今に至るまでもまだ玉藻を借りて玉藻を刈るようなことになっているのだろう、と皮肉っている。
では、この人麻呂の歌はいつ歌われたのか。実際に行幸へ出掛けてしまってから都で歌われたものが、使者によって伊勢へ届けられたとは考えにくい。題詞を注意深く読むと、「幸二于伊勢国一時、留レ京柿本朝臣人麻呂作歌」と書いてある。行幸へ出掛けようとする寸前に、天皇一行がまだ都にいるときに歌われた歌である可能性がある。三輪高市麻呂が諫言したのとほど近い時に歌われたものであると推測される。
潮騒に 伊良虞の島辺 漕ぐ船に 妹乗るらむか 荒き島廻を(万42)
この歌は、「船に妹乗るらむか」とあり、船に彼女は乗船するのだろうか、と疑問を呈している。潮がさわさわと音を立てていて、島のめぐりは荒波が立っている。そんな伊良虞の島のあたりで船に乗ろうとしないのではないか、というのである。行幸へ行っても波が荒くて船に乗りたがらない女性たちがいて、ちっともおもしろくないよ、と言いたいのである。行幸に反対する意を表明している。
イラゴというからには、イラ(苛・莿)なる性格を有するところだろうと推測している。都から遠く離れたところの実際の地誌については知られていない(注7)。それでもイラゴノシマというところなのだから、イラ(苛・莿)なる島であろうと知恵が働いている。少なくとも歌を歌い、その歌われた歌をその場で聞いた人たちの間では、そのように思われたであろうと考えられる。それ以外にイラゴノシマという地名がとり上げられた理由は見出だせない。
何がイラ(苛・莿)なのか。島の性質なのだから、磯が多くて岩礁、暗礁がめぐっている島だと感じられよう。だから、やたらと潮騒の音がすることになっている。潮流の激しい時に海鳴りがしているのである。ざわざわと音がするのは、潮の流れが海中の巌にぶつかっているからである。海のなかにあって上からは見えない岩石のことを、上代語でイクリ(海石)と言った。「門中の海石に」(記74)とある(注8)。時に船が接触して難破する危険性がある。
そんな海石が「島廻」、つまり、島をめぐっている。だから、イラゴノシマはどこを取ってみても「荒き島廻」になっている。イクリがメグリにある。ということは、「漕ぐ船」というのは、航行において比較的安定した大型船ではなくて、小さなクリブネであると直感される。クリという音が連想されるからである。遠くを進む刳船を陸上から見ると、波立つところで波に揉まれ、船端は高い波に隠れているに違いない(注9)。ちょうど、海石が海面に隠れて暗礁となっているようにである。刳船には海水が入ってきていつ沈むか知れやしないから、暗礁が周囲にある島であえて船に乗ろうとするだろうか。女官が尻込みするような危険なことを無理強いしてどうなるのか、伊勢行幸は止めたらよいのではないか、というのがこの歌の主張である。
以上、伊勢行幸時の留京歌(万40〜44)ほかは、三輪高市麻呂と同じく行幸を思い留まらせようとして歌われた歌であった(注10)。題詞の「幸二于伊勢国一時、留レ京柿本朝臣人麻呂作歌」にある「留」字は、自動詞トドマルではなく、他動詞トドム(下二段)の連体形と、上二段活用のトドムの連体形を兼ねた表現である。他動詞のトドムは、引き留める意であり、上二段の用例は山上憶良の歌に限られる。「留みかね」の形で使われており、留めておくことができないニュアンスを含んでいたかと思われる。これらの反対意見を排して持統天皇は行幸に出立した。行幸は公式行事である。御用歌人の人麻呂が自発的に留まると言って留まることなどできるはずはなく、随伴しなければならないのだが、減らず口を挟むのなら留まっていなさいと命じられて留まっていたということだろう。
(注)
(注1)これまでの、なぜ左注が記されているのかを無視した解釈や、そこに「農作」とまで明示されている点を顧慮しない臆説については、各種注釈書や参考文献を参照されたい。
(注2)拙稿「「石上(いそのかみ) 布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/63ce526724ddc00295935ef605f00c7b参照。
(注3)「……及び伊賀・伊勢・志摩の国造等に冠位を賜ひ……」(持統紀六年三月)とあって、この頃に分国したと考えられている。
(注4)タツクリと、共に清音であったかもしれない。紀歌謡原文には「陀豆矩梨」とある。
(注5)中西1978.70頁に適切な注釈が施されている。
(注6)拙稿「玉藻の歌について─万23・24番歌─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/1a892d49d86103f4b75e31d62cff4c78/?cid=defef9518fa2bff0745395aee2ec3fad参照。
(注7)無文字時代に知識の集積体である歌枕的な発想はない。歌をやりとりする上で皆が共有してはじめて歌枕は利用可能となる。万葉集に見られる上代においては、言葉(音)だけが頼りであり、言葉と一体となる事柄だけが求められた。文字が読めない人ばかりの時、そうでなければ通じないからである。本来の意味での言霊とは、言=事なる一致点を強調した考え方による。
(注8)イクリ(海石)という言葉は、「涅 唐韻に云はく、涅〈奴結反、和名は久利〉は水中の黒土なりといふ。」と関連がある語と考えられている。「農作」、つまり、田作りの時に行幸を決行しようとする天皇への諫言を助勢する歌である。タツクリと韻を踏んでいる。和名抄にも、「佃 唐韻に云はく、佃〈音は田と同じ、和名は豆久利太久利〉は作り田なりといふ。」とある。そしてまた、砂浜で見ることができる大きめの貝にハマグリがある。石ころのようなものをクリと呼んでいるわけで、イクリはイソ(磯)+クリ(栗)の約かもしれない。和名抄に、「栗 兼名苑に云はく、栗〈力質反、久利〉は一名に撰子といふ。」とある。
(注9)クル(刳)、クリブネ(刳船)という言葉の確例は上代に見られない。ただ、単材式刳船、いわゆる丸木舟は、岩礁の多い海岸の小型漁船として近代まで活躍していた。ぶつかっても全壊することは少なく、重心も低く傾いても復元力を有していた。
(注10)神野志2010.に、澤瀉1957.が「をとめら」→「大宮人」→「妹」と対象を狭めながら歌い進んでいるという指摘(307頁)を推し進め、最終的に公的な立場から離れた私的領域を歌うことになっていて、連作のなかで私的領域までからめるかたちになっているという。そして、「『万葉集』の「歴史」は、私的領域を見出しながら、そこまで組みこんだ世界をあらわしだすのだといってよいであろう。」(215頁)と結論づけている。人麻呂唯我論が始まっているようである。論じてきたように、人麻呂の歌(万40〜42)に続く当麻真人麻呂が妻の歌(万43)、石上大臣の歌(万44)は一連の歌であり、左注冒頭の「右」はそれら五首すべてにかかる。当たり前の話だが、人麻呂が宮廷社会の中心にいるわけではないし、歌を中心に世界が回っているわけでもない。
(引用・参考文献)
尾崎2015. 尾崎富義『万葉集の歌と民俗諸相』おうふう、2015年。
澤瀉1957. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第一』中央公論社、昭和32年。
神野志2010. 神野志隆光「私的領域を組み込み、感情を組織して成り立つ世界─泣血哀慟歌から考える─」高岡市万葉歴史館編『生の万葉集』笠間書院、平成22年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
多田2017. 多田一臣『柿本人麻呂』吉川弘文館、2017年。
辻󠄀尾2018. 辻󠄀尾榮市『舟船考古学』ニューサイエンス社、平成30年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
廣岡2021. 廣岡義隆『萬葉風土歌枕考説』和泉書院、2021年。