加藤敏春ブログ:21世紀の経済評論を語る!

2000年度東洋経済・高橋亀吉最優秀賞等を受賞。地域通貨「エコマネー」提唱者。

「愛・地球博」は歴史に新しいページを残せるか?(その1):「新しい時代精神」を語っているか

2005-08-13 00:11:58 | Weblog
 歴史をひも解くと、国際博覧会は来るべき時代の精神や思想を語り、新しい時代の幕開けを演出しています。1851年、歴史上初の万博として開催された「ロンドン万博」では、長さ約564メートルの鉄骨とガラスで着た巨大な温室のような建物がクリスタルパレス(水晶宮)と呼ばれシンボルとなりました。言ってみれば、19世紀に勃興しつつある産業革命のシンボル的な存在であったといえます。19世紀に入ってからは、1876年の「フィラデルフィア万博」はアメリカ独立100周年記念として開催されたものであり、展示されたたくさんの発明品の中には、電話、ミシン、タイプライターなどがあり、これらの便利な機会は、一度の数多くの製品を造る大量生産方式とともに、産業発展の大きな原動力となりました。
 20世紀の時代精神の幕開けは、まず1889年に開催された「パリ万博」に見ることができます。このときには、エッフェル塔やセーヌ川に架るアレキサンドルⅢ橋などの巨大な構造物を展示し人々の好奇心を喚起しました。また、1900年に開催された「パリ万博」は、19世紀を振り返り新しい20世紀を展望するために開かれました。会場内の動力にはすべて電気が用いられ、後に万博の歴史で“最も華やかな万博”といわれるようになりました。
このように2つの「パリ万博」は20世紀の時代精神を形成するきっかけとなったもので、人間の「好奇心」を喚起することで、20世紀の始まりを告げました。その後生まれたのは、マネーを駆動力とする「大量生産・大量消費・大量廃棄」型の産業文明でした。
 日本と万博とのかかわりは1867年の「パリ万博」に江戸幕府や薩摩藩、鍋島藩が参加したことが始まりです。その次の万博である1873年の「ウィーン万博」では、日本政府として初めて参加しました。そのときに展示された神社と日本庭園が人気を呼び、ウィーンでの日本ブームの火付け役となりました、名古屋城の金のシャチホコが展示されたのはこのときが初めてですが、「愛・地球博」では再び展示されています。
 日本と万博とのかかわりでエポックメーキングとなったのは、なんと言っても1970年 “人類の進歩と調和”をテーマとして大阪で開催された「日本万国博覧会」(通称「大阪万博」)です。ときまさに日本の高度経済成長が開始されたときで、シンボルとして建てられた「太陽の塔」は、その後日本経済の高成長を象徴するかのような構造物でした。この「大阪万博」は、アジア初の万博であり、入場者の数は約6,421万人、実に当時の日本の人口の10人に6人の人が訪れたことになります。宇宙船アポロ11号が持ち帰った月の石を見るのに長蛇の列ができたのもこのときです。
 その後1975年の「沖縄国際海洋博」(テーマは、“海―その望ましい未来”)は万博史上初の海洋博であり、海に浮かぶ展示館アクアポリスが人気を集めました。1985年の「国際科学技術万国博」(テーマは、“人間、居住、環境と科学技術”)は、世界各国で最も進んだ科学技術を紹介したり、科学技術の成果物を展示した万博で、つくば市で開催されました。このように日本と万博とのかかわりの歴史を見ると、19世紀、20世紀の時代精神を日本に取り入れる先導役としての役割を万博が果たしたことがよくわかります。
 2005年の「愛・地球博」は、21世紀という“百年紀”のみならず“千年紀”の転換期に始めて開催される国際博覧会であり、それに匹敵した時代精神で新しい地球文明の創造を告げるものでなければなりません。実は日本はその嚆矢を放った経緯があります。1990年の「国際花と緑の博覧会」がそれで、テーマは、“自然と人間との共生”でした。ただし、「国際花と緑の博覧会」は「沖縄国際海洋博」や「国際科学技術万国博」と同様に“特別博”と位置づけられ1970年の「大阪万博」や2005年の「愛・地球博」の“一般博”とは異なって小規模なものでした。
 しかしその後の万博は、1992年のセビリア万博(テーマは、“発見の時代”)、1993年大田(テジョン)万博(テーマは、“発見のための新しい道の挑戦”)などに見られるように、そのような問題意識が引き継がれることはなく、2000年、20世紀最後の年に開催された「ハノーバー万博」は“人、自然、技術”をテーマとして開催されたもので、20世紀から21世紀へとバトンタッチするために開かれた万博として、21世紀へ引き継がれるさまざまな地球の問題が取り上げられました(いずれも“特別博”)。

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