『日本神人伝』
不二龍彦 学研 2001/5
<友清歓真(ともきよよしさね)>
・大正から昭和初期にかけて「仏教以前の古道に戻る」ことをスローガンに掲げた一大オカルト・ムーブメントが湧き起こった。「古神道」と呼ばれた、このムーブメントの理論的支柱として活躍した友清歓真の、知られざる生涯を追う。
・宮地水位が通った神集岳神界で暮らす人々の様子を水位以上の濃やかな筆でつづり、『玄扈雑記(げんこざっき)』にまとめあげた。
<異境に出入りし、その消息を伝える>
・本書では、自在に異境に出入りし、その消息を伝えた脱魂型シャーマンとしての友清を中心に紹介していきたい。というのも、友清が親しく出入りしたという異境が、おもしろいことに宮地水位の通った神集岳神界などの異境とまったく同じで、時代の推移による神都の変化や神都での人々の暮らしぶりなど、水位が伝えなかった部分まで、実に味わい深い筆で活写しているからなのである。
・友清は『異境備忘録』を読む以前に、そこに書かれてある幽界の消息を「感得」していたと、ここで明言している。そしてその後、水位の手記を入手し、読んでみたところ、その内容が自分の感得した内容と「大体において万事符を合した」、つまり事前に読み知った知識があったわけでもないのに、結果として水位の体験と自分の体験が一致していたのだから、彼らが参入した幽界は間違いなく実在するといっているのである。
これはなかなかおもしろい事例である。シャーマンや霊媒が伝える霊界情報は世界中にゴマンとあるが、互いに無交渉の者同士の見聞が一致するといっているのである。
<霊感に打たれ、綾部の道を識る>
・「山口県の私の郷里から数里のところに泰雲寺という寺があるが、その寺の前位道逸というのは天狗になって、いまなおその裏山に住んでいる。私は少年時代、剣術が上達するようにと思って、その寺の裏山の滝を浴びにいったりしたことがあった。その道逸という天狗はマダ住職として寺にいる時から霊力があって、1日の間に宮嶋(30里位ある)へ行って遊んできたり、一寸の間に萩(10数里ある)へ豆腐を買いにいってきたりしたということを、村の者が話していた」(注・1里=約4キロ)
<大本と決別し、本田霊学に走る>
・綾部の大本を訪れた友清は、さっそく王仁三郎の右腕として辣腕をふるっていた浅野和三郎の鎮魂帰神を受けた。そのとき友清からでてきたのが、あまり高級とはいえぬ「天狗」で、彼がそれまで官憲と張り合ったり、種々乱暴なことを行ってきたのは、すべてこの天狗が憑っていたためと知れた。
<日本は、霊学宗源の国である>
・大正8年に『鎮魂帰神の原理及び応用』、翌9年5月には『鎮魂帰神の極意』を出版して大本の鎮魂帰神と一線を画した友清は、同年「格神会」を組織し、活発に古神道霊学の吸収と確立に乗り出す。
<太古神法の最奥義を受け継ぐ>
<大洗濯につながる大戦争が勃発する>
・このときを待っていたかのように「神人交通の先駆け、道ひらきの神」である大山祇神(おおやまつみのかみ)からの天啓が、友清に訪れる。
・友清は神示に従って山口県熊毛郡田布施町の石城山に登った。そして山上の石城神社拝殿に詣でたとき、突如として大山祇神による「十の神訓(山上の天啓)」を拝受したのである。
天啓は、この石城山こそ、太古から定められていた大神たちの神山・神都――宮地水位のいう「神集岳神界」の地上版であると告げていた。
<神国日本の犠牲によって世界が一新>
・友清はしばしば幽界への散策を行い、「人間死後の生活における衣食住及び文化財の客観的実在」を機関誌に淡々と発表していった。
<『玄扈雑記(げんこざっき)』に記された霊界の実相>
・そのころの石城山霊界は、友清が昭和9年に訪れたころの石城山霊界とはずいぶん変わっていた。当時は九州1個ないし2個分ほどの広さに思えたが、それよりもっと広く、行政区画は3つか4つに更改されていた。人口も4万人と聞いたと思ったが聞き間違いで、実際には14万人住んでいるという。
その西南部の一角の「小さな文化住宅式の、この界としてはあまり見栄えのしない家」に田畑氏は暮らしている。田畑氏の住む西部はどちらかというと鄙びて、住人も「のらくら者」が多いようだが、東部はそれより活動的で、人間界でいうと、科学的な研究機関や学校、工場のようなものもある。住まいも「米国あたりの最新の意匠による別邸とでもいったようなところがある」らしい。
・「この界では貧富はないとはいえません。現に私は、この界では富めるものではないといえましょう。求めるところは徳と知恵であるから、貧とはそれらが乏しいことを意味するといった観念論は別として、衣食住にしたところで、私はこの界で富めるものではありません。むろん何の不満も不平もありませんが、富めるものとは考えられません。私でも、この室内に欲しいと思う調度品があっても、ことごとく思うようになるわけではない。思念すればそこに品物が現れるというような、何だか変な頼りない霊界と違って、この霊界はほとんど人間界のような生活感情と条件の支配を受けているので、貧富ということも無意味ではないのです」
・ここで田畑氏がいっている「思念すればそこに品物が現れる」ような霊界は「たま」の霊界という。欧米の心霊科学や仏説などでは、あの世は思ったものがそのまま物質化して現れると説いているが、友清によればそれは霊界のうちの「たま」の霊界で、「欲する品物が欲するままにそこに現出する代わりに、注意を怠っていると消えたり、一瞬にして千里に往来したり、もやもやと雲のようなものが友人や知人の顔となり手となってついに完全な姿としてそこに出てきたり」する。
<神仙界といえども雨も雪も降る>
・貧乏とはいっても、田畑氏は立派な書籍を数多く所持している。人間界ではちょっと手に入らないものもあり、「洋装のものは多くは白い強い紙の仮綴じ」で、なかには「羊皮紙やモロッコやスペインの皮らしい豪華なもの」が無造作に書棚に押し込められていた。聞けば、図書館から気軽に借りだしたりコピーすることができるらしく、コピーといっても用紙から時代色まで原本と変わりないという。
・御本宮の祭神は大物主神、少彦名神、事代主神ほか9座。左右に別宮があり、右には上級神界(紫府宮神界)の主神である天照大神ほかが祀ってあるが、左は「異様な形式」の御社で、36座の神霊が祀られている。その中の「天寿真人」とは聖徳太子、「天方真人」とはムハンマドのことだと説明された。
参道から枝になった小道を通り、暮春の野趣を楽しみながら田畑氏の庵に戻った。このときは暮春の心地よい天気だったが、いつもそうだというわけではない。人間界と同じで雨もあれば雪もある。「神仙界に類したところといえば、いつも天気晴朗で澄みきった世界を瞼に描きがちであるが」、そうはいかないのである。
・その帰途、友清は梅や竹が生えている野の空き地に建つ2軒の家を見つけた。「サイバル編輯(へんしゅう)所」という看板がかかっていた。あれは何かと田畑氏にたずねると、こんな答えが返ってきた。
「なに、つまらんもんです。川柳やドドイツまがいのものをやっている連中の同人雑誌です」
<原子力の過剰使用で地球が爆発する>
・石城山霊界で、友清は「麗明先生」という神仙からいろいろ教えを受けている。麗明先生は最後の氷河期にも地上にいたことがあり、その後も数回人間界にでたが、1200年ほど前に中国長安で暮らしたのが最後の人間生活だという。宮地水位もこの麗明先生から教えを受けている。
<ミタマの因縁次第で霊界が決まる>
・人は死ぬと、ミタマの因縁に引かれて上下さまざまな幽界に入っていくと友清はいう。その幽界は、「天津神国」3界、「国津神国」3界、「黄泉国」2界の計8界に分かれ、石城山霊界すなわち神集岳神界は国津神国(地の神界)の最上層界の中心神界、万霊岳神界はその下の界の中心神界、現界はさらにその下という格付けになっている。
原則として死者はそれぞれ因縁の霊界で永遠の生活に入るが、なかには転生してくるケースもある。
たとえばだれかが予定の寿命より早く死ねば、その寿命を使い切るために生まれてくる。
60歳の定命の者が40歳で死ねば、再生して20年生きて死ぬ。これを「車子」というそうだが、こうしたケースや、ほかの理由で地上に生まれてくるのである。
しかし、大多数のものは、先の幽界8界のいずれかに入る。
「たま」の霊界に入るか「むすび」の霊界に入るかも、ミタマの因縁で決まる。
ともあれ幽界は、ひたすら神様を讃えたり、聖人君子のようにふるまったり、生前を反省させられてすごすような杓子定規の世界ではないらしい。
そのことは石城山霊界の田畑氏の暮らしぶりからもうかがえるが、より高位の神都・紫府宮神界でも、事情はさほど変わらないようだ。
紫府宮神界に楼閣や宮殿によって形成された「風神館」と呼ばれる大神域がある。
「地上の大気から人間の呼吸にまで及ぶ神秘な幽政が行われる」ところだというが、この「風神館」から南東に60キロほど行ったところに、同神界最大の俗人の街がある。人間界でいうと小都市くらいの規模のこの街では、とくに「ガッス」と呼ばれる裏町の眺めがよく、あるとき友清はそこをひとりで漫歩していた。
道の横には幅10メートルくらいの浅い清流が流れており、川を隔てた向こう側には小さな工場の寄宿舎とでもいったような建物がある。
ふと見ると、その建物の窓の向こうに数人の娘がいた。
<鷲谷日賢(わしやにっけん)>
・世尊(釈迦)、宗祖(日蓮)、諸天神の加護によって現界と霊界の大因縁をきわめ、神霊を現界に呼び出し、霊界通信と悪因縁祓いを実践。しかも、滔々と語る霊的太古史は、まさに日本神話の枠を取り払い、世界全体を舞台にした巨大なスケールのものだった。
<死霊や神々が神霊秘話を語った>
・近代以降の日本で霊界問題を最も熱心に追及してきたのは、おもに古神道関係者だった。彼らは鎮魂帰神を用いてさまざまな霊界情報を収集したが、伝統仏教は、この問題に関して古神道家ほどの情熱を示すことはなかった。
<神は原始の海に発生した有機体>
・たとえば、ギリシア正教の主神は前世期の「巨大な蜘蛛」の霊だと日賢はいう。また、人間を食らう夜叉族は「古代のサソリ」、ロシア正教の主神は牛馬を捕えて食べる「巨大な蠅とり蜘蛛」……といった具合である。
そして、これら太古の神霊中、支配力の最も大きいのが、恐龍の戒体をもつ龍神族なのである。
・さて、このように地上世界と霊界を行き来して活動している龍神系神霊のうち、のちの世界に最も重大な影響を及ぼしたのが、ユダヤ教およびキリスト教旧教、および新教の主神は、実はみな違った神霊なのである。
・彼の霊界通信が伝える壮大な神々の叙事詩の粗筋はこうだ。
紀元前のメソポタミア地方を支配していたのは、「エホバ」という名の龍神だった。ユダヤの民は、こぞってエホバに帰依し、エホバもまた、よく彼らを守り導いていたが、そこに割り込んできたのが、ヤーヴェという名の「太古インドの龍神」である。ヤーヴェはインド名を「ブリトラ」といいい、その正体は、かつて帝釈天(インドラ神)と戦った「魔神」であった。この魔神の侵略に困りはてたエホバは、須弥山頂上にある三十三天に昇り、最強龍神である帝釈天に救いを求めた。
・帝釈天は四天王のひとりである大広目天(ビルバクシャ)とキリストを地上に送ってヤーヴェを退けようと図ったが、ヤーヴェはこれに反抗して、キリストを磔刑に処した。ここまではヤーヴェが優勢だった。
けれどもエホバおよびキリスト教はくじけることなく勢力を広げていった。そして、ついにローマ世界を支配するに至り、ヤーヴェの勢力の駆逐に成功した。そのため大魔王ヤーヴェは、ユダヤの民を率いて「漂泊の旅に迷う」ことになったのだというのである………。
一読、荒唐無稽としか思えない話ではある。しかし、頭ごなしに否定してしまうこともできない。というのも、『旧約聖書』でいう天父=エロヒムは複数の「神々」を意味するヘブライ語だといわれており、実際、旧約の神は、それに先行するシュメール、バビロニアそのほかのメソポタミアの神々の一部が昇格したものにほかならない。
・日賢は恐龍の時点で生物学的な進化をストップした霊の一部が神となり、その後も進化を続けた霊の一部が人類になったと主張する。その意味では、龍神は人類の祖先といってもよいわけだが、これと同じことを、たとえばイギリスの心霊研究家ジョフレー・ホドソンが書いている。
・このように、太古神を龍神とした日賢は、日本の超古代史においても、やはり同じように龍神が活動していたことを明らかにしていく。
<インドの有翼人種が高千穂に移住>
・日賢は、日本に最も古くから住んでいた龍神が、記紀の時代に至ってあらゆる神の筆頭と位置づけられ、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と呼ばれるようになったという。
天之御中主神は原住民のコロポックル族の神として、千葉県(房州)を本拠に日本を治めていた。いわゆる天神七代の時代が、その治政時代に当たる。
ところが、今から約3000年前に大事件が起こった。インドの高原を本拠としていた龍神が、その一族および有翼人種(キンナラ族)をひきつれて日向の高千穂に移住してきたというのである。
このとき日本にやってきた龍神を「国常立尊」という。また国常立尊を守護して渡来したインドの最高神が「ヴィシュヌ」である。ヴィシュヌとキンナラ族の族長・国常立尊は、日向の高千穂から、さらに住みよい土地を求めて相模国(神奈川県)足柄郡箱根の高原に移り住んだ(この一帯こそが、正真正銘の「高天原」だと日賢はいう)。
その結果、先住民族であるコロポックルは次第にヴィシュヌ・キンナラ族に追いやられ、代わって渡来神の暮らす相模国の高原はおいおい発展し、華やいだ古代文明を築くまでになった。
・日賢によれば、現日本人の祖先は、「天の楽神」とも呼ばれる有翼半獣神のキンナラ族――インドではキンナラ族は人間の体に馬の首をつけた姿で描かれるが、日賢は優美な天使形でキンナラを描いている――だという。
このキンナラ族は精霊のような存在で、翼をもって自由に空を飛ぶ。日賢の話どおりなら、彼らが移住してきた当座、日本上空は音楽を奏でながら空を舞うキンナラ族で満ちていたことになる。なんとも優雅なヴィジョンではないか。
・さて、ヴィシュヌの霊的指導のもと、国常立尊の一族は次第に数を増し、いわゆる「地神時代」の春を謳歌して、やがてイザナギ・イザナミ両神の治世時代を迎えた。ちなみにイザナギ大神は身長212センチ以上あり、仁王尊のような相貌で、骨格逞しく、赤色の肌、白い翼があると日賢は「霊視」している。
・このナギ・ナミ時代に、その後の日本の方向を決定するような大きな霊的事件が起こった。日本土着の龍神・天之御中主神がイザナミの胎内に入り、天照大神として誕生してきたのである。これは、インドの国常立尊=キンナラ系の血の中に、日本土着の龍神系の血が色濃く入り込むことを意味すると同時に、日本の龍神系の霊統の復活をも意味していた。
・天照大神(土着の龍神)の勢力が非常に強まった。これを不服としたのが、「天地の果てまで三歩であゆむ」と『ヴェーダ』にも謳われたインドの最高神、ヴィシュヌであった。
そこでヴィシュヌは国常立尊=キンナラ系の血を色濃くひく素戔嗚尊(天照同様、イザナミの子)を使って、天之御中主神(天照大神)の霊系を強く牽制した。そのため天照大神が岩戸に隠れ、太陽が消えるなどの天変が起こったが、両者の戦いは最終的に天照勢力の勝利に終わった。
そこでヴィシュヌは素戔嗚尊とともに出雲に去って出雲民族を創出し、ひとまずそこに根を降ろした。
そして、のちに丹波に移り、その地にヴィシュヌの霊統を降ろしたあと、雄略天皇のころ伊勢に遷って今日の外宮に鎮まった。そのため、外宮と内宮は千数百年もの長きにわたって反目を続けることになり、その霊的因縁が、のちのちまで尾を引くことになったというのである。
<日賢の霊話は「本地垂迹説」の現代版>
・摩訶不思議な神代史は、まだまだ続くが、ここまで読み進まれた読者は、右の霊話を完全に日賢の妄想と思われたことだろう。
けれども、こうした“妄想”は、実は古くから日本で育てられてきた“本地垂迹説”の現代版バリエーションにすぎない。
・その天地開闢の秘説によれば、この大宇宙のいっさいが空無に帰したのち、原初の海に、頭が1000、手足が2000のヴィシュヌが現れた。
ヴィシュヌの臍からは光り輝く蓮華が伸び、そのなかには、同じく光り輝きながら結跏趺坐しているブラフマー(梵天)が誕生しており、この梵天から世界のすべてが生まれた。
ところで、ヴィシュヌから生まれたこの梵天こそ、本朝の国常立尊の本体(本地)だと、それら著作はいうのである。
『日本と西洋の妖怪比べ』 妖怪伝説百話集
角田義治 幹書房 2007/4/1
<擬人妖怪とは>
・一口でいえば人の形をした妖怪ということですが、妖怪ですからその外見は普通人と異なり、極端に大きいとか小さいとか、また時には膨張したり収縮したり、身体の色も人間とは違ったりします。
ところが、西洋の山姥のように、容姿が特にすぐれているため、人の妻に迎えられる例もあるなど、人との交わりも擬人妖怪の特色です。しかし、人間社会の常識と微妙なところで食い違いが起こって、ほとんどの場合その交わりは破綻してしまいます。
その避け難い理由は、妖怪は絶対に妥協しない点にあります。
・妖怪の世界には言い訳という言葉がないのです。そのため、うっかり妖怪と約束して、それを破ると後にとんだ悲劇が待っているのです。
しかし、その一方、人の恩に感じて人を助ける妖怪もいますので、人と妖怪とは仲よくつき合った方がよいと考える妖怪観が、日本にも西洋にもあることが、これから紹介するさまざまな伝説にみることができるでしょう。
<日本の童子妖怪>
・童子の姿で現れる妖怪は、日本にも西洋にもいますが、誰でも並の人間に対して恐怖心をいだくことはないのに、相手が子供となると少し事情が違うようです。
つまり子供の行動は大人にとって実に不可解なことが多いものです。動物本能むき出しの行動などがその一例ですが、大人にとって、子供は、いたいけな存在であって、特に夭死した子供への限りない哀れみの心はうち消すことができません。
<水子の霊魂>
・また、江戸の或る婦人が身ごもったので、おろそうと思い、おろしばばの所へ行って頼んだが、その夜の夢に、大きい男が来ていうには、「自分は折角腹にやどったのに、闇から闇にされるのか」と恨み言を言ったので、思わず婦人がその手を取って引っ張ると、その手が抜けてしまったところで目が覚めたといい、その後おろした児の片手が抜けていたということである。
・という、これは説話ですが、大江戸繁盛の裏にはこんな子おろしにまつわる怪談も多かったに違いありません。当時藩によっては厳しい禁止令が出ていたようですが、それはあくまで表向きであって、女児の間引きには寛大だったようです。その理由は、男子はやがて農業の労働力確保の点で大切だったからです。
・その座敷童子の性別がほとんど女児である点が気になります。しかし、柳田国男の遠野物語には、「或る日廊下にて、はたと座敷童子に行き違い、大いに驚きしことあり、これは正しく男の児なりき。」とあり、座敷童子の性別は女児に限らないようです。
ところで、「わらし」とは東北地方の方言で童衆のことを言い、訛って「わらし」となったようです。このほか別名で呼ばれる座敷童子は広く日本の各地でみられるようです。
<東北地方の座敷童子>
・この妖怪の由来が、産児の間引きと関係があるかどうかは定説がありませんが、岩手県の遠野地方について座敷童子を調査した佐々木喜善氏は、著書の中で座敷童子の由来に触れ、圧殺された赤子の霊魂、或いは巫女の言葉で言う若葉の霊魂ではないか、そして圧殺された赤子は、その死体を屋外には出さず、土間などに埋葬する風習があったことを付言しているのです。
<座敷童子という妖怪>
・「これは昭和10年頃の話ですが、附馬牛地区(遠野市北部)の或る家の蔵に、座敷童子が現われて、その足跡が見えたうちはよかったが、その家のかかさんが、或る日突然、蔵の中で座敷童子の本物の姿を見たというんですね。それからというもの、その家には悪い事ばかり続くようになって、ついに破産状態になってしまったのですね。
座敷童子は人に姿を見られると、その家から出て行ってしまうといわれますので、この家でも座敷童子が出て行ったのだと、人々は噂したといいますね。座敷童子は一度家を出ると、二度と帰って来ないといわれますが、その家の主人に会ったとき、『最近こんなに家が立派になったんだから、座敷童子がまた戻って来たのではないかね。』と答えて、座敷童子を否定しました。
また附馬牛の庄太どんという家の80歳近い爺さんが、『おれは学校終わって百姓かせぎを始めた大正の初め頃、座敷童子をたしかに見たな。』と言ったので、『それはどこで見たのかね。』と尋ねると、『それはこの蔵だ。』と言って蔵を指し、『あの時は昼間だったが、何の気なしに小窓を見上げると、座敷童子がその窓から外をながめていたが、そのうち急に向きを変えて引っ込んでしまったな。見た感じでは髪の毛が薄いようにみえたな。それで、何か赤いチョッキのような物を着ていたように思うのだが、何しろ窓格子の中ほどに顔が見えたんだから、背丈は低いものだったな。』という訳で、小学校1年生くらいの子供にみえたらしいですね。当時この家は村長だったのですが、それからというもの、次第に家が寂れて行きましたが。しかし現代では再び隆盛になっていますね。」
という、座敷童子の目撃談を交えてのお話でしたが、姿を見せたのが蔵の中だったとすると、座敷童子の異名である「蔵わらし」といってよいかもしれません。
<その姿は?>
・姿を見たという人の話を総合すると、およそ次のようです。
顔は一般に赤く、頭に頭巾をかぶって現れることもあり、普通は垂髪ですから当然女性です。
年齢は6、7歳といわれてますが、例外もあって、這い這い児の場合もあるというのです。「ノタバリコ」という名前もそこからきているようです。
また前の目撃談の中に出てきた、赤いチョッキのような物を着ていたという点を取り上げますと、西洋の伝説にある妖精とそっくりです。その上、赤い頭巾でもかぶった姿を想像すると、ますます妖精に似通うことになりましょう。
<住む家と場所は?>
・まず大きい家の奥座敷というのが普通ですが、前掲のように土蔵の中にも住むほか、作業所や物置などに住むこともあって、「米搗きわらし」の名があるほどです。
また、座敷童子が住み付く第一条件は、大きい家ということですが、それだけではまだ十分条件を満たしてはいないのです。その十分条件とは、その家が隆盛であること。そして一家が仲良く平穏に生活していなければなりません。
・このように考えますと、座敷童子が出ていったから家が傾くのではなく、家が傾いたので座敷童子が出ていくと考えた方がよいかもしれません。
なお、例の『遠野物語』に、「旧家には座敷童子という神の住みたまう家少なからず」とか、「この神の宿りたまう家は富貴自在ということなり。」などとあり、座敷神という見方もあったことを認めなければならないようです。
<その振舞は?>
・童子の妖怪ですから、その行動はおよそ想像できましょう。まず遊ぶ仕草ですが、夜中に部屋の中や廊下を駆けまわる足音が聞こえるのです。特に奥座敷に寝ている人の蒲団の周りで騒いだり、また、こうした家で枕を北にして蒲団を敷くことはありませんが、「マクラガエシ」といって、南向きに寝ている人の枕が眠っている間に反対側にされてしまうというのです。死者を安置するとき、頭を北に向けることをマクラガエシと昔から言いますので、そんないたずらをされては不快でしょう。
・こんな日本の童子妖怪に対して、では、西洋にも同様の妖怪がいるのでしょうか?引き比べて面白いのはハウスガイストを挙げることができるようです。
その中のコーボルト(妖精)は、ドイツ語圏の伝説に特に多いので、まずこれを取りあげてみたいと思います。
<西洋の童子妖怪>
・日本の童子妖怪に対するものとしては、何といってもドイツのコーボルトがその代表といえますので、まずその由来を比べてみましょう。
座敷童子の由来がはっきりしないのに対して、コーボルト(妖精)の方はそれが実にはっきりしているのです。手っ取り早くいえば、洗礼前に亡くなった赤子の霊魂が家にとどまっているという俗信がもとになっているのです。もっとも船に宿る妖精はその由来が少し変わっていて、洗礼前に亡くなった赤子の霊という点は同じですが、赤子の屍が原野の木の下へ漂着した場合、やがてその木が大木に成長して、その木の一部が偶然にも船体のどこかの部分に使われると、その船は精霊を宿したまま航海するので、安全が保証されるというのです。これは精霊移宿信仰とでもいったらよいでしょうか。
<その姿は?>
・日本の座敷童子に比べると、背丈は少し低く、60センチ以下ですが、極端に小さいのもあって、人の手の平に乗るようなのもあるのです。この妖怪もめったに人に姿を見せませんので、見たという人の報告はさまざまですが、総合してみますと、衣服は赤いヤッケに赤い頭巾(一般にいうとんがり帽子)をかぶっていて、足ははだしです。また船の妖精はセーラーズボンをはいていて、丸いつばのない帽子をかぶっているという説と、衣服はまったく着ていないで、素っ裸だという説もあるのです。
・顔かたちは座敷童子のように一般に童顔ですが、例外としては老人顔で、顔中しわだらけというのもあり、また美事な髭を生やしているのもあって、妖精も年を取るということでしょうか。
しかし老人顔の妖精は、地下で社会生活を営む小人と、そのイメージが入り交じって生まれた伝説なのかもしれません。小人は人間社会と同様に、結婚して子供もあるとなれば、老人がいても当然でしょう。
・これに対して家に宿る妖精は孤独で、平生は屋根裏の空樽の中とか畜舎の干し草棚などに、ひっそりと隠れて暮らすのが特徴です。
なお性別については、座敷童子が主に女性であるのに対して、妖精は男性ですから言語の上でも男性名詞です。
<その宿る家は?>
・これも座敷童子と同様に、骨組みのしっかりした大きな農家に住み着きます。そしてまた、座敷童子と同様、十分条件を満たしている家でなければなりません。
<その振舞いは?>
・大体座敷童子に似た行動が目立ちますが、かなり違う点もあります。まず似ている点を挙げますと、童子妖怪特有のいたずらが激しいことです。
・しかし、これは彼が特にご機嫌が悪い時であって、平常はおとなしく、家事の手伝いをよくするのです。この家事の手伝いという点は、座敷童子には見られないことで、妖精の方が仕事好きというか勤勉というか、家のために直接役立つ妖怪といえましょう。
<干し草の妖精>
・この伝説はドイツとチェコの国境であるエールツ山脈地方の妖精伝説です。
或る農家の家族がみんなで屋根裏へ干し草を上げていた時の事、おかみさんが何か黒っぽい物を前掛けの中へ取り込みました。おかみさんがその前掛けを振ると、一人の小さい妖精が目の前へぴょんと飛び下りました。
この妖精は立派な髭を生やしていて、顔はしわだらけでした。
<小窓の妖精>
・これは北ドイツ、シュレースヴィヒ・ホルシュタインの伝説です。
ヴィーデングハルデ村の或る大農家では、時々妖精を住み込ませましたが、家の雇い人たちともよく付き合っていました。
<妖精を喧嘩腰で追い出す>
・ホイルベルクという村の或る農家で、妖精のいたずらが余り激しいので、主人が追いだそうとしましたが、どうしても成功しませんでした。そこでとうとう追い出しをあきらめて、自分が引っ越す決心をしました。
<勤勉な妖精>
・ヴァルタースという村の或る山家で、たいへん奇妙な妖精を養っていました。彼はどんな仕事も、家の雇い人に対して忠実に、そして勤勉に手助けをしました。
<バター造りの邪魔をする妖精>
・これは南部チロル(現在イタリア領)のアイザック地方のウンターインという山村の伝説です。
・家の中の妖精は何でも人のやろうとすることを邪魔することがある。
・これもきっと妖精の仕業に違いないと、口惜しさいっぱいのおかみさんは、その後も何とかして妖精を家から追い出そうとしましたが、いつもそれは徒労に終わるのでした。
<主人を騙す妖精>
・ブークという妖精が宿っている家は、決して生活に困ることがありませんでした。それは主人のために、どこからどう都合してくるのか、沢山のお金を持って来るからです。ところが時々主人を騙すことがあって、たとえばお金の代わりに吐き気を催すような汚れ物を持って来ることがありました。
ところで彼が外で略奪行為をする時は、猫に化けたり蛇に化けたりして人目をかすめるのですが、どんな小さな透き間でも自由にすり抜けることができました。
家の中で彼の姿を見た人の話では、赤い上着かチョッキを着て、ベレー帽のような帽子をかぶった小さい男の子だったといいます。
<船を守る妖精>
・新しい船が出来上がって、船員が乗船すると同時に妖精が乗り込むことがありました。船員たちはこの妖精を「修理屋さん」とか「たたき屋さん」などという名前をつけて呼びました。ふだん彼の姿は見ることができませんが、彼が船の中にいることは、ときどき物音で分かるのです。
<船を見捨てた妖精>
・「私はもうこの船に居たくありません。船長や乗員たちは、彼らだけで無事に航海したように航海日誌に書いて、私のことをまったく忘れているのですから、だから今夜限りで私はこの船を見捨てます」という、二人の妖精の会話を聞いたこの船員は「この船は危ないぞ、すぐ下りた方がいい。」と、心に決めて、翌朝下船してしまいました。そして間もなく船は出帆しましたが、それっきりこの船は、次の寄港先へ入港しなかったということです。
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