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天龍王命という名称からして、民間信仰のなかの龍神の類かと思われる。(1)

2016-05-03 21:07:03 | 森羅万象

 

 

『予言の日本史』

島田祐己    NHK出版新書    2014/9/10

 

 

 

 

・予言者の方は、未来を予知する神秘家で、その能力は疑わしいが、預言者の方は、神のことばを預かり、それを人々に伝える存在であり、神に選ばれている点で貴い人物だというのである。

 

<人の顔に牛のからだをもつ予言獣・件(くだん)>

・姫魚は、人間の女と魚が合体したもので、世界中に存在する人魚の類であるが、同じ人面で角が生えているものの、からだは牛というのが、「件」である。人と牛が合体したというところでは、ギリシア神話に登場する人と馬が合体したケンタウロスに似ている。

 この件について、その姿を描き、説明を加えているものに、1836(天保7)年の瓦版がある。これには「大豊作を志らす件と云獣なり」という大見出しがついている。

 

・この件は、1836年12月に、丹波国の倉橋山(現在の京都府)に出現する前、1705(宝永2)年12月にも同じく出現したと記されている。その際には、翌年から豊作が続いたというから、件の出現は吉兆として受け取られていることになる。

 最後の部分には、この絵図を家にはっておけば、疫病を避けることができ、一切の災いを逃れ、大豊作がもたらされると書かれており、姫魚の場合と内容が共通している。

 

・興味深いのは、件が正直な獣であるがゆえに、証文の終わりに「件の如し」と書くようになったとされている点である。

 たしかに、証文や手紙では、それまで書いてきたことに間違いがないと念を押す意味で、文末を「件の如し」で結ぶ。ここでは、そのはじまりが件という獣に求められているわけだ。当然ながら、これは俗説に過ぎない。

 

<件は日本の敗戦も予言していた>

・件が天保の時代に出現したのは、天保の大飢饉が起こり、人々のあいだで豊作が強く願われたことが関係するとされるが、この件と同種類の獣は、昭和の時代にまで生き延び、太平洋戦争にも出現している。

 1944(昭和19)年4月に警保局保安課が作成した『思想旬報』には、最近の流言飛語の傾向として次の例をあげている。「戦争の終局近しとする流言も本年に入り著しく増加の傾向を示し、而も其の内容は一、○○で四脚の牛の様な人が生れ此の戦争は本年中に終るが戦争が終れば悪病が流行するから梅干しと薤を食べれば病気に罹らないと云って死んだ」というのである。

 ここでは、件という言い方はされていないが、「四脚の牛の様な人」というのは、まさに件のことである。ほかにも、岡山県の阿哲郡哲西町(現在の新見市)では、人間と牛が合体したものが生まれ、「日本は戦争に負ける」と予言して死んだという話が伝わっている。

 神戸でも、牧場で奇妙な牛が生まれ、それが日本の敗戦を予言して死んだという噂が広まった。また、件と名指しされた噂としては、やはり神戸で件が生まれ、「3日以内に小豆飯かおはぎを食べれば空襲を免れられる」と予言したというのがあった。こちらの噂は松山市にまで広がっている。

 

<お産の神さまとして知られた中山みき>

・天理教は、教祖である中山みきの教えにはじまる。幕末に、みきはくり返し神憑りを経験し、やがては神のことばを取り次ぐ役割を果たすようになる。とくに、「お産の神さま」として知られるようになり、周囲には信者が生まれるが、その結果、みきをライバルと考える修験道などの民間宗教家から迫害を受ける。

 

・また当時は、公の許可を得ずに布教活動を展開することは法律に違反した。そのため、みきや幹部が警察に逮捕され、拘留されることもくり返された。みきの場合には、89歳の高齢で真冬に拘留されたため、それでからだを壊し、90歳で亡くなっている。

 

・みきがお産の神さまとして周囲に知られるようになったのは、彼女が「おびや許し」と呼ばれる呪術的な行為によって安産を保証したからである。それは、妊婦の腹に三度息を吹き掛けるというものだった。おびや許しをはじめたことで、みきの周囲には信者と呼ばれるような人間たちが集まってきた。

 その後、みきは、その信者たちに「さづけ」を渡すようになる。さづけにはいくつかの種類があるが、「扇のさづけ」は、扇を手に持って正座し、神に祈願すると、その扇が自然に動き、それで神意を悟ることができるというものだった。

 

<なぜ天理教では「神」が「親」としてとらえられるのか>

・こうしたおびや許しやさづけだけなら、みきが行っていたのは、ほかの民間宗教家と変わらないレベルでも呪術的な行為に過ぎなかった。

 事実、みきの周囲に形成された宗教集団においては、最初、「天龍王命」という神が祀られていた。天龍王命という名称からして、民間信仰のなかの龍神の類かと思われる。

 ただし天理教では、天龍王命は、やがて転倫王命や転輪王命と呼ばれるようになり、最終的には天理王命へと行き着く。その過程で、龍神としての性格は失われていったようにも見えるが、後に述べる天理教独自の神話には蛇が登場するので、新たな形で龍神は生き残ったとも言える。

 注目されるのは、松下電器産業でも、本社や分社、あるいは工場ごとに龍神を祀っていることで、中心となるのは白龍、黄龍、青龍、赤龍、黒竜の5つの龍神である。ただ、これは天理教の影響ではなく、幸之助の宗教方面の顧問として影響を与えた真言宗醍醐寺派の僧侶、加藤大観のアイディアによるものだという。

 天理王命は「親神」とも呼ばれ、みきはその親神そのもの(親さま)と考えられていく。そもそも神が親としてとらえられるのは、天理王命が人類を生み出した創造神だからである。

 

<極めて素朴な「陽気ぐらし」の予言>

・天理教の教えでは、世界中の人々のこころが澄み切ったときには、石製の甘露台がそこに据えられ、その上におかれた平鉢に天から甘露が降ってくると予言されている。それを想定し、教会本部の中心部分は、天井が空いている。甘露が降ると、人間は病むことも、弱ることもなく、115歳まで寿命を保つことができるようになる。そこで天理教がめざす「陽気ぐらし」が実現されるというのである。この予言は、理想の時代の到来を告げるユートピア的なものである。

 

・天理教の教えは非常に素朴なもので、誰でも、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八つのほこりがついてしまうので、それを、ておどりをくり返すことではらう必要があると説かれる。こうした実践は、陽気ぐらしを実現するための手立てとして考えられている。

 

<天理教が巨額の献金を集めることができたわけ>

・評論家の小林秀雄の母親も天理教の信者で、彼は、初期に書いた小説のなかでそのことにふれている。その際の小林の姿勢は、天理教に対して否定的ではなく、むしろ好意的であるように読める。

 このように天理教は、一時爆発的に流行し、多くの信者を抱えるようになっただけではなく、実業家や文化人にも大きな影響を与えた。現在では、新宗教といえば、まず創価学会など、戦後に発展した教団のことが思い浮かぶであろうが、天理教はその先駆けとしての役割を果たしたのである。

 

<戦後日本の宗教にまで影響を与えた大本「立替之説」>

<予言から出発した教団・大本>

・分派を多く生んだ新宗教として名高いのが、大本である。大本の流れを組むものとして、よく知られているのが、成長の家、白光真宏会、世界救世教などである。この系列の教団では予言ということが重要な意味をもっており、分派についても、予言がその契機になっていたりする。

 大本の開祖となったのは出口なおである。女性教祖という点では、天理教と共通し、教祖の神憑りからはじまったところでも両者は似ている。

 なおが生まれたのは1836(天保7)年のことで、京都の福知山の大工の家の生まれだった。なおは、綾部の出口という家の養子になり、婿養子を迎え、8人の子どもをもうけるが、生活は苦しかった。なおが53歳のとき、夫が亡くなり、生活は困窮した。

 それがなおの神憑りに結びつくが、最初に神憑りしたのは、なおではなく、他家へ嫁いでいた三女で、長女がそれに続いた。これは、「集団ヒステリー」とも言えるもので、なお自身が神憑りしたのは彼女が57歳のときだった。腹のなかに強い力を発するものがあって、それが突然大きな声になって表に出たのである。

 当時、綾部周辺では金光教が勢力を拡大しており、なおは最初、自らに宿った神を、金光教の金神としてとらえ、「艮(うしとら)の金神」と呼んでいた。艮は、祟り神の潜む鬼門の方角である。祟り神が実は善神であり、それを表に出さなければならあにと、なおは考えたのである。

 

<弥勒信仰と大本の奇妙なつながり>

・そのなおの運命を大きく変える出来事が、翌年に起こる。それが上田喜三郎、後の出口王仁三郎の登場である。そのときの王仁三郎は、すでに修験道の修行を実践し、神霊と交わって、その力を活用する「鎮魂帰神」の方法を学んでいた。その点で、プロの宗教家であり、なおの五女、すみと結婚することで、教団のなかで発言力を増していく。

 

・なおは、王仁三郎の霊魂が、みろくの神の霊であるという神示を受けていた。みろくとは、第三章でふれた弥勒菩薩のことである。

 

<崩壊したのは世界ではなく教団の方だった>

・大本は、1919(大正8)年に亀岡城址を購入し、そこに大規模な道場を設けた。さらに「大坂日々新聞」を買収し、活発な宣伝活動を展開した。その結果、1919年に2万5000人だった信者は、1年のあいだに30万人に増えたとされる。ただしこれは、大本の側に言っていた数字なので、どこまで信憑性があるかは分からないが、急速に教団が拡大していたことは事実である。

 

・しかし、当然のことながら、終末論的な予言は的中しない。大本の場合には、立替え立直しが起こるはずの1921年2月12日には、不敬罪や新聞紙法違反で警察による取り締まりを受け、幹部が逮捕、起訴されるとともに、神殿が破壊されるという「第一次大本事件」を経験する。崩壊したのは、世界ではなく、教団の方だった。

 

<なぜ長岡良子は天皇になろうとしたのか>

・もう一つ、戦後、大本の皇道主義的な側面、つまりは天皇信仰を受け継いで、特異な活動を展開したのが、璽宇(じう)であった。

 璽宇の教祖は、璽光尊と名乗っていた長岡良子(本命は長岡ナカ)である。本人は、皇室の血を継いでいると主張していたが、実際には岡山県の農家の出身だった。

 彼女は離婚した後、当時の東京市蒲田区(現在の大田区)で加持祈祷を行っていたが、大本から分かれた小田秀人が主宰していた「菊花会」という心霊現象を研究するグループに属していた実業家の峰村恭平が篁道大教を開くと、良子もそれに参加した。

 

・この篁道大教が璽宇に改称されると、そこには、大本と連携していた中国の世界紅卍字会道院の信者であった囲碁の名人、呉清源なども集まってきた。呉の妻が、峰村の親戚だったからである。峰村には病があったため、璽宇の教祖は良子が引き継ぎ、彼女は璽光尊と名乗るようになる。

 終戦直後の璽光尊は、人間宣言によって現人神の地位を退いた天皇に代わって、自分が世直しを行うと宣言した。ここには大本の影響が見られるが、璽光尊は、家具や日用品にまで菊の紋章をつけた上、独自の元号を定め、天皇そのものになろうとした。

 そして、呉清源の妻の中原和子が、妹とともにGHQに「出陣」し、マッカーサー元帥に璽宇への「参内」を呼びかけたりした。

 

 

 

『安倍晴明 陰陽師 超能力者』

(志村 有弘、豊嶋 泰国)(勉誠出版)2001/6

 

「中山みき」不世出の女性超能力者  (豊嶋 泰国)

 

 <すべてを見通す>

・天理教の教祖として知られる中山みきは、何でも「見抜き見通し」といわれたほど、並外れた超能力者であった。

 

・居ながらにして、遠くの出来事を第三者に見せることもできた。みきが、台の上にいつもじっと坐っているので、弟子の井筒梅次郎が、「さぞ退屈でございましょう」と声をかけた。すると、みきは「ここにちょっと顔をつけてごらん」といって、自分の片袖を差し出した。そこで、梅次郎が、その袖に顔をつけてみると、場面は変わって牡丹の花が咲き誇っている光景が見えたという。梅次郎は、みきが何でも自由自在に見ることができる<神様>であることを確信したのである。

 <たちどころに病を治す>「よろず病たすけの神様」というみきの存在。

 <異常な怪力>「教祖(みき)の力は人間業ではなかった」

 

 <予知能力>

それから、「見えてから説いてかかるは世間並み。見えん先から説いておくぞや」と『おふでさき』で説いているように、みきは計り知れない予知・予言能力が備わっていた。例えば、幕藩体制や封建社会の崩壊と明治維新、電車や飛行機などの交通手段の進化、電信・電話や今日のコンピュータ・ネットワークによる世界のグローバル化のようなことまで予言していた。

 

<天理教祖>

みきは寛政十年(1798年)に奈良県天理市に前川家の長女として生まれた。天保九年(1838年)に長男秀司が病気に罹り、祈祷を依頼した修験者の加持台(巫女役)を務めた時に激しい神懸りとなった。すなわち、天理教の開祖である。

 

・みきに神懸ったのは世界や人類を創造した「元の神・実の神」で、世界人類の真の救済のために天降り、みきを「神の社」としてもらい受けることを明らかにした。だが、長い間、みきを「神」と認める者はいなかった。それどころか、狐狸に憑かれた老女か気狂いとして見なされた。主な理由は、困っている人たちに家財を徹底的に施し、極貧生活を送るようになったためである。

 

・だが、安産守護や病気治しで霊験を現すようになってから、噂を聞いて信者が集まりだし、天理教の基礎が築かれた。みきが死去したのは明治二十年(1887年)二月十八日、九十歳であったが、天理教では現身を隠しただけで、魂は生き通しで世界の救済のために日々尽力していると説いている。現代でも熱心な信者の前に、赤衣を着たみきが現れて救ってくれたーなどの霊妙な話が少なからずある。

 

 

 

『中山みき』

「心直し」から「世直し」を説いた生き神教祖

小澤浩   山川出版社     2012/12

 

 

 

<浄土信仰>

・みきの少女時代で注目されるのは、両親が浄土宗の信仰に驚く、みきもその雰囲気に馴染んで、早くから「浄土和賛」などを暗誦するくらいであった、という点である。浄土系の信仰が来世型のものであるとすれば、のちにみきが切り聞いた現世型の信仰とは異なるので、その影響はなかったとする見方が多いが、無関係と言い切るにはいささか問題がある。私はかつて近世の寺院文書のなかで、ある真宗僧侶の法話の速記録をみたことがあるが、そこでは平生業成に力点をおく現世での救いが強調されていた。先述した共同体村落の近世的発展による現世利益への関心が、浄土系の信仰にもある種の変化をもたらしていたとすれば、みきの接した浄土信仰も、そうした性格のものであった可能性が高い。

 

<教祖誕生>

・1838(天保九)年、十月二十三日、長男の秀司が、にわかに足痛の発作を起こし、さらに善兵衛が眼を、その妻みきが腰を痛めて苦しみはじめたため、翌日、修験者の市兵衛を呼んで寄加持をすることになった。そして、いつも加持台をつとめていた婦人が不在のため、やむなくみきをその代役に立てて、祈祷が始まった。ところが、儀式が佳境に達するころ、突然みきが神がかりになり、「我は、元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり。このたび、世界一列をたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰いうけたい」と、おごそかな声で告げた。

 

<妻として人間として>

・その頃、かのという女衆があって、善兵衛の寵をよい事に、日増しに増長して勝手の振舞いが多く、終には、教祖をないものにして、我が身が取って替わろうと企て、或る日の事、食事の汁のものに毒を盛った。なにも知らず、これを召し上げられた処、やがて激しく苦しまれた。家族の者は驚いて、懸命に看護の手を尽くす一方、その原因を詮索すると、女衆の仕業であると分かった。余りの事に驚き怒ったが、教祖は、苦しい息の下から「これは、神や仏が私の腹の中をお掃除下されたのです」と、宥め容された。この廣いお心に触れた女衆は、初めて迷いの夢から醒め、深く己が非を詫びて魔底から悔い改め、やがて自ら暇をとって身を退いた。

 

<にをいがけ」>

・天理教で「にをいがけ」というのは、一言でいえば布教・伝道のことである。話は少し戻るが、善兵衛がなくなった悲しみも消えやらぬ1853(嘉永六)年、17歳になった五女のこかんが、神の指図に従って共の者二人とともに「親神」の御名を流すべく浪速の町(大阪)に向かい、人手でにぎわう道頓堀で、拍子木を打ちながら繰り返し神名を唱えた。「なむ天理王命(てんりおうのみこと)、なむ天理王命」。

 

・「天理王命」とは、みきが唱えはじめた親神のいわば固有名詞である。『教祖傳』によると「生き生きとした」こかんの声に人びとのこころは「勇んで」きた、とあるが、それはどうであろう。まだ「花も恥じらう17歳の少女にして、みきの意図も十分には理解しにくかったであろうこかんが、物珍しげな衆目に晒され、その声が羞恥心で震えていたとしても、それはそれでわれわれの胸を打つものがあるのではなかろうか。いずれにしても、天理教ではこれが「にをいがけ」の嚆矢であったとされている。

 

・みきが人助けの手始めに、女性の出産に着目したのはまさに時宜をえたものであったといえよう。出産は当時の女性にとっては生命にもかかわる大仕事であった。人びとは「毒忌み」を「凭(もた)れ物」などのさまざまな俗信に安産の願いをしたが、それはかえって、女性たちの不安や負担を重くしていた。それだけに、息を吹きかけお腹をさするという簡単な所作で安産が約束されるこの方術は、合理的な根拠を求めず、結果の如何さえ問わなければ、まさに出産の不安をかかえた女性たちに待望の福音をもたらすものであったといえよう。

 

・また、別の文献では、みきが寺社への拝み信心と違って、金銭を求めず「お話だけで助けてくれる」神様として評判をとっていた、という証言もある。伝承が残している「病気治し」の奇蹟話が、初期の教勢の発展に大きく寄与していることは疑いないし、みきもそれをためらった形跡はないが、「病気治し」はやはり信心の入り口であって、大きな救いはその先にあるというのが、みきの立場だったと思われる。

 

 

 

『天皇祭祀を司っていた伯家神道』

 佐々木重人 船井幸雄 徳間書店    2008/10

  秘儀継承者七沢賢治がえがく新創世記

 

 

 

 <近代日本に澎湃と沸き上がった神懸り、新興宗教 / 黒住、天理、金光、大本と高濱清七郎―民族的な危機を前にして突如立ち上がった神々>

・後に出口王仁三郎こと上田喜三郎は、明治4年(1871年)京都の亀岡で生まれます。長澤と同じように稲荷請社の活動が原点になっており、明治21年に本田と出会い、更に、明治31年に出口なおと出会うことで、大本の活動が本格的に始まります。大本の経典である『霊界物語』の中に、長澤が審神者になって自分を招いたと書かれていますが、これが王仁三郎の霊的な出発点になっています。王仁三郎の持つ、圧倒的なカリスマ性によって戦前、大本は、最盛期に500万人もの信者を擁する大教団に膨れ上がり、各界を巻き込んだ巨大勢力となりました。大本の基本的な教えは、「宇宙の三千世界、幽界、現界の立替、立直しのために身魂を磨きなさい」というものでしたが、その巨大さの故に、やがて国家体制を脅かす存在とみなされて、徹底的な弾圧を受けることになります。

  

・特に1935年の二度目の弾圧は、16人もの関係者が獄死するという壮絶なものでしたが、この弾圧の中で、大本から分かれて神政龍神会を興した矢野祐太郎も検挙され、取調べの最中に死んでいます。こうした一連の事件は、高橋和己の小説『邪宗門』や松本清張の遺作である『神々の乱心』のモデルになっています。

  

・大本は、教団本部の建物まで破壊され、壊滅的な打撃を受けますが、この流れの中から、世界救世教の岡田茂吉、成長の家の谷口雅春、世界真光文明教団の岡田光玉、白光真宏会の五井昌久、日本心霊科学協会の浅野和三郎、その他若林耕七、荒深道斉、宇佐美景堂、佐藤卿彦、黒田みのるらが排出されてゆきます。

こうした大きな時代の流れは、ある意味で、民族的な危機に対して、日本の神々が立ち上がったといえるかもしれません。

 

 

 

 

『神霊界』 

(深見青山)(橘出版)  1994/4

 

 

<18万の宗教団体の実体>

<現実界を支配する法則をつかむ>

・「明治以降起こった宗教のほとんどは、龍が実神だ。現在、宗教法人として登録している宗教団体は全国でその数約18万というのである。もちろん、この中には非課税というシステムに目をつけて、ただの営利団体を宗教法人化した不届き千万な宗教団体も相当含まれているだろうから、額面どおり受け取るわけにはいかない」。

 

・「日蓮宗系全般や明治以降起こった大きな宗教は、ほとんど龍が主宰しているのである。教派神道系で言えば、如来、金光、天理、黒住、大本・・・・これらの主宰神は全て龍である。高度な霊眼が開けた方ならお分かりになると思うが、これらの教団は、全て龍がそれぞれの教祖に降って起こした宗教なのだ」。

 

・「本当は、龍が取次ぎを行い、時折、菩薩、如来、権現などの仏界に降りた次元の神霊が現れたり、産土(うぶすな)神霊、すなわち神社神道における5次元、権現神が現れたりしている。決して、神霊がいないわけではない。複合的な同居であって、その主な働きがどこにあるかだけなのである」。

 

・「ただ、しかし、封建時代の最後に現れた大本教の出口王仁三郎だけは違っている。彼自身は、全ての龍神、天狗、稲荷、白蛇を自由自在に使いこなし、極微の天界も神霊界の全ても知悉していたのである」。

 

 

 

『東洋秘教書大全』

藤巻一保 岡田明憲   Gakken  2012/8

 

 

 

<『霊界物語』  『大本神論』と並ぶ大本教のもうひとつの根本>

<壮大な神聖ドラマ>

・全81巻の大著は、第一次大本弾圧が行われた大正10年から王仁三郎による口述が開始され、昭和8年(1933)に最終巻の口述を終えた。ただし、当初の神命は全1728巻であり、神と交渉して120巻まで圧縮する許しを得たと王仁三郎自身が述べているので、完結ではなく未完である。

 

・「この『霊界物語』は、天地剖判の初めより天の岩戸開き後、神素戔嗚命が地球上に跋扈跳梁せる八岐大蛇を寸断し、ついに叢雲宝剣をえて天祖に奉り、至誠を天地に表わし、五六七(みろく)神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまいし太古の神代の物語・・・にして、決して現界の事象にたいし、偶意的に編述せしものにあらず。されど神界幽界の出来事は、古今東西の区別なく、現界に現われることも、あながち否み難きは事実にして、単に神幽両界の事のみと解し等閑に附せず、これによりて心魂を清め言行を改め、霊主体従の本旨を実行されむことを希望す」

 

・文中、「国祖」とあるのは、開祖・直に憑ったとされる国常立神(くにとこたちのかみ)、俗にいう艮の金神である。太古、この神は地上霊界の東北(艮)に封じられ、長い忍従の歳月を甘受してきた。けれども時節の巡りにより、再び地上霊界を主宰する復権の時を迎えたので、開祖に憑って一切の立て替え立て直しを行うと宣言した。それが大本の絶対的な神典『大本神論』である。

 

・この神論をもたらした国常立神は、至純だが、厳正・厳格で融通のきかない神なので、「厳の御霊」という。この霊系には多くの神々がいるが、なかでも最も尊貴な厳の御霊として王仁三郎が位置づけたのが、天照大御神だ。

 

・天照大御神は、姿は女身だけれど、中に入っている霊は男神のそれなので、このタイプ(形は女身で霊は男)のことを、「変性男子」と呼ぶ。開祖の直は、この変性男子のミタマの化現、天照大御神の霊統にほかならない。それゆえ、同じ霊系の国常立神が直に憑って、立て替え立て直しを世界に宣布した。

 

・ただし、厳しい父親のような変性男子だけでは、世の立て替え立て直しは実現しない。大いなる愛情をもって万物を慈しみ、救済する地母神のような伴侶が要る。その役割を負っているのが、素戔嗚命だ。天照大御神と反対で、素戔嗚は姿が男身だが、霊には女が入っている、この系列のミタマを「瑞の御魂」といい、形は男身で霊は女なので、「変性女子」と呼ぶ。王仁三郎がそのミタマであり、この変性男子と変性女子が一体となって神行を推進していく場が、綾部の大本だというのである。

『大本神論』には、変性男子のミタマによる経綸が示されている。これと対を成すのが、変性女子のミタマである王仁三郎によって口述された『霊界物語』であり、両者が一セットになって、大本の神の経綸が明らかになるという仕組みなのである。

 

<「型」の思想と霊主体従>

・『霊界物語』は、この素戔嗚を軸に展開する。ただし、全編が素戔嗚を主人公としているわけではなく、記紀に登場する神々のほかに、本書独自の膨大な神々が、次から次へと登場してくる。

 

・こうした発想の根底には、先にも述べたとおり、日本は世界の雛形であり、日本の雛形は大本だとする思想がある。王仁三郎は、大本に起こることは日本に起こり、日本に起こったことは、やがて世界に起こると主張した。それは世界が霊界の写しだからで、霊界で起こったことは、まず大本に型として写し出され、それから日本に、さらには世界規模で写し出されるというのである。

 

・その背景には、霊界が主で現界が従という太古不変の神律がある。そのため、霊界で起こった出来事は、必ず現界に写し出される。しかもその投写投影は、一度きりではない。巨大な時間サイクルの中で、何度もくりかえし再現され、投影される。だから、霊界で起こったこと(霊界史)がわかれば、地球の未来がわかる。霊界の過去の姿を通して、現界の現在の姿、あるいは未来の姿が読み取れるはずだからである。

 

<贖罪神と「最後の大峠」>

・そうして最後に、イザナミ自身が迫ってくる。「今までは、千五百の黄泉軍を以て来たのが、最後に世界全体が一致して日の神(イザナギ)の御国(日本)へ攻め寄せて来たと云う事は、伊弉冊命身自ら追ひ来ましきという意義であります。これが最后の世界の大峠であります。すなはち神軍と魔軍との勝敗を決する、天下興亡の一大分水嶺であります」

 

・この後、イザナミは月界に移り、イザナギは禊して三貴子を生む、天照大御神は高天原を主宰し、月読命は月界、素戔嗚は地球を主宰することになるのだが、この地球の主宰神は、黄泉国と化した地球の穢れの罪を一身に背負って贖罪神となり(ここにはキリストのイメージが重なっている)、地球救済のために神行に入る。そうして、『霊界物語』のドラマへと接続していくのである。

 

・以上はまだ導入部にすぎない。また、王仁三郎自身がくりかえし説いているように、当時の世界情勢や大本をとりまく情勢にひきつけて行っている王仁三郎の解釈は、あくまで霊界の投影像のひとつにすぎない。

『古事記』は「全地球上の出来事に対する御神書」であり、『霊界物語』もまたそうした書物にほかならないというのだが、この言葉をどうとるかは読者に任されているのである。

 

 

 

『地球を守る「宇宙連合」とは何か』

宇宙の正義と新時代へのシグナル

大川隆法  幸福の科学出版   2011/7

 

 

 

<今、明かされる「日本神道の秘密」>

<天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、国常立神(くにとこたちのかみ)、天照大神(あまてらすおおみかみ)の「正体」とは>

 

・実は日本神道の中心神には「天御中主系」と「国常立系」とがあるんです。『古事記』の系統はだいたい天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を中心神として考えていますね。そして、『日本書紀』系統は、国常立神(くにとこたちのかみ)を日本神というか、この日本の教えをつくった始原の神、最初の神として見ているのです。『古事記』と『日本書紀』は、書いている人が同じ時代の人であり、そんなに変わらない時期に成立した正史というか、国の歴史書です。つまり「最初の神ではないか」と思われている神が二人、正史に現れているわけです。

 

・そして、片方の天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を中心にしたところでは国常立神(くにとこたちのかみ)の評価が低めになっています。一方、国常立神(くにとこたちのかみ)系では天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)のことをそれほど偉い人のように思っていないところがありますね。

 

 

 

『天皇奇譚』

「昭和天皇の国師」が語った日本の秘話  

高橋五郎  Gakken    2012/3

 

 

 

・戦後、「昭和天皇の国師を務めた男がいた。その名は三上照夫。

平成4年にその生涯を閉じるまで、三上は名だたる政治家や経済人たちの相談役も果たしていた。この“謎の男”は昭和天皇に何を語り、「日本の重鎮たち」にいったい何を教えたのか。

初めて三上の「生の言葉」を開陳。そこから見えてくる「日本のカラクリ」と私たちを覆う「欺瞞」を解き明かす。

 

<神龍師へ「お待ち申し上げていました」と告げた王仁三郎>

・白日翁は霊界と神界を仲立ちして取り持つ役目の神だ。その「白日」よりも神龍師は天界では高い地位(神仙界第一層)の神だから亀井とでは根本的に位相が違っていた。

 満州から帰国した亀井三郎が、どんな経緯で京都の師のもとを訪れたのか、その詳細はつまびらかにされていない。だが、実は二人の間の接点となった人物は、出口王仁三郎ではないか、そんな推測が一部で流れた。そしてそのとおりだった

 

・実は亀井三郎も戦前の一時期、大本教に身を寄せていたことがあった。戦後、満州から引き揚げてきた亀井は、戦前の縁を頼って出口王仁三郎を訪ねている。そのときに、王仁三郎の口から中化神龍師の存在を聞かされたのだといわれる。

 

<政財界人が蝟集した「松柏会」の裏側>

・話を戻そう。この本では神龍師が特殊な力=霊力の持ち主であることはこれまで述べてきた。そして同時に、師が生涯をかけた特別な使命、あるいは天命を抱えてきた経歴も述べてきた。

 昭和30年当時、師が京都で開いた「御上教苑」はその後に、「松柏会」という名称の学術団体へ発展改名したのだろうが、それがいつなのか、なぜなのかについては私にはわからない。

 

・私が松柏会に出席を続けた最大の目的は先述したとおりの斎場の空気に触れることにあった。斎場は、天の声(神の声)を聞く聖なる儀式の場、つまり神霊空間である。

 その集会で師は“神がかり”となる。神が降りてきたとき、我々の目の前にいるのは、憑依した中化神龍師である。しゃべっている声も師のものだからまるで腹話術のようだが、声話の主は白日翁だ。その場の師は幽体離脱状態にあるから、白日が何を語らせたのかは知らないという。神がおりてきて何をしゃべるという奇妙な現場なのだ。

 これはいわゆる「審神者(さにわ)」に近い状態、つまり、神諮りの場なのだろう。

 

・もともと審神者とは、神からの神託を受け、それを地上の人々にもわかる言葉で伝えて儀式空間をつくる存在といわれる。ただし、審神者の場合、仲介者(神と仲立ちし取り持つ、つまり白日役)の能力しだいでは、その場に未熟霊、動物霊、凶悪霊などの低級霊がおりてしまい、禍々しい事件を引き起こすこともあると白日翁は言う。そういう意味でも、この斎場は世間でいう審神者によるものとは次元も質もまったく違うということを白日翁は言いたいらしい。ここに低級霊がおりてくる可能性はまったくないと、白日翁は繰り返し断言した。

 さらに繰り返すが、かくいう松柏会はいわゆる心霊教団でも、いわんや宗教団体でもない、学術団体だと白日翁は語っていた。

 

<天界の神々と中化神龍師を結ぶ仲介者>

・ではその白日翁とはいったい何者なのか。もう少し詳しく語っておこう。

だが、そのことを論じる前に、まず中化神龍師の体内に宿っている神について白日翁が語るところの“神々の世界”を押さえておこう。

 私たち人間の棲んでいるこの世界は地上界である。この地上界の上の空間には、霊界が広がっている。私たちの住む地上界は霊界に支配されている。およそ地上から350マイルの宇宙空間、つまり約560キロメートルあまりまでが霊界空間域になっている。死んだ人間の魂はこの霊界を通過上昇していく。この霊界の上位に位置するのが神仙界。そのさらに上部に天界が存在している。

 

・霊界、神仙界、天界はそれぞれの界でさらに何層にも分かれている。各層の神様にはランクづけがあり上下と第一・第二の位の神様がいる。上下の秩序(位相(ヒエラルキー))は固定化され保たれている。いやはや常人の目には想像もつかない縦割りの階級制なのである。なにせ一神教ではない八百万の神々がおわす多神教を信じる国、日本だから当然の“密度”なのだろう。

 

・幽体離脱状態の師の身体に入り込むその神が、天界から降りる白日翁だ。

白日翁によれば、白日とは天界の神々と地上の霊界とを結ぶ仲介者の神名のことだという。

「私は霊界と神仙界をつなぐ、いわば総務部長のようなものだ」と白日翁は自身の役割をそう紹介している。

 神名を白日と呼ぶ翁の生前の氏名を宮地堅磐という。

 父は19世紀後半に活躍した神仙道の祖・初代の宮地水位こと常盤。土佐国潮江村の潮江天満宮の神主・常盤の長男として生まれた堅磐は、12歳にして早くも2代目の神主に。厳しい修業を経て幼少の頃から神仙界に出入りする術を身につけ、以後、数百回にわたり異界と現世を往復したといわれる人物だ。堅磐が神仙界のありさまを詳細にわたり記述した『異境備忘録』は、天下の奇書として有名だという。30歳のとき、堅磐は宮内省に招かれ、掌典長、賢所の神主を務めた。

 

・が、40代の後半で重い病に倒れる。この病は、『異境備忘録』によって神界の秘事を人間界へ知らせてしまったことの責めを受けてのものだと堅磐は死後、自らの死因を天界から語っている。死後に語るとはつまり斎場で語ったという意味だ。病に倒れて5年後に惜しまれながら死去。彼の博学多才ぶりに心酔した者は多く、生前には3千人以上の門人がいたという。

 この堅磐の魂が天界の霊となり、4代目の白日として斎場に座る師の身体に舞い降りてくるのである。

 

<「世界支配者」は、小柄な禅僧!>

・世界の支配者は誰。どこにいて、何を考えている――。荒唐無稽を承知でその姿を求め世界を彷徨してほぼ50年が過ぎた。初渡米の頃の為替レートは1ドル360円。それが昨年では1ドルおよそ70円台。闇に潜んで、見えにくかったボス像だったが、通貨上昇に沿うかのようにその像も今では4倍ほど強く鮮かに見えてきた感もある。日本の国力回復という名の夜明けが視界を広げてくれたのかもしれない。

 ところで、魂を見れば子が、子を見れば親がわかるなどという。その伝で国家の親つまりボスを見て、子供つまり国民の正体、を知ろうと思い立った。本当にその比喩が当てはまるのかどうかはわからないから世界を歩きボスと接することにした。

 

・旅の答えは、なんと足元にあった。手始めに歩き回ったウォール街やロンドン・シティに潜む“マネーのドン”たちのなかにではなくて、京都に住む小柄な禅僧との出会いの場が旅を終わらせたのだ。禅僧は神名を中化神龍(ちゅうげしんりゅう)師と呼ぶ“現人神”で、昭和天皇の師匠つまり「国師」だ。その頃、私はスペイン人で元ナチス軍団の大物スパイ氏と二十余年間ほど交際していた。昭和天皇がかつては世界の“ボス”でもあった身分をスパイ氏は私に“密告”していた。教科書や公式文書に書かれていない“天皇情報”だった。国師はヒロヒト天皇の上位に君臨する精神上の“大ボス”ならばこれ以上の“ボス”探しは無用。私の長旅は終わった。

 


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