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猿の経立(ふつたち)は人にえらい似てきて、里の女をなんべんも連れ去るようになります。遠野に現れる猿の経立は、人間の女をさらう点で、山男や天狗のような山界の異人と共通しています。(2)

2020-10-11 18:09:49 | 森羅万象


『キジムナー考』
木の精が家の神になる
赤嶺政信    榕樹書林  2018/8/1



<キジムナー>
・キジムナーは、沖縄の人々にとって最も馴染みのある妖怪であり、キジムナーについては、これまでにいくつもの論考が発表されてきた。従来の研究を振り返ってみると、筆者には重要な論点が看過されてきたという思いを禁じ得ず、本稿の出発点はそこにあって、第一部では、その点と関わるキジムナーの民俗学的考察を行う。第二部では、第一部の検討結果につなげるかたちで、八重山諸島における家屋の建築儀礼をめぐる問題の検討を行ない、建築儀礼のなかに窺うことのできる人間と樹木霊(キジムナー)との交渉をめぐる問題について考察していく。そして結論として、八重山の床の間で祀られる家の神は家屋の材料となった樹木の精霊が転化したものであること、すなわち、「木の精が家の神になる」という見解を提示するつもりである。

<キジムナーは何モノか>
・キジムナーは、地域によって、セーマ、ブナガヤ、ボージマヤなどの異名がある。これらの語義について深く立ち入って検討する用意はないが、いくつかの説については紹介しておきたい。
 折口信夫は、ブナガヤの「ぶながる」は長い髪をふりみだすという意味で、ブナガヤはそれに由来するという。山原出身の宮城真治もブナガヤは、「蓬髪の意である」と述べている。また宮城真治は、羽地のボージマヤについて、ボージは坊主でマヤは迷わす義であろうとしている。なお、宮城は、今帰仁のセーマについてその語義は不明だとしている。
 奄美地域にはケンムンの話が豊富にあるが、キジムンとケンムンは語の構成や説話の内容の類似からして同様のものと判断できる。また、宮古と八重山にはキジムナーという名称はないが、沖縄本島地域のキジムナーと共通する性格を有する説話上の存在が認められ、それについては後段で注意を向けるつもりである。
 さて、キジムナーとはいったい何モノなのか、その正体にせまるために、キジムナーという言葉の意味について立ち入って検討することにする。
 キジムナーはキジムンの愛称辞だから、キジムンという言葉の意味を考察する必要がある。キジムンの語頭にある「キ」は、キジムンが樹木を棲み処としていることからしても「木」であることは間違いないだろう。そして、末尾の「ムン」は、ヤナムン(悪者)、マジムン(魔物)などの用法にもみられる「ムン」であることも疑い得ないが、琉球語の「ムン」が日本語のモノノケ(物の怪)などに用いられる「モノ」にも通じる言葉であることに注意を向けておきたい。すなわち、『大辞林』で「もの(物)」を引いてみると、六番目に挙げられる意味として、「鬼や悪霊など、正体のとらえにくい対象を畏怖していう語」とある。

・次に、保育園の園児の遊戯歌としてもよく使われている「チョンチョンキジムナー」の歌詞に注意を向けることによって、キジムナー像の輪郭を浮かび上がらせていくことにしたい。

・この歌詞に歌い込まれているキジムナーに関する情報は、以下のように整理できる。チョーバン石という家の側にガジマル木に住むキジムナーは、その家の住人であるカマデーという男と友だちになった。カマデーは、月夜の晩にキジムナーに誘われて漁に出かける。魚取りがうまいキジムナーのお陰で毎回大漁するが、キジムナーは魚の目玉だけ食べて、あとはすべてカマデーにあげる。カマデーはキジムナーから貰った魚を売ってお金を稼ぎ、立派な家が造れるほどであった。キジムナーの嫌いなものは、暁を告げる鶏の鳴き声、蛸とオナラである。キジムナーは実にいい奴で、キジムナーと友だちになるとただで中国(唐)旅行やアメリカ旅行にも連れていってくれる。キジムナーとの魚取りは実に楽しいものであるが、夜が明けきらない内に切り上げて家に戻らねばならない。

・この歌詞に注意を向けるのは、歌い込まれているキジムナーの性質が、これまで明らかにされてきたキジムナーの性質とかなりの部分が一致するためである。たとえば、『沖縄大百科事典』でのキジムナーについての解説は以下のようになっている。姿は赤面、赤頭、小童で、古い大樹の穴に住み、行動・性質は、①漁を好み、魚の左目を食い、蛸を嫌い、②松明を持って海や山の端を歩く、③寝ている人の胸を抑えるなどの特徴をもつ。アカガンダーとは、直訳すれば「赤い髪の毛」だが、今風に言えば茶髪といった方が通りがいいであろう。

・柳田國男は、岩手県遠野市で伝えられていた話を聞き書きしたものを、1910年に『遠野物語』として出版するが、そのなかの第27話として次の話を掲載している。

(第27話は当ブログ修正)(ウェッブサイトmikovskaja  noteから引用)
・早池峰から出て東北の方角、宮古の海に流れる川を閉伊川という。その流域が下閉伊郡である。遠野の町の中にて今は池の端という家の先代の主人、宮古に行っての帰り道、この川の原台の淵というあたりを通ったのだが、若い女ありて一封の手紙を託してきた。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行って、手を叩けば宛名の人が出て来るでしょうと言う。この人は請け合いはしたれども、道々心にひっかかっていたところ、一人の六部(巡礼者)に出会った。この手紙を開き読んでその人が言うには、「これを持っていかないとあなたの身に大きな災いがある。書き換えて渡した方がいいでしょう」とて更に別の手紙を渡した。これを持って沼に行き、教えられた通り手を叩いたら、若き女が出てきて手紙を受け取り、その礼ですといってとても小さな石臼をくれた。米を一粒入れて回わせば下より黄金が出てくる。この宝物の力にてその家はやや豊かになったが、妻が欲深く、一度にたくさんの米をつかんで入れたところ石臼はしきりに自ら回転して、ついには毎朝主人がこの石臼に供える水の、小さい窪みの中に溜まっていた中へ滑り落ちて見なくなってしまった。その水溜まりはのちに小さな池になって、今も家のかたわらにある。家の名を池の端というもそのような理由である。

・「池の端」という家が裕福になったことの由来を語る話であるが、藤井が指摘するように、それに関与している二人の「若き女」は明らかに通常の人間ではなく、その意味では妖怪の話と同様に怪異に属しているといえる。
 柳田は『遠野物語』を出版した翌年の1911年に「己が命の早使い」という小論を発表するが、そのなかで柳田は、『遠野物語』第27話と同じ話が、遠野地方に限らず、遠野から遠く隔たった甲州と備前にもあり、また、12世紀に記録された『今昔物語』にも掲載されていること、さらには、中国の古い文献にも似た話が見出されることを指摘したうえで、以下のように述べている。

何故こんな突拍子もない話がわざわざ日本にまで輸入されたか。また、仮に偶合であるとすれば、何故人の頭脳のなかにこういう思いがけず空想が発現したか。これらは、学者が、万年かかっても、とても明らかにする事のできない人類の秘密で、妖怪研究の妙味も、結局するところ、右のごとき神韻渺の間に行かなければならないのかと思うと、やはり宇宙第一の不思議は、人間その物であるといわねばならぬ。

 すなわちこの文章から、妖怪や怪異談についての研究が目指すべきものは、妖怪の存否や怪異談の真偽の追求にあるのではなく、それを「空想」した「宇宙第一の不思議」な存在である「人間その物」の研究であるという柳田の考え方を読み取ることができる。「キジムナー考」と題する本書は、キジムナーという妖怪についての研究ではあっても、柳田にならって言えば、キジムナーの怪異談の真偽そのものの解明が目的ではなく、最終的には、キジムナーの怪異談を「空想」した人間についての研究であることを強調しておきたい。
 
・ところで、先述したようにキジムナー譚に共通する特徴として魚の片目(左目)だけを食べるというがあるが、その背景をめぐる問題について若干触れておきたい。柳田國男に『片目の魚』という論文があって、そのなかで、社寺などの池にすむ魚が片目であるという伝説の存在に注目し、次のように述べている。
 つまり以前のわれわれの神様は、目の一つある者がお好きであった。当り前に二つ目を持った者よりも、片目になった者の方が一段と神に親しく、仕えることができたのではないかと思われます。片目の魚が神の魚であったわけは、ごく簡単に想像してみることができます。神にお仕え申す魚は、川や湖水から撮って来て、すぐに差し上げるのはおそれ多いから、当分の間、清い神社の池に放しておくとすると、これを普通のものと差別するためには、一方の眼を取っておくということができるからです。実際近頃のお社の祭りに、そんな乱暴なことをしたかどうかは知りませんが、片目の魚を捕って食べぬこと、食べると悪いことがわるといったことは、そういう古い時からの習わしがあったからであろうと思われる。

 すなわち、片目の魚の伝説は、祭の際の神への供物として、ほかの魚と区別するために片目を潰した歴史的事実と関連するはずだというのである。
 そして柳田は、同じ論文において、沖縄・奄美のキジムナーが魚の片目を食べることに関しても、以下のように言及している。
 また天狗様は魚の目が好きだという話もありました。……山から天狗が泥鰌を捕りに来る……天狗様が眼の玉だけを抜いて行かれるのだといっていました。これと同じ話は沖縄の島にも、また奄美大島の村にもありました。沖縄ではきじむんというのが山の神であるが、人間と友だちになって海に魚釣りに行くことを好む、きじむんと同行して釣りをすると、特に多くの獲物があり、しかもかれはただ魚の眼だけを取って、他は持って行かぬから、たいそうつごうがよいという話もありました。

・沖縄のキジムナーを山の神だとする柳田の見解には関心が引かれるところであるが、ここでは措いておくとして、沖縄や奄美のキジムナーが魚の片目だけ食べることと、日本の各地にある片目の魚の伝説が関連しているだろうというのが柳田の見通しである。ただし残念なことに、柳田は沖縄のキジムナーについてそれ以上の言及をしていない。柳田の見通しについては筆者もその通りだと考えるが、それ以上の議論を展開する力量は筆者にはなく、ここでは柳田の見解については筆者もその通りだと考えるが、それ以上の議論を展開する力量は筆者にはなく、ここでは柳田の見解について読者の注意を喚起しておくに留めざるをえない。

・また、蛸を嫌うのも各地のキジムナーに共通する性格であるが、その意味するところについては筆者には見当がつかず、またこれまでの研究においても、説得力のある見解は出されていないと思う。これについても、今後の課題ということになる。

<富を司るキジムナー>
・「チョンチョンキジムナー」の歌詞に、キジムナーと一緒に漁をしたカマデーが、魚を売って得たお金で立派な家を造るというのがあったが、本章では、そのことに関わる問題について検討することにする。キジムナーのお陰で人間が富を得るという話は数多く、次の事例はそのひとつである。なお、以下における説話の引用では、読みやすくするために文章の一部を変更することがあることをことわっておく。

(事例1)
 大宜味村謝名城の某家の主人は、ブナガヤに稼がせてなり上った。山に居て、ブナガヤが来ると食い物を始終やって手なずけておき、材木などを運ばせた。大力だから大きな木を担いで、庭の真中に投げ出した。走る事も速くその姿は人に見えなかった。しまいにはブナガヤが離れるのを望むようになり、柱ごしに蛸をかけて置いたら逃げてしまって、その後一切来ることがなかった。ブナガヤは、木のうろの中に居る。

・ブナガヤを使って山から木を運ばせ、そのお陰で「なり上った(金持ちになった)」家の話である。この話では、後には蛸で脅してキジムナーと縁切りをしているが、その後の展開については語られていない。次にあげる二つの事例のように、縁切りをした後の結果について語る話も多い。

(事例2)
 豊見城村名嘉地の大家の大きなガジマルの木にキジムナーが住んでいて、その家の主人と親しくなった。キジムナーは、主人を連れて海に行き、魚をたくさん取ってくれたので、その家は豊かになった。あるとき海でキジムナーの嫌いな屁をしたら、キジムナーは怒ってその家のガジマルには住まなくなったために、その家は貧乏になった。

(事例3)
 宜野湾市間切新城村の中泊の屋敷に大きなビンギの木があり、そこに住むキジムナーがその家の翁と友だちになり、毎晩彼を海に連れて行った。キジムナーは魚の左目だけ自分で食べ、あとは翁に与えたために、翁は裕かに健やかに生活していくことができた。翁は、始めは嫌でもなかったが、後には毎晩起こされるのがつらくなってきた。翁は何とかしてキジムナーと手を切ろうと思い、一夜かのビンギに火をつけると、キジムナーは、「熱田比嘉へ、熱田比嘉へ」と云いながら去って行った。その後、裕かに暮らしていた新城村の家はたちまちつぶれ、キジムナーが移り住んだ熱田村(北中城村)の比嘉家は金持になった。

・次に、奄美のケンムンも富を司る性格を有していることを、以下の二つの事例によって確認しておきたい。

(事例4)
 その家は、野菜などを作るには便利の良い所だったが、そこまで行く道が悪かった。その家の後に水溜りがあって、そこの娘は暑い時にはすぐそれに入って浴びたところ、まだ十才にもならぬ娘なのに、おなかが大きくなった。不思議なことじゃねーといっているうちにお産をしたら、生まれた子がケンムンによく似ていた。ていねいに育ててみると、猫か何かみたいに、家の周囲を廻っていた。その家に野菜がいくら出来ても不便なので買いに行かなかったのであるが、女たちはその赤子を見たくて遠方からでも野菜を買いに来たために家計がよくなったそうだ。

(事例5)
 オジさんの奥さんの妹が山に入っていた時、ケンムンに迷わされて妊娠した。生まれた赤子はケンムンの子どもで、頭が丸く、手も足も真黒で手足の指は長かった。いつもヨダレをたらしていたが、たいへん力が強く、山へ行ってたき木を投げたり、モチを容易にひっくり返したりした。その家は笠利村で一番の分限者で金貸しなどもしていたが、そのケンムンの子供が五才ぐらいで死んでしまってから、たちまちのうちに落ちぶれてしまった。

・このふたつの話では、主人公はケンムンではなくケンムンと人間の間にできた子供ということになっているが、富を司るケンムンのイメージが反映しているものと理解していいだろう。
 ところで、次の話はどうであろうか。平安座島(うるま市)に伝わる話として佐喜真興英が報告したものである。

(事例6)
 浜端の翁がキジムンと友達になり、キジムンは毎晩彼を連れて漁に出掛けた。左の目だけ自分で食べて後は、皆彼に与えた。彼はお蔭で長生きをした。後になって彼は、キジムンと交際するのが末恐ろしくなり、キジムンと交際を絶とうと決心した。ある晩、お前は何が一番恐いのかと聞くと、キジムンは蛸と鶏だと答へた。翁は次の晩タコを門口にかけ、自分は蓑を着て屋根の上に、キジムンがきた時に羽ばたきをして暁を告げる鶏の真似をした。キジムンは鶏かと思って立ちよらなかったが、よく見ると浜端の翁であることを知り、取り殺してやろうと進もうとしたが、門口にかけてあるタコが恐くて慄へあがって、そのまま姿を消してしまった。キジムンは浜端の家には来なくなったが、翁はその後三日経って死んでしまった。

・この話で、キジムンと付き合って浜端の翁が得た者は具体的な富ではなく長命ということになっているが、長命はすぐれた富の一種であり、これまでみてきた富を司るキジ譚と同一のメッセージを伝えるものとして理解していいだろう。

・以上のことより、キジムナーが家の盛衰を司る存在であることが明らかとなる。くりかえして言うと、キジムナーと仲良くなり、それとうまく付き合っている間はその家は富み栄えるが、キジムナーを追放した家は何らかの災いを被り、衰退することになるのである。この点でのキジムナーは、主に東北地方で伝えられているザシキワラシと共通した性格を有することになる。

<キジムナーと縁切りをする理由>
・この説話におけるキジムナーとの縁切りは、魚を独占して金持ちになった家が周囲の人に妬まれたことが契機となっており、話の展開としては納得しやすい内容になっている。しかし、この種の筋書は管見の限りではこの一例しかなく、他のほとんどすべては、キジムナーと親しくしてきた当人自身がキジムナーを追放する話である。
 縁切りをする理由について多くの逸話にあたってみても、明確に語られることがなく、また語られたとしても、キジムナーとの付き合いが煩わしくなったからといった程度のものでしかない。富み栄えたことを妬まれた結果、妬みを抱く人々によってキジムナーが追放されるのは理にかなった筋書で納得しやすいのだが、富をもたらしてくれるキジムナーを、それとの交際が煩わしいというだけの理由で追放したというのは、どうも釈然としないものが残る。話の結末を知っている我々としては、少々煩わしくてもキジムナーとの交際を続けておけばよかったのに、と思うことになるのである。

<キジムナーの両義的性格>
・本章では、人間に対するキジムナーの存在が、正・負(プラス・マイナス)両面の性格を有して、いるということに注意を向けていきたい。まずは、正の側面からみていくことにする。
 キジムナーが人間にとってプラスの存在であることは、海での漁や山から木を運ぶ手伝いをすることによって人間に富をもたらす存在であることに端的に現われている。さらに、キジムナーと友だちになり、大和見物に連れていってもらった話や、キジムナーが住んでいるウスクの木に芋を置くと、一週間ほどでキジムナーと友だちになることができるという話も、キジムナーのプラス面と関わるはずである。
 その一方で、キジムナーのマイナス面を語るものとしては、井戸裏の燃えさしで人間の目に突き刺すなど、人間に非常に残忍な仕返しをするという点に見出すことができるだろう。以下で、キジムナーによる残忍な復讐譚の事例をさらにいくつか追加しておく。

・さらに、キジムナーの性格のマイナス面を示すものとしては、おなじみの寝ている人の胸を押さえつける話や、キジムナーが人間の霊魂を抜き取るという話などをあげることもできる。久高島(南城市)では、キジムナーに連れ去られた女性が、村人の必死の捜索により洞穴から発見され家に連れ戻されたが、赤土を食べさせられた痕跡があり、周囲の人間による看病のかいもなくしばらくして病死したという話が伝えられている。

(事例12)
(1)ある人が嫁に行ったけれど、姑めがとてもきびしくていじめたそうな。
(2)最期には、夫も姑めといっしょになって、嫁をだまして奥山に連れて行ったそうな。
(3)そして、両方の手を広げて、カジュマルの木に、五寸釘で打ちつけたそうな。そして殺したそうな。
(4)この嫁の魂が、ケンムンになったそうな。神様にはなることができず、人間に石を投げたり、千瀬や山のガジュマルの木にいたりするそうな。
(5)ケンムンは、人が「おうい」と言うと、「おうい」と答えて、「相撲取ろう」と言うそうな。夜歩いていると、火が何十もついたり、消えたりするのを見ることがあるけれど、あれは、ケンムンの頭に皿があって、その中の水が光って、そう見えるということだよ。

・副田晃は、奄美ではケンムンの由来譚として語られる説話が、沖縄では、この事例のように木の精の由来譚として語られる傾向にあることを指摘しているが、そのことからも、木の精とキジムナー(ケンムン)との間にはつながりがあることが理解できるだろう。

・「最近、キジムナーがめっきり見えなくなったのは、沖縄戦の時に艦砲射撃で皆やられたらしい」という説があるという。キジムナーの絶滅化の一方では、大宜味村は1998年の村制90周年記念事業として、ブナガヤのキャラクターデザインを公募し、大賞に選ばれた作品を村起こしに活用しようと試みている。大賞に選ばれた作品は愛らしくデザインされており、子どもたちのマスコットに相応しいものとなっている。当然のこととはいえ、人間を拉致したり、人間に残忍な仕返しをしたりするキジムナーのネガティブな側面は完全に捨象されており、その点は冒頭に掲げた「チョンチョンキジムナー」の歌も同様である。
 キジムナーの絶滅化と、一方でのキジムナーのマスコット化という今日的現象は、われわれの社会が長い歴史を通じて維持してきた人間と自然との緊張が失われてしまったこと、あるいは失いつつあることと相関関係にあると考えていいだろう。

<山から木を運ぶキジムナー>
・伊波普猷は、キジムナーを「もと海から来たスピリットで、藪の中や大木の上に棲み、人間には少しも害を及ぼさないもの」と述べているが、海から来たスピリットであることの根拠は示されていない。また渡嘉敷守も、キジムナーが海で漁を営むことに着目してキジムナー海に原郷を持つ存在として捉えている。これらの見解は、先に検討したキジムナーの語義からしても同意できるものでなく、本章で注目するところの「山から木を運ぶキジムナー」の性格を無視したことから導かれた誤った見解である。 本章では、従来の研究では注意が向けられることのなかった山から木を運ぶキジムナーにについて焦点を当てることによって、キジムナーについての理解をさらに深めていくことにしたい。

・大宜見村の二つの事例から、山から材木を運び、あるいはさらに家造りを手伝うというキジムナーの性格が明らかになる。山から材木を運ぶというキジムナーの話は、その他に、大宜味村白浜と国頭村安田からも採録されているが、他のモチーフに較べるとそれほど数は多くなさそうである。しかし、このモチーフを有する話がかなり古い時代から存していたことは、17世紀初頭の琉球に滞在した僧侶の袋中が記した『琉球神道記』の記事からして明白である。

・この話でいう「國上」(国頭)は、沖縄本島北部のいわゆる山原地方のことだと思われる。造船用の材木を山原の山から伐る際に、琉球国の人たちは「山神」(山の神)に依頼するのだが、山の神は次郎・五郎という二人の小僕に言い付けて(下知して)それを実行させるというのである。小僕という表現は、次郎・五郎が山の神の家来であり、かつキジムナーがそうであるようにその身なりが小さいことを意味しているだろう。次郎・五郎が日本衣装を着ているとか、名前も日本的だというのも興味深いが、いずれにしてもこの次郎・五郎が、今日のキジムナーに系譜的に繋がるものであることは疑い得ない。
 この説話の舞台も沖縄本島北部であるが、山から木を運び家(船)造りの手伝いをするというモチーフの話は、砂川拓真が指摘するように山が豊富にある沖縄本島北部に集中的に分布するものである。

・山から木を運ぶキジムナーの性格に注目する理由について言及する前に、類話が宮古と奄美にも存在することを確認しておきたい。宮古にはキジムナーという言葉はないが、キジムナーと類比できる説話上の存在が認められる。マズムン(マズムヌ)あるいはインガマヤラブ、インガマヤラウなどと呼ばれるものがそれであり、まずは、旧伊良部町佐和田の次の説話に注意を向けたい。

(事例19)
・伊良部の人がインガマヤラウというマズムン(魔物)と友だちになり海に漁に行くが、マズムンのすみかをつぎつぎと焼いたので、マズムンは八重山に移り住むことにする。マズムンが「遊びにこい」と言ったので、男は八重山に行きマズムン家を捜す。男はマズムンの友だちに会ってマズムンの家を聞き、「マズムンの家を焼いたのは自分だ」と話す。マズムンの友だちが、それをマズムンに話すと、マズムンは男に仕返しをしようと思い、みやげ箱を一つ与えて、「家に帰ったら、家族を集めて戸を閉めきって箱を開けろ」と言う。男は帰る船の中でみなに「箱を開けて見せろ」とせがまれ、箱を開けると、マラリヤの菌が飛んでいって来間島に着き、島の人はみな死んだ。

・この説話に登場する「インガマヤラウというマズムン」は、人間と漁をし、住処を焼いた人間に復讐するという点において、キジムナーと同じ性格を有していることがわかる。罪のない来間島の人たちがマズムンの仕返し犠牲になったという語りは興味が引かれるところだが、その点は不問に付しておく。
 つぎに、宮古のマズムンも家造りのために木を運ぶ性格があることを、以下にあげる旧上野村新里の説話によって確認したい。

(事例20)
・津波で生き残った人たちが、知らずにマズムン(魔物)の集まる所に村を作る。村人たちが広場で踊っていると、マズムンも加わって踊り、鳥の鳴き声がすると帰っていく。ふしぎに思った村人が鳥の鳴きまねをして、あわてて帰ろうとしたマズムンを朝までつかまえていると、焼けた木になる。マーガという人がマズムンたちのところへ行って、「家を建てる材木を運んできてくれたら、ごちそうをする」と言うと、マズムンは承知する。マーガは、マズムンたちが家の近くまで材木を運んでくると、屋根で鳥の鳴きまねをすると、マズムンたちは材木を置いて逃げる。マーガは翌日の夜「ごちそうを作って待っていたのに、なぜ来なかったか」とマズムンに言い、同じようにして一軒分の材木を運ばせた。

・このように、宮古の説話に登場するマズムンやインガマヤラブは、沖縄本島地域のキジムナー同様に、材木を運び、家造りを手伝う性格を有していることがわかる。キジムナーとの違いは、宮古の場合は、人間にだまされて木を運ばされるという点にある。事例20の「マズムンを朝までつかまえていると、焼けた木になる」という語りやインガマヤラブのヤラブが樹木の名称であるのは、この妖怪が、キジムナーと同じく木の精霊の化身したものであることを示しているものと思われる。
 次に、奄美のケンムンについてみていきたい。

(事例22>)昔、ある所にひとりの大工の棟梁がいた。その人は独身で、自分には嫁の来てがないだろうと思っていた。ところが、同じ村に絶世の美人がいて、これまた自分には良人になる人がないだろうと思っていた。が、ある日のこと、棟梁が美人を見染めて、自分にはあの人以外には妻になるものはいないと思ったので求婚した。
(1)ところがその女がいうことには、「はい。あなたの妻になりましょう。だが一つ条件があります。それができたら私はあなたの奥さんになりましょう」と言った。その条件とは、畳が六十枚敷ける家で、内外の造作のできた立派な家を一日で建築してほしいというのであった。
(2)それで棟梁は「よろしい、一日で完成してみよう」と言って家に帰った。ところが容易に引き受けたものの、はたと困ってしまった。考えに考えぬき、そこで彼は藁人形を二千人作ってまじないをして、息を吹きかけてみたら人間になった。彼は、二千人のひとりひとりにそれぞれの役を割りあてて、その一日で注文通りのすばらしい家を完成した。
(3)そこで彼は彼女の所へ行き、約束を果たしたことを告げると、「仕方がありません。約束通りあなたの奥さんになりましょう」と言って、そこで二人は夫婦になった。
(4)数年経て、妻が棟梁に「自分はこの世の者ではない。自分は天人である、だから人間であるあなたと暮らすことはできない」と言った。が、棟梁も、「自分も人間ではないテンゴの神である」と言った。そして、「先の二千人の人間は元に返そう」と言って息を吹きかけたところが、みんなケンムンになった。
(5)そこで千人は海、残りの千人は山に放してやった。七月頃になると、「ヒューヒューヒュー」と言いながら海から山にケンムンが登るそうだ。

 この話では、大工の家造りの手伝いをした藁人形がケンムンになったとはっきりと語られていることに注目したい。この点を踏まえたうえで、奄美のケンムンに関する資料に注意を向けていくと、たとえば、「クィンムンは人間に悪戯もするが、また協力もする。山から木を伐って下ろす手伝いをしたり、海での貝拾いを手伝ったりする」という報告を見いだすことができる。

・原田信之は、八重山地域におけるキジムナーと同類の妖怪の名称として、石垣島のマンダー、小浜島のマンジャー、マンジャースー、西表島のアカウニなどがあるとし、次の小浜島の事例をあげている。

(事例23)
 昔、男がマンジャーと友達になった。毎日魚を取り、マンジャーは目玉を、男は魚を取った。うるさくなった男は、マンジャーが出てくるあこうの木に火を付け、伐採した。怒ったマンジャーは、男を呪い、焼いたので、男は岩の下に隠れた。

 この話に登場するマンジャーは、友人となった人間との魚取り、人間の裏切りとその後のマンジャーによる復讐などの筋書きからして、明らかに沖縄のキジムナーと同類のものである。類話は、西表島でも確認できるのでそれについてもみておこう。

(事例24)
 網取のクバデーサーの木にいたシーというのは木のヌシ(主)のようなものです。クヮーキ(桑の木)にもやっぱりヌシがいます。桑の木の穴から人の形をしたシーが出て来て、魚をとる時にたくさん魚がとれるように助けてくれるのです。

 「人の形をした木のシー」というのはキジムナーそのものであり、魚取りのモチーフも沖縄のキジムナーの話と一致する。このように、数は少ないものの、八重山地域においても沖縄のキジムナー譚と類比できる説話があることがわかる。しかし、筆者が注目したいのはこの種の存在(説話)ではなく、じつは、これまで沖縄のキジムナーとの関係では全く言及されることなく看過されてきた説話が八重山地域には存在しているという事実である。
 以下にあげるのは、「小人伝説」という項目で『沖縄文化史辞典』に掲載されたものである。

(事例25(西表島祖納))
 昔、西表島の祖納にひとりの貧しい若者がいた。住むに家なく、着たきり雀の乞食同然のあわれな姿で、誰も相手にしてくれない。赤子の時に両親を失い、お爺さんに養われたが甲斐性がないので、お爺さんにもきらわれて家を追い出されてしまった。悲しさのあまり若者は泣きながら、無茶苦茶に山奥を歩きまわり、泣き疲れて洞穴かと思われるばかりの大木の虚にたどりつき死んだようにねむった。何時間たったかわからぬが、ふとどこからか声がする。「若者よ悲しんではいけない、元気を出して懸命に働けば、きっとお前は幸福になれる。御前はこれからすぐ御前が生まれたお父さんお母さんの屋敷に帰って見るのがよい」。ハッと若者は起き上がった。木の虚からさすすがすがしい朝の光に、若者は元気を取りもどして山をかけ下り、自分の屋敷にいった。ところがどうだろう。屋敷は草一つないまでに掃き清められ、屋敷の真中に大きな大黒柱が一つ立っている。これはどうしたことか、昨夜の夢といいこれはただごとではないぞ、と若者は物陰に隠れて、しばらく様子を見ているとたくさんの小人がエッサ、コラサといろいろな材木を運んで来る。物に憑かれたように若者が小人の後を見え隠れにつけていくと、だんだん山奥へ入り、驚いたことにたしかに昨夜一夜の宿を借りたあの大木の虚へ入っていくではないか。彼は夢ではないかとじっと目をこらしていると今度は小人たちがエッサ、コラサと建築材料をかついで麓へととんでいった。彼は木のほらの入り口へ近づき、そして梢を見上げると、それは西表の樵夫達がジンピカレーといっている木(和名、ヤンバルアワブキ)であった。若者はその一枝を折り取って急いで自分の屋敷へ引き返したが、そこはりっぱな家がすでにできあがって村の人達が集まって落成式の準備をしているところであった。村の人たちは若者を大黒柱のそばに案内した。若者がよくよく見れば、それはジンピカレーであった。思いあたるところがある若者は、手にもったジンピカレーの枝を打ち振り打ち振り大きな声で落成式の祝いごとをとなえながら大黒柱のまわりを何回もまわり、村の人たちも唱和した。それ以来だれも若者を馬鹿にする者はいなくなった。小人の話を伝え聞いた村人たちは誰いうとなくジンピカレーにユピトゥンガナシ(寄人加那志)の名をつけ、柱立て(建築の初め)の儀式にはかならず大黒柱の先きにユピトゥンガナシをかけるようになった。

 この「小人伝説」は、琉球諸島の説話資料を集大成している山下欣一・他編(1989)および稲田・他編(1983)にも収録されておらず、キジムナー説話の類話としてとりあげられたのはかつて一度もないが、これまで山から材木を運び家造りの手伝いをするキジムナーの話をみてきた我々としては、この説話に登場する小人は「八重山のキジムナー」だと断定することができる。この説話から「八重山のキジムナー」が建築儀礼と関わっていることを窺うことができる。

<八重山の家の神>
・八重山諸島では、床の間に「家の神」を表彰する香炉が置かれるのが一般的で、それをザーフンズンと呼ぶ宮良についての報告では、「ピヌカンとザーフンズンがそろって一世帯という条件とみなし、それを『プトゥキブル』と呼んでいる。プトゥキブルの一つであるザーフンズンは家の主要な守りであるとし、新築したときの落成式に拝んだ香炉を床の間に置き、ザーフンズンとする」とされている。

・八重山の家の神の変遷について、次のような仮説を導き出すことができたと考える。八重山の床の間で祀られる家の神の正体は、両義的性格が馴化された木や茅の精霊である。この家の神は中柱に宿るものであったが、家屋の内部に床の間が設置されるようになったことを契機にして床の間の香炉を通しても拝まれるようになった。その点については、与那国のトラノハの香炉とドゥントゥヒラの関係、白保のミーシキ儀礼におけるフンジンと中柱の関係などにその痕跡を窺うことができた。次の段階として、床の間の香炉と中柱の関係が忘失される一方で、中柱に対する信仰は残存し、さらに、床の間の香炉で祀られる神は、実体不明の家の神として拝まれるという現在のような状況を迎えることになった。


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