2週間ぶりに、三重県亀山市にある《能褒野神社》に行ってきた。
《のぼの》と読む。
日本武尊の古墳がある。
日本政府が認めている《宮内庁公認》の前方後円墳である。
この古墳が日本武尊であるということは、日本最古の歴史書である《古事記》にも《日本書紀》にも書かれている。
そして、日本武尊を祀っているのが《能褒野神社》である。
杜の中に一歩足を踏み入れると、そこは別世界だ。
土の香りと木の香り。
冷蔵庫から漂ってくるような涼しい風が杜の中を舞う。
羽黒トンボが飛び交い、せせらぎの音さえ聞こえる。
自然の力のすごさを感じる。
36度を超える陽射しが、一歩杜に踏み入れるだけで、これだけ違うのだ。
僕は古代史が大好きで、日本神話が大好きだ。
それは日本人としてのプライドでもある。
しかし、この神社に訪れる人はほとんどいない。
広大な別世界を知らない人がほとんどだということになる。
ここがこれほど心安らぐところだと感じるのは、僕だけではないはずだ。
参拝に来た人の記帳を見てみる。
日曜日だというのに、10人ほどしか記帳されていない。
この地に日本武尊の古墳があるということを知ったのは、当地スナックの女の子が教えてくれた。
それまで僕は、日本武尊の古墳は鈴鹿峠にあると思い込んでいたし、妻である弟橘媛の生地が亀山にあるなんて知らなかった。
それ以来、僕は月に1~2度は、この神社と、媛の生地である《忍山神社》に参拝するようになった。
しかし、地元の人も、僕の店の客も、「そんなの架空の人物でしょ」と言い切る。
日本人が日本の歴史を知らないのだ。
日本人は非常に自虐的思考が好きなようだ。
日本の歴史を否定してみることが、自らを目立たせるための自己顕示欲に他ならない。
神話や正史の記述は、《真実》なのだ。
史実ではないかもしれないが、真実なのだ。
旧約聖書の『天地創造神話』や『ノアの箱舟伝説』。
さらには新約聖書の『福音書』にはマリア様が処女にしてイエスを身ごもる話がある。
現実味のない内容ではあるが、欧米では、聖書の記述が正しいかどうかなど、議論にもならないのである。
ゾウリムシじゃあるまいし、人が単独で受胎するはずなどないし、そんなことが、文字のない時代に、ギリシャ語やヘブライ語で書かれているなど、誰も信じるはずなどない。
それでも聖書は批判されないし、批判するからには、相当の覚悟がいる。
現実に、ユダヤの世界では、人間の先祖がサルだというだけで、牢獄に入れられてしまっている。
そう、アメリカでの現実の話だ。
ユダヤ批判をした記者が、取材活動を禁止された事件は記憶に新しい。
日本神話も、まったく同じことだと思っている。
だから世界最古の国日本が、僕は好きだ。
日本武尊の伝説が好きだ。
2拝2拍1拝の、神との約束事にしたがって、僕は参拝をする。
古事記は今年が編纂1300年に当たる。
この機会に、古事記の現代訳に目を通すのも、日本人として、日本の本当の歴史を知る上で必要なのかもしれない。
どこの国でも、自国の歴史は『国史』として学ぶ。
アメリカでも中国でも『国史』として、自国の歴史を学ぶ。
日本だけが、『日本史』として、客観的な歴史を学んでいる。
本来、日本の教科書では、『国史』として、日本神話を教えなくてはならないのだ。
ここに来ると、いつも日本人のあり方に疑問を持ってしまう。
日本人が日本人であり続けるためにも、一度は、日本武尊のお墓の前で、語りかけてみてはどうかと思う。
《のぼの》と読む。
日本武尊の古墳がある。
日本政府が認めている《宮内庁公認》の前方後円墳である。
この古墳が日本武尊であるということは、日本最古の歴史書である《古事記》にも《日本書紀》にも書かれている。
そして、日本武尊を祀っているのが《能褒野神社》である。
杜の中に一歩足を踏み入れると、そこは別世界だ。
土の香りと木の香り。
冷蔵庫から漂ってくるような涼しい風が杜の中を舞う。
羽黒トンボが飛び交い、せせらぎの音さえ聞こえる。
自然の力のすごさを感じる。
36度を超える陽射しが、一歩杜に踏み入れるだけで、これだけ違うのだ。
僕は古代史が大好きで、日本神話が大好きだ。
それは日本人としてのプライドでもある。
しかし、この神社に訪れる人はほとんどいない。
広大な別世界を知らない人がほとんどだということになる。
ここがこれほど心安らぐところだと感じるのは、僕だけではないはずだ。
参拝に来た人の記帳を見てみる。
日曜日だというのに、10人ほどしか記帳されていない。
この地に日本武尊の古墳があるということを知ったのは、当地スナックの女の子が教えてくれた。
それまで僕は、日本武尊の古墳は鈴鹿峠にあると思い込んでいたし、妻である弟橘媛の生地が亀山にあるなんて知らなかった。
それ以来、僕は月に1~2度は、この神社と、媛の生地である《忍山神社》に参拝するようになった。
しかし、地元の人も、僕の店の客も、「そんなの架空の人物でしょ」と言い切る。
日本人が日本の歴史を知らないのだ。
日本人は非常に自虐的思考が好きなようだ。
日本の歴史を否定してみることが、自らを目立たせるための自己顕示欲に他ならない。
神話や正史の記述は、《真実》なのだ。
史実ではないかもしれないが、真実なのだ。
旧約聖書の『天地創造神話』や『ノアの箱舟伝説』。
さらには新約聖書の『福音書』にはマリア様が処女にしてイエスを身ごもる話がある。
現実味のない内容ではあるが、欧米では、聖書の記述が正しいかどうかなど、議論にもならないのである。
ゾウリムシじゃあるまいし、人が単独で受胎するはずなどないし、そんなことが、文字のない時代に、ギリシャ語やヘブライ語で書かれているなど、誰も信じるはずなどない。
それでも聖書は批判されないし、批判するからには、相当の覚悟がいる。
現実に、ユダヤの世界では、人間の先祖がサルだというだけで、牢獄に入れられてしまっている。
そう、アメリカでの現実の話だ。
ユダヤ批判をした記者が、取材活動を禁止された事件は記憶に新しい。
日本神話も、まったく同じことだと思っている。
だから世界最古の国日本が、僕は好きだ。
日本武尊の伝説が好きだ。
2拝2拍1拝の、神との約束事にしたがって、僕は参拝をする。
古事記は今年が編纂1300年に当たる。
この機会に、古事記の現代訳に目を通すのも、日本人として、日本の本当の歴史を知る上で必要なのかもしれない。
どこの国でも、自国の歴史は『国史』として学ぶ。
アメリカでも中国でも『国史』として、自国の歴史を学ぶ。
日本だけが、『日本史』として、客観的な歴史を学んでいる。
本来、日本の教科書では、『国史』として、日本神話を教えなくてはならないのだ。
ここに来ると、いつも日本人のあり方に疑問を持ってしまう。
日本人が日本人であり続けるためにも、一度は、日本武尊のお墓の前で、語りかけてみてはどうかと思う。
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