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■日本経済を“丸ごと刈り取った”ユダヤの陰謀とは? バブル経済崩壊、その巧妙な手口! exciteニュース 2016年11月8日

2022-05-31 05:01:07 | 日記

 

■日本経済を“丸ごと刈り取った”ユダヤの陰謀とは? バブル経済崩壊、その巧妙な手口!

exciteニュース 2016年11月8日

https://www.excite.co.jp/news/article/Tocana_201611_post_11394/


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■日本の富を「刈り取る」ために80年代に実施された仕込み


より広い見方をすれば、日本から富を収奪する計略は、1972年にロックフェラー邸で開かれた米日欧三極委員会(トライラテラル)創設会議からスタートしたと見ることもできる。


なぜなら、この時点で意図的か否かはともかく、いったん欧米諸国の仲間として日本を引き入れたことが、のちの合法的な横領の成功へと繋がったからである。

遅くとも、この三極委員会メンバーで埋め尽くされたカーター政権の末期、つまり80年代に入る頃には、国際銀行家たちによる「日本刈り取りプラン」はすでに完成していたようだ。


発動は次の日米新政権である。81年、ロナルド・レーガンが大統領に、そして82年、日本側のカウンターパートとして中曽根康弘が総理大臣に就任する。

中曽根氏は若手政治家時代からロックフェラーやキッシンジャーと旧知の間柄だった。


また、レーガン政権にはあるキーマンがいた。

それがメリル・リンチ元CEOのドナルド・リーガンである。


レーガンが全幅の信頼を置いたウォール街の代弁者であり、財務長官に就任するや法人税引き下げなどの“レーガノミックス”を推進した。

レーガン政権は発足早々、日本に対して「安保タダ乗り」や「貿易不均衡」などを盛んに言い立て、貿易制裁をチラつかせては、市場開放を強く要求した。


こういった外圧で設置されたのが83年の「日米円ドル委員会」である。

ところが、実態は両国の「協議」とはほど遠く、日本側が直ちに飲むべき要求項目がすでに出来上がっていたという。


端的にいえば、それは日本の金融市場の開放を強く迫るものだった。

協議は異例のスピードで決着し、様々な規制の緩和、外資に対する参入障壁の撤廃、円の国際化、先物・オフショア市場の創設などが約束された。


これにより外資上陸の準備が整えられた。

今にして思えば用意周到な罠だったわけだが、当時は金融や経済の「国際化」という美名に置き換えられた。


そして、中曽根総理もまた経済政策の目玉として「規制緩和」と「民営化」を掲げ始めた。

85年9月、先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議がニューヨークのプラザホテルで開催された。


これにより円は200%もの円高へと向かう。

日本のドル国富が目減りし、日本企業の輸出力が弱体化する一方、ロスチャイルドからカリブ海のタックスヘイブンの資金運用を任されたジョージ・ソロスは、猛烈な円買いドル売りで空前の儲けを手にした。


以後、ソロスは「ロスチャイルドの鉄砲玉」として国家主導の金融システムを攻撃し続ける。

一つの目的は、各国をグローバルな経済連携へと向かわせるためだ。


86年には米証券会社が東京証券取引所の会員になり、以来、外資系証券が続々と日本の金融市場に上陸を開始した。

87年、大蔵省がNTTの株式を市場に売りに出した。


日本電信電話公社の民営化は、国鉄のそれと並び、中曽根内閣の民営化政策の目玉である。

いわば「お上推奨」の株取引だった。


たちまち「NTT株で何百万円儲かった」などの話が巷間に溢れ、普通のサラリーマンや主婦の間にも投機熱が高まった。

88年、国際金融システムの安定化を名目に、国際取引をする銀行の自己資本比率を8%以上とする「バーゼル合意」(いわゆるBIS規制)が決められる。


奇妙なことに、邦銀には自己資本に一定の「株の含み益」を組み込む会計が認められ、これが自己資本率の低い邦銀をして、ますます株上昇への依存に走らせた。

しかも、やや先走るが、バブル崩壊後は、今度は「93年から規制適用」のルールが不良債権問題悪化や「貸し渋り・貸し剥がし」の要因となり、日本経済をさらにどん底へと追い込んでいった。

 

■バブル経済はこうして生まれ、急激に崩壊させられた


ここで日銀の金利政策を振り返ってみよう。

1980年3月、公定歩合は9%だった。


つまり、当時は銀行に100万円を預けると、1年後には109万円になるという、羨ましい時代だったのだ。

ただ、この金利は毎年のように引き下げられ、87年2月には、80年代を通して底となる2.5%をつけた。


今日のゼロ金利時代からすると、それでも預金に殺到したくなるほどの“高”金利だが、当時としてはこれが「戦後最低金利」だった。

とくに80年代後半の利下げには、プラザ合意による急激な円高も関係していた。


当時「円高不況・国内空洞化」が懸念され、大蔵省も日銀に利下げを要請したのだ。

一方で、通貨供給量は80年代後半から年間10%(だいたい数十兆円)レベルで増やされた。


当時は国債の発行高も少なく、金融も今ほどグローバル化していなかった。

その結果、膨大な低利の資金の大半が日本国内の債権と土地に向かった。


当時、株と土地を買うと、誰でも儲かった。

銀行は普通のサラリーマンや公務員、主婦にまで融資した。


「NTTの株で数千万円儲かった」とか、「土地の転売だけで数億円儲かった」などの話が、誰の周辺にも転がるようになった。

銀座のクラブでは毎晩札束が飛び交い、証券会社の20代社員が数百万円ものボーナスを貰った。高級ブランドの購入や海外旅行が当たり前になり、日本全体が熱に浮かされたようにバブル経済に踊った。


一方、まさにこの頃、金融自由化の下、外資が続々と日本に上陸していた。

この「戦後最低金利」は89年の半ばまで続けられた。


だから、80年代の初期から見ていくと、「80年代を通してずっと金融緩和・景気刺激策が行われた」とも言える。

ところがである。


やがて、あまりの土地の高騰などが批判されるようになる。

それが本当の理由か否かは不明だが、まさにバブル経済が膨れ上がったところで、日銀は、今度は一転して金融引き締め政策へと大転換した。


しかも、89年半ばから、わずか1年3カ月という短期間で、2.5%から6%へという、異常な引き上げを実施した。

これだけ短期間での急激な利上げは、今にして思えば暴挙としか言いようのない政策だった。


住宅ローンなどで多額の借金をしている人は、金利が上昇すると、どれほど返済に苦労するか、よくご存知だろう。

当時、急激な金利の上昇を受け、法人・個人は新規の借り入れを手控えた。


また、返済額の急上昇により、多くの投資家が「手仕舞い」を強いられた。

その「損切り」の売りが、また売り呼ぶという負のスパイラルが始まった。


しかも、日銀は、90年代に入るや、やはりそれまでとは一転して、今度はマネーサプライのほうも急減させた。

元栓そのものが絞られたので、銀行も融資を減らさざるをえなくなった。


つまり、金利と通貨供給量の両面で、日本経済は急ブレーキを踏んだのだ。

さらに、その少し前に、ソロモンブラザーズ、モルンガン・スタンレー、ゴールドマン・サックスなどが内外で大量に売り捌いていた数十本ものプットワラント商品が、日経株価に対するレバの効いた空前の売り圧力として作用し始めた。


東証株式市場は雪崩を打ったように崩壊し始め、市場関係者はパニックに陥った。

著名な株価評論家や相場師までが大損し、誰もが「市場で何が起こっているのか分からない」と首を傾げた。


日銀と外資だけでなく、大蔵省までが軌を一にして急ブレーキを踏んだ。

それが90年3月に実施された「不動産総量規制」という金融機関への行政指導である。


簡単にいえば「不動産向けの融資を減らせ」という内容だが、当時、大蔵省銀行局長の通達といえば命令と同じである。

不動産価格の高騰を抑えるのが目的だったが、銀行から融資を受けて不動産に投資していた事業家にしてみれば、いきなり元栓を締められたのと同じだった。


このように、主として「日銀の金融政策」「外資による空売りの仕掛け」「大蔵省の銀行指導」という三つの要因によって、バブル経済は突然崩壊させられたのである。


結果として、日本に金融市場の開放をねじ込んだ当事者たち――ウォール街とその手先――に史上空前ともいえる所得移転がもたらされたのであった。

 

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【超真相】日本経済を“丸ごと刈り取った”ユダヤの陰謀とは? バブル経済崩壊、その巧妙な手口を完全暴露!
exciteニュース 2016年11月8日
https://www.excite.co.jp/news/article/Tocana_201611_post_11394/


■プラザ合意から33年、1985年は何だったのか ~失われた20年から抜け出せていない原因は~ 東洋経済 2018/02/27

2022-05-31 05:00:44 | 日記

 


■プラザ合意から33年、1985年は何だったのか

~失われた20年から抜け出せていない原因は~

東洋経済 2018/02/27

https://toyokeizai.net/articles/-/209556


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・「失われた20年」の原点


1970年代から80年代にかけて、日本経済は活力にあふれ、アメリカを猛然と追い上げていた。

アメリカも、このままではやられてしまうと、日本経済を警戒していた。


当時のアメリカにとって、脅威だったのは、中国ではなく、日本だった。

79年には、アメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲル氏が『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出し、日本では70万部を超えるベストセラーとなった。


この本は日本の経済成長の原因を探ったもので、日本人の学習意欲、読書意欲を高く評価している。

なによりもこの本は、日本人に「もしかすると、日本はすごいのかもしれない」と自信を持たせた。


最近になって中国でも中国語訳が出て注目されており、本のタイトルはまさしく直訳の『日本第一』という。国と国の比較は難しいものだが、ひとつの尺度として、GDP(国内総生産)の数字を見てみよう。

85年のGDP(当時はGNP=国民総生産)は、世界の首位がアメリカの4兆3400億ドルで、2位が日本の1兆3800億ドルだった。


この年の世界のGDPを総合計すると12兆4000億ドルだったから、計算すると、アメリカは世界のGDPの35%を占めている。

まさしく超大国だ。


しかし、2位の日本も12%を占め、アメリカに迫っていることが分かる。

太平洋戦争が終わったのが1945年だから、そのわずか40年後には、日本は、アメリカを追い上げる国として復活した。


アメリカには及ばないにせよ、このころ、日本国内でも、「日本は経済大国」という言い方をするようになった。

3位は、当時の西ドイツで6500億ドル(世界の5%)だった。


日本のちょうど半分の規模であり、日本経済がいかに大きかったかを示している。

4位はフランス、5位はイギリス、6位はイタリア、7位はカナダだった。


この7か国が、主要国首脳会議(G7サミット)のメンバーになるのは、ごく自然なことだった。

ちなみに、中国は、ようやく8位に入っているが、GDPは3100億ドル、世界の2%に過ぎない。


やがて日本を抜き、アメリカに次ぐ経済規模になってG2を自称するようになるとは、このころ、だれも思わなかった。

当時、G2という言い方はなかったが、もしG2という言葉があるとすれば、それは、アメリカと日本のことだった。


その日本は、80年代末にバブル経済の絶頂期を迎えたものの、90年に入るとバブルが崩壊し、「失われた10年」の長期不況に入った。

失われた10年が終わるはずの2000年になっても不況は終わらず、失われた10年は「失われた20年」となってしまった。


2011年には東日本大震災が起き、失われた20年は、いろんな意味でどん底に陥った。

そこに登場したのが安倍晋三首相のアベノミクスだ。


アベノミクスは高評価と酷評とに二分され、なお、評価は定まらない。

ただ、公平に見て、失われた20年が「失われた30年」になることをアベノミクスが防いだのは間違いない。


しかし、アベノミクスからの出口が見えないこともまた事実である。

では、80年代、あれほど元気でアメリカに迫っていた日本経済が、いったい、なぜ、「失われた20年」というような長期不況に陥ってしまったのだろう。


いま私たちは、失われた20年と簡単にいうが、20年に及ぶ長期不況は、主要な資本主義国として、初めて経験する異常な事態だった。

日本は20年もの不況によく耐えたというのが、正直なところだ。


1945年8月15日、日本は太平洋戦争に負け、無条件降伏を受け入れた。

当時の東京の写真を見ると一面の焼け野原で、いったいどうやって、そこから立ち直ったのかと思うほどだ。


しかし、戦後の日本は驚異の経済復興を遂げ、政府の経済白書が早くも1956年に「もはや戦後ではない」と宣言した。

1956年は、終戦から11年しか経っていない。


焼け野原の状況から、たった11年で、戦前の経済水準を回復したのだ。

ところが、バブルが崩壊した後の長期不況は「失われた20年」だ。


日本経済は、太平洋戦争の敗戦から11年で立ち直ったのに、バブル崩壊では20年経っても立ち直ることができなかったのである。

今回の長期不況は、日本経済にそれほどのダメージを与えていた。


日本の失われた20年は、バブル経済の崩壊によってもたらされた。

バブル経済の時期はいつかというと、88年、89年の2年間のことだ。


なぜそういい切れるかというと、その2年間、東証の株価は、24か月連続して上がり続けたからだ。

 


・円高不況の対策に「強力な金融緩和」


実は、バブルの直前、86年から87年の夏ごろまで、日本経済は、かつてない円高不況に見舞われていた。

この円高不況で、日本企業はトヨタもソニーも輸出競争力が下がり、政府も経済界も、このままでは日本経済は沈没するのではないかと本気で心配した。


そこで政府は景気対策を矢継ぎ早に打ち出し、日本銀行は強力な金融緩和を実施した。

これは86年、87年の話だ。


しかし、どこかで聞いたような話ではないだろうか。

そう。黒田東彦(はるひこ)日銀総裁の「大胆な金融緩和」だ。


大胆な金融緩和は、アベノミクスの根幹をなす。

86年、87年は、まず、政府が景気対策を打ち、次に、日銀が金融緩和を繰り返し実施した。


ちょうどそこへ、円高のメリットが遅れて効いてきた。

原油など輸入品の値段が円高によって安くなったのだ。


円高は、デメリットとしてまず不況をもたらしたが、次に、輸入原材料の値下がりというメリットをもたらした。

企業にとっては予期せぬコストカットだった。


それがみな合わさって、88年からバブルが始まった。

ではなぜ、それほどの円高がやってきたのか。


85年9月21日、22日の土日、ニューヨークのプラザホテルに、アメリカの呼びかけで、日本、アメリカ、西ドイツ(当時)、イギリス、フランスの5か国の蔵相と中央銀行総裁が集まった。

G5である。


冒頭で触れたように、当時の日本は活気にあふれていた。

欧米諸国に対して巨額の貿易黒字を出し、世界経済でほとんどひとり勝ちといっていいような状況だった。


しかし、日本から見れば貿易黒字でも、相手から見れば貿易赤字だ。

これにアメリカは不満を持ち、対日批判を強めていた。


アメリカは、日本の黒字の原因は、行きすぎた円安だと分析し、それまでの円安を円高に転換しようと考えた。

円相場は、85年8月に1ドル=240円前後だった。


いま振り返ると、よくそんな円安だったものだと、改めて驚く。

アメリカはこれを問題にし、G5の会議を開いたのである。


G5は、それまでの円安を円高に方向転換することを決めた。

日本もそれを受け入れた。


これを、「プラザ合意」と呼ぶ。

 


・1ドル=75円はプラザ合意による円高の行き着いた果て


85年9月のプラザ合意は非常に効果的で、その直前まで1ドル=240円前後だった円相場が、12月には200円台という円高になった。

翌86年早々には190円台に入り、これが円高不況を呼んだ。


後に、2009年から12年までの民主党政権で、円相場は1ドル=75円という空前の円高をつけた。

これは、プラザ合意による円高が行き着いた果ての数字であった。


2017年、18年は、1ドル=110円前後で推移しているが、これも、85年のプラザ合意から、延々と続く円相場なのだ。

85年のプラザ合意で激しい円高が始まり、それが円高不況を呼んだ。


円高不況に対応するため政府は経済対策を繰り返して打ち、日銀はどこまでも金融緩和を進めた。

そこにちょうど円高メリットが出てきた。


それらのすべてが同じタイミングで重なって効果を発揮し、バブルを呼び起こしたのである。

バブルは、88年、89年の2年間、ふくれるだけふくれて、パチンとはじけて崩壊し、90年から失われた20年が始まった。


すべては、プラザ合意に始まる。

活力にあふれた日本経済は、プラザ合意を境に、根底から変わり始めた。


プラザ合意で日本は、日本経済を弱くすることを自ら受け入れた。

それは、日本にとって事実上の降伏のようなものだった。


しかも、ただの降伏ではない。

合意を受け入れるにしても、円高が行きすぎて日本に悪影響が出た場合はG5を再び招集して、行きすぎた円高を止めるとか、合意の内容を再検討するとか、なんでもいいから、条件を提示しておけば、その後の展開も少しは違ったかもしれない。


しかし、プラザ合意によって長く激しい円高が始まり、日本経済が低迷と停滞に向かうとは、このとき、だれも予想していなかった。

そのため、プラザ合意を受け入れるとき、日本は、何の条件もつけなかった。


その結果、プラザ合意は、日本経済の無条件降伏となったのである。

実のところ、当時の日本には、プラザ合意が無条件降伏になるとの認識はまったくなかった。


それどころか、プラザ合意を主導したアメリカにも、そこまでの認識はなかったと思う。

では、日本はなぜ、プラザ合意を受け入れたのか。


合意を拒否することは不可能だったのか。

合意を受け入れた後、日本経済はどのように変わっていったのか。


85年にプラザ合意を受け入れたとき、日本経済は、すべてが変わった。

円高も、バブルも、バブル崩壊も、失われた20年も、アベノミクスも、すべてプラザ合意が源流となっている。


30年ちょっと前のことだ。

 


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■プラザ合意から33年、1985年は何だったのか
~失われた20年から抜け出せていない原因は~
東洋経済 2018/02/27
https://toyokeizai.net/articles/-/209556


■コロナ危機が暴いた日本の没落<日本総合研究所会長・寺島実郎氏> 日刊SPA! 2021年7月3日

2022-05-31 05:00:15 | 日記


■コロナ危機が暴いた日本の没落<日本総合研究所会長・寺島実郎氏>

日刊SPA! 2021年7月3日 

https://nikkan-spa.jp/1763990


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・進行する「日本の埋没」

 

―― コロナ禍が始まってから1年半が経ちます。現在の状況をどう見ていますか。

 

寺島実郎氏(以下、寺島) 今年5月末で、日本国内で初めて感染者を確認した昨年1月から500日が経ちました。

私たちはここで「コロナ500日」を総括する必要があります。

 

重要なことは、問題はコロナそのものにあるのではなく、コロナがあぶり出した日本の構造的な課題だということです。

結論を先に言えば、今の日本には物事の本質や全体像を体系的・構造的に捉える「全体知」や課題解決のための「総合エンジニアリング力」が決定的に欠落している現実が暴かれたのです。

 

まず政府にはこの500日の政策を総括して国民に語る責任があります。

しかし、政府はそういう政策科学的な説明や総括を一切することなく、ただ緊急事態宣言の延長の可否を判断することだけが政策決定であるかのような錯覚に陥っている。

 

このような迷走そのものが、日本に大変な閉塞状況をもたらしているのです。

象徴的なのは、500日を経て、現段階で日本は国産ワクチンの開発ができていないという事実です。

 

関係者からは、これほど早くmRNAワクチンが登場するなどということは想定外だった、日本では過去にワクチンの副反応問題で厚労省と製薬会社の責任が厳しく追及された経緯から新規開発に及び腰だったというような理由が挙げられていますが、現実には海外からワクチンを購入することに腐心するしかない状況になっています。

 

 

・「やがて日本は間違う」ある臨床医の言葉

 

ここで思い出すのは、昨年お亡くなりになりましたが、ある臨床研究の最前線にいた医師が私によく話していたことです。

 

「やがてこの国は間違う。再生医療にだけ傾斜している。確かに基礎研究は重要だが、最も重要なのは生身の人間に向き合う臨床研究だ」と。

基礎研究の理論は臨床研究で人体にどう作用するかという検証を経て、初めて実用化されますが、基礎研究と臨床試験の間には「死の谷」(デスバレー)が横たわっていると言われます。

 

それほど基礎研究を臨床研究に応用するのは難しいということです。

日本の医療研究は基礎研究ではそれなりの成果をあげられていますが、デスバレーを超えて臨床研究で成果をあげる総合エンジニアリング力が欠けている、ということなのです。

 

その結果、ワクチンをどう入手するか、ワクチンの打ち手をどう確保するかという議論に埋没しているのが、現下の日本の状況なのです。

 

 

・ワクチン以外でも欧米に大きく劣後する日本

 

―― それ以外のコロナ対策も成功していません。

 

寺島 昨年5月から1年間でコロナ患者は5倍に増えた一方、コロナ病床は2倍にしか増えていません。

 

当初、日本は一人当たりの病床数が世界一と誇っていましたが、一般病床とコロナ病床は違います。

今年1月下旬の時点でコロナ病床は欧米の10分の1以下にとどまっていることが判明しました。

 

その結果、政府は昨年から現在に至るまで感染拡大・病床逼迫・緊急事態宣言というルーティーンに陥っています。

コロナ病床が不足するから緊急事態宣言を出すという説明は、「コロナのトンネル」に入った昨年時点なら通用したかもしれませんが、500日経った今では本来通用しません。

 

なぜこの間に、コロナに対応する病床を増やしたり、専門病院を作ることができなかったのか。

1年以上、何をしていたのかということです。

 

また、政府は昨年度に第1次補正から第3次補正まで、総額76・6兆円の補正予算を組み、「1人10万円」の特別定額給付金をはじめとする総額55・9兆円の経済対策を行いました。

それに対して、医療対策は9.2兆円であり、予算全体の1割程度にすぎません。

 

しかし、その経済対策が果たして効果的だったのか、これはしっかり検証しなくてはなりません。

たとえば、特別定額給付金の効果により、昨年の勤労者世帯のひと月当たりの可処分所得は47.7万円(2019年)から49.9万円に増加しました(ただし、給付金を除いて試算すると47.1万円となり、19年から0.6万円減少)。

 

それに対して、昨年の全世帯家計消費支出は29.3万円(2019年)から27.8万円に減少しています。

つまり、給付金によって使えるお金は増えたが、実際に使われたお金は減ったということです。

 

消費刺激という政策的な効果については、ほとんどなかったと言えます。

生活保障政策ならば、全国民に一律10万円を給付するより、年収二百万円以下の低所得者層に重点的に現金を給付した方が効果はあったでしょう。

 

その分浮いた予算を特効薬・ワクチン開発を中心とする医療対策に回していれば、現在の状況も変わっていたはずです。

政府がこうした政策科学を重視しないという事実の中に、日本の政治的貧困が滲み出ているように思えます。

 

 

・日本の産業を弱体化させたアベノミクス

 

―― 日本は先進国から転落したと言っても過言ではありません。

 

寺島 ここで指摘しておきたいのは、日本はこの10年の間にコロナ禍と東日本大震災という二つの災禍に見舞われたという視点です。

 

この二つの危機を冷静に総括する必要がある。

東日本大震災から10年が経ちますが、この間に政府は復興庁を創設し、2019年度までに37兆円の復興予算を投入しました。

 

その結果、被災地はどうなったか。

まず人口減です。

 

東北6県の人口減は震災前から進んでいましたが、震災がその流れを加速させ、2019年時点で、岩手、宮城、福島の被災3県では人口が32.9万人(6.1%)も減っています(2010年比)。

厚労省の予測によれば、2015年から2045年の30年で、東北6県の人口は30%以上減るとされています。

 

次に産業構造の歪みです。

被災3県の県内総生産について2017年度時点で、1次産業は33.9%減少した一方、2次産業は29%、3次産業は6.2%増加しています(2010年度比)。

 

原発事故の影響で1次産業が打ちのめされた一方、復興予算の投入によって2次産業の建設土木関連が急拡大を遂げ、その恩恵にあずかった3次産業も潤ったという構図です。

しかし、現実として復興予算が投下されなくなるにつれ、2次産業、3次産業もシュリンクし始めています。

 

つまり、37兆円の復興予算が土木建設業を中心に投入され、ハード優先の復興が進められた結果、被災地の産業構造が歪められ、人間の顔の見えない地域に変質したということです。

そのため、県別・市町村別の復旧復興計画はがれき処理、高台移転、防潮堤建設はそれぞれ何%進んだと、数字上は復旧復興が進んだことになっていますが、人口は減っている。

 

ハコモノだけは作ったが、人間の生活は戻ってきていないのです。

それは、被災3県を含む東北6県の全体を見渡した上で、この地域にどういう産業を興し、いかなる生活の基盤を築き上げるのかという総合的な構想、グランドデザインが描かれていないからです。

 

その結果、本当の意味での創造的復興は実現できていないというのが、東日本大震災から10年後の現実です。

 

 

―― 総合的構想力の欠如により、日本は二つの危機を克服できていない。


寺島 その間に、アベノミクスなるものがあったわけです。

 

私は以前から日本の危機的状況について警鐘を鳴らしてきたのですが、「株価が高いからいいではないか」という楽観視が先行して、危機感を共有する人は少なかった。

株高円安というアベノミクスの上辺だけの効果で、「日本もそこそこ上手くいっている」という幻想にまどろむ経済人が多かったのです。

 

しかし、すでにアベノミクスが公的資金、すなわち日銀マネーとGPIFの年金資金をダイレクトに株式市場に突っ込み、異次元の金融緩和を進めるだけの人為的な株高円安誘導政策にすぎなかったことは一目瞭然です。

その結果、我々は今まさにコロナ危機によって「経世済民」という意味での実体経済の虚弱化が顕在化し、それによって著しく弱体化した日本産業の凋落が白日の下に晒されるプロセスを目撃しているのです。

 

 

・日本の基幹産業はメルトダウンした

 

―― コロナ禍で日本唯一の優位性だった経済力も打撃をうけています。

 


寺島 いま国際社会の中では「日本の埋没」という認識がコンセンサスになりつつあります。

 

たとえば、世界全体のGDPに占める日本のGDPの割合はピーク時の17.9%(1994年)から既に6%(2020年)まで縮小しています。

わずか四半世紀のうちに世界経済における日本経済の存在感は3分の1に圧縮されてしまったのです。

 

私は様々な企業の経営者と議論してきていますが、コロナ危機を機に彼らが心の中に押しとどめていたトラウマがはっきりと浮かび上がってきたと感じます。

最大のトラウマは、MRJ(三菱リージョナルジェット、現MSJ)の挫折です。

 

これは三菱重工を中心とする中型ジェット旅客機の国産化計画であり、「自動車産業一本足打法」と言われる産業構造から脱却して新たな宇宙航空産業を切り開くという、日本産業界の希望とビジョンを託した一大プロジェクトだったのですが、巨額の開発費をかけた末に、昨年凍結に追い込まれました。

 

表向きはコロナ禍によって航空機需要が見込めなくなったと説明されていますが、現実には総合エンジニアリング力不足から頓挫したのが実態です。

 

これまで日本は部品や部材を開発製造する要素技術は世界一流、ボーイングのパーツの半分以上は日本が作っているなどと胸を張っていましたが、実際に自分たちでやってみたら、個々のパーツを作ることと完成体を作ることでは次元が違うという事実に直面したわけです。

 

自前でジェット機を完成させるには、個々の要素技術だけではなく、総合エンジニアリング力が必要だったのです。

 

その力が不足していたために、たとえば当初は最先端のパーツを投入することで燃料費を2割削減するという大きなビジョンを掲げて動き出したプロジェクトが、そのうちアメリカの型式認証をクリアするためにはボーイングで認証済の部材を使ったほうが速いという話となり、計画が徐々に矮小なものに収斂していったというのが実際のところなのです。

 

 

・アベノミクスという幻想に寄りかかり、衰退した日本の産業

 

―― 他の日本企業も惨憺たる状況です。

 

寺島 戦後日本は鉄鋼・エレクトロニクス・自動車を基幹産業とする工業生産力モデルの優等生として成功を収めてきたという自負心がありましたが、それらの基幹産業の実態は深刻です。

 

鉄鋼分野では、すでに日本製鉄が国内高炉4基の閉鎖に着手しています。

それにより、数年前まで1.1億トンを維持していた日本の粗鋼生産量は、今年中に8000万トンを割り込むことになります。

 

エレクトロニクス分野でも、東芝が原子力事業に躓いたことから「ファンド」と称するマネーゲーマーに振り回され、株主利益を最優先する超短期的経営を強いられた結果、医療機器から半導体まで有望な分野は次々と売却させられています。

 

「技術の東芝」は、まるで生体解剖のようにバラバラにされてしまい、もはや見る影もないという状態まで追い込まれてしまいました。

自動車分野ではトヨタがしっかりと持ちこたえているように見えますが、国際的なルール形成に後れをとったため、後手に回ってジリジリと追い詰められています。

 

国際社会ではいつの間にか「Co2ゼロ」が既定路線にされた結果、突如として欧米ではガソリン車・ハイブリット車禁止の方向が決まり、今後は電気自動車(EV)でなければならないというルールが形成されつつあります。

それにより、世界で1000万台近くの自動車を生産しているトヨタの時価総額よりも、36万台程度しか生産していないテスラの時価総額のほうが高いなどというパラドックスが生まれています。

 

環境問題を理由とする自動車業界のルール変更は、見方によれば「トヨタ潰し」とも言えるような状況になっているのです。

日本の技術力は世界最高峰だ、円高株安のアベノミクス万歳などと安易に寄りかかっているうちに、日本の基幹産業はメルトダウンして国際競争力を失いつつあるのです。

 

ワクチン開発の遅れ、MRJの挫折、基幹産業のメルトダウン、さらに言えば東日本大震災からの復興の歪み、アベノミクスへの耽溺、コロナ禍での迷走、これらの問題の根源はいずれも総合エンジニアリング力、構想力の欠如なのです。

これこそが東日本大震災から10年、コロナ500日の今、日本人が肝に銘じるべき教訓です。

 

 

・「ジャパノロジスト」が復権したバイデン政権

 

―― 経済的影響力の低下は、政治的・外交的影響力の低下に直結します。

 

寺島 外交構想力の欠如も深刻です。先日、日米首脳会談が行われましたが、ここで明らかになったのは、トランプ政権時代に排除されていた「ジャパノロジストの復権」です。

 

リチャード・アーミテージやマイケル・グリーン、カート・キャンベルといった日米同盟をワシントンでのビジネスにしている、いわゆる「ジャパノロジスト」が、バイデン政権になって日米関係の中枢に舞い戻ったのです。知日派と親日派は違います。

 

首脳会談では菅総理とバイデン大統領はファーストネームで呼び合い、日米安保条約第5条を尖閣諸島に適用するとされたことで、日本では成功であるかのように報道されました。

しかし、こうしたバイデン政権の対応は、明らかにジャパノロジストから「こうすれば日本人は喜ぶ」と入れ知恵されたようなものです。

 

たとえば、アメリカは米中国交正常化以来、尖閣諸島に対する日本の施政権は認めるが、領有権については態度を示さないという曖昧戦略を続けています。

だからアメリカから「日米安保第5条を尖閣諸島へ適用する」と言われたならば、「では、アメリカは尖閣諸島に対する日本の領有権を認めるのか」と即座に聞き返さなければならない。

 

「第5条尖閣適用」の一言を有難がり、本領安堵された御家人のように安心して帰ってくるようでは話になりません。

ファーストネームも第5条尖閣適用も、いわば日米同盟の固定化を自らの利害とするジャパノロジストに仕掛けられたものにすぎません。

 

ところが、日本人は相変わらず彼らの手のひらで踊らされ、喜ぶような自虐の構造にはまり込んでいるとも言えます。

日米首脳会談では台湾問題にも言及しましたが、仮に中国が台湾に侵攻した場合、米軍が動くとなれば、台湾に米軍基地は一つもなく、沖縄から出撃することになり、日本は否応なく米中戦争に巻き込まれる危険性をはらんでいます。

 

米中対立でどちらにつくのかという議論が先行していますが、これでは日本の21世紀は開かれません。


日本の貿易相手国のシェアは、2000年にはアメリカ25%、中国10%でしたが、2020年にはアメリカ14・7%、中国23・9%と逆転し、2030年にはアメリカ12%、中国26%とダブルスコアになると予想されています。

 

日本は中国との関係によって経済を成り立たせるという実態の中で、日米同盟を強化して中国の脅威に対抗するという歪んだ戦略を進めることで、自らパラドックスの中に突っ込んでいるのです。

こうした状態から脱却し、米中対立という枠組みを超えて、大国の力学に揉み潰されない主体性を取り戻さなければなりません。

 

 


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■コロナ危機が暴いた日本の没落<日本総合研究所会長・寺島実郎氏>
日刊SPA! 2021年7月3日 
https://nikkan-spa.jp/1763990