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■イギリスによるアメリカ大陸の植民地化~カナダの歴史、オーストラリアの歴史~

2022-05-07 05:14:48 | 日記

 


■イギリスによるアメリカ大陸の植民地化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%A4%A7%E9%99%B8%E3%81%AE%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E5%8C%96


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イギリスによるアメリカ大陸の植民地化は、アメリカ大陸の先住民にも多大な影響を及ぼしている。

イギリスは植民地化に際し、彼らを直接的には軍事力で、間接的にはその文化を混乱させ疫病を引き入れたことで、先住民の生態に劇的な変動をもたらした。

入植者と先住民との関係の中には、交易関係を結んだものもあるが紛争になったものも多く、多くの先住民社会は入植者に対抗する戦士集団を育て、長期間に亘って戦闘が続いたケースも珍しくない。

当時の先住民の野性的な戦闘スタイルは、入植者に対して破壊的な威力を見せる事もあったが、長期的に見れば、概して入植者側が最終的な勝利を収めている。

フランスと同様、先住民との交易はイギリスの植民地政策の重要な部分を占めていたが、植民地への人の移住と土地の開発には、それ以上に重点が置かれていた。


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イギリスによるアメリカ大陸の植民地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%A4%A7%E9%99%B8%E3%81%AE%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E5%8C%96

 

 

 

 

 

■カナダの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%80%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

 

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「カナダの起源は17世紀初めにフランス人がセントローレンス川流域に入植したのが始まりである。
1763年にイギリス領となり、フランス系住民と先住民がイギリス帝国の支配に組み込まれた。」

 

・前史

「カナダの先住民は4万年前の氷期にシベリアからベーリング海峡がまだ陸続きだった頃新大陸に渡ってきたインディアン(モンゴロイド)である。
インディアンの時代はカナダ史上、「ファースト・ネイションズ」(First Nations)と呼ばれる。
西暦1000年頃には北欧のヴァイキングがアイスランドからニューファンドランド島に到達し、さらに南下したが、ヴァイキングの居住地は永続しなかった。」

 

・ヌーベルフランス

「16世紀半ば、この地はフランス領となった。
1608年フランスの探検家サミュエル・ド・シャンプランがセントローレンス川中流域に永続的なケベック植民地(現在のケベック・シティ)を創設した。
フランスの植民目的はインディアンとの毛皮交易の拠点を作ることで、ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿は1627年、ヌーベルフランス会社を設立し、植民地経営を会社に委ね、同時にカトリック教徒以外の者が植民地に入植することを禁止した。」

「1763年のパリ条約でフランスはカナダの植民地を放棄し、ケベックは正式に英領となった。
これ以後、イギリスはカナダ植民地と称するようになる(ただし、カナダの名称は仏領時代から存在した)」

 

・英領カナダ

「新たに英国の支配下に入ったフランス系住民は約65,000人に達し、すべてカトリックであった。」


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カナダの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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■オーストラリアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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・植民地支配の本格化

18世紀後半に至ると、イギリスはこの地の開発を本格的に進めるようになる。その目的は、先住民の迫害を伴う資源獲得や囚人対策と言われている。

 


・侵略、植民地主義


イギリスでは、輸入される羊毛の過半をオーストラリア産のものが占めた。

牧羊に必要な土地は、未開の公有地を無断で開拓する、いわゆるスコッターの横行によってもたらされた。
総督府は居住地制限を実施したが効果はほとんどなく、現状を追認せざるを得なかった。

こうした開発は、アボリジナルとの間に流血の抗争を生んだ。
その一方で、入植者との混血も進んだ。タスマニア島では、アボリジナル女性トゥルガニニが1876年5月に死去したことをもって、「純血」のアボリジナルは絶滅したとされる。

 


・白豪主義

大英帝国によるオーストラリア大陸侵略・植民地支配以来、アボリジニへの迫害や人種差別政策が行われ続けてきたが、19世紀後半は、白人の優越を原則とする「白豪主義 (White Australia policy) 」が強化された時代でもあった。

その大きな要因はゴールド・ラッシュである。
上述の通り、中国人が金鉱採掘のため大量に流入し、競争相手たる白人採掘者との間に摩擦が生じた。
白人の反感は中国人の移住制限となって現れた。
対象はサトウキビ生産のため連れて来られたオセアニア諸国の人々(カナカ人)や真珠採取のための労働力となった日本人など、他の有色人種にも拡大し、大英帝国の一員であるはずのインド人にまで規制が加えられた。

その手段として用いられたのが、「ナタール方式(南アフリカのナタールで行われた方式)」と呼ばれる語学試験であった。
これは、担当官が読み上げるヨーロッパの言語による文章を移住希望者に書き取らせるというもので、これによって非欧米系の移住希望者は軒並み排除された。
他方で、イギリス本国やアイルランドからの移民は積極的に受容された。

こうした動きと並行して、法制の整備も進んだ。植民地政府は1855年、中国人がヴィクトリアに入国する際に課税をする移住制限を実施。
この動きは周辺の植民地にも拡大し、クイーンズランドでは1877年に「中国人移民制限法」が、ニュー・サウス・ウェールズでは1896年に「有色人種制限及び取締法」が制定された。
1901年に制定された連邦憲法の第51条には、移民を制限する権利や、有色人種を対象とする特別法を制定する権利を連邦が持つことが明記された。
これを根拠に「連邦移民制限法」が成り、有色人種の移住制限が全土に適用されることとなった。
こうしてオーストラリアは、世界で初めて人種差別を国是として法制化した連邦制をとり、その後1907年にイギリス連邦の一員としてのオーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)なった。


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オーストラリアの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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■【巧妙で残忍なイギリスのやり口】EU離脱で引き下がるほどバカじゃない~日本人には「リアリズム」の視点が欠けている~

2022-05-07 05:14:29 | 日記

 

■EU離脱で引き下がるほどバカじゃない。巧妙で残忍なイギリスのやり口

ライブドアニュース(2016年6月30日)

https://news.livedoor.com/article/detail/11706122/

 

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・巧妙、そして残忍な二面性をもつイギリスのEU離脱が意味するものとは

 

イギリスが国民投票でEU(ヨーロッパ連合)からの離脱を決めたことは世界中にショックを与えた。

イギリスに近いアメリカでダウ平均株価指数が暴落したのは当然としても、日本でも日経平均が1000円以上安値になり、円は一時99円台をつけるなど、経済界に衝撃が走った。


現在の世界の経済は、三極(アメリカ、EU、東アジア(日本、中国、ASEAN諸国))がほぼ25%近いGDPを持ち、世界の経済を牽引しているし、EUは、ドイツ、フランス、イギリス、イタリアがGDPで突出しているという現状を考えると、イギリスがEUを脱離する経済的な打撃は大きいと考えることができる。


しかし、常に国際政治は複雑であり、日本人が考える範囲を超えていることが多い。

しかもイギリスは一時、大英帝国という世界帝国を築いた国だ、そんなに簡単に「意外なこと」をするはずもない。


用意周到、常に陰謀と作戦の中にあり、「イギリス人は何を考えているか分からない」という国民だからである。

日本のマスコミ論調を見ると、相変わらず「良い子が誠実な言動をする」ということをもとに説明している人が多いが、そんなに単純ではない。


イギリスが世界に覇権を唱えだしたのは、イギリスの東インド会社が設立したときとして良いだろう。


それは西暦1600年のことだった。その後、イギリスはヨーロッパの小さな島国だったのに、西はカナダから、アフリカの約3分の1、インド、オーストラリア、東アジアなどを統治し、「七つの海」で「日の沈まない帝国」を築いたのである。

 

・うまく乗せられて大損をしたインドと日本


イギリスの統治は、「巧妙、残忍」の二つの面を持っていた。たとえばインドとの間では、香料や綿製品の貿易を行い、イギリスはインドから多くの製品を購入して「ポンド」で代金を支払った。


ちょうど、現在、日本が貿易でドルを決済に使っているように、その時その時の基軸通貨で貿易は決済される。

ところが、インドではポンドは使えないからインドは貿易で得た代金をロンドンの銀行に預けた。


そして数世紀を経てインドがイギリスの銀行からポンドを引き出したときには、何回かのポンドの切り下げによって「タダ同然」になっていたのである。

これは日本もそうで、戦後1ドル360円時代に日本人が必死になって働いて貿易黒字を出し、ドルを手にしてそれでアメリカの国債などを買った。


でも、ドルの価値が徐々に低下して、一時は1ドル80円までになった。

つまり、日本人が稼いだドルはその価値が4分の1になったのである。


アメリカはうまくやり、日本人はインド人と同じく割を食ったのだった。

今回のイギリスのEU離脱を、そんなイギリスの歴史と民族性から冷静、沈着に考えて見ると、日本で報道されるようなお花畑の解釈ではまた日本はただ働きを強いられるようになるだろう。

 


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■EU離脱で引き下がるほどバカじゃない。巧妙で残忍なイギリスのやり口
ライブドアニュース(2016年6月30日)
https://news.livedoor.com/article/detail/11706122/

 

 

 

 

 

 


■日本人には「リアリズム」の視点が欠けている

日経ビジネス(2016年5月12日)

https://business.nikkei.com/atcl/interview/15/238739/050900165/?P=2


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世界にはずるいことをする国や、ダブルスタンダードで外国に接する国があることを世界史と地政学から学ぶ必要があるわけですね。


英国は第1次世界大戦の時、トルコ人が牛耳るオスマン帝国を内部から崩壊させるべくアラブ人をけしかける一方で、同帝国の支配地域をアラブ人の意向を無視して列強で分割する協定をフランスやロシアと結びました。


米国はイスラエルの核開発には目をつぶる一方で、イランや北朝鮮には厳しい態度を崩しません。

私は世界史と地政学を学ぶべき理由として、日本人は「大きな地図」を見る訓練ができていないことがあるのではと考えています。


「小さな地図」はちゃんと見ています。

しかし、大きな地図にはなかなか注意がいきません。


日露戦争が典型例です。

朝鮮半島の権益を巡って日本と帝政ロシアが対立しました。


日本人の頭の中には、日本とロシア、朝鮮半島、中国の一部からなる地図が思い浮かぶ。これが小さい地図です。

一方、日露戦争は、南下政策を進めるロシアとこれを阻止しようとする英国とが演じるグレートゲームの一部をなすものでした。


英国は、クリミア戦争ではロシアと戦うオスマン帝国を支援、第2次アフガニスタン戦争ではロシアに支援されたアフガニスタンと対決。

日露戦争ではロシアと戦う日本を支援しました。


この「大きな地図」については、司馬遼太郎さんが書いた「坂の上の雲」も多くの紙幅を割いてはいません。

日本人は大きな地図を見られるように訓練する必要があるのではないでしょうか。

 

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■日本人には「リアリズム」の視点が欠けている
日経ビジネス(2016年5月12日)
https://business.nikkei.com/atcl/interview/15/238739/050900165/?P=2


■【石原慎太郎 日本よ ふたたび】 奢れる白人よ 君たちの世界支配はもう終わったのだ 産経ニュース:2015.12.26

2022-05-07 05:14:09 | 日記


■【石原慎太郎 日本よ ふたたび】

奢れる白人よ 君たちの世界支配はもう終わったのだ

産経ニュース:2015.12.26

https://www.sankei.com/column/amp/151221/clm1512210006-a.html


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世界の歴史を振り返ってみると、長く暗黒だった中世が終わった後の世界の歴史は白人による有色人種の国土の一方的植民地化と富の収奪だった。

アメリカはその典型的な実例の一つといえる。


唯一の例外はトインビーが奇蹟と称した日本という近代国家の存在だった。

それが引き金となり第二次世界大戦は起こり、さらにそれが引き金となって戦後あらゆる植民地は独立を果たし国連にも参加を許されるようにはなった。


大江健三郎はかつてノーベル賞の受賞記念講演で何にへつらいおもねったのか『日本は所詮ヨーロッパの周辺の国です』と述べたがこれは歴史的無知としかいいようない。


中世以後の白人による支配がいかに無慈悲一方的だったかを明かす事例にはことかかない。

比類ない文化を誇ったインカ帝国は侵入したスペイン人が持つわずか三挺の鉄砲によって滅ぼされ支配に屈した。

ヨーロッパの白人が十五世紀にアラブ人から習った航海技術によって初めて大西洋を渡り発見した西インド諸島でゲイムとして猟犬を使って無慈悲な人間狩りをした頃、彼等はキリスト教の本山のバチカンにお伺いをたて彼等有色人種を人間と見なすべきかそれとも獣とすべきかを質(ただ)し、時のパウロ三世は「本来は獣であるが、キリスト教に改宗したら人間と見なす」との御宣託を与えている。


十六世紀に入り日本にやってきた宣教師たちがおぼろげな日本の地図を造り持ち帰って見せた時のバチカン法王は、当時のイベリア半島からイスラム教徒をすべて駆逐しつくして勢いを誇っていたスペインとポルトガルに媚びてその地図に線引きし、今の近畿地方に線引きしてそこから東と北の部分は全てスペイン、西と南はポルトガルの領土として与えると宣言している。


天下一統を念じた信長やそれを成し遂げた秀吉がそれを聞いたらそんな輩は即座に斬り殺せといったろう。


そうした白人の奢りは本来何にもましてフェアであるべきスポーツの祭典のオリンピックにもさまざまに露呈していて、奢ったIOCに対する招致決定のゲイムは招致運動など体ではなしにまさに懇願運動の体たらくでしかありはしない。


白人の奢りは今日まで続いてきたので、それに対する反発がこの現代に勃発するのは、過去の歴史が主要矛盾として証すことで歴史的な強い蓋然性があるといわざるを得ない。


アメリカにおける大規模な連続テロの首謀者のビンラディンがアメリカが彼の祖国アフガンの爆撃を始めた時「我々はこの八十年来の屈辱を晴らす」と言明したのは八十年前に第一次大戦が終わった時、イギリスとフランスが中東に従来の伝統や民族の関わりを無視して一方的に国境線を定めアラブやアフリカを分割支配してきたことへの遺恨に他なるまい。


人はこれを新しい宗教戦争ともいうが、今日のこの深刻な混乱の資質は単に宗教という範疇より極めて複雑なもので宗教を超えて、大国の資源獲得や政治力の拡大への野心が絡んでより複雑深刻な態様を示している。


しかしこの危険な混乱の背景には毛沢東が指摘したように、中世以来一方的に続いてきた白人による有色人種への支配と略奪の歴史が存在していたということを歴史の現実として知ることこそが、これから混乱の色を深めるに違いない世界とその中に身を置くこの国の立ち位置と将来を見極めるための大切なよすがに他なるまい。


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■【石原慎太郎 日本よ ふたたび】
奢れる白人よ 君たちの世界支配はもう終わったのだ
産経ニュース:2015.12.26
https://www.sankei.com/column/amp/151221/clm1512210006-a.html

 

 

 

 

■ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%A4%A7%E9%99%B8%E3%81%AE%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E5%8C%96


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【コロンブス以後】

 

・疫病の蔓延と人口減少

 

16世紀のヨーロッパ人やアジア人は既に、牛、豚、羊、山羊、馬および様々な家禽といった家畜を飼い、住まいもそれらと近接しているという状態が長く続いていたが、アメリカ大陸ではそうではなかった。

1492年以降ヨーロッパ人が大挙してアメリカ大陸に押し寄せ、先住民族と接触するにつれて、先住民が経験したことのない、従って免疫性のない病原菌を持ち込むことになった。


天然痘(1518年、1521年、1525年、1558年、1589年)、チフス(1546年)、インフルエンザ(1558年)、ジフテリア(1614年)、およびはしか(1618年)といった疫病の大流行があり、先住民族人口のうち、1千万人ないし1億1200万人、95%ないし98%は減少したと考えられている。


この人口の減少に続いて文化的な混乱と政治的な崩壊が起こり、ヨーロッパ人による既存文明の征服と土地の植民地化が容易になったとされている。


(中略)


ヨーロッパ人と先住民族の抗争が原因で死亡した者の数も結論が出ていない。


歴史愛好家ウィリアム・M・オズボーンはその著書『荒野の辺境:ジェームズタウンからウンデッドニーまでのアメリカ・インディアン戦争における残虐行為』の中で、最初の接触(1511年)からフロンティアの消滅(1890年)まで、今日のアメリカ合衆国本土内で記録されたすべての「残虐行為」を集計し、先住民族による残虐行為での死者が9,156人、ヨーロッパ人による残虐行為での死者が7,193人とした。


オズボーンは残虐行為を市民、負傷者および捕虜に対する殺人、拷問あるいは人体切断として定義している。


(中略)


コロンブス航海の後1世紀半で、アメリカ大陸の先住民族人口は80%減じたと見積もられている(1492年の5千万人から1650年の8百万人)。

これは旧世界からの疫病の流行だけでなく、何度かの虐殺と強制労働によるものであった。

 

(中略)

 

・強制移民


ヨーロッパ諸国の移民が現れる前にも奴隷制は存在していた。

先住民族は他の種族を戦争で捕虜として捕らえ、奴隷化していた。


これら捕虜の中には、例えばアステカのような種族では人身御供とされる場合もあった。

スペインはカリブ海で現地の住民を奴隷化した。


疫病や強制労働および無作為な殺人によって先住民人口が減少するに連れて、大規模な奴隷貿易によって輸入されるアフリカ人に置き換えられていった。

18世紀までに、黒人奴隷の数が圧倒的になり、先住民の奴隷はほとんど見られなくなった。


奴隷船でアメリカ大陸に送られたアフリカ人は、その故郷の海岸に住む種族が捕まえて売り払った者達が多かった。

アフリカではヨーロッパ人が疫病に罹患する確率が高かったので、奴隷を捕まえる役割は現地の種族に限定された。


奴隷貿易の代価はラム酒、銃および弾薬が大きなものだった。

1810年頃までに30万ないし40万人の黒人奴隷がチャールストンやニューポートの港に届けられた。


カリブ海の諸島、ブラジル、メキシコおよびアメリカ合衆国に輸入された奴隷の総数は1000万人ないし2800万人と見積もられている。

 


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■ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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