壁のポートレート

道端の壁が気になって写真を撮り続けています。
でもオーロラやら植物・風景などが最近多いですね。

フラニーとズーイー再び

2023年02月05日 | 最近読んだ本

 以前に原田さん訳と村上さん訳の違いを紹介したことがあったが、ウィキペディア等によれば、現在までに以下5つの訳書があるとのこと。気になったので、結局、ネットで探して残りの②③④の古本を購入してしまった。

①原田敬一訳(荒地出版社「サリンジャー選集1」1968年)
②野崎孝訳(新潮社1968年、新潮文庫1976年)
③鈴木武樹訳(角川文庫1969年、東京白河書院「サリンジャー作品集4」1981年)
④高村勝治訳(講談社文庫1979年)
⑤村上春樹訳(新潮文庫2014年)

前回紹介した箇所について、再度、それぞれの訳文を抜き出した。


【葉巻が大嫌いだと言われたことへの言訳で、電話の相手がズーイーだとフラニーにばれてしまう場面】

(原田さん訳)
「葉巻ってのは鎮静剤だよ、お嬢さん。まったくの鎮静剤だよ。
 もしやつが葉巻にしがみつかなければ、やつの足は宙に浮いてしまうんだ。
 おれたちはズーイーと永久におさらばになってしまうぜ」
 グラス家には言葉による曲芸飛行をやれる、経験豊かな人間が数名いたけれども、この最後の言葉を電話で安全に言えるほどうまく調子がとれるのはズーイーだけだった。あるいは、この語り手はそのことを示しているのだった。そしてフラニーもそう感じたのであろう

(野崎さん訳)
「葉巻は安定剤なんだよ。カワイコちゃん。安定剤以外の何物でもないんだ。
 もしも葉巻につかまらなければ、あいつ、足が地面から離れてしまう。
 ぼくたちはわれらがゾーイーに二度と会えなくなっちゃうぜ」
 グラース家には、経験を積んだ言葉の曲芸飛行家が何人もいたけれど、今のこういう科白を電話での話の中にうまく持ち込む腕前を持っているのはおそらくゾーイ-だけだったろう。少なくとも筆者はそんなふうに思うが、フラニーもそう感じたのかも知れない。

(鈴木さん訳)
「葉巻きっていうのはな、かわいこちゃん、底荷なんだよ。全くの底荷だ。あいつはもし、しがみつく相手の葉巻ってものがなかったら、足が地面から浮いちゃうだろうよ。そうしたら、あのズーイーくんには、もう二度と会えないわけだ」
 グラス家の家族には、経験ゆたかな、言葉の曲乗り飛行士が何人かいたが、子の最後のちょっとしたせりふを、電話で安全無事に言えるほど頭が系統的に働くのは、ただズーイーだけだった。あるいは、この物語の語り手はそう言っておく。そして、フラニーもまたそう感じたのかも知れない。

(高村さん訳)
「葉巻は安定剤だよ、お嬢。ただの安定剤さ。葉巻にでもつかまってなきゃ、あいつの足は地面から離れちまうんだよ。そしたら、ズーイーに二度と合えなくなっちまうよ」
 グラス家には経験を積んだ言葉の曲芸飛行家が何人かいたが、この最後の言葉を電話でうまく言ってのけられるのは、多分ズーイーだけだったろう。というか、筆者はそう思う。そして、フラニーもそう感じたのかもしれなかった。

(村上さん訳)
「葉巻は彼のバラストのようなものなんだよ、スイートハート。安定のためのただの重しだ。葉巻を手にしていないと、身体が宙に浮かび上がってしまうんだ。そうなったら、僕らは二度ともうズーイくんを見られなくなってしまう」
 グラス家には言葉の曲芸飛行に長けた子供たちが何人もいる。しかしこの最後の台詞を電話口でさらりと口にできるほどその芸に熟達した人物は、ズーイの他にはまずいない。あるいはこの語り手としてはそのように断言してしまいたいところだ。フラニーもまた同じことを感じ取ったのだろう。

(原文)
"The cigars are ballast. sweetheart.
Sheer ballast.
If he didn't have a cigar to hold on to, his feet would leave the ground.
We'd never see our Zooey again."
 There were sevral experienced verbal stunt pilots in the Glass familiy,but this last little remark perhaps Zooey alone was coordinated well enought to bring in safely over a telephone. Or so this narrator suggests. And Franny may have felt so,too.

 いかにもサリンジャーらしい饒舌な語り口の一端が感じられる部分のひとつ。"Or so this narrator suggests."という一文が入るのは、この物語について、サリンジャーが、グラス家の構成員である次兄のバディを語り手(ナレーター)として進行させる構成をとっているからだが、入れ子構造のようで、余計にややこしい。原田さんは、よく理解できなかったんじゃないかな。


【ズーイーがフラニーから、他人への配慮に優しさがないといって責められたところ】

(原田さん訳)
彼女はまた話しだそうとしたが、せき払いをする声を聞いてとまどった。
「みんなが鉄でできているなんて思っちゃいないよ」
この情けない一言は、沈黙が続いたときよりも、もっとフラニーの気分を害した。

(野崎さん訳)
それからまた口を開きかけたとき、咳払いする音が聞こえたので、口をつぐんだ。
「ぼくはみんなが鉄で出来ているなんて、思ってはしないよ、きみ」
そう木で鼻をくくったとうに言われると、彼女は、沈黙を続けていられるよりもかえってあわてたようであった。

(鈴木さん訳)
それから、またしゃべりかけたが、咳ばらいをする声がしたので、やめた。
「人間はみんな、鉄でできてるなんて、思っちゃいんぜ、な、おい」
この惨めなほど単純な文章はフラニーの心を、沈黙が続いた場合よりもむしろかき乱したくらいに思われた。

(高村さん訳)
また話しだそうとしたが、咳ばらいをする声が聞こえたのでやめた。
「人がみんな鉄で出来ているなんて思っちゃいないさ」
このみじめなほど単純な文句は、黙り続けられるより、ずっと、フラニーの心をかき乱すように思われた。

(村上さん訳)
彼女は更に何かを言おうとしたが、電話の向こうから相手の今は曇りない声が聞こえてきたのでそれをやめた。
「人間がみんな鉄でできているなんて思っちゃいないよ」
そのへり下ったような単純なセンテンスは、継続された沈黙がそうしたであろうよりもむしろ強く、フラニーの心を乱した。

(原文)
She started to speak up again but stopped when she heard the sound of a voice being cleared.
"I don't think everybody's made of iron, buddy."
This abjectly simple sentence seemed to distueb Franny rather more than a continued silence would have.

 村上さんの1行目の誤訳はご愛敬として、「This abjectly simple sentence」の訳が各人微妙に違うのが興味深い。「abjectly」は「惨めに,卑屈に」の意味だが、その奇妙な言葉でもって、ズーイーの気持ちをどう表そうとしたのか、サリンジャーの意図を推し量ることが難しい。また、それを聞いたフラニーが何故「distueb(イライラ・困惑させる)」させられたのかもよく分からない。彼の意図を推し量った結果の差が各訳文の違いに現われているようだ。
 サリンジャーは、一番目の場面のような饒舌な文章も魅力だけれど、逆に、このような短い一文の中に複雑で微妙な心情を押し込むこともあり、はっとさせられる。


【クライマックスのシーン】

(原田さん訳)
「シーモアの『太った婦人』でないものなんてどこにもいないんだ。
 それを知らないのか?
 おまえはまだこのいまいましい秘密が分からないのか?
 そして -よく聴けよ- おまえはまだあの『太った婦人』が本当は誰だかわからないのか?
 ああ、相棒よ。わが相棒。それは『キリスト自身』なんだ。『キリスト自身』なんだぞ、相棒」

(野崎さん訳)
「シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。
 それがきみには分らんかね?
 この秘密がまだきみには分らんのか?
 それから -よく聴いてくれよ- この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分らんだろうか?
 … ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」

(鈴木さん訳)
「どこにだって、シーモァの『太ったおばさま』でないやつは、ひとりだっていやしない。
 それがわからんのか?
 このくそいまいましい秘密が、まだわからんのか、おまえは?
 それから、わからんのか -いいか、聞けよ- わからんのか、その、『太ったおばさま』ていうのは、いったいだれのことか?
 … なあ、おい。なあ、おい。そいつは、『キリストその人』さ。『キリストその人』だよ、おい」

(高村さん訳)
「どこにも、シーモアの『太ったおばさま』じゃない奴なんていないのさ。
 それが分んないかな?
 そのくそ秘密がきみには分んないかな?
 それに -いいかい、よくきくんだよ- ほんとはその『太ったおばさま』が誰なのか、分んない?
 … ああ、きみ。ああ、フラニー。それはキリスト自身なのさ。キリスト自身なんだ、きみ」

(村上さん訳)
「シーモアの言うところの太ったおばさんじゃない人間なんて、どこにもいやしないんだよ。
 君にはそれが分からないのか?
 その秘密が君にはまだ分かっていないのかい?
 そして君にはまだ分かっていないのかい? -なあ、よく聞いてくれよ- その太ったおばさんというのが実は誰なのか、君にはまだわからないのか?
 ああ、なんということだ、まったく、それはキリストその人なんだよ。まさにキリストその人なんだ。ああ、まったく」

(原文)
"There isn't anyone anywhere that isn't Seymour's Fat Lady.
Don't you know that ?
Don't you know that goddam secret yet ?
And don't you know - listen to me, now - don't you know that Fat Lady really is ?
Ah, buddy. Ah, buddy. it's Christ Himself. Christ Himself, buddy."

 こうして5人の翻訳を読み比べると、各人に個性があって面白い。僅か5行の中に”Don't you know”がなんと4回も出てきますが、訳文を3回に抑えたのは、原田さんと野崎さん、高村さん。4回とも訳しちゃったのは、鈴木さんと村上さん。この扱いに皆さん苦労している様子が覗えます。

 全体としてみて、僕が好きなのは原田さん訳で、シンプルに日本語を切り詰めて訳しているのは、サリンジャーの良さを引き出しているように思います。(前回、原文には二つしかないのに敢えて「相棒」を三つ続けたと書いてしまいましたが、誤り。原文にも"buddy"が3つありました。)
 野崎さん訳は安定感があってそつがないように思いました。鈴木さん訳はズーイーの話し言葉が高知弁(土佐弁)?のような感じで、恐らく、原作が発表されたニューヨーカーの話し言葉のニュアンスを出そうと工夫されたんだなぁと。一方、高村さん訳の話し言葉は、若者言葉に近づけようとした感じがあります。村上さんの訳には少し不満。村上さんらしさが感じられない。もっと良い訳が出来るはずだと思いました。

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「われらはレギオン4」と量子論

2022年10月09日 | 最近読んだ本

 「われらはレギオン1~3」(ハヤカワ文庫)は、交通事故により冷凍保存された「ボブ」から復元されたコンピュータ頭脳を持つ宇宙船が、人類の存亡を懸けて、入植する他星系を探査したり、異星人と戦ったりするストーリーのSF小説ですが、今年発行されたその続編です。
 前作では、主人公である「ボブ」が自らを複製し、また複製されたボブ達が更に複製を繰り返して、それぞれのボブ達の目線で多数のプロットが同時進行してゆく構成となっていますが、新作ではうってかわって2つのプロットだけが進行して行きます。一つは、行方不明となったボブの1人を探している内に、AIが管理する人工世界に遭遇し、その世界に侵入しての捜索と世界成立の謎を追うロードゴーイング的な冒険活劇。もう一つが、前作でも疑問として提示されていた、複製を繰り返すたびにボブ達の性格がわずかずつ変化して行くことに起因して、世界を巻き込んだボブ同士の抗争です。
 前置きが長くなりましたが、新作において、ボブの1人の推論として、複製が親のボブと全く同じにならない理由について、ある仮説が提示されます。それが量子複製不可能定理。量子複製不可能定理とは、未知の量子状態の複製は出来ないという理論ですが(現実に証明もされている。量子暗号が解読不可能とされるのはそのせい。)、曰く、各人が持つ自意識(魂と言い換えても良い)は量子的な存在であり、だからこそ、完全な複製は不可能なのだと…。
 もともと生身の脳からコンピュータへの自意識の複製がされたSF設定世界がベースなので、そこに量子論を持ち込むのは無茶ともいえますが、量子論が光速度の制限を受けないことなども取り込んでうまく説明されており、読んだとき感心して面白いと思いました。(文中で量子論の説明を全くしてないのは、SFファンなら量子論ぐらい押さえておけよ、という作者の考えか?)ともあれ、丁度、ノーベル物理学賞の発表があり、量子論に関係した3氏が受賞したこともあって、いろいろな空想やら疑問が浮かびます。
 自意識は本当に量子論で説明されるような存在なのだろうか?
 量子計算機は、自意識を持つAIが生まれるきっかけになるのだろうか?
 光速度に制限されない事象があるなら、そもそも光速度の制限って何だったの?
 「量子もつれ」は、絶対、僕の理性が否定するんだけど?
相対性理論ならばまだ理解(したようなふりは)出来ますが、量子論は「シュレディンガーの猫」を過ぎたあたりで白旗です。

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コニー・ウィルス「インサイダー疑惑」

2019年05月18日 | 最近読んだ本

 アメリカのSF作家コニー・ウィルスのファンで大森望さんの訳書をよく買っています。彼女の作品はシリアス系とコメディー系の両極端(本人も「シリアスとコメディの2人のコニー・ウィルスがいると人からよく言われる」と述べている)に分かれますが、僕はコメディ系が好きで、原書も買って日本語訳と対比したりして楽しんでいます。大森さんの訳はシンプルでわざとらしさが無く、原書の会話主体で歯切れの良い文体によくマッチしていると思います。
 コニーさんは一応SF作家という位置づけですが、コメディ作品は一般的に連想するSFというよりも、架空の近未来あるいは非日常を舞台にした上で、ユーモアとエスプリを満載に、辛らつな批評で世の中の常識(非常識?)を笑い飛ばすといった形が多いようです。巧みなストーリー展開に加えて彼女の目の付け所がユニークで、「そこから来たか!」とうならせられることもしばしばです。なかでも、唯一無二、こんな作家他には居ない、と感心させられたのは表題の「インサイダー疑惑」(原題はINSIDE JOB)でした。内容をかいつまんで言うと、無知な人々から金を巻き上げていたインチキ霊媒師に、突然本物の霊が降りてきて…、ただしその霊は、科学的な合理精神で世の中の迷信やらインチキを鋭い舌鋒で批判し続けた、1920から30年代のアメリカの高名な批評家H・L・メンケンだった。というシチュエーションのもと、オカルト批判雑誌の編集者でメンケンを敬愛する主人公が、本当にメンケンであれば素晴らしいと願う一方で、霊なんか信じないという自らのポリシーに挟まれて二律背反に陥るというストーリーです。彼を慕って助手に志願したハリウッドの美人女優との駆け引きがコミカルに描かれるラブコメディ(当然ハッピーエンド)も同時進行して、徹底的な懐疑論者で朴念仁の主人公が、霊と恋の両方に右往左往させられる抱腹絶倒の展開をして行きます。もともとコニーさんは大のインチキオカルト嫌いで、他の作品でもそれらに関わる人々を笑いのめすパターンがよく出てきますが、まさか、こういう大爆笑のシチュエーションを設定してオカルト批判をするとは…。いやもう脱帽です。
 この作品を読んで、もう一つ面白いと思ったのは、もう一人の主人公?H・L・メンケンです。恥ずかしながら彼をこの作品で始めて知ったのですが、解説やらネットなどを読むと、かなり興味を引かれる人物です。昔のアメリカで、ダーウィンの進化論を大真面目で否定していた人々がいたこと自体はなんとなく知っていましたが、実際にどのような論争があったのかや、進化論の否定が当時かなり一般的な状況であったことまでは知りませんでした。彼は進化論否定以外にも一般民衆の誤った既成の価値や信念を舌鋒鋭く攻撃し続け、また、アメリカ独自文学や英語とは独立した「アメリカ語」を擁護し続けたとのことです。メンケン語録もネットで探せばいくつも出てきます。「どんな複雑な問題にも、決まって短く、単純で、間違った答えがある。」”There is always an easy solution to every problem neat, plausible, and wrong.”もその一つ(反語的に、複雑な問題に対する単純な答は存在しないというメンケン流の皮肉。)ですが、彼が、単純明快さを好み、合理的な精神を持った誇り高い人物であったことが推測できます。現代の日本で、あるいは世界で、公衆を叱咤し精神の高みに指導できる(しようとする)人物は果たしているでしょうか。政治家や官僚を非難するだけの評論家なら幾らもいますが、公衆を相手に発言できるだけの見識と気概を持つ人物は見当たりません。
 コニーさんが後書きで現代アメリカを評して「いまこそメンケンが必要なのに、彼はどこにいるの? メンケンが墓からよみがえって、是非とも必要とされる台詞を吐いてくれることを強く願った。」”Where is Mencken when we need him?” And wishing desperately that he'd come back from the grave to say all those things that desperately need saying.と書いていることに、僕も強く同意します。

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フラニーとズーイー

2015年09月13日 | 最近読んだ本

 書店で、たまたま、新潮文庫の村上春樹さん訳「フラニーとズーイ」が目に付いたので購入した。サリンジャーのこの作品は、(たぶん)大学時代に、原田敬一さんの訳で読んだので、あの村上さんがどんな訳をしているのか当初から気にはなっていたのだが、そのうちにと思っている間に時間が経ってしまった。
 夜、早速ぱらぱらとめくって読んでみたが、ちょっと違和感がある。うーん、もう少し言葉がシンプルな感じだったかなぁ? 書棚から黄ばんだ荒地出版社の原田さん訳を探し出して(まだ捨てていなかった)、見比べてみた。場面は、物語の最終盤、ズーイーがフラニーから、他人への配慮に優しさがないといって責められたところ。

(村上さん訳)
彼女は更に何かを言おうとしたが、電話の向こうから相手の今は曇りない声が聞こえてきたのでそれをやめた。
「人間がみんな鉄でできているなんて思っちゃいないよ」
そのへり下ったような単純なセンテンスは、継続された沈黙がそうしたであろうよりもむしろ強く、フラニーの心を乱した。

(原田さん訳)
彼女はまた話しだそうとしたが、、せき払いをする声を聞いてとまどった。
「みんなが鉄でできているなんて思っちゃいないよ」
この情けない一言は、沈黙が続いたときよりも、もっとフラニーの気分を害した。

(ついでにペーパーバックの原書も引っ張り出してみた)
She started to speak up again but stopped when she heard the sound of a voice being cleared.
"I don't think everybody's made of iron, buddy."
This abjectly simple sentence seemed to distueb Franny rather more than a continued silence would have.

 訳文については、村上さんの方が分かりやすいけれど、少し説明的すぎる。サリンジャーは饒舌な言葉遣いが魅力の一つなのだけど、それを日本語に逐語訳しちゃうと、ちょっとやり過ぎ感が出てくるようだ。でも考えてみると、村上さんの自著は、饒舌感はあるけれども文体はシンプルなのに、訳文との差は何?
 素人的に感じるのは、サリンジャーは個々のセンテンスそのものに注意を払って読者にイメージ(作品世界)を伝えようとしているのに対して、村上さんは個々のセンテンスの完成度はあまり気にせずにそれらを幾層にも積み重ねることによって読者にイメージを提供しているように思う。良い例えではないが、サリンジャーが1本のバラの花びらを描写することによってバラの美しさを伝えようとするのに対し、村上さんはバラ園を俯瞰的に描写してバラの美しさを伝えようとしているような。
 そういう意味では、内容をはしょって言葉を切り詰めた原田さんの方がサリンジャーらしさが感じられる。あと、蛇足だけれど、clear one's throat が、相手に注意をひくためにせき払いをする意味なので、一行目は原田さんの訳が正しいかな。

 更にもう一箇所、クライマックスの部分も抜き出してみた。

(村上さん訳)
「シーモアの言うところの太ったおばさんじゃない人間なんて、どこにもいやしないんだよ。
 君にはそれが分からないのか?
 その秘密が君にはまだ分かっていないのかい?
 そして君にはまだ分かっていないのかい? -なあ、よく聞いてくれよ- その太ったおばさんというのが実は誰なのか、君にはまだわからないのか?
 ああ、なんということだ、まったく、それはキリストその人なんだよ。
 まさにキリストその人なんだ。ああ、まったく」

(原田さん訳)
「シーモアの『太った婦人』でないものなんてどこにもいないんだ。
 それを知らないのか?
 おまえはまだこのいまいましい秘密が分からないのか?
 そして -よく聴けよ- おまえはまだあの『太った婦人』が本当は誰だかわからないのか?
 ああ、相棒よ。わが相棒。それは『キリスト自身』なんだ。『キリスト自身』なんだぞ、相棒」

(原文)
"There isn't anyone anywhere that isn't Seymour's Fat Lady.
 Don't you know that ?
 Don't you know that goddam secret yet ?
 And don't you know - listen to me, now - don't you know that Fat Lady really is ?
 Ah, buddy. it's Christ Himself. Christ Himself, buddy."

 原田さん訳の方が話し言葉として流れが良い気がします。特に、原文には二つしかないのに、敢えて「相棒」を三つ続けたとこなんか、ズーイーのフラニーへの慈しみが出ていてジンときます。

 最後に、ズーイーの葉巻が大嫌いだと言うフラニーへの取りなしの部分、僕の好きな一節。うーん、原田さん訳でも悪くはないですが、これは村上さんの訳を採りたいですね。バラストを鎮静剤としてしまうと、おかしみが伝わりません。

(原文)
"The cigars are ballast. sweetheart.
 Sheer ballast.
 If he didn't have a cigar to hold on to, his feet would leave the ground.
 We'd never see our Zooey again."

(村上さん訳)
「葉巻は彼のバラストのようなものなんだよ、スイートハート。安定のためのただの重しだ。葉巻を手にしていないと、身体が宙に浮かび上がってしまうんだ。そうなったら、僕らは二度ともうズーイーくんを見られなくなってしまう」

(原田さん訳)
「葉巻ってのは鎮静剤だよ、お嬢さん。まったくの鎮静剤だよ。もしやつが葉巻にしがみつかなければ、やつの足は宙に浮いてしまうんだ。おれたちはズーイーと永久におさらばになってしまうぜ」

 素人の感想なんか気にしないでしょうが、村上さんごめんなさい。でも新訳を出してくれたおかげで、三つ読み比べて楽しむことができました。ついでに、無断引用の著作権侵害もごめんなさい。謝っておこう。

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