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『独去独来』『全ての人は秋の木枯らしの吹く寂しい荒野を一人で旅する旅人である』(お釈迦様)

仏教を判り易く知る資料(23)

2023年01月26日 | 仏教・親鸞聖人

 信心獲得するとどうなるか親鸞聖人(2/10)

(2)至徳具足(しとくぐそく)の益

「至徳」とは、阿弥陀仏が大宇宙の宝を結晶された無上の功徳、「南無阿弥陀仏」のことです。

親鸞聖人は「功徳の大宝海」(大きな宝の海)と『正信偈』に讃仰されています。

蓮如上人は易しく、こう言い表されています。

その数わずかに六字なれば、さのみ功能のあるべきとも覚えざるに、この六字の名号の中には、無上甚深の功徳利益の広大なること、更にその極まりなきものなり
(『御文章』五帖目十三通)

「南無阿弥陀仏」は、限りなき大宇宙の宝の海なのである。「具足」とは、一体になったことをいいます。

真っ赤になった炭のような有様です。炭のままが火であり、火のままが炭。炭と火を分離できない状態を、具足といいます。

江戸時代の浮世草子の作家、井原西鶴は「人間は、欲に手足のついたる物ぞかし」と言っています。

仏教では、欲や怒り妬み嫉みの煩悩の塊が人間だから、「煩悩具足の凡夫」と言われる。

その煩悩具足の人間(炭)が、南無阿弥陀仏の大功徳(火)と一体になることを、至徳具足というのです。

大悲の願船に乗ずるとは、大宇宙の宝と、ひとつになることです。煩悩がそのまま、南無阿弥陀仏となるのです。

【重要なキーワード】大悲の願船に乗る=南無阿弥陀仏を具足する

無上の宝を持つと言っても、ダイヤモンドや金塊なら、盗られたり、落としたりする心配もありましょう。

しかし、南無阿弥陀仏の大功徳と一体になれば、落とす心配も、盗られる不安もありません。

火に焼ける恐れもなければ、水に流される対策もいらない。生活のままが南無阿弥陀仏の活動となるのです。

それを親鸞聖人は、こう和讃されています。

“底知れない悪性の人間が、大悲の願船に乗せられ南無阿弥陀仏と一体になれば、不可称、不可説、不可思議の功徳が身にあふれるのである”

五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
(正像末和讃)

蓮如上人は至徳具足の益をこう説かれています。

"大悲の願船に乗ずれば、南無阿弥陀仏の主(あるじ)になるのだ。
南無阿弥陀仏の主になるとは、信心を獲る(大悲の願船に乗る)ことである。
浄土真宗で真実の宝とは南無阿弥陀仏だ。
これは弥陀より賜る一念の信心である"

【重要なキーワード】一念の信心=大悲の願船に乗ること

以下は、その文証です。

弥陀をたのめば南無阿弥陀仏の主になるなり。南無阿弥陀仏の主になるというは、信心をうることなり。
また、当流の真実の宝と言うは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なり
(『御一代記聞書』二三九)

大悲の願船に乗じて、南無阿弥陀仏に染め抜かれてからの人生は、もう流転の人ではないのです。

欲や怒りの絶えない煩悩具足の身は変わらないけれども、今が幸せ今日が満足、ウラミと呪いの渦巻く人生を、浄土で遊んでいるような気分で生かされます。
至徳具足の幸せを親鸞聖人は、こう披瀝されています。
以下は、その文証です。

超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかわらねど
心は浄土にあそぶなり
(帖外和讃)

(続く)



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