じょじょりん文庫

読書好きで雑読。ゴルフ好きでへたくそ。
気の向くままに本ネタとゴルフネタを書かせて頂いています。

死にたい老人 木谷恭介

2011-10-31 | ノンフィクション
死にたい老人 (幻冬舎新書)
木谷恭介
幻冬舎


83歳になった推理作家の木谷恭介さんが、自分で断食死をしようとした顛末を書かれた本である。
読んでみると、なんというか……あまり面白くなかった。だけど興味深かった。

なぜ面白いと思わなかったのか。
自分でもよくわからないけれど、すべてが中途半端だからかなと言う気はする。

断食死を決意した理由がよくわからない。75を過ぎて若いと思っていた自分が思ったよりも老人であったことを認識したことや、奥様と別れてしまい一人暮らしになったこと、仕事も依頼はあるもののなかなかパワフルにははかどらない、田舎に住んでいるのに車の運転が出来ないので行動が不自由だ、等記載されているが、よくわからない。半分は自分で招いたことの結果であろうし、衰え云々は誰でも思っていることだろうに、なんでこんなことで死を決意しなければならないのか。木谷さんは自分のことをC級の人、などと述べておられるが、その割りにはいささかプライドが強すぎるようにも思った。

決行の過程についてもわからない。
断食しながら、犬の散歩をしたり、病院に行ったりしている。通いのお手伝いさんやアシスタントの人に断食死を宣言し、保護責任者遺棄致死にしてはまずいからこれからこなくて良い、と言ったりする。
そんなこと言われたら、普通の人だったら放っておけないでしょう。私だったら本当に死ぬ気があったのなら、お手伝いさんには十分にお礼をしてやめてもらって、黙って決行する。断食なんて死ぬまでに猶予のあるのはいやだから、冬山にでも行って凍死したい。
だけどいずれにしても、他人に迷惑がかかる。
それを思うと、できない。

断念についても、断食中に発作を起こして自分で救急車を呼んで入院することになり、断念となる。
人にさんざん迷惑をかけて、死にたいのなら救急車など呼ばなければ良いではないか、と息子さんに言われるくだりも書いてあるが、本音のところ、息子さんの言うとおりだろう。
一般のお年寄りは、元気で働きたくても職もないし、木谷さんのようにモノを生み出す才能もない。暮らしが不便ならば、もう少し便利な場所に引っ越しをすれば良いではないか。認知症でボロボロとか末期癌でもう死ぬとか、ホームレスになっちゃって雨露しのぐ場所もないとかいう深刻なことでもなく、いずれも解決可能な悩みであって、贅沢な感じを受ける。
元気で健康に気をつけて、どんどん良い作品を世に出すことを考えていれば、楽しい人生だろうに、もったいないことだ。

何が興味深かったか。
それは、お年寄りの心理がよくわかることだ。
昔の思い出話が多いことは当然として、まず否定的な思い出が多い感じ。昔ああされた、こうされたなんていう類の。
それと、こうと決めたらなかなか撤回できない頑固さというか、硬直性というか。だめだったら「だめでした。もうしません」で良いではないか。それがなかなか言い出せない。
あと、面白かったのは、断食死を試みるにあたって、周りの人が保護責任者遺棄致死になる可能性はないのかと弁護士に相談に行った、とあるくだりだ。
相談された弁護士もさぞ面食らっただろうと思う。その辺も、異常と言えば異常だと思える。

老後というのは、自分の内面世界(精神というか、意識というか)の崩壊を自分で認識しながら生きていくことが辛いのだろうか。
なるべく崩壊速度をゆるめたいと思う。頭の崩壊の前に身体が崩壊して死にたいなぁ。
それには頭への刺激と適度な運動でしょうかね。はぁぁ

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タイの洪水

2011-10-28 | その他
ばたばたしているうちに10月も終わってしまいそうです。
こちらもすっかり御無沙汰してしまいました。
本はようやく少し読んだりしていますが、すぐ眠くなってしまってなかなかはかどりません。

最近心を痛めているのがタイの洪水です。
私はタイが好きで、結婚する前までに3回行きました。結婚後は、夫があまりアジアに行きたがらないので20年ほど御無沙汰状態です。
あの美しい寺院群や、あの活気にあふれた(あまりきれいでないけど!)町並み、みな水没してしまうのかと思うと、悲しいです。

ところで、旅行好きの私の最初の海外旅行先もタイでした。
ここのブログでふれたかどうか忘れましたが、高校卒業の直前に初めて行ったのですが、目的はタイ経由でカンボジアに行くことでした。ほんの子供の頃に父が買ってきたスライドでアンコール遺跡を見て以来、絶対に見に行きたいと思っていました。大学に入る前に、高校在学中に留学をせがみながらも両親が許してくれなかったので(今と時代が違ったのですね)、その罪滅ぼしもあったのでしょうが、「1週間好きなところに行って良い」と言われたので、迷わずカンボジアを選択。
日本からのツアーはなかったので、現地のツアーに入ってカンボジアとタイを見ることになりました(そういう旅行形態が当時は多かったのですね)。
つまり往復は一人旅だったんですねえ~。今から考えると、無謀ですね。私も、行くことを許した両親も。成田空港も開港したての頃でした(年がばれてしまいますね)。

ですが、両親が本当に肝が冷える思いをしたのは、このあとです。
私がカンボジアに行く前の日のツアーが出た直後、ポルポト派の虐殺事件が起こりました。
当然私の行くはずのツアーは催行中止になりましたが、前日行った人たちが無事に帰れたことの確認は相当後にならないとわからなかったそうです。私はまだ子供でしたので、そんなたいそうなことが起きているだなんてつゆ知らず、両親に連絡をすることもまったく思いつきませんでしたし「あと1日早く出発できていたらカンボジアに行くだけは行かれたのに」なんてとても残念に思ったのを思い出します。実際、行っていたら、大変なことになっていたでしょうに。殺されちゃっていたかもしれませんよね。当時、カンボジア人と結婚などして在住していた日本人はほとんど助からなかったそうですし。
両親は結局現地のツアー会社に連絡を取って、私がカンボジアに行かなかったことを確認したらしいのですが、後で連絡をしなかったことを相当怒られました。

でもまあ、結局、帰りの飛行機まで4日近くをタイで過ごさなくてはならなくなり、結果として色々見ることができました。なんとビルマ(現:ミャンマー)にもちょと行くことが出来ました。今の状態(危険区域ですかね)を思うと、行っておいて良かったかもしれません。
で、そのとき行って以来宿泊していたのがシャングリラホテルだったのですが、このホテル、チャオプラヤ川の畔に建っています。部屋から外を見ると、黄土色をしたチャオプラヤ川が目の前に見えて、壮大です(川の色は正直、きったない色です)。
近くにペニンシュラホテルもあって、こちらは欧米人がテラスで寝そべっていたりするのも見かけたりしました。
ここも、シャングリラも水没の危機でしょうねえ。

三島由紀夫の豊饒の海第3巻の「暁の寺」はバンコクのワットアルン(冒頭写真)が取り上げられていますが、私はこのお寺が大好きで、バンコクに行けば必ず行っていました。ここもチャオプラヤ川のほとりにあります。水没を心配していたのですが、テレビでワットアルンの周りに土嚢が積まれ水はひたひたになっているのを見て、ここもダメか!と悲痛な気がしています。

昨今のタイは、紅組と黄色組が別れてずっと争っていて、空港を占拠したりなどという情勢が報道されていたりしましたが、さすがにそれどころではなくなってしまいました。国を挙げてなんとかこの洪水を乗り切って頂きたいと思っています。


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日の名残り カズオ・イシグロ

2011-10-04 | 小説
日の名残り (ハヤカワepi文庫)
カズオ・イシグロ
早川書房


ここのところ、職場の試験が続いていて、本はほとんど読めませんでした。まだしばらくこの状態が続きそうで気が重いです。

そんな中で、読んだのがこの本です。
前にこの方の夜想曲集という本について記載した際に、次はこの本を読みたいと書いたのですが、やっと実現したわけです。

前の本は私の分際ではあまり理解できませんでしたが、この本はなかなか味わい深かったと思います。
最初のうちはいささかまどろっこしいのですが、読み進むと考えさせられます。もしかしたら翻訳がうまいのかもしれませんが。

話は、初老にさしかかった大きなお屋敷の執事さんの話です。
お屋敷がイギリスの貴族からアメリカの実業家の所有に移り、居抜きでそのままアメリカ人の執事をすることになった主人公が、お屋敷の人手が足りないために以前女中頭を勤めていた女性にお屋敷で働いてくれないか打診に行く旅に出ます。
女中頭の女性は、結婚してお屋敷をやめたのですが、その後の様子であまり家庭がうまくいっていない感覚を受けたため、主人公はお屋敷に戻ってくれるかも、と思うのです。
結局、女中頭の女性はお屋敷に戻ることはないのですが、旅を通じて、イギリスの執事のあり方や、主人公と女中頭の女性がかつてお屋敷で一緒に働いている間に妙な緊張関係にあったことなどが回想されていきます。

本を読んで改めて思うのは、イギリスの厳然たる階級社会です。
執事は一生執事で、もしかしたら代々執事だったりして、使う側の人間になることはない。それに誰も疑問も抱かず、むしろ誇りを持っていたりするのですが、たぶん下克上の国アメリカや、階級差を異常にいやがる日本からすると、あまり接することのない考え方なんじゃないかと思います。
主人と召使いと思うからなんとなく良い感じがしないのかもしれず、もしかしたら人に仕えるということは、世襲制の芸術家のような職業なのかもしれません。

あと、アメリカ人の主人のいささか下司なジョークに主人公が当惑する場面も少し出てくるのですが、アメリカとイギリスの気質の違いが現れていて面白いです。ある意味、アメリカ風というのは良く言えば率直、悪く言うと「身も蓋もない」ところがありますが、イギリス風は良く言えば婉曲、悪く言えばまどろっこしい感じかな、などと思います。
まずい比喩で恐縮ですが、バックヤードを隠して、お客様にはきれいなところだけをお見せしたいというイギリス風の心意気も立派ですし、所詮中はぐちゃぐちゃなんでしょう?恰好つけるなよ、というアメリカ風のあけすけさも私は好きです。
たぶん、相手と自分との距離、相手の性格や様子、状況などで対応を変えることが、大事なことなのでしょうね。


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