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私は何になりたかったか
ヘルマン・ホイヴェルス(3)
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〔本文つづき〕
或る日曜日の午後、父と母は庭のベンチに腰かけて私たち二人を呼び寄せました。そしてしばらくは、彼らの長男と次男をかわるがわる黙って眺めていました。
「この二人は将来、何になったらいいのでしょうか?」
「ギムナジウムに行くべきか、畑に行くべきものか?」
と、父は母にいま一度はっきりとたずねました。
父は農業に興味を感じていませんでした。むしろ自分の弟のように、自分も勉強することが望みだったのです。その叔父は、のちに小学校の校長をつとめました。
母の生家はライネの町の近くにありました。娘時代の母はときどき母親とともにライネの町のギムナジウムの聖堂で、9時の歌ミサにあずかるのをたのしみにしていました。そしてこの若い娘にとって、聖堂に跪くギムナジウムの学生は、あこがれの的となっていたのです。そして今や若い母親にとって、「成人したなら、自分の息子たちの頭も、あの帽子で飾ってやりたい」という若き日のあこがれは、現実に近づいてきたのでした。
こうして両親の結論は、息子たちは畑にではなく勉強するほうがいいということになりました。それは大きな決心でした。なぜならそれは9年間にわたる勉強であり、しかもまったく基礎的な勉強で、卒業しても何になったらいいのでしょうか、べつに決まっていません。そこでまず兄は、村の叙任司祭についてギムナジウムの受験勉強をしました。いつも私は兄といっしょでしたから、自然私もそんな勉強をするようになりました。そして幸い兄は3年をとびこえて4年に入学しました。兄はライネの町に下宿して通いました。その翌年、兄は5年に進み、私も幸いに3年に編入することができました。
ちょうどその年、村からライネの町へ通じる国道が出来ました。父は、そのころ出はじめたばかりの自転車を二台私たちのために買ってくれました。こうして私たち二人は新しい自転車にのって、10キロの国道をゆっくり踏んでギムナジウムへかよいました。この、ゆっくり踏んで通ったのには理由がありました。というのは当時の村びとのあいだでは、「自転車にのるものはみんな肺病になる」と恐れられ、反対されていたからです。それに私の足では、まだペダルが下までとどきませんでした。幸い私たちは健康に恵まれ、やがて二人の友人も自転車の仲間に加わってきました。
ギムナジウム時代、将来の希望は絵をかくことか、あるいはギリシャ語の教授になることでした。兄といっしょに、絵の先生からは特別の時間を与えられて勉強もしました。私はおもに花や風景を、生家を写生しました。兄の性質は私とまったく違っていました。小さいときから機械に興味を示し、生家の家宝的存在であった老いた掛け時計の修理に年に一度やって来る時計屋の仕事を、そばで熱心に見入っていました。そしていつか、自分でその時計の修理を引き受けるようになったのです。
1906年の夏、神は私の将来を決めました。兄のアロイスは卒業を控え、いま一度自分の将来について決心すべく、オランダにあるイエズス会の修道院で黙想会にあずかるために、他の級友とともに出かけていきました。数日後の土曜日の昼一時に、兄はまったく違った人間になって帰ってきました。広間に立つなり母に向かって、まっすぐに、イエズス会の賛美をはじめました。彼らは、どんなに厚い本を書くか! どんなに遠い世界までも布教に行くか!・・・と。
私は黙ってこれを聞いていました。そしてそのとき、「これこそ私のなりたいものだ!」と心に決めました。しかし私の卒業までには、まだ二年以上もあり、この秘密は誰にも打ち明けませんでした。一方、兄の熱心さは伸びるワラビのようでした。あれほど志願を望んでいたイエズス会には入りません。かわりにミュンスター大学の神学部哲学科に入りました。ここには、今は有名なカール・ラーナー教授がいます。しかし、機械は兄を引っぱって、ついにハノーバー工業大学へ行き、後日りっぱな技師になり天寿をまっとうしました。
私は自分の秘密をずっと守りとおし、卒業式に、はじめて友人に打ち明けました。式のあとの宴会の席上、私はこっけいなテーブル・スピーチの指名をされました。私はビールを賛美する話をして喝采で報いられましたが、そのあと、大きな声で「ジェスイットになるぞ!」とさけびました。するとおどろいた友だちはみんな叫びました。「われわれも君といっしょに行こうぞ」と。そしてつぎの即席のうたをみんなでうたいました。
Ins Kloster moecht’ ich gehen,
Da liegt ein kuehler Wein!
修道院に行こうよ、
そこにはおいしいブドー酒がある!
1909年3月5日卒業式、4月19日イエズス会入会。その間に生家との別れの記念として、家の東側のいちばんよい土に12本のカシの木を植えました。今は4本がそうとう大きな木になって残っています。そのカシの木は、私がもっと小さかったとき、森のなかの空地に父といっしょに蒔いた実が成長したもので、かれこれ70年の樹齢を刻んでいます。
ホイヴェルス兄弟のような羊たち
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ホイヴェルス神父様 は幼年時代から、羊飼いに、次いで木こりに、そして左官屋になるのだと、幼い夢を語り、それを母親は微笑みながら、反対もせず受け止めていました。そして、時が来ると、父親は叶わなかった自分の夢を、母親は乙女時代のあこがれの夢を息子たちに託すことなったのです。
私は、ホイヴェルス神父のように絵が好きでしたが、彼のお兄さんのように機械も好きでした。模型飛行機も、船も電気機関車も何でも精密に作りました。
私の父は東大法学部に在学中に高等文官試験に合格し、卒業とともに勅任官として内務省に入り、官僚から政治家への道を辿ろうと出世街道を駆け上がっていたやさきに日本が戦争に負け、占領軍の下で公職追放に遭い、無位無官の極貧生活に転落した辛酸をなめました。彼はその経験から、学歴も身分も社会の激変の前には何の役にも立たないことが骨身に応えていたので、息子には手に技術を持たせて社会の変動に強い人間に育てようとして、理工系の大学への進学を勧めました。神戸の六甲に住んでいた私は、親の経済的負担を考えて、東京の大学は諦め、家から通える学費の安い国立大学を念頭に受験勉強に励んでいました。
ホイヴェルス神父が通ったギムナジウムに相当するのが、中・高一貫校のカトリックのミッションスクール六甲学院でした。大学受験を目前にした高3の正月休みに、広島のイエズス会の黙想の家で生徒に進路を考えさせる黙想会があって、私も担任の神父から勧められて参加しました。
黙想会が終わると、私もホイヴェルス神父のお兄さんのようにまったく違う人間になって帰ってきました。父の前立つなり、「私は阪大や京大の理工学部には行かない。東京の上智大学に入ってイエズス会の神父になる!」と宣言して、父を完全に打ちのめした。カール・マルクスの資本論を読破した筋金入りの無神論者は、その後、プロレタリアートを抑圧する官僚になった自分のことは棚に上げて、私の決心を覆そうと血眼になりました。そのおかげで、私の決意は鉄のように固く鍛え上げられていったのです。
以来、何事にも反目しあってきた父と息子が和解したのは、父の死の数カ月前、私が神父になったのは、父の死の2か月後のことでした。彼は私が司祭になる叙階式に出席することを楽しみにしていたのに。