:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 引退教皇ベネディクト16世の遺言

2023-01-02 10:02:56 | ★ 教皇

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故名誉教皇ベネディクト16世の遺言

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 あるスペイン人の友人から昨12月31日に逝去した故名誉教皇ベネディクト16世について、以下のようなメッセージをもらいました。私のブログの読者とシェアーしたいと思います。

 

 

 

 

1231日、バチカンは名誉教皇ベネディクト十六世が残した霊的遺言(彼が死ぬときに公開することになっていたようです)を公表しました。

 

そのうち、司教協議会から正式な翻訳が出ると思いますが、私訳を準備いたしました。ともに教皇ベネディクト16世のために祈りましょう。

 

(当翻訳の原文(スペイン語)はこちらになります:https://www.aciprensa.com/noticias/el-texto-completo-del-testamento-espiritual-que-dejo-benedicto-xvi-42553 

――

 

名誉教皇ベネディクト十六世 霊的遺言

 

 人生の終盤を迎えた今さらながら、自分の生きてきたこの数十年間を振り返ってみると、まず、感謝すべき理由が数えきれないほどたくさんあることに気づきます。第一に、あらゆる善の与え主である神に感謝します。神は、わたしに命を与え、様々な混乱の中でわたしを導き、わたしが滑り落ちそうになるといつもわたしを立ち上がらせ、み顔の光でわたしを再び照らしてくださいました。

 

 今にして思えば、歩んで来たこの旅路において、暗くて疲れ果ててしまいそうになった道の部分も、すべてはわたしの救いのためであり、そのような時にこそ、主はわたしを正しく導いてくださったのだと理解できます。次いで、困難な時代にわたしに命を与え、大きな犠牲を払いながらも、愛情を持ってわたしのためにすばらしい家を用意してくれた両親に感謝します。今も、それは明るい光のように、今までの人生のすべての日々を照らしています。

 

 父の明晰な信仰は、わたしたち兄弟姉妹に信じることを教え、わたしが科学的な業績をあげる中でも、道標としていつもしっかりと立っていました。母の誠実な信仰心と大きな優しさは、今でもわたしの心の遺産であり、いくら感謝してもしきれません。

 

 姉は何十年間も無私無欲に、愛情を込めて私を助けてくれました。兄は、明晰な判断力と、強い決意、そして穏やかな心をもって、いつもわたしのために道を切り開いてくれました。彼の絶え間ない導きと寄り添いがなければ、わたしは正しい道を見つけることができなかったことでしょう。

 

 神がいつもわたしのそばにおいてくださった多くの友人、男性も女性も、心から感謝します。わたしの旅路のすべての段階において協力してくださった方々や、神様が与えてくださった恩師方や生徒たちにも心から感謝します。わたしは感謝の心をもって、これらすべての方々を主の優しいみこころに委ねています。

 

 また、美しい我が故郷であるバイエルン州プレアルプスのためにも、主に感謝します。わたしはいつもそこで、創造主の輝きを見ることができました。そして、我が祖国の人々にも感謝します。なぜなら、彼らの中でわたしは何度も何度も信仰の美しさを体験したからです。

 

 祖国が信仰の国であり続けることをお祈りするとともに、親愛なる同胞の皆さまにお願いいたします。どうか信仰から引き離されないようにしてください。そして最後に、わたしの旅路のすべての段階において、体験することができたすべての美について、神に感謝します。その中でも、わたしの第二の故郷となったイタリア、特にローマでの体験のために感謝します。

 

 わたしが何らかの形で傷つけたすべての人たちに対して許しを請い、心からお詫び申し上げます。さきほど、わたしが同胞に申し上げたことを、今、主がわたしの奉仕に委ねられた教会のすべての人々に繰り返して申し上げます。どうか、信仰を堅く保ってください。どうか、惑わされないようにしてください。なぜならしばしば科学 (自然科学や、聖書の解釈理論などの歴史研究など)は、カトリックの信仰と対立するような、反論の余地のない結果を提供できるかのように思われることもあるからです。

 

 わたしはずっと以前から、自然科学の変容を体験して参りましたが、むしろ逆に、信仰に対抗する見かけ上の確信が消えてしまうことを見ることができました。結局のところ、それらは科学ではなく、一見科学に見える哲学的解釈でしかなかったことが証明されたのを見て参りました。一方、信仰と自然科学との対話の中でこそ、信仰がその主張の範囲の限界、ひいてはその特異性をより良く理解することを学びました。

 

 わたしは60年間、神学、特に聖書学の道を寄り添って歩んで参りましたが、世代が変わるにつれて、揺るぎないものと思われたテーゼが崩壊し、それが単なる仮説に過ぎなかったことが証明されるのを目にして参りました。自由主義神学世代(ハルナック、ジュリッヒャーなど)や、実存主義世代(ブルトマンなど)や、マルクス主義世代など。

 

 そして、そのような仮説のもつれから、何度も何度も信仰の合理性こそがそびえ立つのを、わたしは見て参りました。イエス・キリストはまことに道であり、真理であり、命であります。そして教会は、あらゆる不完全さをもっていながらも、まことにキリストの体なのです。

 

 最後に、謹んでお願い申し上げます。どうか、わたしのために祈ってください。わたしの罪やいたらなさにもかかわらず、主がわたしを永遠の住処に迎え入れてくださいますように。わたしに託されたすべての方々に、日々、心からの祈りを捧げます。

 

教皇ベネディクト16

 

2006829

 

(出典:バチカン放送局20221231日)

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6 コメント

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「わたしはある」 (新米信徒)
2023-08-09 11:19:05
谷口神父様 

ベネディクト十六世 第265代教皇様の霊的遺言を早くに公開していただきありがとうございます。今一度読み直しましたが、
「どうか、信仰を堅く保ってください。どうか、惑わされないようにしてください。」、とのことばが心に響きました。ベネディクト十六世の有り難きことばです。

「JESUS VON NAZARETH ナザレのイエス (第265代)教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー 里野泰昭(先生) 訳 春秋社 (2008) 」を偶然手に取り(いつも寝床の横においています)、第 4 章 山上の説教、の、2 メシアのトーラー、の、安息日についての論争、が目に留まったので、少し読んでみました。というのは、今年の春に、初対面の二人連れの方が家に来て、話をしたときに、主日のミサあるいは礼拝に与ることに気付かされたことがあり(安息日とかかわって)、それから暫くして、岩下神父様の「イエズスと律法(昭和五年七月、東京帝国大学カトリック研究会篇第一輯(しゅう)「カトリック研究」岩波書店刊)」を読んでいたからです。

上記の本には「この問い(メシアのトーラーについての)に対する答えを探しているときに、私は先に触れたユダヤ人の学者、ヤーコブ・ノイスナーの著書『一人のラビによるイエスとの対話』(A Rabbi talks with Jesus, Doubleday, New York 1993; ドイツ語訳の本については省略します)に出会い、この本から多くのことを教えられました。」、とあります。cf. p. 143. また、「安息日論争の核心は、人の子についての問い、イエス・キリストその人についての問いです。」、とあります。cf. p. 153. そして、Mt 11:28-30 と Mt 12:1-8 が続けてあることをはっきりと教えられました。Mt 11:28-30 に対しては、「この箇所は普通には自由主義的な解釈の立場から、すなわち道徳主義的に解釈されます。イエスの自由主義的な律法理解は、『ユダヤ教の律法主義』とは反対に、生きることを易しくしてくれるというわけです。・・・。キリストに従うということは楽なことではありません。また、イエスがそれを主張したということもありません。」、とあります。cf. p. 151. わたしは、ベネディクト十六世のこの本のことばから、この日本語訳の帯にある「わたしはある」、「イエス(様)は神の子である」、単なる道徳的な意味ではない「安息日の主である」ことを聖書を通して実体として感じたように思います。そして、色々違いはあるでしょうが、ベネディクト十六世教皇、ホイヴェルス神父様、押田神父様、岩下神父様そして正教会の松島司祭のことばは、少なくとも底でつながっているように感じます。いつも長文をすみません。
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上記のコメントの岩下神父様のことの補足について (新米信徒)
2023-08-10 10:02:36
谷口神父様 

わたし(新米信徒)が上のコメントに書いた岩下神父様のことについて少しだけ補足することをお許しください。

「信仰の遺産 岩下壮一(神父様)著 岩波書店 岩波文庫版 (2015)」に所収の「信仰の遺産 (Depositum fidei)(昭和十四年五月『カトリック』第十九号第三号)」に、「次ぎには、カトリック教会が昔は原始キリスト教の純粋福音に加うるに後代の不純な信仰を以てしたとの故を以て攻撃され、今日は之に反して、そのドグマの不変性の故に非難されているという、面白い事実である。これは前述せる如く、プロテスタント側の立場の変遷にも由る事であるが、カトリック的立場が、ドグマの不変性とドグマの発展という二つの特質の均衡の上に立つ、所謂 (9) coincidentia oppositorum たることをも指示するものである。現代哲学の好んで使用する語を借りるならば、この点に関するカトリックの真理は、両者の張り合い(シュパンヌング)に存すると伝ってもよい。カトリックのドグマは不変であるが、しかも発展する。否、寧(むし)ろ不変なるが故に、発展せざるを得ないのである。」、とあります。cf. pp. 139-140.

山本芳久先生による上記の本の「信仰の遺産」の注解の (9) に、「coincidentia oppositorum 『反対の一致』を意味するラテン語。クザーヌス (Nicolaus Cusanus. 1401-64) の根本概念。」 、とあります。

岩下神父様の用いられた言葉、
シュパンヌングは、ドイツ語の "Spannung" ではないかと思います。表題の "Depositum fidei" の depositum を辞書で調べると、この表題には、教会の、いまこの地にあるわたしたち信者に信仰が託されているという意味もあるように感じました。でたらめかもしれませんが。
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神は愛 (新米信徒)
2023-08-30 10:10:40
神父様 

8 月 29 日は「洗礼者 聖ヨハネの殉教」の記念日で、Liturgia Horarum Ad Vesperas では、祝日共通 殉教者(Lectio Brevis は Act 13:23-25)を普通は唱えるようですが、そのことに気がつかず、「教会の祈りー日々の手引き」に従って、年間共通 第 21 週 火曜日の晩の祈り、を唱えました(結びの祈願は除いて)。Lectio Brevis(短い読書)は、Iヨハネ3:1a, 2 でした。後から I Io 全体を読みましたが、ここにあることは、「愛」についての告知であるように感じました(ど素人の感想です)。1 箇所だけ引用します。

Nova Vulgata EPISTULA I IOANNIS 3:11

"Quoniam haec est annuntiatio, quam audistis ab initio, ut diligamus alterutrum. "

"annuntiatio" を、無知なおろか者が素直に日本語におきかえると、告知のようになります。

バルバロ神父様による訳 (1980)は、「便り」。新共同訳聖書 (1987) とフランシスコ会による訳 (2011) は、「教え」。

ラゲ訳 (1910) は、使徒聖ヨハネ第壹書簡 3:11

「其は互に相愛せよとは汝等が初より聞きし告(つげ)なればなり。」

1 Io は、愛の掟が中心であると感じますので、常々、神は愛である、と仰ったベネディクト 16 世についてのこの記事のコメントに書くことにいたしました。

「キコ・アルグエヨ著 ケリグマ IL KERIGMA 福音の告知 
バラックの貧しい人々の間で 
フリープレス刊 (2013)」の、「ケリグマ <三位の天使> ソーラ『聖ドミニコ大修道院』/二〇一二年六月八日(講話 キコ・アルグエヨ)」(信仰年は 2012 年から始まりました)の、p. 117 「三番目の天使と第三の対話 ここに集う人々へのケリグマの告知」に、「何をあなたに告げるか? 神はキリストにおいてご自分の本質、ご自分の本性、ご自分の最も深い存在を示されたことを告げる。神の最も深い存在とは如何なるものか? それは、父と子と聖霊である神の愛だ。神の愛は何から成り立っているか? 神の三つの位格(ペルソナ)の完全な一致から成り立つ。神とは、あなたの中であなたと一つになりたいと望むほどの、あなたへの全面的な愛である。」 、とあります。素人の感想では、I Io の愛についての生々しい告知とつながっているように感じます。しかしながら I Io を素直に読むと、(道徳的な意味ではなく)互いに愛し合うことがどれほど困難なことであるかも感じます。それは、わたしの中にある罪と直結していると思われるからです。カトリック教会では聖化ということがあると思います。ミサだけでなく、Liturgia Horarum も、その総則 14 に、「人間の聖化」に結びついているとあります。最近は、カトリック教会では、聖化ということばはあまり聞かないように、わたしは感じます(わたしの所属教会の神父様からはよく聴きますが)。また「福音の告知」ではなく、福音とは何か、福音の「理解」そして「福音化」という言葉は、わたしは聞きます。1 Io は、以前にも読んでいるはずですが、他人事でした。1 Io のカトリック教会の教導と、正教会の教えは、近いのではないかと感じます(FEBC の番組で聴いた正教会の松島司祭のことばから)。素人の単純な感想故、間違っているならば、お許しください。
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「教会の祈り」の「悪霊」という訳について (新米信徒)
2024-02-14 12:48:45
谷口神父様 

先週、「教会の祈り」 の、寝る前の祈り 水曜日、の、 神のことば (エフェソ 4・26-27)、の、「腹をたてて罪を犯してはならない。怒っているうちに日が沈むことのないように。悪霊にすきを与えないようにせよ。」 の「悪霊」という訳に驚かされました。「教会の祈り」 は、「聖務日課(時課の典礼)」のラテン語規範版にもとづいて翻訳が行われたそうですので、不可解な気がします。

Liturgia Horarum Iuxta Ritum Romanum Ad Completorium (終課に) Feria Quarta (第四番目の週日 水曜日)

Lectio Brevis (短い読書)Eph 4, 26-27

"Nolíte peccáre; sol non óccidat super iracúndiam vestram,
et nolíte locum dare Diábolo."

"Diabolo" と訳されています。辞書に、悪魔と関連して、悪霊の例として、ヨハネ 10:20-21 がありました。Nova Vulgata では "Daemonium" と訳されています。NABRE (2011) では "a demon", KJV では "a devil" と訳されています。

Eph 4,26-27 において、新共同訳聖書 (1987)、フランシスコ会による訳 (2011) そして日本正敎會翻譯 (1901) では「悪魔」と訳されています。NABRE (2011) と KJV では "the devil" と訳されています。NABRE (2011) の Eph 4:27 の注釈 v は、"v. [4:27] 2 Cor 2:11." 2 Cor 1, 2 を読み、教えられ、反省させられています。

「悪魔の実在」を(神学において?、司牧において?)都合が悪いことであるとする人がいるようにも思えます・・・。神父様からは "mammōna" の恐ろしさを教えていただきました。「★ 私の「インドの旅」総集編(6)ー c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体
2021-11-05 00:00:01 | ★ インドの旅から」の記事を読んだことがその初めだったと思います。

Benedict XVI の霊的遺言の記事にこのコメントを書かせていただいたことは、「主の祈り」の最後の祈りの解釈において、ヤコブ書 1:13 とヨブ記から、「誘惑に陥らないよう、私たちを導いてください」、を Benedict XVI から教えていただいたからです。上は、「JESUS VON NAZARETH ナザレのイエス 教皇ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー (Benedictus PP. XVI) 里野泰昭訳 春秋社 (2008)」の第 5 章からの引用です。「主の祈り」のフランス語訳とイタリア語訳は上のように変わりました。
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荒れ野での誘惑 (新米信徒)
2024-02-16 00:12:44
谷口神父様 

上のコメントで悪霊、悪魔のことについて書かせていただきましたが、そのことを反省して、「正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方 主教カリストス・ウェア [著]  松島雄一(大阪ハリストス正教会長司祭)[訳] The Orthodox Way Bishop Kallistos Ware 新教出版社 (2021)」の、第三章 創造主としての神、の、"悪、苦悩、そして人間の堕落" の前半を読み直しました。具体的な人の苦しみから始まっていますが、創世記 3・1、黙示録 12・7 の引用とヨブ記への言及等はありますが、あるところで踏みとどまっているように感じます。とくに心に響いたことばは、
「私たちにとって、地上での経験の現段階ではサタンは敵である。しかしサタンは神との直接のつながりを持っている。」 cf. p. 86.

また、「正教会の暦で読む 毎日の福音 府主教イラリオン・アルフェエフ [著]  修道司祭ニコライ小野成信 [訳]  教友社 (2021)」、の、荒れ野での誘惑(第 18 週間の水曜日、ルカ 4 章 1 - 15 節)、を読みました。 ここでのことばも大変慎重であると感じました。
「・・・。ここでの情報源は、自身の弟子たちにこの経験について話して聞かせたイイスス自身しかありえません。・・・。
 イイススが受けた誘惑の三つのエピソードは、教会の師父たちに解説されてこそいますが、聖師父の時代には本格的な神学解釈をされませんでした。その解釈は基本的に、ハリストスを手本として、悪魔の誘惑を退けるようにという道徳的な呼びかけに帰着しているのです。」 cf. p. 362. 上のコメントに引用いたしました「時課の典礼」の エフェソ 4・26-27 を唱えるたびに、そのように感じてきましたし、反省もさせられます。

上に引用いたしました Benedict XVI の「ナザレのイエス」の第 5 章の "主の祈り" に、カルタゴの聖チプリアーヌス(聖キプリアノス) (200 頃-258)のことばが何度も引用されています。
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Unknown (新米信徒)
2024-07-10 10:27:49
谷口神父さま 

「★ 異邦人への宣教 =コップの外へ飛び出そう!《プロテスタント化するカトリック教会(その-5)》2013-01-23 22:04:55 | ★ 神学的省察」に、下記の「典礼の精神」からいくつかの部分を引用いたしました。「★ ローマ教皇突然の退位の裏を読む 2013-02-12 20:57:35 | ★ 教皇ベネディクト16世」も大変参考になります。若いときの著書に対して攻撃(批判)を受けたということは一応聞いています。また、前任者が帰天される前の 10 年間、側近の間にかなり酷い権力争いがあった、ということを読みました。まさにそのようなときに「典礼の精神」が執筆されたことは自覚できていませんでした。そのことを踏まえてこの書を読まなければいけない、と感じるようになりました。そのような意味における長い引用をもう一度お許しください。

「ヨセフ・ラッツィンガー (Benedict XVI)  濱田 了(神父さま)訳 典礼の精神 サン パウロ (2004)」(ドイツ語による原書は 2000 年に出版されたそうです)の、第四部 典礼の組成、第一章 典礼様式、に、
「・・・。第二バチカン公会議の後で、教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議による委託事項を扱う際には、本来何でもできるのではないかという見方が生じました。ついには、典礼の所与性の観念、人が好むままにならないという観念が、西方教会の共通意識から広範囲に失われたのです。事実、第一バチカン公会議は、決して教皇を絶対君主のように定義したのではなく、それとは全く反対に、発せられたみこばに対する従順の保証人として位置づけたのです。教皇の権力は、信仰の伝承と結びついており、それがまさに典礼の分野に当てはまるのです。それらは当局によって『つくられる』のではありません。教皇でさえも、その正しい発展と統合性や同一性を永続させるための謙虚な下僕であるにすぎないのです。ここにもまた、聖画像や聖音楽の問題で突き当たったように、東方に対比して、西方が歩んだ特殊な道にぶつかります。そしてここでもまた、この西方の発展に独自性と自由と歴史の余地を与える道は決して頭から排撃すべきでないとはいえ、かえって、もし東方の根本的直観を、それは古代教会の根本的直観なのですが、それを捨て去るのであれば、キリスト教的同一性の土台からの実際的な離脱に導くものとなってしまうでしょう。教皇の権力は無制限ではありません。聖なる伝承に仕えるものです。恣意性に転じるような製作上の一般的『自由』は、信仰と典礼の本質には、なおさらなじまないものです。典礼の偉大さは、これについては後で何度も繰り返さなければなりませんが、まさに勝手気ままにならないことに基づくのです。・・・」cf. pp.178-179. 上の東方の根本的直観の部分ですが、英語訳 "The Spirit of the Liturgy translated by John Saward (2000)" では、
"However, it would lead to the breaking up of the foundations of Christian identity if the fundamental intuitions of the East, which are the fundamental intuitions of the early Church, were abandoned." cf. p. 166、とあります。また、
「・・・。聖書は、生身の教会に生きるときにのみ聖書なのです。今日少なからぬ者たちが行っているように、典礼を『聖書のみ』から、新たに構築しようと試み、そのような再構築に当たっては聖書を、現在支配的な釈義上の見解と同一視して、信仰と見解とを混同してしまうことほどばかげたことはありません。このように『つくられた』典礼などは、人間のことばと人間の意見に基づいています。そのような典礼は砂の上に建てられた家のようなもので、どれほど人間的な技で飾り立てようとも、虚しいものにすぎません。ただ、経緯に対する尊重と、典礼が根本的に勝手気ままにしてはならないことへの敬意だけが、期待するものを与えうるのです。偉大なるものが私たちに歩み寄ってくださる祝祭は、私たちが自分で造り上げるものではなく、まさに賜物として受け取るものです。・・・」
cf. pp. 180-181. 最後の部分の英語訳は、
"Only respect for the liturgy's fundamental unspontaneity and
pre-existing identity can give us what we hope for: the feast
in which the great reality comes to us that we ourselves do not
manufacture but receive as a gift." cf. p. 168.
"pre-existing identity" 先立ちてある同一性?, "the great reality comes" という英語訳が印象的です。プロテスタント教会とのあるかかわりからわたしの自由意志より正教会の教えにわずかでもふれ、そのかかわりは善き事になりました。神父さまがよく知っておられる共同体と初期教会との信仰のつながりについては詳しくはわかりませんが、このブログの一連の記事が大変参考になります。遠藤周作氏はきかっけにすぎませんでした。
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